逃げ水「クラウチ、好きだよ」
ミーンミンミンと蝉が五月蝿く鳴いている。遮るものすらない太陽がギラギラと照りつける炎天下、顔から背中までびっしょりと汗に濡れながら王子は言った。
「……何だって?」
同じく死にそうな顔をした蔵内は、すでに濡れ切ったハンカチで額を拭うことを諦めている。玉のような汗が、端整な面を滑り落ちていった。
八月十五日。
遥か昔に戦争が終わったというのに、水面下での戦争は静かに始まっている。王子達はまるでゲームのように、或いはただ学校の部活のように、このボーダーという組織でひとごろしの腕を磨いている。空が引き裂かれたその日少年少女のこころもまた引き裂かれたのに、いつしか日常が取り戻されていて、ボーダーは当たり前のようにそこに存在している。
この日、本部からのバスが運悪く運休となったせいで、酷暑の中ひとけのない警戒区域を二人で歩いていた。陽炎のような揺らめきはアスファルトの上に絶えず立ち昇り、遠くにうその水溜まりを浮かび上がらせている。
二人とも夏の制服の開襟シャツで、住宅街、真上の太陽は二人に少しの庇も作らない。はじめは二人ともランク戦のあれやこれやを喋る元気があったのに、いつしか口数が減り、汗が噴き出す頃には無言になっていた。脚の長い二人分の足音がただ、連なる。
その、足音が止まった。靴底すら溶けそうな道の真ん中で、先を歩いていた王子が止まるのにつられ、蔵内も立ち止まる。
振り返る王子の顔に、夏の強い陽射しが落ちていた。額から汗の雫がしたたって、王子の長い睫毛にキラキラと光る小さな水玉を残す。
ああ、きれいだな、と蔵内は思った。
この全てが汚くマーブル状になるような気温で、濡れるほど汗をかいていて、疲れて死にそうな顔をしているのに、王子はきれいだった。
己が王子をそのようなものに押し込めている、と、蔵内は無意識ながら分かっている。それでも蔵内にとって、中身をどんなに知ってもやはり綺麗で、孤高で、だからこそ隣に並び立ちたいと思えるのが王子だった。
力の抜けたような笑みで王子が笑う。
「好きだよ、クラウチ」
先ほどとほとんど変わらない台詞は、今度は正しく蔵内に届いた。
「それは…どうも有り難う」
「恋愛としてだよ」
「続けるのか?ここで?」
「周りには誰もいない。告白には絶好の機会だ」
「こんな気温じゃなければな」
ポケットに入れていた湿ったハンカチを蔵内は引っ張り出して、王子の頭の上に載せてやった。漂う仄かな汗の臭いは、ただしく蔵内も年頃の男だと思わせた。
鳥すら飛ばない、青い空だ。雲ひとつない。
僅かに王子が蔵内を見上げ、その碧いひとみを細めた。
「きみはどう?」
「それは、恋愛としてか?人としてか?」
「両方」
思案する蔵内が視線を持ち上げると、夏の光が彼のうつくしい輪郭を浮かび上がらせた。左右に分けた髪は少し濡れて、乱れて一房頬に掛かっているのが、どうにも色っぽく見える。蝉が相変わらず関係なく喧しく鳴き続ける中、王子はここがまるで暑すぎるアスファルトの上でも何でもないような調子で、ゆっくりと蔵内の返答を待った。
「そうだな、」
思案に沈む蔵内もまた、つい数秒前にここで?と問うたのをよそに、往来の──ただしひとけは無いが──ど真ん中で口元に手を当てている。ふと、ほど近くの蝉の声が途切れ、一瞬の静寂めいたものが訪れた。
視線が交錯する。
「恋愛かどうかは分からない。人としてはもちろん好きだ」
「恋愛との境目は、なんだと思う?」
「独占欲、いや…付き合いたいかどうかか?時間的拘束の権利?」
「そこでそんな単語が出るのがきみらしい」
王子は上機嫌に笑って、もう一度前を向いて歩き出した。蝉がまた鳴き始める。
「ぼくにとって恋愛としての好き、は」
王子の涼やかな声が、そんな蝉の声を凛と抜けて蔵内の鼓膜を震わせた。健常な人間の耳は優秀で、聴きたいことを選り分けて脳髄に届けてくれる。
「シンプルだ。ドキドキすること。触れたくなること。考えたことはあまりないけど、その先に性的な接触、つまりセックスに至るのかもしれない」
「おまえの口からセックス、って出るとドキッとするな…」
「それはどっちの意味で?ヒヤヒヤする?意識してくれるのかい?」
「いや、どちらでもない。憧れていた年上の人からセックスって単語を聞いたような気分だ」
「あはは、クラウチはぼくのことをそう見てるんだね」
同い年だけど。王子は首だけ振り返り、蔵内を見た。
「隊長だからな」
「残念」
さっきよりは幾分元気を取り戻した歩調の足音が連なっている。警戒区域の外が見えてきて、その先には人の営みが望む。
速度を緩めないまま、蔵内が言った。
「……、時間的拘束なら、今もしている。王子とずっと一緒にいたい、という感じはないが、思いついた作戦を俺より先に誰かに話していたとしたら、引っかかりそうだ」
「なるほど。それから?」
「付き合うのは相変わらずよく分からない。例えばおまえと付き合ったとして、こうして本部で顔を合わせて、たまに電話して、出かけて、なら今と何ら変わりがないな」
「そうだね」
「ドキドキするか、という観点だが……そういう性的なものをおまえに感じたことはない」
「うん」
「…ただ、きれいだな、と、思う」
「綺麗?」
「崇拝のような、そうじゃないような。俺の手が届かないような、俺の手で汚してはならないような」
言いながら蔵内は長い指を伸ばし中空に掌を広げる。先を歩く王子の頭が、すっぽりと手の中に収まった、と思ったら、ハンカチを乗せた王子が見計らったようなタイミングで振り返った。咄嗟に反応が遅れ、蔵内がつんのめる。
唇は羽根のように柔らかな感触だった。
汗で濡れた王子の睫毛が緩やかに持ち上がる光景が、蔵内の網膜に焼き付いた。
王子は笑みを浮かべ、離れていった。
「…ぼくは、こういうことも、きみとしたいよ」
自嘲じみたやさしい笑みを見た瞬間、蔵内のどこかの理性が焼き切れる音がした。
気付いたら、蔵内は王子を引き寄せて深くキスをしていた。