ひとりで差したるから傘なれば 雨が降っている。
執務室の窓硝子をしとしとと静かに叩いているのは、雪になり損ねた冬の冷たい雨だった。昼過ぎから降り出した雨は今のところ止む気配もなく、遍く魔界を濡らしている。
それにしても遅いな、とディアボロは卓上の時計に視線を向けた。この雨の中、買い出しのためにマーケットへ行くと傘を差して魔王城を出ていったバルバトスが、まだ戻っていなかった。
時計は十六時半をまわったところだ。戻ると言った時間を多少過ぎることは過去にもあったが、何の連絡もなく三十分も遅れたことなどディアボロの記憶にはついぞない。
あのバルバトスに限って滅多なことはないだろう、とは思う。ないだろうと思うが、それでもこの世に「絶対」が存在しないことも、ディアボロは同時に知っていた。
何事もなければそれでいい。連絡をするだけしてみようとディアボロがD.D.D.を手に取った、その直後だった。
コンコンコン。
執務室の扉が三度ノックされ、ディアボロは弾かれたように顔を上げる。
「坊ちゃま、バルバトスです。ただいま戻りました」
扉の向こうから聞こえてきたのは、メッセージを入れるためにチャットを開こうとしていた相手──バルバトスの声だった。無事に戻ったことにほっと安堵の息を吐き出して、ディアボロは手の中のD.D.D.をスリープにする。
「お帰り、バルバトス。開いているよ」
「連絡もせず戻りが遅くなり、申し訳ございません」
入室するなり深々と頭を下げて謝るバルバトスに、ディアボロはひらひらと手のひらを振った。
「何かトラブルで身動きの取れない状態だった、とかでなければいいんだ。大丈夫だったかい?」
「はい。帰りしなに寄り道をすることになったので時間がかかってしまいまして。それで──あの、少々濡れてしまいましたので、着替えてきてもよろしいでしょうか」
チャコールグレイのRADの制服姿なので見逃してしまいそうだが、言われて見ればバルバトスの左肩から手首にかけて服がぐっしょりと濡れていた。
外は冬の冷たい雨のはずだ。このままでは体が冷えて風邪を引いてしまうに違いない。
「それはいけない。すぐに着替えてくるといい」
「恐れ入ります」
一礼して執務室を辞したバルバトスを見送って、さてもう少しだけ書類を片付けるかとペンを持ち直したディアボロは、ペンを持った自分の右手を見て不意に思い至った。
なるほど、そういうことか。それなら帰りが遅くなったことも、それに対する連絡がなかったことも、傘を差して行ったのに左腕だけ濡らして帰ってきたことにも説明がつく。その理由をディアボロに説明しなかった辺り、恐らくバルバトスにも自覚があるのだろうと、ディアボロは雨に烟る窓の外──今頃嘆きの館の暖炉前で温まっているだろう彼女へと思いを馳せるのだった。
(ひとりで差したるから傘なれば 片袖濡れよう筈がない)
「お困りですか」
マーケットでの買い物を終えたバルバトスは、入口のアーケードの下で空を見上げている彼女を見つけて声をかけた。バルバトスと同様、片手に荷物の入ったブラウンバッグを持った彼女は、しかしバルバトスとは異なりもう片手に傘を持ってはいない。
「あ、バルバトス。こんなところで会うなんて奇遇だね」
「はい。あなたは雨宿りですか?」
「うん。すぐに帰るつもりだったから傘を持たずに出てきたんだけど、ついつい長居しちゃって、そしたら雨が降ってきちゃって」
兄弟に連絡してみたんだけど、こういうときに限ってみんな出払ってるみたいで、迎えに来られる人もいなくて。
そう言って眉尻を下げた彼女の目の前で、バルバトスは左手に持ったブラウンバッグを抱え直し、右手に持っていた傘を片手でポンと開いた。
「よろしければ、嘆きの館までお送りしましょうか」
「それは嬉しい! けど、でも、さすがに遠回りじゃない?」
「ですが、このままここで止まない雨が上がるのを待つわけにもいかないでしょう? それにほら、こんなに大きな傘ですから、あなたひとりくらいなら一緒に歩いても濡れません」
にこりと微笑ってみせたバルバトスと開かれた傘とを交互に見て、それから彼女は申し訳なさそうに口を開く。
「……じゃあ、お言葉に甘えてお世話になってもいい?」
「もちろんです。……おや、そんなに離れていては濡れてしまいますよ。もっとこちらへ」
万が一にも彼女が濡れないように傘の内側へと誘導して、ふたりは一緒にアーケードの下から出た。
遍く魔界を濡らす雨が大きな傘地をぽつぽつと叩く。その冷たさに決して彼女が濡れないようにと、バルバトスは静かに右手を傾けた。