花包み バルバトスのD.D.D.に「これから新年の挨拶に魔王城に行くね」とチャットが届いたのは二十分ほど前のことだった。「坊ちゃまはご公務で不在にしておりますが、それでもよろしければ」と返事をしたバルバトスは、大急ぎで中庭の見える応接室のセッティングを始める。それからキッチンで茶菓子の在庫確認とそれに合う茶葉の選定を始めたところで、二番が来客を知らせに来たので作業を一時中断した。
エントランスホールのソファーに腰掛けて待っていたのは、バルバトスに連絡をくれた彼女だった。魔界では非常に珍しい「着物」を身に纏い、手には何やら布で包んだ荷物を抱えている。
「お待たせいたしました」
声をかけられてバルバトスに気づいた彼女は、レインボーローズの蕾が開くような明るい笑顔でバルバトスの名を呼ぶと、その場で立ち上がって深々と頭を下げる。
「新年明けましておめでとうございます」
彼女が纏っている、パールホワイトからホライズンブルーへのグラデーションが美しい地に艶やかなピオニーが描かれた着物は、一年前にバルバトスが彼女へと譲ったものであった。
普段無造作に下ろされている髪は結い上げられ、ターコイズグリーンに染めたダリアとホワイトピンポンマムの髪飾りでまとめられている。晒されたうなじは一見すると寒そうでもあったが、防寒も兼ねて襟元に着けられたシュガーホワイトのフェイクファーもあいまって、それは非常に華やかな装いだった。
魔界には人間界のように新年を都度都度祝う文化はないが、たとえ見慣れないものであったとしても正装の華やかさは目に楽しいものである。それが自分の贈った服であるならば尚のことだと自覚しながら、バルバトスも彼女に倣って頭を下げた。
「明けましておめでとうございます。坊ちゃま共々、本年もよろしくお願い申し上げます──と返事をするのが人間界の風習でしたか?」
「うん、完璧だね!」
「お褒めに与り光栄です。それにその着物……今年も着てくださったんですね。本当に艶やかでとてもよくお似合いですよ。まるであなたのためだけに仕立てられたのではないかと思うほどです」
バルバトスの言葉にはにかんだ彼女の頬がぽっと色づく。それはいつか人間界で見た夜明けのような、淡く美しい桃色に霞む空の色と同じであるようにバルバトスには思われた。
「ありがとう。バルバトスが喜んでくれたらいいなと思って、今年も着ちゃった」
彼女の笑顔といじらしい一言にバルバトスの胸がどきりと鳴った。
『あなたのために華やかに着飾りました』だなんて、新年早々とんでもない破壊力である。少しでも気を抜いたが最後、みっともなく頬が緩んでしまいそう。思わず手で顔を覆い隠しそうになったが、そんな無様は見せられないと既のところで踏みとどまる。努めて平静を装うため、バルバトスは心持ち大きく息を吸った。
「嬉しいことを言ってくれますね。譲った甲斐があったというものです」
「えへへ」
照れる彼女の愛らしいことといったらない。バルバトスは今この瞬間を時間の流れからそっくり切り取って、大切に額に入れて自室に飾っておきたかったし、自分にその能力があったなら実際にそうしていただろうとも思った。
「あとこれ、ルシファーから預かってきたよ」
「おや、ありがとうございます」
彼女から差し出された荷物──三十センチほどはあるだろうか──を両手で受け取る。
布越しの感触はつるりとなめらかで固かった。受け取った拍子にちゃぷんと立った密かな水音。大きさからしても中身は液体の入った硝子瓶、恐らくはデモナスだろう。
包んでいる布は両面使いできるリバーシブル仕様らしい。全体は赤地であるが、瓶のくびれの辺りに余った布をくるくるとまとめ、裏の白地を見せるようにして花の形が作られていた。バルバトスも見たことのない包み方で、非常に興味深い。
「ルシファーのデモナスコレクションの一本みたい。『魔王城に行くなら俺の代わりに持って行ってくれ』って」
「代わり、ということは」
「『今年は人間界風の年越しをするぞ!』って昨日マモンが突然言い出してね。みんなで片っ端からデモナスを開けて浴びるように飲んでたんだけど、それにルシファーも巻き込まれて飲まされて、今朝は兄弟みーんなベッドの中だよ。ルシファーも私にデモナスを預けてすぐ部屋に戻っちゃったし、やっぱり二日酔いなのかな。起きていられないみたい」
別に人間界の年越しってそういうんじゃないんだけど、と苦笑している彼女も満更ではなかったのだろう。昨夜の様子を思い出しながら話す表情は家族を想うときのそれだった。
「だから、挨拶に来られなくても許してあげてね」
「あなたとこうしてまた一年、一緒に過ごせたことが嬉しかったのでしょうね。気持ちはわかります」
「……その場にいたら、バルバトスも飲んでた?」
期待の眼差しがバルバトスを見上げた。
求められたい──「誰かに必要とされたい」と思う気持ちは手に取るようにわかる。魔界に家族を得た彼女が、バルバトスにはちょっと違った関係を望んでいるのも知っている。そしてそれはまるでジグソーパズルのピースのように、バルバトスが彼女に対して求めるものとピタリと嵌まる形をしていた。
「どうでしょうか。坊ちゃまならデモナスを片手に喜んで飛び入り参加したでしょうが、私でしたらその場は皆様に気持ちよく飲んでいただいて、その後であなたとふたりの時間を満喫しようとしたかもしれません」
「──!」
オブラートにこそ包んだものの、言っていることは「邪魔者はさっさと潰して、あなたをこの腕の中に独占したい」であると正確に汲み取った彼女は、嬉しさと恥ずかしさで声も出なくなったらしい。握りこぶしがぽかりとバルバトスの胸を叩いたが、まったく力の入っていない攻撃などただただ可愛らしいだけである。
さきほど食らった不意打ちの仕返しとばかりに、バルバトスは今度こそ声を上げて笑った。やはり、やられっぱなしは性に合わない。
「ところで。皆様が二日酔いなのでしたら、今日は急いで嘆きの館に戻らずともよいのでしょう?」
ノーダメージと知りつつもぽかぽかと叩き続ける握りこぶしを手のひらであっさりと受け止めて、バルバトスが彼女に確認する。突然尋ねられた彼女はきょとんとした表情でバルバトスを見上げた。
「う、うん。たぶん……?」
「でしたら、少々私にお付き合いいただけませんか?」
逃げられないように、捕まえた握りこぶしを白手袋がそのままきゅっと握り込む。
「私のためにこうしてわざわざ着飾って会いに来てくれるようないじらしいあなたを、そう易々と嘆きの館に帰したくなどありません」
バルバトスにすっぽりと覆われてしまうほど華奢な手に、愛おしさはますます募るばかり。どうか頷いてほしいと想いを込めて、バルバトスは捕まえた手首に口づけをひとつ贈ったのだった。