余裕のふり|彼女の前でだけ余裕が消える男の話 恋人ができた。初めての、恋人が。
——なのに、触れることすら満足に出来ない。
「今日の練習はこの辺りで終わらせよう。今日はこのあと委員会に行くんだろう?」
「あ、はい!」
二人きりでの寸鉄の練習。短い時間でも一緒に居られるのは楽しくもあり、何より自分の技術をキラキラした目で見て貰えるのは兵助も嬉しい。しかも、今回は実技よりも座学の方で優秀な
名前たってのお願いだ。頼られて嬉しくない彼氏なんて、この世に居ない。
ふと、隣に居た
名前の首筋を流れる汗に目が奪われる。転がってゆくその雫に、思わずよからぬ妄想をしそうになり、慌ててその妄想を押し込めた。まだ付き合ってひと月も経っていないのに、早々に手を出し見損なわれるようなことはしたくない。
こちらの葛藤に気づいているのかいないのか、手拭いで汗を拭いたあと、
名前がそわそわと兵助を見つめてくる。何か、少し期待しているような眼差しに唾を飲み込む。大きな音を立てていないか内心焦ったが、それほど音は響かなかった。
「
名前」
「は、はい!」
「動かないで」
「久々知先輩、あの……」
「髪に葉くずがついてる」
大きく見開いた瞳が一瞬泳いだあと、彼女の視線が下がる。期待されていた、と思う。多分。おそらく。だって、自分を見上げる
名前の眼差しは、兵助だけをまっすぐに見ていたから。
それに気づかないように、兵助は優しく頭を撫で、ゴミを取るふりをする。柔らかい髪が、指先を泳ぐように流れてゆくのが心地よい。
「よし、取れた」
「あ、あの……ありがとう、ございました」
「……なあ、
名前」
「はいっ!!」
名前の頭に手を乗せたまま、ツヤのある髪の毛を堪能しつつ目を逸らす。再び戻って来たよろしくない妄想を、そろそろ抑えるのが難しいからだ。正直、もう少し触れていたいし、美味しい思いもしたい。でも、それでは
名前が怖がらせるだけでなく、がっついているようで兵助の中の自尊心が許さない。
名前のキラキラとした期待いっぱいの眼差しを一身に浴びながら、兵助は理性を奮い立たせて良い先輩の顔を作る。一応、学年でも成績の良い真面目な生徒であるので。
「委員会の時間、大丈夫か?」
「わっ! ほ、本当だ! もう行かないと!」
絞り出すような声にならないよう精一杯虚勢を張った兵助の言葉に、
名前がその場から小さく跳ねた。驚いた顔でわたわたと長屋を振り返るのが、可愛くてまた撫でたくなるのをぐっと堪える。小動物のような俊敏なその動きに、頬が緩むのを隠しきれない。
慌てて手荷物をまとめ、
名前は兵助に向かって綺麗に深く頭を下げた。
「それじゃあ、久々知先輩。今日はありがとうございました! 失礼します!」
「ああ。それじゃあ、また次のときに」
一瞬の間、兵助を見つめてから、
名前は忍たま長屋の裏を離れて行こうとする。すると自室に戻る途中だったのだろう、向かい側から三郎がこちらに歩いて来ているところが目に入った。
「おー、
名前。なんだ、今から委員会か?」
「鉢屋先輩、こんにちは。はい。今日はこの前虫干しした図書の記録取りに」
「そうか、そうか。ところで、忘れ物にご用心ってわたしの勘が言っているんだが」
背筋をまっすぐに伸ばしながら挨拶をする
名前に、三郎がつい、と指を差す。つられて自分も指が差した先を見れば、少し離れた場所に
名前の手拭いが落ちていた。
「……あ、手拭い! ありがとうございます、鉢屋先輩。助かりました」
「いえいえ」
三郎と話していた
名前が手ぬぐいを回収し、少し兵助に微笑みかけてから慌てて走って行った。
名前と使った寸鉄の手入れをしようと思っていた兵助は、彼女を見送ったあと的に使っていた丸太を片づけることにした。残された三郎はと言えば困ったような顔で溜息を一つ吐き、頭を掻きつつこちらへ歩いてくる。
「……おまえさあ」
「何だ」
「表情筋、痙攣起こしてるぞ」
「いつも通りだろ」
「いやいやいや、何意地張ってんの」
めちゃくちゃ頬震えてんだよ、お前。
呆れている訳ではないが、若干疲れたような声色で三郎が言う。三郎の言葉を無視して、丸太を片づけ終わった兵助は寸鉄の確認作業に入る。
「三郎には関係ない」
「はー、そうですか。良いよなあ、彼女持ちは余裕で」
「……別に、そういう訳じゃ」
「だよなあ! だってお前、我慢してる顔しかしてないものなあ!」
嬉々として三郎が声を上げる。「それくらい雷蔵でも解る。バレない方がおかしい」と追撃もいただく。誰も頼んでない。
ぽんぽんと絶え間なく寄越される三郎の言葉に観念し、兵助はその場で顔を隠すように口元を手で隠しながら話す。普段表情の変化が薄いと言われる自分にしては、珍しく高い熱を持っている自覚はある。あるから、見せたくなかったのだ。
こいつはこういう話をすると、すぐに人を揶揄う。
「……
名前に」
「ほうほう?」
「勝てる気がしない」
「はあー……そうきたか」
「おれだって、彼女の前で普通にしていられる余裕が欲しい」
「ん。素直でよろしい。でもなあ、わたしが言えることは……」
兵助が素直に白状すれば、人の背を叩き三郎が笑う。割と力の入ったその手に、自然と眉間に皺が寄ってしまう。ムッとした表情を隠さない兵助のことなど、三郎は気にせず話し続ける。思わず「叩くな」と三郎を見遣れば、意外にもその顔は揶揄っているものではなかった。どちらかといえば、兄が下の子を見るような眼差し。まあまあ腹が立つ顔。いや、それは雷蔵に失礼か。じゃあ、腹が立つ佇まいだ。
「そうは言ってもなあ。おまえが素直な方があの子は喜ぶと思うがな」
「彼女のいないお前に言われてもな」
「お前なあ……そもそも、本当に余裕がないからと言って、さっきの見落としは流石のわたしもしない」
「は?」
「その方が
名前も嬉しいだろうし、わたしもあんな手助けをしないで済むしな。なあ、
名前?」
手助け?
名前?
その言葉と視線につられて、顔を上げる。すると、三郎の視線の先にいるではないか。可愛い可愛い恋人が。長屋の角から頭を出し、こちらを覗いて固まっているではないか。
名前本人が。
脳内に一気に情報が駆け抜け、時間を巻き戻したくなる。流石に汗が背中を流れてゆくのが止まらない。
「それじゃ、邪魔者は退散するから」
「あ、ちょっ」
ほどほどにな。
三郎が兵助の頭を突き、次いで
名前の頭も突いて部屋へと戻って行った。
残された兵助の時間が一瞬止まったあと、口から盛大に溜息が漏れる。そのまま脱力した体を丸めて、その場に蹲る。
「く、久々知先輩! 大丈夫ですか!?」
「ああ、平気だ」
格好付けるからこうなるのだ。いや、付けたくなるだろう、普通。好きな子の前なのだから。
恥ずかしさで急に蹲った兵助に驚いたのか、
名前は慌てて走ってきてくれた。にんたま相手のくのたま、弱みを見つけたら突いて笑って追撃くらいしても良いものを、
名前はそういうことをしない。なんなら、兵助の顔を覗き込んで、心配そうに見てくれている。そんな顔で見てくれるなら、格好つかなくても良かったかもしれないとすら思えてしまう。
「……あの」
「どうした?」
「
一人称、本当に今度こそ行っちゃいますよ?」
駆け寄ってきた
名前が、兵助の顔を覗き込んだまま言う。
ずるい、と、思うよりも前に、もう止められなかった。
名前の手を引き寄せて、少し勢いをつけて唇を奪う。
「わっ……ん、ふ」
触れた唇も舌先も、掴んだ細い腕も全部柔らかくて、歯止めが効かない。じわりと、馴染んでゆく体温が心地よい。
驚いている
名前に、もう少しだけ、と欲しがってみる。怖がられるかと思ったが、それを許してくれるように、空いた手で兵助の忍び装束を掴んで体重をこちらにかけてくれた。
「……忍務が終わったら、出かけよう。二人で」
「……はい」
「それから、今日は一緒に夕食を食べよう。実習は明日の夕方からだから、今日はおれもまだこっちにいるし」
「はい!」
柔らかい唇にもう一度触れるため、顔を近づけながら兵助が
名前の耳元で囁く。抱き寄せた華奢な体はまだ離したくないし、ここまで来たらもう少し許されていたい。
「ねえ、先輩」
「ん?」
林檎のように頬を赤くさせ、どこか瞳の奥を艶かしく輝かせながら
名前が兵助に頬を擦り寄せる。そうして少しだけ兵助に体温を預けたあと、悪戯が成功したときの子どもの顔で今度は
名前が囁いた。
「
一人称、次は手拭い、先輩の部屋に置いておきますね」
「……わかった」
嬉しそうに兵助の背中に腕を回す
名前に、許される以前に完全に手綱を持たれてしまったかもしれない。けれど、悪い気がしないのだから恋とは本当に恐ろしい。