毎月三日は大包三日の日【8/3】
広大な水がある。
海か、湖か、あるいはどこまでも続く川か。
わずかに波が寄せているが、それだけでは判断することができない。
どこまでも続く水辺を、大包平はゆったりとした歩調で歩いていた。
低い草地が水辺の際まで続き、ところどころに素朴な野の花が咲いている。
白、桃、黄、青。点々と続く小さな色は、大包平に夜の星を思わせた。
日が落ちれば、月明かりのもと、きっともっと夜空のようになるだろう。
いや、月明かりくらいでは色はもうわからないか、と考えてから、空に月も日もないことに気が付いた。
辺りを見回して問題ないくらい十分に明るいのに、なぜか光源がわからない。
厚い雲が垂れ込めているのだろうかと空を見上げれば、青くもなく黒くもない、青みをおびたくすんだ灰色だけが見える。
その全体がぼんやりと発光し、どこに太陽があるのか判然としなかった。
「……どこだろうな、ここは」
そうつぶやくや、不意に不安が込み上げてきた。
ここがどこかのか、どこに向かって自分は歩いているのか。まるで記憶になかった。
振り返り、野原の彼方を眺め、水辺の向こうに目を凝らしても、さしたるものは見当たらない。
目指す先を見失い、大包平は途方に暮れて立ち止まった。
こんな心細い思いをしたのは初めてだった。
足元に寄せては返す控えめな波を眺め思案していると、何かの気配に気が付いた。
顔を上げれば、大包平の正面、水辺に沿って何者かがこちらに向かって歩いてくる。
「……三日月宗近」
つぶやいた名は、己と同じ場所に保管されている刀の銘だった。
だが刀の姿ではない。自分と同じ、刀剣男士の姿。
ゆったりとした青藍の狩衣をまとい、見事な装飾を施された太刀を下げている。
身に付けた防具が動くたびに小さな音を立て、混じり合った音は意味のない音楽を奏でる。
「迷ったか」
互いに大きな声で呼びかけることもなく、十分に声が届く距離になって、はじめて三日月宗近が口を開いた。
「……そうだな、迷ったのかもしれん」
なにせ、来た元も行く先もわかっていないのだから。これはまさしく迷子なのだろう。
「向かうべき先があることはわかっているんだがな」
「具体的な道筋はわからないということか。まぁ、よくあることだ」
よくあることなのだろうか。
大包平は首をかしげながら、この刀自身はどこから来たのだろうかと気にかける。
「お前はどちらから来た。俺もまずはそこに行こうと思う」
「俺はあちらから来た。だがお前は……ふむ、俺の来た方に行くよりも、この道を行ってはどうだ」
「道?」
そんなものはないだろうと言いかけたが、三日月の指差した方を見れば、確かに野原に一筋、ごく細い獣道のような線が見えた。
「こんな……よく見つけたな」
「こういうものを見つけるのが得意なんだ」
「そうか」
確かに得意そうだなと大包平は思った。
三日月はぼんやりとしているようで聡い。
他のものが見ていないものを見、聞こうとしない声に耳を傾ける。
「お前は面白い刀だ」
「大包平も十分に面白いと思うがな」
三日月の示したか細い道筋を辿ろうと、大包平は足を踏み出した。
当然のように三日月もついてくると思ったが、三日月はただ大包平を見守るばかりで動こうとしない。
「他に行くところがあるのか?」
「ああ、野暮用を残している」
では仕方あるまい。同じ場所で出会っても、進む先がちがうのはよくあることだ。
「感謝する、三日月宗近」
簡潔に礼を述べると、三日月はふわりと柔和に微笑んだ。
その表情を見て、大包平は安堵すると共に切なくなる。
手を伸ばす。しばし待つと、三日月は苦笑を浮かべて近付いてきた。
同じく伸ばされた手を大包平は掴み、自分の方へと引き寄せた。
「だから、俺には用件が……」
「これだけだ」
腕の中に収めると、妙にしっくりときた。
ああ、そうだった。自分はこの刀と幾度かこうした触れ合いをしたのだった。
呼吸にあわせてゆっくりと動く三日月の身体を全身で感じ、大包平はじんわりと満たされていく。
「……ありがとう。また会おう」
そう言って、大包平は三日月を解放した。
今度こそ背を向けると、振り返ることなく歩いていく。
三日月は大包平の背を見送っているようだった。
目線を感じながら、大包平は広い野を進んでいく。
やがて、鬱蒼と茂った森が目に入った。
*
気が付くと、大包平は布団の上に転がっていた。
全身が気だるく、意識がぼんやりとして定まらない。
しばらくすると、「手入れが完了しました」と、聞き慣れた管狐の声が聞こえてくる。
障子がすぱんと勢いよく開き、「よかった、無事で!」と涙声の審神者が入ってきた。
「……お前?」
「まさかこんな大怪我になるなんて……やっぱり中傷になったら即帰還にしないと……。悪いことをしました、大包平」
半泣きになって訴える審神者と、その背後から心配そうに覗き込んでくる加州清光、秋田藤四郎、前田藤四郎、浦島虎徹、治金丸の姿を見て、ああ、そうだった、自分はこの部隊に編成されたのだったと思い出す。
この本丸に励起されて、しばらくは政府の設定した戦場で鍛錬を積んだ。
これで十分だろうと、本来の戦場に出陣した。
その先で中傷を負って、さらには敵の追撃に遭って重傷となったのだった。
「……敵は?」
「大包平が最後に出した真剣必殺のおかげで、なんとか殲滅できました。ありがとう。でも、もうこんな無茶はさせませんから!」
審神者がわんわん泣いている。本当に心配したのだろう。
あとから聞けば、御守りのおかげで助かったらしい。
この本丸で御守りが発動したのは初めてで、審神者は大包平の帰陣まで、可哀想なくらい顔面蒼白だったそうだ。
「そういえば、鬼丸国綱に教えてあげてくれますか。大包平は無事だったと」
「僕が行ってきますね!」
審神者の頼みに、秋田藤四郎が元気よく駆け出して行った。
「鬼丸…?」
「はい、鬼丸さんが、三途の川なら知ってるから、大包平が渡ってきそうだったらぶん殴って送り返すと……」
「俺は怪我人なんだがな……」
鬼丸らしい言い分ではあった。しかし三途の川を知っており、かつ向かうことができるとは。やはり天下五剣は並ではないようだ。
悔しさ混じりにそう思ってから、そうだと大包平は膝を打った。
「そうだ、三日月は。三日月宗近はどこだ。あれの案内のおかげで俺は戻れた」
「……え?」
大包平の言葉に、審神者が不意に動きを止めた。
「三日月宗近?」
「ああ。確かに俺は……そうか、あれが三途の川か。そのほとりを彷徨っていた。進む先がわからなかった時に、三日月宗近が戻る道を示してくれた」
あれがいなかったら、自分は無事に戻れたかわからない。
鬼丸がひそんでいただろう、三途の川にまでひたればぶん殴って戻してもらえたかもしれないが、川に入るつもりは大包平にはなかった。
であれば、ずっと彷徨う羽目になっていたかもしれない。
そう説明すると、審神者は心配そうに言った。
「この本丸には、三日月宗近はいませんよ…?」
ここは最近になって新設された本丸で、新年の祝いに鬼丸国綱を受け取ったが、他の天下五剣は未だ来ていない。
此度の連隊戦で大包平を手に入れることは叶ったが、そもそも高位の刀はこの二振りくらいしかいないと。
そのように説明したはずだが、まだ記憶が混乱しているのかと、審神者は躊躇いがちに言った。
「そう……だったか…? ああ、いや、そうだった……」
唯一いる天下五剣が、よりにもよって気難しい鬼丸かと、なげいた記憶が蘇ってくる。
そうだった。この本丸に、三日月宗近はいない。
ではあの三日月宗近はなんだったのか。
他の本丸の三日月宗近か。
あるいは本霊が案じてやってきてくれたのか。
いや、そこまで殊勝な刀でもあるまい。
腕組みをしていた大包平だが、不意に思いついて審神者に言った。
「鍛刀場に行くぞ。すぐにだ。鍛刀をしろ」
「え? は?」
目を白黒させる審神者をさしおいて、大包平は鍛刀場に急ぐ。
やや短絡的な気もするが、あの三日月はきっと、こちらに来たがっているはずだ。
そうでなければ、自分が伸ばした手を取るはずがない。
少なくとも、道筋はわかっているのだから、自分が呼べば来るはずだ。
その確信を持って、大包平は鋼を選ぶ。
「おい、聞こえてるんだろう? 来い!」
端的な言葉を大声で叫ぶと同時に、鍛刀が開始した。
*
「強引な男は嫌われるぞ?」
「お前は好きなくせに」
窓から涼しい風が吹き込んでくる。
本丸の二階に位置する大包平の部屋からは、本丸の庭がよく見える。
池も川も、整えられた庭園も、遠くの畑も。一望できるこの窓辺の板間が、大包平の気に入りだった。
いまはそこに、軽装を見にまとった三日月宗近が座している。
「俺に手を引かれて、いつも喜んでいるだろう」
「そうだな……お前に無体されるのは悪くない」
手にしたあじさい柄のうちわをゆるゆると動かしながら、三日月はとろりとした目で大包平を見る。
「まったく……俺との関係を忘れて励起したくせに、出会えばこうだから大包平はタチが悪い」
「それを言われると立つ瀬がないが……そんな俺に惚れているのはお前だ」
「大包平、刀剣男士になってからいささか性格が悪くなっていないか?」
思い上がった男にはお仕置きだと、三日月はうちわで畳に寝転がる大包平の顔面をぱさぱさと叩いてくる。
「ちゃんと思い出したんだからいいだろう」
笑いを含んだ声で言うと、大包平は三日月の腕を掴んだ。
さして力を入れないうちに、三日月が大包平の上にしなだれかかってきた。
「……今日も暑いな」
そう囁く三日月の肌は確かにほのかに汗ばんでいる。
いつもは体臭の薄い刀のただよわせる匂いに、大包平はじわりと胎の底を熱くする。
無意識のうちに背中から腰へと手を滑らせると、三日月は誘うように身をよじらせた。
「……まだ昼なんだがな」
「此度の催し物、俺たちはお呼びでないそうだ」
「新しくやってきたものも多いから、仕方あるまい」
だからこうして、暇にまかせてごろついていられる。
そう言って笑う大包平の着物の合わせから、三日月の指がするりと入り込んできた。
汗をかいているくせに、その指先はどこかひんやりとしている。
「大包平のほうが熱い」
「涼しくしてくれ」
「どうせ一時のことだがな」
言いながら、三日月は大包平の着物の帯に手を掛ける。
遠く入道雲だけが、二振りの身体を眺めていた。