赤いバラ新帝国暦002年12月、ラインハルトは24歳であった。
戴冠の日からほぼ2年になろうとしていた。その間、新帝国皇帝陛下としてのラインハルトは、日課としての時間をのぞいていた、 残されたすべてのエネルギーは、彼自身が考えているように、征戦と経略に集中していた。
彼にできること、あるいはまだまだやるべきことは、まだまだ足りなかった。
それはすべて、今日という静かで平和な朝とは、一時的には何の関係もなかった。
冬はいつも長く寒いと感じられるが、冬の室内の朝はそうではない。 十分な暖房と自動的に調節された快適な湿度は、単衣をまとっていても寒さを感じさせない。
室内と外の大きな温度差によって、空気中の水分が二重ガラスの表面に厚く水蒸気を作っている、 部屋の外の寒々とした景色をぼやけさせる。
キルヒアイスが目を覚ましたとき、枕元にはまだ眠りが残っていた。豪奢な波のような金色の巻き毛が、ラインハルトの肩に沿ってほどけ、布団の下敷きになっていた、 暖房で少し赤くなっている白い肌…… 目が離せないほど美しい。
赤毛の大公キルヒアイスは腕を伸ばして、ラインハルトの美しさに見とれていた。
壁の時計が示している時間が、こんなふうに朝の静けさをあてもなく楽しむことを許さなくなるまで、彼は長いことそれを眺めていた。
ラインハルトの寝顔は、言葉で表現できるほどの美しさではなかった。神がこの世に存在するとすれば、神は自分の美しさのすべてを、傍にいる金髪の青年に映し出しているのではないだろうか。
こうして彼の顔を見ているだけで、いつも彼と一緒にいられると思うだけで幸せだった。
そう思いながら、キルヒアイスはラインハルトの耳もとの細い金髪を手でかきあげ、頬に軽いキスを残した。
「お早うございます、ラインハルトさま」
ラインハルトは反射的に寝返りを打ち、まだ起きあがっていない相手の胸に腕をまわした。それから無意識に手をあげて、おなじみのカールした短い髪を指でひねった。
「何時だ... キルヒアイス... 」
「7時15分です、ラインハルトさま」
キルヒアイスは好意を示しあうことに慣れているかのように、無造作に自分の頭をなでまわした、 赤毛の青年も、相手の豪奢な質感の髪を撫でた。
「起きますか」
「うむ... 」
金髪の青年はまだ完全に目を開けてはいなかったが、本能的に布団をめくり、身じろぎしてからゆっくりと身体を起こした。
彼の動きにつれて、金色の巻毛が波うって、ラインハルトの裸の上半身に沿って垂れさがった。
中くらいの長さのカールした髪は、白い肌の一部を隠しているが、それでも繊細な肌質の底にある深みと淺みのあるものをほのかに見せている。
あの痕は…… 彼が作ったものでしょう?
そう思いながら、キルヒアイスは急激に立ちのぼる湯気の感触に顔を灼かれずにいられなかった。
ラインハルトは三分ほどすわっていたが、ようやくキルヒアイスが身支度をととのえてベッドから出てきたとき、自分の前に立ちはだかる前髪をかきあげ、蒼氷色の瞳を見あげて声をかけた。
「シャツをよこせ」
微かに掠れたような気怠さがにじんでいるのは、昨夜の…… 甘えすぎたせいだろうか?
キルヒアイスは、傍のテーブルの上に置いてあったシャツをラインハルトに差しだした。それから、アイロンのかかった黒地に銀のラインの入った軍服をとりだした。
「キルヒアイス」
「はい、ラインハルトさま」
「今日は自分で宇宙艦隊の巡察に行ってくれ、キルヒアイス」
ラインハルトは眉をひそめ、意味ありげに自分の腰を手でこすった。
「分かりました、ラインハルトさま、ご安心ください」
やはり昨夜のせいだろうか?
実は... ..
昨夜の情事の原因といえば、やはりラインハルトのことが大部分であった。
キルヒアイスは節度ある人であると自認しており、完全に満足することはできなくても、求めることはできなかったが、昨夜はラインハルトのほうから要求してきたので、その後は理性を放棄していた。
結局のところ、事件の発端は一週間前の朝、軍務尚書オーベルシュタインはわざわざラインハルトの前にとどまって「陛下に妃を迎えることをお考えいただきたい」と進言した。
皇帝陛下がキルヒアイス大公と親しい間柄であることが微妙に映し出されているのに、妃が迎えることはなかったというのは、いかにも不気味な推測である。
ラインハルトは多くを語らなかったが、しばらくは気に入る女性もいないし、そのつもりもないと言って、淡々とそれをかわした。
だが、その日から一週間にわたって、ラインハルトは、なぜか知らず知らずのうちに、高貴な生まれの、聡明で美しい、あるいは洗練された優秀な女性たちをたくさん見かけるようになった。
ことにヒルダ・フォン・マリーンドルフ伯爵令嬢の面会率がもっとも高く、後になって聡明な伯爵令嬢は、どこかおかしいと感じたことであろう、 困ったような表情の皇帝陛下が、彼女と散歩しているところを、軍務尚書オーベルシュタインに出会った。
軍務尚書の表情を通して、伯爵令嬢は何かを察知したようだった。
「陛下のために、盾になるわけにはいきませんな」
私的な席で、マリーンドルフ伯爵令嬢はラインハルト陛下にそう語った。
自分がだまされたような気分になったラインハルトは、オーベルシュタインに面と向かって余計なことをしたと叱責しようとし、キルヒアイスに引きとめられた……
「ラインハルトさま、彼らは悪気がないのですから、責めないでくださいませ」
キルヒアイスがなぐさめたのも、やむをえないことであった。
ラインハルトとの疎外された君臣関係が、彼自身には不可能であることはわかっていたが、ふたりの親密な関係が打ち明けられれば、同性からの慕情など、この時代においては差別される問題ではなかった、 ただ、この国を支える重鎮としてふさわしい身分の二人が、特別な関係であることを公然と告白するのは適切なのだろうか?
それとも、オーベルシュタインが計画したように、いっそのこと、皇帝陛下にふさわしい身分の女性をつくって、奇妙な気まずさをしのいでやろうか?
だが、そう考えると、自分のために、知らない女の一生の幸福を犠牲にすることを、彼もラインハルトも認めようとはしなかった。
気まずい雰囲気の中、2人は410年の高級ワインを4本も一緒に飲んでしまった。
そして……それから一晩中、二人は思わず激しくからみ合った。
「えっ」
すでに宇宙艦隊本部で作業にはいろうとしていたキルヒアイスは、昨夜の無謀さにため息をついた。
一方、もうひとつの場所、フェザーンの大本営から数ブロック離れたところにある、ごく平凡な二階建ての平屋の入り口。
この日、冬の朝の寒さはいささか度を越していた。街路に積もった雪はきれいに取り除かれていたが、自分の家の庭や小屋の隅には、まだ泥の混じった灰色の雪がたくさん積もっていた。
この平凡な家に住んでいるのは、すでに隠居している平凡な夫婦で、子供の縁故で新帝国の大本営であるフェザーンの近くに、わざわざ新帝国の大本営から接収されて住居を与えられている。
屋敷の主人であるキルヒアイスは、さして広くもない温室で、彼の好きなバルドル星係特有の蘭を栽培しながら、独創的な短調を口ずさんでいた。
そう、ここはジークフリード・キルヒアイス大公の生みの親が住んでいた家だ。
昔の例なら、二人は下僕の多い城に引っ越していたはずだ、 だが、キルヒアイスはそれを拒否し、両親のために、大本営に近く、目立たない民家を居住地として選んだのである。
もちろん、彼の両親もこの取り決めに満足していた。
中年の赤毛の男がほとんどすべての蘭の鉢に土をつけ、仕事を終えようとしたとき、連れの男の妻があわただしくほうきを持って駆けつけてきて、蘭の小屋を蹴とばした。
「あなた、早く出てきて!」
「なんだって」
男は妻にむりやり温室から引きずりだされた。そして、妻がふるえる箒で、庭園の鉄扉の外にずらりと並んだ帝国憲兵隊の列を指さすのが見えた、 そして、皇帝陛下のような人しか乗る資格のない黄金の獅子のマークをつけた自家用車が、彼の家の庭先にとまっていた。
「これは... どうしたんですか」
ふたりは呆然と立ちつくしていたが、先頭のケスラー憲兵隊長がドアをノックすると、キルヒアイスの父は我に返って小走りに駆けだし、ドアをあけた。
そして彼らは、人類史上最年少で最も偉大な征服王を見た。金髪に輝く絶世の美貎の男は、家の戸口にひっそりと立ち、その胸には大きな花束を抱えていた、 その伝説的な経歴を持つ陛下ご自身の上半身よりも多くの真紅の花組の花束が隠されていました。
「これはーー」
その花束はラインハルトの手に握られていた。彼自身の白い秀麗な顔は、寒い冬の温室の薔薇よりも百倍も美しかった。
「あ... あの... 伯父さん... 」
なんと陛下は、一年以上も前まで自分が隣に住んでいた子供のころの呼び名を使っているのだ。そのことが、あまり大きな場を経験していない男を青ざめさせた、 膝から力が抜けそうになったが、隣の妻が箒を持って支えてくれた。
「陛下にお伺いしたいのですが、どのようなご指示でしょうか」
「あ、あの... このバラの赤が... キルヒアイスによく似合うと思うんが」
「ああ、そうですね... 」
キルヒアイスの父はぎこちなく答えた。
「うちの息子は、髪の色が赤いんです」
「来る前に、すでに結婚している部下に相談した、その用意ができるまで、大きな花束を用意しておくようにとのことだった」
「ああ」
キルヒアイスの父は自分の知能の低下を感じた。
ラインハルトは蒼氷色の瞳に靄をはらんだような、それでいて言いにくそうな表情を隠すようにキルヒアイスを見つめ、手にした花束を押しつけた。
「この花束はおれの気持ちを代弁するものであり、キルヒアイスをおれの伴侶とすることに同意してもらいたい... 」
ようやくラインハルトは歯ぎしりしながら、生涯最大の決意をこめてそう言った。完全な言葉が終わると、彼の白い顔はすでにくっきりと赤みを帯び、薄紅の薔薇のような鮮やかな色に染まっていた。空気の冷たさでさえ、彼の顔は半分も色あせてはいなかった。
「はあ?!」
ようやくキルヒアイスが声をあげたが、それは完全に怒鳴り声だった。通りの半分ほどの人々に聞こえた。
「何をおっしゃいます」
キルヒアイス邸の玄関に立つ帝国の君主を正面から見る者はいなかった。
陛下の傍に立つ憲兵隊長ケスラーは、何も知らないといった顔で風景を見まわしている、 今日は少し寒くなったけど、空は青いなと一心に思っていました。
その後、その花束はお屋敷に運びこまれ、その夜、宇宙艦隊巡察から帰還したキルヒアイス大公は、一本の電話によって急遽屋敷に呼びだされたという、 そして自分の両親に左右から挾まれるようにして部屋に押し込まれ、そして……
その後に何が起こったのか、まったくわからない。
新帝国暦003年、銀河帝国新年の祝盃に、 皇帝ラインハルトは、宴会場に集まった高官たちに、自分の伴侶《がつねに彼の傍にいたキルヒアイス大公であることを告げた。
そのとき、誰もが、皇帝陛下が冗談をおっしゃっているのかと、呆然とした。
だが、そんな衆人環視のなかで、赤毛の大公は手から何かをとりだし、ラインハルトが盃をあげているあいだに、彼の左手を引きよせて、片膝をついて、手にしたシンプルな指輪を、帝国皇帝の白く細い薬指にはめた。
そして…… 彼の手の甲に、優しいキスを残した。
「この指輪はうちに代々受け継がれてきた大切なものなんですよ。嫁さんにあげるつもりだったんですけど」
「ふたりの関係がどうであれ、適当なときにこの指輪を... 陛下に贈るのだ。聞いたか」
一瞬、瀋黙したキルヒアイスの耳に、あの夜の両親の声がよみがえったようで、彼は笑いながら立ちあがり、すでに場を支配しようとしていたラインハルトにむかって、平然として言った、 そして敬虔な動作で彼を抱きしめた。
「万歳」
「万歳!!」
どちらが先に頭を上げたのかわからなかったが、それから次々と歓喜の叫びが空を突き破るように大広間に響き渡った。
「ラインハルトさま、約束します」
赤毛の大公が、ふたりにしか聞こえない声で言った。
「うむ」
そして彼に答えたのは彼の腕の中に抱かれた人が同じように応和に抱きしめてくれたことでした。
ぎゅっと抱きしめることで、今の気持ちが伝わってくるようだった。
この世でたった一人の…… たった一人の、全ての信仰と命をかけて愛そうとしている男を抱きしめる。
彼の陛下…… 彼のラインハルト……