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    道標 角を曲がったところで少年とぶつかった。かけっこでもしていたのだろうか、十三歳くらいの男の子だ。軽い接触だったが、ちらっとこちを振り仰いだ少年は「マズッた」とでも言うような表情を見せ、先を行く友人を追いかけていった。
     声変わりもしていないと思うほど幼く見えた。身長はいまのところわたしのほうが高いし、少年の髪はブルネットだ。思い起こすきっかけなんてないはずなのに、あいつのことが胸に浮かんだ。別れの言葉もなく二度と会えなくなったひと、守ってやろうと思っていた相手、わたしを置いていったあいつ。
     道を駆ける少年の姿が遠ざかっていく。小さくなる背中を見ているうちに、彼を思い出した理由に見当がついた。
     あのとき、あいつはだれかを追いかけて走っていたんだ。

     酒が飲みたい。前後不覚になって意識が朦朧とするくらい。あるいはドラッグかセックスか、なんにせよ、シラフでいられないような何かで気を紛らわせたい。そう思って、目についたバーに入った。早い時間だからかそう客はいない。この発作が終わるまで、どれくらいの時間がかかるのだろうか。なんでもいいから強いのを、とカウンターで注文する。様子のおかしな客に慣れた店員は静かに酒を用意した。
     勤め先が解体されたと聞いたのは二日前だった。その知らせと同時に金が振り込まれていた。口止め料込みの退職金だろう、悪くない金額だった。そもそも、口止め料などなくともわたしたちは職務内容を口外しない。口に出したところでオカルト趣味の相手しか耳を貸さないだろう内容だ、まともなやつなら話しはしない。
     戦闘で傷を負わなかったかつての仲間たちは、いっそすがすがしいほどきっぱりと、解体された組織との関係を断った。もちろん、横の繋がりも。怪我をした者たちは傷が治るまではどこかの機関で引き続き治療を受けるらしい。どこまでも面倒見がいい。人殺しの組織にしてはまともだと言えるんじゃないだろうか。
     どうしてこの組織で働くのかと隊のやつらに訊かれることは稀だった。相手に訊くなら自分がそうする理由を言う必要があるし、どうしたってそれは個人的なものになるからだ。
     わたしは、大切なひとの笑顔を守りたいと思っていた。「大切なひと」とは、育ててくれたひとや仲良くしてくれたひと、わたしの知り合いや会ったことはなくともこれから会うだろうひとだったり、定義はいろいろだった。多かれ少なかれ、一緒に働いていた者たちには大義があっただろう、そうでなければ耐えられない。あいつらと過ごすうちに、「大切なひと」はいっそう具体的になっていた。あんなに身近にいたのに、わたしの大切なひとはもう笑わない。
     一度顔が浮かぶと、それまで抑えていた記憶がどうしようもなくあふれてくる。
     憎たらしいほどに器用になんでもこなし、おまけに顔もいい。活動をともにするようになった当初は、隊のやつらの反感を買うに決まっていると思った。けれど、人当たりのいいあいつは意外と周囲に溶け込むのが早くてむしろこっちが苛ついた。わたしのときはこうじゃなかったのに、と。
     でも、だれとでも話を合わせて表向きは仲良く振る舞うくせに、その内側には壁があった。自分のなかにたったひとりだけを住まわせて、そこに足を踏み入れるのを他のだれにも許さず、特別な気持ちをずっとひとりで育んでいた。あれは、あいつの特性と言ってもいい。わたしだけではなく、ほかのやつらも気づいていただろう。
     何杯目かのグラスを煽る。
     一度、冗談めかして訊いてみたことがある。あれは、逆行に不慣れだと勘違いした隊員があいつをおちょくろうとしてちょっとしたいたずらを仕掛けたときのこと。結局、いたずらは失敗に終わったのだけど、あいつがあんまり冷静に対処したものだから、あんたの守護天使が教えてくれたのか、と訊いたのだ。彼は幸せそうに顔全体で笑い、そうだったらいいな、と大切そうにコインを撫でた。
     その笑顔は、これ以上深入りしてはいけないとわたしに確信させるのにじゅうぶんだった。あいつの内側、魂に近いところにいる彼の中の、わたしが軽々しく触れてはいけない存在。それがあのコインに宿っているとすぐにわかった。
     あいつはその守護天使にもう会えない。わたしはそれにひどく憤っている。もう一度、ひと目だけでも会わせてやるべきだった。相手が生きていようが死んでいようが知るものか、あいつを幸せにしてやれるのはそのひとだけなんだから。
     うつむいてグラスを見つめていると、背後からこちらに視線を投げる存在を感じた。ひとりで飲んでいる間に時間が経ち、バーには客が増えていた。わたしに相手をしてもらい、暇をつぶそうという客のひとりだろうか、そういう気分じゃないというのは背中を見ればわかるだろうに、話しかけるのをためらうようにじっと静かに佇んでいる。その気配によって、全身が棘になったようだった。本当にそうなればいい。そうしたら、わたしに触れるやつをひとり残らず傷だらけにしてやれる。
     声をかけられる前に、苛ついた様子を隠しもせずに強く手を振った。ノーだ。さっさと帰れ。
     それなのに、振り向かざるを得なかった。
     男はごく軽い声音で「久しぶり」と言った。

     あいつが連れてきた男だった。あるいは、引き合わされた男だとも言える。初めて会ったときとは雰囲気が変わった、そんな気がした。でも、わたしだって前と同じではないだろう。あのときは命をかけて闘う対象があった。だが、今はどうだ、まるで抜け殻だ。大切なものを守ったあとがこんなにつまらないと思わなかった。想像力に欠けている、こいつが話しかけてきた理由も見当がつかない。だから睨みつけて低く言った。
    「何しに来た」
     男はわたしが声を上げる前に隣に席を取っていた。気さくな様子で何かを注文をしてちらりとこちらに向き直る。
    「挨拶をしに」
     それきり口をつぐみ、グラスが運ばれてくるのを待つようだった。挨拶がしたいならもう終わっただろう、とか、話さないならそばに来るなよ、といった言葉が胸のうちに巡った。
     こちらから話しかけたら負けになる、わかっていたから黙って自分のグラスに注がれた透明な液体を見つめた。あいつのことを考えていたら、最後に彼が連れてきた相手が目の前に現れた。いやにタイミングがいい、最悪だ。
     盗み見るように隣に座った男へ視線を向ける。前はもっと落ち着きのない様子だった。常に動いていないと気がすまないようで、考える前に行動するタイプ。無茶ばかりする、とあいつもぼやいていたっけ。
     ──なあ、ホイーラー。彼のこと、支えてやってくれよな。
     目を細めて、それまで隠していた宝の地図を広げるみたいにしてこっそりと、あいつはわたしにささやいた。
     あれは、時間を遡る船に乗っていたとき、あいつを最後に見た日の朝、すべてが終わると知る数時間前のこと。あいつの言葉を聞いて、すごく嫌な感じがしたのを唐突に思い出した。自分が支えればいいだろう、と反射的に思ったのに口に出せなかった。彼の言葉と表情に齟齬があったからだ。だってあんなこと、銃口を向けられて、何か言い残したことはないか、と詰問されたときに口にするような言葉じゃないか。
     あいつはそれまで見せなかった自分の中のやわらかいところをわたしに向かって開いたようだった。だけど、そんなことはあってはいけなかった。あいつの内側はたったひとりのためだけに開かれているのだから。理由もなくわたしに開いて見せるのはおかしい、だからわたしは頭から追いやった。覚えていたら、それがあいつの言い残したことになってしまう。いやな想像が現実になってはたまらない。
     結局、わたしの悪あがきなんて世界にとっては取るに足らないものだった。どういう心がけをしていようと、得体のしれない大きな流れに押し流されたらちっぽけな存在は抵抗できずに飲み込まれる。濁流に押しやられたその先には何があると言うのだろう。すべてのものは無に帰す、個人ではなく全体を見よ、御託はわかってるから教えてほしい、わたしの大切なひとはどこに向かって走っていったのか。何を思ってひとりで──
     背後で客が笑い合う声が聞こえてはっとした。どうしてもあいつのことを考えてしまう。気をそらしたくて口火を切った。
    「本当は、何しに来たんだ」
     男に向き直り、下からすくうようにして睨みつけた。別に嫌っていたわけではないが、いまは無性に虫が好かない。静かにこの場を掌握している、というような男の佇まいがむしろこちらを落ち着かない気持ちにさせた。
     返答によっては乱闘騒ぎを起こすかもしれない、と拳を握る。暴れまわるのもこの発作を収めるために有用かもしれない。こちらは伊達に苛ついていないのだ。
     男は運ばれてきた酒をひと口すするとこちらに身体を向け、にこりと微笑んで言った。
    「きみはいまフリーなのか?」
     よろしい、まずは手元の酒をひっかけてやろう、ショットグラスだから中身は少ないが仕方がない。それから目の前のビール瓶で頭をかち割る。大量出血だ、せいせいする。
     自分の行動が現実とオーバーラップするように目に浮かんだ。身体は簡単にその軌道をたどることができると知っているのに、なぜだか少しも動かない。動けないほど飲んだのか? まさか。じゃあなぜなのだろう。
     隣に座る男を見る。軽く手を組んで、心持ち上体を落とすようにしてわたしを見つめている。たしか、元CIAとか言っていたか。それにしてはまっすぐすぎる視線だった。初めて会ったときから変わらない実直そうな目。これはなんだ、交渉なのか? なんのためにそうする必要がある。
     からかっているような声音ではなかった。意図は読めないが、聞きたいことがあるのだろう。こちらから放たれるまぎれもない敵意に触発されるでもなく、落ち着いていて平静だった。わたしの感情をかわすのではなく受け止めた上で跳ね返さずに自分自身に染み込ませるようにする、この感覚には覚えがある、どこで感じたのだろうか。記憶を追おうとすると注意が散漫になった。握りこぶしから力が抜けていく。
    「なんのこと」
     ため息交じりに応えてしまった。グラスを干して次のを頼む。男もグラスに口をつけてわたしに付き合った。
    「契約が切れたと聞いた。きみはいま、どの組織とも繋がっていない、違うか?」
    「どっから聞いたんだ、そんなこと。だったらどうだっていうの」
     男は誇らしげに口を開いた。
    「きみが必要だ。おれのところで働かないか」
    「うさんくさい。ああいうのはもういいんだよ、しばらく働かなくてもいいだけの金は入った。興味はない」
     きっぱりと断る。食い下がってくるのなら今度こそビール瓶の割れる音が聞こえるだろう。七割ほどは、もうそうする気はなかったが、あとの三割では頭の中で予行練習をしていた。男は黙ってこちらを見つめ続ける。
    「きみにしかできない仕事があると言っても?」
    「くどい。わたしはいまかなり苛ついてる。あんたを殴りたくって仕方ないんだ」
    「殴りたいなら殴ればいい。避けたりしない」
     馬鹿にしているのだろうか、と思う。わたしがそうしないと踏んでの態度だろう。
     ──支えてやってくれよな。
     あいつの声が頭に流れてくる。なんであのとき、あいつはあんなに満足そうだったんだ。
    「ムカつく。あいつもあんたも、どういうつもり。何が目的。あんたたちの思惑通りに動いてたまるか」
     吐き捨てるように言ってつかもうとしたグラスの横に、男が何かを置いた。コトンと軽い音がする。手の影の下には、あいつが肌身離さず持っていた守護天使のコインが一枚置いてあった。異国の地で使われているただの硬貨、それなのに、あいつのものだとすぐにわかった。
    「……なんであんたが持ってるの。あのあと、どうなったか知ってるっての」
     身体ごと男に向き直って声を上げると、彼は、我が意を得たりとばかりに引き締まった表情で再度誘いをかけた。
    「おれのところで働かないか」
    「断ったら質問に答えずに帰るつもり?」
     男は眉を上げてはぐらかすように言う。
    「きみが協力してくれるなら、おれも知っていることを話そう、そのために今日はここに来た」
    「挨拶しに来たんじゃないの」
    「もちろん、挨拶がメインで、スカウトはついでだ」
     わたしが話に興味を持ち、態度を軟化させたからか、男は少し肩の力を抜いてグラスを傾けた。その仕草でこいつも緊張していたのだと気付く。ひょっとしたら、殴ってもいいと言ったのは本心だったのかもしれない。なぜかはわからないが、この男はわたしに殴られる覚悟でここに来たらしい。
     その意味するところはなんだろうか。
    「なんでわたしに。ほかにも声をかけて断られたとか?」
    「いや、最初に声をかける相手はきみだと決めていた」
     大層なリップサービスだ。失笑といっていい笑みだったが、この店に入って初めてわたしは笑った。相手が真面目くさって言うのでなければ嘘だと決めてかかっただろう。わたしが嘲笑あざわらっても彼は表情を変えない。最初からそうだ、こいつは落ち着いていて平静で、こちらにどんな圧力もかけないでいる。
     この感覚には覚えがあったし、もしかしたらはじめから気づいていたのかもしれない。それを認めるのが嫌で、気づかない振りをしていただけなのかもしれなかった。それに思い当たると別の意味で口が歪み、諦めに似たため息が出る。
     わたしがどんなに攻撃的な態度でいても、ここにいないあいつは跳ね返すのではなく、わたしの気持ちを受け止めて対応した。
     初めて会ったとき、わたしは彼に対して少々刺々しい態度を取っていた。
     わたしは時間を気にするたちだ。あいつは、だらしがないわけでもないが、のんきと言っていいほど時間を気にとめず、ミーティングなんかがあるときはいつも最後に現れて開始ギリギリに座を占めた。間に合っているから問題はないのに、わたしはなぜか無性に腹に据えかねて厳しく指導した。時には注意した理由がわたしの思い込みによる理不尽なものだったりもした。それでもあいつは気を悪くする様子は見せず、かといって時間ギリギリに行動するのを改めもしなかった。
     上下関係を気にせずだれもに同じように接し、取り入るような素振りを見せないのに、やけに周りに好かれるのも生意気に見えた。でも、そういうわたしもいつの間にかひょうひょうとしたあの男の手中に落ちていた。
     あいつは次第に世話の焼ける弟分になり、すぐに信頼できる相手になった。理由はわからないが、彼ははじめから無条件にこちらを信じているかのように振る舞っていたと気づいたのは後になってからだった。
     わたしを少しも疑わなかったひと。
     あいつの影が、わたしに睨まれながらちびちびと酒を飲む隣の男になぜか重なる。
     この男はあいつと似ていた。見た目は全然ちがうのに、芯の部分が同じに思えた。
     隠し事があるのだと雄弁に語るまっすぐな態度によって、むしろこちらの警戒を解いて自分の内側を見せてもいいのではないかという気にさせられてしまう。いや、これはこの男に対しての感情なのだろうか、それとも、あいつに対して抱いていたものを重ねているのか……。
     酒の入ったグラスの代わりにコインに触れると温かかった。
     ずっと握っていたのだろうか、そうだとしたら、この男はなぜあいつのコインを握りしめていたのだろうか。
     彼にも自分だけの何かがあるのだと、それはあいつの守護天使と近いものなのだと、目の前のコインが伝えてくる。
    「……で、わたしを誘う理由は聞いたほうがいいのかな」
     悪酔いしたのだろうか、目頭が熱くなっているし、やけに胸に圧迫感がある。髪に手をつっこんでかき乱す代わりに、わたしはなけなしの意地で、急に重くなったように思える頭を手で支えて男に訊いた。彼は静かに笑んでこう答えた。
    「だれよりきみが適任だと知っているから」
     そう、知っていたんだ。あいつはきっと、こうなることを知っていた。だからわたしに、あんなに満足そうに伝えてきたのだ。来たるべき日を迎えるための布石になると信じて。
     やられた。完全にこいつらの術中にハマってしまった。何がムカつくって、それを受け入れようとしている自分がいるっていうのが最悪だ。
     唇を噛んでコインをつまみ、あえてぞんざいに言う。
    「やけに自信があるね。二分の一の確率に賭けてみる?」
    「それできみの気持ちが決まるのなら」
     男は鷹揚に構えてわたしがコインを弾いてみせるのに目をやった。
    「数字が書いてる方が裏、葉模様が表、ゆずってあげる」
    「では、『裏』に」
    「負けてもごねるなよ」
     軽い力で指を弾くと高い音を立ててコインは跳んだ。落ちてきたのを手の背で受け止めてもう片方の手のひらで覆う。男は姿勢を変えずにじっとこちらを眺める。
     自分だけに見えるようにしてそろりと手を開くと葉の模様が見えた。『表』だ。口が勝手に笑みの形を作る。
     わかってる、どっちが出たってわたしの負けだ。だからこれは単なる儀式にすぎない。ふたりに屈服したのを示さなかったと自分を慰めるおためごかしの小さな儀式だ。
     コインをつかみ取って拳の中に握りこんだ。
    「……やっぱり、あんたムカつくよ」
     男は、それはどうかな、というように肩をすくめて見せた。そうした上で、また、安心したように酒を煽る。そうするのが手なんだろうと思うけれど、この男はわたしを本当に欲しているのだと、ひどく信じたくなった。
    「さっさと『知ってること』ってのを話してみたらどう? もういい加減に言いたくなってきたでしょう」
     男はわたしの目を見てためらうことなく言い切った。その言葉は、少しでも相手を信じたいと思ったのを悔やむのにじゅうぶんだった。
    「きみには、これから出会うニールの指導係になってほしい。おれよりよほど彼と親しかったようだし、きみが適任だ。あいつを仕込むのはきっと骨が折れるだろうが、よろしく頼む」
     絶句して眉をひそめるばかりのわたしを見て、情報の少なさに気づいたのか彼は言葉をつなぐ。
    「きみはこれから、おれたちのこともこれからのことも知らないニールと会うんだ。この世界の過去に彼を送り出すために」
     言われたことを整理するより前に感情があらわになった。
    「いやだ、そんなこと、なんでわたしが。ていうか、そもそも何? あんた正気なの?」
     騙された気持ちになった。さっきまで感じていた、この男とあいつへの共感は鳴りを潜めて腹の奥にくすぶる。こんなの、ひどい騙し討ちではないか。いや、待て、これは本当のことなのだろうか、それとも、こいつの思い込みなのでは……。
     わたしの疑いをよそに、男は続ける。
    「信じたくなくてもニールとおれたちはすでにつながっている。おれは組織を作る。組織にはニールも参加する。いま出せる手札はこれだけだ。きみはどうする、おれには勧誘することしかできない。決めるのはきみだ」
     ここに来て苛立ちが最高潮に達した。わたしは握ったままのコインを持ち上げる。
    「よく言える。あんた、あいつがどうなったか知ってるんだろう、だからこれを持ってるんだ、違う? 知ってることを全部言わなきゃ協力なんてしない。そもそも、そんなこと起こるはずがないんだ、あいつとまた会うなんて。だって、それじゃあ、ずっとひとりで抱えてきたってことになる。だれにもなんにも言わずにたったひとりで。そんなの許せない」
    「許さなくていい。おれを殴ってもいい。ただ、きみの協力がほしい」
     ひどい口説き文句だ。わたしはただ、彼がどうなったのかを知りたいだけなのに、見返りを求めずにわけのわからないことに協力しろと言うなんて。
     そもそも、残酷ではないか。別れる未来を知っている相手と素知らぬ振りして仲良く教師と生徒のごっこ遊びをしろと? そんなことできるわけがない。
    「あんたのこと信用してもいいと思ったのに、馬鹿にするのもいい加減にして」
    「おれはきみを信頼している」
    「会ったばかりでしょう、そんなことを言われる理由はない」
    「おれにはある」
     煮えきらない応酬に思わずカウンターに拳を落とす。コインが手のひらの中でうめいている気がした。
    「さっきからずっとそう。思わせぶりに気を持たせたと思ったら適当なことを言って……。わたしは本当のことを知りたいだけ。あいつに何があったのか、あいつはあいつの世界を救えたのかって。だって、あの子は本当に愛していたんだから」
     鼻の奥が痛んだ。自分が蔑ろにされているから腹が立っているのではない、とようやく気づいた。わたしの大切にしたいと思っていたひとたちが報われたのかがどうしても気になっていただけだった。
     結果がわからないところに飛び込んで、大事なひとがいなくなり、何もわからないまま終わった出来事の結論を教えてほしかった。知らないほうがいいと言われてもわたしは知りたかった。知ったあとでもっと苦しくなるのだとわかっていても、苦しさを分けてほしかった。わたしには苦しむ権利があると思う。この、宙ぶらりんの状態よりはしっかりと地に足をつけて歩いていける気がするから。
     目の前の男はわたしの剣幕に押されたのか、何か言おうとした口を閉じて身を引いた。グラスに手を付けずにこちらを見つめている。
     すい、とその視線がわたしの背中の方に流れた。眉をひそめて立ち上がるような素振りを見せる。
     不審を感じて後ろを振り向こうとしたとき背中に声がかかった。今日は後ろから声をかけられてばかりだ。それも、こんな場所で聞くとは思わない見知ったひとの声を。
    「ぼくの名前は呼んでくれないの? ホイーラー」

     振り返る間際に、男が軽く頭を抱えるように手をやったのが見えた。ゆっくりと振り向くとチノパンに白いシャツを着た軽装の男が立っていた。スツールに座ったわたしを見下ろしてゆったりと微笑んでいる。しばらくぶりに会うニールはわたしの記憶とそう変わりなく見えた。額にある大きな傷跡がなければ別れたときと同じ年頃に見える。名前を呼ばれずとも、彼が自分の知るニールだとわかった。
    「ニール……、あんた、今までずっと聞いてたの?」
     驚いたあとにちょっとした怒りが湧いてきた。ふたりそろってわたしを罠にかけようとしたようなものではないか。隣に座る男に目をやる。彼は彼でなぜかため息をついていた。失礼なやつだ。ニールが口を開いたので顔を上げて聞く。
    「きみには姿を見せないようにするつもりだったんだ。けど、こんなに想ってくれてるとは思わなくてさ」
     照れくさそうに笑って頬を掻く姿を見ると自分の怒りなど捨て去ってしまっていいと思えた。椅子から立ち上がりニールを改めて観察する。別れたときと一番変わったと思えるのは額の傷跡だったが、鷹揚な雰囲気もかつてはなかった気がした。なんというか、前より余裕があるように見える。
    「心配した。元気そうで良かった」
     当たり障りのない言葉しか出てこないのは、驚きを引きずっているからだろうか。
    「ごめん、やっぱり最初から姿を見せるべきだったよね」
     ニールが眉を下げて謝る。すると後方から弁解がましい男の声がした。
    「おまえが謝ることじゃない、これはおれの案だ」
     振り向くと、スカウトだか挨拶だかに来た男がむっつりとした様子で酒を飲み干していた。ニールは男が可愛くてならないと言うように微笑みかけてからわたしに言った。
    「ああ言うけど、ぼくたちふたりで考えたことなんだ。どうしてもきみに来てほしかったからいろいろとシミュレーションしてみたんだけど……。うまく誘えなくて悪かった」
     しおらしく謝る姿に、すでにほだされかけている、気をつけろ、と心が主張してきた。そうだ、わたしはまだこのふたりの誘いに乗ったわけではない。警戒を解くのは、わたしが最後にニールを見送ってから彼らに何があったかを細大漏らさずすべて聞かせてもらってからだ。
    「同じものを」
     ニールが店員に、男の頼んだものをふたつ、と注文した。わたしも彼らと同じものを頼むことにする。ニールと男はなぜか互いに目を合わせて眉を上げた。まるで共振しているような表情が、ふたりは親子や兄弟であるかのように思わせた。わたしの知っているふたりがそう見えたことはなかった。やはり、何かあったのだろう。
     自分だけが蚊帳の外である事実にむっとして手を握るとコインの硬い感触がした。存在をようやく思い出し、持ち主に返すべく手を広げる。
    「これ、あんたのでしょう。ちゃんと持っておかないと」
     ニールは、ああ、というように肩をすくめてコインをつまんだ。
    「ありがとうホイーラー。でも、これはもうぼくには必要ないんだ」
     ニールはそう言うと、受け取ったコインを男に渡して握らせた。男はしっかりとうなずいて内ポケットに忍ばせる。どういうことだろう、と考えていると注文した品が運ばれてきた。コークハイか何かだろうか、黒い炭酸飲料だということはわかる。席について口をつけると強烈な甘さに舌が焼かれた。思わず咳き込んでしまう。
    「なんだこれ、ただのコーラ?」
     隣に目をやるとなぜか得意げにグラスを傾けるニールがいた。
    「ぼくらは仕事中は飲まない主義なんだ」
     その後ろには、最前と変わらずまたちびちびとコーラを舐める男がいる。
    「あんたたち、もう腹をくくってなにもかも話しなさいよ。わたしがどうするかはその内容によるから、わかった?」
     ふたりは目を見合わせてからこちらを向くと、同じタイミングでうなずいた。
     さっさと全部吐いてしまえと思うかたわら、彼らが何を言うのか興味を持っている自分がいた。彼の守護天使であるはずのコインをあんなにやすやすと男に渡してしまえるなんて。何をしていまのふたりになったのだろう、わたしの知らないところで何が起きてこれからどうなるのか。
    「どこから話すべきだろうか……」
     口の重い男がようやく話す気になったようだ。ニールは彼の向こう側に席を取ると、励ますように男へ視線を投げた。満ち足りて安心したようなその眼差しは、あのコインを撫でるときに見せたのと同じものだった。
     なんだ、そうか、と合点がいった。ニールは自分の守護天使に追いついたんだ。
     わたしは頬杖をついて甘くて喉がしびれそうなコーラを飲み込んだ。ニールは想う相手に会えたのだ。そいつはわたしの前で訥々とつとつと言葉を続けている。
     全部説明した上で説得できるものならしてみろと好戦的に思うそばから、両手を上げて降伏したポーズを取る自分もいた。きっとわたしは彼らに協力することになるのだろう。それを告げるまでは、不機嫌な様子のわたしに対してせいぜい気を遣っておくんだな、と唇を尖らせた。
    narui148 Link Message Mute
    2022/09/05 19:46:05

    道標

    #TENET

    ホイーラーの独白。
    (10785文字)

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