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    特別手当 果たして今日はどうだろうか。
     拠点としている事務所に帰る道すがら、ハンドルを握って考える。時刻は午後十一時、昨日よりも遅い時間だ。昨夜、不甲斐ない自分をどうにか励まして事務所の扉を開けたときには彼はすでにその場を去ったあとだった。ぼくは半月ほど、そこに足を踏み入れていなかった。彼に合わせる顔がないと思い込んでいたからだ。
     今回の仕事は、ダミー会社を使って穏便に情報を集めるだけで命に関わるものではなく、彼が怪我をするのではないか、などと不安に思う必要もない。頻繁に会わずとも彼の無事は予想できた。
     そもそも、仕事が退けたあとに事務所に顔を出す必要はなかった。業務上必要になった道具を取りに行くときか、直接会って今後の動向を聞くときだけ足を運ぶ。いつだって無意味に長居はしない。今回の情報収集に差し障りがないように、最低限仕事場に見えるようにと用意された場所に過ぎなかった。
     彼と連絡を取り合っていたわけでもないのだから事務所にいなくても当然なのに、昨日は、彼が待っているのだと勝手な想像をしていた。だから、今朝は変な期待は持たないようにと気をつけていた。そのはずだった。
     事務所の駐車場に車を停める。真っ先に目を向けた二階の部屋に明かりがついているのを確認して、どうしようもなく胸を高鳴らせてしまう。
     ぼくが期待していたことはひとつだけ。この前のつづきをしたい、それだけだった。

    「ニール、戻ったか」
     ドアを開けると彼がいた。大きな窓から見える夜空を背にして、広いフロアを区切ったパーテーションから首を出して迎えてくれる。ここに来てからは久しぶりに見る、ネクタイをつけた姿だった。思わず胸元に目が行く。ジャケットはそばにあるキャスターつきの椅子の背にかかっていて、ぼくはそこに向かって足を進めた。
    「今日は遅いんだね」
     暗に、昨日は早く帰ったな、と含みを持たせたようになった。自分は覚悟が決まるまで動けなかったというのに、なんという言いざまか。彼は言葉の裏側の意味に気づきもしないでにこりと笑う。
    「ああ、事務作業をしていた」
    「ひとりで? ぼくも一緒にするのに」
    「すぐに終わると思ったが、なかなか面倒でな」
     ふう、と息をつき、両腕を上げて背を伸ばす。シャツの下の筋肉が動くのがわかった。半月前と変わらず、まるでなにもなかったみたいに彼は気のいい上司として振る舞った。
     彼の身体から目を離さずに口を動かす。
    「休憩する? コーヒーを淹れようか?」
     いや、と返す彼が向かうデスクの上にはすでに半分ほど口をつけたコーヒーがあった。
    「じゃあ、ぼくがもらう」
     返事を待たずにカップを傾けると、少し呆れたように彼がこちらを見た。
    「もう冷たいだろう」
    「うん、ちょうどいい」
     全部飲み干してカップをデスクの上に乗せる。それと同時に片脚分だけデスクの上に腰を下ろした。膝が彼の肩口に当たる。明らかに作業をやめさせようとしているのを見て、彼は両手を上げて降参するポーズを取った。
    「わかった、休憩だな」
     そのまま後ろに下がろうとするので手首を軽く摑んで引き止める。
     彼の表情は素直だ。伏し目がちにして、この状況をぎこちなく思っている。手を離せば、彼はすぐに上司としての顔を見せてなんでもない振りをするだろう。それは全部ぼくのためでもある。その思いやりはありがたいけれど、前のつづきがしたくてならないのだ。
    「ご褒美をくれるって言ったよね」
     昨日、部屋を出たときから言おうと思っていた言葉だった。それなのに、思った以上に小さな声になった。彼はなにも言わずにあいた手をゆっくりと下ろした。摑んだ彼の手のひらを上に向けて人差し指でしわをなぞった。長くてしっかりした生命線に、ぼくは嬉しくて頬を緩ませる。ひと通りのしわをなぞっても強い生命線の持ち主はなにも言わない、嫌がる素振りも見せない、されるがままだ。
    「なにをくれるつもりだった?」
     拒絶されないことに励まされて、彼の乾いた手のひらを自分の頬にあてがい首をかたむける。我ながらあざとい仕草だと思うが手段は選んでいられない。彼に触れているという事実にいくぶん心が満たされた。心臓の鼓動が伝わってしまいそうだが構わない。様子をうかがっていると、彼はようやくこちらを向いて、諦めたようにため息をついた。
    「なんでも、お前が欲しいものをやるつもりだ」
    「ぼくの欲しいものがなにか当てて」
     ひどくうわずった声になった。じっとりとした汗が背中に滲む。頬にあてた手のひらはあたたかかった。支えている彼の手が意思を持ってぼくに触れてくれたらいいのにと願わずにいられない。半月前に与えてくれようとしたものを拒んだのはぼくのほうだったのに、突き放す素振りも見せずに彼は涼やかにぼくの瞳を覗きこんだ。
     彼の指がこめかみを優しくさすってくれる。ほっとして、思わずかたく目を閉じて大きく息をつく。彼の目に写るぼくは、ひどく逼迫して見えただろう。鼓動は早く、顔には熱が集まり赤くなっているはずだ。汗をかいているし緊張で眉を寄せて苦しげにしている。
     自分が相手にどう見えるかを想像して少しおかしくなった。苦笑いをして、いまのぼくにとっては救命艇のような彼の手のひらにキスを落とす。何度か繰り返していると、目の前から手のひらがなくなり、代わりに首元が近づいた。立ち上がった彼にぎゅっと抱きすくめられるのにつられてこちらも両腕を背に回す。デスクに腰掛けたままだったのでいつもより身体が大きく感じられた。首や腕、胸、背中から彼の温もりが伝わって全身に巡る。ねだられるから仕方がなく抱きしめているとは感じない。なだめるようでも、落ち着かせるためだとも思わなかった。背中に回る腕の強さに、これは、このひとが自分の意志で抱きしめているのだと考えて胸がいっぱいになる。身勝手な勘違いではないはずだ。目をつむって大きく息を吸う。頭の横で、彼が少し笑ったようだった。
    「いま、笑ったろ?」
     笑みを含んだ声が聞こえる。
    「笑ってない」
    「いい匂いがするんだ」
    「……そうか」
    「君に抱きしめられると気持ちがいい」
    「……そうか」
    「ずっとこうしていたい」
     彼の身体が離れていく。間違った言葉を選んだか、と、後悔で身動きが取れなくなった。引き止められずにじっとしていると、彼のまっすぐな目がゆらゆらと揺れる視線を捉えた。
    「本当は、なにが欲しい?」
     彼はぼくの手を取っていた。手首に当たる手のひらがあたたかい。軽くさすってさっきぼくがしたように口元まで持ち上げ、指に触れるか触れないかのキスを落とした。
     ぼくは呆けたように口を開けて、窓を背にして夜空に浮かんだように見える男を見上げた。凍りついたように少しも動かないぼくを見て彼は心配そうにした。
    「こういうのはいやか?」
     ぼくの手のひらをぽんぽんと両手で挟んで自嘲するように眉を寄せる。とっさに声が出た。
    「いやじゃない。ちょっと、びっくりしただけ」
     ごくりと唾液を飲み込む。
    「本当は、キスがしてほしい」
     なぜか睨みつけるようにして言い捨てた。
     あのときもこの場所にいた。半月前、ふたりで仕事の準備をしていた。深夜までかかった面倒な支度を終えると、近場で買ってきた酒を用意して広いフロアに直に座って杯を交わした。ふたりきりで飲酒するという状況に浮かれて気が大きくなり、彼が軽口として言った特別手当をねだった。身体に腕を回してぴったりと寄り添い、恋人みたいに瞳を見つめた。うろたえもせずに彼もじっと見つめ返して頭をなでた。ふと、手の動きが止まった。指がぼくの顎にかかり、息がかかるくらいに顔が近づいた。
     ほくは怖気づいた。頭をうつむかせて彼から逃げた。どうしようもない阿呆だ。欲しい欲しいと訴えておきながら、いざ、与える素振りを見せられると途端に背を向ける。そんな臆病なぼくに対して、彼は機嫌よく笑ってなにもなかったのだという振りをしてくれた。なにもかも冗談だというふうに、恥ずかしさでいたたまれなくて丸めた背中を軽く叩いてくれた。
     あのときは彼の優しさに甘えるばかりだった。でも、今度こそは、きちんと自分の気持ちに向き合いたいのだ。
     とろりとまぶたの落ちた彼の目がぼくをうつす。彼は少し近づいて、ぼくの両方の手のひらを包んで自身の顔に引き寄せた。やわい髭の感触がする。かたちのいい耳に指があたる。両手を包む手のひらと顔からの温もりが緊張で張り詰めた身体を徐々に解かしていく。彼の顔が近づいてくる。面白がっているように、少し口角が上がっていた。
     ぼくの鼻に彼の鼻が当たる。
    「どうしてほしいって?」
     やわらかな声に乗ってコーヒーが香った。心臓は高鳴っていたけれど、もうすっかり身体から力が抜けて自然とまぶたが落ちた。ぼくも少しだけ笑った。
    「キスして」
     ぼくからするのではいけないのだ、このひとからしてもらうのでなければ。哀れみでもほどこしでもなく、自ら進んで選択してほしかった。
     軽く唇があたり、思わず息を吸い込んだ。ノックされるように何度か唇が触れ合う。じゃれ合いの延長みたいなキスに薄く目を開くと、照れたように目を伏せているのが見えた。目が開いているのに気づいて彼は眉を下げる。頬まで手を這わせるとぼくの手のひらと同じくらいに熱くなっているのがわかった。
     誘われるようにして唇を食む。彼は少し驚いたように目を開いたけれど、静かに閉じてぼくのしたいようにさせた。
     彼の頭を抱えるようにしてキスをつづける。彼の手が所在なさげにデスクの上に伸びるのを引き止めて、自分の腰に引き寄せた。
    「触って」
     唇を離した合間にささやく。おずおずと腰に回された手がシャツの上から身体をなぞった。ぞくりと肌があわ立つ。はあ、と熱い吐息が漏れる。ぼくの濡れた目に引き込まれるように、彼がキスを返してくれる。ぼくが逃げないようにと、頭を支えられた。デスクにふたり分の体重がかかる。身体を明け渡したも同じことだった。ぼくも彼もコーヒーの味がした。次第にそれは薄れていって彼の味でいっぱいになる。キスをしているだけなのに、身体の奥が熱くなり、ひどく胸苦しくなっていく。終わりがなくて夢中になった。
    「ニール、もう」
     彼は頭を反らせて喉の奥で鳴るような声をあげる。どうどうといなすようにぼくの胸に手をあてた。
    「いやだ」
     首に腕を回して耳にかじりついた。耳たぶを甘噛みして吸いつく。
    「こら、わかったから」
    「わかってない」
     逃げる頭にしがみついて耳元に声を落とす。彼はぼくの扱いを計りかねたように背中を叩いてなだめた。
    「おれはなにをわかってないんだ?」
    「全部だ」
     ぼくの答えに、ふっと笑うような息をつく。
    「じゃあ、教えてくれ。読心術は専門外だ」
     余裕のある素振りに少しむっとした。ぼくと同じだけ相手にいっぱいいっぱいになってほしかった。だから言った、しがみついていた身体から離れて真正面から目を見て言ってやった。
    「ぼくは君が好きだ。君が思っているよりずっと。中途半端な気持ちでぼくの気持ちに応えたら、痛い目を見るぞ」
     話しながら、なぜか涙が浮かんできた。彼の肩を摑む手に力が入る。自分の感情をうまく制御できずに気持ちが高ぶる。おかしなことだった。なにもかもを受け入れてほしいのに彼の優しさに甘えるだけでは嫌だと思う。その一方で、拒絶されたときのことを想像するとそれだけで息ができなくなる。自分がなにを求めているのかがわからなかった。
     まっすぐに見返す顔がくしゃりとゆがんで笑顔になった。あまりに他意のない爽やかな表情をするので、拍子抜けしてぽかんと見つめることしかできない。咳払いをして、機嫌よく笑う相手に向かって恨み言を言う。
    「ぼくは本気で言ったんだけど」
    「悪い、正面切って言われると思わなかった。こちらも、半端な気持ちは持ち合わせていない」
     本当か、と疑いながら立ち上がって彼に身体を寄せる。彼は落ち着いた様子でこちらを見上げて言った。
    「おれも君が好きだ。わかっているだろう」
     鼻の奥がツンとしたかと思うと涙の膜が張って彼の輪郭がぼやける。うっ、と喉が詰まり言葉が出ない。固まっていると、彼の腕がぼくをやわらかく抱きとめた。肩口に顎を乗せてそっと背中に手を伸ばす。
    「ぼくのどこが好きなのか言ってみろよ」
     わざとぶっきらぼうに訊いたけれど、声はみっともなく震えていて全然様になっていなかった。
     そうだな、と少し考えるようにしてから抱きしめてくれているひとが口を開く。
    「まず、仕事にひたむきなところが好きだ。とっさの機転がきくのも頼りになる。持つ知識も多いから君の意見は参考になるし、問題が起きて意見が割れたとき、冷静に判断できるように核心を突く質問をしてくれるのもありがたい。見てくれがいいから諜報時に特別なことをせずとも相手の口を割らせやすいのも助かってる。たまに向こう見ずな行動を取るのだけはやめてほしいが、おれもひとのことを言える立場ではないからお互いに気をつけよう。あとは……、そうだな、おれが死ぬときはそばにいてくれるだろう?」
     今度こそ我慢ができなかった。ばか野郎、仕事のことばかりじゃないか、ともごもごと口のなかでつぶやいて、しがみつくようにして泣いていた。絶対にこのひとを死なせるものか、と何度も何度も繰り返し思った。
     彼の片方の肩をぐっしょりと濡らしてしばらくが経った。鼻をぐずつかせたぼくは完全に彼にもたれかかり、背中をなでてあやされていた。久しぶりに泣いたので頭がぼうっとする。ゆらゆらと揺れていると、もうここまで、というふうに背中を強めに叩かれた。
    「さ、明日も早い。そろそろ部屋に戻ったほうがいい」
     首をかたむけて、いくぶん気が晴れた様子の彼を見る。
    「ぼくをひとりにするつもり?」
    「昨日までと同じだろう」
    「状況が変わったじゃないか」
    「気持ちは変わってないだろう」
    「ぼくの気持ちを知っただろう」
    「前から気づいていたことだ」
    「往生際が悪いぞ」
    「お前は鼻をかんだほうがいい」
     アイロンがかかった紺色のきれいなハンカチをポケットから取り出して彼が言う。
     そのハンカチで思い切り鼻をかんでやってから、去り際に必ずキスをしてやる、絶対にだ、と心に決めて手を差し出した。
    narui148 Link Message Mute
    2024/04/12 19:00:00

    特別手当

    初出:pixiv 2021/12/5(加筆修正済)
    「観測可能な並行未来」に収録しました。(5768文字)

    若ニルを甘やかす主さんの話。

    #主ニル #ニル主

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