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    臨界点 ぼくの上司は喘いでいた。
     深夜の十二時をまわったところだった。最低限の医療品が用意された狭い部屋で、仮設のベッドに横たわり、彼は苦しそうに息をつく。顔をゆがめ、額には汗をにじませて、呼吸は浅く早い。
     潜入捜査の際に、ある種の薬を投与されたのだと言う。それをした相手は解毒剤を持っていなかった。血液検査の結果を待たずして、命に別状はないだろうと医師は判断した。
     命に別状がない? こんなに苦しそうなのに?
     彼がここに運ばれてきたとき、今回の作戦本部となった二階建ての倉庫にいた数名の仲間には各自役割が与えられていた。理由もなく居残っていたのはぼくだけだった。
     今日のぼくはついていて、目当ての情報を効率よく手に入れることができた。目算より早い午後七時には身体があいた。ほかの仲間たちにならってそのまま与えられた部屋に帰れたのだが、ぼくは彼に会うために、ぐずぐずと本部に居座っていた。
     せっかく、ことがうまく運んだのだ。直接上司に報告してねぎらいを受けたかった。そのために、倉庫の片隅でコーヒーを飲んで彼が帰ってくるのを待った。
     何杯目かになるコーヒーをカップに注ぎ足していると、屋外から、ざわざわとした気配が伝わってきた。彼のいないところでは絶対に感じたくない種類のいやな予感を抱きながら扉に向かう。待ち人は意識をなくした状態で仲間に抱えられていた。ぼくはただ呆然と立ち尽くした。
     鎮静剤は投与している。しばらくしたら、いまよりは楽になるのかもしれない。医師は、自白剤のようなものを体内に取り入れたのだろうと言った。なお一層、彼が心配だった。本部に残っていた仲間たちや、彼を二階に運んだ者たちも不安げにしていた。
     ぼくの上司に雇われた者は皆、彼を愛した。大胆な指針を示したかと思えば、個人の向き不向きを把握して適所におく手腕は見事だった。彼のたてる作戦は突拍子もないことが多かったが、終わってみれば理にかなったものだと理解ができた。彼の言動にははっきりとした理由がある。それがわかるだけに皆、彼のそばにいると安心した。
     ぼくは少し不安だった。ともすれば、自分を顧みない思い切った判断は、ときに、彼に対して凶暴に牙を剥く。いま、ぼくの目の前でそれが起きている。
    「どうして、無茶をするんだ」
     思わず、言っても無駄なことを口にしてしまう。ぼくがなんと言おうが、彼は自分の我を通すと知っているのに。
     部屋にはぼくと上司のふたりだけがいた。投与された薬に幻覚の作用もあるだろうと推察されたため、多くのひとの前に出さないようにと配慮されたのだ。彼といちばん付き合いが長いのはぼくだった。彼のようすを見て、なにか変化があれば医師に伝える役目を負った。医療の知識はないので、伝言役としてしか動けない。彼の役に立てない。自分の無力さにほぞを噛む思いがした。
     ゆっくりと、上司のまぶたが持ち上がり、瞳がうろうろとあたりをうかがう。
    「大丈夫か?」
     そばに近づいて顔を正面から捉えた。さまよっていた黒目がぼくをしっかりと見つめる。
    「ニール」
     彼は目を細め、ようやく安堵できたというように息をふうっと出して微笑んだ。
     先ほどまでの苦しそうな表情は一瞬にして消えていた。その変化にぼくはうろたえた。こんなに明け透けな笑顔は、彼の作った組織で働き出して以来、初めて向けられたものだった。ぼくの存在を待ち望んでいたのでは、と勘違いしてしまいそうになる。
     ぐっとこぶしを握って動揺を逃がし、彼のようすを観察する。医師にきちんと報告をせねばならない。
    「身体の具合はどうだ? 苦しくないか? 水を飲む?」
     最後の質問に対して首を縦にふったので、彼の足元にある作業台からペットボトルを取るために移動した。すると、切羽詰まった声がぼくを呼んだ。
    「ニール! ニール!」
     大きな呼び声に驚いて振り返ると、上司は腕をまわして虚空をつかもうとしていた。パニック発作だ。ぼくはあわてて腕を握って胸の前で交差させる。彼は弱っていた。ぼくなんかの力で押さえ込めるほどに。
    「どうしたの。水を取りに行っただけだよ」
     幼子おさなごに言い含めるような言葉になっていた。普段の彼なら絶対にしないような振る舞いに少し当てられた。このままの状態がつづくかもしれないと頭の隅でささやく声がして、すぐにその考えを締め出す。彼自身のほうがつらいのだ、薬剤を打たれたのは彼なのだから。
    「君は薬を盛られたんだ。いまのいやな感覚は薬のせいだよ。鎮静剤を打ったから、じきに良くなる。安心して」
     腕を押さえながら、涙を浮かべる上司に言葉をかける。きちんと意味を理解してくれているのかがわからず両手に力がこもる。このまま暴れるようならば医師を呼ぶべきだろう。だけど、混乱した彼を他人に見せたくはなかった。自分以外が見てはいけないと思った。
    「ニール、苦しいのか」
     はっと息を飲み込む。思わず、彼を押さえる腕の力が抜けた。添えるだけになった手をやさしく振りほどいて、彼の腕がぼくに伸びる。
     なにをされても動かないように、と知らぬ間に呼吸を止めて身体に力を込めていた。頭の形を確かめるように、両手の指が髪をすいて頭皮に触れる。途端に背筋があわ立った。自分がどんな顔をしているかわからなくて良かった。苦しんでいるはずの上司に劣情を抱く自分自身など、だれが見たいと思うだろうか。
     ぼくのどろりとした感情には気づきもしないで、彼はやさしく頭をなでる。
    「よくやった」
     目尻をやわらかくゆるめて、彼は満足気にぼくを見た。
     どくり、と全身に血がめぐり、身体中に熱が放たれるのがわかった。どうしても言ってほしい言葉だった。そのためにこの場所に残っていた。
     胸の上においたままになっていた手のひらを汗ばんだシャツに這わせる。彼の鼓動を感じるはずなのに、自分の心臓の音が大きすぎて感じとれない。そのまま首元に指を進めても、少しも気にしないで彼はぼくの頭をなでつづけた。
     指の腹で首に浮かんだ汗をはらう。なめらかな肌から飛んだしずくがシーツの上に染みを作った。
    「もう、つらくないか」
     浅い呼吸をして彼が言う。喉仏が、親指を上下させる。自分のほうがつらいだろうに、ぼくをいたわっている、はげましている、元気づけようとしている。
    「苦しい」
     口元だけでつぶやいた。自分より他人のことを考えるあなたを見ていられない。混乱しているあなたに、もっと触れてほしいと感じる自分の浅ましさに嫌気がさす。それなのに、あなたの身体をどこまでこの指で侵食できるかを試したくなっている。こんなのはいやだ、泣きたくなる。
    「苦しい」
     聞こえるか聞こえないかの音が口から漏れる。
     息が上がるのがわかった。首にかけた指を頭に向けて進める。皮膚と整えられたひげの境界をなぞり、やわらかな感触を確かめる。流れる汗をぬぐってやりながら頬から額へ指をすべらせた。視界は彼でいっぱいで、身体が勝手に引きずり込まれるようだった。
    「苦しいんだ」
     そう言うと、相手は悲しげにぼくを見つめた。
     軽い力でゆっくりと抱き寄せられる。大きなため息が髪にかかる。頭をなでられ、背に腕がまわされた。そのままやさしくさすってくれる。
     ぼくの唇が彼の首元にあたっていた。あたたかくてまろいにおいがする。
     いままで、軽くハグをしたことはある。でも、これほど近くに彼を感じるのははじめてだ。さすられている背中だけではなく、なでられている頭も、彼の首にあたる頬も、顔に触れている手のひらも、覆いかぶさっている胸も、いっさい触れていない下半身でさえ熱を持って火照ほてっていた。
     意識して唇を首筋に寄せる。とても現実だと思えなかった。どこかぼうっとしながらキスを落とす。汗が口に入る。おそるおそる舌を差し出してすべらかな肌を味わっても、彼は身じろぎもしない。どこまで許されるのだろう、と考えてしまった。ぼくの欲望を全部ぶつけても受け止めてくれるだろうか。
     こんな状態の彼にそれをしていいわけがない、とまともなぼくが止めに入る。でも、こんな状態でなければ二度と機会はないかもしれない、ともっと大きな声がする。彼の信頼を反故ほごにするとわかっているのか。天秤にかけるまでもないだろう、とつづけて聞こえる。
     そうだ。ここで止まればなにもなかったことにできる。まだ、できる。
     でも、どうしても──
    「これは夢だ」
     自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
     身体を起こす。彼の顔を両手でぴったりと挟んで濡れた瞳を覗き込む。
    「これは夢だよ。君は夢をみているんだ」
     子どもじみているうえに、言い訳のしようもない卑怯な手段をとっているという自覚はあった。でも、どうしても、触れたかった。
     想い人にキスをする想像を、ぼくはよくした。たとえば、朝起きたとき。ベッドに彼がいて、起き抜けにおはようの挨拶をしてくれる。あるいは、仕事中。ぼくがなにか気の利いた案を出したら彼が褒めてくれるのだ。それから、任務が終わった夜。ふたりとも疲れているけれど、仕事がうまくいって興奮もしていて、お互いを求め合う。
     こういった空想をするときは、キスをすると、歯車がきっちりと噛み合うように、パズルのピースがぴったりとはまるように、自分の世界に必要なのはこれだという実感がいつだって伴っている。
     いま、はじめて現実の彼に口づけた。
     もっと具体的な「なにか」を感じるはずなのに、ただ、やわらかな感触と浅い呼吸を感じただけだった。そんなはずはない、と相手の唇を何度もむ。愕然がくぜんとした。ショックを受けているという事実自体にうろたえた。ぼくはなんという勘違いをしていたんだろう。現実の彼とキスをしても「なにか」を感じない。それどころか、想像と現実の違いを突きつけられて一方的に落ち込んだ。
     鎮静剤が効果を上げたようだった。彼の腕からは徐々に力が抜け、表情は穏やかになり、呼吸もゆっくりと深くなっている。反対に、ぼくの身体はこわばって喉元がひりつき、指先からはどんどん熱が逃げていく。
     横たわった上司は、ぼんやりと天井を見つめていた。もうほとんどまぶたが降りかけている。そのようすを見て、突風でさらわれるように強い罪悪感に襲われた。ぼくは枝から落ちた枯れ葉のようなものだった。なんの抵抗もできずにただ風に押し流されるだけ。
     医師に、上司が眠りについたと報告をした。顔色が悪いと心配をされたが、気のせいだなどと言ってその場をあとにした。
     最悪だった。

     翌日も本部に向かった。上司のチームと昨日の報告をして情報を共有した。彼は一階に姿を現さない。
     昨夜、自分がしたことについて、整理はできていなかった。ただ、ぼくが最低な人間だということだけは明らかだった。部屋に戻ってから少し吐いた。ほとんどものを食べていなかったので、コーヒーのにおいのする苦い液体しか出なかった。腹が震えて喉が傷んだが、罰としてはあまりに軽い。こんなことで許されると思うなよ、と自分につぶやく声は震えていた。
     ほとんど眠りもしないで、いつもと同じ場所へいつもと同じ態度を装って向かった。なにが起きようと、ぼくの居場所はそこにしかないのだ。彼の隣にしか。
     昨夜遅くに呼び出された医師は、今朝方、彼の意識が戻ってすぐに帰されたらしい。上司はここで夜を明かした。残っていた者も、顔は見ていないとのことだった。ようすを見に行ったほうがいいのでは、と声が上がり、それならばぼくが適役だろうと言われた。
    「どうしてぼくが」
    「最後にそばについてたのはお前だろう。それに、あのひとが会いたがる」
     よくご存知で。
     肩の力を抜いて談笑する仲間たちに見送られて階段を上る。昨日の任務で、仕事は一段落ついていた。無事に終われば、情報の共有をし次第、しばらくはオフになる予定だ。
     扉の前に立つ。自然と足元に目がいく。
     まだ、どういうふうに彼と向き合えばいいかがわからない。さしあたって、いまは、なにもなかったように振る舞うしかないだろう。一晩中、自分のしたことに向き合おうとしては遠ざけて、を繰り返していた。罰されたいのか許されたいのかがまったく定まらない。彼がなにも覚えていなければ、この罪悪感を抱いたまま、身勝手な妄想から生まれたほの暗い気持ちを、小さく小さく圧縮させて見えないところに押し込めよう。これからは、より一層誠意を尽くして彼に仕えることで罪の意識を少しずつなくす努力をする。そうして初めて罪滅ぼしになるのだと考えて、ようやく決心を固める。
     顔を上げ、軽くノックをした。なかから入室の許可がおりるのを待つが、なにも聞こえない。
     開けるよ、と声をかけドアノブをひねる。部屋にはだれもいなかった。ひとがいた気配の残る簡易ベットに足を進める。昨日のことがまざまざと思い出されて口が乾く。知らず、唇を噛んでいた。
    「ニール」
     背後から、探しているそのひとに声をかけられ、びくりとしてしまった。なにを怯えているのかと不審に思っただろうか。なにも覚えていませんように、といまさらながら念じていた。汗がじわりとにじむ。
    「もう、起きていたのか。身体は大丈夫か」
     彼は顔と身体を洗ってきたらしい。すっきりとして見える。上半身にはなにも身につけておらず裸だった。視線を外して返事を待つ。いつもならぼくがなにか言えばすぐに応えてくれるのに、彼は黙ったままだった。部屋から出て行こうにも、目の前にいる彼が道をふさいでいる。退路がない。口を閉じると、昨夜の記憶が浮き上がってくるような気がした。なにか言わなくては、と気が焦る。笑顔を作って報告をする。
    「昨日までの情報を共有したところだ。みんな心配していたから、顔を見せに行ったらどうかな」
     階下に降りてもらえれば、今日はふたりきりにならずに済むだろう。そうしたら休みに入るから、昨日のことはうやむやになるだろう。前みたいに、ただの仲の良い上司と部下の関係を維持できるはずだ。
     彼は黙ったままだった。先ほどから、視線はずっとぼくに注がれていた。沈黙がこんなに雄弁だとは思わなかった。不自然な静けさがつづく。唾液がわくから、飲み込まないといけない。そうすると、喉の動きを見られてしまう。緊張していることはだれの目にも明らかだった。彼の目で見るなら、より、明らかだった。
     彼は待っているのだろう。ぼくからなにかを言うことを。それだけはしない、できない、決して。
     はあ、と重いため息が聞こえた。作業台の上から水を取り上げて飲む音がする。ちらりと彼のようすをうかがった。ぼくに半身を向けている。いまのうちに外に出られないかとドアの方を見ると、その視線を絡めとって牽制された。思わずまばたきの回数が多くなった。さっきからボロを出しすぎだ。
    「ニール、話がある」
     きた、と思った。飲み終えたペットボトルをつぶして、彼が言う。
    「昨日のことだ。身に覚えがあるだろう」
     しらを切るには、ぼくの態度は不自然すぎた。洗いざらい白状してしまえばいい、と小さくささやく声がする。でも、どうやって? あなたのことを勝手におもちゃにして自分を慰めていました。昨日は思わず、本物のあなたで自分を慰めようとしましたが、期待と違っていました、とでも言えというのか。ぼくは弁解がましく無理やり声を出した。
    「なんのことかな。君は体調が悪かったんだ。夢をみていたんじゃないか」
     相手は首をふり、眉をひそめてこちらを見る。片足のつま先で床をトントンと叩いた。言い出しにくいことを口にするときによくする仕草だった。信用のできない相手と一緒に働けない、と最後通告を申し渡されるのかもしれない。彼からその言葉が出るかと思うとたまらず、話を引き伸ばしたくなった。
    「ぼくが、なにをしたと思っているの」
     わざわざ確認しなくてもいいものを聞いてしまう。どこまでも愚かだった。やけになっているのかもしれない。なんだか少し笑えてくる。なにより可笑おかしいのは、弱っていた彼に強要したという罪悪感はあるものの、したこと自体については羞恥も後悔もないと気づいてしまったことだった。
     彼の身にふりかかったことが──起きないとは思うが──もしふたたび起きたとしたら、昨日と同じ行動をとってしまうだろうと、彼を目の前にして思っているのだった。もしかしたら、もう一度キスをすれば「なにか」がわかるのではないかなどと、いじましくも考えているのだ。
     上司は両目を細めてぼくを睨みつける。そして、ぼくが部屋を出ていけるように、半身をずらして道をあけた。呆れてものも言えないということか。もしかしたら、今日が彼と話す最後の日になるのかもしれなかった。
     奥歯を噛み締めて、扉に向かって歩みを進める。彼の目がぼくを追いかけてくる。いつもは温かくて安心できる視線なのに、いま、そこにあるのは失望だけなのだと感じた。
     扉まであと二歩だ。外に出たらどうなるのだろう。彼のいない場所で、どうやって生きていくのだろう。ぼんやりとかすみがかった胸のうちに声が浮かんでは消えていく。ドアノブに手をかけた。
     突然、肩をつかまれて身体を返された。背中がドアに強くぶつかる。とっさのことに反応ができない。
     殴られると思った。罰されるなら喜ばしい、許される見込みがあるということだから。力を抜いて首をうつむける。彼の手に傷がつくのはいやだ。ほんの少し口元を右側に向ける。あごをつかまれて正面を向かされた。
     がり、と音がなった。
     噛みつかれた。唇が切れる。ぼくも驚いたけれど、本人はいっそうびっくりしたようで、ぎょっとして身体を離した。
    「すまない。噛むつもりはなかったんだ」
     痛むか? と、じわりと血がにじむ唇に彼が指を伸ばした。
    「こういうことは、同意を取ってからじゃないと驚くだろう、と……」
     最後まで言わせずに、彼の口をふさぐ。血の味がした。唇以外はどこにも触れていない。その気になれば逃げるのはたやすいはずだった。押しのけても、突き飛ばしても、殴っても、簡単にぼくを追いやれるのに、彼はそうしない。
     ぼくの衝動だけではない? 教えてほしい。
    「舐めて治して」
     そう言って、切れた下唇を口の間に差し入れる。そのままじっと待つと、おずおずとのばされた舌が傷口に触れた。やわらかくて当たり前に優しい。息の仕方がわからなくなり、身体がかたまる。胸を押され、彼と扉に挟まれた。離れた唇を追いかけて下から掬われる。うなじに手がかけられて顔を固定された。
     ぼくが彼の形を確かめるように吸い付いても、逃げずに受け止めてくれる。伏せたまぶたにつられてぼくも目を閉じた。「なにか」どころではなかった。ぼくは求められていた。あまりのことに、自分の想像のつづきなのではないかと疑った。ほとんどすがりつきながら背に腕を回すと、彼の肌が汗ばんでいるのがわかった。
     あつい。身体が勝手に反応する。互いの体温を感じ取り、もっともっとと欲している。そうするうちに、そこらじゅうに熱がたちこめて、早く外に出せと暴れ出す。心臓が千切れそうだ。
     どちらが早く降参するのか競っているみたいに息と唾液を交換する。喉を鳴らして飲み込むと、頭をゆるくなでられた。昨日と全然違う。どう違うかを把握したいのに、肌の上を電気がずっとピリピリ走ってぼうっとしてしまう。ぜんぶ欲しい、ぜんぶあげたい、とぼやけた頭に強い気持ちが浮かんだ。ただ、それだけを考えて、血の味がしなくなるまでお互いを味わい合った。
     しばらくして、手の下で彼のみっしりとつまった筋肉が動く。ぼくから離れていく気配がした。目を開けて追いかけるとひとつ、キスを返してくれて、指であごを押さえられる。
    「先に降りるから、落ち着いたら来るように」
     あたりをはばかるようなささやき声にぞくぞくとした。うん、うん、とうなずくことしかできない。
     そばにあった着替えを取り、ぼくにじっと目を合わせ、彼は顔をくしゃりとさせた。
    「真っ赤だな」
     反射的に、君だってあつかったじゃないか、とむっとした。
    「君は、もう、薬を盛られるようなミスを犯すな」
     怒っているんだ、と精いっぱい真面目な顔を作って返す。彼はふうん、と目を細めてこちらを見た。
    「俺を襲えるのに?」
     表情が変わったのに気づいたのだろう、彼はすれ違うときに、にやりと笑い、またあとで、とでも言うような視線をぼくに投げてよこして出ていった。
     閉じたドアにもたれかかり、ズルズルとしゃがみ込む。扉が冷たくて気持ちいい。全身に汗をかいていて、これは汗がひくのに時間がかかるな、と思った。唇に手を当てて先ほどの時間を思い出す。まったく熱が冷めない。見たことのない表情ばかりだった。それが全部自分に向けられていたのだと思うと勝手に顔がゆるむ。指を噛んで、にやにやするのを止めようとしても止まらなかった。
     結局、気持ちを落ち着かせるのに、たっぷり十分はかかった。
     階下に降りると、あたりはしんとしていてほかのひとの気配がない。ぼくの上司は部屋の隅で昨日の報告書を読んでいた。集中しています、といった雰囲気を出している。こちらに気づかないはずはないのにちらりとも見ない。
     あたりを見回すと、さっきまでだれかがコーヒーを飲んでいたマグカップが一枚の紙を押さえていた。
     そこには大きな文字でひとことだけが書いてあった。
    「ごゆっくり」
    narui148 Link Message Mute
    2024/04/12 19:00:00

    臨界点

    初出:pixiv 2021/5/30(加筆修正済)
    「観測可能な並行未来」に収録しました。(8716文字)

    薬を盛られた主さんと若ニルの話。

    #主ニル #ニル主

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