イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    いつかのはじまり―sometime― ニールは飽いていた。ひんやりとした芝の上に身体を投げ出してため息をつきながらルーズリーフに数式を書き込む。象徴的な赤レンガ造りの校舎は学生を次々と吐き出し、若者たちは友人とおしゃべりに興じたりふざけたりして、晴天の喜びを分かち合っていた。
     暑い夏が終わり、学年が一つ上がって迎えた新学期だった。さわやかな気候に笑いさんざめく周りの人間とは相反して、ニールは表情なく指を動かす。
     きゃあ、と軽く叫ぶ声がした。つづけて楽しげな笑い声も聞こえる。声には切迫したものはなく、だれかがちょっかいを出したのだろうと知れた。声の主たちは、連れ立って次の目的地に向かって行く。
     ニールはなんとなくその声の出どころに視線を向けた。なにが楽しいのか、グループのうちのひとりが一言発するごとにわっと場が盛り上がっていた。自分さえ望めば、楽しそうに道を行く学生の輪に加わるのは難しくないのだとニールは知っていた。それまで話したことのないグループであっても、目を合わせてにこりとほほえみ、持ち物かなにかを褒めれば向こうから仲間になろうと引き込んで来るのだ。誘いかけて拒まれた経験はいままでなかった。自分から動かずとも、友人や恋人になろうとする者、教師ですらみずから近づいてくるのが常だった。
    (なんだかなぁ……)
     ノートに目を落とし、計算をつづけながらぼんやりと考える。彼は「わからないもの」が好きだった。物心ついてからは、世界を構成するあらゆるふしぎに魅了され、わからないものがわかる過程に興味を抱いていた。それなのに、本来はわからないはずの他人のこころを読んだり好きに操ったりしている。いつからこんなふうに人付き合いをするようになったのかと思いを巡らせる。
     両親に愛され、友人に恵まれ、なに不自由なく過ごしていた幼少期には、他者が自分に与える愛情を受け取るだけでよかった。人間関係は単純だった。だが、八歳のとき、ニールは初めて自分に敵意を向ける相手に会った。それは、当時のニールにとって「わからないもの」のひとつだった。それからだ、他人の気持ちや行動に注意を払うようになったのは。
     睨みつけてきた少年のことを思い出す。なんとなく、こうだろうという推測はしていたが、彼がどんな怒りを持ったのかを自分は正しく理解しているのだろうか、と考え直す。あれは、いまと同じ、十月の出来事だった。

     五人の子どもたちが小学校の校庭の隅に集まってなにかを取り囲んでいた。全員がニールより背が高いので年上だったのだろう。みんなして足元を見ているが、ニールの位置からは少年たちがなにを見ているのか確かめられなかった。興味を惹かれてニールは近づいた。
    「かわいそうだよ。そっとしておいてあげようよ」
     ひとりの少年が声をかけていた。周囲からは聞こえないかのように無視されている。
    そのうちのひとりが、両手のひらを合わせたくらいの大きさの石を持ち上げていた。足元を見つめる子どもたちの間に妙な緊張感がただよっている。これから起きるできごとを楽しんでいいのか、よしたほうがいいのか。楽しんではいけないとしても、石を落としたあとの結果を知りたいという興味が勝っているようだった。
    「なにしてるの」
     はっ、と石を持つ少年の指が震えた。当人の思惑と異なるタイミングで落とされた石は、地面に倒れる鳥の頭部をあやまたずに押しつぶした。まばらに生えた芝生の上に、石はごとりと沈んでいく。
     白い羽根が黒い胴体からのびていた。地面を力なく二度たたき動かなくなる。ニールはただ黙って黒と白のコントラストを見ていた。石の下にはきっと赤い血が流れているのだろう。空を飛ぶ鳥はそう簡単に地面に落ちはしない。この少年たちは、死にかけたカササギを苦しくないようにしてやったのだとなんとなく理解した。
     石を落とした少年に体を向けると、後ずさりをしてその場から離れようとしていた。怯えたようにニールを見ている。ニールは、自分には責めるつもりはないのだと視線に気持ちを込めて、まっすぐに見つめた。
    「わたしじゃないから」
     まわりにいたひとりがそう言って走り去ると三人がそれにつづいた。石を落とすのを止めようとしていた少年がひとり取り残される。彼はぎゅっと両手を握りしめていた。ニールに向けていた視線を、石で押しつぶされた鳥へと移した。
     次の瞬間、少年は顔を上げてニールをきっとにらみつけた。ニールは言いかけていた言葉(かわいそうだったね)を飲み込んだ。なぜ自分を責めるように見るのかがわからなかった。だから聞いてみようとした。怒った瞳はすっとニールから離れ、背中側へと移動する。少年はなにも言わずに、ゆっくりと背を向けて校舎へと歩いていった。背中をまっすぐに伸ばしていた。逃げているのではなく、ただ立ち去ったのだと自分に言い聞かせているように。
    「どうかしたのかな」
     後ろからいたわりのある教師の声がした。ニールは振り返り、年上の子どもたちが死にかけた鳥を楽にしようとしていたのだと伝える。きっとそうだっただろうから。
    「そう。この場所はなぜだか鳥さんがガラスにぶつかっちゃうところなのよね。前にも一羽いて。かわいそうにね」
    「前の鳥はどうしたの」
    「どうしたのかな、先生そこまでは知らないのよ」
     ふたりしてしゃがんで死骸に目を向ける。
    「埋めてあげないと」
     先ほどの少年については少し隣において、いまはこの鳥をどうにかしてあげなくては、とニールは責任を感じていた。死んだものをこのままにしておいてはいけない。
     落ちた鳥が横たわっているのは校庭にある数少ない土の上だった。芝が生えてはいるが、日当たりが悪いのかしなびている。土は乾燥してかたそうだった。手近に土を掘り返す道具となるようなものが、鳥を地面にとめつけている石くらいしかなかった。やむを得ず、ニールは両手の指で芝生を掘り返そうとする。ふわりと砂が飛び鼻孔をくすぐる。爪のなかに乾いた土が入るばかりで、これは時間がかかりそうだなと思った。
    「こらこら、ここには埋められないわよ」
     苦笑するようにたしなめられて、少しむっとした。
    (それならぼくより先に動いてよ)
     ニールの気持ちが伝わったのか、教師は、少し待っていてと伝えおいて用務員を呼びに行った。しばらくしてからスコップを持って現れた用務員と連れ立って、ニールはしかるべき場所にむくろを葬った。
     大人に手伝ってもらい土を掘り返しながら、先ほどの少年の目を思い返していた。少年は、傷ついたカササギをどうしたかったのだろうか。ニールがあの場所で話しかけていなければ、鳥は助かっていたのだろうか。助ける心づもりがあったから邪魔立てされたと思ったのか。それとも、単にほかの少年たちの行動に影響を与えた存在に苛立ち、八つ当たりをされただけなのだろうか。
     きれいな青と黒の尾羽の上に土をかぶせ終えて地面をならす。立ち上がり、パタパタとズボンで両手についた土をはらった。ニールは花を手向けたいと思ったが、花壇に植えられた花しか校内にはない。花壇の花を摘み取ると、校長にそれはそれは怒られるのだ。しぼられている級友を見た記憶が何度かあった。仕方なく、近くの木から落ちた、かたちの良い葉を三枚選び並べておいて代わりとした。


     ルーズリーフの上の計算式から、ニールの視線は芝生の上に移動していた。黒いアリがよちよちと地面についた肘に向かって歩いてくる。ボールペンをアリの行く手に伸ばして直角に誘導すると、小さな生き物はおとなしく従った。
     数式に戻り、計算をつづける。もうすぐイコールの結果を導き出せる。答えを書き始めたところで、黒いインクが徐々に薄くなり、ルーズリーフに数字の形のへこみをつけるばかりになった。持っているペンはひとつだけ。ため息を付き、ぐりぐりと紙にうずまきを刻む。

     元来、わからないものへの関心を持っていたニールは、怒った少年に出会ってからは他人の気持ちや行動に注意を払うようになった。すると、どうやら自分はほかの子どもに比べて影響力を持っているようだと気づいた。ニール自身にどうという気がなくとも、周りが勝手に気持ちを推し量って行動しているように見えるときがあった。理由を探してなんとか見つけた。自分の容姿には魅力があるようなのだ。にこやかな笑顔や友人としての関係性といった報奨を得るために気を遣われていたらしい。自分という存在が世界にとって重要だから愛されていたわけではないと気付いてしまった。
     なんということはない。ひとはおのれに益があるから他人と一緒にいるのだ、とニールは自分なりに納得し、あてが外れたとばかりに失望した。自分が人目を引く容姿でなければ、いまのような関係を他人と築けていただろうか、と幼心に疑った。
     進級や進学を繰り返して新しい出会いをするたびに疑いの気持ちは強まった。かといって鬱屈を自分の内側に向かわせるのをニールは良しとしなかった。せっかくの特性があるのならば、使わない手はない。他人からの自分への評価という「わからないもの」を理解する過程と、活用するまでを楽しむことにした。
     他人を観察し、相手の望むような態度を示せばみずからへの待遇が格段によくなると気づいてしまってからは、適宜、魅力的だと思われる行動を出し入れするようになった。場数を踏むほど、器用に立ち回るようになっていった。
     大学に進学してからは、どうにも居心地が悪いと感じるようになった。「わからないもの」であったはずの他人の行動の動機がある程度わかってしまう上に、こちらから変化させることすらできていたからだ。これはおもしろくない。
     ひとりでいると、他人が声をかけてくる。知り合いだったり、会ったことのないひとだったりした。みな一様に、ニールとなかよくなりたいと働きかけていた。なかよくなったとして、その見返りにはなにがあるのか、と腹の底で考えている自分を見つけて辟易した。そうして、自分の希望を通そうとするにしろしないにしろ、相手の気持ちを必要以上に汲むことをやめた。そうすれば、まだ、「わからないもの」はわからないままであってくれるだろう。

    「隣、いいかな」
     日差しをさえぎる位置にだれかが立っていた。いつもの、自分と親しくなりたがる学生だろうか。ぐるぐるとうずを巻いていたペン先から、ニールは気だるげに視線を上げた。真新しい真っ白な運動靴が緑の芝生に映えていた。こちらも真新しく見える、質のいいパンツがつづき、そこから上は逆光になっていてしかとは伺えない。ただ、こちらを見ているようだと受け取れた。
     学生ではないのか、と、ニールは怪訝に思った。沈黙を了承だと認識したらしく、相手は隣に腰掛けてきた。隣に座ったものの、目線はまっすぐ前を向いている。学舎と学舎の間の池のほうを見ているようだった。
     見たことのない人物だ。教師かなと一瞬思ったが、左手につけている時計の値段は見当がつく。教師の給与でも買えないことはないだろうが、仕事場につけてくるかなと疑問に思い、つけてはこないだろうと判断する。
     男はポロシャツを着ていた。荷物らしい荷物は持っていなかった。だからこそ、はじめに教師だろうかと感じたのだが。それどころか携帯端末も持っていないようだった。見える範囲ではパンツのポケットもつるりとしていて、車のキーすら入っていないのではないか。
     この大学に来るには自動車が必須である。自分で運転するか、だれかが運転する車かバスに乗らなければたどり着くのは難しいだろう。まさか自転車を使ったか。スポーツマンらしきしっかりとした体型をしているし、その可能性もなくはないが。
     どうしてか、だれかの付き添いで来たかもしれないとは、頭の端にも引っかからなかった。この人自身に、なにか目的があってここまで来たのだろう。
     険のないまなざしをしていた。顔の下半分を覆う髭のせいで年齢がわかりにくい。自分より年上であることは間違いないだろう。三十代とも四十代とも見受けられる。父親の世代よりは下だろうと予想した。
     ニールが値踏みをするように見つめていても、男の目は涼やかに前を向いたままだった。こちらを見ないのをいいことに、顔をまじまじと見つめ、知った人物だったかと記憶をめぐらせた。ふいに、満足したかと問いかけるように、男はふわりとニールに振り向いた。
     ばちりと目が合った。この人物は自分に観察をさせていたのだという気がした。じろじろと眺めていたニールは、後ろの校舎へと視線をさまよわせる。
    「……なんの仕事をしているか、あてようか」
     ばつの悪さを紛らわせるために、ニールは寝そべっていた体を戻し、座り直した。当てがあったわけではないが、少し興味がわいていた。
     謎の男は、どうぞ、と言うように眉を上げてつづきを促す。
    「まず、ここの教師ではない。見たことがないし、教師らしくないから」
     インクの出ないボールペンで男をさして指摘する。
    「教師らしくないか」
     男は少し笑って顔だけこちらに向き直る。このゲームに乗り気なようだ。
    「見えないね。体育教師なら、まだ、なんとかってとこじゃないか。でも、教師にしては羽振りが良すぎる」
     ペン先を腕時計に合わせて言うと、相手は少し肩をすくめた。
    「ここに住んでるのか」
     地元の人間であればいくぶん絞り込めるだろうと聞いてみる。
    「アメリカから来た」
     ふうん、とニールは改めて目の前の人間を観察した。アメリカ人か。だとしたら出張でここにいるのか、この国で働いているのか。前者かな、となんとなく思った。
     海外をまわる金回りのいい仕事といえばなんだろうか。製造業、商社、パイロット、外資企業のコンサル、ヘッジファンドのマネージャーだとか。他人の金を運用する、ねぇ。それらしい仕事をしている人物の雰囲気というものを、ニールはしかとは知らないが、そうは見えない。金融業界にいるなら、もっとギラギラした雰囲気になるのではないか。前に見た、アメリカの金融業界を描いた映画を思い出しながら推測した。
    「金融業ではないよね。意外とお役所の職員だったりして」
     反応を見ようと、わざと外した質問をしてみた。相手はゆるりと首を傾ける。意外に良いところをついたのかもしれない、とニールはあごに指を添えた。運転手付きの議会職員という目もあるか。それにしてはやはり体格が良すぎる。現役で肉体労働をしている者の体つきだと感じる。例えば、現場に出る警察官だとか、あるいは。
    「海軍に所属している」
     階級が上がれば公務員でも年収は上がるだろう。この場合、このひとは最初に思ったよりも年齢が上かもしれない。
    「一時期、従事していたことはある」
     完全にニールのほうに体を向けた男は、瞳に喜色を交えて答えた。真正面から相手を見ることになる。ニールは目をすがめて考えを巡らせる。
     海軍あがりの人物は次になんの仕事をするか。傭兵だろうか。頭にちらりとよぎったのは、正面から見る相手の表情に、現役らしい鋭さを見たからだろうか。でも、血と硝煙のにおいはこの人物からは感じとれない。海外に出張して、体を張って動く公務員といえばなんだろう。
     はた、と、ひとつ思いついた。さすがにそれはない、と腹のなかでおのれを笑う。
    「わかった。CIAのエージェント。どうだ」
     ふふ、と自嘲が顔にもあらわれた。笑ってくれるかな、と正面に座る男を見ると、なぜだか深くため息をついて目を細めている。まさか。
    「え、当てたの」
     は。と口が開いたままになる。このひとがアメリカの諜報機関のエージェントだって? 一大学生に見抜かれてはスパイも形なしではないか。相手はじわりと口角を上げて言う。
    「もう辞めたが、昔、働いていたよ」
    「それ、正解だね。ぼくなんかに所属を当てられるなんて、絶対に向いてない」
     驚いた。かつがれているのだろうか。いや、嘘だとは思いたくない。ボールペンをカチカチとノックさせながら、職を転々としているらしい男をすみずみまで見つめる。なかなかおもしろいじゃないか。思わず体が前のめりになる。
     中央情報局は、しかしもう辞めたという。では、いまはなにをしているのだろうか。そして、この大学に来た理由はなんなのか。いまやニールの好奇心は隠せなくなっていた。ゲームの体で聞き出すよりも、直接話してもらうほうが早いだろう。
    「降参。なんの仕事をしているのか、どうしてここに来たのか、教えてよ」
     ホールドアップの姿勢を取って白旗を振る。
    「諦めるのか」
    「やめたよ。とても想像がつかない。そうじゃないだろうって仕事をあげていくと当たるんだから」
     ニールは苦笑して手を下ろす。片膝を抱え、出し物がはじまる前の子どものように期待を込めて、男の返答を待った。
     鋭く高い鳴き声が頭上を越えていく。池から飛び立った雁だろうか。飛び去った方向を仰ぎ見て視線を戻すと、男も鳥の尾を目で追いかけていた。彼は太陽の光に目を細めながら口を開く。
    「あるひとに呼ばれて会いに来た。遠くからひと目だけでも確認できたらそれでいいと思っていたんだが、話しかけずにはいられなかった」
     ふうん、とニールは顎を膝に乗せた。だれかに産ませた子どもが在学中なのかと邪推する。海外赴任が多くて火遊びもよくした、とか。真面目そうに見えるけど、意外とゆるいんだな。
    「いま、子どもがいるのかと思ったか」
     遠くを望んでいた瞳が、ちらりとこちらにそそがれる。
    「違うのか」
     体裁を取りつくろうのも面倒に思い、ぞんざいに声を出す。なにがおかしいのか、目の前の男は含み笑いをして、いないよと答える。
    「仕事仲間だ。昔、世話になった」
     なんだ、と、先程の勘ぐりが否定されたことに気を良くしている自分に気づき、ニールはおかしくなって髪をかきあげた。初対面の相手に期待をしすぎだ。
    (でも、無性に気になるんだよな)
     どうしてだろう、と唇を指でこする。
    「そのひとは、こんなところでなにしてるんだ。教師にでもなったわけ」
     取り立てて問題のある質問でもないだろうに、男の表情が変わった。もの思わしげに、すう、とニールの瞳の底を覗き込む。まばたきもなくじっと見つめる。外側から頭のなかを探られているようでニールは落ち着かなかった。思わず、右手でもう一方の手の薬指を強くこすった。
     瞬間、男は、ぱちぱちと音が立つくらい大きくまばたきをして目をそらし、首を下に傾けた。
    「すまない。失礼だった」
     別に、とニールは口の先でつぶやく。
     指をこするのは癖だった。言い出しにくいことがあるときや、気まずい場面でつい出てしまう。自覚があるのでぜひとも治したいと思っているのだが、なかなかどうして難しかった。
     いまも無意識のうちに触ってしまった。このひとをうろたえさせたのは、この癖が原因だろうか。しかし、理由はなんだろう。
     ニールが黙ってしまうと途端に沈黙が訪れた。雁の鳴き声が聞こえたのは先程の一声のみで、それ以降は池の端からも聞こえない。男は首を背けたままだ。
     だしぬけに、ふっふっふ、と抑えきれていない笑い声が聞こえてきた。向かいに座る相手は、目を指で覆い、肩を震わせながらくつくつと喉を鳴らしている。
     急な事態に対処しかねて、ニールは男の様子を伺った。彼は笑いを噛み殺そうとしているらしい。唇をきつく結ぼうとするが、うまくいかずに口元が緩んでいく。いやな笑い方ではなかった。小学生が友だちと遊んでいるときのような、てらいのない、澄んだ笑顔に見えた。なにを笑っているのか。いや、誰をか。この場合、ニールのことを、だろう。初対面の相手にこれほど笑われるいわれはないが、と、むっとしながらも、男があまりに楽しそうにするので、ニールもつられて頬をゆるめてしまった。
    「……すまない。笑うつもりはなかったんだ。君を笑ったんじゃない。これは、そう、思い出し笑いだ」
     顔を隠したまま謝られる。思い出だけでそんなふうに笑えるものだろうか、と疑問に思いつつも、許してやることにする。へんなひとだ。
    「いいけど。さっきの話のつづきをしてよ。待ってるんですけど」
     膝を揺らして不機嫌なふりをしながら催促する。
     男の口元にはまだ笑みの残滓ざんしがあった。顔の上半分を覆っていた手がはずされる。眉がやや下がり、切れ長の目尻は涙でうるんでいる。まぶしいものを見ているようにニールに目を向けて、顔を軽く傾けた。やさしい瞳をしていた。目の前の相手の存在を肯定して、包み込むようだった。
     どう考えても初対面の相手に向ける表情だとは思えない、とニールは思った。こんな表情をする相手を、自分が知らないはずはないと確信した。きっとどこかで出会っている。もしかしたら、親が知り合いなのかもしれない、と記憶を引き出そうとしてみた。あるいは、彼が会いに来たという仕事仲間がニールの知り合いなのだろうか。そのひとを経由して昔の自分に会ったことがある? 釈然としない。こちらは相手を覚えていないというのに、向こうだけが自分を知っているという状況は気に食わなかった。
     ニールの疑念をよそに、微笑みを浮かべた男は、先程せっつかれた話のつづきを口にする。
    「そう。仕事仲間に会いに来たんだ。そのひとには、ほんとうに世話になってね。もしかしたら、いまなら俺が彼を手助けできるのではないかと思った。だが、そんなものは必要ないようだ」
     満足そうにうなずいて言葉をつづける。
    「会えて良かった。元気そうな姿を見られただけではなく、話ができるなんて思っていなかったから。でも、もうこれで最後にするつもりだ。二度と会わない」
     ふう、と息をついて、男は少し内向きになっていた胸を張った。みずからの決断により、気が楽になったとでもいうように。
     カチリと、ニールのなかにある反感という名のトリガーが引かれた音がした。
    「なに、言ってるんだ」
     顔をしかめて相手をにらみつける。
    「昔、世話になったんだろう。てことは、そのひともあんたのことを大事だと思ってくれてたんだろう。嫌われてるんでもなければ、会いたいときに会いに行けばいいじゃないか。
     ていうか、あんたが選ぶ立場にあるわけ? 相手の気持ちはどうでもいいのかよ。ちゃんと本人に聞いたのか。もう会いたくないのかって」
     ニールには、自分でもどうしてこんなに腹が立つのかがわからなかった。振り回していたボールペンをルーズリーフの上に叩きつけ、手近にある芝生をぶちぶちとちぎった。
     男は、それまで話していた相手の態度が硬化したさまを凝視している。ニールは相手の両の目を強く見返した。そこにうつる自分の姿に、地に落ちた鳥と、地面の上の石と、ニールをにらんで怒った少年の記憶が重なった。
     唐突に、あの少年はニールに対して怒っていたのではないと気がついた。彼はむしろあの場にいただれよりもニールのことを理解していた。
     ほかの子どもたちは、必要にかられたからではなく、好奇心から鳥に石を落とそうとした。だが、止めていた少年だけは、命を奪う理由があることを知っていた。もう息は長くない。苦しませるなら、ひと思いに死なせてやるのもやさしさだと。
     そこにニールが現れた。死にかけた鳥を楽にしてやることを良しとしていた。自信を持って、まわりのだれもがそう考えているのだと信じていた。だからニールは石を落とした少年を非難しなかった。正しいことをしたと思っていたから。
     あのとき、少年はニールの存在を通して自分を見たのかもしれない。ほんとうは早く、息の根を止めてやったほうが良かったのではないか。わかっていたのに死にかけた鳥の苦しみを長引かせた。彼自身の手を汚すのが嫌だったから。自分がかわいかったから。自分のなかの非合理な考えのうずにとらわれて、どうしようもなく、少年はニールをにらんだ。
     いま、ニールが対面する男をにらんだように。
    (このひとに怒っているのではない。ぼくは、自分に腹が立っているんだ)
     ニールが抱いた反感は、男の身勝手さに対してのものだった。彼が口にした言葉からは、相手への思いやりは伝わらなかった。少なくともニールには。あんまりだと思った。
     しかしその身勝手さは、日頃からニールが他人に対して取っている態度でもあった。他人はニールからの利益を求める。ニールもその相手からの見返りを受け取る。見返りがなければ用済みにして捨て置く。それでいいだろうと思っていた。みんなそうしているのだから。
     それなのに、目の前の相手にはそうであってほしくなかった。自分だって、ほんとうはそんなふうに振る舞いたくはなかった。だれであれ、相手には誠実でいたほうがずっと楽だし、安心できるはずなのに。
     ニールは無意識にうつむいて、うめいていた。
    (顔が熱い。全部自分に向けて言ったようなものだ。傷つけられたり、弱らされたりしたくないばっかりに、勝手に他人の気持ちを決めつけて、うまく立ち回ったように思い込んで。あまつさえ利用して)
     自分のはいている運動靴が目に入る。前学期からはきつづけている。泥やなにやで汚れていた。最後に洗ったのはいつだったか。ロゴをデザインした縫いめを目で追った。
    「君の言うことも正しいな」
     少し言いよどむようにして、男は口を開いた。
     ニールは顔を上げられずにじっとしていた。ここから逃げ出してしまいたい。なぜ、いまになって気づいてしまったのか。もっと後か、もっと前なら良かったのに。
    「いえ、言いすぎました。差し出がましかったと思います。謝ります」
     かろうじて声に出して応える。呆れられているだろう、と深くため息をつきながらうっそりと顔を上げた。男はなぜだかいまだに満足げだった。軽く膝を抱えて嬉しそうにしていた。自己嫌悪でひどい気持ちになっているニールにはおかまいなしに、上機嫌に見えた。
    (ぼくが動転しているのを見て楽しんでいるのか?)
     思っていた反応とは違った態度を示す相手に、ニールは胡乱うろんな視線を送った。
     ふ、と相手の目線がニールの後ろにまわる。目顔でだれかと話しているようだ。ニールは振り返ることはしなかった。これ以上余計なことはしない。
    「そろそろ時間のようだ。話ができて良かった」
     謎の男は立ち上がりかけて、そうだ、と右のポケットの中に手を入れる。
    「良かったら使ってくれ」
     目の前に手を出された。反射的に手のひらを上にして受け取ってしまう。銀のボールペンだった。重みがあり、ステンレス製でノック式の、高級感のあるペンだった。ずっと男のポケットに入っていたのだろう。体温がうつってほの温かい。
     男は今度こそ立ち上がり、その場をあとにしようとした。立ち上がるときに車のキーの音はしなかった。後ろにいるだれかに運転させてここまで来たのだろう。携帯端末も、なにも、荷物らしい荷物は持っていなかった。男が隣に座る直前に、ニールが切らした一本一ポンドのボールペンの代わりとなるものを除いては。
     ニールは温もりの残る銀のペンをぎゅっと握りしめた。
    「ちょっと!」
     たまらず呼び止めて立ち上がる。
     この男はニールの問いにまだ答えていない。最後にひとつくらいは、きちんと答えてもらおうじゃないか。それくらいはしてもらわないと気がおさまらない。
    「ニールだ」
     右腕を差し出して名前を名乗る。
     確かに自分は他人の行動を操作しようとしたことはある。これもある意味ではその仕草のひとつだ。さあ、どう振る舞うかを見せてくれ。
     男は振り返り、腕を差し出し口を開く。
    narui148 Link Message Mute
    2024/04/12 19:00:00

    いつかのはじまり―sometime―

    初出:pixiv 2021/3/30(加筆修正済)
    「観測可能な並行未来」に収録しました。(11126文字)

    学生ニールが未来主人公と出会うときのお話。

    #主ニル #ニル主

    more...
    作者が共有を許可していません Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    NG
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品