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    温かな彫像「何を見ている」
     彫像が口を開いた。思ったほど低くない声で耳に優しい。声を耳にするのは初めてだった。彼は実業家かつ篤志家である父親と違ってテレビに出演したりインタビュアーの求めに応じてコメントしたりはしないからだ。それに、彼はほとんど公の場に姿を表さない。だが、いまのように、姿を見せても彼に気づくひとがいないだけでたびたび外界に降りてくることもあるのではないかと思いいたった。
     アパートで起きた強盗事件の現場保存のために街路に立ち、侵入者の排除と住人への説明、周囲に怪しい者がいないかどうかの確認をしていた。通報を先に受けたふたりとわたしのパートナーは中で被害者と話をしたり現場の見聞をしたりしている。わたしたちはパトロール中で近くにいたので応援としてここに来ていた。日が暮れると通報は増える。闇にまぎれて犯罪者が動き出し、住民は怯えて縮こまり、わたしたちもまた盛んに街を行く。
     いつも通りに仕事をしていたわたしはいつにない「彼」の姿に気がついた。黒いコートを着た男は静かに街を横切ろうとして何かに気を取られたように左右を確認した。彼はゆっくりと歩き、わたしからほんの五歩程度の距離で立ち止まり、何を見ている、と問いかけた。
     街灯に照らしだされた姿は白と黒の陰影が色濃く浮き出ていた。こんなに整った容姿をしているのに公の場に出ないなんてもったいない、と彼の姿を自分の目で確認するようになってからは考えてしまうこともあった。荘厳な城に囚われた孤高のプリンス、謎に包まれた私生活や行動に興味がなかったとは言えない。
     リドラーの起こした事件が始まる前までの彼は、新聞の紙面かインターネット上に掲載された妙にピントのボケた写真でしかその存在を感じられなかった。どの記事の写真も、カメラのレンズが彼の視線を捕えたものはない。だからわたしは彼の真正面からの視線を知ることがなかった。いままで一度も。
    「どうした」
     再度、目の前の彫像が口を開く。常ならば高い塔に鎮座して外界を見下ろす男は、眉間にしわを寄せ、この汚泥に満ちた世を昏く憂うようだった。瞳の色は薄く、まつげは長く、視線と頬の筋肉のこわばりに、わたしは彼の緊張を感じ取る。
     真っ直ぐな視線だった。品性や資金を持ち合わせている実業家としての圧力よりも、その視線には薄く漂う儚げな感触があった。一市民に過ぎないわたしにすら彼の孤独の色が見える。彼はひとりで寄る辺ないのだとおこがましくも推測し、守ってやらねばならないと強く感じた。この街のために傷ついた人々を新たな被害から守るのがわたしたちの使命だ。施設に暮らす子どもたちからとんでもない大金持ちに至るまで、助けを求められるのならば力を貸して助けてやらねばならない。
     そんなことを考えながらなにも言わずに立ちすくんでいると、彫像は眉間のしわを深めてこちらへと足を踏み出した。わたしは思わず半歩下がり、自分以外の誰かに話しかけていたのだろうと左右を見回す。最前から、わたしのそばには誰もいない。周りを確認しているうちに、手を伸ばせば触れる距離にブルース・ウェインそのひとが立った。
     真正面から見下されると威圧感がある。やはり彼は彫像そのものだ。秀でた彫刻家が丁寧に丹念に石から掘り出した美しい作品、その中で瞳だけは作り物ではなかった。なにかを心配しているように見える瞳の翳りが気になって目が逸らせない。この瞳の中に、いま写っているのはわたしだけ……。
     すい、と彼はわたしの右手を取ると、なんのためらいもなく、少しかがんで自身の首元に押し当てた。
     わたしは阿呆のように目と口を開けて立ち尽くすしかなかった。腰元には銃を帯びているというのに簡単に間合いを詰められ、こともあろうに利き手の自由を奪われることなどあってはならない。いまなら簡単に腰の拳銃を抜かれてしまうことだろう、そのまま自分が撃たれてしまってもおかしくない。手を振りほどいて距離を取るべきだ。頭ではわかっていても身体が言うことをきかない。
     十歳になるかならないかの頃、遠出した先の美術館で大理石でできた彫像を触ったことがある。その男性の彫像は白い絹をまとい、皮膚は真っ白で優しげで弾力に富んでやわらかそうに見えた。石でできているなんて嘘だと思って確かめようとしたのだ。本当は触ると温かくてやわらかいのではないか、と。
     自分の手が届く範囲にあったのは彫像の足だった。甲の上に指を乗せると彫像は硬く指を押し返し、わたしなんかの力では少しもへこまなかった。しかし、その硬さよりも冷たさに、わたしはぞっとしたものを感じた。こんなに優しげでなめらかで温かみを感じるのに、これは石でできているのだ。
     大理石はわたしの指から熱を奪い自身に取り込もうとしているように思えた。わたしは恐ろしさよりも、なにやらいじらしさのようなものを感じ、彫像の足を温めてやりたくなった。
     もちろん、すぐさま係員がやってきてわたしをその場からつまみだした。厳しい叱責による恥ずかしさといたたまれなさを感じながらも、あのなめらかな硬さと冷たさを忘れてはならないというのはわかった。いまもしっかりと記憶に残っている。
     目の前にいる彫像の首は温かかった。わたしの手を押し付けている手のひらも温かい。彫像であるからには彼の皮膚は冷たく、自身の温度を奪うはずだと思っていた。それが勝手な思い込みだと強制的に思い知らされた。
     当たり前だ、彼は人間なのだから。皮膚には毛穴があり、寝不足ならば目の下に隈ができるし、太陽に当たらなければ不健康なほど青白く見える。皮膚の下で心臓が血液を送るのを感じられるしごつごつとした手は意外にも優しくわたしに触れる。
    「ウェインさん、どうされましたか」
     動きを封じられたまま、どぎまぎとして声を上げる。彼はこちらを見たまま首を傾けて考えるようにした。
     次の瞬間、彼は空いているほうの手でわたしの制帽をずらすと前かがみになり、自分の顔をわたしの顔にそっと近づけた。
     キスをされると思った。そういった仄暗い欲が自分の腹の底にあるのには気づいていた。こちらを全く知らない相手に対して持っていていい感情だろうか、と自問することもあった。わたしは自分をどうにか納得させるために、崩れることのない権威や生い立ちへの同情心が、彼を手の届かない孤高のひとであるとしていち信奉者の自分の存在を許すのだと思い込もうとした。
     しかし──
     ブルース・ウェインの額がわたしの額に当たる。息がかかるほどの距離だ。彼は目を伏せてわたしに熱を移す。それを受けてわたしは急速に熱くなる。身体の中心から外に向かって熱が放たれる。わたしは呼吸を止めて彼に失礼のないようにした。いま息をつけば熱風になると思った。
     永遠に思えるほどの時間が経った。彼は身体を起こすと制帽をわたしの頭に乗せ、いまだ首元に当てていた手を解放して言った。
    「熱いな。体調が悪いのか、誰かに任せて帰ったらどうだ」
     やっと息をつき、いえ、と口ごもっていると、下まで降りるのを横着したパートナーがアパートの部屋の窓越しにわたしの名前を呼んだ。振り仰ぐと、彼はこっちに来いというような身振りをした。
    「待て、すぐ行く」
     よく声が裏返らなかったものだ、と自分を誇りに思った。先ほどまで考えがたいほど近くにいた相手はすでに手を伸ばしても触れられない位置にいた。彼はじっとわたしを見つめると、「邪魔をした」とだけ言い残して去っていった。
     背中を見送りながら胸に渦巻いた感情をどう表現すればいいのだろう。
     彼は彫像でもかわいそうな子どもでもなかった。一度しか会ったことのない、警備に参加しただけの普通なら忘れ去ってしまう相手を覚えていてくれて、なおかつ気にかけてくれた。それも、あんなやり方で。
     ブルース・ウェインは温かかった。生きていて優しかった。彼の温もりが残った自分の右手を胸に抱く。
    「おい、マルティネス、さっさと来い!」
     同僚が窓から身を乗り出すようにして怒鳴った。普段なら嫌味の一言二言は口に出しただろう。しかし、いまやわたしはこの場所にたどり着いたときと同じ状態ではない。大人しくアパートの玄関に足を進める。
     ドアを開ける際に彼の去った方向に目を向けた。暗闇は彼の足跡をすっかり消し去りゆったりと広がっている。暗闇の中には恐怖だけではなく、やわらかな温もりもあるのではないかと、闇に溶けてしまった彼の背中を思った。
     胸に当てた手は熱い。この想いを持ち続けていてもいいのだと道の向こうの暗闇が許した気がした。
    narui148 Link Message Mute
    2022/10/20 18:52:22

    温かな彫像

    #マルブル
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