テネSSSまとめ2skip
ニールは同居人が身体を動かしているのを見るのが好きだ。重力や体重を感じさせずに手足を意のままに操る姿はもはやアートだと思っている。屋内で彼がワークアウトを行う場面に居合わせられると嬉しくて、理由を作っては様子の見える場所で作業をした。見るばかりでなく、おまえもどうだと誘われることもあったが、一度首を振ると彼は強く勧めなかった。
自由自在に筋肉を伸ばして縮め、軽々と跳ねたと思えばじっと同じ体勢を維持する。彼はそれらをなんの緊張もなく悠々とやってのけた。魚が水の中で泳ぐのは当然だというように、当たり前にこなしていく。
──ぼくはあんなふうには動けない。
彼みたいに身体を使うことができたらいまより自分を好きになれそうだ、とニールは思う。けれど、自身の肉体を追い詰めるほどストイックになれないのも知っていた。
バイシクルクランチ──仰向けになって両足を地面から上げたままお腹をひねって筋肉を鍛えるキツそうな運動──をさらっと終わらせると彼は立ち上がった。
ソファに座って見ているだけでも気持ちがよく、なぜだかこちらもすっきりしてしまう。ニールが満足して息をつくと、腹に落ちたシャツの裾で汗を拭う彼がちらりと顔を向けた。
──いい加減に運動しないかと催促されるのだろうか、たしかに最近はお腹周りが緩んでいる気はする。
ニールは手元のタブレットに記載された図表や文字に目を落とし、言い訳混じりの視線で追いかけた。
ソファが深く沈み、重量のあるものが身体にぶつかった。
ついさっきまで離れた場所にいた彼がニールの膝の上めがけて飛び込んできたのだ。
「なにしてるんだ」
子どもっぽい仕草に思わず笑って訊く。タブレットが手から滑り落ちて床に落ちるのも構わず、ニールは彼を無事に受け止めた。太腿の上に乗り上げた男は、いたずらが成功したのを喜ぶようにニヤリとする。
「手が空いてるなら相手をしてもらおうか」
ニールは空の両手を挙げて見せた。
「忙しくて参ってるのに邪魔が入るとはね」
彼はくすぐったそうに笑って鼻を擦り寄せてくる。もちろんすぐに受け入れてニールも顔を近づけた。
軽いじゃれ合いだけで心が晴れる。
運動を終えた彼の体温は熱く、しなやかに動く身体は生気にあふれていてとても美しい。ニールは顔に落ちる唇の弾力を感じながらうっとりと男を堪能した。
彼が甘えるように首に手を回してくるのを当たり前に感じる自分はとんでもなく傲慢だ。だが、それを世界中に喧伝したい気持ちもあった。凱旋パレードのように街々の大通りを往来し、恋人がすてきでたまらない! と皆に言ってまわりたくなる。
ニールが含み笑いをするのに気づいた男が顔を離してまじまじとと見つめて訊く。
「なにを笑ってる」
ニヤニヤ笑いを浮かべたままニールは答えた。
「きみって、本当にひとたらしだよね」
彼は眉をぎゅっとひそめて、そうか? と疑わしげにする。
「そうだよ、ぼくは骨抜きにされた。もう二度と立ち上がれないくらいだ」
ああ、と合点がいったように彼は目を細めた。
「それなら、明日のディナーまでここに食べ物を持ってこないとな。なにが食べたい? シロップのたっぷりかかったベーコンのパンケーキか、熱々のチーズを絡めたマカロニチーズか」
「どっちも捨てがたい」
噛みつくように唇を食む。きみが一番おいしそうだと思っているのが伝わればいい。
ニールはソファの上に彼が飛び乗ってきたときのお返しとばかりに唇に吸い付いた。その頭を撫でて積極的に応えながら男はぼやく。
「おまえといると、普通に過ごすだけで立派なことをしているような気になってしまう」
「だってきみは立派だから」
間髪を入れずにニールが応えたのを聞いて彼が照れたように笑った。ニールの胸に大輪の花が咲き乱れる。本心から出た素直な言葉が彼の笑顔を引き出したと思うと居ても立っても居られず、部屋じゅうをスキップでもして駆け回りたくなってくる。
彼が頬にキスをした。
唇は、ニールの体温と同じくらい熱かった。
パーティにて
「つまらないな。ほかに楽しいことをしないか」
周りから注がれるその美貌への賛辞の視線など我関せずといった態度でニールが不満げに言う。
「たとえば?」
聞き返すとすかさず答えた。
「ちゅーしたい」
「ばーか」
どこまで本気なのかわからない真面目な表情に面食らう。こんな会話をしていると思えない怜悧な視線は、整った一揃えの衣装とヘアセットを伴うと迫力があった。金持ちに見せるには大変効果的だが、彼には少々効きすぎる嫌いがあると男は思う。
「なんで、してみようよ」
本気でできると思っているような口調で言うのがどこかおかしい。
「どこにいると思ってる」
「オークションに参加する予定の対象を監視中。周りには怪しいやつがうようよ」
「ならわかるだろう」
ニールは肩をすくめて大仰に嘆いた。
「あーあ、ヤツがぼくかきみを狙いにくれば煙に巻くためにちゅーできるのに」
口元に持っていったグラスが止まる。わけがわからない。
「どんなシチュエーションだ」
ニールはかすかに目を光らせて得意げに言う。
「例えばきみが狙われるとするだろう、それをぼくが華麗に救うわけだ。で、キスしてハッピーエンド」
「くだらないことを考えるな。集中しろ」
「してるよ、きみが狙われたらどうやって助け出そうか考えてるのに」
「そうか、わかった。もしもの際は当てにしよう」
「そうこなくっちゃ。じゃあ練習しようよ、ハッピーエンドのさ」
我が意を得たり、と腰を抱くほどの距離まで近づく相棒を肘で牽制する。
「ニール近い。距離を取れ」
「なんで、いいじゃないか」
「よくない。こら、しっかり立て」
肘を避けて斜めにより掛かるようにじゃれつくのをいなす。彼が退屈していたのは本当だったようだがこうふざけるのも珍しい。たしかに最近キスしていないがそれが原因なのだろうか。任務続きで離れていて再会してすぐここに来たから仕事中だという意識が抜けているのかもしれない。ただ、そう振る舞われるのを喜んでいる自分に気づかないほど男は無自覚でもなかった。触れたいと言われたときから、頭の中にはそうする自分たちの姿が浮かんでいたし、仕事を早く終わらせたくなっていた。
「失礼、なにか問題でも?」
背後から咳払いとともに声をかけられたとき、仕事を忘れたふたりはそろってびくりと肩を震わせた。
「……いえ、すみません。慣れない場所に気が立ったようで」
振り向いた男が小柄な相手を見て平静を取り繕う。ニールも自らの役割を思い出し、背を伸ばして謝った。
「すみません。お恥ずかしい限りです」
ふたりを見て相手の目の色が変わった。愚か者ならつまみ出さねばならないといった怪訝な様子から、このふたりはどういう仕事をしてどういう関係なのかと興味を持つような感触がした。これはニールの負うところが大きい。ひとは彼を見ると魅了されてしまい、関心を持たずにはいられなくなる。自分ももちろんその類に漏れない、と男は静かに噛みしめた。
小柄な相手はふたりに提案した。
「とんでもない。楽しんでいただけているならパーティーを開催した甲斐もあります。ご興味があればオークション会場にもいらしてください」
「ありがたいお言葉ですが、わたしたちはチケットを受け取っておりません」
そもそもあなたは主催者ではないのでは? と男は不思議に思いながら答えた。
「それは申し訳ないことをしました。あの部屋に入る際にはこのスカーフを身につけてください。では、よい日を」
あっさりとふたりに緑色のスカーフを手渡し、何事でもないと言うように去っていく。参加者は事前に厳しく審査され、選びぬかれた者のみが中に入れるという触れ込みだったはずだ。標的が参加するという情報だけで潜入したが、近づく目処などたたなかったというのに。
「……どうしても中には入れないって話じゃなかったっけ」
ニールがスカーフをいじりながらつぶやく。
「……おれも知らなかった」
「無知は武器?」
「どちらかというと、おれはおまえを拒めないってだけだろうな」
はっとしたようにニールが目を開いた。
「やっぱりぼくらちゅーするべきじゃない?」
「ばーか」
キスの日
三週間ぶりに会った上司は眠そうだった。身体が空き次第知らせてほしいという希望を聞き届けもらい、部屋に呼びつけられたのが嬉しくて寝かせてやれない申し訳なさよりも相手をしてほしい気持ちが勝った。近況を報告し合い、勢い込んで話し通した。ひとしきり笑い合って話題が一区切りつくと彼は額に手をかざしてそっと目を閉じた。それをいいことに口元についたスナック菓子の欠片をじっと見つめた。いま、あの唇はどんな味だろうか。たしかめてみたくなって隣に座る相手に顔を寄せた。
上司はひとの気配を感じて目を開くと、ぼくに気づいて驚いたように身体を引く。その動きに構わずまっしぐらに唇を目指した。
「なにしてる」
両手で首と胸を押しやって上司が言う。
「お菓子がついてる。取ってあげようと思って」
ここ、と言うように自分の口元を指さした。彼が眉をひそめて唇を払うと欠片はソファの上に飛んでいった。場をつくろうようにひとつ咳をしてから彼が言う。
「口で言えばいいだろう」
「キスがしたいって言ったらさせてくれる?」
押しやるように胸に当てられた手を握って繰り返す。
「きみとキスがしたいな」
にこりと笑って近づくと、彼は身体を後ろに引いた。
「ぼくとしたくないならそう言って。いまのことは忘れるから」
「おれじゃなくておまえが忘れるのか」
呆れたような物言いに、そうだよ、とつぶやきながら覆いかぶさる。彼は逃げないし胸を押さえる手に力は入らない。明確な拒絶がないのをいいことに真上から見下ろした。
「なんでなにも言わないんだ」
彼は目を細めて観察するようにじっとこちらを見つめた。
彼はぼくとキスをする気はないけれど、じゃれつくのを強くたしなめる気もない。自分の部下が一線を越えないと信じているのだ。
片想いは楽しいけれどつらい。
恋心は宙に浮いてゆらゆらと揺れていた。それとなく気持ちを伝えているし、伝わっているはずなのに手応えがない。距離を詰めようとして近づくと彼は後ろに引き下がる。そのまま背を向けるかと思いきやこちらから目を離さない。期待して別のアプローチを試すと躱すくせに視線は離れない、この繰り返しだ。
遊ばれているのかと疑いもした。上司の振る舞いを真に受けてうろたえる姿が滑稽で、ある種の見世物になっているのではないのかと。
結局、それは違うと思うに至った。彼がこちらを見る視線はどんなときもまっすぐだと気づいたからだ。だからぼくも一方的に好きでいることにした。ぼくを甘やかして、大切にして、好きに振る舞わせるのに一向に手を出してこない上司にどこまで近づくのを許されるのか、自分の身体を使って推し量ろうとしている。
大きくため息をついて力を抜き、彼に体重をかけた。首筋に顔を寄せるとほとんど抱きしめているような格好になる。
「ニール、重い」
耳元で彼が名前を呼ぶ。
仕事で離れていたのは三週間足らずだ。いままでも離れたことはあったのに、今回、ぼくはなぜか不安を感じていた。声が聞きたかった。抱きしめたら抱きしめ返してほしかった。それから、キスだってしたかった。
「このままぼくに潰されてしまえ」
低い声でつぶやく。自分がなにに怒っているのかわからなくて余計に苛ついた。
彼の胸が動いて平坦な声が言った。
「やめておけ、おれなんか」
──おれなんか?
心のどこかでスイッチが押された。最初に感じたのは反感で、すぐに苛立ちが胸に広がった。そもそもは自分自身に怒っていたのに、そのすべてを彼への怒りに置き換えた。身を乗り出して男の顎をつかむ。
「ぼくの好きなひとを卑下するな」
ほとんど無理矢理に口をふさいだ。普段にない振る舞いに驚いたのか、彼は少しも動かない。
頭が真っ白だ。目を開いたまま唇に食らいつく。キスの味がわかるかと思ったけれどよくわからなかった。首を傾けて厚い唇にかぶりついたら、なんだかもう全部どうでもいいような投げやりな気持ちになった。キスに応えてくれない相手も、横暴な自分も、もう、どうでもいい。
せっかくのキスが嬉しくない。互いをひどく罰しているように思えた。
上司は組み敷かれたまま、目を細めてぼくを見上げた。ぼくは頬を両手で挟み、熱心に唇を食みながら冷めて見える視線を受け止める。なにか言おうとしたのか息を継ぐ合間に相手が口を開いた。声を出す前に舌を差し入れて口をふさぐ。そこでようやく彼は肩をつかんで引き剥がそうとした。
簡単に引き剥がされまいとして力を込めてしがみつく。でも、自分が込めた以上の強い力で胸を押し上げられた。仕方なく、拘束するように絡めた手足から力を抜いた。
浅い息をつきながら自分の唇を舐める。覆いかぶさったまま、彼がなにを言うのか待った。
「……楽しいか」
吐き捨てるように言われて腹の底がぞくりと震えた。けれど、その声に反して、彼の様子には苛立ちも怒りも見当たらず、当惑すらもないように見えた。ただ、緊張したように口を引き結んでいる。
これはどういうことなのだろう。最初にキスをしようとして近づいたときのほうがよほど驚いていた気がする。
「きみはどう思った?」
間近で観察すればその答えがわかるかと、息がかかるほどの距離でじっと見つめる。彼はぼくから目を離さずに言った。
「こういうことは、無理矢理にするべきじゃない」
噛んで含めるような言い方に、忘れかけていた反感が舞い戻ってくる。
「何度も聞いたろ、キスしたいって。本心だと思わなかったのか」
「だとしても、無理強いするのか」
ぼくは口をつぐんだ。嫌がる素振りを見せなかったからといってなにをしていいわけでもない。確認しようとしただけでは免罪符にならないのもよくわかっている。それでも、どうしても──
「だって、止まらないんだ……」
ごめん、とつぶやいて身体を起こす。見ないようにして避けていた一線を踏み越えたのだからぼくたちの関係は変わるだろう。キスをしても冗談だと言ってごまかせば、いままで通り見なかった振りで笑いかけてくれただろうか。
でも、はっきりしない関係のまま、また何週間も離ればなれになって、万一彼の身になにかあったら後悔するのは目に見えている。会えなくなるまでに一度くらいキスがしたかった。ぼくを大切にしてくれるように、彼自身を大事にしてほしかった。だからといって、やり方がふさわしくなかったのは彼の言う通りだ。
「嫌な予感がしたんだ。二度と会えなくなるんじゃないかと思った」
「帰ってきただろう」
怒りを含んだ声音ではなかったのに助けられて目を向ける。身体を起こした上司は足を組み、ソファに深く腰掛けて簡単に押し倒されないように防御するかのようだった。
自分の手のひらに顔を埋めて、この場を取り繕うためにどんな逃げ道があるのか探す。少しだけ触れた口内の粘膜の感触が蘇り、いまになって耳が熱くなった。意図せずとも簡単に思考は彼に引き戻されるのだから逃げ道などに意味はない。
顔を上げると、彼は黙ってぼくの言葉を待っていた。どう言い訳しても結局はそこに行き着く結論を絞り出した。
「ぼくをきみの特別にして」
力強く抱きしめられて、ぼくは悟った。
きっと、もうキスする機会は訪れない。あくまでも、ぼくは家族や兄弟と近い存在で、恋人にするには不足があるのだ。
耳元で「おまえは特別だ」とささやく声がする。嘘だと糾弾したいのに、勝手に口が「本当に?」と動く。
「キスしてくれたら信じてあげる」
そう言われると予測していたかのように、彼は余裕を持ってぼくの頬にキスをした。ぼくもお返しに彼の頬にキスをする。ぼくは満足した笑顔を見せて彼を安心させ、明日からも昨日までと同じ関係が続くのだと信じさせる。無理に迫ったことは帳消しにならないけれど、まやかしを信じる振りをする共犯者にはなれた。昨日までのどっちつかずの宙ぶらりんからは一歩前進だ。
友だち同士でどれくらい親密になれるものだろうか。恋人になれないとわかると自分の欲求も浮き彫りになる。どれだけ時間がかかっても、彼がぼくを求めてやまないくらい魅力的になってやろうじゃないかと好戦的な気持ちになった。
──待ってろよ、絶対に振り向かせてやる。
決意を新たにしたぼくは、友人にするような気安さで彼の背に腕を回した。彼はほっとしたように息を吐いた。
傷跡
夢我夢中で動いていたから傷に気づいたのは相手と距離を取ったあとだった。それまでに使っていた重さだけは本物と変わらないおもちゃのナイフではなく、アウトドアにも使うような小ぶりのフォールディングナイフを使用した実戦訓練をしていた。傷つくよりも傷をつけるほうが不安で初めは動けなかったけれど、相手は本気でぼくを切りつけようと、いや、殺そうとして見えた。
普段はユーモアのあるやさしい上司が今回ばかりは敵となる。本気で切りつけてきて命を奪おうとする厄介な相手。ドタバタとした格好のつかない切りつけ合いが唐突に終わり、よく生きていたと肩で息をしている最中に、目の前の相手から表情が消えるのをぼくは見た。
まさかこのナイフが彼の肌を傷つけたのだろうか、慌てて左手に目を落としたが至ってきれいな状態で誰の血もついていない。そのとき、自分の右手が濡れているのに気づいた。手のひらから指先に雫が流れ落ちていて、体温と同じ温度だから感じ取りにくいんだなとなんとなく納得した。
「……ニール」
名前を呼ばれて振り仰ぐと、さっきまで殺気をみなぎらせてぼくを殺そうとしていた相手が失神でもしそうなくらい目に見えて怯えていた。もしかして、血が苦手なのかと少しおかしくなる。ひとを殺すなら血は出るものだ、傷つける覚悟もなくナイフを握るなと言ったそばから自分が怯えるなんて滑稽にもほどがあるじゃないか。
「ぼくの負けだね」
ホールドアップのように軽く両手を上げると薄い痛みが走った。肘下の内側、濃紺のシャツが裂けている。赤い色は袖より下の手首に至るまで見えないが、痛みからして傷口は深くなさそうだしすぐ塞がるだろう。深い傷ならこうしてゆっくりと検分すらできないはずだ。
にも関わらず、上司は息を呑んで立ち尽くしていた。骨が浮き出るほど強く握ったナイフからぼくの血が滴り落ちるのが見えて、意外と傷は深いのかもしれないと思い直す間もずっと彼は言葉もなくそこにいた。
そこでようやく、自分が相手の心を傷つけたのかもしれないと思い至った。
きっと、彼がいままで仕込んできただれもがこうした実戦訓練の際に自らを傷つけるような真似はしなかったのだろう。うまく避けたしうまく攻めた。だが、ぼくは軍歴もない駆け出しの素人そのもの、武器の扱いは危うくて自分の身を守れもしない。一対一で仕込んだ相手の不甲斐なさにショックを受けたに違いない。
「これからの伸びしろに期待……とは思えないかな?」
腕から血を滴らせながらおどけたところでなんの説得力もない。血が垂れるのが嫌で右手を握るとぬるぬるして不快だった。力を入れてこぶしを作るとぼたりと血が落ちた。さっさと止まれと腕に目を落とす。
その腕を、近づいた上司が掲げるように持ち上げた。
彼は淡々と濡れた袖をめくりあげて傷口を確認した。十センチにも満たない切り傷は見た目ほどひどくない。
「ヘマをして悪かった」
彼は謝罪を無視して有無を言わさぬ眼力でぼくを睨みつけ、視線の圧力だけでその場に座らせた。そして部屋の端に置いてある救急キットを取りに行き、走り出すまいとするように大きな歩幅で戻ってきた。
「腕を」
短く命じられるのに従うと彼はタオルで血を丁寧に拭い、ガーゼを取り出して患部にぎゅっと押し当てた。
「縫わないといけないだろうな」
「名誉の勲章、なんて」
笑いかけてみても彼は顔も見てくれない。ただ腕を強く圧迫し、止血するのに注力している。右腕は彼の両手に挟まれて真っ平らになるようで、こんなふうに注意が自分の腕だけに向けられるのなら傷を負うのも悪くないと思ってしまう。だが、その表情ときたらどうだ、ガーゼやタオルに滲む血の中に悪鬼が見えるかのように忌々しげだ。
彼の手を見てはっとした。素手で他人の血液に触れるのはご法度で、できるだけ避けなければならないなんていまさら言うまでもないだろうに彼の手はグローブなしの素手だった。
「痛くない。本当だ。今度からもっと気をつけるからもう離していい」
握ったままだったナイフを離して左手を添えるものの、彼は腕から手を離さない。むしろ、しがみつくように身体を丸めて抱え直した。まるで、ぼくの腕が彼にとって大切でたまらないものであるかのようにぎゅっと抱きしめる。
拭き取りきれなかった血の付いた手のひらが彼の顔のすぐそばに力なくあった。圧迫されて動かしにくいなか、比較的きれいな小指で顔を触る。
彼がこちらを見た。
目の中に、馬鹿みたいに呆然としたぼくが見えた。
「すまない」
彼はそう言ったけれど、決してぼくを見てはいなかった。ぼくの後ろに見えているらしいなにかに向かって謝ったのだ。でも、ここにいるのはぼくだけだから彼の謝罪を自分だけのものにした。
「もう大丈夫だ。嘘じゃない」
小さくつぶやくと、彼はふっと息をついた。それから下から掬い上げるようにして顔を覗き込んで申し渡した。
「一から仕切り直しだな。明日からはいままでより厳しく指導するから、そのつもりで」
「げえ」
腕を圧迫する力が弱まり、完全に離される。彼は肩を軽く叩いてぼくを医務室へと促した。
廊下に出ると腕の痛みよりも彼の手の圧迫がなくなった喪失感で胸がいっぱいになった。なぜだか、医者に傷口を見せることすらおっくうになる。縫合などしなければ傷口はずっと形を保ったまま自分の身体に残るのではないか。そうすれば、彼はきっとぼくの腕を見るたびにさっきと同じようにほかには見せない傷ついた顔をしてくれる。
ガーゼを剥がして彼とぼくとのつながりを見る。傷の端に寄せた唇は笑っていた。