それからのはじまり―after that― ニールは飽いていた。身体は自由に動かず、絶えず重だるい。鈍い痛みを持った頭部は傷ついたことを主張する。耳を捉えるのは、ベッドサイドのモニターから聞こえる心拍数を数える無機質な音と、静かに駆動する空調の音だけ。船内にはひとの気配がなかった。部屋の外から足音や会話は少しも聞こえない。左腕に点滴の針が刺さっていて、パックから定期的に薬剤が落ちている。その向こうには窓があり、厚い雲が移動しているのが包帯の影から見えた。
目覚めてから三ヶ月がすぎていた。拳銃で頭を撃たれ、重傷を負ったのだと説明を受けた。どうしてそんな事態に陥ったのかは教えてもらえなかったが、いまは声が出せるようになり、身体を動かすのも目覚めたときよりは難しくない。口からものも食べられる。毎日のようにめまいが起きるのには辟易するが、頭を撃たれたにしては回復が早いと言えるだろう。
そろそろ世話係が来る時間だ。毎日決まった時間にやってくる。いつものようにへらへらと笑ってニールを苛立たせるのだろう。このところ、ニールは世話係と距離を置くようにしていた。といっても、一日に一度ある医師の診察時以外にニールのもとを訪れるのは世話係しかいないので、思うようにはいかなかったのだが。
彼が自分に見せる態度のおかしさにニールは気づいていた。どこか行動がちぐはぐなのだ。世話をしてくれることに感謝して笑みを向けると悲しげに眉尻を下げ、思い通りに動かない身体への苛立ちをぶつけると優しく微笑む。ニールの希望をすべて叶えようとしたかと思えば、ある注文に対しては、ひるがえって頑なにはねつける。思えば、この態度は初めて出会ったときから変わらなかった。
ニールにとって世話係が、ボタンを押せば呼び出せる単なる命綱でしかなかったあのころ。彼と初めて出会ったときのことが頭に浮かんだ。
「今日からおれが君の世話をする。なにか希望があれば遠慮なく言ってくれ」
そのひとはジェイと名乗った。意識してまぶたをようやく開いたときに目の前にいた。自己紹介を受けたあと、とぎれとぎれの記憶のなかに彼の気配が絶えずあった。
目の裏がチカチカと白くなり引きつけを起こしたときも、いたいいたい、と声にならない声を上げてうめいていたときも、世話係はそばにいて対処していたようだった。
しばらくして意味のある音を出せるようになり、意思の疎通が前より楽にできるようになった。ジェイという名前を呼ぶときには、エイ、としか発声できなかったけれど。呼べば必ずニールの右側に身体を正対させて顔を覗き込んできた。そもそも彼はニールの発する音には敏感で、少しでもモニターのアラームが鳴れば部屋のなかにいようがいまいがすぐに飛んでくるのだった。
足元側にあるドアの開く音で意識が現実に引き戻された。世話係は時間通りにやって来た。機嫌よく微笑んで、電灯のスイッチを入れる。
「やあ、気分はどうだ」
これも毎日の決まったセリフだ。
「急な螺旋階段を、一気に降りているみたいだ」
ひとことひとことの発声を確実にするように気をつけて不機嫌に伝えた。ジェイは、ほとんど睨みつけているようなニールの瞳の動きを確認し、必要な薬を用意する。
「つらいなら、おれが来るまで待たずに呼べばいい」
「必要なら」
あとにつづく言葉を省略して目を閉じる。ジェイは点滴に薬剤を入れてから、眉をひそめてめまいをこらえる患者の様子を伺っているようだった。ニールはその気配を察して口を開く。
「のどが渇いた」
水差しからコップに水を注ぐ音がする。飲みやすいように身体を横向きに支えてもらい、ストローに口をつけた。やはり動くとめまいが強くなる。飲み終えると、息を深く吐いて身体をマットレスに沈めた。
「今日は外に出るのをやめておくか?」
顔の近くに静かに声がかかる。
「絶対に、今日、出る」
目をぎゅっとつぶって声をほうった。
そうか、とジェイはニールの顔にかかった髪に手を伸ばす。指が近づくのを感じてニールは頭を振って拒絶した。余計に目がまわってしまう。
世話係の指が離れたあたりからは外気の匂いがした。消毒液やグローブから香る人工的な強い匂いではなく、透きとおった自然の匂いだ。
「薬を入れたから、しばらくしたらましになるだろう。調子が良かったら外に出るための説明をする。無理はするなよ」
そう言って彼は部屋から出ていった。澄んだ香りが強くなる。新鮮な空気が逃げてしまう前に、ニールは鼻から息を吸い込んだ。そのまましばらく息を止めた。目覚めてからずっと閉じ込められているこの部屋の外を少しでも感じ取りたかったのだ。
この病室は船のなかにあった。揺れはほとんど感じないからずいぶんと大きいのだろう。船がカモメを追い越していくのが窓の外に見える。もしかしたら、この船はかなりの速さで洋上を進んでいるのかもしれない。いつだって飛ぶ鳥を追い越しているのだから。
そばにいなければいないで、さっきの態度は感じが悪かっただろうか、と内省してしまう。ほかのことに意識を向けようとしても世話係のことが気にかかった。ただの世話係にしては自分に対して思い入れがあるように感じるのは気のせいだろうか。ジェイという人間に違和感を抱きはじめたときのことが胸によぎる。あれはたしか、意識を回復させてから、少なくともひと月がたった頃のことだった。
「ここには、ぼくだけが入院してる?」
カモメが船に追い越されているのを窓の外に見ながら、ニールは背中をぬぐっているジェイに問いかけた。
その日はいつもより身体の調子が良かった。話せるようになってからは、できるだけ話すようにと医者に指示されていた。ろれつがまわらないなりに会話を試みる。
ほとんど寝たきりと言っていい状態だったので、ジェイが定期的にニールの身体をぬぐって清潔にしていた。意識のないときからそうしていたらしく、手際が良かった。
「いや、ほかにも患者はいるよ」
なぜか少し言い淀んでジェイは答えた。
「みんな撃たれた?」
ニールの背中を往来していたタオルの動きが止まる。
「撃たれた者もいる」
タオルにぬるま湯を含ませて、水を切る音がする。
「みんな無事なのか」
「他人のことは気にしなくていい。自分が良くなることだけを考えなさい」
歯切れの悪い言い方だった。頭をできるだけ動かさないようにして、ニールは声の主を振り仰いだ。一介の世話係は泣きそうな顔をしていた。自分が怪我をした当人であるかのように落ち込んで見えた。励ましてやらないと、と感じさせるほどに。
「そんなに悪いことでもない。君が全部の世話をしてくれてるし」
楽ができる、とうそぶくと、世話係はなお一層傷ついた様子を見せた。次の瞬間にはニールから目を離し、表情をしまって仕事をつづけた。
ニールはジェイの悲しげな瞳に見覚えがあった。はっきりとは思い出せないけれど、そんな気がした。きっとその記憶は、いまでは締め出されている場所にあるのだろう。
記憶の宮殿と呼ばれるものをニールは持っていた。図書館や保管庫などを模した、独自の記憶の保存場所である。ニールにとっての宮殿は博物館の形をとっていた。記憶は立体や絵画などの作品として展示されている。ただ、いまは入ることのできない区画があった。入口がどこにあるのかもわからない。
いまのニールが持つ一番新しい記憶は大学生時代のものだった。それは額に入った絵として記憶の宮殿に飾られている。赤いレンガで作られた立派な学舎の絵だ。自分は学生で、その学校に通っていたはずだった。それなのに、気がつけばベッドの上に縛り付けられている。入口がわかればなくしたものを思い出せるのかもしれない。だが、あることさえわからないものをどうやって見つけろというのか。
「ぼくって、兵士だったの?」
顔を元の位置に戻し、先ほどの表情の変化には気づかなかったふりをして質問を重ねる。入口を見つける糸口になるかもしれない。
「そう、聞いている」
「信じられない。兵士になるだなんて、考えてもいなかったのに」
案の定撃たれているし、向いていなかったに違いない。枕に押し付けた口元が笑みの形にゆがむ。
(ぼくはどうして、兵士なんかを志したのだろう。なぜ、このひとはあんなに悲しい顔をしたんだ)
「あなたは、ずっと看護師をしているの?」
いや、と否定する声につづく言葉はなかった。では、それまでになにをしていたのか。わき上がった質問を口にせずに目を閉じる。会話をするのは、思った以上に疲れるのだった。
知らぬ間に寝入っていたらしい。窓の外には変わらず厚い雲が立ち込めているものの、先ほどより空が明るくなっているのが目に入った。左右に瞳を動かしても世界は回らない。薬が効いたようで、体調は良くなっている。これなら外に出られるだろう。
これまでに、何度か車椅子に乗る練習はしていた。なんといっても、半身がうまく動かせないのでバランスを取るのが難しかった。車椅子に乗れるようになったら、すぐにでも部屋の外に出たいとニールは思っていたが、なかなか許可がおりなかった。世話係に反発心を抱く理由のひとつでもある。なにかと理由をつけて、船の上に出ることを許さないのだ。
もう昼食の時間に近い。出されたものをすべて食べ終えれば、世話係は否が応でも許可せざるを得ないだろう。そう考えていると、扉が開き世話係が顔を見せた。車椅子を押している。できるだけ相手に見せないようにしていた笑みが自分の口元に浮かぶのを感じた。世話係がニールに目を向けたときには、口を一文字に引き締めて目を細め、しかつめらしい表情を装った。
「体調はどうだ」
ニールの右側に身を寄せて、点滴の減りやモニターを見ながら問いかける。
「外に行ける」
ニールはしっかりと目を見て伝えた。世話係は軽くうなずく。
「いまから行こうか、それとも昼食をとってからにするか?」
「いま、行く」
そうか、と小さくつぶやいて世話係は外に出る準備をした。
車椅子に乗り込むのも慣れてきていた。右足をたたんでもらって、上半身をしっかりと背もたれにつける。ひんやりとした分厚いブランケットで身体をつつまれた。少し緊張する。背中を押されて外に出ていくのかと思っていると、世話係が膝をついてニールの顔を真正面から覗き込んだ。
「ニール、いままで伝えていなかったことがある。おれたちは時間の流れにあらがっている」
あらたまってなにを言うのかと思えば要を得ない言葉で、ニールはぽかんとした。詩的な表現というやつだろうか。それにしては、世話係の顔つきは真剣そのもので、瞳はしっかりとニールを捉えたままだ。
「君は、兵士のひとりとして時間を逆向きに進んでいたときに負傷した。治療をするためにおれたちは時間をさかのぼったまま過ごしている。わかるか」
思わずニールは、ふ、と笑ってしまった。世話係が真面目になにかを伝えようとしているのはわかった。ただ、その内容を理解することはできなかった。
「なにを言っているんだ」
世話係はゆるく眉を下げて足元を見つめる。顔を上げるとはっきりと告げた。
「外に出ればわかる」
病室の扉を開けると、もうひとつ部屋があった。ひんやりとしていて、外の匂いが感じ取れる。世話係がニールのいる病室から出るときに、いつもまとっている空気だった。
薬剤や担架が並べられている以外はがらんとした部屋だった。倉庫のような場所だろうか。小さな窓のついた扉の前に、透明なビニールシートが垂れ下がっている。扉の手前には酸素マスクと酸素ボンベらしきものが並んでいた。
世話係はニールに酸素マスクを手渡し、つけるようにと言い渡した。
「は? なんで。外の空気をすいたい」
「おれたちは部屋の外では呼吸ができないんだ」
彼は当たり前のようにニールに告げ、自分にマスクをつけて外に出る準備をする。ニールは不本意ながらも、扉の向こう側への好奇心に負けてつけることを了承した。
外気に触れて伸びた髪が風をはらむ。思った以上に身体が冷えた。点滴と酸素ボンベにつながれて身動きがしにくい。車椅子の背を押されながら目にまぶしい真っ黄色な廊下を進むと広い甲板に出た。
なにかがおかしかった。頭に巻かれた包帯が邪魔をして違和感の元を見つけられないのだろうか。曇天を見上げると、雁がいるのが見えた。雁の群れはVの字になって風にさらわれている。飛んでいるというより、飛ばされているようだった。力いっぱいの風で後ろ向きに押し流されているように見えた。
「あれ、どうなっているの」
首を傾けられるだけ傾けて、頭上を精いっぱい見上げて問いかける。鳥の飛ばされた方向に身体を正対させてもらいながら、じっと見つめた。
後ろ向きに飛んでいるのだ。
思わず左手をジェイに向かって伸ばした。すぐに手のひらを握られる。温かい手だった。感覚は本物だ。ごくりとつばを飲み込み、先ほどの言葉を反芻する。時間をさかのぼっている──
雁の戻っていった方向に目を奪われていると、一度ぎゅっと手を握りしめられてから膝の上にほとりとおかれた。ジェイは甲板のすみにおかれていた、からのガラスのコップを持ち上げるとニールに握らせた。首をかしげながら持つと、ジェイはガラスコップに手を添えて、車輪の外に中身をこぼすように飲み口を下に向けた。そのままゆっくりと傾きを垂直に戻す。すると、地面にあった水たまりから水がするするとコップのなかにおさまった。水に意志があり、生きているかのようだった。
ジェイが一緒につかんでいなければ、コップを取り落したところだ。自分の手のなかで起きた事実に圧倒された。手のひらが冷たくなるのはガラスの内側で揺れる水のせいだけではなかった。
「もうしばらくしたら、このコップをおいたおれが現れる」
ジェイの言葉に、ニールは目をまたたかせた。
「あなた、何者なんだ。ただの世話係じゃないよな」
ニールの質問に答えず彼は言葉をつづける。
「コップの中身をもう一度こぼしておいてくれ。そうしたら、一度なかに入っておれが来るのを待とう」
ニールは重いため息を吐き、左手を傾けて水を甲板に散らばらせた。世話係はコップを受け取り元の場所に戻す。
ニールの身体は冷え切っていた。思った以上に事態は深刻に見えた。予想もしない状況に巻き込まれていたらしい。船内に戻り酸素マスクを外してもらうと消毒液や苦い薬剤の匂いが鼻についた。外の匂いを感じとれない。かぶせられていたブランケットに鼻を近づけてもなにも感じなかった。
無性に、外の空気をすいたくなった。すがすがしい香りを胸いっぱいにすい込んで、甲板ではねる潮の飛沫を感じたかった。
「大丈夫か」
顔をしかめるニールを見て世話係が尋ねる。ニールは口をつぐんで顔をそらした。こちらが聞いても答えないのに、質問ばかりしてくる相手に嫌気が差していた。
口が渇き、手に汗をかいている。心臓の拍動がうるさい。驚いたし、不安になってもいる。肩を緊張でこわばらせていると、背後でガサガサとなにかをしている音がした。しばらくすると、ニールの前に膝をついた世話係が、すい、とコップを差し出した。水ではなく、リンゴジュースが入っている。
ニールは前に一度、飲みたいと伝えていた。そのときは、ここにはないから用意はできないと言われたのだ。いまこの瞬間に機嫌を取るためにこれまで渡さなかったのかと、ふと思った。差し出した手の持ち主に目を向けると、肩を落として深く息を吐き、ニールの手元を見ていた。
「ジェイ、ちゃんと説明してくれるんだろう」
世話係と視線が交差する。
「必ず説明する」
いっそ必死と言ってもいいくらいだった。ニールが彼を見ている熱量とは、はっきりと違っていた。勢いに気圧されたニールは素直に用意されたストローに口をつけた。
不信感が消えたわけではなかったが、少し猶予を与えてやってもいい気がした。のどが渇いていたのも事実ではあったし。
飲み終わる頃に、ジェイが扉の向こうを見るように促した。顔を上げると、窓の向こうを世話係がマスクもつけずに歩いていった。右から左へ、後ろ向きに歩いていく。息を呑んで隣にいる人物に目を向ける。彼はまっすぐに前を見たままだ。しばらくすると、窓の向こうを今度は左側から右方向へ世話係は後ろ向きに歩き去っていった。見えなくなる間際にニールと目が合った。まさしく自分の隣にいるはずの人間が目の前を往復したのだ。
「いまのは、どういうこと」
「なかに入って話そう」
ジェイは有無を言わさず、病室に向けて車椅子を押し歩く。ニールはされるがままに従った。もとより、自力では歩くことさえできないのだ。
なにもかもが自由にならなかった。自分の身体も、記憶も、こころも。
それまで考えないようにしてきた無力感に、にわかにさいなまれる。このうえ、天地がひっくり返るようなことを解説されるというのか。
ベッドの上に腰かけられるようにと、ジェイは枕とクッションを並べて背もたれを作った。点滴はつけなおしたが、センサーは外したままでいられた。心拍数が上がるのをいちいち知られたくはなかったので助かった。
彼が言うことには、この船には時間を逆行、及びそこからもとに戻ることのできる「装置」があるのだという。窓の外を歩いていたのは、こちら側から見れば少し前の時間のジェイで、本来の時間軸からすれば未来の彼だった。
水が勝手にコップに戻ったのも、ふたりが時間を逆向きに進んでいるからそう見えただけのことらしい。
乗船しているほかの患者たちも基本的には逆行して治療を受けているとのことだった。なかでも一番の重傷者が自分なのだと教えられた。体調が安定するまでは、この部屋から出さずに気づかせないようにしていたのだという。
「ぼくたちは、世界からはじき出された……」
物理法則から離れたところで過ごしていたとは。夜となく昼となく眠りつづけていたときはともかく、最近は目を覚ましている時間のほうが増えていた。なにか気づくことができたのではないか、とニールは歯噛みした。思い起こせば、ジェイが部屋に入るときではなく、出ていくときにいつも外の匂いを感じていた。時間に逆らっていたからだったのか。
それと同時に、彼の態度がおかしかった理由のひとつに合点がいった。ニールが外に出たがっても渋っていたのは、これが理由だったのだ。
もうひとつの違和感は──
ニールが黙ってしまうと、ジェイは「質問はないか」と問いかけた。
ちらりと表情をうかがう。言えなかったことが言えて、胸は軽くなったのだろうか。表情は晴れてはいないようだ。まだ、なにか心配事が? ああ、いやだ。自分のことだけを考えられたらいいのに。
「夢のこと、覚えてる?」
ぽつりと、シーツに向かって声を落とす。
一週間ほど前だった。ニールは悪夢に近い夢をみた。とてもリアルで真に迫っており、起きたときにはドクドクと心臓が脈打ち、汗が全身をぐっしょりと覆っていた。目覚めた場所が真っ暗闇に感じられ、一瞬どこなのかわからないほどだった。様子がおかしいことに、はやばやと気づいたジェイは、そのときもすぐにニールのもとに飛んできた。汗にまみれながら空気を求めてあえぐニールのかたわらに進み、手早く機器を観察した。数値的な異常はみられなかったため、少しほっとしたようだった。
「どうした、どこか痛むか」
髪をよけて額に手を当て、汗をかいているのに気づき、タオルを用意する。その様子を見るうちに、ニールも少しずつ落ち着きを取り戻した。
部屋は明かりを落としたままだった。彼が部屋に入ったとき、照明のスイッチに手を伸ばす時間も惜しいとばかりにニールのもとに駆け寄った。病人になんらかの変化があったときはいつもそうだった。もしかしたら、明かりをつけた先に、息をしていない身体が横たわっているのを直視したくないからかな、とニールは考えていた。自分ならいやだろうから。
寝間着は汗みずくになっていたので身体を軽くぬぐってもらい、着替えさせてもらった。
作業を終えて落ち着くと、ただの夢で取り乱したことが少し恥ずかしくなった。体調がおかしくなったと思って、彼は夜中に来てくれたというのに。
「……夢を、みたんだ」
ニールが天井に向かって口を開くと、ジェイはベッドのかたわらの椅子に腰かけて先をうながした。
「あなたはスーツを着ていた。ふたりで、部屋の鍵を開けようとしていた」
ニールはとても気が急いていた。早く早く、とあせっていた。その感情は、手に取って形がわかるほどに切迫していて、下腹部にいやな痛みを感じたほどだった。
「あなた、鍵を開けられなくて、すごく驚いた顔をしてた。思わず、笑っちゃうくらいの」
心臓の音が聞こえるほどにあせっていたはずだった。けれど、もしかしたら寝ていたニールは笑みを浮かべていたかもしれない。夢のなかでは、なぜだか、相手にいとおしさを募らせていた。
どうしてもこのひとを守ってやらないと、と考えていた。自分にはそれができるのだと。自分だけがそうできるのだと、強い確信があった。どうしてそんなふうに思ったのか、理由はわからない。
「ドアを開けたら、また、ドアがあった」
そのドアを開くと、みたび、ドアがつづいた。閉じたドアの鍵を開けることを繰り返した。
「最後は、暗くて狭い部屋だった。なかに入ると、急に大きな音がして、真っ暗になって、あなたもいなくなった」
ひとりきりで暗闇に閉じ込められた。扉がないから鍵を開けられなかった。声をからして彼の名前を呼んだ。どうか、役に立たせてくれ、と。
ひやりとした月明かりが部屋のなかにさしていた。彼はまばたきをせずに、シーツの上の一点を見て口を引き結んでいる。
「そこで、目が覚めた」
うつむいていた瞳が揺れながらニールを捉えた。目覚めてから何度となく向けられた、感傷じみた悲しげな表情とは少し違った。押し黙ったまま、じっと見つめられる。ジェイは、一度口を開きかけて思い直したようにつぐみ、ふたたび開いた。
「ただの夢だ。安心して眠りなさい」
まるで自分に言い聞かせているかのようだった。両手でひざを強く握って、溜息をつくのをこらえているようだった。ニールのみた夢の内容が原因だろうか。
部屋から出ていくときにこぶしを強く握りしめているのが見えた。あまり強く握らないでほしい、とニールは声に出しそうになった。傷がついてしまうから、と。
「このあいだ、ぼくが、うなされたときのこと」
覚えているかを確認するまでもなく、ジェイは記憶しているに違いなかった。一週間前と同じ表情をしていた。悲しげで、後悔をしているような、罪の意識にさいなまれているようでいて、そんな自分自身をかわいそうだと思っている表情だ。
ニールはその顔を疎ましいと思った。同時に、同じくらい気の毒に感じた。
自分と立場は違うものの、ジェイも不自由なのだと気づいた。このひとはとらわれている。ニールのなかにはないものに。過去にあったなんらかの記憶に。
ニールは唇を湿らせて、ずっと気にしていたことを伝えた。
「あなた、ぼくを知っているんだろう」
ゆるりと、陰った瞳がニールを捉えた。
「どうしてそう思う?」
「同情しないから」
ひとことだけで返した。澱のようにつもった違和感をひとつずつ口にしろと言われたら、できなくはないが時間がかかる。それに、先ほどわかったことだが、一緒に時間をさかのぼっていると言う。きっと、過去になにかがあったのだ。聞くならいましかないと感じていた。つばを飲み込み、核心を突く。
「あなたが、ぼくを撃ったのか?」
ジェイは目をすがめてニールから身体を少し離した。ニールは息をひそめて、相手がなにか言うのを待った。そうであったとしても、誤射だったのかもしれない。あるいは、自分がしたなんらかのヘマがきっかけでそうせざるを得なくなったとも考えられる。
重い沈黙を破り、ジェイが口を開いた。
「そう、思ってもらっていい」
どろんと深く沈んだまなざしがニールを見つめる。反射的に、ニールは反感を抱いた。
「ちゃんと説明をすると言ったじゃないか」
世話係は急に話すのが億劫になったように、視線をニールから外して足元に向けた。
頭に血が上る。ニールはありったけの忍耐を動員して世話係がつづきを話すのを待った。相手は口をつぐんだままだ。シーツが握りしめられてしわだらけになる。このシーツだって、世話係が毎日交換しているのだ。洗濯して、乾燥させて、新しいものに。
「なんで、自分が傷ついているように振る舞うんだ。痛いのも苦しいのも、ぼくのほうじゃないか」
声が震えていた。喉の奥がヒリヒリと痛み、目元に熱がこもってくるのがわかる。どうして本当のことを言わないではぐらかすのか。まだ、過去のできごとを理解する準備ができていないとでも思っているのだろうか。
「きらいだ」
名前を呼ぶとすぐにこちらを振り向くのも、優しい声も、いたわりのあるまなざしも、絶対にニールを傷つけない指も、なにより、こちらからは覗き込めないそのこころも、なにもかもがきらいだ。
「出ていけよ」
声はいよいよ震えてしぼんで小さくなった。目には涙が浮かんでいるし、こんな顔で凄んだところで迫力に欠けるのはわかりきっていた。それでも、世話係には効果があったようだった。彼自身が原因だというのに、目に見えてうろたえている。
そして、ほんの少し、自分でも気がついているかどうかわからないけれど、彼はほっとしているのだった。ニールにきつく当たられると、彼はこころのどこかで安堵するのだ。ニールはそれも気に食わなかった。
「ぼくのことは、放っておいてくれ」
ひとりになりたかった。なにをどう考えたらいいかわからない。なにがあったかを知りたいだけなのに。ジェイを傷つけたいのか、なぐさめたいのかわからない。こころがバラバラになっているようだった。そんな自分を見られるのがいやだった。この期に及んで、まだ、どう見られるかを気にしている。
世話係は立ち上がると少し近付こうとして思い直し、扉に向かって踵を返した。
だれもいなくなった部屋のなかでようやくニールは涙を落とした。ひとりになっても、バラバラのこころはひとつにならずに、あちこちに散らばったままだった。
ガタガタと身体が揺れている。金属的な音がしてブレーキがかかると、ガクリと乗り物が止まった。ニール、と名前を呼ばれる。ほどよい緊張感に包まれていた。もう時間だ。身体を起こして準備をしなくては。
はっと目を覚ます。いつもの部屋でいつものように横たわっていた。なにか夢をみたような気がするが、思い出そうとして夢の断片に手を伸ばすと、するりと指の間から抜け出てしまった。
海の底にいるような心地がした。海面に反射した月明かりが、ちらちらと薄く差し込んで天井に波模様が見える。眠っている間に指にセンサーがつけられていて電子音が鳴っていた。自分の鼓動に合わせて波が揺れる。
いつの間にか眠りに落ちていたようだ。ぼうっとした頭でうとうととまばたきをしていると、ふう、と近くに吐息を感じた。頭を傾けると、ニールの手を抱き込むようにしてジェイが眠っているのが見えた。身体が影になって、表情は隠れている。
ひとりきりではなかった。放っておかれなかった。なぜだか安心して、ため息がもれた。
毎朝の挨拶を聞くときにも、体調が悪くてうめいているときにも、身体のままならなさに苛ついて八つ当たりをするときにも、こころが、このひとは安全だと言っていた。誠実なひとだと思っていたからこそ、態度に違和感を覚えるとどうしようもなく気になり、はっきりと質問に答えない姿には失望した。
(このひとは、本当に頑固なんだな)
石頭め、と右手の指を動かそうとする。しびれていて、うんともすんとも言わなかった。仕方なく、左手をまわして、水の詰まったゴムホースのようにしか感じられない右手を持ち上げて、ジェイの頭の上にぼとりと落とした。重力にしたがって滑り落ち、手のひらは耳とうなじのあいだで止まる。起きてもいいと思っていた。起きる気配はなかった。
ジェイは温かかった。ニールの手のひらの下で呼吸をしているのがわかった。息をすって、吐いて、すって、吐いて。
記憶はいっこうに戻る気配がないのに、ジェイに対する感情だけが断片的に思い出される気がする。このひとはニールを知っていた。ニールもこのひとを知っていた。そうなのだろう。そうでなければ、どうしてこんなに苦しくなるのだろうか。
もうそろそろ、解放しないといけない。できるだけ早いほうがいい。このひとが過去の記憶に縛られているかもしれないのなら、それなりの努力をしてもらわなくては。
巻かれている包帯が濡れていくのがいとわしい。じわじわと冷えて広がっていく。耳の穴のなかにしずくがぼとりと落ちる音がして気持ちが悪かった。ぼとりぼとりと音がつづく。なおいっそう、部屋は海の底に近づいていた。
翌朝の目覚めは悪いものではなかった。目の端に涙の跡が残っていたが、泣くとすっきりするというのは本当だった。昨日、世話係に対して爆発させた苛立ちも、すっかりきれいに、とはいかないまでも、おおかたは消えてしまった。消したというほうが正しいのかもしれない。
起きたときには、ジェイの姿は見えなくなっていた。
はあ、とできるだけ長く息を吐き出す。吐ききると一度息を止めて、一気にすいこむ。この部屋に充満している酸素を止められたら自分は生きていけないのだな、と改めて感じた。
ドアが開く。いつもより早い時間に目的の人物がやってきた。
「やあ、気分はどうだ」
昨日、ニールがかんしゃくを起こしたことなどなかったように振る舞っている。いつもと変わりのない、普段通りの彼だった。
「悪くない。すっきりしてる。センサーを外して」
ああ、とジェイは軽く相槌をうち、指のプローブを外してから毎日のルーティンを行う。部屋を行き来し、機器のチェックをする様子を、ニールはしじゅう目で追った。
ちらちらと、とまどったような視線が落ちてくるのを感じても、目で追いかけるのをやめなかった。しばらくたって、たまらず、といった様子で彼が問いかける。
「どうした、なにか言いたいことがあるのか」
質問には答えずに、ニールは左手を伸ばす。
「起こして」
ジェイはニールの身体に手を回して、いつもと同じように抱き起こした。背中がずり落ちないように調整し、離れようとしたがニールの腕が巻き付いたままである。動きを止める。
「ニール?」
「痩せたね」
ニールは肩をぐい、とつかみなおしてぽつりとつぶやいた。腕を離してやって、座る体勢を整える。
ジェイは、まばたき二回分くらいのあいだに言葉を探すようにして、そしてやはり口をつぐんだ。ベッドサイドの椅子に腰を下ろして患者に向き合う。ひざに肘をつき、そわそわと両指をこすり合わせている。昨日の繰り返しにならないかと警戒しているのだろうか、心配には及ばない。
「あなたに、お願いがあるんだ」
ふたつ、とつづける。
「難しいのと、簡単なもの、どっちから聞いてくれる?」
ニールは、聞き入れられるのがさも当然であるかのように要望を投げかけた。軽く眉をひそめてジェイは口を開く。
「難しいほうから聞こう」
そうだよね、あなたは難しいことから終わらせる。想定通りの返事に少し口角を上げて視線を正面から捕まえる。
「ぼくにキスしてほしい」
ニールの予想では、うろたえた相手は、なぜそうしてほしいのかを質問してくる。あるいは沈黙を守るか、鼻で笑われるか。とにかく行動には移さない。そこで、簡単なお願いを聞いてもらう。ひとりでできるぶん、あとの要望のほうが楽に違いない。はじめのお願いは、後者を通すための見せかけの過大な要求にすぎない、はずだった。
一瞬のことだったのにスローモーションに見えた。ゆっくりとしたまばたきのあとに、真意を覗くような視線がニールを貫く。こんなふうにだれかを見ることもあるんだな、と頭のすみで他人事のように考えた。彼はすっと身体を起こすと、両手を首元に伸ばして頭を固定した。顔が近づいて唇が触れる。
自分で言っておきながら、こんなに簡単に要求が通るとは思っていなかった。思ったよりもハードルの低いお願いだったようだ。あるいは、ほどこしのつもりなのだろうか。
ジェイのまぶたが薄く開き、身体が離れていこうとしているのがわかった。服をつかんで身体を倒し、かさついた唇を押し付けて逃さないようにする。首元にあった片方の手のひらが背中にまわされた。ジェイの身体から伝わる熱に包まれて、ニールは真っ赤に濡れていた。内側からもドクドクと望みが湧いてきて、身体中に広がっていく。頭に熱がこもっていく。ぎゅっと抱きすくめられて、奔流のように駆け巡っていたものが目から溢れ出た。昨日、あれだけ泣いたというのに、涙は底をつかない。
足かせになりたくなかった。自分に借りがあるのだとしても、もう充分返してもらった。だから、ジェイには彼の時間を生きてほしかった。さようならを言おうとしていたのに。
身体が離れる気配を感じて服をつかみ直すと、額の当たる距離で正面から瞳を覗き込まれた。
「おれを選べ、ニール」
とっくに選んでいる、だから離れようとしてるんじゃないか、と苦く思った。
涙の膜の向こうでジェイも泣いているのが見えた。あまりに痛々しくて胸が詰まる。
「ずるい」
なんであなたが泣くんだ。重荷はおいて、未来に向かって進めばいい。忘れてしまえばいいだけなのに。
「ぼくはなにも覚えていない。あなたのことを知らない」
ジェイは何度もうなずいて、なだめるようにニールの首をさする。ニールは手を握りしめてジェイの胸を軽く打つ。
「なにがあったか教えないのに、そんなことを言うなんてひどい」
泣くなんてひどい。キスを返すなんてひどい。ベッドの横で眠るなんてひどい。ひとが身を引こうとしているのに、摑んで離さないなんてひどい。このひとはどうしようもなく欲張りだ。気が付かなかっただなんて。
「いまは、言えない。だが、お前と一緒にいたい」
ぐっと喉が詰まる。濡れた両の瞳は澄んでいて、望みを含んできらきらと光っていた。そう、彼には悲しい顔より明るい表情のほうが似合うのだ。
「いやだと言ったら、どうするつもり」
口元を震わせながら、悔しまぎれに言葉を返す。
「いやなのか」
ニールの頬を流れる涙をすくいながら、困ったように眉を下げてジェイがつぶやいた。ニールも、相手の顔を流れた涙をぬぐってやる。自分の顔はすごいことになっていそうだなと思い、少し笑えてきた。つられて、ジェイもふわりと笑みを浮かべた。
カチリ、と鍵をまわす音が聞こえたような気がした。どこにあるとも知れなかった記憶の扉が開いていく。
晴れ渡った青い空に、みずみずしい芝生の緑。大学は赤いレンガで造られていて、ニールの手にはステンレスのボールペンが握りしめられている。
目を閉じて、巻き起こる記憶の流れに身を任せた。
急に動きを止めて黙った相手を見て、ジェイはニールの腕に手を添える。
「ニール?」
「ボールペンのひとだ」
あなただったのか、と彼の腕をつかむ。やはり知っていた。記憶に残っていた。
「大学で、あなたに会ってる」
ジェイは、はっと息を呑み、目をそらした。ニールは首をかたむけ、顔にへばりついていた水分をぬぐってから額を近づける。
「覚えてないのか」
「まだ、おれには起きていない出来事だ」
君にはこれから出会うんだ、と目を伏せてつづけた。
そうか。それなら、
「立場は同じってことか」
ふふん、と少し口角を上げる。
「君が言わないなら、ぼくも、思い出したことを言わないでおく」
ニールが言うと、ジェイも満足気にうなずいて、てらいのない笑顔を見せた。ニールのなかの記憶の扉がうずき出した気がした。鍵は目の前にある。きっと、一緒にいればこうやって思い出せる。
ニールは少し身体を離して、ふたりの間に手を伸ばす。
「さっきの、本気なのか」
「ああ、一緒にいたい」
頑固で欲張りなニールの世話係は、差し出された手をしっかりと握りしめて言った。
「ぼくとリハビリができないとさみしいって言うなら、仕方がないな」
身を寄せるジェイの身体を膝でたたきながら、にやりと笑って見せる。
「ニールがそばにいないとさみしい」
まっすぐにニールを見つめ、一語ずつ、はっきりとジェイが告げる。
かあっと顔が赤らむのを感じた。ここで目をそらすと負けてしまう、となぜだか勝負事のように思った。言い返してやり込めたかったが、先ほど言われた言葉が頭のなかをリフレインしてなにも思い浮かばない。
口を開けたり閉じたりして黙っていると、ふ、とジェイが照れたように目をそらし、ニールを自分の方に引き寄せて抱きしめた。
優しくて安心できる、懐かしい香りがする。また、ガタガタと記憶の扉が開こうとしている気配がした。なにを思い出すのか、不安がないと言えば嘘になる。けれど、そこにジェイがいるのなら、きっと大丈夫。ニールは目を閉じて背中に腕をまわそうとした。
ぐう、と腹の虫が鳴った。そういえば昨日からなにも食べていない。それなのに、怒ったり泣いたりと忙しかったせいで、すっかり空腹になっていたようだ。
ジェイは、はたと腕の力を緩め、朝食を用意すべくいそいそと動き始めた。空気の読めない自分の腹に手を当て、ニールは含み笑いをする。
生きている、と感じた。