1. 寄せる波② ***
目を覚ますと、見慣れない部屋の壁があった。身体を返して見渡してみても、これまで見ていた光景と違うことが意識に飛び込み、それから呆然と今自分が置かれている状況を思い出した。
そう、昨日から私は唐突な非日常へと攫われてしまったのだ。
カーテンの隙間から日が差し込んでいるのが見える。三畳ほどの狭い部屋に、私の持ち物はごくわずかしかない。
――昨晩は初日だったこともあり、私はホールへは出ずに、店の内側からホールの様子を見させてもらった。君が出るのは明日からだ、と人のいい笑顔が私を促す。
遠目から見た店内は派手で、うるさくて、とてもじゃないが楽しそうなんて思えるはずもなかった。それでもそこで接客している女たちはみんな楽しそうに見せて、毎日のこととして金を稼いでいた。
私も今日からあの中に放り込まれるのかと思うと気持ちは沈んで、鬱々とした。しばらく起き上がれないほどに。今が何時なのかもわからないが、とりあえず廊下のほうでは人が行き交っている音が聞こえている。私はそれを聴きながら、ぼんやりと狭く低い天井を眺めていた。
しばらくすると、またいくつかの足音が廊下のほうから聞こえた。それと同時に女たちの元気のいい声で「あ、支配人おはよー!」と響き、それに続いて「うん、おはよう」と爽やかな男の声も聞こえる。
声をかけた女の声がやたらと弾んでいたので、ここの女たちはやはりあの〝人さらい〟のことをよく思っているのだろう。そう思った途端、さらに気持ちが重くなった。
――コンコン、と私の部屋の扉がノックされる。
驚いて横になったまま、ぴ、と背筋に力が通る。恐る恐る「はい」と返事をすると、どうやら鍵をかけ忘れていたらしく、その扉は簡単に開いた。
廊下から光が差し込み、その中で眩い金髪が瞬いた。
「やあ。アニ」
「……支配人」
そこから覗いたのは、先ほど廊下で声を聞いた支配人だ。私が未だにベッドから降りていないこともお構いなしで、横になったままの私を見下ろした。
「どう? 昨日は眠れた?」
私のどんよりとした脳内とは裏腹な、さらさらと流れる川面のような爽やかさで支配人は尋ねる。
その問いで思い出す――そういえば昨晩はいつまでも居心地が悪くてなかなか寝付けなかったことを。
「……あんまり……」
うんざりした気持ちのままそう返すと、支配人は扉をもう少し開いて顔を出した。
「まあ、そうだよね。でもこれから君はここで生活していくんだ。何か要望とかあったら言ってくれていいからね。布団は足りた? 寒くなかった?」
その心配そうな表情があまりに誠実そのものもだったので、私は思わず視線を逸らしてしまった。
「……大丈夫……です」
「そう、よかった。ここでぼうっとしてるのもつまらないだろうし、下の談話室は自由に使っていいからね」
「はーい」
目を合わせないまま適当に返事をする。しかしやはり叱られることはなく、支配人は「じゃあ僕は仕事に戻るよ」とさっさと扉を閉めてどこかへ行ってしまった。
私は身体を反転させて壁を睨んだ。
あの〝人さらい〟のことを好ましく思ってしまいそうな自分に焦っていたのかもしれない。あの穏やかな口調と笑顔は、今まで見てきたどの男よりも優しいものだと確信してしまう。
――けれどだめだ、私は騙されないぞ、と自分に言い聞かせる。いくら誠実で優しくても、その正体は人さらいに他ならないのだから。
あの、煙草を吸いながら私の玄関にもたれかかっていたときの横顔を思い出す。それからふらりと向けられた深い海のような眼差し……――いやいや、と思考を振り払うように目を瞑った。
しばらくそこで悪あがきをしていたと思う。私は次第に鬱蒼とした部屋の中を鬱陶しく感じ始め、ベッドの上に起き上がった。
この部屋の中が鬱蒼としているのは、未だ閉じられたままのカーテンのせいだと決めつけ、窓辺に歩み寄る。
思い切ってカーテンを開く。目の前には囲むようにたくさんのビルが立ち並ぶ光景が広がっていた。新鮮な空気でも入れようと窓を開けると、部屋のちょうど下が車庫の前になっていることに気づく。
話し声が聞こえてさらに覗き込むと、軒下に煙草を吸っている支配人を見つけた。……しかもそこには、一人の警察官らしき人物も立っていた。
支配人が何かしらのトラブルになっているのではない、明らかにその二人は談笑しているのだ。
警察官のほうは帽子を被っていたこともあり髪型などはわからないが、背の高い男性なのはわかる。
少しの間、その二人は仲良さげに笑い合っていた。話の内容は上手く聞き取れないが、何度考えても緊迫していないことは支配人の表情や、跳ね上がる声からもよくわかる。
車の準備ができたのか、呼ばれた支配人は煙草をの火を消し、その警察官に簡単な別れを告げて車に乗り込んだ。警察官のほうも手を上げて別れを告げている。それから近くに停めてあったパトカーに乗り込んだ。……運転席にはもう一人警察官が座っているのが見えた。
二つの車は颯爽と出かけて行き、私はその後ろ姿を角を曲がって見えなくなるまで観察してしまった。
窓から離れてその場に座り込む。
――警察官って本当に闇社会の人間と癒着があるのかと、ある種感心してしまった。ドラマなんてほとんど見ないが、まるでドラマの中のようだと思ってしまった。この世界の裏側を見て興奮するような気持ちはなんだろう、もしかすると現実逃避なのかも知れない。
……しかし、ということは、もしここから逃げ出して警察に助けを求めたとしても、もみ消されてしまう……ということなのだろうか。逃げるつもりはなかったが、ようやく実感した現実に肩が重くなった。……やはり、余計なことは考えないほうがいいということなのだろう。支配人は、警察とも繋がりを持っている。
なんとなく無気力になり、ぼんやりと過ごしていると、あるときヒッチが部屋にやってきた。これから昼食だから一緒に行こうと誘ってくれたのだ。私はほかにも同じ方向へ流れていく女たちに紛れて、一階の食堂に向かった。行くと既に配膳されており、早い者から順に奥から座っていくのだと言う。それまで通り、流れのままに席についた。
初めて顔を合わせる女たちはこぞってヒッチに私のことを聞いた。その内にめんどうになったのか、ヒッチは食堂にいた女たちの注目を集め、改めて私の紹介をした。こういう場に慣れていない私は気の利いたことは言えなかったが、思いのほか女たちが優しく迎えてくれたので驚いた。……みんな派手だが気さくで和やかだった。
調理番だと言っていたヒストリアという子にも紹介された。ヒッチの言っていた通り、確かにかなり見目のきれいな子で、ホールに出せばそれなりに売り上げに繋がるだろうに、それを止めているという支配人の考えが少しだけ気になった。
そのあとはしばらくまた部屋でごろごろしたあと、デジャヴのようにヒッチが私を誘いにきた。今度は談話室に一緒に行こうと言う。どうやら気を遣ってくれていることがわかっていたので、私はその言葉に甘えて一緒に談話室に行かせてもらった。
そこで本棚に置かれている本の背表紙を一通り眺めてみる。……古今東西、ありとあらゆるジャンルの本があり、確かにこれはしばらくは暇を潰せそうだと感心した。私がいくつか本を選び出している様子をヒッチはやんやと適当にしゃべりながら見ていた。やはりこの女はしゃべるのが好きなのだろう、ここで働いている同僚たちの話はもちろんのこと、この繁華街で人気の飲食店や面白いもの、趣味についてなどいろいろと話していた。
私が本を一抱えしてヒッチの向かいの席に腰を下ろしたときだ、ヒッチが「あ、」と声を落とした。
どうしたのだろうと顔を上げるとヒッチは時計を見ていたようで、いそいそと席を立ちながら詳細を教えた。
「ごめんねアニ、今日同伴の約束があるんだ。準備しなきゃだわ」
そして椅子をテーブルのほうへ寄せた。
私は昨日から何度か聞いているが意味がわからない言葉があったので、この際聞いてみることにした。
「……同伴?」
するとヒッチはやたらと楽しそうに「そ、」と説明を始める。先輩風を吹かせられるのが楽しいのかもしれない。
「お店が開店する前にお客さんと食事したり遊んでから一緒に店に帰ってくるの。大事だからあんたも覚えておきなよ」
「……う、うん」
するりと踵を返したヒッチが、今度はスタイリッシュに背中を見せながら横顔で「じゃあ、お先」と歌った。
何と言って送り出すのが正解かわからず、私はとりあえず「わかった。がんばって」とその背中に投げかけ、ヒッチも「サンキュー!」と軽快に返しながら談話室を出て行った。
廊下のほうでは何人も人が行きかっている。それぞれが、その『同伴』や何やらの準備に追われているのだろう。何も指示を受けていなかった私は、自分を落ち着けるように深呼吸をしたあと、とりあえず積んだ本の一番上を手に持った。それの表紙を眺めてから、ぺらぺらとページをめくっていく。
それからどれくらいその本に没頭しただろうか。幸いなことにこんな状況でも没頭できた私は、廊下のほうが騒がしくなっていることに気がついた。女たちがこぞって同じ方向に歩いていくのが見える。……その方向は食堂か、そう思い時計を見上げると、時間は夕方の四時になろうとしている時間だった。
――あ、夕食!
ひらめくように思い出して、取り出した本を急いで本棚に片づけた。それから駆け出すように談話室をあとにする。食堂に入ると席はまばらにしか埋まっていなかった。私はとりあえずヒッチに言われたように奥から詰めて座る。きっとヒッチが言っていたような『同伴』とかで不在の女が多いのだろう。目の前に運ばれてきたサンドウィッチを頬張りながら、私は大変だなと呑気に考えていた。
周りに座った先輩の女たちが、ヒッチのように気を利かせて私に話しかけてくれた。正直騒がしいのは苦手なのでそこまで構ってくれなくてよかったのだが、尋ねられたことは真摯に応えた。
そうしていると、
「――アニはいる?」
唐突に呼ばれた自分の名前に背筋が伸びた。見回すと食堂の入り口のほうから支配人が私を探すように見渡していた。いそいで「ここに」と言いながら手を挙げると、支配人の表情が一気に安堵したように緩んだ。た、た、た、と軽い足取りで私のほうまで寄った。
「アニ、もう食べ終わるね? ヒッチがいないから君がホールに出る準備、僕が手伝うよ」
「……え?」
「ほかの人もそれぞれ自分の準備があるしね。急にお願いするのは気の毒だ」
そういうと私の隣に座っていた女に目配せをした。その女もうんうんと頷くものだから、そういうものかと受け入れるほかない。……まさか、身支度を男である支配人本人に手伝ってもらうことになるとは思っておらず、たちまち身体が緊張した。
食べ終わったあと、まず支配人と向かったのは衣裳部屋だ。今晩ホールに出るときに着る服を選ぶ。だいたいの女たちは既に選び終えて自分の部屋に持って行っているのだと聞いた。残っているドレスからよさそうなのを選ぶ。
……だが、ドレスはどれもこれもサイズが大きいものばかりだった。確かにこれまで会った女たちの中で、私が一番小柄かもしれない。支配人がくまなく探してくれて、かろうじて私も着れそうなサイズのドレスを三着ほど掘り出してくれた。そこから一着を選ぶほかなく、支配人も「君のサイズのドレス、発注しとくよ」と申し訳なさそうにごちった。
選んだドレスを持ったまま、支配人と二人で二階の私の部屋に向かう。廊下で待ってるから着替えてくれと頼まれ、私はこの着方もよくわからないドレスとともに部屋に放り込まれた。とりあえず試行錯誤して着ることが叶い、それでも私は着慣れない派手なドレスに戸惑いを隠せなかった。
……この姿を支配人に……いや、誰にも見られたくないな……などと往生際の悪いことを考えてしまう。もういっそ着れませんでしたと断るべきかとも思ったが、外から「着れた?」と声をかけられたので、そのまま「はい」と返事をしてしまった。
私が着ることになったのは、彩度の高い青色に、スパンコールがキラキラと散りばめられたドレスだ。丈はひざ丈ほどしかなく、しかも太もものきわどいところまでスリットが入っている。――いや、しかし、ほかのものはもっとひどかったのだ。これが一番ましだった。
仕方なく部屋の扉を開けると、そこで待っていた支配人が私の足先から頭のてっぺんまでを観察した。
「――よし。ちゃんと着れてるね。背中のチャックも自分で届くなんて、身体が柔らかいんだね」
驚いたように笑っていた。
どうやら着用できただけで及第点らしい。今は似合う似合わないの話はできない段階なのだろう。
「……靴、これが合うかなって持ってきてみたんだけど、どうかな」
見せられたのは、青のエナメルのヒールの靴だった。確かにこのドレスには合いそうな色をしていたので、私は黙って頷いた。支配人はそれを見て、私の部屋の入り口の脇にその靴を置く。
「じゃあ、髪の毛のセットとお化粧をしよう」
靴を持っていたほうと反対の手に持っていたらしい、大きな化粧箱を見せられる。その口ぶりからして、どうやらこれも支配人がやってくれるらしいとわかり、今度は私が驚いてしまった。
「……えっと、支配人がしてくれるんですか?」
「もちろんだよ、部屋、お邪魔するね」
立ち尽くしていた私を促して、部屋の奥へと入ってくる。ちなみに入り口の扉は開けっ放しにしているが、おそらく私に配慮したものなのだろうと思う。
「じゃあここに座って。髪の毛からするよ」
「はい……よろしくお願いします」
正直に言うと髪の毛くらい自分でセットできるのだが、キャバクラにはキャバクラの流儀や流行りのようなものがあるのだろう。そう思った私は、あえて口を出さずにすべてを委ねることにした。
私を座らせた背後に回り、支配人は隣に置いた化粧箱の蓋を開く。そこからくしを取り出して、「じゃあ梳いていくね」と声をかけてから私の髪の毛に触れた。
狭い部屋だ、二人の大人がいるだけでかなり窮屈に感じる。
「……アニは色素が薄くてとてもやさしい色の髪をしているね」
ゆっくりと私の髪の毛を梳きながら支配人は穏やかな口調でそう言った。……そんなことを言われたのは初めてだったので、すごく戸惑ってしまい、私はなんと返せばいいかわからなかった。これは照れてしまっているのだろうか、少し口元がむず痒くなった。
「髪の毛も細いし……毛質もすごくまっすぐだ」
一か所に私の髪の毛をまとめたらしく、ヘアコームのようなもので固定されていくのが感覚でわかる。
先ほどから私の髪の毛を褒めちぎるものだから、なかなか抱いたむず痒さが治まらず未だに返事が思い浮かばない。けれどそんなことは気にならないのか、支配人は楽しそうに一人でその作業を続けた。
今度は何をしているのか、まとめた髪に何か飾りのようなものをつけているようだ。
「よし、じゃあ髪の毛はこんな感じでいいかな。あ、待って、後れ毛も留めとこう」
支配人の指先が私の首に触れる度にくすぐったくて、少し変な気分になった。先ほどから手つきが優しくて柔らかいことにも気づいていて、この男が日の当たらない場所にいる人間であることを忘れてしまいそうになる。……事実、ここの女たちはきっとそういうところで彼を受け入れているのだろう。
「よし、なかなかいいんじゃないかな」
そう言って手鏡を手渡された。それを覗いてみるも、前からは後ろがどうなっているのかほとんどわからない。とりあえず正面からの見た目は悪くなさそうだ。
「……いいかな?」
「……はい、大丈夫です」
「よかった」
鏡の中で男が微笑む。柔和に垂れ下がる眉尻がずるい、こんなのつられてしまいそうになるではないか。
支配人は今度はせっせと私の前に回り込んできた。それから化粧箱の位置を整えると、「じゃあ、今度はメイクをしていくね」と言いながら化粧箱からボトルをいくつか取り出した。
自分は女子ながら化粧はめんどくさいと思ってしまい、オールインワンのようなものを使いがちで、美容のための種類や順序はわりと大雑把だ。女子である私ですらそんなだというのに、手際よく私の顔に化粧水や乳液を丁寧に染み込ませていく支配人は、きっとたくさんの女たちにこうやってメイクを施してきたのだろう。下手したら私より美容に詳しいのかもしれない。
間近で私の顔を覗き込む支配人が、化粧箱の中を確認するために横を向く瞬間がある。私が初めて見て釘づけになってしまった横顔が目の前にあり、思わず目が放せなくなった。
刈り上げた後ろ髪のうなじが見えて、柔和なくせにちゃんと男然とした首筋が目に入る。……わからない、なぜか心臓の音がうるさく思えた。
何度目かの横顔のとき、私はふとあることに気づいた。……支配人の耳、本来ピアスなどの穴を空ける位置に、大きな傷跡があったのだ。まるでピアスを装着しているときに引っ張ってしまったような痛々しい傷跡だったため、私は耐えられなくなって目を逸らした。
「――はい、じゃあ目を閉じててね」
下地やらコンシーラーやらと代わる代わるその手の中で入れ替わったあと、支配人が静かに指示をした。言われるがままに私は瞼を下ろす。
ふわりふわりと淡い煙草の匂いが鼻に届く。優しく触れる手つきで、私の目元のメイクを完成させていく。……目と閉じているせいなのか、支配人の吐息が近くに聞こえた。穏やかな息遣いになんとなくホッとしてしまう。こうやって従順に目を閉じてすべてを任せきっている私は、まるで信頼もすべて明け渡してしまったようだなと沁みていく。――こうしている内に、みんな騙されてしまうのだろう。
「――はい。オーケー。目を開いていいよ」
指示の通りに目を開くと、少し瞼を重く感じた。
「目元、こんな風にしてみたけどどうかな。僕にしてはちょっと上手くできた気がするんだけど」
非常に満足げに尋ねながら、支配人はまた私の前に手鏡を掲げた。
アイラインをばっちり引いて、アイシャドウも何重かに重ね塗りして、私に似合うかどうかではなく、とにかく器用だなと思わずうなりそうになった。こんな派手なメイクをしたことがないので、落ち着かないのは落ち着かないのだけど。
「よし、じゃあ続けるね」
それからさらにチークやリップなどを丁寧に施されていき、私はその真剣な眼差しにまた見入ってしまう。本当に海のようにきれいな虹彩だった。
そうしてようやく、私のメイクはいよいよ完成を迎えた。支配人もとても満足そうだった。
私に最終確認として手鏡を握らせたあと、私が鏡を覗き込んでいる間も、ちょんちょんと気になったところに触れて仕上げをしていく。
目元の確認をしたときも思った通り、こんな派手な化粧をしたのは初めてだったので、これが自分に似合っているのかどうかはいまいち計り知れなかった。けれど、これがキャバクラという場所の流儀なのであれば、確かに支配人がいてくれてよかったなと思った。私に任されていたら、きっとパスタを茹でる塩水くらい薄いメイクになっていただろうから。
「とりあえず今日はこんなところでがんばってみれるかな?」
鏡越しに支配人が尋ねるので、私は鏡を下ろしてその視線を見返した。ともすれば幼くすら見えてしまいそうなその丸い瞳を見て、もう何度目になるかもわからないが、本当に海を閉じ込めたみたいだ、と関係のないことを浮かべてしまう。
「……はい、がんばります」
私の返答に安心したのか支配人は「よかった」と小さく笑った。
――はた、と思考が一瞬だけ止まる。
だが、すぐに発話の気配を感じて我に戻る。
「今日はヒッチの最初のお客さんは同伴だから、君がホールに出るのは二コマ目からになるからね」
「……はい」
おしゃべりなヒッチが教えてくれたことの中に、今支配人が言っていたことを解説するものが含まれていたのを思い出した。――確か、キャバクラは時間制だというもので、特にパラダイスハートは一コマ一時間、それからキャストの休憩が十五分ほどあって、次のコマが始まるというサイクルだという話だ。開店が五時で、二コマ目ということは、大体六時過ぎにホールに出るような計算になるのだろう。
「じゃあ時間になったらまた僕がここまで迎えにくるから、君はここで待機してて」
「わかりました」
応えると、支配人は念を押すように「がんばろう」と残して、部屋を出て行った。
廊下の先までその背中を見送ってしまった私は、支配人が階段を上っていったことでまた我に戻る。慌てて自分の部屋に飛び込み、扉を閉めた。――その背中を見たときに抱いた不思議な感情を、私は気づかなかったことにした。
部屋の中を見回し、そういえば部屋に時計が欲しいと言えばよかったなと思ったのは、それをかき消すためだったか。
ひとまず、夕食を摂ったのが四時とするなら、体感で今は五時から少し過ぎたくらいだろう。つまり支配人が再びこの部屋に訪れるのは、おそらく一時間くらい先のことになる。……少し準備が早すぎたのではないかと思ったのは、この派手なドレスを持て余していたからだ。
つづく