2. 深くに溺れる①
あれから暇さえあれば、訪れていた談話室。私が自分のゲストを取り始めて、支配人と一緒に映画を見て、それから二週間くらいが過ぎていた。
幸いなことにここには運動室もあるので、汗を流したいときはそこで身体を動かすことができた。それ以外の時間は、なんとなく読みかけのシリーズの続きが気になって、談話室に足を運んでいたのだ。
支配人と見た映画は、まあまあ楽しかったと思う。よくこのシリーズの世界観を表現していたのではないかなと思えた。……それと同時に、楽しそうに私の反応を窺う支配人がどこか少年らしく見えて、不思議な浮遊感のようなものを経験していた。……いや、ここずっとだ。なぜか支配人を前にすると、ふわふわするというか、なんとなく目が眩むような感覚を得てしまう。どきどきと高鳴る胸の鼓動を認識しかけて、いやいや落ち着けと深呼吸をする。私はこの不思議な感覚に、〝もしかして〟と思い当たる節はあったものの、それを認めるわけにはいかず、気づかないふりを続けていた。
……だってそんなこと、あまりに滑稽ではないか。昔聞いたことがある『ストックホルムシンドローム』という言葉が頭をチラつく。これはその類なのかもしれない。私はこの非日常に、絡みとられているだけなのだ。そうに違いない。
「――アニちゃん、支配人が事務所に来てって」
本に没頭していた私は顔を上げた。
見ると談話室の入り口に、同僚の女が一人立っていた。私はその言葉を理解すると、読んでいたページの番号を改めて確認してその本を閉じた。
「……はい。今行くよ」
それを聞き届けた女は満足そうにどこかへ歩いて行き、私は本を本棚に戻した。
今日はいったい何の話だろう、そう思いながら談話室をあとにして、階段を登っていく。……そういえば支配人の事務所に呼び出されるのは、以前のデビュープロモーションの相談以来だったなと思い出していた。
廊下を渡り、一番奥の部屋を目指す――支配人の事務所だ。ほかの個室の扉とは違い、磨りガラスの小窓が設けられた扉の前に立ち、私は一つ呼吸を整えた。微かに脈拍の抑揚が聞こえるが、それを日常のものとして受け入れる。
それからトントン、と扉をノックして、ゆっくりとドアノブを捻った。
「はい、支配人」
顔を覗かせた私に向かい、支配人は顔を上げて笑った。いつもの執務机ではなく、その前に設置された向かい合わせになったソファの片方に座っていた。その前のローテーブルには、いくつもの書類を広げている。
「ああ、呼び出してごめんね。座って座って」
「……はい?」
映画を見たときのような無邪気な笑顔ではなく、少し含みのあるような笑みだ。心配事というのか、少し困ったように眉尻が下がっている。
私は日常的なものと片付けるには少し大袈裟かもしれない心臓の鼓動を引き連れて、言われるがままに向かいのソファに腰を下ろした。いつもより緩めに締めたネクタイがある首元を見てしまった。
「――アニ、君の処女権を買う人が決まったんだ」
支配人の唐突な切り出しに、私は慌てて視線を戻した。それからじわじわとその言葉の意味が頭の中に広がっていく。
――『処女権』……その言葉は初めて聞いたが、その響きから、おおよその意味は想像ができた。……つまり、私の〝処女を奪う権利〟を獲得した客の話をされるのだろう。
「……あ、はい……」
乗り気になれるはずもなく、私は焦りによりさらに速くした心拍を押さえ込みながら、さも落ち着いてるように振る舞った。
支配人はじっと私の瞳を覗き込んでいる。内心は焦っていることに気づかれているのかもしれない。そんなことでも焦りが重なる。
支配人は私が自分の焦りや緊張を自覚するだけの時間を設けてから、それでも淡々と続けた。
「お客様の名前はシャロス様」
その名前を耳に入れた、まさにその瞬間、私の目の前にはぶわりと記憶が溢れ出ていた。
――『それでさ、君と寝るにはいくら出せばいいのかなあ?』
忘れようと閉じ込めていたはずの思い出が突沸したのだ。あの濃厚だった体臭も蘇る。一気に気分が悪くなり、くらくらと目が回るような思いをした。
あれからシャロスという男は店に来ることがなかったので油断していた。そうだ、シャロスとは、私の初めての指名客――あの、変態の中年おやじだ。……あいつは店に来るよりも、私と寝ることだけを考えて画策していたのだとここへきて知ることになった。
「この方、ほかの人の三倍は出すってことで、三百万という破格を提示してきたんだ。この人で異論ないかな?」
支配人が淡々と続けるものだから、
「……は、はい」
私も何も感じていないような虚無感の中で返事をする。けれど心の中では、激しい嫌悪感や不快感に胃を押し上げられていた。
――あの男と寝るのか? しかもこれは、私にとって〝初めて〟の相手になるというのに。
「日時は明日の閉店後、深夜一時。場所はここから二軒先にある『ホテルミッドラス』の四百十号室」
支配人の話している内容は一つも頭に入ってこない。ただただ、あの変態おやじに私の幼気な身体を委ねてしまわねばならないことに、とんでもない苦痛を感じていた。ぐらぐらと視界が目まぐるしく回っているような気持ち悪いさが止まらない。
……どうする、どうする。ここで断るか。……いやしかし、私の借金を減らす大きなチャンスでもあるはずだ。職業柄、いつまでも清い身体でいることは不可能に近いだろう。ここで嫌だと言ってしまうことは、往生際が悪いだろうか。……私は、この試練に、立ち向かうべきなのか。
「……不安だろうから、これを持って行くといい」
支配人が私の前に一枚の紙を差し出したことで、ようやく私は肩を叩かれたように世界が定まった。
差し出された一枚の紙を見下ろし、
「……これは?」
それからそれをおずおずと拾い上げた。それは書式のしっかりした書類のようで、
「契約書だよ」
「契約書?」
支配人がしっかりと私に視線を向けたまま教えた。私は一度その視線を見返し、そしてまた慌てて書類にそれを向けた。
「それには君の身を守るための契約内容が書かれている。例えば、『何らかの傷害を与えた場合、その程度によってしかるべき賠償金の請求をする』旨や、『もしゴムを使用せず生で行為を行う場合、もしくは後からそう言った行為が発覚した場合、万が一の中絶費用や今後の生活保障として、料金に追加で一千万の支払いを要求する』旨などが書いている」
滔々と語られる内容に、私は無心で聞き入った。初めてのことなので、〝傷つけられるかもしれない〟ということを考えたこともなかったし、ましてや……な、生で……? 行為を行う場合なんて、一つも頭に過らなかった。……まあ、だからこそ、こんなものが存在しているのだろうとは思う。――詳しくはまったくわからないが、売春の世界ではこういう契約書は当たり前のことなのだろうかと疑問が浮かんだ。
まじまじと書類の文面に視線を走らせていた私の向かいから、支配人はさらに続けた。
「そこらへんの野良の娼婦さんは同意の上で生でやったりもするみたいだけど、性感染症のリスクや精神的な負担を考えて、僕は君たちにそんなことはさせたくないから、こういう形にしたんだ。たぶん、ここまでやってる業者はほかにはないと思うんだけど、文句を言われたら僕に連絡するように言ってくれればいい。色んな都合上ここにパラダイスハートや僕の名前は載ってなくて、あくまで君とお客さんとの契約ってていだけど、ちゃんと僕たちがバックで君を守るから安心して」
――なるほど。これはこの支配人独自のルールなのだとわかる。私にとって未知の世界であることを痛感すると同時に、ここまでして私たちを守ろうとしてくれている支配人に想いを馳せた。……確かにヒッチの言う通り、支配人は人がいいのだろう。私たちのことなんてここまで面倒見る義務もないだろうに、どうしてここまで考えてくれるのかと疑問がさらに重なるほどだ。……その答えなんて知る日は来ないのかもしれないけれど。
とりあえず私はこの書類――というか、単なる紙一枚を眺め、今度はそれを裏返してそちらの面は白紙であることを確認した。それからその紙を再びテーブルの上に戻しながら、支配人に尋ねた。
「……これは、毎回書いてもらうの……?」
こんな大袈裟な書類、もちろんこちら側の人間は助かるけれども、お客にとっては煩わしさしかないだろう。どんな反応をされるのかと考えたときに、唐突に浮かんだ疑問だった。
支配人はその書類をまた自分のほうへ引き寄せながら、淡々とした口調を再開した。
「いいや、君が慣れてきて必要ないと思ったら使わなくていいよ。これはあくまで新人さんのお守りとして作ってるんだ。……こうやって約束させたほうが、少しは安心できるかと思って」
「……はい」
なるほど、と深く納得がいく。やはりこれは私たちへの、支配人なりの配慮なのだろう。……どうにかお金を稼がなくはならない、その上でできる限りの不安要素を排除してくれようとしているのだろうと予想ができた。
「――あとこれ」
考え込んで手元を見ていた私の注意を引くように、支配人は何かの連なりを取り出して先ほどの書類の上に置いた。四センチ四方くらいの包みの連なりに見覚えはなく、私は素直に「……それは?」と首を傾げてしまった。
すると支配人はそれを拾い上げ、なんとも簡単に「ゴムだよ」と言ってそれを手渡してくる。私はそれをためらいがちに受け取ってしまった。
「先方にも必ず準備するように説明しているけど、〝うっかり〟というケースも考えられる。そのときのために君も携帯しておくんだ」
その見慣れない連なりを見下ろして、生唾を丸呑みする。――高校の授業などで見せられるゴムというものは既にこの一つ一つに分解されているもので、連なっているものを初めて見る。そして私は、その事実に心なしか羞恥していた。この形状、言われてみればゴムそのもので、それをすぐに理解できなかった己の幼稚さに対する羞恥だ。
「わ、わかりました」
それを視界から隠すように、慌ててポケットに押し込んだ。支配人は先ほど回収した一枚の契約書を再び持ち上げ、その下にあったもう一枚の紙と合わせて私に差し出してくる。それを持って部屋に戻るように指示をしたいのだろう。私は改めてそれらも受け取り、私が座っているソファの横に置いた。
「――あとは、そうだな……」
支配人が何かを考え始める。
「そこに書いてないことだったら、口と口のキスは禁止にしたいとか、そういうルールを独自で設ける人もいるから、アニもどうしても許容できないことはそう伝えていいよ」
「……はい」
もはやその行為に伴う言動など見当もつかない私なので、言われて初めて〝そうか、キスもするのか〟などと過った。……これはあれだ、おそらく動揺によって頭の回転が鈍ってしまっているのだろう。
「――大丈夫そう?」
支配人が最終確認として私の顔を覗き込む。その顔はこの事務所に訪れたときのように、少し憂いを含んだものだった。そんなときにどうしてか――私の心臓は、ドキリ、と強く脈を打っていた。
こんなに手を尽くしてくれた支配人だ。私は支配人のためにも、この試練を乗り越えなければならないのだと、覚悟をかき集める。今は未だ不安や嫌悪感で心がざわついてはいるが、それをそのときまでに制圧できるように自分に言い聞かせていけばいいのだと考えた。
横に置いた書類を持ち上げて、
「……はい、がんばります」
しっかりと、そして逃げ場を塞ぐように、支配人の瞳を捉えて返事をした。
支配人は私のその眼差しが意外だったのか、とても短い間だけ目を伏せたあと、何かを決意したようにまた瞼を上げた。
「……そう。よかった」
その一瞬の表情はなんだったのだろうと心に留まる。そしてすぐに、私はその表情に見覚えがあったことを思い出した。それは重なったのだ、あのアパートで支配人が見せた、何かを憂うような表情と。それは申し訳なさか、それは哀れみか、同情か、辛いことを思い出していたような顔をしたのだ。
どくんっ、と今度ははっきりと私の心臓が波を打った。これまでのものとは明らかに違う、胸の高鳴りだ。
「じゃあ明日、僕に挨拶とかはいいから、時間になったら自分でホテルに赴いてもらっていい。ただ、初めてだから、帰ったら一言教えてほしい」
呆気に取られていた私は、一時返事をすることを失念していた。そしてそれを呼吸とともに思い出し、「……はい」と付け加えるように返した。
私の反応を待ったあと、支配人はテーブルの上に並んでいたほかの書類もかき集め、
「……はい、じゃあ以上かな」
そう言ってそれらの角を揃え始めた。
あえて私の顔を見ないようにされているような気がして、またしても言葉を失くしてしまう。私はじっと支配人のほうに釘づけになってしまった。
「応援しているよ」
再び視線をくれた支配人のお陰で私は我に戻り、席を立った支配人に続くようにソファから立ち上がる。しっかりと書類を持っていることを確認して、出口のほうへ案内を始めた支配人の後を追い、「……はい」と小声で返事をして、支配人の事務所をあとにした。
廊下に投げ出された私は、手に持っていた二枚の書類を改めて見下ろす。
片方は教わった通り、客と交わす予定の契約書だ。そしてもう片方は、私とシャロスという男が合う日時や条件が記載されていた。――そういえば支配人が説明をしてくれていたとき、ほとんど耳に入っていなかったことを思い出した。……この書類がなければ支配人に再び尋ねなければならなくなっていたと冷汗をかいた。
そして私はその書類に再び目を通し、私の処女喪失の日時が既に明日の夜だったことに愕然としたが、それ以上にシャロスという男が私の処女権を勝ち取るために三百万も積んだことを知って、愕然以上の驚愕を覚えていた。
翌日、私は今晩控えている〝初夜〟を考慮されたのか、ホールには出なくていいとの指示を受けた。どこで聞きつけたのか(もしかしたら支配人がフォローをするように言ったのかもしれない)ヒッチは今晩が私の初めての本番だということを知っており、上の空だった私を励まそうといつも以上におしゃべりになっていた。
『大丈夫、怖くないって』
『客も人間なんだから、ひどいことはされないよ』
そうやっていろんな気休めの言葉をもらった。……今晩の本番の相手がほかでもない、シャロスという男でなければ、それは私だってその言葉に縋って信じようとしていただろう。だが真実はそうではない。私の相手は〝あの〟シャロスという男で、そして私は既にその男の本性を垣間見ているのだ。……いや、相手がシャロスでなかったとしても、女の処女を欲しがるあたり、その本性は計り知れていたのかもしれないが。
ヒッチに案内されて、衣裳部屋の隅にあるチェストを開くと、そこには新品の下着がいくつも入っていた。当然、客に見せるのだから、下着もいいものを身に着けておいたほうがいいと言われ、二人で私のサイズに合うものを探した。……その間、私は心の中で、何をやっているんだろう、と激しい自己嫌悪に陥っていた。
それから少し経つと、ヒッチは今日も同伴があるから、と寮をあとにした。
刻一刻とその時間が近づいていることを実感し、徐々に緊張感と嫌悪感で気分が悪くなってくる。……けれど、三百万だ。シャロスという男との行為を我慢すれば、それだけで一気に数ヶ月分の金額を返済できる。そうだこれは、私の未来を一刻も早く取り戻すための試練なのだ。私は自分に強く言い聞かせた。
さらに時間は過ぎて行き、店のほうから漏れ出す音楽がここまで届いていることにうんざりする。もう五時を回っているので、あの店の中では、私のこの憂鬱な気持ちも知らずに、男女が楽しく会話を弾ませているのだろう。そしてその後ろで支配人はいつもの黒いスーツにインカムを着けて、店の様子を窺っているのだ。
――ふわり、と少し気持ちが不自然な浮き方をした気がした。
支配人の後ろ姿を思い浮かべたときだ。彼が振り向きざまに見せるうなじや、意外としっかりとした首筋……ふうわりと穏やかに笑う、あの口元……そして水面を湛えるような、あの瞳。――瞬時にまた、事務所で見せられた顔が脳裏を過った。申し訳なさのような、何とも言えない表情をしたときの顔だ。私はそれで我に戻った。
まったく、こんなときに何を考えているのだ、と髪の毛をかき乱す。何故か頬が熱くなっていく気がしていたが、そんなことは知らんぷりだ。
それよりも、そろそろ身支度を整えたほうがいいだろうか。
着けたくもない派手な下着がベッドの上に放り投げられていて、それをちらりと盗み見た。……あれを身に着けること自体がこんなにも屈辱的だというのに、私はこのあと、本当にあの男と床を共にするのか。信じられないという気持ちがあるくせに、思い出した途端、また緊張感と嫌悪感で気分が悪くなる。
――いや、きっと大丈夫だ。あのシャロスという男、確かに下品な変態には変わりないが、きっとそういう行為には詳しいだろう。おそらく、しっかりと私を導いてくれるはずだ。……ぞく、と背筋に悪寒が走ったことで自分の本心を知るが、今は誤魔化すことに専念したい。
そうやってもだもだしている間に、閉店の時間を迎えていた。……いよいよ逃げ場がなくなってくる。
未だに私のベッドの上で転がっている派手な下着が、そろそろ観念しろと言うようにこちらを見ているような気がした。
約束のホテルは二軒先ということで、そこに至るまでの時間は二分と必要ないだろう。そう思うとぎりぎりまで引きずりたい気持ちが拭えない。……そういえば、そもそも髪の毛なんかはどうしていけばいいのだろう。どうせ乱されるのであれば、セットしていくのは邪魔か。それに服装だって……よもや、店に出るようなドレスを来て出かけるわけには行くまい。
そういうことを考えている内に、くらくらと眩暈がしてきた。拒否反応が本格化しているのだろうが、ここは三百万のため、なんとか完遂するほかない。
閉店してしばらくしても部屋に戻って来ないヒッチに、おそらく今日はアフターにでも行ったのだろうと推測した。もう私には本当に相談できる相手が誰もおらず、一人でざわざわと騒ぎ立てる内臓たちを抑え込もうと必死だった。
あー、だめだ。本当にそろそろ観念しなくてはならない。
もうこの部屋に馴染み始めている置時計を見やると、シャロスという男との待ち合わせまであと十五分と時間が迫っていた。それを隔てるものはもう何もない。私はとうとう立ち上がって、思い切って今着用しているシャツを脱ぎ捨て、私を待っていた派手な下着に手を伸ばした。
――それから思いつく限りの、それでも付け焼き刃でしかない身支度を済ませた私は、支配人から持たされた契約書とコンドームをしっかりと鞄に入れて、自分の部屋の扉を閉めた。
廊下には寛ぎ始めた女たちが何人もいたが、彼女らのことなど視界に入らないほど、私はふつふつと渦巻く緊張に気圧されている。
寮棟の玄関で靴を履き、それから店の脇にある小道を通る。すると目の前にはパラダイスハートの表に面している二車線ほどの通りが現れる。街灯が並び、薄暗くもそれなりに明るさのある通りだ。
もうすぐ深夜の一時という時間ともなれば、通行人などほとんどいない。いてもよろよろとかろうじて歩いていく酔っ払いか、飲み屋の前に捨てられた酔っ払いかくらいだ。
そこで立ち止まり見上げれば、ここからでも『ホテルミッドラス』のネオンは見えた。……私の身体から生気が抜けていくように、顔がげっそりしたような気がする。
緊張感と嫌悪感のせい……気分が悪い、吐きそうだ。それでも私は再び一歩を踏み出し、店の前の横断歩道へ向かう。
しかし横断歩道の白と黒を眺めていたら、一層気分が悪くなった。一歩一歩と運ぶ足が異様に重く、ホテルのネオンを確認するために顔を上げることもできない。
横断歩道を渡り切ると、今度はどくどくと動悸が激しくなってくる。……冷や汗のような気味の悪い悪寒を背中にねっとりと感じた。
――『もうゾクゾクしてきちゃったよ、はは』
あのいやらしい笑みが脳裏に蘇る。
――『この手かあ……この手はさあ――、』
――『どうやって〝握る〟のかなあ……はぁっはぁっ』
次々に彷彿とされるシャロスという男の最悪で下品な記憶が、どんどん私の身体を重くする。あまりに耐えられないほどの寒気に自分の肩を抱いて、その場で立ち止まってしまった。
そこで私は初めて気がついた。
私は今、未だかつてないほどに恐怖しているのだということに。……そうだ、こわいのだ。純粋に。あの下劣で変態な男にこの身を委ねなければならないことに、すっかり怯えている。こんなに恐怖したのは初めてかもしれないと思うほど、私はすっかり恐ろしさに飲み込まれていた。
先ほどよりも激しく頭がくらくらする。立っていることすらままならなくなり、私はとうとう、ホテルの隣のビルの前で蹲ってしまった。
いや、しかし、これは既に交わされた約束で、私は今日という夜を乗り切れば、借金を三百万も減らすことができる。これは大チャンスなのだ。掴み取らない手はないはずだとわかっている。
……わかっているのに、それ以上に緊張感と嫌悪感で押しあがってくる胃が口から出てきそうなほど、気分が悪かった。あるいは本当にここで吐いてしまいそうなほど、おえ、と唾液が上ってくる。ぐにゃぐにゃと歪み始めた視界と、重くなっていく頭――、
「ちょっと、お姉さん、大丈夫ですか?」
「!?」
突然背後から話しかけられて、私の肩は目に見えて大きく跳ね上がった。
若い声に驚きふり返ると、
「こんな時間に一人じゃ危ないですよ」
一人の警察官がそこに立っていた。その背後には、道路脇に停車したパトカーが見えた。運転席にはもう一人警察官が座っていて、こちらの様子を見ているようだ。――おかしなことに、運転席に座っていた警察官にはどこか見覚えがあった。
「……あ、はい……」
私の背後に立っていた警察官が、さっと私に合わせるように身を屈めた。
「うわ、顔色ひどいですよ。大丈夫ですか?」
街灯があるとはいえ、薄暗い通りで私の顔をよく見ようとしたのか、警察官は顔を覗き込んできた。
猫や猛禽類を彷彿とさせる、するどくすっきりした大きな瞳を持っている警察官は、どうやら黒く長い髪を後ろで束ねているようだった。とても身体が大きくてしっかりしている、きっとたくさんの訓練を受けてきたのだろう。
何故か私の脳裏には支配人の顔が浮かんでいて、咄嗟に顔を逸らしてしまった。
「――へ、平気です」
裏社会の住人である支配人とこの警察官に接点を作ってしまったら、何かがまずいような気がしたからだ。
けれど警察官もそれでは引き下がらない。
「いやいや、平気じゃないでしょう。送っていきますから、行き先を教えてください」
私の脇を抱えて、引っ張り上げるように私を自分の足に乗せてくれた。自分が立ち上がったからよくわかるが、この警察官、本当に背が高く、見上げるのをすぐに諦めてしまった。
またしても顔を隠すように俯くとそれを不審に思ったのか、警察官は「……お姉さん?」と私に返答することを促した。
……しかし、私は行き先がこの目と鼻の先にあるホテルであることを、どうしても口にしたくなかった。……ここに踏み込んでしまったら最後、私はあの下劣で変態な中年おやじに……すべてを明け渡さなければならない。思い出しただけで、また背筋に悪寒が走った。
私は思い切って口を開いた。もうこれしか言えなかった。
「……ぱ、パラダイスハートに……」
そして、少しだけ自分で身体を店のほうへ傾けた。
すると何とも突拍子もなく、警察官が「あれ?」とかなり無防備な声を発した。
「もしかしてお姉さん、アルミンのところの子?」
警察官が何のためらいもなく支配人の名前を出したことに大層驚いた私は、目を見開きながら「え? あ、はい」と同じくらい無防備に返してしまっていた。
それから瞬時に思い出したことがある。そういえば少し前、支配人が親し気に警察官と会話をしていたことがあった。もしかしてあのときの警察官がこの男だったのかと思い至り、違った意味で緊張するような、また反対に安堵するような、複雑な心境に陥っていた。
「そうなんだ。じゃあなおさら放っておけないですよ。しっかり送り届けますから」
「……え……?」
その言葉を聞いて、私は邪推してしまった。もしかしてこれは、彼の言葉で言う、『アルミンのところの子なら、逃がしはしないぞ』という意味なのか。それともこれはただの考えすぎで、本当にただの手厚い対応なのか……すぐには決めきれずにいたが、
「はい、すぐそこだから車乗るより歩いたほうが早いですから、がんばりましょう。歩けます?」
警察官は早速と言わんばかりに私の背中を押し始めたので、
「……はい……」
答えなんて出ないまま、私はたった今歩いてきた横断歩道を渡らされた。
警察官は歩きながら「しかしこんな深夜に営業なんて、キャバクラの女の子も大変ですね」なんて世間話をし始める。――〝裏社会の人間と癒着のある警察官〟という印象からは到底想像もできない、その軽快な距離感に少し戸惑った。いや、それは支配人も〝裏社会の人間〟とは思えないという点では同じなのだが、何か底の知れなさに圧倒されてしまった。
結局私が相槌を打つ間もなく、パラダイスハートの脇にある小道の前に到着していた。……やはりこの奥に寮棟があるのだと知っているところを見ると、この男が支配人と親しくしていた警察官で間違いはないのだろう。
「はい、じゃあお姉さん気をつけて」
小道の前で立ち止まり、私がその小道に入ったことを確認した。
私はこのとんでもなく短い距離だったが、しっかりと送り届けてもらったことに一応礼を述べて、逃げるように踵を返した。
そして寮の玄関前でその建物を見上げた。薄暗い電灯が一つあるだけの、薄暗い玄関だ。……先ほど目指していた『ホテルミッドラス』とは大違いな佇まいを眺め、私は下唇を噛みしめてしまった。
――戻ってきてしまった……。
そう、私は、三百万は払うと言ったシャロスという男との約束を、反故にしてしまったのだ。おそらくもう時間も過ぎているだろう。……私はこの粗末な事態を前に、一体どうすればいいのだろうと途方に暮れた。
おそらく私がここでうだうだと悩んでいたところで、姿を現さない私に業を煮やして、シャロスという男は支配人に連絡を入れるだろう。そうすればどうしたって彼の耳に入る事態になる。……だとするなら、今考えられる最善は、私が自分で先に支配人に報告に行くことだろうと思い至った。……いつもよりも随分鈍い頭の回転に、自分がどれだけ動揺しているのかを思い知りながら、私は玄関へ足を踏み入れた。
靴を履き替えて、寮の階段を上っていく。……目指すはもちろん、三階の支配人の事務所だ。この不始末を自分の口で報告しなければならない。
……しかし、なんと言えばいい。気分が悪くなったので引き返した、とそう言えば少しは失態が軽くなるだろうか。いや、しかしそれは往生際が悪いような気もした。
支配人の事務所の前に到着し、私は無気力な手つきでその扉をノックした。
考えが上手くまとまらない……いや、頭そのものが上手く回転できていないように思う。……私は支配人がせっかく見つけてくれた三百万のチャンスを逃してしまったのだ。どんな顔をして、支配人に報告をすればいいのかすらもわからない。
「はあい」
事務所の中から声が聞こえる。いつもの穏やかで明るい支配人の声だ。
ためらいなどあるはずもなく、支配人はその扉を開いた。そしてその瞬間、「って、アニ!?」と私の姿を見て驚いた様子を見せた。……それもそうだ、〝一夜を過ごす〟にはあまりにも早すぎる帰寮だったろう。
「どうしたの!? シャロス様は?」
驚いているだけなのはわかっているが、いつもより穏やかさを欠いていた声使いに、思わず肩を竦めてしまった。なんて答えたらいいのか、未だに頭の中はぐちゃぐちゃのままだ。
しかし急いで何かを言わないと、と焦りに負けて、私はぎゅうぎゅうと窮屈な喉で言葉を絞り出していく。
「……逃げてきちゃった……どうしても、こわくて……」
顔を見せることができず、終始支配人の足元を見ていた。支配人が未だに着用したままのスーツのスラックスは、少しくたびれている。
私のことを推し量ろうとしているのか、少しの間、何も言わずに立っていた。もしかしたら私からの更なる言い訳を待っていたのかもしれない。――気持ちが悪くなってしまったことも言うかと迷ったが、迷っただけで口からは出ずにいた。
ふう、と支配人の静かな息遣いが聞こえる。
「……そっか。とりあえず入って。座って」
事務所に招き入れられ、私は昨日の昼にやったようにソファの片方に座るように誘導された。
支配人はその反対のソファに座ることなく、私の側に立ってじっと何かを考えているようだった。……もしくは、いつまで経っても顔を上げない、私のつむじを見つめていたのかもしれない。
何のやり取りも行われない沈黙が、しばらくこの事務所の中に充満していた。――私は支配人になんと言われるのか気が気でなかったし、そういえば店のノルマを割ると強制的に売春をさせられると言っていたことを思い出して、さらに不安を重ねた。それならばきっと、約束を取り付けた客から逃げ出すことに対する何らかのペナルティもあるかもしれないと思考が巡ってしまい、私はこの先どうなってしまうのだろうと失望していた。いや、私はもう、一生この店から出られないかもしれない。……この沈黙も、私を咎めるためのものだったら……。
もう何に対して恐怖を抱いていて、何に対して失望していて、何に対して嫌悪しているのかもわからなくなってきた。ただただ身体を縮こまらせて、支配人から聞くであろう、初めての糾弾の声色に必死に耐えようとした。
「……今日はもう、戻れそうにない? やめとく?」
しかし、沈黙の中に沁み渡るように響いた支配人の声は、初めて聞くような糾弾の厳しい声ではまったくなかった。むしろ、これまで聞いた中で一番と言えるほど、優しく、静かに紡がれていたのだ。その声使いに、私はたちまち心が緩んでしまい、目の奥が熱くなっていった。――どうして、どうしてそんなに落ち着いて、そしてやさしい言葉をかけてくれるの。
今、声を出したら震えてしまうことがわかった私は、なけなしの気力を振り絞って小さく頷いた。
思い切って表示した意志に対しても、支配人は罵声も怒声も浴びせることなく、ただ閑やかに「……そう」とだけ呟いた。
それから支配人が何かをしていることが気配で伝わってくる。……未だに顔を上げられないので、その行動に耳を澄ませていると、支配人のほうから電話の呼び出し音が聞こえてくる。支配人がどこかへ電話をしているのだと理解したのはそれからだ。
その相手は一体誰だ? と疑問に思うよりも前に、その呼び出し音はぷつりと途切れ、
「あー、もしもしシャロスさん? パラダイスハートの支配人のアルレルトです」
私にかけたのとはまた違う、まったく普段通りの声使いで支配人は電話に応答した。
呼び出し音の代わりに、受話器の向こうで何かを話している声が漏れているが、内容までは聞き取れなかった。しかしその声の勢いから察するに、興奮はしているようだった。
「あ、はい、すみません。彼女向かったみたいなんですけど、途中で体調崩しちゃったみたいで。僕が戻るように言いました」
なんと支配人は私をかばうためなのか、いとも簡単に嘘を吐いてしまった。……いや、嘘を吐いて〝くれた〟と言うべきだ。
「……はい。いえ、よくあることなんです。何せ初めてですから、女の子も緊張しちゃうんですよ」
また受話器の向こうから、勢いのある声が聞こえてくる。先ほどよりは少し冷静になっているようではあった。
「はい、次の機会に必ず。はい、ありがとうございます」
そして終話の挨拶をまともに伝えないまま、先に先方が電話を切ったようだった。
先ほどと同じように、のそのそと何かが動く気配がして、おそらく支配人がポケットにまた携帯電話をしまったのだろうと予想した。この間私は、やはり顔は上げられないままだった。
またしても短い時間に沈黙が流れた。いよいよ支配人が私を叱るのかと思ってみても、これまでの言動や今の空気感まで、どう考えても支配人が声を荒げるような様子はなかった。
ここへ逃げ帰ったことは間違いではなかったのだとどこか安堵を覚えると同時に、そういえば私は何故あのまま逃亡しなかったのだろうと疑問に思った。考えてみれば、それこそあれは絶好のチャンスだったはずだ。私なら警察に捕まるなんてヘマもしなかっただろう。……なのに私は微塵もそんなことを考えず、まっすぐにここに――いや、この支配人の元に――帰ってきてしまったのだ。
これは何とも……、
「あんたの元に逃げるなんて、どうにかしてる……」
どうしても自分が滑稽に思えてしまい、私はそうぼやかずにはいられなかった。
それに対しても支配人は逆上することもなく、
「まあ、僕は君たちを守ることも仕事だから間違っちゃいないよ」
そうやって穏やかに言葉を紡ぎながら、ゆっくりと私の隣に腰を下ろした。今さら気づいたが、支配人はスーツのジャケットを着用しておらず、シャツとベストだけの姿だったようだ。……未だに顔を見られないので、あくまで視界に入った部分で気がついた。
――支配人は私たちを守ることも仕事だと言った。けれど、本来の仕事は大方、私たちから借金の返済金を回収することのはずだ。そう考えたときに、私をこんな形で匿うのは賢明ではないのではないかと私には思える。
だから私はこの際と言わんばかりに、少しだけ顔を上げて支配人に尋ねた。
「……でも、それじゃ借金が返せない……。困るのはあんたなんじゃないの」
そもそも、支配人が私たちにこんなに気を配ってくれることが、きっと〝普通じゃない〟ことなのだ。
支配人は私の問いに不意を突かれたのか、驚いたように間を空けた。
「……まあ……。ただ、ノルマさえ守ってくれれば、身体を使うことを強要はしない。そう言ったでしょう?」
またしてもその声が優しく私の耳に響き込む。先ほどシャロスという男と電話で話していたときとは違った声だった。
「……でも、」
少しその優しい声使いに、ぴりりとした緊張感が走った。
「身体を使わないやり方だと、借金を返すまでに時間はかかるよ。それは覚悟してね」
そう言い切った。……これも支配人なりの気遣いなのだとわかる。そんなこと、少しでも早く自由になりたいに決まっている。そしてその近道があるのに使わないというのなら、もちろんそれは途方もなく長引いてしまうということだ。
……けれど、あんな恐怖をまた経験するくらいなら――、
そう思いかけた、そのときだった。
「君が不安なら、――僕と予行演習してみる?」
支配人の口から、とんでもない提案が飛び出してきた。
「……え?」
私は自分の耳で聞いたものが果たして正しかったのかと確認せずにはいられなくなり、思わず顔を上げてしまった。
そしてそこには、いつになく真剣な眼差しの支配人がいた。……どくり、と心臓が跳ね上がって熱を持ち始める。
「――セックスがどういうものか、僕と予習してみる? って話だよ」
その真剣な眼差しのまま、水面を湛える海のような広い瞳で私を捉えていた。
私は再び伝えられた提案に、一瞬にして身体が燃え上がるような感覚を経験した。だってこれは、支配人が自分と事前にセックスをしておくかと言うような提案だ。私は簡単に狼狽えた。
「えっ、え、でも、そしたら処女じゃなくなって、値がつかなくなるんじゃ、」
「うん、もちろん最後まではしないよ。ただ、どんなものか知るにはいいかと思って。……君が抵抗があるなら、断ったらいい。僕は何もしない」
未だにその眼差しは真剣なままだった。これまでの彼の言動からして、本当に他意はなく提案しているのだということは安易にわかる。おそらく、私にとってそうすることが助けになると思っているのだ。
どくどくと心臓の鼓動が加速するばかりで、止まるところを知らないようだ。見ていた支配人の眼差しが霞んで見える気がする。……私はそれに、釘づけになっていた。……私はその眼差しが、――好きだ、と思ってしまった。
けれどその刹那には反発するような思考も浮かんでいた。……そうだ、支配人は私〝たち〟にとっての最善をいつも考えてくれるのだ。それはつまり……、
「……もしかして、ほかの子にも言ってる?」
何故それが気になったのかなんて、今の私にはわからない。ただ、それを確認せずにはいられなかった。
すると支配人は意外にも少しその表情を崩した。それから何かを誤魔化すように後ろ頭をかいたあと、
「あー、うん。初めてがこわい子は君だけじゃないんだ」
何を悪びれることもなく、ただその答えを教えた。
……そうだ、支配人にはそれを悪びれる理由なんてない。彼にとってこれはすべて〝キャバクラに売られてきた女たちのため〟であって、また私たちがスムーズに返済していけるようにすることが彼の勤めだからだ。
だがどうしてだろう、そんな既知の事実を今さら実感して、落胆したような自分がいる。この気持ちは……この痛みは、いったいなんだろうと歯痒く思った。
支配人はテーブルの上に置いてあったたばこの箱を拾い上げ、そこから一本のたばことライターを取り出した。
それを口に咥えて火を点しながら、
「〝この軽薄男が〟って思った?」
ちらりと私を盗み見た。
それから火種を含んだ一本のたばこを、深く一吸いしてみせた。……私の問いに少し動揺したのか。それとも機嫌を悪くしてしまっただろうか。
「……そんなこと、は」
口を挟むようにそう応えると、支配人は初めて見せるような、シニカルな笑みを含む表情を覗かせた。
「……好きに思えばいいよ。ここでの評価に興味はない」
私はその表情に呆気に取られていた。
けれどそれもまた、もう一度煙を吸い込んだとき、ふ、と力を抜いた。――まただ、また、何かを憂うような、思い出の中を探すような、そんな言い表せない顔をした。
「僕はただ、見ず知らずのおじさんにいきなりわけのわからないことをされるのは怖いかなと思うだけだよ。だからせめて、もう少し身近な人に、こういうものだよと教えてもらっていれば安心かなって」
その内容よりも、たばこを口から放したときに向けられた哀しそうな眼差しに釘づけになってしまった。そしてそのせいで、何も言えなくなってしまった。
「もちろん、断る人もいるけど、そのままお願いされることもあるよ。でも安心してよ。――僕は君たちに執着したりしない」
そして今度は私を横目で見ながらたばこを口に運んだ。
――なんだろう、この、違和感は。
私は釘づけになってしまったその眼差し、表情に、完全に取り込まれていた。もう頭から離せないほど、支配人のその空気までもが、私の意識を引き込もうとする。
――どうしてときどき、そんな顔をするのだろう。
――どうして私たちに、そこまで気を回そうとするのだろう。
焦るようにくり返すたばこを含んだ呼吸と、その喉元を見て、私は結局また何も言えないままだった。
その沈黙に嫌気が差したのか、支配人はそれまで灰を落としていた高そうな灰皿をテーブルの端から引き寄せて、それに吸い殻を擦りつけながら言った。
「……はあ。今日はもう帰って休むといいよ」
少し投げやりだっただろうか。取り乱した自分を顧みて落ち着こうとしているようにも見えた。
「……うん」
私はこれ以上支配人の気持ちをかき乱さないよう、指示通りに立ち上がり、そして今回は扉まで見送りにも来ない支配人を置いて、事務所を出て行った。
こんな時間でも寮の廊下は明るくて、まだまだ人の気配に満ちていた。
*
翌朝になった。
昨晩の波乱万丈のせいでなかなか寝つけなかったからか、私が起床したのは十時を回ってからだった。……完全に朝ごはんを逃してしまったことになる。
昨晩の波乱万丈のせいで寝つけなかったとは言ったものの、その内容は自分でも受け入れ難いものだった。私は次から次へと溢れ出る支配人との思い出に溺れていたのだ。そして昨晩、支配人と交わした会話が頭から離れなくなっていき――支配人と予行演習をするか否かと、思考はずっとそこを巡り巡っていた。
ああほら、目覚めてまず思い返してしまったのがそれだ。私は唐突に支配人に抱きしめられる場面を想像してしまって、わけのわからない内に頭から火を吹くように顔が熱くなった。私のばかやろう、そう悪態をつきながら、その根拠のない妄想を頭から払拭する。――そもそも男性経験に乏しい私には、その〝予行演習〟のイメージなど到底できるはずもないのだ。
ぐだぐだといつまでも狭いベッドの上で転がり回っていると、そこで、トントン、と部屋の扉がノックされた音が聞こえた。
驚いて扉のほうへ顔を向けると、「アニー? 起きてるー?」とヒッチの声がした。
私は慌ててそこに起き上がり、「ちょっと待って!」と声をかけて、急いで部屋のカーテン開ける。眩い日差しが部屋の中に一気に差し込み、その明るさにひとときだけ目が眩んだ。
それから私は部屋の扉に飛びつき、開錠してそこから顔を覗かせた。
「ハーイ。アニ、昨日はどうだった? 初めての外営業だったんでしょ?」
廊下に立っていたヒッチはにこにこと無害な笑みを浮かべて、それでも興味津々に私へ尋ねた。
当の私はその問いかけのせいで昨晩の失態を思い出してしまい、ふらふらと扉を開いてヒッチを部屋の中に招き入れた。
ヒッチも私のただならぬ様子を見て、すぐさまそこから笑顔を取り払い、その代わりに心配そうな顔を浮かべて部屋に入ってくる。
扉を閉めた私は、床に腰を下ろしているところのヒッチを見ながら、思い切って口を開いた。
「……逃げてしまった……」
そこに落ち着いたヒッチは背筋を改めて、
「ええ? 逃げちゃったの?」
「……うん」
とても驚いたような目つきで私を見返していた。
これを報告するのに支配人以上に恐れる人はいるはずもなく、私もあっけなく観念してそれを認めた。
よろよろと部屋の中を歩き、ヒッチの向かいになるようにベッドに座った。
揺れるベッドが収まるのを待ってから、ヒッチは再び深刻そうな口ぶりで言葉を始めた。
「ありゃりゃ~そうか~……。で、支配人はなんて?」
首を傾げて私の顔を按ずるように見つめる。私はその瞳を見返して、昨晩あったことを静かに思い返していく。くつくつとまた、胸の辺りから熱を浴び始めたのを感じるが、それをなんとか無視して応えた。
「……別に、責められたりしなかった」
「……だろうね」
「……でも、予行演習、してみるかって……聞かれた……」
そして、今度は私がヒッチの反応を窺うように、その顔を覗き返した。……もしかしたら私はこれを言ったときのヒッチの反応で、いろんなことを推し量ろうとしたのかもしれない。
しかしヒッチは何とも意外なことに、さもそれが大したことでもないような調子で、「あーね」とだけ相槌を打ったのだ。
それ以上何を言うでもなかったヒッチに肩透かしに遭ったような気分になる。もっと彼女の意見を聞けるかと思っていたのだが……。
仕方がないので、今度はもっとわかりやすく彼女に尋ねることにした。
「……ヒッチは……初めてのとき、どうだった……?」
するとヒッチは軽く息継ぎをしたあと、
「まあ、私はここにきたときには既に経験済みだったからねえ」
やはり何でもないことのように言ってのけたのだ。
――そうだ、これはおそらく、経験した者にとっては〝何でもないこと〟のようになっていくことなのだろう。……あんなに恐怖した自分を愚かに思うくらい、きっとどうでもいいことに成り下がっていくのだ。
……けれど、それでも、昨晩、逃げ出すほど恐怖してしまったことは事実だった。なんて情けないと思っても、あの眩暈や悪寒は本物だった。
「でも何人か、支配人にお願いしたって子は聞いたわ」
ヒッチが少しの脈略を引き寄せて付け加えた。
私は抑えきれず顔を上げていて、ヒッチが言ったことが本当なのか、彼女の瞳で確認してしまった。……当然、そこに嘘を吐いているような色はない。
それはそうだろう……ヒッチに特別に、これについて嘘を吐く理由がないのだ。
私はまたしてもひどく落胆したような気分になった。
「……そうなんだ」
何とか絞り出して言えたことは、それくらいだ。――やはり支配人が言っていた通り、支配人は私だけにそれを提案したわけでもなく、過去にはそれに縋る女もいたということなのだ。
ぎゅう、と胸が握りつぶされたような窮屈さを抱いた。少し痛みにも似た窮屈感だ。……私は何がこんなに辛いのだろう……何をこんなに、落胆しているのだろう。――支配人のあの、何とも言えない表情がまた浮かんでいた。
しかしヒッチは私の落胆とは裏腹に、声を少しだけ明るく切り替えて続けた。
「支配人の人となりはわかってるからね。知らないおっさんよりは安心はできるんだろうけどさ」
支配人にその〝予行演習〟をお願いした女たちのフォローをしているようだった。……確かにヒッチの言う通り、支配人ならまずここで働く女を傷つけるメリットもないし、そもそもそういう人でないこともわかっている。それを信頼して縋る人がいても、それは変な話でもないのだろう。……私だって、昨晩何千回と自分に問い続けたではないか。――支配人に予行演習をお願いするか否かについて。
ぼう、とまた、昨晩から何度も妄想してしまっている、私を抱きしめる支配人の幻影が脳裏をよぎった。どきりと心臓が高鳴り、慌てて思考を変えようとヒッチを見やる。
するとあることに気づいた。ヒッチが何やら、思慮をくり返すように瞳を揺らしていたのだ。何かを私に言うか迷っているようで、らしくもなく目を泳がせたあと、はあ、と観念したようにため息を溢した。
「……これは単なる噂だけどさー、」
そう切り出すと、今度は重くならないようにとあえて意識したような軽い動作で、重心を後ろに投げ出した。
「支配人も昔は人気の男娼だったらしいんだわ。まあ、あの顔だしね、わからなくはないけど」
その言葉は私の中に閃きのような衝撃を与えた。
「……支配人が?」
「うん、うーわーさ。本当かどうかなんてわかんないよ」
そうやって逃げ場を確保しているヒッチだが、私はその発想を植えつけられたことで、何かとても腑に落ちるような感覚を抱いていた。
……そうだ、時折り見せる、申し訳なさそうな、何か辛いことを思い出しているような、あの眼差しはもしかして……そういうことなのか。
くるくると自分で勝手に思考を回し始めた私を尻目に、
「でもそう考えると納得はいくのよね〜すごく私たちのことを理解してくれてるというか」
ヒッチは今度は手振りをつけてその主張を後押しし始めた。
「……ここ、よく考えたら結構逃げやすいシステムだと思わない? 監視要員もいないし、出入りは割と自由だし。それでも逃げ出す子がいないのは、結局居心地良くなっちゃうんだよね。あんなに大切にしてくれるんだもん、支配人。マジで惚れてる子、結構いんのよー」
――ドキ、と心臓が跳ねる。
ヒッチが最後の言葉を言った途端、まるで名指しされているような緊張感が走った。じわじわと心拍数を上げていく心臓が、お前のことじゃないだろうな、と責め立てているようだった。
次々に浮かび上がる場面が目の前に並び立てられいく。廊下を渡っていくその後ろ姿をいつまでも見ていてしまったときや、初出勤の前に身支度を手伝ってくれて心地よさを感じていたとき。私は私のままでいいと言ってくれて泣きそうになってしまったとき、笑いかける眼差しを見たとき、一緒に映画を見て過ごしたとき、支配人のことを思い出しては浮遊感を抱いていたとき、釘づけになったとき、胸が高鳴っていたとき――いやそもそも、私のアパートの前でたばこを吸っていたあの横顔を見たときから、もしかしたら。
まるで証拠品を提示されているような、追い立てられるような閉塞感に苛まれてしまう。――私は、支配人のことを……?
「どうしてもこわいなら、お願いしてみるのも手かもね? 一回経験しちゃえば吹っ切れるよ」
「……うん……」
ヒッチの明るい提案で我に戻り、私は未だにじわじわと追い詰めるような鼓動を聞きながら返事をした。
自分の言いたかったことを言えて満足したのか、ヒッチはそろそろと立ち上がり、私の部屋から出ていく素振りを見せる。私も慌ててベッドから立ち上がり、ヒッチを扉まで見送った。
彼女が出て行ったあと、私は扉の前から一歩も動かずにいた。――熱い、熱いのだ、身体中が。ぼうぼうと炎に包まれているような、くすぐるような熱が止まらない。違う、違う、これは、違うんだと何度も自分に言い聞かせて、しつこく浮かんでくる支配人の顔をかき消そうとした。
私に限ってそんなことはない、今はただ、目の前の借金を返していくことに専念すべきだ。……そうだ、三百万という減額のチャンスを自分で棒に振った以上、これからのことをもっと真剣に考えなければならない。
私は今後、自分の身体の清らかさを守っていくのか。それとも、一刻も早く自由になるために、持てるものをすべて使うのか。私が今考えるべきは、そのことなのだ。
つづく