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    第四話 ムチュー・スィエッツァ

    「――はい、わかりました。では明日の三時に」
    終話ボタンを押す。なんとも気まずいタイミングでかかってきた電話は、よく考えれば無視してしまえばよかったのだと、応答してから気づいた。ぼく自身もそれなりにうろたえていたらしい。顧みるような気持ちで、そのまま握りしめていた携帯端末を見下ろした。
     ギルベルトくんの顔が脳裏に浮かぶ。今度はぼくが彼の上司になるのだと告げたギルベルトくんは、たぶん、無理に『おめでとう』と言っていた。何年もがんばって支えてきた会社で、ぼくみたいな運だけのぽっと出の新入りに出世を邪魔されたんだ、きっと心中穏やかじゃないだろうに、それでも彼は『おめでとう』と言った。……そう、ギルベルトくんはそういう人なんだ。きっと、すべての不合理を自分の未熟のせいと反省して、前を向いて立ち向かおうとする。……昔との違いといえば、激情を剥き出しにしないだけで、根底の部分は変わらない。ぼくの大好きだった彼が、ちゃんとそこにいる実感をもたらした。……けれど同時に、ぼくが感じていたギルベルトくんの危うさみたいなものまでも、しっかりと健在していて……――そこに必死になって立っているような、やっとの思いで自分を抑えているような、そんな危うさを、勝手に見つけてしまった。そしたら、もう理屈とか道理とかどうでもよくなって、ただ彼に触れたいという気持ちで胸が苦しくなった。一刻も早く、ぼくの気持ちを受け止めてほしかった。そうすれば、あのときみたいに彼も楽になれると、きっと勝手に思い込んだんだ。……とどのつまり、もう一回チャンスをくれないかと尋ねておきながら、ぼくはすでに彼にキスをするつもりでいた。……なんて、最低なんだ。
     しばらく動作が始められない。なんと意気地なしなのか、ぼくは自分から勝手にギルベルトくんとキスをしておいて、それで怖気づいてしまったのだ。……今さら、ギルベルトくんの、合意もなかったなんて……。
     は、と我に戻る。塞ぎ込みかけていた気持ちに血の気が引いて、慌てて考えを変える。背後にある喫煙所から誰も出てきていないのだから、そこにまだギルベルトくんがいる。勝手にキスしたことを、謝ったほうがいい。きっとそうだ。……許してもらえるかはわからないけど。
     ようやく踵を返すに至り、ぼくはくるりと身体を翻した。目の前の喫煙所の扉の取っ手を握り、またぼくは足が竦んで身体が固まる。押すか引くかだけの扉にはドアノブではなく、取っ手しかついていないのだから、それを押せばいいだけのこと。ぐっと、力を込めてみる。流れを絶やさぬよう、その扉を静かに押し開けた。
    「ぎ、ギルベルトくん、あの、さ……ん?」
    目前に広がっていた光景に思わずまた足が硬直した。様子がおかしいことに気づいたのはすぐだったけど、それを脳で理解するには少しばかり時間が必要だった。
     視界に飛び込んできたのは、身体を抱え込むようにしてうずくまり、強い呼吸と一緒に肩が上下しているギルベルトくんの姿だ。はあ、はあ、という激しい息遣いには異常さしかなく、ぼくまでパニックになりかけた。
    「ギルベルトくん⁉︎」
    とっさに取った行動は、うずくまっている彼の肩をなんとかして支えられないかという試みだった。近くへ寄れば、いっそう呼吸の激しさが際立って聞こえる。口元に当てた手で自分の呼吸を抑制しようとしているようで、それでもその手すら震えて落ち着きがない。よほど苦しいのか額には冷や汗が浮かんでいて、焦点が定まっていない。
    「ギ、ギルベルトくん……⁉︎」
    どうしよう、これ、なんだろう。とりあえず苦しそうなのはわかる。時折垣間見える唇からは血の気が引いていて、よく聞けば呼吸に雑音が混ざっている。喘息の発作とか? いいや、彼が喘息を持っていたなんて、一度だって聞いたことがない。じゃあ、これはいったい。どうしたらいい、どうしたらいい。ぼくは初めて見る緊急事態に圧倒されてしまった。
     急いで携帯電話を取り出して、すぐに救急車にダイアルした。繋がった途端にされた質問には、焦りから声を張り上げて「救急車!」なんて叫んでしまったけど、喫煙所の中に反響したのを聞いて、ぼくまでパニックになってどうするんだと自分を叱った。片方の手でギルベルトくんの背中を摩りながら、そのあとのオペレーターの質問には割と落ち着いて答えられたと思う。
    『――おそらく過換気症候群ですね、いわゆる過呼吸です』
    受話器の向こうから返ってきた言葉に、ひらめきが走る。そうか、これが『過呼吸』というやつなのか。ぼくも生きてもうすぐ三十年。その名称は聞くことくらいはあったけど、実際に発作を見たのは初めてで、まったく想定していなかった。
    「で、どうしたらいいんです⁉︎」
    『はい、まずは周りにいる方が呼吸が落ち着くような声かけをしてください。呼吸のテンポは意識することで治まることがほとんどです。息を吸って吐くのを、一対二くらいの割合でできるように促してください』
    オペレーターが落ち着いていてくれたおかげで、ぼくもかなり冷静になれた。受話器をスピーカーモードに変えて床に置き、
    「ギルベルトくん、大丈夫。大丈夫だから、ゆっくり、息を吐いて。吸うことより吐くことを意識するといいって。大丈夫だから、大丈夫だよ」
    目線を合わせて、顔を覗き込みながら伝える。縋るようにぼくを見返す瞳に負けて、どうしてだろうか、ぼくがぼとぼとと涙を落としてしまう。無意識の内に背中を摩っている手にも力が入っている。だけど、一向にギルベルトくんの苦しそうな呼吸は変わらなかった。今度は言葉じゃなくて、呼吸のリズムをぼくが作ってやる。真似しやすいように大げさに吸って、吐いて、吐いて、を見せて、誘導してみる。
    「あれ、なんだ?」
    「おい? あれ、ギルベルトじゃないか⁉︎」
    「おい、大丈夫か⁉︎」
    急に背後が騒がしくなった。ぞろぞろと人が喫煙所に入ってきたらしい。そうか、午前の休憩時間に入ったのか。けれど、今は変にギルベルトくんを刺激しないようにしたかったこともあって、煩わしさしか感じなかった。とにかく、それをなんとか意識から排除して、呼吸のリズムを整えるように、一緒に呼吸をくり返すことを続けた。
     唐突にバッと布を叩いたような音が聞こえ、同時に腕を掴まれた感触がある。見ればそれはギルベルトくんで、先ほどよりはよほど手に力が戻っていた。
    「もっ……だいじょう……ぶ……!」
    掠れながら訴える声に、思わず口元に注目する。確かに、さっきよりは呼吸のペースは遅くなっている気がする。……何より本人がしゃべる余裕ができているんだ……もう、大丈夫……なのかな……。
     そのまま見守りつつ、携帯電話を拾い上げた。
    「お、落ち着いてきました」
    言っている間にも治まっていくギルベルトくんの呼吸に、心底安堵していた。……よかった、大事に至らなくて、本当によかった。
    『そうですか。救急車の手配はどうされますか?』
    スピーカーからオペレーターの落ち着いた声が漏れて出る。
    「必要でしょうか?」
    『ほとんどの場合、過呼吸では落ち着けば心配ありませんが、どこか異状が認められますか?』
    問われて、とりあえずまた唇の色を確認した。確かに血色は悪かったけど、おそらく救急車を呼ぶほどのことじゃない。ぼくに意思を伝えられたのだから、意識もはっきりしているはずだ。
    「……いえ、特にはなさそうです」
    『であれば、通常の診療で十分かと思われます』
    オペレーターさんの声がひどく雑音混じりだったことを、ここへきてようやく知る。それまでは必死すぎてそれどころじゃなかった。
     そのあと、オペレーターさんにいくつか今後の対応を聞いて、電話を切った。そしてそれとまたほぼ同時、背後にあった喫煙所の扉が開く音が派手に響いた。
    「ほら、ギルベルト! 袋見つけてきたぞっ、使え!」
    「もう遅いよ、治まった」
    「……あ、あれ? そうか、大丈夫なのか⁉︎」
    再びふり返ると、馴染みのない顔ぶれが何人も覗き込んでいて、思っていた以上の大騒ぎになっていた。よくよく見れば、数人営業部の人間も混ざっている。誰かが呼びに行ってくれたんだ。ぼくはギルベルトくんを助けることに必死になっていたから、気が抜けて頭が真っ白になってしまった。
     まさにそのときのことだ。ばた、と事切れたように、ぼくの隣にあった気配が床に上半身だけを倒れ込ませた。わっと周りの人たちから声が続く。
    「ギルベルトくんっ⁉︎ 大丈夫⁉︎」
    一番近かったぼくがギルベルトくんに声をかけると、彼はまだ顔面蒼白だったにも関わらず、小さく不敵な笑みを浮かべてみせて、
    「大丈夫だ……ちょっと、安心したら、力が抜けた……だけ……」
    不安定な声でも、はっきりとそう教えた。
     張り詰め直した緊張感が、また一気に解れる。ああ、もう、心配した。本当に、どうしようかと思った。先ほどとは違う感情のせいで、また目玉の周りに張った涙の膜が視界を歪ませる。
    「――ギルベルト! こら、関係ない人は業務に戻る! 休憩は終わってるぞ!」
    ざわつきの中に、聞きなれた声が紛れ込む。社長の声だ。わらわらと人の気配が喫煙所から引いていく傍ら、社長のお出ましに焦ったのか、ギルベルトくんがぼくの腕を掴んで身体を起こそうとしていた。応えるように支えてやれば、やっとの思いで身体を起こせたようだ。まだ少し頭がふらつくのか、ぼくの肩を持ったまま、寄りかかるように顔を伏せる。社長の気配が近づき見上げれば、険しい顔で駆け寄ってくる。こんなに柔らかさのない社長の顔は初めて見るほどだ。
    「……どうだ、様子は」
    腰を下ろしながら、ぼくに尋ねた。
    「は、はい。呼吸は落ち着いているみたいですが、力が入らないとかで」
    「……今朝、顔色がいつもより悪いなとは思ったんだよ。まずかったね」
    「もう、大丈夫、っす」
    まだ支えを必要としているくせに、見栄と声を張って主張した。ぼくは静かに視線をギルベルトくんから社長に移し、社長も頷くようにしてぼくを見返していた。
    「ギルベルト、君、最近調子よくないでしょう。今日はもう帰って休みなさい。イヴァンくん、社用車使っていいから、ギルベルトを家まで送ってあげて」
    「えっ」
    思わず声を転がしたのはぼくだ。呼吸が辛かったときに浮かんだ冷や汗が、未だにギルベルトくんを痛々しく見せていた。
     ……ぼくの中にはいろんな感情が混ざっていて、二人きりになれることをためらう自分も、後悔する自分も、喜んでしまう自分も……懺悔したい自分も、収拾をつけられる状態になかった。それに、きっとギルベルトくんはぼくと二人きりになることを避けたいに違いない。ぼくは、勝手にキスをした……から。……だけど、そんなことを社長が知るはずがないのもわかっている。
    「ああ、そうか、家の場所知らないか。ギルベルト、イヴァンくんに住所教えても、」
    「ぼく、知ってます。大丈夫です、送れます」
    社長の言葉を遮ったのは、これが最後の機会だと思ったからだ。ここでちゃんと……もう一度、ギルベルトくんと話をして……。もちろん、さっきのことを謝りたいのもあるのだけど、それ以上に、彼が時折見せる必死な様相のわけを……いや、その惜しむような表情の真意を、知りたい。
     ぼくは他人の表情を読むことには長けているほうだと、自分では思っている。だから、彼と目が合う度に惜しむような表情を見つけて、痛いほど期待してしまう。想い続けているのはぼくだけじゃないと諦めきれなくなって……結果、こんなことをしてしまったんだ。
    「そうか。じゃ、頼むね。……ギルベルト、立てるか」
    「もちろんっす……ケセセ」
    「はは、頼もしいねえ。だけど無理はいかんよ」
    強がりなのか、笑いを零したギルベルトくんだったけど、やっぱりぼくの支えは必要不可欠だったらしく、覚束ない足取りで立ち上がった。それを見届けてから、
    「下に車を用意させるから、イヴァンくん、ギルベルトと階段を下っておいてね」
    「は、はい」
    社長は自らまた駆け足で階段のほうへ向かっていった。……親身になってくれる、本当にいい社長だなと感心したのも束の間、ギルベルトくんがバランスを崩したのをきっかけに、今度は彼を支えようと身構える。途中、もういいと手を振り払われてからも、頼りない足つきに終始肝を冷やされ続けていた。

     よほど過呼吸というものが体力を奪ったのか、走行中の車の中で、ギルベルトくんは死んだように眠っていた。少し怖くなって、実は何度か息遣いを確認したほどだ。……幸いなことにちゃんと呼吸はくり返されていたのだけど、どうやら熱があったらしいことをそこで知る。今朝から熱があったから過呼吸になってしまったのか、それともそのあとから熱が上がったのかは、残念ながらそこまで気を配る余裕はなかったのでわからない。けれど、体調を崩していることは間違いなかった。
     だから、玄関に上がるや否や『たったこれくらいで休めなんて横暴だ』と文句を垂れた彼には、有無を言わさずに身体を休めるように忠告した。
     言葉の割に素直にソファに座り込んだところを見ると、実は身体もそれなりにきつかったのかもしれない。ぼくは今は余計な負担を与えるべきじゃないと考えて、そのまますぐにギルベルトくんのマンションをあとにした。帰社するまでの復路では、結局車の中でも、彼の家でも、一番伝えたかったことを伝えられなかった悶々で、気持ちが沈みっぱなしだった。こんなことなら、一言だけでもごめんねって言っておくべきだった。……でも、ぼくの気持ちはその四文字には収まらない気がして、もだもだしている間に帰ってしまったのが成り行きだ。
     一晩休んだくらいじゃ十分じゃないと思ったぼくは、今朝、ギルベルトくんにショートメールを送っていた。単純に携帯電話のメールアドレスを知らなかったからのショートメール。短く簡潔に『今日はお休みしてください。ぼくから言っておきます』とそれだけ。無視されるかなとも思ったけど、結局出社して来なかったのでメッセージは確認してもらえたんだと思う。
     一人で不便していないだろうか。やっぱり、昨日のことは体調が落ち着いてから謝るべきかな、それとも早いほうがいいのだろうか……と、今朝からずっとそればかりを考えている。そう、昨日ぼくがギルベルトくんにしたことを思い出しただけで、胸が苦しくなる。次から次へと欲張りな気持ちが押し寄せて、いつかまたギルベルトくんと笑い合えたら……そして、支え合えたらいいのになあと、白昼夢さながらに思考の海にさらわれていく。
    「というわけだからね、イヴァンくん……イヴァンくん?」
    「え、あ、すみません、」
    唐突に意識に光が差し込む。西陽が眩しくて、営業部のフロアの大きな窓にもブラインドがかけられていた。隙間から漏れて入る光だけでも、鬱陶しく思わせるほどに晴れ渡っていて、むしろ珍しいとさえ思ってしまう。
     はあ、と雑なため息がぼくに向けて吐かれた。どうやら社長が話している間にも考え込んでしまっていたらしく、
    「あのね、大丈夫かね。ギルベルトが心配なのはわかるけど、イヴァンくん、話は聞いてた?」
    間違いなく特大級のため息を、もう一度吐かせてしまった。
     しまった。来月からの人事についての話をされているところだった。夕方なので、まだ他の班員はほとんど帰って来ていない。
    「は、はい……その、すみません」
    どう繕ったって話を聞いていなかった事実は覆せないので、他に言葉も出なかった。社長は観念したのか、座っていたぼくの隣の席からのろのろときれのない動作で立ち上がりながら、
    「ただの風邪だよ、そんなに心配しなくていい」
    座ったままのぼくの肩を叩いた。
    「それより、明後日の午前中にある人事会議、引き継ぎのために君も出席だからね。それだけでも忘れないでいてくれたらもう今はいいよ」
    疲労をあからさまに背中に滲ませて、社長は営業部のフロアから去っていった。落胆させてしまっただろうか。……けれどギルベルトくんに言った通り、今のぼくには出世だ仕事だとは爪の先ほどの興味も抱けなかったので、それ以上は気にならない。落胆でも幻滅でも好きなだけすればいい。続けるかどうか迷っていると言ったぼくに対して、強引につなぎ止めようとしているのは社長のほうだ。
     そんなことよりも、今はただひたすらに早く定時にならないかと願うばかりだった。何度も壁にかかった時計を睨みつけて、時間の進みを早くするように嗾けたが、まあ、そう上手くいくことじゃない。今日の定時後、またギルベルトくんの様子を見に行って、もしももう大丈夫そうなら、胸の中をぐるぐると圧迫している話をしてしまいたい。また風化してしまう前に。
     今日、暇な時間に……と言っても、業務中の時間だったけど、少しだけ過呼吸について調べてみた。ネット知識だから真に受けるのは半分くらいにするとして、それでもやっぱり引っかかった表記がある。
    『外的なストレスにより発症することもあり――』
    やっぱり、あれは間違いなくぼくがキスをしたことによる、〝外的ストレス〟だったんだと思う。さすがのぼくでも頭がいっぱい過ぎたことを反省した。二人きりになって、話の内容なんて関係なかったけど、とにかく彼の不安そうな顔を、切なそうな顔を、どうにかして安らかなものに変えてあげたかった。ぼくならこんなにギルベルトくんのことを欲していると、教えてあげたかった……それが、どれだけ彼の負担になるかも考えず。本当に最低だ。自分の思い込みで状況が見えなくなって……部長なんかになれるわけがない、いや、こんな状態のぼくにできるわけがない。あんなことをしてしまって、本当に拒絶されたら、ぼくはどうするんだ。浅はかすぎる。……でも、辛そうだったから……好きが、溢れて。その瞬間伝えなきゃって……それが、昨日のあの行動の原動力だった。それだけは、わかってほしいなんて思ってしまう。思考は昨日から言葉が変わるばかりで、同じことを堂々巡りしていた。
     定時後、まずはスーパーに寄った。体調不良で休んでるんだ。自分のことに関してはがさつ気味なギルベルトくんのこと、何も口に入れていない可能性もある。そんな風に心配していたのもあるし、何でもいいから力になりたかった。ギルベルトくんの家で料理をしてもいいと思ったけど、よく考えて、家にすらあげてもらえない可能性のほうが高くて、泣く泣く考え直した。仕方なくレトルトパウチのおかゆやリゾットをいくつか買い物カゴに入れて、スポーツドリンクも忘れずにレジに向かう。……ぼくが体調を崩したときに姉さんが準備してくれたものを指折り思い出しながら、あとは果物があれば嬉しいかなとバナナを買った。栄養もあるし、りんごみたいに皮を剥かなくていいから、不器用なぼくでも、力の入らない病人でも食べられる。
     それから、そのスーパーからもそんなに遠くないマンションに足が向く。どんな顔をされるだろうか、門前払いだってあり得るわけで、張り切って買い物をしたはいいものの、だんだん足が重くなっていく。我ながらわかりやすい。
     ……やっぱり、ギルベルトくんの体調がまだ落ち着いてなくても、話せる状態だったら昨日のことを謝るくらいはしてもいいだろうか。重くなる足とは裏腹にそわそわと逸る気持ちが、また胸元に不快感をぶら下げた。それでも、顔を見られることが嬉しいのは、やっぱりぼくが往生際悪く、ギルベルトくんが大好きだから。
     彼の住むマンションに到着して、その玄関前に向かった。呼吸を整えて、腹を括って、それから玄関のチャイムを鳴らす。
     ピンポンと室内で鳴り響いたあと、少し待てば奥からぼくに負けずに重そうな足音が聞こえる。インターホンも完備の立派なマンションなのに、煩わしいのかいきなり勢いよくドアを開いた。一歩後ずさってしまったのは、勢いがよすぎてぶつかりそうになったからで、
    「――は、お前、」
    出てきた表情は少しはよくなっていたけど、まだ全快じゃないのはすぐにわかった。声からも覇気が抜けていたから、やっぱり長居は無用だと自分を戒める。その間にも、対面していた眼光に緊張感が混ざり込んでいく。
    「あ、あの、お、お見舞い……っ、」
    あからさまな警戒心を貼り出されていたから、慌てて買い物袋をガサガサと見せびらかした。我ながら焦りすぎだとは思うけど、心臓がばくばくとぼくを脅して止まない。
     ぼくが買い物袋を掲げた手を下ろすまで、ギルベルトくんは素直にその袋からうっすらと透けて見えるバナナやらを確認していた。袋を下ろしておずおずと彼の顔色を覗くと、ギルベルトくんも同じようにぼくの目をちゃんと見返してくれた。
    「ああ、気い使わせたな。ありがとう、俺様大丈夫だから」
    そして、ただそれを言って、買い物袋を受け取ろうともせずに玄関の扉を閉じようとした。驚いて、まさかそんなあっさりとした、言ってしまえば無感情な反応をされるとは思っていなかったから、
    「え、ご飯とか食べてる? ぼくなにか作ってあげるよ!」
    すかさず扉を支えてしまっていた。完全に無意識の行動だった。そしてそれに対するギルベルトくんの反応は、さらに疎ましげな顔つきになることだった。
    「はあ? いいよ。今は誰にも気をつかいたくねえ」
    ぼくの中で警鐘が鳴り響く。これは……やっぱりちゃんと謝らないと……! しかも、なるべく早くだ。そう思ったら、もうぼくの頭の中はそれでいっぱいになっていた。身体が辛いかもしれないことはちゃんと覚えている。ならば、なるべく簡潔にでも伝えさせてほしくて、気を引き止める手段を頭の中で探した。
    「だ、だったら尚さら、ぼくになら気を使わなくてもいいから……!」
    躍起になって放った言葉で、ギルベルトくんの動きが止まる。じっとぼくのことを見定めるようにして、まるでぼくからの次の言動を待っているような間だった。不意なのか故意なのかはわからないけれど、ここかと悟ったぼくは、慌ててまだまとまっていない思考を二人の間に絞り出していく。
    「……その、ぼく、謝りたくて……っ、えと、」
    瞳を上げて、ギルベルトくんと目が合う。目をそらしていたことにすら気が咎めて、ちゃんと目と目で気持ちを伝えなくちゃと姿勢を正しくする。するつもりだったのに、
    「……は? 何を?」
    肝心のギルベルトくんは、状況が飲み込めないといった表情で待ち構えていた。てっきりぼくからの謝罪を待っていたのかと思っていたのに、これは演技ではなく、本当にわかっていない顔だ。もしかして過呼吸のことで……キスしたことを……忘れてる……? じわ、と滲み出した切迫感が、そのまま声に乗っかった。
    「きっ! 喫煙所で! 合意があったわけじゃないのに、キスしちゃって……!」
    言ったその場で、ギリ、と食いしばるような音が聞こえるほど、ギルベルトくんの表情が強張った。また見る見る内に、不安定な、力のない表情に変わっていく。……ぼくは、その顔にすこぶる弱くて……そんな顔をされてしまうと、忘れかけていた心臓の鼓動が意気地なしとぼくをせっついてくる。前後なんて関係なく、他でもないぼくが笑わせてあげたくて、歯がゆさに身が捩れるような思いを抱いた。
     それでも何も言わずに見守っていた表情の果て、ついに揺らされていた瞳が輝きを隠してしまう。そうしてゆっくりと、言いづらそうに口を開いていく。
    「と、止めなかった俺様にも非はある……から……気にすんな」
    ――『非』と、彼はそれを称した。……一気に感傷が溢れ出す。ぼくの中から湧き出して、もう止められないほどの苦しみでぼくという人間はいっぱいだった。彼にこの気持ちを伝えたいだけのキスだった。ぼくが勝手にしたことだと理解しながらも、それを交わしたことを『非』と言われたのが悲しい。それもこれも、あのとき、ギルベルトくんと別れる道を選んでしまったからというところまで、あっという間にぼくの恨むような気持ちは遡っていった。
    「ギルベルトくん、お願い、君とやり直したい。今度こそ、君を手放したくない……! もう後悔に押しつぶされるのはっ、嫌、なんだっ……!」
    生まれてからずっと変わらない涙腺の緩さは、ここでもぼくの目の奥を燃やした。泣きたくなんかないのに、少しでも感情が高ぶるとすぐに涙が出てきてしまう。情けない。はたから見たら、駄々を捏ねる子どもそのものだ。それでも、勝手に出てくる涙のせいで気持ちを抑えるなんて、今はできなかった。どうしても伝わってほしくて、ぼくは玄関の扉を掴みなおして、ギルベルトくんの瞳孔の真ん中に自分を置いた。
    「ギルくん、お願い、ぼくっ、君が好き……っ」
    もう何回めになるかもわからない告白をしてから、思い切りよく自分の手の甲で邪魔な涙を拭ってやっ――、
    「あ……あれ……っ」
    不安定な声に引かれるようにふらふらとギルベルトくんはよろけて、安定を図るように後ずさった。そしてそのまま、脱力したようにその場で尻餅をつく。
    「えっ、ギルベルトくん……?」
    ぼくを見上げたまま、しばらく呆然としていた。
     ぼくの涙も一気に引っ込んで、二人してお互いを見つめ合った形で時間が過ぎていく。表情から察するに、自分の身に何が起きたのか理解できていないようだ。どうしたんだろうか……目眩、なのだろうか。
     見る見るギルベルトくんの頬は赤らんでいき、すぐに首の周りまで真っ赤に火照った。熱が、上がった……? こんなにいきなり?
     納得がいかないながらも、未だに呆けているギルベルトくんを見兼ねて玄関に踏み入る。
    「……大丈夫? 立てる?」
    「あ、ああ、わり……」
    支えようと伸ばした手を掴んではくれたものの、我に戻っただけでまったく腰が立たないらしかった。それに、やっぱり手のひらがとても熱い。……これは、まだかなりの発熱がある。
    「やっぱりぼく、手伝うよ」
    「……なんだ……なんか、力が入んねえ……さっきまで問題なかったのによ」
    訝しんだまま、彼の前で靴を脱ぐぼくを見ていた。昨日の過呼吸と言い、今の目眩と言い……これはもうきっと〝偶発的なもの〟という考えでは片づけられない。ぼくが気持ちを伝えようとすればするほど、ギルベルトくんに負担がかかっている。
    「ごめんね……ぼくのせい……だよね……」
    八方から塞がれたような気分だった。ぼくはこれ以上、気持ちを伝えないほうがいいのだろうか……。暗闇のどん底に投げ込まれたような気持ちを抱えたまま、ギルベルトくんの横に屈む。
    「ほら、肩貸して」
    言われるがままにぼくの肩に腕を回して、ギルベルトくんと一緒に呼吸を合わせて立ち上がった。彼の表情を見ていても、ふらついてしまってから、そのまま意識がぼんやりしているように見えた。
     本当はもっと楽な体勢で抱えてあげられたけど、それこそきっと嫌がるだろうと、このまま廊下を歩き始める。一応確認を取るようにギルベルトくん本人に誘導をお願いして、寝室まで連れていった。ベッドに横たえるまで、責任を持って遂行してやった。……どうやら一日ちゃんと大人しく寝ていたらしく、寝室のサイドランプと玄関前の電気以外は点灯していなかった。……もうすぐ日が暮れる頃合いだから、家の中はそれだけでどんよりとしている。お布団を整えてから、今日はもう帰ったほうがいいよねとギルベルトくんを見やった。無理をさせてしまったことも、謝らなきゃ、と喉の奥に言葉を整えていた。
    「ギルベルトくん……、」
    ――どっ、と血流が逆回りになったんじゃないかと思えるほど、心臓が驚いた。
     もうとっくに目は潰れていたのに、ん、と一応はまだ薄っすらと意識はあるらしく、口元だけ小さな笑みを浮かべていた。……でも、その笑みの意味がぼくにはわからない。ギルベルトくん自身の意識が朦朧としているからなのか、それともぼくの知らない部分のギルベルトくんなのか……先ほどぼくに降りかかった落胆の後押しをするように、ぼくは知らない彼を叩きつけられたことにうろたえた。
    「イヴァン……、」
    「う、うん?」
    あ、と一つ、張っていた気が解れる。名前、久しぶりに呼んでくれた。たったそれだけの些細なことに、また涙腺が緩む。うう、と込み上げた熱を堪えていたら、ギルベルトくんがゆっくりと手を伸ばしてきていた。……ぼくに向かって。
     だめだった、抑えきれずにぐらぐらと視界が揺らぐ。この手を、ぼくは握り返していいのだろうか。熱に浮かされて、自分が何をやっているのかわかっていないんだろうと思っても、こんなことで泣くほど嬉しくて、何も言えないままその手をしっかりと握り返した。こんな風に彼に触れるのは、何年ぶりだろうか。きっとどんな不本意なキスよりも、苦痛に感じるほどの幸福がぼくを埋め尽くしている。
     さっきよりも熱くなっているような気がするけど、この手を離したらだめだということだけが、今のぼくの中で確かなことだった。

        *

     ぼくたちが二人でギルベルトくんの部屋にいて映画やテレビを見るときは、よく手を繋いで肩を寄せていた。ぼくがそうお願いしていたから。勉強しているときや本を読んでいるときは、さすがに片手が塞がると不便だからと言われて、それならそういうときは背中だったり太ももだったり、違う身体の一部を触れ合わせていたいとお願いした。ギルベルトくんの部屋は狭かったから、それらには難なく応じてくれた。……それくらい、ぼくは片時もギルベルトくんから離れたくなくて、この気持ちを単純な『大好き』という言葉に当てはめていいものかもためらうことがあった。けれどときが経つにつれ、ギルベルトくんも、その触れ合いが必要なのがわかった。彼は神経質な上に潔癖症だから、このぼくでさえそれがわかるまで大変だった。初めのほうは、全然こころを開いてくれないんだもん。
     ……彼は知らないだろうけど、ぼくたちが同じ保育園に通っていたときも、小学校のときも、彼の笑顔はほかのどの子どもよりも眩しかった。心底世界が楽しく映っているんだろうなと、いつもそのきらきらとした瞳を見るのに懸命になっては、鈍臭い、張り合いがないと笑われていた。それでも、ギルベルトくんの後をついて回っていたし……ギルベルトくんも、それを許してくれていた。ぼくの彼への恋は、すでに始まっていたんだと思う。強くて芯があって、本当にかっこよかった。
     けれどギルベルトくんが中学校に入った辺りから……いや、たぶん、彼の母親が弟を連れて家を出て行く少し前から、彼の笑顔からは燦々としたきらめきが消えて、いつも少し物足りなさそうに笑っていた。……実際は、ぼくが勝手に彼の笑顔に物足りなさを感じていただけかもしれない。なぜかそれは、ますますぼくを彼に惹きつけた。
     同じ高校に行きたい、と伝えるつもりが、口が滑って『好きだから』と言ってしまったのはぼくの中では大誤算だったけど、それが思わぬ展開をもたらして、ぼくとギルベルトくんは〝恋人〟という、少しむず痒い肩書きの間柄になった。四六時中ともに時間を分け合うようになって、ぼくはようやくわかったんだ。……ギルベルトくんは嫌味なほど大真面目な潔癖症であり、そしてそれで自分を守っていたんだと。綺麗好きとか、そんな話の『潔癖症』じゃない。すべてにおいて公正で、すべてにおいて平等、すべてにおいて模範となり得る人になろうとしていた。……だから、彼の瞳から無邪気という輝きは消え失せてしまっていたんだ。
     当然、まだ子どもなぼくは、そんな彼をどう扱えばいいのかわからなかった。ちゃんとギルベルトくんのことを見ずにただの『憧れ』でずっと追いかけていたことに気づかされ、ぼくなりに右往左往していたけど、ギルベルトくんはそれに気づいてはいなかったらしい。……でも、それでよかったとも思う。〝恋人〟になってから、ギルベルトくんが自然に作ってくれた流れで彼の側に入り浸っていたけど、そこで静かに彼への情と関係性を持て余していたと言ってもいい。それが知られなくて本当によかった。……問題は、ぼくの若さにあった。ギルベルトくんをどう扱っていいかわからないのもそうだけど、思春期の男子高校生だもの、手を繋ぐ以上の繋がりを欲することもあった。なのに、いざギルベルトくんを前にすると、自分から関係を進めることをためらってしまう。彼の中にある、踏み入られてはいけない一線に踏み入れてしまうことに怖くなって、自分一人でいろんなことを消化していた。
     そんな日々の中でも、とっておきの思い出がある。……ぼくは残念ながらあまり思い出は残っていないほうなのだけど、その日ことは鮮明に覚えている。そんな風に日々を悶々とさせながら送っていた、忘れもしない、あの日のことだった。
    「ーーあ?」
    「うわ、顔こわいよ、どうしたの」
    ギルベルトくんの隣にぼくも座って、静かに物思いに耽っていた。格好としては、趣味の数学の論文を読んでいるギルベルトくんの隣で、姉さんが勧めてくれた詩集を読んでいた。
     いつものように肩を合わせて地べたにクッションを敷いて座っていて、今日も悶々としていた。いつになったら、もっとちゃんと触れ合えるんだろう。どうすればギルベルトくんが守っているであろう一線を越えさせてもらえるんだろう。詩集の内容なんてこれっぽっちも脳みそに溶け込んでこなくて、論文をめくるギルベルトくんの手に自分のを絡めてしまったのは、もはや無自覚だった。
     手に触れた途端、さっきの不機嫌な声が飛んできて、ぼくは驚いて茶化してしまった。珍しいほどに険悪な顔をしていて、おそらく自分でも何でそうなのかわかっておらず、考え込むように静かにぼくを見ていた。
     近ごろその瞳から滲み出るようになった、焦りのような色味に、ぼくはまだ名前をつけられないでいる。ギルベルトくんがこんな顔をするとき、彼は一体何を伝えようとしているのか、必死になって探る。いまだに答えは見つけられていないのだけど。
     いつもの彼ならどんなに苛立っていても、この辺で「フン」と溜まったわだかまりを逃がしてしまうところ、今日はそれをしなかった。ぐっと目に力が入って、腹の中で何かが突沸したのがわかったから、あえて何も言わず次にとる行動を見ていた。
     ギルベルトくんは少し乱暴な仕草でその論文のコピーを机の上に置き、荒々しく立ち上がった。わざとらしくぼくの手を振り払い、それからどこかへ向かって歩き出そうとした。一気に心が落ち着かなくなる。彼の意図を確認しないことには、ぼくは気が気でなかった。追いかけるように立ち上がり、部屋から出て行こうとしたギルベルトくんの腕を慌てて掴む。
    「ねえ、どうしたの? 今日のギルベルトくん、変だよ」
    高校一年生のぼくと、高校三年生のギルベルトくん。ぼくのほうが若干だけ体格では負けているけど、力はそれなりにあるほうだから、ちゃんと加減はしたつもりだった。
     それをギルベルトくんは煩わしげに振りほどいて、
    「俺様はいつだって俺様だ!」
    だんっ、と強く一歩を踏み込んで威嚇した。
    「お前の目には『変』って映ってることはわかったがな!」
    いつもよりも大きな声で怒鳴られて、思わず目をぎゅっと閉じる。付き合い始めてから一度も、ここまで不機嫌な彼を見たことがないと思えるくらい、ギルベルトくんは苛立っていた。
     おそるおそる瞼を上げれば、さっき一瞬だけ滲ませていた、焦りの色が表情全体に拡がっている。何をそんなに追い詰められているのか、ぼくにはわからない。この状態が何なのか、一つもわからなくて怖くなった。ギルベルトくんと喧嘩なんかしたくない、一時も離れたくないほど彼が好きなのに、思うように言葉も浮かばなかった。
    「な、なに? ほら、イライラしてる。こわいよ」
    少しだけ、ギルベルトくんの苛々に当てられたかもしれない。そうはわかっていても、上手く普段通りの声が出せなかった。この頼りない声に、きっとギルベルトくんは意気地なしだと思っただろう。
     懸念していた通りじっと突き刺すような眼差しで、開いた口の真ん中からとても短くてシンプルな「は?」という疑問符を吐き出した。一歩踏み込んだ足を引くことなく、さらに身体をぐっと寄せて、未だに何かに駆られるように唸る。
    「今度はこわいかよ。じゃあ、なんで俺様なんかと一緒にいんだよ、」
    「やめてよ」
    「わっかんねえよッ‼︎ 嫌だったらお前がどっかいけばいいだろ⁉︎」
    頭は真っ白になって、他になんて返せばいいのか浮かばない。ぐっと込み上げたのは悔しさに近かったと思う。ギルベルトくんのことが大好きで傷つけたくないのに、何て言って欲しいのかもわからない。互いを傷つけることはとても簡単そうに思えた。どうしたらいいのか目の前の瞳から探ろうとしても、やっぱり焦燥に占領された眼差しがあるだけ。自分の頭蓋骨の中で、ぐるぐると思考が渦を巻くばかりだった。
    「ギ、ギルくんが……声を落とせば、いいんじゃないかな……っ」
    「ンなこと! できたらとっくにやってる‼︎」
    ついにぼくの胸ぐらに掴みかかってきた。彼は理不尽な暴力は振るわない、少なとも今は。それは信じているしわかってはいるけど、染みついた痛みへの恐怖で勝手に視界が閉ざされる。覚悟を決めてしまったから、ぼくも全身でぐっと身構えた。
    「俺はっ! 自分のこと何もわかってねえ! こっ、こんな気持ちのとき、どうしていいのかも……さっぱりだ……ッ!」
    途中から声色に違和感を覚えていた。あんなに張り上げていた声が力をなくて、ぼくを貫いていた眼光はもはやもうそこにはない。ぼくたちを取り巻いていた怒気も、ギルベルトくんの声と一緒にどこかへ消え入っていた。
     力なく項垂れる彼は、一見ぼくに縋っているようにも捉えられて、眼を見張る。……ぼくに、わかってほしいことがあるんだ、閃きとともに視界が開けて、安堵のせいでまた目が潤んでくる。
    「……ねえ、ギルベルトくん……? どうしたの? どんな気持ちなの? ぼくも、ちゃんと知りたいよ、きみのこと」
    力が抜けて、二人してまたその場に座り込んだ。言葉を選んでいるのか、まとめているのか……それとも、本当にまだ自分の心と格闘しているのか、しばらく静かに思慮を巡らせていた。ぼくは、その間も待ち続けた。……もし、これが彼の画している一線を越えるための手立てだったなら、喜んで縋りたい。そう思って、ただ、静かに彼の結論を待った。
    「…………お前と、キスしてえ、」
    ぼそぼそしていた、けれどギルベルトくんは確実にそうこぼした。
     ぼくは予想なんて大層なもの初めからしていなかったけど、思いつかないところからやってきた答えに、言葉を失うほどに驚いてしまった。
    「俺ばっか、お前のこと想ってるみてえで、惨めだ……」
    喜びなんて感情はなかった。ぼくはただ、彼にそんな思いをさせていたのかと悔やしくなった。……ギルベルトくんを傷つけたくないと思うあまり、本当はずっと彼が開いてくれていた扉に気づいていなかったのかもしれない。……なんて、もったいなくて、なんて愚かしいんだろう。
    「……それで、機嫌が悪かったの?」
    ぼくのほうも明確な答えがほしくて問い返すと、ギルベルトくんは声には出さなかったけど、しっかりと頷いて教えてくれた。
     喜びを自覚したのはここだった。ぼくが勝手に線引きをされていると思っていただけで、本当はギルベルトくんは、ぼくから触れるのを待っていたのかもしれない……そうわかった途端、だらしなく緩んだ頰と一緒に、涙腺までもが堰を切る。
    「ふふ、もう。ぼくは、世界中でギルベルトくんのことだけが、大好きだよ」
    ぎゅうとギルベルトくんの身体を引き寄せれば、彼の腕もぼくの背中に回って、重心がぼくのほうに倒れてくる。……いつもは明るくて、快活で、ぼくの前を走っていくようなギルベルトくんが、ぼくの前に留まって、ぼくを欲してくれる。……嬉しさのせいで胸がいっぱいになって、息苦しくなるほどだ。
    「……キス、するね?」
    一刻も早く、願いを叶えてあげたくて、ぼくは未だ顔をそらし続けていた、真っ赤に紅潮したギルベルトくんの唇に優しく触れてやった。初め、互いの鼻がぶつかって上手くキスができなくて、「何やってんだよ」って笑われたけど、二回めはしっかりと、焼きつけるようなキスが――。……泣きながら触れるだけのキスをして、ぼくたちは一体どこの映画の主人公だろうと可笑しくなる。
     やっぱり、ギルベルトくんが好きで、好きで、どうしようもない。彼を傷つけるものをすべて壊してしまいたいし、彼の笑う顔を作るのは、世界中でぼくだけでいい。もう誰の目にも触れさせたくないくらい、ギルベルトくんが大好きだ。
     そのあと……いつだったか、ギルベルトくんに聞かれたことがある。
    「なんつうか……なんで俺様なんだよ」
    たぶん、ぼくたちの初めてのキスのあと、そんなに時間は経っていなかったと思うけど、確実にこの『初キス事件』は経たあとだった。
     その問いに答えるために静かにふり返り、彼と過ごした日々を思い出していく。……ぼくは、彼の眩しく輝く瞳が大好きだった。それが見る世界を見たかったし、その瞳をずっと見ていたかった。……でも、ぼくは知っていたんだ、その瞳も、ちゃんとぼくを映すことがある。それが、本当は心地よかったのかもしれない。だから、ギルベルトくんだったのかもしれない。
     ゆっくりと瞼を上げて、目前でぼくの答えを待っているギルベルトくんを見返す。外ではうるさい人だと思われがちな彼だけど、実はぼくといるとき、そんなにうるさくもない。性分なのか、無駄なおしゃべりをするときももちろんあるけど、切実なときほど静かにしたたかに状況を見ている。
    「ぼくのことを見放さないでいてくれた人、かな」
    待たせていた瞳に、誠実に答えたつもりだ。そう、すべてはそこから始まったんだ。
     しっかりと聞いてくれているギルベルトくんの瞳が、その揺らめきを変えた。昔とは輝き方を変えてしまったけど、それでもまだ瞬くことがあって、それがぼくの言葉を聞いて意思を持つ。ちゃんと聞いてくれているとわかることは、心の底から温かさを感じさせてくれる。
    「でもね、最近はちょっと変わったんだ。……ずっと君の瞳に入りたくて、君に憧れてた。今思えばギルベルトくんの幸せなんか考えてなくて……子どもだったから、ぼくがそばにいたいだけだった。けど、今は、」
    このときに思い返していたのが、『初キス事件』のことだった。ぼくはそのとき、心の底から思ったんだ。
    「この顔が笑顔であってほしいなって、思うよ。君が好き」
    他に伝え方がわからなくて、覚えたばかりのキスをした。ギルベルトくんと片時も離れたくない。もうぼくは、彼のために生きていきたいと思うほどだった。

        *

     ギルベルトくんの寝息が聞こえてくる。ぼくの手を握っていた手のひらからはすっかり力は抜けて、深く眠ってしまったようだ。……少しでもぼくの存在を確かめて安心してくれたなら、とても嬉しい。
     ぼくは名残惜しくて仕方がなかったけど、ゆっくりと手を解いて一歩引いた。
     たぶん、熱が上がっているところでぼくがまた『好き』なんて言ったから、ギルベルトくんは混乱してしまったんだと思う。よくわからないけど、キスをしてしまっただけで過呼吸を起こしたほどだ……ぼくは自分の行動をもっとよく考えるべきだったと、もう何回めかの反省をした。
     少しだけ距離のあるところから、まだ火照っている寝顔を眺める。
     ぼくだって、再会できたところで難なくまた一緒になれるなんて思ってはいなかったけど、ここまで距離があったなんてと思い知らされる。ギルベルトくんが拒否する理由が自分ではわからないから、途方に暮れるしかない。……別れ際、実はどんなことを話したのかよく覚えていない。ぼくは、すぐ忘れてしまう。たぶん、脳みそが勝手に思い出を取捨選択しているんだと思う。幼少期から穴ぼこだらけの思い出、その穴ぼこの中の一つに、ぼくがギルベルトくんと別れたときのことも落としてしまった。
     ただ、ぼんやりとした気持ちは覚えている。もっと、ギルベルトくんの言葉を聞きたかったと……本当は、ぼくはギルベルトくんに選んでほしかったんだと、漠然とそれだけは、心残りのようにずっと居座っている。……あまつさえ、ギルベルトくんが……いや、互いが向け合っていた情は、愛情ではなく、ただの幼稚な承認欲求のようなものだったんじゃないかと。そのころ、目を背けながらも頭を掠めていた疑問が、確信めいて思えていた。
     ――だけど、ぼくはもう、この三ヶ月の間に覚悟を決めたんだ。今度こそ、ギルベルトくんも、自分も疑いたくない。また出会えた事実を、見す見す手放したくないんだ。
    「……あ、」
    眺めていたら、だんだんと汗が浮かんできたのが気に留まった。このまま放っておいたら寒くなっちゃうかなと思い、少し周りを見回してみた。タオルみたいなものを近くに準備してあげていたら、目を覚ましたときに助かるかな。本当に他意はまったくなく、ぼくは浴室を探した。タオル類を置いておくなら浴室の近くだろうと思ったからだけど、結局見つけられなくてまた寝室に戻る。この際だから、ハンカチか何かでもいいかなと至り、今度は寝室のクローゼットの近くを探そうした。もちろん、少し探して見つけられなければ諦めるつもりでいた。他人の家を物色するような真似はしたくなかったから。
     寝室の中のクローゼットの扉を少し開くと、几帳面に並べてかけてあるスーツがいくつかあり、その隣に背の低いチェストが現れる。だいたいにおいてハンカチとかの小物は、そういうところの小さい部屋に入っているものだと、軽い気持ちでそれを引き開ける。
     あ、違った、と声に出ていたかはわからないけど、その引き出しには衣類どころか布類すら入っていなくて、
    「――え、」
    電撃よりも強烈に感じる既視感に襲われた。
     その引き出しに無造作に入っていたのは、真っ白の封筒。見覚えのある文字、差出人欄には――ぼくの名前。無意識だった、ぼくはそれを手に取り、目が離せなくなる。これは、この、てがみ、は。
     白状する。ぼくは、三年前、ギルベルトくんに手紙を送ったことは覚えていたけど、それも穴ぼこの一つに落としてしまって、どんな紙に何を書いて、どんな封筒に入れて、どうやって封をしたのか、何も思い出せなかった。いや、あの前後は、ほとんど思い出せないんだけど。ただただ、どうしても会いたくて、また笑い合って、触れ合って、互いの話を聞いて、泣いて、喧嘩して。あの頃を取り戻したかったわけじゃなくて、あの頃のぼくたちがたどり着けなかったところがあって、それを、諦めてしまったことに後悔して。そう、だ。封筒の白さに乗って、三年前の、ペンを握りしめていたあの情景が蘇る。
     封筒の中から、二つ折りにされた便箋を引き出して、けれど、もう中を見なくても拾い出せた。ぼくが三年前、ギルベルトくんに送った言葉たちを、しっかりと。
     あのとき、あっさり手放してしまった後悔も懺悔も、引き止めてくれなかった恨みも、どれも書いてしまうには重すぎて、結局、形にできた言葉は、
    ――『きみに、あいたい。』
    これっぽっちだった。
     ギルベルトくんは、この手紙を読んでくれていた。そして、この手紙の返事を書かなかった。……でも、こうやってしまってある。眼下にある事実を握りしめて、ぼくの手は震えていた。
     湧き上がる気持ちが身体を焼く。逆流してきたような鮮烈な痛みが、一気に溢れ出して床に落ちていく。この感情を何と呼んだらいいのかわからない。この手紙が届いていた安堵もあったと思うし、こんな救いようもない言葉を手に取らせてしまった後悔もある。返事をくれなかった憎たらしさも、捨てないでいてくれたやるせなさも、受け取っていないと嘘を吐かせてしまった情けなさも、まだまだ、形にできない蟠りが次から次へとぼくをいっぱいにして苦しくする。
     ギルベルトくんは、ぼくがどんな想いでこの手紙を出したか、この先一生知ることはないんだ。……だけど、ぼくも、ギルベルトくんがどんな気持ちでこれを読んで、そしてここにしまったのか、きっと一生知らないままでいる。そう思ったら、この手紙がすごくすごく大事に思えて、大切で、大切で、穴ぼこに落とした思い出そのもののようにすら思えて……。ぼくは、泣きながらそれを元の引き出しにしまった。
     クローゼットを閉めて、これ以上は何にも触れてはいけないと悟り、深呼吸をする。大丈夫、涙はきっとすぐ止まる。それよりも、初めて入るギルベルトくんの寝室の中で、ぼくはこんなにも疎外感に包まれていたのだと知り、ここにいたら駄目なんだと理解した。だから、それ以上は一言も残さず、寝室をあとにする。
     とりあえず買ってきた来たものをキッチンのカウンターの上に置いて、一言だけメールを入れておいた。そうすれば起きたとき、ギルベルトくんは不審に思うこともないだろうから。本当はもっともっと、料理したり、片づけしたり、いろいろしてあげたかったんだけど、今はそのときじゃないと思ったから……玄関先で一言だけ「お大事に」と残して、静かに、ぼくは歓迎されていなかった空間から、自らを追い出した。

     ギルベルトくんのマンションから出て、一分も歩いていなかったと思う。すっかりと辺りは太陽の光を失っていて、歩道に点々と設置された街灯だけが頼りの道を歩く。駅まではそんなにかからないはずだ。
     誰もいない夕飯時の住宅街。ぼくは今回こそは諦めないと自分に誓ったことが過ちだったのかと、決心するべきか否か、そればかりをずっと考えていた。ここまで来たら、やっぱり多少強引でも部長職は辞退して、会社を辞めさせてもらうか。元々、三ヶ月でもいいと言っていたのだ、その取り決めを反故にしようとしているのは、社長のほうなのだから、ぼくが気後れするところなんてないはずだ。
     狭い歩道の向かいから人が歩いて来ていたので、気持ち程度だけ道を譲りながらすれ違った。
    「――あれ、イヴァン?」
    呼び止められて、ハッと身構えながらふり返る。まったく気づいていなかったけど、この声は覚えていたし、その瞬間に意識の中に飛び込んできた人となりも忘れるわけがなかった。大人っぽい雰囲気のスーツを着て、流れに沿った緩やかなウェーブの金髪を靡かせている、この人は。
    「……フ……ランシスくん⁉」
    「お、お前こんなところで何してんの?」
    ぼくがロシアの会社に勤務していたときの商談相手の一人だった。当時、確かに出張でロシアに来ているとは聞いていたけど、まさか勤務がこの辺だったとは知らなかった。おしゃれでかっこよくて、気が利いて、大人でいる楽しみ方を知っている、豊かな人だとぼくは思っていて、こんな風に歳を重ねていけたらいいなあと見上げていた人だ。何度か一緒に飲みに行ったこともあるくらい慕っていた人が、今、目の前にいる。
    「あ、えと、ぼくの知り合いが具合が悪くてっ、その、お見舞いに……ていうか、その引っ越して……君こそ、会社この辺なの⁉」
    たちどころにすべてのことを忘れて舞い上がってしまった。だって、こんなことってある? 最後に会ったのはぼくがギルベルトくんに手紙を出すよりも前だったはずだから、もう三年以上も前だ。なのに、何よりフランシスくんのほうからぼくのことを覚えていてくれたことが、うれしくてたまらない。
    「おう、もう俺が入社してからずっとビデカメラはこの辺だよ」
    当時と変わらない笑い方をしていて、ぐっと郷愁が込み上げた。今さっきのことがあったからかもしれないけど、それ以上の感情は何もないはずなのに、
    「……そうなんだ。なんだか、会えて、うれしいよ」
    どうしてか声が揺らいで、また目の奥がひりひりと痛み始めた。
    「おいおい、そんな、泣きべそかくほどお兄さんに会えてうれしいの? お兄さん照れちゃうじゃない」
    憎めない笑みを零してくれるから、そうそう、フランシスくんってこんな人だったなあなんて懐かしむ。この地で、昔のぼくを知る人はギルベルトくん以外にはいなかったから、気が緩んでしまったのかもしれない。……フランシスくんと飲みに行っていたころ、ぼくはまだギルベルトくんのことを吹っ切れた気でいて、心の端っこのほうに住み着いていた彼に布をかけて、そこにいないふりをしていた。若くて、愚鈍だった。
    「ふふふ、ごめんね。なんか最近いろいろあって、君の顔を見たら、なんかホッとして」
    「……そう」
    フランシスくんの柔らかな言葉使いは、さらに優しくなっている。それが心に沁みて、ぼくは誤魔化さずに涙を拭った。
    「何があったか知らないけど、きっとつらくても、それは今だけだよ。大丈夫」
    事情を知るわけがないのに、勇気づけるようなことを言ってくれる。信ぴょう性も根拠もないけれど、そんなことは関係がなかった。その言葉そのものが力を持っていて、す、と身体に芯が通るような心地を味わう。
    「うん、ありがとう」
    ぼくもうじうじしていたら駄目だ。今、ギルベルトくんを諦めてしまうよりも、諦めたあとのほうがきっと辛いだろうから、今は耐えて、ゆっくりでもいいから、彼にまた認めてもらえるようになれたら……。
    「君は、この近くに住んでるの?」
    気になって、つい尋ねてしまった。もしこの辺なら、もしかしたらまた飲みに行ったりできるかもしれない。どうしようもなく行き詰まったときに……そこにいてくれると、思わせてくれるかもしれない。
     けれどフランシスくんは苦虫を噛み潰したように笑顔を歪めて、両手を見せた。
    「あ、いや、ぜんぜん。住んでるのはもっと田舎のほうの社宅なんだ。だけど今日は、大学のときの後輩が体調を崩したって聞いたから……、」
    申し訳なさそうに教えてくれていた言葉が、不自然なところで止まる。フランシスくんの後輩さんも……今は風邪でも流行っているのかな、と呑気に思っていたぼく。けれど、目の前に立っていた明媚な瞳は、何か思いつきがあったように光を灯した。
    「――って、」
    「……ん? どうかした?」
    「イヴァン、お兄さんの質問に一つだけ答えてくれる?」
    「な、なあに」
    改まってどうしたんだろう。自分でもわかりやすいなと思ってしまうほど、ぼくは完全な防備に入った。
    「イヴァンさ、最近仕事はどうしてるの?」
    そうか、ぼくがここでフランシスくんと再会したことを疑問に思ったように、フランシスくんもそうしている。ましてや、ぼくはロシアの会社に勤めていたわけで、事情を知らなければなんでここに、とはなるはずだ。
    「じ、実は、あの会社は辞めたんだ」
    「……辞めたの」
    「うん。それで、今は新しい会社に……」
    あれ、おかしい。先ほどとは違う笑い方で、フランシスくんはにやけた。
    「って、え? なんで? なんでそんな顔するの?」
    そう、笑うとか笑むとか、そういう穏やかなものではなく、少しいたずらを含むように口角を上げてみせた。彼の中で何かの辻褄が合ったみたいで、
    「あ、いやあ、お兄さん、すごいことに気づいちゃったかもしれない」
    けれど核心を教えてくれるほど優しくはないらしい。にやけたまま、静かに顎を撫でてはぼくを観察するように見ていた。……なんだろう、この反応、なんだろう。
    「え? なあに? どうしたの?」
    「あはは、まあいずれわかるよ」
    自分勝手に話題を締めてしまった。わざとなのか、ぼくに文句を挟む隙すらもくれる前、すぐにまた開口して、「それよりさ、イヴァン」と肩を叩かれた。今度は一体なんだっていうんだろう。そのまま大通りにほうを示されて、視線を誘導された。 
    「お兄さんさ、相手に何時に行くとか言ってないから、少し一緒にぶらつかない? 夕飯もう食べた?」
    ぼくも積もる話もいっぱいあったわけで、ギルベルトくんのことも……自分では堂々巡りになってしまいそうなことはわかっていて。
    「いや、まだだけど……」
    考えている間に浮かんだのは、大好きなはずのギルベルトくんの笑顔じゃない、彼が苦しそうに身体を押さえて耐えている光景だった。……彼のためにも、ぼくが今、どうするべきなのか、話を聞いてもらうのも一つの手かもしれない。
     ……一時はそう結論を出しかけたのだけど、でも、ぼくはそれよりも早く我に戻っていた。
    「でも、その人に悪いよ」
    体調を崩している、フランシスくんの後輩さんは、きっと困っている。だからフランシスくんが向かっているんだろうし。今はぼくなんかより、その人のほうが大事なはずだから。
     フランシスくんも追考したようで、声色はすぐに変わった。
    「そう? まあ、それもそうか。あいつ困って……る、だろうなあ、これは」
    不自然にぼくのことを眺めるついでにまた笑うから、思わず首を傾げてしまう。フランシスくんが意味深に振舞っているのはなんでだろう。何か言いたいことがあるなら、言ってくれればいいのに。
    「お兄さん、今ものすっごくあいつの顔見たくなっちゃった」
    やっぱり今は教えてはくれないらしい。ぼくも人のことに首を突っ込むことには気が引けたので、深くは追求せず、
    「そうだよ、行ってあげなよ」
    後押しに徹した。……本当に本当にお手上げ状態になったら、そのときは甘えさせてもらえればいい。フランシスくんも心が決まったのか、落ち着いた、余裕を持った目元で笑ってみせた。今度は『ちゃんとした』笑顔だ。
    「そうするかな、悪いね。じゃあ、イヴァン、俺の携帯番号あげるよ」
    スーツの胸ポケットから小さなメモ帳を取り出したフランシスくんは、そのまますらすらと紙切れにペンを走らせた。その間も器用におしゃべりを続けるから、本当に大人だなあと感心してしまう。
    「何かあったらいつでも相談に乗るから」
    書き終わったメモ紙を強引な態度でぼくに握らせて、
    「大丈夫、お兄さんは応援してるよ。お前ならたぶん大丈夫」
    なんだろうか、優雅なウィンクをされた。ぼくはさっぱりフランシスくんの意図がわからず、「え? あ、うん? ありがとう?」と疑問形で返すしかない。それにもお構いなしな態度を続けて歩き出すものだから、もはや大人の余裕なのかただ単にマイペースなのか、いよいよ決めきれなくなってきた。
    「ふふふ。あ〜。これからが楽しみだな〜あいつどんな顔してんのかなあ〜ふふふ〜」
    とにかくご機嫌なのはわかったから、今はそれでいいやとぼくも結論づける。
    「ふふ、なんだか楽しそうだね。ぼくも少し元気出たよ。ありがとう」
    「いいのいいの。お兄さんが感謝したいくらい。じゃ、また近い内どこかで」
    感情とは面白く、すぐに伝染するから、もちろんフランシスくんが振りまく楽しげな雰囲気も、勝手にぼくの胸の中に踊り込んできた。ほんの少しだけど、これで楽しく帰路につけそうな気がする。
    「うん。夜も遅いし、気をつけてね」
    「はいはーい」
    背中で別れを語って、フランシスくんはぼくが来たほうを歩いていく。その背中ですら愉快そうに揺れていて、見ているだけでも小気味がいい。いつも前向きでいることは本当に尊敬できるなあと、元気をもらえた。……ぼくもあんな風に誰かを……いや、ギルベルトくんを、元気にできる人になりたい。
     でもどうしても脳裏に焼きついているのは、過呼吸に耐えるその蹲った背中だった。キスしたあとの、完全に動揺しきった瞳も、今日、好きを告げたあとの、目眩を起こしてしまったときの呆けた表情も……引き出しの中に残された手紙も。ぼくにこれ以上、頑張るなと牽制しているようだった。
     完全に視界からフランシスくんの背中は消えて、ぼくは見上げればここからでも見えるギルベルトくんのマンションを遠目に眺めた。……手前に建っている住宅のせいでギルベルトくんがいる階は見えなかったけど。
     う、うんう、ぼ、ぼくは今度こそ諦めないって決めたから。強がって拳を握りしめてみるけど、体調を崩すほどにストレスになっているという現実が、容赦なく襲いかかってくる。……正直に言うと、本当は、落ち込むけど……けど……。
     なんとかまた気持ちを持ち直そうと心を奮い立たせようとしても、うまくいかなかった。今の今までの前向きな気持ちは、やっぱりただ単にフランシスくんから伝染してきただけの、借り物だった。そう思ったら、余計に悲しくなって、ぎゅ、と握った手の中に、紙切れを握りしめていることに気づいた。
     だめだ……やっぱり気分が塞ぎ込む……。
     ぼくは今、自分で思っているよりもお手上げ状態に近いのかもしれない。完全に八方塞がりになってしまう前に――、
     藁にもすがる気持ちだった。ぼくはそのメモを上げて、でも迷っていたのはそんなに長くはなかった。



    第五話「カンパイ・シャオ」 へつづく
    (次ページにあとがき)



    あとがき

    ご読了ありがとうございます!
    ぐだぐだしてあまり進まなかった第四話、いかがでしたでしょうか。
    ようやくこのお話の前置きが終わりです。笑。
    (起承転結でいうなら『承』ですね!)

    わかるかとは思うのですが、今回のイヴァンちゃんはかなり泣き虫を意識しています。
    あと、過呼吸については、
    私自身、初めて本当の発作を目の当たりにしたときはびっくりしたのを覚えています。
    紙袋ある⁉︎ 袋は⁉︎ って周りが叫んでいたので覚えていたんですが、今回のために調べたら、
    本当は袋を口元に当てがうのはあんまりよくないらしいですね。
    逆に酸欠になる恐れがあるからとかなんとか。

    さあて、次話はいよいよこんな二人に進展が――⁉︎
    お楽しみにしていただけると幸いです〜!

    改めまして、ご読了ありがとうございました!
    飴広 Link Message Mute
    2023/07/21 23:08:57

    第四話 ムチュー・スィエッツァ

    【イヴァギル】

    こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第四話です。

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    • こんなに近くにいた君は【ホロリゼ】

      酒の過ちでワンナイトしちゃう二人のお話です。

      こちらはムフフな部分をカットした全年齢向けバージョンです。
      あと、もう一話だけ続きます。

      最終話のふんばりヶ丘集合の晩ということで。
      リゼルグの倫理観ちょっとズレてるのでご注意。
      (セフレ発言とかある)
      (あと過去のこととして葉くんに片想いしていたことを連想させる内容あり)

      スーパースター未読なので何か矛盾あったらすみません。
      飴広
    • ブライダルベール【葉←リゼ】

      初めてのマンキン小説です。
      お手柔らかに……。
      飴広
    • 3. 水面を追う③【アルアニ】

      こちらは連載していたアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 3. 水面を追う②【アルアニ】

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 最高な男【ルロヒチ】

      『現パロ付き合ってるルロヒチちゃん』です。
      仲良くしてくださる相互さんのお誕生日のお祝いで書かせていただきました♡

      よろしくお願いします!
      飴広
    • 3. 水面を追う①【アルアニ】 

      こちらはアルアニ現パロ小説「海にさらわれて」の第三話です。
      飴広
    • 星の瞬き【アルアニ】

      トロスト区奪還作戦直後のアルアニちゃんです。
      友だち以上恋人未満な自覚があるふたり。

      お楽しみいただけますと幸いです。
      飴広
    • すくい【兵伝】

      転生パロです。

      ■割と最初から最後まで、伝七が大好きな兵太夫と、兵太夫が大好きな伝七のお話です。笑。にょた転生パロの誘惑に打ち勝ち、ボーイズラブにしました。ふふ。
      ■【成長(高校二年)転生パロ】なので、二人とも性格も成長してます、たぶん。あと現代に順応してたり。
      ■【ねつ造、妄想、モブ(人間・場所)】等々がふんだんに盛り込まれていますのでご了承ください。そして過去話として【死ネタ】含みますのでご注意ください。
      ■あとにょた喜三太がチラリと出てきます。(本当にチラリです、喋りもしません/今後の予告?も含めて……笑)
      ■ページ最上部のタイトルのところにある名前は視点を表しています。

      Pixivへの掲載:2013年7月31日 11:59
      飴広
    • 恩返し【土井+きり】


      ★成長きり丸が、土井先生の幼少期に迷い込むお話です。成長パロ注意。
      ★土井先生ときり丸の過去とか色んなものを捏造しています!
      ★全編通してきり丸視点です。
      ★このお話は『腐』ではありません。あくまで『家族愛』として書いてます!笑
      ★あと、戦闘シーンというか、要は取っ組み合いの暴力シーンとも言えるものが含まれています。ご注意ください。
      ★モブ満載
      ★きりちゃんってこれくらい口調が荒かった気がしてるんですが、富松先輩みたいになっちゃたよ……何故……
      ★戦闘シーンを書くのが楽しすぎて長くなってしまいました……すみません……!

      Pixivへの掲載:2013年11月28日 22:12
      飴広
    • 落乱読切集【落乱/兵伝/土井+きり】飴広
    • 狐の合戦場【成長忍務パロ/一年は組】飴広
    • ぶつかる草原【成長忍務パロ/一年ろ組】飴広
    • 今彦一座【成長忍務パロ/一年い組】飴広
    • 一年生成長忍務パロ【落乱】

      2015年に発行した同人誌のweb再録のもくじです。
      飴広
    • 火垂るの吐息【露普】

      ろぷの日をお祝いして、今年はこちらを再録します♪

      こちらは2017年に発行されたヘタリア露普アンソロ「Smoke Shading The Light」に寄稿させていただきました小説の再録です。
      素敵なアンソロ企画をありがとうございました!

      お楽しみいただけますと幸いです(*´▽`*)

      Pixivへの掲載:2022年12月2日 21:08
      飴広
    • スイッチ【イヴァギル】

      ※学生パラレルです

      ろぷちゃんが少女漫画バリのキラキラした青春を送っている短編です。笑。
      お花畑極めてますので、苦手な方はご注意ください。

      Pixivへの掲載:2016年6月20日 22:01
      飴広
    • 退紅のなかの春【露普】

      ※発行本『白い末路と夢の家』 ※R-18 の単発番外編
      ※通販こちら→https://www.b2-online.jp/folio/15033100001/001/
       ※ R-18作品の表示設定しないと表示されません。
       ※通販休止中の場合は繋がりません。

      Pixivへの掲載:2019年1月22日 22:26
      飴広
    • 白銀のなかの春【蘇東】

      ※『赤い髑髏と夢の家』[https://galleria.emotionflow.com/134318/676206.html] ※R-18 の単発番外編(本編未読でもお読みいただけますが、すっきりしないエンドですのでご注意ください)

      Pixivへの掲載:2018年1月24日 23:06
      飴広
    • うれしいひと【露普】

      みなさんこんにちは。
      そして、ぷろいせんくんお誕生日おめでとうーー!!!!

      ……ということで、先日の俺誕で無料配布したものにはなりますが、
      この日のために書きました小説をアップいたします。
      二人とも末永くお幸せに♡

      Pixivへの掲載:2017年1月18日 00:01
      飴広
    • 物騒サンタ【露普】

      メリークリスマスみなさま。
      今年は本当に今日のためになにかしようとは思っていなかったのですが、
      某ワンドロさんがコルケセちゃんをぶち込んでくださったので、
      (ありがとうございます/五体投地)
      便乗しようと思って、結局考えてしまったお話です。

      だけど、12/24の22時に書き始めたのに完成したのが翌3時だったので、
      関係ないことにしてしまおう……という魂胆です、すみません。

      当然ながら腐向けですが、ぷろいせんくんほぼ登場しません。
      ブログにあげようと思って書いたので人名ですが、国設定です。

      それではよい露普のクリスマスを〜。
      私の代わりにろぷちゃんがリア充してくれるからハッピー!!笑

      Pixivへの掲載:2016年12月25日 11:10
      飴広
    • 赤い一人と一羽【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズの続編です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / プロイセン【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのプロイセン視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / ロシア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのロシア視点です。
      飴広
    • ケーニヒスベルク二十六時 / リトアニア【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのリトアニア視点です。
      飴広
    • 「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズ もくじ【露普】

      こちらは露普小説「ケーニヒスベルク二十六時」シリーズのもくじです。
      飴広
    • 最終話 ココロ・ツフェーダン【全年齢】【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の最終話【全年齢版】です。
      飴広
    • 第七話 オモイ・フィーラー【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第七話です。
      飴広
    • 第六話 テンカイ・サブズィエ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第六話です。
      飴広
    • 第五話 カンパイ・シャオ【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第五話です。
      飴広
    • 第三話 ヤブレ・シュトーロン【イヴァギル】

      こちらはイヴァギルの社会人パロ長編小説「オキザリ・ブロークンハート」の第三話です。
      飴広
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