花火のない夜花火のない夜
この国の冬はひどく寒いので、コートを着てマフラーを巻き、ある程度顔を隠すことができる。代わりに、夏は快適だ。気温はだいたい、十度から二十度の間を行き来する。湿度も低く、日中はティーシャツ、あとは薄手のジャケットがあれば、朝から晩まで空調に文句を言ったりすることなく生活できる。つまり、顔を隠して外を歩き回るには難しい季節だということだ。せいぜい、帽子とサングラスを着用して、周りを警戒しながら俯いて歩くくらいしかできないので、スティーブは、今回の滞在で出歩くのは夜だけにしようと決めていた。隣町に潜伏しているナターシャとサムから連絡があるまで、まるで以前からこの町の住人だったかのような顔をして過ごすのだ。
おそらくあと二、三日でこの国を出ていくだろうという夜だった。スーパーに食事を買いに行った帰り、家の前でスティーブを出迎えようとする男の影があった。金の長髪が後ろでまとめて一結びになっており、路地裏から吹き込む風に揺れた。スティーブはいつもの癖が抜けきらず、拳を握り締め、スーパーのビニル袋ががさりと鳴ってしまうほど、警戒心を露にしてしまった。直後、男が黒い傘を持っていることに気付いた。雨でもないのに。それに、この金の髪には見覚えがある。スティーブはサングラスを取った。
「……ソー?」
どうして自分がいる場所が分かったのかと、疑問に思う間もなかった。彼の友人に、「何でも見える人」がいると以前聞いていたのを思い出したのだ。彼が来るということは、何か緊急事態にでもなったのかと身構えたが、彼の装いを見て肩の力を抜く。
「おお、やっと帰ったか」
灰色のパーカーを纏ったソーが、安堵の息を吐いた。
彼を家に招き入れたは良いものの、説明すべきことは多くあった。第一に、「アベンジャーズは解散した」と告げなければいけないことをスティーブは重々承知していたが、なかなか口に出せずにいた。言いづらいのもあったし、それよりも、先に聞きたいことがあったのだ。
「変わらないな。元気そうで何よりだ」
「君こそ」
食事をとるための、一人用の小さな机と椅子のセット。そこにどかりと座ったソーは、今言った通り、前に会った時と何一つ変わらないように見える。スティーブは机に寄りかかった。夕食の入った袋と、帽子を置く。
「それで、スティーブ」
「うん?」
ソーがびしりと背筋を伸ばしたので、スティーブはアベンジャーズのことを言うよりも先に彼の用件を聞くことにした。──しかし、そこで嫌な想像をしてしまった。もしも、ソーの用件が、スティーブが「聞きたいこと」に関わるものだったらどうしよう、と。スティーブは「ところで、僕達の交際はまだ続いていると思っていいんだよな」と聞きたかったのだが、もしも、ソーが「俺達の交際がまだ有効かどうか忘れたのだが、すまない、別れてくれないか」と言おうとしていたら。おそらくスティーブはしばらく立ち直れないだろうと思う。ナターシャとサムに詫びて一人でワカンダに戻るかもしれない。バッキーの眠るポッドの前で項垂れる自分の姿が想像できた。そんなことをされたって、バッキーだって困るだろうに。
そういったスティーブの心配は、要らぬものだった。ソーはにこりと微笑む。
「今日は、誕生日だろう。おめでとう」
「え? ……あ」
部屋にカレンダーはなかった。ナターシャの連絡が入るのを待つだけのモバイルからでないと、スティーブは日付や時刻を知ることができない状態で、特段に気にかけることもなかった。だから、忘れていた。もしもソーに言われなければ、夕食を食べてシャワーを浴びて眠って、あっさりと今日という日を終えていただろう。
そうか、今日は、自分の誕生日だった。アメリカの独立記念日でもある。幾度か見た花火が懐かしい。
「あ……ああ、そうだな。ありがとう」
反応は遅れたが、喜びや、あたたかい気持ちは沸き上がってきた。ソーが目を丸くする。
「まさか、忘れていたのか?」
「ああ。任務中だし」
「それはそうだが……。キャプテン・アメリカと呼ばれる者が、この日にアメリカにいないとは。いつからキャプテン・ノルウェーになったのかと」
冗談ぽく笑うソーは、きょろきょろと狭い部屋を見回す。
「ん? あの盾が見当たらないな」
「……ソー。その事で、言わなければならないことが……」
そろそろ、限界だった。
「探していた友が見つかったのか。良かったな」
もっと他に言いたいことはあっただろう。けれど、ソーはまず最初にそう言って笑ってくれた。
スティーブは、全てを上手く説明できた自信がなかった。バッキーやトニーのことをどこまで話すべきか判断が付かなかったのだ。スティーブから見た二人はある程度スティーブの主観が入るし、冷静に話せるとも思えなくて。
ソーはアベンジャーズが解散してしまっていることを残念がったりはしなかった。というより、その内、元に戻れるだろうと考えているようだ。
「スタークとは、いつかまたゆっくり話し合って、仲直りをすれば良い」
「仲直りか。できるだろうか」
ポケットの中を探り、モバイルを取り出す。ナターシャと通じているものとは別の、古い型のものだ。いつだって充電が切れないように注意して持ち歩いているけれど、それが鳴ることは無く、もうかれこれ一年が経つ。ソーはモバイルを持つスティーブの手に触れる。包むようにそっと手が重なった。どきりと心臓が跳ねたが、ソーには気付かれずに済んだ。
「できるかどうかは俺には分からない。だが、もしできなくとも、協力しなければならない時が訪れたら、俺達は、俺達を必要とする者のために協力するのだろう?」
「……ああ。トニーにもそう伝えたつもりだ」
うん、とソーは大きく頷く。その話はこれで仕舞いだと言わんばかりだ。
「それで、バッキーはどうした? いるなら会ってみたい」
「バッキーは、洗脳の治療の準備が整うまで冷凍睡眠装置に入ってしまったんだ。もうすぐ起こせるようになるはずだが」
「そうか。起きたらたくさん話すといい。せっかく再会できたのだから」
そう言った彼は、もしかしたら、今は亡き義弟のことを思い出しているのかもしれなかった。問題のある兄弟だが、結局のところ、ソーがロキを大切に思っていたことくらい、スティーブにも分かる。
「そのつもりさ。今日、バッキーが既に起きていたなら、僕が仕事中なのもお構い無しに祝いに来たかもしれないな……」
何せ七〇年振りだ。スティーブも、できれば次のバッキーの誕生日は祝いたい。そんな理想を思い浮かべただけだったのだが、ソーは静かに立ち上がって、困ったように笑う。
「祝うのが俺だけでは寂しいか?」
「まさか! そんなこと」
ソーが会いに来てくれたのは、間違いなく今までで一番と言っていいほどの誕生日プレゼントだ。もしかしたら、明後日ナターシャとサムが何かくれるかもしれない。しかし、二人には悪いが、このプレゼントを越えるのは難しいだろう。
「君に祝われるのは予想してなかったけど、すごく嬉しい。……すごく。上手く言えないが」
「なら良いんだ。ところで……」
「うん? ……」
スティーブはたじろいだ。見上げた先にあるソーの瞳が、あまりにも真っ直ぐこちらを見つめていたので。自分より背の高い男に至近距離で見つめられようとも、怖いとも何とも思わない。だが、何故かソーが緊張しているように見えて、つられてしまったのだ。その緊張感の正体に気付いたのは、頬にするりと手を添えられた時だった。どちらからともなく、ほっと息を吐く。ソーの親指が頬骨をくすぐる。スティーブは無意識に、唇をきゅっと引き結んでしまった。
ほぼ二年、会っていなかった。神様の息は長いので、この二年間は彼にとって短いものに感じられたかもしれない。だがスティーブにとっては違う。七〇年間の空白があれど、体感時間は普通の人間と同じだ。ウルトロンとの戦いの後、彼と想いを交わした頃の思い出は夢だったのではないかと錯覚しそうになることがあった。ソーに会えないのならば他の誰かの体温を感じたいと思ってしまったこともある。結局、そんな思い切りすらなかったけれど。ソーはスティーブのことを「高潔だ」と誉めるが、きっと買い被りすぎている。
そういう訳で、スティーブの相手はソー一人だけだ。しかも一緒にいられた期間だって短かったので、スティーブはまだ恋愛を楽しむ感覚を掴めないままでいる。ソーはいつもこちらのペースに合わせてくれた。今だって、こうして頬に触れられているだけでも、ランニングコースを全力疾走でもした時のように心臓が叫ぶ。このまま、抱き締められるのか、それともキスのお伺いを立てるのだろうか。どちらかを待っていると、ソーが目を伏せる。
「お前のことを疑っている訳ではないが」
「何のこと?」
「いや……俺はてっきり、お前ほどの男なら、もう俺に見切りをつけて、誰か他の者といるかもしれないと」
「……いないとも。君だけだ」
シャロンとのキスについては伏せておいた。キスは割りと最近のことだけれども、彼女のことが気になっていたのはソーと恋に落ちる前だったから許してほしい。とにかく、スティーブが高潔かどうかなど関係ない。何もかもがタイミング次第だ。ソーとのことも。神である彼の生涯の長さを考えれば、彼がスティーブと出会い、好いてくれたのは奇跡としか言いようがない。
「僕は、君しか知らない」
スティーブからも、ソーの頬に触れる。髭を毛の流れに沿って撫でると、ソーはスティーブの手を取り、手の平に唇を押し当て、横目でこちらを見た。スティーブはようやく、ソーの挑発的な眼差しに気付いた。これは、お伺いを立てるつもりもないのだ、と。彼は別のものを待っている。スティーブは内頬を噛む。
「それで、君はいつになったらキスしてくれるんだ? その……僕の、口に」
途端、意地悪な神は白い歯を見せて微笑んだ。
「ああ、スティーブ。お前がそう言ってくれるのを待っていた」
ハッピーバースデーと囁きながら、ソーはスティーブの顎をクイと指で持ち上げる。慣れた手付きにすら胸を甘く締め付けられ、せめてもの抵抗に、彼の頭を抱き寄せた。後ろ髪をくくる紐に手をかける。
すり、と音がした。ソーが頬擦りしてきて、彼の髭が鳴ったのだった。頬を掻く僅かな痛みに、スティーブは緩やかに頭を振って逃げる。少し伸びた前髪がシーツに折り重なる。そろそろ、ナターシャに適当に切ってもらおうかと考えているところだった。
「ところで、今日で何歳になったのだったか」
ソーがもう一度髭を押し付けてきた。どうやら彼は、こちらを枕か何かだと思っているようだ。スティーブが一人で寝ても狭いベッドなので、ずれて避けることもできない。
「九九だ。それに、もう日付が変わってしまったから、昨日になる」
「次で一〇〇か。まだ若いな」
迷いなく放たれた一言に、スティーブは吹き出す。
「そんなことを僕に言えるのは君くらいだ」
「数字だけじゃない、見た目の話でもある。お前は変わらないからな。あの帽子やサングラスで顔を隠していたって、すぐに分かった」
「それはどうも。……いや、簡単に分かられるのは困るんだが」
何のための変装なのか、とスティーブは呆れる。いっそ、ナターシャのように髪型を思い切り変えてみようか。サムも、何かイメチェンでもするかな、と呟いていた。
「ソー。例えば、僕が君みたいに髭を伸ばしたって、簡単に僕だと分かるか?」
「髭?」
ソーは一旦身を後ろに反らして離れ、スティーブの顔をまじまじと見つめた。彼は時々、自分の顔が芸術的に美しいということを忘れてしまう。なので、彼にこちらの顔をじろじろと見つめられるのはスティーブにとって心中穏やかではない。今だけだと思って耐えながら、落ち着いていたはずの心音が少しずつ大きくなっているのを感じる。ソーが「うーん」と唸った。
「今のお前からはなかなか想像がつかないが……、まあ、大丈夫だろう。必ず見分けてみせる」
「……」
にこりと爽やかな笑顔を見せるソー。見分けられては意味がない、と言いたいところだが、こうも自信満々に言われては口を噤むしかない。ソーは何を勘違いしたのやら、「髭が羨ましいのか」と言いながら再び顔をくっつけてきた。
「そういう訳じゃ……こら、ソー。くすぐったいし、痛い」
「すまないすまない」
本気で謝っているのか曖昧な言い方で詫びて、ソーはスティーブの頬を労るようにキスしてきた。そのまま、鼻先やら顎やら、あちこちにキスを繰り返す。シャワーを浴びる前にスティーブからねだった、唇へのキスも惜しみ無い。舌が、ぬる、と侵入してきて、スティーブは肩を震わせた。腰の辺りが、じん、と疼く。思わず、ソーの肩を押し返したが、びくともしない。それどころか、ソーはこちらの胸元に手を這わせ、先ほどまで散々味わった部分を指の腹で押し潰してきた。
「っふ、……あ」
背を丸めて逃げようにも、体ごと抱き寄せられ、簡単に馬乗りになられてはどうしようもない。
「スティーブ。可愛らしい抵抗では俺を期待させるだけだぞ」
緩やかなウェーブのかかった長髪が、彼の肩を滑り落ちる。
「まだ、するのか……?」
「お前が、いいと言ってくれるならば」
こちらに委ねていると見せかけて、確信めいた言い方だった。ソーの眼差しは、挑むようでもあり、誘うようでもあった。どちらにしろ、スティーブはそれに引き寄せられてしまう。抗う理由もない。
「……、いいに決まってる」
髪を避け、ソーの頬へと手を伸ばす。彼はむにりと口角を上げ、スティーブに覆い被さってきた。
終