ゆるやかな秘密ゆるやかな秘密
私が彼をフォローせずに、けれどいつも彼のアカウントをチェックしていることを、彼は知らない。
私はしがない絵描きである。職業が絵描きという訳ではなくて、あくまで絵は趣味で、休日に机に向かって描いている。どれもキャプテン・アメリカの絵ばかりだ。最近のキャプテンよりも、歴史の参考書に載っているような少々時代遅れなキャプテンの絵が多い。私は、子どもの頃からキャプテンのファンだった。一〇年以上前のこと、彼が氷の中から発見されて、しかも生きていると知った時の私の喜びようといったら、とんでもなかった。絵を投稿し始めたのもその頃からだった。プロのようにフォロワーが云百人云千人、とはいかないが、「いいね」はたくさん貰える。SNSはあくまで絵を公開するのに使っているだけで、私自身についての情報は載せないし、他人の投稿にも反応せずにいた。職業柄、私は秘密主義なのである。
件の彼は、一年ほど前から、私の絵に「いいね」を欠かさずくれるフォロワーだ。一度だけ、コメントもくれた。彼が「この絵、好きです」とシンプルなコメントくれたのは、第二次世界大戦時の資料を参考にして描いたキャプテンとハウリング・コマンドーズの絵だった。彼の黒い星マークのアイコンから、きっとキャプテンのファンであるだろうと想定してアカウントを覗きにいったのが始まりだ。私から何かアクションをしたことはない。何となく気になって見ているだけ。
彼の──彼は「ミスター・クソ野郎」というひどいハンドルネームなのであまりこの名前は使いたくない──投稿頻度は、三、四日に一度だ。私は週に一度しか絵を描く時間がないので、彼のアカウントを覗きに行くためだけにアプリを開くことも多い。投稿内容は様々だ。美味しそうな手料理、ビルから見下ろした夜景、古めかしいレコードのジャケット、車の助手席から撮った流れていく景色。彼は自分の写真を投稿しない。その日のファッションどころか、鼻唄が入った動画といったものさえ無い。写真に添えられたコメントから分かるのは、彼が少なくとも六〇歳以上であるということ、ニューヨーク郊外に住んでいること、男性のパートナーがいること、そのパートナーが絵描きであるということ、よく二人でネットフリックスを見るということ。それくらいだ。私は彼の投稿を楽しみにしていた。写真の見映えを気にするのではなく、淡々と、子どもの絵日記に近しい、記録と呼ぶべきものに似ていた。タグも付けられていない、全世界に公開しているのに彼の中だけで完結しているかのような投稿。そんな日常を覗き見ていると、まだまだ働き盛りで忙しない日々を過ごしている私まで、穏やかな老後生活を送っているような気分になるのだった。
──また、俺を描いてくれた。本人の希望もあって載せられないのが残念だが、もうすっかり爺さんなのに、まだこんなハンサムに見られているのかと思うと嬉しい。腰が痛むのにも耐えて、一時間じっとしていた甲斐があった。
彼が、こういったいわゆる惚気のような投稿をするのは月に一度あるかないかだ。同じ絵を嗜むものとして、ぜひとも彼のパートナーが描いたハンサムを見てみたいのだが、残念ながら写真は閉じられたスケッチブックと鉛筆のみ。ページの端に擦ったような跡があって、ずいぶん長いこと使われているスケッチブックなのだということが見てとれた。パートナーの方は照れ屋なのか、それとも自分の絵を公開することに興味がないのか。あるいは、自分の絵の中でさえも、彼のことを独占してしまいたいのか。そう考えながら、私は幸せそうな文面に「いいね」を押しそうになった手を引っ込める。私がアカウントをチェックしていることを知られたくなかった。それはたぶん、妙なファン心理に似たものだった。
またある日、彼はこんな投稿をした。
──シャワーから上がった後、ドアの角に足の小指をぶつけた。この盾を殴った時みたいに痛かった。
写真は、どこかのサイトで拾ってきたのであろう、キャプテンの盾の画像だった。まるでキャプテンの盾を実際に殴ったことがあるかのような文面に笑わせてもらった。それでも私は「いいね」を押さなかった。その翌日、盾を持ったキャプテンの絵を描き、投稿した。彼からはすぐに「いいね」が飛んできた。
彼が不思議な投稿をしたのは、七月四日、我らがキャプテンの誕生日の晩である。
──誕生日おめでとう。たまにはこういうケーキを二人で食べるのもいい。ヴィブラニウムをも貫けるキャンドルを探すのは大変だった。いただきます。
そんなメッセージにくっついていたのは、どう見たってご高齢の方が二人で食べきるには大きいホールケーキの写真だった。いや、若者二人でも胃もたれでは済まないだろう。しかも、キャプテンの盾のデザインだ。青、赤、白のクリームが規則正しく絞られている。薄暗くした部屋で、ダイニングテーブルか何かの上に置かれたケーキには細いキャンドルが円形に刺されている。橙の灯が、ケーキや周りの空気をぼんやりと照らしているのが幻想的に見える写真だった。彼のこれまでの投稿内容から、やはりキャプテンのファンなのだなと察することはできたが、これにはさすがの私も度肝を抜かれた。まさかここまでだったとは。そんな彼に付き合っているということは、パートナーもやはりキャプテンのファンなのだろうか。それらしいことを書いていたことはなかったけれど。
そこで私はあることに気付いた。ケーキの向こう、まだ何も乗っていない小さな皿の隣に、誰かの手がぼんやりと写っている。パートナーであるに違いないのだが、その手の甲は、彼と同年代とするにはつややかだった。もしかしたら、キャプテンファンのオフ会でもやっているのだろうか? しかし、文面には「二人」、と──。──そこまで考えて、私は詮索するのを止めた。気を取り直して、自分のアカウントに、あらかじめ描いておいた誕生日祝いの絵を投稿してから、買っておいたショートケーキを食べた。彼から「いいね」が来たのは、翌朝だった。きっと、ホールケーキで胃もたれしていたのだろう。
翌週、また別な事件が起きる。今度は彼の投稿の話ではなく、テレビでやっていたニュースの話だ。「キャプテン・アメリカ、ついに婚約!」という文字が世間を賑わせる日が来るなんて思いもしなかった。しかも相手はあのバッキー・バーンズ軍曹だというから、ちょうど、今週の絵のネタを探そうと、キャプテンのブロマイドコレクションを整理していた私は泡を吹いて倒れそうになった。今すぐにでも「おめでとうございます」と投稿したいが、今週で絵を描く時間が取れるのは週末だけだ。それ以外には投稿しないという自分ルールは守ることにした。
マスコミは当然、キャプテンを追いかけ回してカメラとマイクを向けた。質問の内容はほとんどが単純な祝いの言葉であったが、彼らの一部はとても失礼なもので、中にはどう聞いてもバーンズ軍曹の過去を探ろうとしているようにしか思えない質問もあったという。そのせいもあって、キャプテンはマスコミをほとんど無視するようになってしまった。なお、そうなる前のキャプテンがある質問に答えた動画は、世間をさらに賑わせた。
『キャプテン! 彼とは既に同棲しているとお聞きしました。普段……ええっと、どんな感じでお過ごしに? どこかに出掛けたり、決まったデートスポットはありますか? プロポーズはどちらから?』
若い男性の記者が興奮気味に言った。早口で、しかも質問がまとまっていなかったが、目が輝いていて、きっとキャプテンのファンなのだろうということが伺えた。キャプテンにもそれは伝わったのか、彼は少し口角を持ち上げ、帽子のつばを引き下げてから答えた。左手の薬指に指輪がはまっている。
『普段は……最近だと、二人でネットフリックスを見てくつろいでる。まだまだ、新しいものに慣れるのに必死で。でも、昔とあまり変わらない。お互いのことは間抜けとかクソ野郎って呼んだりするし……。まあ、うまくいってると思うよ。だから僕からプロポーズを』
キャプテンは純粋に、ネットフリックスに関するスラングを知らなかっただけだろう。記者が赤い顔をして『そ、そうですか。お幸せに……!』と震える声で言った理由も、キャプテンは分からなかったはずだ。どこか神聖な存在ですらあったキャプテンからそんなワードが飛び出した、という事実は、結果的に彼の若者人気を高めることになった。コメント欄にはFワードとハートマークが並んだ。噂によると、ネットフリックスの契約者がさらに増えたらしい。
そして週末、私は描き上がった絵を投稿する前に、彼のアカウントを見に行った。最新の投稿は三日前。キャプテンの婚約には触れておらず、ネットフリックスから別の動画配信サイトに乗り替えようか悩んでいる、という内容だった。私は初めて、「いいね」ボタンを押した。
婚約祝いの絵は、第二次世界大戦時の格好をした彼らが酒を酌み交わしながら、ネットフリックスを見ている絵にした。ミスター・クソ野郎は「いいね」だけではなく、「この絵、好きです」とコメントを書いてくれた。
終
続編→「
ステバキワンライまとめ3」の最終ページ、「20181222 お題:クリスマスプレゼント」がこのお話の続きになります。