KnotKnot
私はただのマフラーではない。この世でたったひとつの特注品である。色も、長さも、デザインも、素材も質感も、何もかもが持ち主ただ一人のために作られた一級品である。
持ち主はJ・B・バーンズという。しかし、彼は私を自分で注文したのではない。私はバーンズへの贈り物だ。贈り主の名前は知らない。私はバーンズの元へ、「配達です、ハッピー・ホリデーズ」の言葉と共に贈られた。先月、クリスマスの朝のことだった。
箱のラッピングと封が焦れったく開けられ、久方ぶりに見た光と、初めて私を見たバーンズの驚いた表情を私はよく覚えている。ひょいとバーンズの隣から箱を覗き込んできたおじいさんはバーンズの同居人で、絵描きで、名をスティーブという。彼は、私を見下ろしたままほとんど無表情で黙っていたバーンズの横顔をちらと見て、口角を上げた。「いい色じゃないか」とスティーブが言って、バーンズが数秒おいて頷いた。私はほっとした。特別な品である私が万が一、持ち主に気に入られない、なんてことがあってみろ。恐ろしいことこの上ない。スティーブは続けた。「さっそく今日から着けてみたらどうだい」と。バーンズはまたしばらく黙って、短く生えた髭を鉄の手でなぞったが、結局は「そうする」と答えた。
それから私はバーンズのお気に入りになった。私の定位置はダイニングにあるバーンズの椅子の背もたれか、バーンズの首もと。彼は外出の度に私を丁寧に縦半分に折ってから、首にするすると巻いて、胸元で一結びし、両端を前に垂らす。私はこれが「ベーシックなニューヨーク巻き」と呼ばれる巻き方であると知っている。彼が初めて私を扱う時に手元の機械で調べていた。
マフラーの巻き方なんて何でもいい、私の仕事は彼の首もとをあたためることで、お洒落に見えるかは二の次で構わないと思う。事実、彼は私服のバリエーションが多い方ではなく、ファッションに疎い男であった。玄関の姿見を確認して姿勢を正し、スティーブに「マフラーだけ浮いてないか」とわざわざ聞いたことまである。スティーブは「心配ない。合わせやすい色じゃないか」と笑ってくれた。スティーブの言う通りだ。私の深い紫と、バッキーがよく着る黒の服たちは相性がいい。
ホリデーシーズン中、バッキーは一人かスティーブと二人で散歩や買い物に出るくらいしか外出しなかったが、ニューイヤーを祝うパーティには参加した。アベンジャーズ基地と呼ばれるえらく立派な建物にバイクで向かっている間にも、私はバーンズの首もとでたなびいていた。到着してもバーンズは私を外さなかった。
「よう、久しぶり」
「ああ、サム」
パーティ用の飾り付けが施された部屋に通された直後、バーンズに声をかけてきたサムという男は、既に片手にシャンパンの入ったグラスを持っていた。彼が空いた手でぽんとバーンズの肩辺りにタッチする。サムの口振りと言い、バーンズが彼の名前を呼びながらマフラーに隠れた口もとを緩ませたところから察するに、仲の良い相手らしい。
と、離れ際、サムの指先が一瞬だけ私の端に当たった。シャンパンを一口飲みながら、サムは片眉を上げた。
「革手袋は年中無休だけど、マフラーしてるなんて珍しいな。寒い?」
「──」
バーンズは少し俯き、瞬きした。その瞬間、私に、バーンズの熱が伝わってきた。彼にしては熱い。
「……、この前、……店で、見かけて。何となく、買った」
──?
私に吹き込まれた言葉を、一瞬、信じることができなかった。訳が分からなかった。何故彼は嘘をついたのか。しかも下手くそ。言葉は詰まり詰まりで、いかにも「嘘です」と言わんばかりだ。案の定、サムもくつくつと喉の奥で笑っている。
「へえ。似合ってるし、センスいいな。肌触りもいい、丈夫そうだ。もしかしてヴィブ──」
そこでサムの手が再度私の方へ伸びようとした。が、バーンズは一歩下がって仰け反り、あからさまにそれを避けた。
「──分かって聞いてるんなら、やめてくれ」
「悪い悪い。つい、な」
あまり悪びれる様子もなく、笑みを崩さないサム。バーンズは舌打ちすると、今までで一番乱雑な動作で私を外し、上着も脱いだ。きょろきょろしてハンガーを探しているようだ。パーティのため部屋が薄暗く分かりづらかったが、バーンズの頬はほんのりと赤くなっていた。
そこで私は、そういえばバーンズが「寒い」と口にするのを一度も聞いたことがない、と気付いた。私を巻くことでそれなりに体温が上昇しているのは事実だ。が、果たしてこの冬の彼にとって私は必要不可欠な存在であるのか、今更ながら疑問に感じた。
ニューイヤー用の飾りが街から消え、残るのは街路樹に巻かれたイルミネーション用のLEDだけになった頃。
相変わらずバーンズは私を愛用してくれている。しかし、今日はどこか様子が違った。正確には昨晩からだと思う。あまり眠れていないようだった。
その日の昼前にバーンズは寝室から出てきて、昼食をスティーブと食べ、いつもよりか幾分のんびりとシャワーを浴び、外出の支度をし始めた。黒のコートを羽織って、最後に私を取った手は何故だか震えていた。
「彼と、どこへ出掛ける予定? 映画館でも?」
スティーブはスケッチブックに走らせていた鉛筆を止め、いつものように穏やかな表情を携えたままバーンズに問うた。今日は二人で散歩をするのではないらしい。
では、誰と? 彼、とは?
バーンズは咳払いする。
「……さあ。そもそも、今、何を上映してるか知らない」
「ヒーローものをやっているそうだ、さっきCMが流れていた」
スティーブがリビングのテレビを指差したが、バーンズは私を首に巻きながら小さく笑っただけだった。その笑った様子からは、先程よりもリラックスしているのがよく伝わってきた。
「ヒーローは見飽きてるし、映画を見なくたって本物にこれから会う」
「うん、そうだったな。まあ、楽しんで」
「ん。……なあ、変なところ、ないか?」
バーンズはいつぞやの姿見の前でやってみせたように背筋を伸ばし、スティーブに聞いた。変なところも何もない。何もかもがいつも通りであった。私の巻き方も、それ以外も。強いて言うならば、いつも私にチクチクと当たる髭が今日は綺麗に剃られていることくらいか。
「心配ない、バッキー。お前はいつでも男前だとも」
「ならいい」
親友からの心強い一言に、ほ、と息をついたバッキー。私も阿呆ではないのでさすがに察した。今日はデートに行くのだと。我が持ち主にそういう相手がいるのだと初めて知った。
昨晩の雪がアスファルトに溶け残る中、待ち合わせ場所はバーンズが散歩でよく向かう大きな公園だった。空いているベンチに腰掛け、バーンズは辺りを見回す。犬の散歩をしているご婦人やら、ゆっくり二人で歩みを進めていく老夫婦やら、ヘッドフォンをつけて早足で通り過ぎていく若者やら。様々な人が思い思いに時を過ごしている。普段の散歩中も、バーンズとスティーブはこうして人々の時の流れを眺めることを好んでいた。
どれだけそうしていただろう。バーンズはふと、左手だけ手袋を外し、黒鉄の手を見下ろした。何を考えているかは私には分からない。ただ、何となく、これからこの手を握る者のことを想っているのだろうと分かってしまった。そして、きっと、私をバーンズへ贈ったのは──。
「バーンズ」
斜め後ろから聞こえてきた声に、弾かれたようにバーンズは顔を上げた。見上げたのと、男が隣に腰掛けてきたのは同時だった。紺色のダッフルコートがずいぶん高級そうに見えるが、バーンズが注目するはそこではない。長い睫毛、美しい線を描く鼻筋、ぽってりとした唇、白い息を吐く彼の横顔から、バーンズはじっと目を逸らさなかった。私だけには伝わってきた。彼が目の前に現れただけで、バーンズの体温がぐっと上がったこと。
「待たせてすまない」
「いえ、そこまでは」
ちらとこちらを見た黒い瞳に、バーンズは即座に否定の言葉を返した。また、下手くそな嘘だ。実際は結構待ったのに。バーンズが外していた手袋を嵌め直したところで、男はその手を取った。男の方は手袋をしておらず、褐色のかさついた大きな手がバーンズの手を包み込んだ。ばくり、バーンズの心臓が跳ねる。
「私は待った。今日が来るのを」
「……。そういう意味でしたら、俺も」
男はバーンズの答えに満足したらしい。目尻に皺を寄せて微笑み、手袋の上からではあるが、バーンズの指に唇を寄せた。バーンズはその行為から目を離さなかったし、手を振り払うこともしなかった。たまらず漏れた溜め息が、白く変わる前に私に吸い込まれる。
「……ティ・チャラ。人目がある」
「分かっている」
そう答えながらも何も気にしていない男。
ああ、私はようやく知ることができた。ティ・チャラ。それが、私を依り代にしてずっとバーンズの心をあたためていた男の名前か。
「どうして手袋をしていないんですか」
「それなんだが。実を言うと、冬のニューヨークをなめてた。寒いものだな」
「今日は特に。買いに行きましょう」
「そうしよう。君が選んでくれ」
こうして一先ずのデートプランは決まったが、二人がベンチから立ち上がる気配はなく、しばらく動かなかった。手も繋いだまま。やがてバーンズは、そっと彼の肩の上へ頭を倒してしまった。ティ・チャラを咎めた「人目がある」の一言なんてただの照れ隠しだったのだ。
バーンズがティ・チャラに身を寄せれば、おのずと私もティ・チャラの肩を借りることになる。触れてみて思ったのは、一級品のマフラーとしては悔しいが、たしかに、この人の肩はあたたかいということ。温度が、という話ではなく、バーンズが寄せる信頼とかそういった類いに関わるものの話だ。
ティ・チャラがアメリカ人ではなくワカンダという国の王であることは、細々と交わされる彼らの会話から分かった。とても忙しく、二人がこうして肩を並べて歩くのが秋の始まり以来だということも。それと、私の生まれもそのワカンダなのだと知ることができた。ヴィブラニウム、とやらでできた糸が編み込まれているようで、多少乱暴に扱ったところで傷んだりはしないはずだ、とティ・チャラは言った。けれど私は誰よりも知っている。バーンズが、私にいつも優しく触れてくれることを。巻く時も外す時も、位置がずれたのを直す時も、陶器でも扱うかのように。雑にされたのはニューイヤーパーティの時くらいではないだろうか。
「本当は、別のものを送れば良かったのではと気にかけていた。それは君に必要ないかと思ったんだ」
バーンズが店の棚から選んだ深緑の手袋を嵌めながら、ティ・チャラはぽつりと告げた。
「寒さには強いだろうから、巻くのは億劫になるかと思って」
「……たしかに、寒くはないですけど。巻きたくて巻いてる」
「……そうか」
バーンズの顔を数秒じっと見て、目を細めるティ・チャラ。私は再び、バーンズの体温の上昇を感じるのだった。
「クリスマスの朝、箱を開けて、思ったんです」
ぽつり、ぽつりとバーンズは言葉を溢す。夜をささやかに彩る間接照明の灯りにすら負けてしまいそうな、室内の空気に溶けていく声だった。
「間違って俺の元に届いたんじゃないかって。……俺じゃなくて、あなたに似合いそうな色だって」
バーンズが自嘲の色を滲ませてそう言ったのは明らかで、しかしティ・チャラはそれを馬鹿にしたりはしなかった。微笑んではいたのだけれど、ジョークを笑うようなものではなく、ただただ、バーンズの自己評価が低いことさえも、彼の持つ価値観として受け入れているような、そんな器の大きさを彼の表情からは読み取れた。
ティ・チャラの指先が私に触れる。温度や体温のどちらが上かなんてどうでもいい。ひたすらにやさしくて、おおらかで、心地が良い。バーンズの手付きに似ている。バーンズが私に触れる時、ティ・チャラを想うのと同じなのだ。ティ・チャラもこうして私に触れながら、私の贈り主でありながら、私ではなく、バーンズに触れている。だからこの指はしなやかで、熱くて、震えているのだ。
バーンズが今日、家を出る前にいつものように巻いた私を、ティ・チャラは今、初めて解こうとしている。乱暴とまでは呼べないものの、急く様子を隠しきれていない。バーンズは悦びの荒い息をこぼす。その吐息はこれまで私が感じたもののどれよりも熱くて──、──そう思う頃には、結び目に指がかかっていた。それがティ・チャラのものだったのか、バーンズ自らのものだったのか。そんな些細なことは、この夜にとって、もう、どうでもいい。
バーンズは見慣れたドアを開ける前、私越しに首筋をがさがさと掻いた。バーンズの爪を刺激を受けたのは初めてだ。しかし私は驚かない。痒みがあってそうした訳ではないのも知っている。私が今こうしてバーンズの首を守っているのは、先ほど国に帰ってしまった彼の欲の証を隠すためだった。
──巻き方が分からないな。どうやるんだ? 君が昨日やっていた形と同じにしたい。
今朝、ティ・チャラが戸惑いつつ私を折り畳む様をバーンズは楽しげに眺めていた。どんな巻き方でもいいですよ、とバーンズが笑ったので、私は今までで一番複雑な形で巻かれた。一般的なマフラーの巻き方として自然であるかどうかはこの際触れないでおこう。ティ・チャラはその芸術性を開花させた。それだけのことだ。
そんなことを思い返しつつ、バーンズは重い足取りで我が家の戸をくぐった。ドアを閉め、いつものようにダイニングに向かう。
「ああ、おかえり」
「ん、ただいま」
スティーブは昨日のようにダイニングで待っていた。普段通りの彼だ。気落ちした返事をしたバーンズにはその存在がありがたいのだろうと思う。親友が、遠く離れた地にいる恋人とのデートを終え、またしばしの別れを受け入れた後で少し傷心している、というのをもちろん承知の上で、それでも、いつも通りでいてくれる。わざわざ「どうだった」と聞くでもなく、見ていたテレビ番組に視線を戻す。
バーンズはスティーブの態度に感謝して、またいつもの日常に戻ろうとした。けれど難しかった。私の定位置であるお気に入りの椅子の横に立って、私を外そうと指を伸ばしたところで、これまでとは違う結び目に気付いてしまった。思い出してしまった。彼の熱を。
「……」
「……、バッキー?」
さすがに異変に気付いたスティーブがこちらを振り向く。大丈夫かい、とその視線が訴えてくる。バーンズは、ゆっくりと深呼吸する。それで、私を外さないまま、椅子を引いて席に座った。
「……今日は、寒いな」
「……」
寒い──。バーンズの言葉に、スティーブはぽかんとした。そうかな、と聞き返そうとしたのだろう。しかし彼は賢く、だいたいのことを察した。すぐに口を閉じ、頷いた。
「……ああ。今日は一段と寒い。紅茶が飲みたいな。僕はお湯を沸かしてくるよ」
「うん」
「バッキーも何か飲むかい」
「ココア」
スティーブが席を立つ。バッキーは背もたれに身を預ける。
テレビの賑やかさと、背後にあるキッチンでスティーブのスリッパが床と擦れる音をバーンズはただ聞き流す。そのまま何もしないでしばらく経って、ケトルが甲高く鳴き、熱湯がこぽこぽと音をたてる頃、バーンズがひとつだけ鼻を鳴らしたが、私は聞こえなかった振りをした。
呼吸を落ち着けて、私の結び目を、まるで誰かの手を取るみたいにそっと握る。私の持ち主は、いつだって私を大切に扱う。
冬はまだ続く。マフラーであるのに、季節が早く巡ることを願うのはおかしいだろうか。けれどそんな変わった考えを持っても構わないはずだ。私はただのマフラーではない。バーンズただ一人のために作られた一級品なのだから。
終
(改行・空白除いて6337文字)
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