砂時計に溺れる砂時計に溺れる
スティーブ・ロジャースを温厚な人間だと思ったことはないが、感情を爆発させるような人間だと思ったこともなかった。たった今までは。彼の右ストレートを受けたサンドバッグは、中身を撒き散らしながら部屋の隅まで勢いよく吹っ飛んでいった。よく見れば、ノックアウトされたサンドバッグは三つ目らしい。しんとした地下室に、砂がさらさらと床へ流れ落ちる音だけが染み渡る。まだ新品のサンドバッグが積まれている方にスティーブが歩き出したので、ソーは咳払いした。
「砂は貧弱だろう。俺が相手をしようか」
「ソーが? さすがに遠慮するよ。……もう疲れたし」
乾いた笑いを溢し、スティーブはグローブを外した。壁のフックにグローブを引っ掻け、手に巻いた包帯を外し、汗でびっしょりと濡れたティーシャツを脱ぐ。バーンズの話によれば背中に大きな痣ができているはずだが、もう治ってしまったのか、真っ白い背が現れただけだった。
「死にかけたと聞いたから心配していたんだが」
「ああ、ありがとう。でもこの通り……生きてるよ」
ナップザックの中からタオルと替えのティーシャツが取り出された。タオルで首周りや背中の汗を拭ったかと思うと、近くの水道でタオルを濡らし始める。横顔からは何も読み取れない。この男は時々、不気味なほどに感情を圧し殺す。軍人らしいと言えばそうなのかもしれないが、それに対してバーンズが危うさを感じるのは仕方のないことだろう。
「バーンズの到着があと二分遅れていたら、溺死していたかもしれないと」
「……バナー博士がそう言ってたな。バッキーから聞いたのか?」
「ああ」
「バッキーは……そうか、上で腕のメンテナンス中か」
ふーっ、とスティーブは溜め息を吐く。じゃぶじゃぶと洗われたタオルはきつく絞られ、今度は適当な大きさに折り畳まれ、顔を拭くのに使われた。
「……バッキーは僕の居場所を知ってた。だから、自分の担当区域を殲滅して、それでも僕が戻らなければ助けに来てくれるだろうと思ったんだ。それまではなるべく動かないで、息を止めて、バッキーが来るのを──」
「──動かないで、だと? 水中で瓦礫に挟まれて動けなかった、の間違いだろう。バーンズにそう叱られたくせに」
語尾がきつくなった。ようやくスティーブは、ソーの怒気に気付いたらしい。こちらを振り向いて、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
「何でソーまで怒るんだ」
本気で不思議そうな顔をしていた。ソーはバーンズの眉間にこれでもかと刻まれていた皺を思い出した。ああ、これはバーンズがあれほどに腹を立てるのも分かる気がする。
「何故かって、教えてやる。俺がお前の友で、バーンズの恋人だからだ。誰のせいで昨日のデートが台無しになったと思ってる。テレビゲームをしようと約束していたのに」
「台無しって……」
まだ訳の分からなさそうな顔をしているスティーブを見ていると、ソーも苛ついてきた。スティーブの方へずかずかと歩み寄りながら、思わず声が大きくなる。おかしい。自分はこんなに感情の起伏が激しい男だっただろうか。──そう思いとどまろうとする自分もいるのに、昨日のバーンズの怒りと悲しみのこもった目を思い出してしまうと、とめられなかった。
「最初からバーンズは不機嫌で、俺が訳を聞いてからはずっとお前の話で持ちきりだった」
「ずっと?」
「お前のことを間抜けだと。無茶をするなと言っても聞きやしないから腹が立つと」
「……バッキーがそう言ったのか」
そこでスティーブの目の前に来た。ソーを見上げるスティーブの目がすっと細くなる。
「ああ。俺も同意見だ。スティーブ、命を捨てるような行為はやめろ」
「捨てているつもりはない。それはバッキーにも説明してる」
「──」
反省の色のない言葉と共に、再びタオルを流水にさらすスティーブ。ソーはついに「この野郎」と肩を掴んでこちらを向かせようとした、その直後だった。
「分かってる。危うく、バッキーにまで僕と同じ思いをさせるところだった。……もちろん君にも」
蛇口から流れ落ちる水を見下ろすスティーブ。その目が遠い過去を見ているのだということはすぐに分かった。ソーは自分のことがおまけのように付け足されたことは気にもしなかった。
バーンズから聞いたことがある。彼らが離れ離れになってしまった瞬間の話だ。スティーブの手を取れず、バーンズは白く冷たい闇へ落ちていった。スティーブがバーンズを喪った時の話。
「あれは、思い出したくもない」
「……」
何も言えなかった。ソーにも、救えずに喪ったままの大切な存在がいくつもある。けれどスティーブが見ているものとは少し種類が違う気がした。どちらが悲しみがより深いかという問題ではない。彼らだけが持ちうる、決して美しいだけの友情とは呼べない、いびつな形。バーンズの言葉がよみがえる。「スティーブがいなくなるなんて考えたくもない」と、今のスティーブのような目をして言ったバーンズの言葉が。
スティーブはゆっくりと、誰かに言い聞かせるように言った。
「命を捨てようだなんて思っていない。本当に。……ただ、バッキーも分かってると思うけど、僕は昔から──」
「──もういい。お前の言いたいことは分かった」
不自然に言葉を遮ったので、再度こちらを向いたスティーブの口は半分開いたままになっていた。
「次にお前が無茶をしようとしたら、今度は俺がとめる。いいな」
「……」
ソーはぽかんと口の開いたままのスティーブに背を向けさっさと離れていった。トレーニングルームから出る時、スティーブがのろのろとティーシャツを着ているのが見えた。
外へ続く階段を登りながら、ここに来るべきではなかったと悔いた。不毛な会話だった、と腹が立った。スティーブには何を言っても無駄だろうと思えた。ソーという友人が出てきたところで無意味だ。スティーブを大切な友人と思っている気持ちに嘘はないので、それはそれで悔しかった。
結局のところ、昨晩のバーンズが言った通りだったのだ。
──スティーブがいなくなるなんて考えたくもない。でもアイツは、昔からあんなだから。──
そう呟いたバーンズは溜め息さえ吐かなかった。苛立っているくせに、諦めというより悟りの境地にいるような言い方だった。「あんなって何だ」と聞く気も失せた。一方でスティーブは、「バッキーも分かってると思うけど」、と言った。ご認識の通りだ。バーンズはスティーブのことを理解しているし、スティーブはバーンズに理解されているという確信を持っている。だからその続きを聞いていられなかった。先程のやり取りのひとつひとつがソーの胸の辺りをむかむかさせて、階段を一段踏みしめるごとに重くなっていった。
エレベーターを使ったなら、あの狭い箱の中で地団駄を踏んで壊してしまいそうだった。ケーブルが切れてエレベーターが落ちてもおそらくソーは死にはしないだろうが、それでスタークに怒られたりバーンズに呆れられるのが嫌だったので階段を使った。──のだが。
「で、五階まで非常階段を駆け上がってきたのかい?」
「ああ。造作もない」
「そうだろうけど、何で君まで怒……いや、まあ、何となく、気持ちは分かるよ」
そう言いながらもバナーは呆れた様子を隠せていなかった。コーヒーを飲みながら、ぽりぽりと頬を掻く。スタークは今日はいない。蜘蛛男はさっきまでいたはずだが帰ったのだろうか。
「バーンズはまだ終わらないのか」
「まだみたいだ。シュリ王女は、たぶん中のパーツを洗浄すれば問題ないよって言ってたけど」
スティーブが任務で死にかけているところを、同行していたバーンズが助けたのが三日前。スティーブが目を覚まし、二人が大喧嘩したのが二日前。バーンズが腕の不調を訴えたのが昨日の昼間。そして、久々のデートなのに、これらの内容を知らされただけで終わったのが昨晩。今朝はゆっくりできるはずだった。それが、ワカンダ国の王女が腕のメンテナンスのためにニューヨークへ来てくれるからというのでここに来た。腕のメンテナンスをソーが眺めていてもしょうがなかった。しかし、スティーブがトレーニングルームに引きこもってるとバナーから聞かなければ良かった。もちろん、この件でバナーを責めるつもりは微塵もないが。
「王女自ら来るとは、よほど状態がまずいのかと思っていたが」
「あー……そういうのじゃなさそうだ。彼女、午後からはテーマパークに遊びに行くらしい」
「……。まあ、あの国が平和ならいい」
平和というか、暢気というか。妹がその調子なら国王である兄もうまくやっているのだろう。
噂をすれば、とはよく言ったもので、ロビーのドアの方から王女とバーンズの話し声が聞こえてきた。メンテナンスは無事終わったらしい。ドアが開く前に、バナーにこそこそと告げておく。
「俺がスティーブに会いに行ったことは言うな」
「え、何で?」
「いいから」
ドアが開くと、バナーはそこで笑みを作り、バーンズに「お疲れ様」と声をかけた。ソーもにこりと笑っておく。
「ソー。お待たせ」
「遅かったな。……ああ、いや、バナーと昔話に花を咲かせていたところだ、気にしなくていい。腕は問題ないか?」
バナーがちらとこちらを見たが当然無視した。バーンズの腕は、見た目は昨日とほぼ変わりないが、心なしか鉄色が艶々としているようにも感じられる。バーンズがアベンジャーズの任務を手伝うようになってずいぶん日が経つ。やはりダメージが蓄積されていたのかもしれない。
こほん、と王女が咳払いした。小さな体躯に似合わぬ工具箱を担いだまま、バーンズの左肘の辺りをこつこつ叩く。
「誰が診たと思ってるの。きっちりメンテナンスして、ついでに何ヵ所か前よりも丈夫なパーツにしといたよ」
「そうか、なら安心だ」
「でもちょっと乱暴に扱ってるみたいだから、あんまり無茶させないように彼氏からも言っといてよ」
「あ、ああ。心得ておく」
ソーが答えると、バーンズはバツの悪そうな顔でこちらを見上げた。きっと王女に叱られたのだろう。それか、あまり任務を手伝いすぎるなとソーに怒られるのを恐れているのかもしれない。そんなことを言うつもりはないのに。ソーが何を言おうと、バーンズはスティーブについて行くだろうから。
王女はバナーの言う通り、午後からアメリカの友人とテーマパークに行って遊ぶとかで、とっとと帰ってしまった。バナーは研究室に戻ると言い、ソーはバーンズとランチに行くことになった。そうしてスティーブのことには一言も触れないまま、アベンジャーズ基地を後にした。
「サンドバッグ、何個破れてた?」
「何?」
どきん、と心臓が跳ねた。電流が走った、と言うべきかもしれない。つい、ステーキを切っていたナイフが止まった。向かいの席に座るバーンズは、淡々とハンバーグを一口サイズに切り分けながら続ける。
「トレーニングルームに行ったんだろ。スティーブに会いに」
「何故それを──……蜘蛛男か!」
テーブルをドンと叩きそうになったがぐっと堪えた。
「そう。ピーターも機械いじりが好きだろ。腕のメンテナンスを見に来たんだ」
あのよく喋る口を先に封じておくべきだったか。そう思っても仕方ない。何故ならあの時のソーは、本当にただ、スティーブの友人として一言言いに行くだけのつもりだったのだから。
「名物なんだとよ。キャプテン・アメリカがトレーニングルームにこもった後は砂山ができるって。いつかあの砂山からモンスターが誕生するぞ、とか……。ちゃんとスタークに弁償してるらしいけど」
「……三つだ。三つ破ったところでやめた」
「……」
きゅ、とバーンズの眉間に皺が寄る。けれど昨晩ほどではない。少しは落ち着いたのだろうか。
「背中の痣だが、もう治っていたぞ」
「そっか。……えっと、見たのか?」
「見えたんだ。砂山作りに飽きて、着替えるところだった」
「ああ、うん、そっか……」
ハンバーグを切り終え、ぱくん、と口に運ぶバーンズ。もぐもぐと口を動かすのが遅い。考え事ばかりで食べることに集中していないような顔だ。今日もこんな調子なのかと思うと、僅かな虚しさを覚える。テーブルの下で、ソーは足先を上下させて床をぱたぱたと叩く。落ち着かない。
「……スティーブは、いつまでお前にそんな顔をさせるんだ」
「え……」
ああ、言ってしまった。バーンズの揺れる瞳と目が合う。
「スティーブも見たことのない顔をしていた。お前たちの友情が特別なものだとは分かってはいるが……、昨日から、お前の笑った顔を一度も見ていない」
フォークさえ重く感じる。「特別」の具体的な意味も分からずに、けれどそうとしか言えないこのもどかしさのやり場がなかった。単純に親友と呼ぶには危うく、永遠に混ざり合うことはないはずなのにとっくに溶け合っているようにも見える二人の関係を、何とあらわせばいいのだろう。そんな彼らが喧嘩をしていて、まだ引きずっている。なのにソーは、「早く仲直りできるといいな」とバーンズの心を軽くしてやれるような気の利いた言葉をかけてやれない。
認めるしかなかった。自身の友であり、恋人にとって特異な存在である男に、嫉妬心を抱いているのだと。それでいて羨ましいとも思っている。敵うはずがないときっぱり諦められるほどの、清々しいまでの敗北感も併せ持っていた。
バーンズは俯く。じっと考え込んでいる様子を見て、ソーは何を言われるかと恐れた。相変わらず、スニーカーの先で床を叩き続けているので足首が疲れてきた。暑いわけでもないのに汗をかく。しばらくして、バーンズがひとつ頷いた。
「……だよな、ごめん。せっかく、久しぶりに会いに来てくれたのに」
それは望んだ返答ではなかった。ソーはぎゅっとフォークを握り締めた。力が入り過ぎて、少し曲がってしまった。
「違う。謝ってほしい訳ではない。俺は……ただ、お前たち二人が互いのことを、──」
スティーブが、バーンズのことを深く理解しているのが羨ましくて。バーンズが、スティーブのことを深く理解しているのが羨ましくて。──そんなことを言って何になると言うのだろう。ソーは口をつぐんでしまった。
「……ソー? どうした」
「いや、つまり……。……ええっと、そうだ、仲直りだ。早く、仲直りをすべきだと思ったんだ」
たしかに一先ず仲直りした方が良いとは思っているが、今すぐ言いたいのはそういうことではない。ソーは曖昧に笑みを作って視線を下にやり誤魔化そうとした。しかしバーンズも馬鹿ではない。ソーの心が曇っている理由を、微かに感じ取ったようだった。
バーンズから聞かされたことがある。今も昔も、スティーブとの仲を誤解されると。ソーも一度疑ったことがあった。違うと分かって喜んだのは、バーンズに告白する直前のことだ。あの時はよく知らなかった。恋愛や友情、家族愛とも異なる、強い絆があるだなんて。人と人との繋がりに、嫉妬してしまう日が来るだなんて。
バーンズがフォークとナイフを置く音がした。
「なあ、ソー」
諭そうとするような声色だった。説教じみてはいない。生きている年はソーの方が遥かに長いのに、時々、バーンズの方が大人びて見える時がある。
「俺がスティーブについて……そうだな例えば、一〇時間語れるとするだろ。俺はほら、アイツのことはそれなりに知り尽くしてるつもりだし」
「……」
もしかしてこれから一〇時間喋るのか、と思った。それと、どう考えても一〇時間では絶対に足りないだろう、とも。幸い、そんなつもりではないようで、バーンズはぽつりぽつりと続ける。
「それで、たぶん、ソーのことはだいたい三時間しか語れない」
「スティーブの半分以下か」
「だな、半分以下だ」
つい子どものようなわがままを言ってしまった気になったが、バーンズはあっさり答えてくれた。そうか、半分以下か。そんなものか。いや、そうなるのも仕方ない──とソーが落ち込みかけたところで、バーンズは「でも」と呟く。
「……でも、俺がキスとかしたいなって思うのはソーに対してだけだ」
それは、恋愛感情と友情の違いを出来る限り説くための一番シンプルな考え方だった。これらは優劣を競うようなものでなければ、明確な理屈で納得できるようなものでもない。バーンズもきっと、ソーに「俺とスティーブの仲の良さに嫉妬なんかする必要はないよ」と無理な注文をつけたりはしないだろう。ソーが自分の中で折り合いをつけるのを、手伝ってくれるだけ。
「それと、ソーのことをあと七時間分もこれから知られるかもって考えたら、楽しみだって思うよ。だって、三時間分知っただけでも、いい男だなこいつって思ってるんだし」
「……七時間分を知っていく内に、俺を嫌いになるかもしれないぞ」
せっかく慰めてくれているのに、ひねくれた返答をしてしまった。それすらバーンズは笑い飛ばす。
「ああ、俺も似たようなことを考えたことがあるな。ソーには俺の良いところしか見せないでおこうって。俺の嫌なところを知って、それで離れていったら……悲しいから」
「──……」
バーンズは言葉を区切り、レジカウンターの方へ手を振った。気付いた店員がやってきて、バーンズはフォークの替えを持ってきてほしいと頼んだ。落としたら曲がってしまった、と。ソーは促されるまま、店員に謝りながらフォークを手渡した。バーンズは自分の分のハンバーグを食べ進める作業に戻る。
「早く食べて、ゲームしに帰ろう」
「あ、ああ……」
「あのフォークみたいに、コントローラを握り潰さないでくれよ」
「……努力しよう」
離れたりしない──そう告げる最も適切なタイミングを逃してしまった。言えなかったのは、そんな言葉を用いる必要すらないスティーブには敵わない、と野暮なことが脳裏をよぎったからであった。しかし、だからこそソーは言うべきだったのだ。敵うか敵わないかの話ではない。食事を終えてからでもいい。ゲームで遊んだ後でもいい。あるいは、彼らがちゃんと仲直りしてからでも。
そのためにもまずは、替えのフォークを噛み砕いてしまわないように意識しなければ。
終