雪融け雪融け
山に遊びに行ってみたい。バーンズがそう言ったのは先月のことだ。彼の住む村からジャバリ族の山を拝むことはできないが、半日足らずで行ける距離ではある。エムバクはその内バーンズに山を案内したいと思っていたところだった。エムバクから言い出せなかったのは、バーンズは雪山になど行きたくないのではと考えていたせいだ。寒いし、肉は食えないし、そして何より、彼は冷たさを嫌うから。今でも悪夢を見るのだという。彼は過去のことをエムバクに話したがらないので、こちらからできることは少なく、もどかしさを感じていたところだ。一方、バーンズはバーンズで、山に行くことなど許されないのではと不安だったらしい。エムバク個人が許したとしても、余所者が山に入れば部族の者に怪しまれるのではないかと。ティチャラにも許可を得る必要があるかもしれないと頭を掻いた。
バーンズが抱く不安要素は、一部は杞憂に終わった。
「バーンズが山に? いいんじゃないか」
「いいのか」
「エムバク、君がいいならいいだろう。……それを何故私に?」
だいたい月に一度の頻度で開かれる、王と部族長の会合。ジャバリ族の長としてエムバクが参加し始めて約一年が経つ。帰り際、他の族長がもういないのを確認してからティチャラに声を掛けてみると、彼はあっさりと許可をくれた。許可と呼べるほど重苦しいものでもなかったので、エムバクは呆気にとられてしまった。
「何故って、バーンズがワカンダにいると知る人間は少ない方がいいのかと思って」
うーむ、とティチャラは顎を撫でる。それは否定しないようだ。
「ジャバリ族の口が特に固いのは私でもよく知っている。君がそんな心配をするとはな」
「……バーンズ本人が心配しているんだ。あまり動き回らない方がいいのかと」
「そんなことはない。彼の気持ちが穏やかになれる場所であれば何処へでも。国外はまだ難しいが」
国外なんて、バーンズはそんなことを言い出したりしなさそうだ。唯一、スティーブ・ロジャースの身が危険だと言ったら意地でも飛び出してしまうだろうが。
「とにかく……問題ないならいい。来月の会合の帰りにでも連れて行く」
「ああ、どうぞ。婚姻の儀を執り行うなら私も呼んでくれ」
ティチャラが声を潜めた。どこかいたずらっぽく、形の良い唇がにまりと弧を描いていたので、エムバクはため息を吐いた。
「そういうのではない」
ティチャラは、ふふん、と満足そうに笑う。エムバクも分かっている。彼がただふざけて婚姻の儀と軽々しく口にしたのではないことくらい。エムバクとバーンズの関係を知っているのは、エムバクの付き人を除けばこの男だけだ。他のジャバリ族の者にも話していない。部族から拒絶されることを、エムバクもバーンズも恐れていた。ティチャラはそんな二人の将来を心配しつつ、遠くから様子を見てくれているのだった。「君に会った後のバーンズは、どこか若々しさを取り戻したように見える」とはティチャラの言葉だ。
「あ、エムバク卿! 今日もバッキーのところに遊びに行くの?」
いつまで経ってもついてこない兄を探しに来たのか、シュリが戻ってきた。バッキー、という呼び名にエムバクはどきりと肩を跳ねさせたが、なるべく悟られないように腕組みする。
「それが何だ」
「いや、本当に仲が良いなと思って。これ、バッキーに渡しといてくれる?」
そうしてシュリの手がにゅっと伸びてきた。そこから黒い棒が飛び出していたので、エムバクは思わず腕を解いて後ろ手にした。
「! ヴィブラニウムには触らないぞ。キモヨビーズだけはどうしてもと言うから我慢してるんだ」
シュリはケタケタ笑った。彼女が手を開いて見せると、細長い、ヴィブラニウム製ではなさそうな包み紙が見えた。
「違う違う。外国で買えるチョコバーだよ。バッキーの大好物」
「……あいつ、こんなもの好きなのか」
「知らなかったの? まだまだだね」
シュリはチョコバーをエムバクに押し付け、兄に早く研究室に立ち寄るように伝えて去っていった。いつ会っても、天真爛漫という言葉がよく似合う子だ。いや、それにしても。
「まだまだ、とは何だ。まさかあいつも知ってるんじゃ……」
「どうだろう。バーンズの治療の際に、関係ない話もよくするとは言っていたが」
本人に聞いてみたいような、聞くのが怖いような。ともかく、そろそろ暗くなりそうな時間だったので、バーンズの暮らす村へさっさと向かうことにした。キモヨビーズで連絡を入れたが、返答はなかった。村の子どもと遊んでいるのかもしれない。
チョコバーが溶けないように、懐ではなく別の袋に入れて持っていった。だが、そんな心配は無用だったらしい。バーンズが「シュリからか、ありがとう」と嬉しそうに受け取ったそれは、ぼきりと鈍い音を立ててバーンズに噛み砕かれた。
「待て。それ、そんなに固い食い物なのか?」
「ああ。だから保存が利く。でも、他のチョコレート菓子と比べて子どもが買わないから、売り上げが落ちてるらしい」
咀嚼する度にぼりぼりと重い音が鳴った。これだけ固そうだと、何となく、甘さも控えめなのではと思えてくる。
「それはそうだろう。チョコレートが普通は熱に弱いことくらい俺でも知ってる。……うまいか?」
「うまい。乳製品と植物からできてるから、エムバクも食べられるぞ」
「今度貰おう。もう少し柔らかいのでいい」
「はは、シュリに言っとくよ」
チョコバーをぺろりと平らげ、バーンズはいつものようにヤギのミルクを準備してくれた。小さな冷蔵庫の前で腰を曲げて、タンブラーを取り出す時に邪魔そうに掻き上げた髪が湿っていた。亜麻色のシャツになだれかかった後ろ髪が、布地を重い色に変える。村での仕事を終えて一休みした後だったようで、水浴びでも済ませたのだろう。もう寝巻きとほとんど変わらない装いであった。つい、エムバクは目を逸らしてしまう。彼の人肌が恋しいのは事実だが、まだ誘うには早い。
「そういえば。来月、山に来ないか」
タンブラーをコップへ傾けていたバーンズの手が止まる。ちらと振り返った彼は意外そうな顔をしていた。
「もしかして、ティチャラに聞いてくれた?」
「ああ。俺がいいならいいだろう、何故自分に聞くんだ、と言われたよ」
「そんなものなのかな」
あの人らしいけど、とバーンズは続け、二つのコップにミルクを注いで、シロップを溶かし、器用に右手だけで持った。出会った頃は、彼が二つ以上のものを手にするとついつい世話を焼きたくなったエムバクだったが、バーンズはこれもリハビリみたいなものだからと言うので、助けを求められた時以外は何もしないよう気を付けている。
どうぞと渡されたカップを丁寧に受け取る。バーンズがベッドに腰掛けたので、エムバクも隣に並ぶ。
「お前の心持ちが穏やかになるのならば、どこに行っても構わんそうだ」
「穏やかに……ね。それならジャバリの住む山はうってつけだ」
「? そうなのか?」
聞けば、バーンズは目を細めて笑い、しかし何も答えずにミルクを飲んだ。エムバクも喉が渇いていたので一気に半分ほど飲む。この村のヤギのミルクは、青臭さが抑えられていて、コクがあり、飲みやすい。シロップがなくても良いのではないかというほどだ。食わせている牧草がいいからだとバーンズが自慢気に語るので、どこからどう見ても立派な酪農家だなと思ったものだ。エムバクはバーンズが銃を持ったところを見たことがない。子どもとレスリングの真似事をしているのを見掛けたことはあるが、手加減しているので、どうも、戦士らしくは見えないのだった。
「それで……、来月だっけ? 行ってもいい?」
「もちろんだとも。山の者には俺から説明しておく。まだ、ただの客人だとしか紹介できないが……」
「客人として扱ってもらえるだけでも有難い」
恋人だと言ってしまえたら良いのだが、ジャバリ族の中には、いまだ、外部との接触を良しとしていない者も多くいる。それは、バーンズを山に呼べなかった理由の一つでもあった。ここ数ヶ月ほどは他部族との交流をはかるために視察団を出したり、逆に山に呼んだりはしている。だが、真に理解し合うにはまだ時間がかかるだろう。
「準備を進めておかないとな」
「何の?」
「雪山に入る準備だ。山は寒いぞ。来月迎えに来る時、毛皮を持ってこよう」
「ふふ。寒いぞって……、その格好のあんたが言うか?」
コップを持ったままの右手で、人差し指を立てて指したのは、エムバクの腕だった。毛皮をかけてはいるが、肩に近い部分は素肌が見えている。バーンズがそのまま腕をつつこうとしてきたので、仰け反って避けた。あんまりふざけすぎるとミルクが服にかかってしまうので、バーンズも大人しく手を引いたが、まだへらへらと笑っていた。
「俺は慣れてる。子どもの頃は、ほとんど素っ裸で雪遊びもやった」
「すごいな。まあ、でも、俺も寒さには強い方だよ」
「それはそうかも知れんが……。ブーツも暖かいのを持ってくる。足のサイズはいくつだ?」
「んん、これくらい。何インチかは忘れたな」
片足をもう片足の股に乗せ、足首をくいと曲げてスニーカーを示すバーンズ。このスニーカーはシュリが作ったものなのだという。中敷きの形をしたシートに足を乗せると足を覆うように靴が出来上がる優れものだ。それならば確かに、細かく足のサイズを気にすることもないだろう。これを愛用しているティチャラが、靴紐を結べずサンダルばかり履いていたバーンズを見て、シュリにもう一足作らせたのだとか。
くるぶしの部分を掴むようにすると靴が脱げる──と言うよりは消える──仕組みであるが、当然、一部にヴィブラニウムの加工品が使われている。エムバクは手を伸ばしかけて、やはり引っ込める。黒のスニーカーと、同じ色のズボンの間に覗く白い足首が眩しい。見た目はしっかりしているのに、いざ掴んでみると案外細いのだということをエムバクは知っていた。
「……脱いでくれないとよく分からない」
バーンズはわざとらしく肩を竦める。
「この前はこれも脱がせてくれたのに」
「……」
この前、とは当然、約一ヶ月前の夜の話だ。あれはもうすっかり二人の気分が盛り上がってしまってからベッドに飛び込んだので、普通に脱がそうとして、触れてからその靴の特異性を思い出したようなものだった。そんなことを言って、エムバクの反応を見て面白がっているのか、それとも誘ってくれているのか判断しづらい。まだミルクの残ったコップはベッド脇にあるチェストに置かれ、よいしょ、と片足ずつ右手を伸ばして靴を脱ぐ。膝を立ててベッドの縁に足をかけ、骨張った足の甲を見下ろし、「いくつかな」と呟いたところで、物差しが無くては正確には測れない。後でエムバクの靴でも履かせてやって、きついか弛いか聞いてみよう。そう決心し、エムバクもコップをチェストに置いた。
ミルクの香りがするキスはあまり洒落たものではなかったが、唇を奪った瞬間にバーンズから舌を出してきた。待ち焦がれていたのだと言うように。もう少し分かりやすく誘ってくるか、何ならバーンズの方から手を出してきてくれればいいのに、彼はいつもエムバクに触れられるのを待っている。
「ん……」
舌を絡めれば、いとも容易く、一月前の記憶がよみがえる。バーンズのくぐもった声と、肌の滑らかさ、整っていない髭の感触。熱を持った瞳に、同じような目をした自分が映り込んでいる。バーンズの手が、エムバクが纏う毛皮を引っ張って退ける。さっさとその堅苦しい鎧を脱いでしまえという合図だった。一度始まってしまえば彼はずいぶん積極的になる。
エムバクが留め具を外している間に、バーンズはベッドにくたりと身を沈め、濡れた唇を右手で拭う。まだ湿っている髪がシーツと擦れてざらりと音を立てた。そこでようやくエムバクは、バーンズがエムバクからの連絡を確認してすぐに水浴びに行ったのだと思い至った。
バーンズのベッドを狭いなと思うのは、こうして眠る時だけだ。体を重ねている間はあまり気にならない。二人で両手を広げる余裕などなく、ぴったりと体を寄せて、明かりを落とした部屋の中で、ひとつのシーツにくるまる。エムバクはともかく、バーンズの体格だって小さくはない。向かい合い、バーンズは身を屈め、エムバクの腕の中に収まっている。
「毛皮、やっぱいらないかもな」
バーンズがぽつりと呟く。
「あんたの体温が感じられたら、雪山でも平気そうだ」
エムバクの胸元にすり寄ってくる。これはもしかするともう一戦しようというお誘いか、と過る。が、直後に彼があくびを溢したのでそうではなさそうだった。
「つまり、俺はお前を担いで山を登ればいいんだな」
「ああ、それもいいなあ」
バーンズが肩を揺らして笑う。想像してみるとたしかに笑えた。バーンズを背負えばいいのか、肩に担ぐのか、はたまた横抱きにするのか。どの道、バーンズを防寒具で包まない限りは、寒さを紛らわせる効果などない。
「でも……、手を繋いでくれればそれでいい」
「手?」
「俺が、谷底へと落ちてしまわないように」
恐ろしいことを言うなあ、と思った。あの山に危険な場所が全く無いと言えば嘘になるが、登山道はそれなりに安全性を確保してある。一人で向かうならまだしも、エムバクをはじめとするジャバリ族がついていれば大丈夫だ。
「足を滑らせないように、適したブーツを履けば平気だ。心配するな」
朝になったら足のサイズを測るぞと宣言したが、バーンズはくふくふと笑い、エムバクの顔を見上げた。
「そういうのとか、寒いのが怖いんじゃないんだ」
「……」
じゃあ何が怖いのだ、と聞くのは野暮だった。バーンズの、無理矢理笑みを作ったような唇が痛々しかったから。
「……とにかく、手を繋げばいいんだな」
「ああ」
「分かった」
シーツの下で、バーンズの手を取った。関節がひどく冷えていることに驚きながら、指を絡める。バーンズも僅かな力を込めて握り返してくる。
もう片手で頭を撫でてやると、うっとりと目を細めて、肩口に頭を埋めてきた。おやすみ、と囁く。頷き終わらない内に寝息を立て始めた彼を、今夜だけでも悪夢から救い出せるよう願った。
終