ステバキワンライまとめ2(20180630-0825)20180630 テーマ:雨季
降ったり止んだり
いつものように王国兵の車に乗り込み、バッキーが暮らす村まで運んでもらう。雨脚が穏やかになることはなかった。滝とまではいかなくとも、シャワーのように延々と降り注いでいる。村に着き、広場で子どもたちが騒ぎながら駆けている光景にスティーブは少なからず驚いた。誰もがびしょ濡れで、男の子は上半身裸で、濡れた芝生をごろごろと転げ回ったり、器に雨水を溜めては友達同士で掛け合っている。女の子は木の側で雨宿りにならない雨宿りをしながら、濡れた葉っぱをつついていた。元気だな、と見回して、あるものを発見して、傘を落としそうになるくらい驚いた。子どもたちの傍らでバッキーが胡座を掻いて座っていたのだ。
スティーブが訪れた直後、雷が鳴り始め、全員が帰宅することになった。予告もなくワカンダに帰国したスティーブに、バッキーは、「一先ず家まで走ろう」と言った。濡れて重そうなカーゴパンツと白のポロシャツを纏ったまま、バッキーが家の方に走り始めたので、スティーブも傘を握り締めて後を追った。
「ここ数日は、スコールでちょうどいい雨が降る度にあんな感じだ。遊ぶための体力は無尽蔵らしい」
バッキーの住居は狭い。小屋だと言って差し障りないそれの入り口の壁に左肩を預け、バッキーは足を片方ずつ浮かせながら靴を脱ぎ始める。青のスニーカーはすっかり水を吸い、紺色になっている。覗いた足首の白さとの対比が眩しく、スティーブは目を逸らした。やかましく雨が降る中、遠くで空が光る。
「ちょうどいい、って……これがか?」
「もう強すぎるな。一時間前はちょうど良くて、遊びやすかったんだ。みんな雨が好きみたいだけど、風邪を引きそうなくらいに気温が低くなったり、嵐みたいになったり、雷が鳴ったら危ないから解散ってことにしてる。でも……たぶん、すぐ止むぞ、これ」
両方の靴をぼとりと落として、バッキーが笑う。この村で過ごしている経験則からそう言ったのであろうが、スティーブには到底信じられなかった。持ったままだった傘を壁に立てかける。
「俺は風邪を引かないけど、洗濯を計画的にしないと服が追い付かないのが難点だな」
バッキーはシャツの裾をぎゅっと握る。ぼたぼたと水が滴り落ち、そこから視線を上げて、初めて、スティーブはシャツが透けてしまっていることに気付いた。バッキーは続いて、思い出したように自分の髪を絞り始めたが、スティーブはそれを直視できなかった。
「……着替えと、タオルを」
服の場所は知っている。ベッドの下の籠の中だ。ずるずると疲れた体を引きずりながらバッキーから離れる。久々に会えたとは言え、突然ベッドに引きずり込むのはマナー違反だろう。いくら、ここ数週間、バッキーとの夜を思い返して夢想を繰り返していたとしても、だ。一旦冷静になって、ワカンダを離れていた間のことを話して、食事をして、それで、バッキーからも「良し」と言われてからの方が紳士的だ。──そういうことを考えながら、なるべく濃い色のシャツとズボンと下着とタオルを取り出して、バッキーに渡そうと振り返って、絶句した。バッキーは入り口の戸を閉め、そそくさとシャツを脱いでいるところだった。スティーブは忘れていた。濡れた服を脱ぐのはなかなかに大変だということを。しかもバッキーは片腕だ。袖を口で噛んで引き上げたり、体を捩ったりしながら、肌にぴたりと張り付いたシャツを脱ごうとしていた。努力の甲斐あって、胸が露になったところだった。
「っはあ、スティーブ。ちょっと手伝ってくれ。……スティーブ?」
手伝うだけでは済まないと思う。──そう返したいのに、口が開くだけで声が出ない。やがて、訝しげに眉を寄せていたバッキーが、口角を吊り上げる。ああ、勘づかれた。
「……お前なあ、何考えてる?」
「……、……何も」
「怒らないから、言えよ」
分かっているのに言わせようとするだなんて、意地悪だ。案の定、バッキーはにやにやと笑い始めた。
「俺のこと、そんなに好きだったか、お前」
「……好きだよ」
「嬉しいね」
結局、バッキーは一人でシャツを脱いだ。考えてみれば、雨の度に外で遊ぶのだから、苦労はすれど脱げない訳ではないのだ。スティーブはよろよろと立ち上がり、着替えを渡すべくバッキーに近寄る。ズボンを着替えるところはさすがに見ないようにしないと、と自分に言い聞かせながら。
しかしバッキーは、着替えとタオルをスティーブから奪ったかと思うと、頬にキスしてきた。これは挑発と受け取って良いのか。考える余裕すらなく、バッキーの背を壁に押し付けてしまう。そのまま彼の首筋に吸い付こうとしたところで、ふかふかのタオルに阻まれた。
「ストップ。それはもうちょっと……、離れていた間のことを喋ったり、メシ食ったり、その後だ」
スティーブだって、さっきまではそう考えていた。その思いを砕いたのはバッキーだ。
「じゃあ、今のキスは何だ」
「今はこれで我慢、のキス」
納得いかない。──という不満が顔に出ていたのだろう。バッキーが溜め息をつく。
「あのな……、せめてシャワーを浴びさせてくれ。雨ってあまり綺麗じゃないだろ? 頭がめちゃくちゃ痒いからシャンプーだけしたい」
シャワー、という言葉に、ふと、外が静かなことに気付く。もしやと思いドアを開けると、雨が止んでいるどころか、すっかり晴れていた。シャワールームは小屋から少し離れた所にある。「すぐ戻る」とだけ言って、バッキーはサンダルを履いて出て行った。あの様子では、戻ってからもお預けを食らうことになりそうだ。
バッキーが脱ぎ捨てたポロシャツが足元に落ちていた。汚れたそれを拾い上げ、外に一歩出て、絞る。ざー、と水が落ちた。全ては、このシャツが透けやすい白だったのが悪い。力を込めると、糸が一本切れたような音がしたが、無視して空の洗濯籠に放り込んだ。
部屋の入り口に突っ立ったままでバッキーを待っていたスティーブが、何かおかしいと気付いたのは一五分経ってからだった。バッキーが頭を洗ってくるだけにしては、遅すぎる。バッキーの一言を思い出す。「今はこれで我慢、のキス」──「我慢」とは、誰の?
「……君だって、僕のことが大好きじゃないか」
スティーブはベッドに腰掛け、行儀良く背筋を伸ばした。
20180707 テーマ:星
隣の星
バッキーは右手を伸ばした。暗闇にぼんやりと浮かんだ手で空中を掻く。何にも届かない。ぬるい風が草原を撫でて、どこからか飛んできた木の葉が視界を横切った。ぶれた焦点を遠くに合わせると、白く、きらきらと輝く天の川が、木の葉が流れていった跡のように輝いていた。
ワカンダの国に、高層ビル群はない。似たようなものはあれど、それらが夜にわざわざ電力を大量に消費して夜景を作ることはない。「この国で一番美しいのは朝焼けか夕焼けだ」とティ・チャラ王が言っていたし、バッキーもその通りだと思っている。不思議なものだ。世界中のどこの都市と比べても随一の技術力を誇っているのに、田舎の町のような夜空を楽しむことができる。ただ、バッキーが触れたいのは夜空に浮かぶ光の粒そのものではなかった。それはあくまで、依り代でしかない。今は遠くにいるスティーブを思い出すための。あるいは、八〇年も前、大人になりきれない彼と自分で見たあの空への。ブルックリンは栄えた街だった。けれど今の時代ほど、世界は電気に頼っておらず、星は十分に楽しめた。というより、あの頃は、「星空が楽しめなくなる」なんて世界中の誰も心配していなかった。バッキーにとって、暖かい季節の夜、夜空を見上げるために出掛けるのは当たり前のことだった。ガールフレンドとだったり、一人だったり。必ずしもスティーブと一緒ではなかった。むしろ彼と出掛けたことの方が少ないかもしれない。それでも、彼と出掛けるのが一番楽しかった。途中で寒くなってもいいようにブランケットを持っていって、くだらない話をして、流れ星をいくつ見つけるか競って、それで、首が痛いと言いながら家路につくのだ。
「スティーブ……」
呟いても彼はいない。ロマノフたちとどこかの国にいる、ということしかバッキーは知らない。落ち着いたらビデオ通話で連絡を寄越すと言われた。待ち遠しいが、その方法ではこの夜空を共有できやしない。
◆
「……見えないな」
地下鉄の駅を出た後、バッキーがぽつりと呟いた。見ると、空を見上げていたので、スティーブも彼に倣って見上げた。高層ビルの間に、ぼんやりとした光をまとった月が浮かんでいる。「月なら見えているけど、何が見えないんだい」と言おうとしたところで、過る記憶があった。
『この国は夜空が綺麗なんだ、────』
ずいぶん前のこと、彼がワカンダにいた頃、そう言っていたのを今さら思い出した。たしか、いつかのビデオ通話の時に言っていた。スティーブがたびたびワカンダに戻ってきた時にも言っていた記憶がある。スティーブは、それよりも久々に会うバッキーと早く二人きりになりたくて、夜空なんて適当に見上げただけでさっさと彼を部屋に連れ帰ってしまっていたので、夜空をのんびりと見ることは叶わなかった。
「ニューヨークだから仕方ないさ。ワカンダの空が恋しいか?」
「……」
スティーブがそう言うと、バッキーは分かりやすく眉を寄せ、はあ、と溜め息を吐いた。
「何だよ」
「何でもない。帰ろう」
バッキーはさっさと歩みを進める。どうやら、さっきの一言は失敗だったらしい。スティーブは早歩きで彼に追い付き、左肩を抱く。
「バッキー」
「何」
「ええっと……まさかとは思うが、ワカンダに行きたくない?」
あの国では、バッキーやスティーブにとって、いいことも悪いこともたくさんあった。もう、何年も前のことだけれど。今こうしてスティーブがバッキーに触れているということが奇跡だと思えるほど、一時は何もかもを失ってしまったから。
「お前、馬鹿じゃないか」
バッキーの左肘がスティーブの胸を小突く。「うっ」とスティーブは呻く。この左腕のご恩を忘れて何を言うんだ、という意味らしい。
「だよな。ええと──」
「──あの国は、夜空が綺麗なんだ」
いつか聞いた言葉が繰り返される。だが、スティーブの記憶はあまり当てにならないことが判明する。この言葉には続きがあった。
「……だから、お前と見たかった。昔みたいに。……ブルックリンで見たのと、同じように」
「……」
スティーブが足を止めると、バッキーも同じように立ち止まった。
「俺達が一〇〇歳を余裕で越えたって、星はほとんど何も変わらない。見る場所なんてどこでもいい」
スティーブがブルックリンでの記憶を懐かしんでいる間、バッキーが何を考えたかは分からない。もしかすると、同じようなことを考えていたのかもしれない。
「まあ、でも、アメリカの田舎かハイウェイか、それこそワカンダじゃないと綺麗には見れないけどな」
伏せられた目は足元を見ているのに、思い描くのは頭上の美しい世界だ。スティーブは思い出した。まだ幼い頃、彼の横顔が星の光に照らされているのを眺めるのが好きだった。
「……明日にでも、ワカンダに行こうか」
「それ、本気か?」
バッキーは呆れたようにそう言ったが、目は笑っていて、期待しているように見える。スティーブは、明日の朝一番でワカンダへ発つ算段を立て始めた。
20180714 テーマ:花火
風情無き納涼
最初は雷かと思った。この国は予想していた以上に暑くて、シャワーも冷水を浴びたいくらいだったのに、夜になったらいきなり雨が降るのか?──そんな風に驚いていたら、窓の向こう、川がある方角に色とりどりの光がきらりと写った。年末や、スティーブの誕生日でもないのに、花火が上がっているなんて変な気分だ。まあ、独立記念日なんて日本には何も関係ないだろうから当たり前と言えばそうだろう。
窓は枠を押しずらしてほんの少しだけ開けることができるタイプで、頭を出して景色をより楽しむようにはできていなかった。この階が地上何メートルにあるのかを考えたら、当然の安全策だ。スティーブはそれでも窓を開けて、数秒、窓越しに外を眺めてこちらを振り向いた。合間を空けながら、ドン、と鳴る破裂音が大きくなる。
「そういえば、お祭りをやってる、ってフロントの人が言ってたな」
それは俺も覚えていた。けれど、ただでさえ俺たちのような観光客や日本のビジネスマンが多いのに、さらなる人混みに行く必要はないと思って行かなかった。
「祭りはいいけど、何で花火も上げるんだろうな。こんなに暑いのに」
「うろ覚えだけど、日本では花火を見て涼むって聞いたことがある。夏が花火の季節らしい」
「ふーん……」
火薬が飛び散っているのを見て、何がどう作用して涼しく感じるのかは分からない。アメリカ人にとっては花火が上がる時期と言えば年末年始、つまり冬だ。それと、独立記念日だけは特別。でもそれ以外じゃ、禁止されてない州でも花火を上げることは少ない。
スティーブは相変わらず窓に張り付いている。俺はエアコンの温度を一度下げた。物静かだったエアコンから風が吹き出す音が大きくなる。ミニ冷蔵庫で冷やしておいた缶ビールを開けてベッドに腰掛ける。慌てて飲んだ最初の一口目はほとんど泡で、二口目からはようやく喉を潤す、キンキンに冷えた液体が流れ込んでくる。
「日本の花火はどこの国のものよりも綺麗だって聞いたけど、この距離じゃよく分からないな」
そう言いながらも、スティーブの横顔は微笑んでいるように見えた。花火を楽しんでるらしい。自分の誕生日を祝ってもらっている気分にでもなるのかもしれない。先月、みんなで盛大にお祝いしたし、もちろん花火も見たし、俺個人としてもいろいろと喜ばせてやったつもりだが、まだ足りないんだろうか。
「……スティーブ」
横顔がこちらを向く。
「ん? お前も見るか」
「先月見たからいい」
答えれば、案の定、スティーブはつまらなそうに唇を尖らせた。俺はヘッドボードにあるスイッチを操作して、部屋のライトを全部切った。こんな高層階、外から届く光なんて少なくて、部屋はほぼ真っ暗になる。代わりに、窓の外の花火は多少は見えやすくなったみたいだ。けど俺は、これ以上、花火にスティーブを取られるつもりなんかない。
「窓閉めて、こっち来い」
「……?」
「別に、涼みに来た訳じゃないだろ?」
「……」
スティーブは薄く唇を開いて、何度か瞬きして、結局俺の言う通り、窓を引いて閉めた。
ビールは半分しか減っていないのでもったいないけど、ナイトテーブルの、なるべく離れた隅の方に置いておく。スティーブが、靴を脱いでベッドに上がってきて、それだけでスプリングが鳴った。誘っといてあれだけど、あまり激しいのは止めておこうな、という気持ちを込めてスティーブの目を見たら、分かっているのかいないのか、ベッドの縁を恨めしそうにちらりと見た。
キスをしようとスティーブの頬に触れてこちらを向かせる。スティーブは肩をぴくりと震わせた。
「手が冷たい」
「ああ……。あれ持ってたから」
薄暗い中、缶ビールのラベルは僅かな光を集めて鈍く輝いていた。結露した水滴が汗のようにぽたりと垂れ落ち、テーブルを濡らす。
「……唇も、口の中も冷たいかも」
「……うん、確かめよう」
いつもより慎重に肩に触れられ、押し倒される。背中の下にエアコンのリモコンを敷いてしまって、唇を塞がれながらそれをベッドの隅に追いやるついでに、設定をもう一度下げておいた。
20180804 テーマ:髪の毛/髪型
絡む悪癖
「短くしろよ。今以上の長さだと、つい、引っ張っちまうから」
それは酷く自分勝手な要望に思えた。バッキーは申し訳なさそうに目を伏せて、スティーブの顔も見ないで告げた。スティーブは、バッキーの睫毛が震えていたり、不機嫌そうに眉が寄っているのを数秒眺めてから、「ああ、近々切ろうかな」と呟く。バッキーがこめかみ辺りをがしがしと掻いて、ひとつ瞬きし、溜め息を呑み込んだのも、見逃さなかった。喉仏が上下する様子が魅惑的に見える理由をスティーブは知らない。窓から射し入る月明かりが作り出す影が動くせいだろうか。それとも、荒い呼吸を繰り返す彼の胸板が上下するのに似ているからだろうか。
バッキーはベッドの隅にあった衣服を手繰り寄せる。着るのではなく、ただ体に掛けて横たわろうとしたので、スティーブは彼の腕を取って引き留める。
「バック。もう一度したい」
「あのな……」
今度の溜め息はおさえられず、溢れ出た。迷惑、というより、迷っているように見える。彼の体を引き寄せて、耳の下辺りにキスをした。髭や髪が邪魔だけれど、構わず吸い付いてやれば、彼が鼻にかかった声をもらす。
「おい」
「駄目ならそう言ってくれ」
「……」
唇を舐めただけで何も言わない彼の背を支えたまま、ゆっくり、皺の寄ったシーツへ沈んでいく。彼はスティーブの頭にしがみついた。先ほど「短くしろ」と訴えられた後ろ髪が乱され、ぐしゃりと音を立てた。引っ張られた訳ではない。スティーブはそんなものに構わず、彼の湿った唇を追った。
バッキーは、「駄目だ」も「嫌だ」も言わない。せいぜい、「待て」くらいだ。そんな風に弱々しい言葉を言われてもスティーブが我慢できない時は、胸を押し返してくるのだが、それも大した抵抗になっていないとお互いが気付くのに時間はかからなかった。それでバッキーが思い付いたのが──思い付いたと言うより、咄嗟に行動に出ただけだろうが──、自らに覆い被さるスティーブの後ろ髪を強く引っ張ることだった。いかんせん、力が強く、スティーブは首を後ろにかくんと引くしかなくなる。
「そもそも、お前、がっつき過ぎなんだよ」
「そうか?」
「そう」
「そうか」
自覚はあった。バッキーと抱き合っていると、夜が短く感じる。夜以外の時間も短くなってしまうのだろうかと気にかかる。自分達の身体は普通の人間よりも長く生きるだろうが、それでも、残された時間がとてつもなく少ないものに思えて、物理的にも、時間的にも、精神的にも、ほんの僅かな隙間を作ってしまうのが怖くなる。だから、彼を体ごと求めてしまうのだった。ひとつの無駄もないように。限りある分を、余すことなく、愛し合えるように。
今夜も、もう窓の外が白み始めている。あくびになりかけた眠気を噛み殺す。バッキーも眠そうだ。枕はバッキーの頭の下にひとつと、まだ痛むであろう腰に添える形でひとつ。ベッドは固くはないが、枕の方がマシなのは確かだ。いつか、クッションを買おうかと提案したことがあった。顔を真っ赤にした彼に「そんな気遣いするくらいなら、加減しろ」と断られたが。
「痛いだろ、あれ」
「ああ、まあ。多少は」
たまに、数本の髪がぷちりと引き抜かれてしまうほどだった。痛くないと言っても嘘だと丸分かりだ。
「でも、気にしてない。僕らは別に、禿げる心配もないだろうし」
「そういう問題じゃない……。もうむしろ禿げちまえよ、お前」
バッキーは自分の行動を悪癖だと認識しているようだ。スティーブに申し訳ない、と。もっと別な、スティーブをコントロールする方法がないなら、いっそ「待て」をかける権利すらないと思っているらしい。結局、心の深い場所では、スティーブの行動を何ひとつ止めたくないと思っているのかも──そんな意味合いのことを彼がぼやいた日、いつも以上にしつこくしてしまったのはスティーブだけの責任ではなかった。
「僕が頭を剃って、似合うと思うか?」
「似合わないと思うから、やれって言ってるんだ」
ふん、と鼻で笑ったバッキーはもぞもぞと身を捩り、スティーブに背を向ける。右肩にシーツをかけてやって、後ろから抱き締める。腰のとこの枕が邪魔だ。壁のように思える。
──けれど、お前、僕が「髪を切る」と口にしただけで、寂しそうな顔をしたじゃないか。
そういう、意地悪な言葉は言わないでおく。「近々切ろうかな」なんて微塵も思ってもいない。スティーブとて、バッキーの唯一の抵抗手段を取り上げる気はないのだから。
バッキーの、枕から垂れ落ちた彼の黒髪は軽いウェーブがかかっていて、シャンプーと汗が混ざったにおいがする。触った感触もしっとりしていて好きだ。もちろん、自分のそれとは異なる色も。自分の白い指に黒く細いそれらが絡み付く様子を見ていると、心臓の底の辺りがぞくりと騒ぐ時がある。スティーブがそんなことに欲を覚えるように、彼も同じなのだと思う。相手のどんな一部もいとおしい。
おやすみも言わぬ内にバッキーが寝息を立て始めたことに気付いていながら、スティーブは壁を取り除いてしまおうか迷っていた。髪の毛一本分の隙間でも埋めてしまいたいと思うのは、バッキーの引っ張り癖が比べ物にならぬほどの悪癖だと言えるだろう。
20180811 テーマ:写真
どうぞ、お幸せに
バーンズは壁面にはまった大きな鏡を見てから、大人しく席についた。机を挟んで向かい側に腰掛けた私と、鏡を交互に見る。鏡は当然、マジックミラーだ。
「隣には誰が?」
「私の部下が一人」
「一人だけ?」
外で見ている人間はいるが、この部屋には私とバーンズの二人だけ。記録係もいない。監視カメラもない。スティーブ・ロジャースは連れて来るなと予め伝えていたので、彼もいない。バーンズが上手く誤魔化して家に置いてきたらしい。
「……君はもう危険人物ではないからな」
私がそう告げ、咳払いすると、バーンズは苦笑して、右手で頬を掻いた。その薬指には真新しい婚約指輪。ゴシップ誌好きの部下によると、ヴィブラニウム製なのだとか。ロジャースが造らせたのだろう。ティチャラ王は、彼らに対して褒美を与えすぎだ。
「その、危険人物じゃない俺に、一体何の用が? ロス捜査官」
バーンズの声色は、特に何かを恐れていたり、私に敵意を示すものでもなく、淡々としていた。しかし私が思うに、内心は不安だったのではないだろうか。せっかく、ウィンター・ソルジャーだった頃の活動が罪に問われなくなり、無事アメリカ国籍を手に入れるどころか、パートナーと婚約し──彼らがいつから恋人であったかは私が知る由もないが──、あとは世界が平和な限りは心も穏やかに過ごせる。そんな日々を享受できるようになった彼をこうして呼び出すのは、私としてもあまり気分の良いものではなかった。友人が呼び出すのとは訳が違う。私の元には彼らの結婚式の招待状すら届いていない。彼らは、あれが私の仕事であったことを理解していているだろう。だが、それでもあまり良い印象はないはずだ。
「大した用ではないんだ。すぐ済む」
どう切り出すべきか迷っていたら、ますますバーンズを脅すようなことを言ってしまった。
「……貴方は大した用ではないものに目を向けるほど、お暇な捜査官じゃないはずだ」
いよいよ、バーンズも警戒心を露にしてしまう。失敗だ。駄目だ駄目だ、「良い警官」を心掛けないと。
「そうだな、撤回しよう。大事な用だ。バーンズ軍曹、無事に自由の身となった君に返すものがある」
「バッキーでいい。……返すって?」
バーンズ改めバッキーの眉が寄せられたのを無視して、私は鏡の向こうに合図を出した。部下が部屋に入ってきて、麻でできたナップザックを机の真ん中にどさりと置いた。部下が出て行くまで、バッキーは彼を目で追っていたが、すぐに麻袋に目をやる。袋の口は紐で縛られている。ちらと私を見たので、ひとつ、瞬きした。
「開けていい。君のものだ」
バッキーは立ち上がり、麻袋をずるりと自分のもとに引き寄せた。しかし、そこでまた私は失敗したことに気付く。彼には右手しかない。袋を開けるのに苦労していたので、一言断ってから彼の隣に行き、開けるのを手伝った。彼は申し訳なさそうな顔をしたが、私もたぶん同じ顔になっていた。
ようやく開けた袋の中を覗き込んで、バッキーは「あ」と言った。彼がこの黒いリュックサックと対面するのは、実に六年ぶりだった。二人でリュックを完全に麻袋から出す。バッキーは何も言わなかったが、慌てているのを抑えつつ、落ち着きがなくなっているのは、リュックを乱暴に引っ張り出す様子から見てとれた。そこで私はようやく、これを返すために、今日彼に会って良かったと安堵した。
「ブカレストで押収して、君と一緒にベルリンまで運んでいたが、あの事件の後は私が預かっていた」
私の話を聞いているのかいないのか、バッキーはリュックのジッパーを乱雑に引き下げる。
「中身もほぼそのままだ」
ぴたりと動きを止め、彼は私を見る。僅かに唇が下がっている。そんな心配はしなくて良いのに。
「食糧と、手榴弾は廃棄した。それ以外は無事だ。サバイバルナイフも返却する。それと、家宅捜索でいくつか押収したものもあったので一緒に突っ込んでる」
それなら良い、と言わんばかりの勢いでバッキーは中に手を入れる。取り出されたのは一冊のノートだった。片手で持ち、親指に引っ掛かったページがぺらぺらと捲られていく。どのページもメモ書きや文章がところ狭しと書き込まれているのが見えた。
六年前を思い出す。ウィンター・ソルジャーが唯一持ち出したリュックの中に何冊ものノートが入っていると知った時、私は、これらは過去の未解決事件を紐解く鍵となるだろうと喜んだ。実際、そういった部分に役立つ記述もいくつかあった。だが、大半は────。
「……あ」
手元のノートから、はらりと紙切れが落ちる。ノートのあるページに、栞のように挟まれていたそれは、白黒の写真だった。写真と言っても、新聞か雑誌に載っていたものをコピーしただけのものだ。彼がこのノートに何かを書こうとする際に、記憶を呼び戻すために拠り所としていたもの。
バッキーはノートを置き、机の上に落ちた写真に触れる。いくらか寄った皺を伸ばすように何度も指で撫でる様子が、写った男の頬に触れているようにも見えた。一度そう見えてしまうと、見ているこっちがくすぐったくなってくる。六年前までもそうだったのだろうかと疑問には思っても、さすがに、「ロジャースのことはいつから……?」などと聞けるはずもない。
「ありがとう。もう、手元には返ってこないかと」
「持ち主に返しただけだ」
「たしかにそうだけど。でも、ありがとう。貴方の言う通り、スティーブを連れて来なくて正解だった」
これを持ち帰ったところで、ロジャースから隠すのは難しいと思う、とは言わないでおいた。私には、他に彼に言うべき言葉があった。本日二度目の咳払いをする。
「それと……。ええっと、婚約おめでとう。どうぞ、お幸せに」
「──」
バッキーは数秒ぽかんとした後、声をあげて笑った。彼が笑うのを初めて見た。彼がこんな風に、歯を見せて、目を細めて笑うなんて知らなかった。ああ、これがきっと、本来の彼の姿なのだろう。そう思うと、何だか今まで緊張していたのが馬鹿馬鹿しく思えて、いつの間にか私の口元もゆるんでいた。
数日後。私の家のポストに、結婚式の招待状が届いた。
20180825 テーマ:悪戯
導きか悪戯
スティーブ・ロジャースは死んだ。そう思っていた時期がある。アメリカにおける常識の話ではなく、ロシアの冷たい場所で苦しんでいた男の頭の中での話だ。繰り返される実験に耐えている間、いつか親友が助けに来てくれると信じていた。ひどい頭痛を味わって、何度も冷たい眠りに就かされ、自分が自分でなくなろうとしているのを感じながらも、きっとスティーブなら、と。とっくに死んでいると聞かされた時も、初めははったりだと思った。不安が絶望に変わったのは、自分が捕らえられて二〇年が過ぎていると知った時だ。自分の見た目はほとんど変わらなかったので、そんなに時が流れているとは思いもよらなかった。たしかに、研究員たちは歳をとっていた。その頃から抵抗する気力が失せていった。「最後まで一緒だ」と彼の肩を叩いたのに、なんてあっけない終わりだろうかと思うと、指を動かすのも億劫になった。涙さえ流れなかった。流したところで、氷に変えられるだけだっただろう。このまま自分を失って、スティーブの元に逝けたならいいのにとさえ思った。
今となってはバーンズが思い出した記憶の中にのみ存在する絶望である。あの頃の自分が実際に受けた悲しみも、思い出すというより、想像するしかない。それだけでも胸が引き絞られるように痛む。
逃亡生活を始めてしばらくは何も思い出せなかった。スミソニアン博物館の展示品を見て自分の正体を知ったが、その後何を調べても他人事に思えて、歴史の勉強をしている気分だった。スティーブが七〇年間凍っている間、自分も何度も冷凍させられ、記憶を消され、組織に都合良く使われていたのだと気付くまでに時間がかかった。それから、過去のことを少しずつ思い出していく内に、まだ自我のあったバーンズがスティーブの死を聞かされた時のことが夢に出たのだった。叫び声をあげて飛び起きた。どんなに酷い拷問の記憶を夢に見ても、そんな風に起きることはなかったのに。ヘリキャリアで闘った彼が放った一言に自分が動揺した理由もそうして知った。「最後まで一緒だ」は、元はと言えば若きバーンズが彼に告げたものだったのだ。
そこで初めて、バーンズが線路から落ちて死亡したと思われた時、スティーブがどんな感情を抱いたのだろうと想像した。そしてあの日、死んだと思っていた親友が生きていたと知った彼は、何を思ったのだろう。
お互いを死んだと思い込んで、二人して何十年も自分を死なせて、そうして、今さら相手の生存を知るなんて。単純に幸せな話だとは言い難い。神の導きにしては残酷で、運命の悪戯と呼ぶには巧妙である。もっと確実な第三者のような存在が、自分達を強く結びつけている気がしてならないのだ。
◆
スティーブの寝息はゆったりとしている。自分もだいたい同じスピードだと思うが、自らの寝息を聞く機会はそうそうないので確かめたことはない。
薄く開いた唇から吹き出される息が、向かい合っているこちらの首もと辺りにまで届いてくすぐったいので、二人の体にかかるタオルケットをそっと引き上げた。素肌の上をタオル地が滑るとむずむずする。スティーブが、ううん、と呻いたが、目は覚まさなかった。枕に押し付けられて乱れた前髪や、つるんとカールした睫毛、最近伸ばしている髭など、パーツを眺める。彼の顔は整っているので、寝息の音があっても人形だと言われたら信じてしまいそうだった。ちゃんと生きた人間なのだと確かめたくて、そっと右手を伸ばす。頬に触れると、体温が伝わってきた。氷や死体の冷たさではなくて安堵する。彼に触れられる時も和らいだ気持ちになる。彼の指先は熱くて、こちらの、まだ霜の残る体を溶かすように触れてくれる。
身を乗り出し、前髪のかかる額に唇を寄せる。枕の中のビーズが動き、唇と前髪が擦れて乾いた音を立てた。ぴくりと反応したスティーブが瞼を持ち上げる。
「ごめん、起こしたな」
起こそうとしたのだとは言わない。スティーブは二、三度瞬きを繰り返し、ごそごそと身動ぎして丸まった背筋を伸ばした。
「いいんだ。何時だ?」
「三時くらいかな」
「……、寝てないのか」
スティーブの眉根に皺が寄る。親指でそれを伸ばしてやって、先程と同じように頬を掌で包む。この瞬間が夢ではないと思いたくて、軽く摘まんでみたら、彼が、ふふんと微笑んだ。こちらも笑えてくる。そこで初めて、こういう時は自分の頬をつねるものだと思い出した。
「寝てたよ。覚えてないけど……、変な夢を見て起きたんだ」
「……」
スティーブがどこまで嘘を見破ったかは分からない。だがスティーブもこちらの頬に触れてきた。ああ、やはり暖かくて心地がいい。目を閉じていると、目尻を親指で拭われた。泣くつもりはなかったのに。顔を背けようとしたが、スティーブに抱き寄せられるのが先だった。彼の胸元に頭を押し付ける。心音が聞こえてくる。子守唄のように落ち着いていて、けれど力強い。ずっと聞いていたくなる。
離れないでほしい。再び離れたとしても、必ず見つけ出してほしい。そう、真っ直ぐ告げるのは何故か難しくて、彼の背に右手を回す。自分達には、それとは違う、もっとふさわしい言葉がある。時代の波に呑まれてどこかに飛ばされそうになる互いの頭に、まるで呪いのように染み付いた言葉が。それをスティーブに言ってもらえたら、自分は何だってできる。そう思うのに、言葉のねだり方が分からない。
「もう一度、眠れそうか?」
もう一度も何も、今夜はひとつも眠ってはいない。首を横に振り、スティーブの顔を見上げる。彼は何を思ったか、こちらの真似なのか、頬を摘まんできた。でも、力加減はこちらより下手くそだ。ぱ、とすぐ解放されたが、ひりひりと焦れったい痛みに顔をしかめてみせる。
「……何だよ、仕返しか」
「そうかも」
何故、スティーブが寂しそうに笑うのか、見当がつかなかった。どんな理由であれ、彼を元気付けたいと思うし、今夜はもう眠りたくはない。どちらからともなく唇を寄せ合う。タオルケットをさらに引き上げて頭まで被り、二人だけの世界に閉じ籠った。