雨に恋する中編集(バキ受まとめ)宿雨 ─ しゅくう
ソーバキAU
機嫌が良いと雨を降らせてしまう神様ソー×一般人バッキー
ベッドの縁に座り、かれこれ五分以上、ぼんやり外を眺めている。「外を」と言っても、窓には雨のシャワーが降りかかるばかりで景色は楽しめなかった。雨雲を突き抜けてぼやけた光が届いているので、朝になったことは分かる。バーンズの体感──空腹具合──からすると、八時前後か。ばたばたとガラスが叩かれる音に耳をすませる。
そろそろ顔を洗うか、もう一度寝るか、と考え始めた頃だった。突如、背後から抱きすくめられた。背に重みを感じ、腕の自由を封じられて、「ああ、起きたのか」と振り返ろうとすると、そのまま彼ごと横倒しにされた。「うおっ」と情けない声がもれる。倒れた拍子に、腹の前に抱えていた枕を落としてしまった。
抱き枕にでもなった気分だ。ソーはバーンズの肩甲骨の辺りに顔を埋め、「うーん」と唸っている。シャツ越しに熱い息がかかるのがくすぐったくて逃げようとするものの、がっちりと捕らえられて動けない。起きてはいるのだろうが、まだ夢の誘惑を振り払えないらしい。
「ソー?」
「……もう朝か?」
「ああ」
「その割りに、まだ暗い」
「雨雲があるから」
「雨か」
「……ずっと降ってる」
思わず笑みがこぼれた。目を閉じて、引き続き雨の音を聞く。すると、ぐり、と頭が肩に押し付けられた。少し痛い。
「では、また今日も、遊園地に行けないな……」
「ああ、そうだなあ」
ソーの声は、バーンズの背中や寝具に吸収されてくぐもってしまうほど暗いものだったが、バーンズはあえて気付かない振りをした。胸の前でがっちりと交差したソーの腕をどうにか解き、身を捩って彼と向かい合わせになる。見ると、予想通り、ソーは唇をむっと曲げており、ついでに眉間に皺まで寄せていた。少しでも彼の機嫌が和らぐよう、額にキスする。
嘘みたいな話だが、北欧神話の登場人物である彼は雷の神様であり、意識せずとも雨雲を呼び寄せてしまう。機嫌が良ければ良いほど大雨を降らせ、時には雷を鳴らし、停電を引き起こすことも少なくない。気象予報士泣かせであり、電気技師泣かせでもある。彼が本当の神様だと知る前、バーンズは彼をとんでもない雨男だと考えていた。デートはいつも雨で、行く場所はおのずと限られた。映画館や水族館に飽きたら家に籠るようになった。彼が特殊な存在で、雨とは切っても切れない関係だと分かった今も、バーンズはそれを不満に思ってなどいない。では何故ソーがここまで不貞腐れているかというと、彼は三ヶ月前にテレビで絶叫マシーン特集を見かけてからというもの、遊園地デートをしたがっているのだった。屋内の施設で事足りれば良いが、ソーのご所望は当然、落差の大きなコースターだ。屋外にあるため、大雨が降れば安全性確保のために運行中止となる。バーンズがテレビを見ながら「俺も絶叫マシーンは好きだよ」と言ったのもまずかったかもしれない。ソーは、自分のせいで二人で遊園地に行けないのを残念がっているのだ。
以前、遊園地の話とは別に「雨とか、弟さんの魔法でどうにかなりそうだけど」とバーンズが言った時のソーの拗ねっぷりと言ったら凄まじかった。兄弟仲は相変わらず複雑なようで、「頼んでも素直に聞いてくれそうにない」と唇を尖らせ、「雨じゃなくて蛇を降らせるかもしれない」なんて恐ろしいことを口にした。そして、バーンズがロキに頼ろうとしたことにも嫉妬したらしい。嫉妬と言っても可愛いものだったが、これではバーンズからロキに魔法を使うよう頼むこともできないので、青空の下で遊園地を楽しむ方法は今のところ見つからないままだ。けれどバーンズは、やはり、それを残念がったことはない。
「もう一眠りしたら、ブランチを食べに行こう。今日は火曜日だから、ローストビーフのサンドイッチの日だぞ。好きだろ?」
通い慣れた近所のカフェは、昼前に入ると大抵空いている。雨の日は尚更だ。数量限定の、曜日替わりのメニューはとっくに制覇した。
「……まだ寝るのか?」
「誰かさんが、あんまり眠らせてくれなかったからな。まだ少し眠い」
意識すると、一気に眠気が蘇ってくる。くあ、とあくびを抑えられず、手で口元を隠す。こんな至近距離であくびをしている顔は見られたくない。ソーは片方の眉を吊り上げた。
「だが、起きていただろう? もう顔を洗いに行くのかと思った」
「……ああ、ちょっとな」
ソーは不思議そうに口を開けていたが、寝直すのならば、と、ベッドの隅に追いやられていた自分の枕を寄越してくれた。丁寧にシーツまで掛けてくれて、何故だか泣きそうな顔をする。
「何か、悪い夢でも見たのか……?」
「違う違う、そんなんじゃない。心配するようなことは、何も」
ただ、昨晩から──ソーがここに訪れた瞬間から──降り続けている雨を眺めていたかっただけだ。彼の機嫌が良い時に降るという雨が、彼が眠っている間にも止まずにいるのが、照れ臭くて、嬉しくて。彼が起きている間に外を眺めるのはもったいないし、彼がいなくなると止んでしまうから、今しか眺められないと思って。
そんなことを素直に言ったなら、ソーはどんな反応するだろう。雷を鳴らすだろうか。街を停電させてしまうだろうか。もっとすごいことが起きたっていいと思うけれど、バーンズは善良な市民であるので、電気技師を困らせるような真似はしないでいる。
バーンズがもうひとつあくびをこぼすと、ソーは髪をそっと撫でて、頬にキスしてくる。どうせなら唇にすればいいのに、と思いながらバーンズが頭をずらせば、ちゅ、と吸い付いてきた。それを最後に、目を閉じる。「良い夢を」と囁かれる。さっきよりも雨音が強くなっているように感じるのは、きっと気のせいではないはずだ。
宿雨─
ながあめ。
前夜から降り続く雨。
涙雨 ─ なみだあめ
サムバキ
IWとかなかった平和アース
今度の土曜日はスティーブと出掛けるから、いつもみたいに二人で出掛けられない。──ジェームズはそう言った。四日前、夕食中のことだった。彼らが買い物や観光にあちこち回るのは珍しいことではない。サムは「へえ、どこに?」といつものように聞きながら、頭の中でカレンダーを辿って、今度の土曜日が何月何日であるか察した。ジェームズは、「まだ決めてない」と答え、ポテトサラダを食べた。その後は、昼間に見たテレビ番組の話をし始めた。
土曜日の朝。ジェームズはサムよりも遅く起きた。まだ眠そうに目を擦りながら、のそのそとリビングにやって来た。サムは朝食のジャムパンを食べ終わったところだった。
「あ、サムも出掛けるんだっけ」
ジェームズは冷蔵庫からミルクの瓶を取り出し、グラスに注ぐ。
「うん、まあ。あんたはいつ家出るんだ」
「昼前かな。スティーブが迎えに来たら。三時か四時には戻るよ」
「どこ行くんだっけ」
「服を見たいんだってさ」
珍しいな、と思う。スティーブはファッションにさほど興味がなく、持っている服の数は少ないらしい。ただし、シンプルなものばかり選ぶのでセンスはいい。そんな彼が果たして本当に、服を買いたくてジェームズを連れて行くのか。サムには判断できない。少なくとも、お目当てのものがはっきりしているのならばともかく、昼前に家を出て昼食を食べ、四時までに服を買ってくるのは非現実的に思えた。結局は何も聞かなかった。ジェームズも、「サムはどこ行くんだっけ」とは言わない。ミルクを飲みながら、サムの背後にあるテレビに視線をやる。
「雨が降るかもしれないな」
ジェームズが顎をクイと上げたので、サムも振り返った。画面の端に天気予報が出ていた。降水確率は三〇パーセント。開いた傘ではなく、折り畳み傘のマークが表示されている。
「傘、忘れるなよ」
「ああ。ジェームズも」
車の中に置き傘があるので、こちらは忘れる心配がない。そして、「うん」と答えたジェームズも、きっと、傘を持つことはない。
ジェームズは行ってらっしゃいのキスをくれた。普段であればよほど機嫌がいい時にしかしてくれないので貴重な出来事だった。家を出る時、靴箱の上にある鍵をよく見ておいた。ジェームズに渡している、この家の鍵だ。ジェームズは帰宅時にいつも、靴箱に置いてあるプラスチックの小さな皿の上辺りに鍵を適当に放る。鍵には、五年前のクリスマスにサムが鍵と一緒にプレゼントした、不細工な狼のマスコットが付いている。狼は、まるでサムを見送るかのようにドア側を向いていた。
どんより重く、落ちてきそうな曇り空の下、車を三時間ほど走らせた。雨は降りそうで降らないままだ。目的地の付近に着いて、まずは花屋に向かう。毎年この日に訪れる花屋だ。サムはもちろん店の場所もしっかり覚えているし、店先の花を献身的に世話している店長が年老いてきたのもよく見ている。一方、店長の方はというと、いつもサムを初めて見たかのような顔をして愛想よく話し掛けてくる。いろいろな花を薦めてくれる彼には申し訳ないが、残念ながら買う花は決まっていた。花束にしてもらい、店を出た。
車をパーキングに停めて、ゆっくり、教会へと足を進める。教会から歌声は聞こえない。こういう時、人が少ないのはありがたい。今年も、今日が日曜日でなくて良かったと安堵する。神父が入り口で掃除していたので挨拶をしておいた。彼は、サムの手にある花を見て、静かに微笑み、教会の裏に続く道の方を見た。
ライリーは熱心なキリスト教徒ではなかったが、遺族の希望で、この時代にしては珍しく教会墓地に埋葬された。もしも、アーリントン国立墓地で彼が眠っていたならばサムはもっと頻繁に彼の元を訪れることができただろう。実際はこうして一年に一度会いに来るのがやっとだ。時間的な都合もあるし、心理的な意味合いもある。とは言え、頻度の問題ではないと分かっていた。どちらがより良い状態なのかすら結論付けられていない。サムにできるのは、少しずつ後悔を和らげながら、それでいて彼を心に留めておくだけ。生前の彼を思い浮かべ、祈る。かけがえのない友を喪ったという事実を受け入れてから、もう何年も経つ。彼が生きていたら──なんてことはあまり考えなくなった。胸の内で思い出に語りかけてみても返事はない。いつか神の御許で再会できるその日まで、酒盛りするのも語らうのもお預けだ。
しばらく、何をするでもなく墓前に突っ立っていた。時折冷たい風が吹いて、その度に首をすくめた。昼食の時間もとっくに過ぎていたので腹は減っていた。けれど、動けなかった。花束を墓石の前に置いてもなかなか帰る決心はつかない。やがて、花束のラッピングフィルムがぱたりと音を立てた。見上げると、灰色の空から滴が落ちてきて頬を打った。サムは車の中に傘を置いてきてしまったことに気付いた。せっかく、ジェームズが心配してくれたのに。ジェームズは今、何をしているのだろう。向こうも雨が降り始めただろうか。
「……また来年も来るよ」
ライリーにそう言い残し、早足でパーキングへ向かう。去り際に神父から雨宿りを勧められたが、狼のマスコットのことを思い出して、断った。
あのマスコットと鍵は、いつだって乱雑に放られている。にも関わらず、今から三時間後、今朝と同じようにドアの方を向いた狼がサムを出迎えるはずだ。ジェームズが玄関から傘を持ち出した形跡さえもなく、きっと、朝出て行った時そのままの家とジェームズが、帰りを待ってくれている。ジェームズは何事もなかった顔で「おかえり」を言って、サムが求めればキスをくれるだろう。買いに行きもしなかったスティーブの服について聞く必要などない。年に一度、ジェームズがいつも以上にそっと、サムの心に触れてくれる日。
車に辿り着く頃には、大きめの雨粒が落ちてくるほどになっていた。助手席に取り残された傘がガラス越しに見える。ポケットから車の鍵を慌てて取り出し、ドアの鍵穴に差し込む。狼と揃いで買った、隼のマスコットが揺れた。
涙雨─
ほんの少し降る雨。
悲しみの涙が化して降るという雨。
霙 ─ みぞれ
ステバキ
IWとかなかった平和アース
陽が高くなるのに伴い、気温が僅かに上昇したらしい。ランチを取る前は銀色をしていた空が、腹をいっぱいにして店を出てみれば灰色になっていた。空を見上げたバッキーの頬に落ちた雪の粒が一瞬で溶けゆく。ネックウォーマーに隠れていた白い首筋が覗くくらいに頭を上に向けて、バッキーは口を開けて空の様子をうかがっている。
「口の中に入るぞ」
スティーブがそう笑うと、ぐっ、と下顎を閉じた。首筋がますます曝け出されて寒そうだ。その隙間に雪が落ちたなら、彼はきっと間抜けな声を上げるだろう。スティーブもバッキーを真似して空を見る。しかし、キャップのつばが邪魔で、背まで仰け反らせないとよく見えない。ゆったりと舞い落ちてきていたはずの粒が、ほとんど雨と変わらない速度で降りそそいでいる。
「なあ」
「ん?」
「霙って、雨と雪のどっちになるんだ」
「さあ……、考えたことない。雪じゃないか?」
ふうん──と、自分から聞いておいて興味なさげに俯く。頬の水滴を甲で拭った彼の右手は、ごく自然にスティーブの左手を取った。この後はスティーブの行き付けの画材屋に行って、小さなスーパーマーケットで買い物をしたら帰る予定だ。画材屋まではまだ距離がある。スティーブも手を繋いで歩きたいのは山々だが、待ったをかけて手をほどいた。こちらを向いたバッキーは心なしか下唇を突き出しているように見える。こんなことで拗ねたような素振りを見せられるようになるとは思わなかった。肺に溜まった空気を吐いてみると、やけに熱かった。
「たぶん、これはもう雨になってしまうから」
黒髪にかぶさった霙を払ってやり、スティーブはバッキーのショルダーバッグに手を突っ込んだ。念のため持って来ていた折り畳み傘が入っている。バッキーが納得したように頷く。
「ひとつしか持ってきてない」
「一緒に使うしかない。……照れ臭いか?」
からかうつもりで聞いたのに、バッキーは、ふん、と笑ってみせる。
「照れ臭いも何も、昔だってよくやった、だろ?」
「ああ」
あの頃は身長差のせいでバッキーが傘を持つ役目だった。そもそも、雨が少しでも降りそうな日にバッキーがスクールへ傘を持ってくるのは、気になる女の子を家に送り届けたり、そこまで進んでいなくとも傘を貸してやるためだったはずなのに、結局のところいつもスティーブが恩恵を受けていた。
折り畳み傘を開いて、スティーブが持ってやる。はたはたと、霙が着地して傘を濡らしていく。見れば、周囲の街行く人たちも傘を差し始めた。画材屋の方へ歩みを進める。
「でも、雪の日は、お前は傘を差すのを嫌がった。家に入る前に落とせば済むから、って。それでその後風邪を引いて、俺が看病を」
「そんなことあったか?」
「あったさ。何度も」
歩きながら肩が擦れ合う。バッキーは前方へ、掌を上に向けて左手を伸ばす。雨の成り損ないと呼ぶべきか、雪の成り損ないと呼ぶべきか、どちらともつかないものが黒いグローブに落ちる。一点だけ尖った箇所のある粒がきらりと光を反射して、その直後、消えていった。
「ま、分からないでもない。微妙な量の雪だと、傘を差すのが億劫なんだよな。雨よりも冷たいし、重いのに」
「……そうだな」
歩道の隅に数センチ積もった白い雪は溶けかけ、泥混じりになり、踏む度に濡れた重い音を立てる。どうせならば白く美しい姿を保ちつつ、静かに溶けてくれたなら歩道も汚れなくとも済むのに。スティーブは、足下を眺めながらそんなことを思う。バッキーが言うことも一理あるが、時には、「微妙な量の雪だ」と言い張って、何にも、そして誰にも頼らずに、吹雪の中を歩こうとする者もいる。スティーブは傘をほんの少しだけバッキーの方に傾けた。バッキーが不思議そうに眉を上げてこちらを見たが、特に返事はしないでおいた。
数分歩くと、霙はすっかり雨に変化していた。パタパタと雨粒が傘を叩く音が会話の邪魔をする。とは言え、二人の聴力であれば聞き返す必要はない。それは有り難いはずなのに、何だか物悲しいような気もする。
「何買うんだっけ」
「消しゴム。一昨日折れてしまったから、使いづらくて」
「相変わらず、練りゴムは使わないんだったか」
「ああ。バッキーは寄る所はないか?」
「うん、ない」
身を寄せながら傘の下に縮まって歩くと、少し温かく感じる。スティーブもバッキーも体格は大きめで、お世辞にも折り畳み傘に収まりきっているとは言えない。スティーブの右肩に時折雨が降るように、きっとバッキーの左肩も冷えているだろう。けれど、バッキー自身がそれを知覚することはない。気付かないのだから、スティーブに「寒い」と告げることもない。
画材屋に着いてから、傘の袋をこちらに押し付けて先に店内に入っていってしまったバッキーの背を見ると、やはり左肩の部分が濡れていた。スティーブは、再び雪混じりになったものを傘から落としながら、スーパーまでの道のりは右手で傘を持って歩こうと決めた。そんなことをしても、バッキーは、左肩が温められているなんて思い付かないかもしれない。優しさと呼ぶには些細な自己満足に、バッキーが気付いたらいいのにと思うような──。いや、気付かないでいてほしいような──。どっちつかずの思いをくすぶらせつつ、傘をたたんだ。
霙─
雪が空中でとけかかって、
雨とまじって降るもの。
遣らずの雨 ─ やらずのあめ
ティチャッキー未満
CW, BP後 両片想い(結ばれる予定のない二人なのでご注意ください)
お互い、言い出せるはずがなかったのだ。二人の関係は特殊だった。互いが、相手に対して自分の立場が複雑であることを申し訳なく思っている。好意を抱いている自覚はそれぞれあるし、相手もどうやらこちらのことを好いているようだと気付いてもいた。けれど、言葉にすることはこれまでなかったし、今後も有り得ないだろう。少なくともバーンズはそう思っている。彼も、きっと。
「貴方がこの国の王で良かった」
冷たい眠りから覚めた後、バーンズはティ・チャラにそう告げた。眠っている間、紆余曲折を経て彼が玉座についたことを知った後だ。
その頃の彼は、バーンズのことを大切な客人だと思いながら接していたようだ。彼の妹がバーンズの脳の治療まで買って出てくれて、帝都の近くにある村で生活してほしいと言われた。「これは君への償いのようなものだから」と彼は言ったが、そのような言葉で済ませられないほどの待遇である。お礼がしたいとバーンズが申し出るのは自然なことだった。彼は初め、「お礼だなんて」と断ったが、バーンズがどうしてもと食い下がると、必死に考えて、こう提案した。
「たまに二人で会って、公務の愚痴でも聞いてくれないか」
彼は続けて、「オコエには怖くて話せないこともあるから」と冗談めかして言った。バーンズは少しでも彼のためになるならと、口の固さを自負した上で快諾した。
それが全ての始まりだった。
二人は月に二度ほど会い、互いの近況を話し合った。バーンズが村で育てたヤギのミルクや村の子どもが作った花の腕輪を持って行くと、彼は穏やかな笑みを浮かべて喜ぶのだった。一方、彼の外交疲れの愚痴は、バーンズにとっては世界情勢を知る良い機会となった。彼がバーンズをアドバイザーのように扱う気はない、というのは双方承知の上だったので、気兼ねなく意見を交わすことができた。そうして彼の考え方や個性を知っていく内に、心が後戻りできないところまで来てしまっていた。
彼も同じだと知ったのは、酒に酔った彼が、この世の終わりの瞬間に直面したような顔で、バーンズに「もう帰ってしまうのか」と溢した夜だ。「もう」も何も、月がのぼってずいぶん時間が経った頃だった。バーンズはどうにか、「村での仕事が朝早いから、帰らないと」と答えられたけれど、見たこともない彼の瞳から逃げるのに十数秒を要した。胸の内で歓喜と悲哀の両方が同時に暴れだしそうになった。
とは言えどうして、この距離を縮められたらなどと贅沢なことを望めるだろう。彼はやがて次の王を育てる。既に、相応しい相手がいる。婚礼の儀に向けて順調に話が進んでいるという噂も聞く。彼の背にはたくさんのものがのし掛かっていて、それでも彼は真っ直ぐ歩いていく。バーンズが彼の荷を半分借り受けることは有り得ない。バーンズはバーンズで、これまで背負ってきたものがある。
バーンズの治療が終われば。あるいはバーンズやスティーブの抱える問題が解消されたなら。自分達はきっと、優しい王様と特殊な客人に戻る。友人関係という名前が付け加えられていても、それ以上は無い。バーンズがアメリカに帰ったなら会う機会も減るだろう。互いへの想いを滝壺の底へ沈めて、それぞれの人生を歩むはずだ。今はその日が来るまで、二人で過ごせる時間を欲張らずに楽しむしかない。相手を恋しく想うだけで全てがうまく行くのは御伽話の中だけだと、大人なら誰もが察している。重要なのは人生のどのタイミングで出会ってしまうかだ。自分達は遅すぎた。出会えただけでも良しとするべきだった。何せ、二人の年齢はひと一人の人生とほぼ同じほどに離れているのだから。
フランスから帰ってきたばかりの彼と部屋で三時間ほど話し込んだ後、バーンズは重い腰を上げた。この一人用のソファの背凭れは一度座るとなかなか離れがたくなる。腰や背が沈みすぎるのでもなく、ほどよく体が収まるのが好きだった。揃いのものに腰かけた彼は、時間が随分経っていたことに今気付いたらしい。引き留めてしまって申し訳ないと謝ってきた。彼はあの酔った日以来、どちらかというとバーンズを早く帰らせようとする。
ところが、部屋を出ていこうとしたところで彼がバーンズを窓際に呼び寄せた。少し開いたカーテンの隙間、窓の向こうはもう真っ暗だ。時間はたしかに夜にはなっているが、真夜中の暗さに見えた。近付いてみて、バーンズも彼の言いたいことを察した。ひどい雨が降っていた。窓越しにざーざーと、滝のような音が聞き取れる。
「防音機能が優れているのも考えものだ」
「ええ、こんなに降ってるだなんて。全く分からなかった」
車を出して貰うのも申し訳ないほどの雨だった。これはしばらく帰れないと思ってみても、どうすればいいのやら。けれど、途方に暮れる一方で、雨に感謝している自分がいた。彼と二人で過ごせる時間が引き伸ばされた。この喜びは危ういものだ。そう分かっていても頬が熱くなる。助けを求めるつもりで彼を見やったが、彼も何も言わなかった。しばしの刻が流れた。雨の音に耳を澄ませていないと、あまりの静けさに胸が押し潰されそうだった。
「……貴方を困らせたいなんて、一度も考えたことはないんだ」
先に言葉を発したのはバーンズだった。この状況を幸運だと思ってはいるけれど、そう口に出すことは許されない。そんな想いがこもっているとは言え、支離滅裂な一言に聞こえても仕方のない言葉だった。なのに、彼は柔らかに微笑んでくれた。
「君に関して、困っていることなどない」
彼がそう言うなら大丈夫だ。自分達は、この距離を保ったままでいられる。いつも通りの形で、この雨を恵みの雨だと受け取ることができる。バーンズはひとつ深呼吸する。
「……雨がやむまで、ここにいても?」
「もちろん。それまでは……そうだな、音楽でも聞こうか」
彼はキモヨビーズを操作して音楽をかけ始めた。ジャズに似た軽快さと穏やかさを持った管楽器の音が流れた。若々しい男のフランス語の台詞の後、明るさはそのままに歌が始まる。音質はあまり良くないので、きっと昔の歌だろう。
「何という歌です?」
「ラ・メール。海の寛大さを歌ったものだ。これはカバーで、オリジナルはもっと静かだが……私はこちらの方が好みだな」
寛大さだなんて、まるで彼自身のことを指しているみたいだと思った。フランス語は分からないけれど曲調は好きになれそうだ。アメリカに帰ったら歌詞でも調べてみようか。フランスに旅行に行ってもいいかもしれない。そうして彼と過ごした日々を思い出すのだろう。
バーンズは窓に寄りかかり、外を眺める。雨音と音楽に耳を傾けながら、冷えた窓ガラスに体温を分け与えた。
遣らずの雨─
帰ろうとする人を
ひきとめるかのように降ってくる雨。