海誓山盟瞼を持ち上げると、そこには予想していた景色と違ったものが広がっていた。青い空に広大な草原ではない。そこは夕陽が射し込む最低限の家具しか置いていないような小さな部屋だった。盤石な岩を彷彿とさせる安心感に満ちた空気は、まるで仙人の洞天の中のようだ。ここが何処かと不思議に思うよりも先に鼻を掠める鉄臭さに空は顔を顰める。床に散らかっている手のひらほどの大きさの鴉青色の羽根に血が付着しているのを見て、羽根の出どころを目で追ってみると、そこには衣装棚の影に隠れながら自ら背から生えている翼から羽根を毟る少年がいた。随分と痩せて顔色も悪く、乱雑に伸ばした髪型のせいもあって一瞬誰だか分からなかったが、よく見るとその整った顔立ちは少し幼い印象を受けるものの見知ったもので、魈だと確信めいたものを感じる。仙号である金翼鵬王の名の通り元の姿は鳥類なのだろうか。立派な大きさの翼を持つ彼の伸びた爪が、羽根を無理やり引き抜く際に地肌も傷付けているようで爪先が血で染まっていて痛々しい。色んな疑問が湧いたが、なによりも先に翼の手当てをしなければと駆け寄ると、彼は空の姿を認識するなり身体を震わせ怯えを孕んだ瞳で見上げてくる。きっと目の前の彼は空を知らない。彼にとって自分は突然現れた不審者にすぎないことをすっかり失念していた。声すら上げられずに縮こまっている魈にどんな言葉をかけたらいいか戸惑って、それが余計に怪しさをうむ。そうしてる間にも剥き出しの地肌からはじくじくと血が滲んで垂れていくのが目に入った。
「あー、えっと……いきなりごめん! でも先に止血させてください!」
思い切って翼に手を掛けると彼はいやいやと言うように身体を捩ったが抵抗する力は弱く、空でも簡単に抑え込めるほどだった。指先から伝わるごわごわとした羽根の手触りや、粗い布地の衣服越しでも分かる骨と皮ばかりのゴツゴツとした身体の感触にきゅうっと胸が痛む。
「すぐ終わらせるから」
努めて柔らかい声をかけて、懐からハンカチを取り出す。この場に来たと同時にバッグは失われたらしく、今の空は武器を取り出すこともできず、身につけていたものしか持っていなかった。正面から彼と向き合って、傷付いた翼を片手で押さえながら空いた手で傷口にそっとハンカチを押し当てる。淡い色の布地が血液を吸って変色するとともにじんわりと湿っていく。かなり深くまで爪が刺さっていたようで、間近で見ると僅かに肉が抉れている部分もある。それに血が滲んでいなくとも地肌が剥き出しのつるつるになってしまっている部分があちこちにあった。常習的に引き抜いているのだろうと窺える。しっかり生え揃っていれば立派な翼なのだろうが、今はあちこち禿げて血を流している見窄らしい翼でしかなかった。
「少し押さえるから、力が強かったら言ってね」
声をかけても反応がない魈は、カタカタと小さく震えながら空と目を合わせないようにしているくせに、一度抑え込んだら少しも抵抗しなくなった。恐怖心のあまり従っているような様子だ。言葉で説得するのではなく、力で強制してしまったことを後悔しながら、やんわりとハンカチを押さえる力を強めて止血をする。本当は消毒して傷口の保護がしたい所だが、今の空は消毒液もなければガーゼや包帯も持っていない。殺風景なこの部屋に何かあるだろうか、と手近にあった棚の引き出しを開けてみるが、やはり大したものは入っていない。となれば止血だけして、異様に怯えている彼を落ち着かせることを優先することにした。
「怖がらせてごめんね」
二歩三歩と後退して魈から距離を取って、埃っぽい床の上に座り込む。彼は翼で自分の身を守るように丸くなってしまった。羽の隙間からじとーっと金眼に睨みつけられているのが見えて、完全に不信感を抱かれてしまったと知る。聞きたいことがたくさんあるが、それにはまず質問に答えてくれる程度には警戒を解いてもらわないといけない。そう思ってぎこちなく自己紹介を始めたものの、魈の変わらない表情に心が折れそうになる。初めて出会った時は彼の方から顔を見せに来てくれたし、空にも岩王帝君の死を伝えるという用事があった。しかし今の空はただの不審者であり、用がある訳でもない。なんとか自分に興味を持ってもらおうと、幼さの残る彼の顔つきからきっとここは過去なのだろうとあたりをつけて、異世界から来たことだけでなく未来から来たことも話している時だった。
「信じてもらえないかもしれないけど未来で魈と俺は友達なんだ」
「……名前」
それは聞き逃しそうなくらい小さな声だ。長いこと喋らずにいたかのような掠れた声が、翼の奥から聞こえる。
「その名は先日いただいたばかりのものだ」
何故お前が知っていると言いたげな不満げな声色だ。のそりと立ち上がった彼は裸足でぺたぺたと音を立てながら、数歩分引いた空へと近付き見下ろす。翼の分、空のよく知る彼よりも大きい筈だが、それでも威圧感を感じない。痩せ細っているからだろうか。不機嫌そうに眉根を寄せているが凄みもなく、むしろ子供が拗ねているみたいで可愛く見えてしまう。
「モラクスから貰った名前を既に知ってることが、俺が未来から来たということの証明になる?」
「様をつけろ不敬者。だが……そうだな。信じてやらんこともない」
話していると次第に怯えた様子も怪訝そうな様子も見受けられなくなっため空の方から近付こうとすると、びくりと身体を震わせて人二人分は後ずさってしまった。興味関心はあるが、来られると怖いといったところか。動くのをやめてにこりと微笑むと、再びおずおず戻ってくるのが可愛い。しばらく自分からアクションを取るのは控えて会話に専念しようと足を崩してあぐらをかくと、彼も目の前に腰を下ろして同じポーズを取ってくる。
「魈はここで何をしているの?」
過去であるのは確かだ。名前を貰ったばかりということは今は魔神戦争の最中なのだろう。しかし魈の過去のことは空も多くは知らない。彼自ら話すことがなかったし、空にとっても知りたい過去はカーンルイアと関係することばかりで、魔神戦争時代のことは最低限のことしか勉強していなかった。
「我はお前に話していないのか?」
「うん。未来の魈のことは他の人よりも知ってる自信あるけど、過去の魈についてはあまり……。ごめん、言いたくなかったら言わなくてもいいよ」
これまで彼は一度も空に語らなかったのだ。きっと話す必要がないと判断したか、話したくない内容だったのだろう。そう考えて無理に話す必要はないと付け加えたが、目の前の魈は言うか言わないか悩むようにきょろきょろと視線を彷徨わせて、やがてポツリと口を開いた。
「……療養をしている」
どこか悪いのかと尋ねなくとも、彼の姿を一眼見れば誰もが納得できるだろう。怪我をしていたり体調が悪いというわけではないようだが、空でも抑えられる程度に力がない。それは痩せ細っているからなのか、空には感知できない仙力なるものが失われているのか、詳しい理由は分からない。何故療養が必要になったのかだとか、いつまで療養しなければならないのかだとか、気になったことはたくさんあったが魈は療養をしている以上のことを言うつもりはないようで口を割らなかった。
「じゃあご飯はどうしているの?」
「朝晩に持ってくる者がいる」
朝昼晩しっかり食べたい空にとって、お昼ご飯が無いのは死活問題だ。驚愕が表情に出ていたのだろう。そんな空の様子が面白いのか口元を緩めている。一日にたった二食だけで腹が減らないのかと尋ねると、魈は少しバツが悪そうな顔をして目線を逸らした。
「……凡人の食事は食べ慣れぬ」
魈は素材本来の味を楽しむような優しい味わいのものを好む。けれども食事に対して興味関心は無いのか、手間暇をかける意味を理解出来なかったり、即食性が無い食品に対して不満げな表情を見せることもある。それでも何かしら食べてはいるようだったが、目の前の彼はそうではないようだ。だからそんなにがりがりに痩せているのだ、と思ったが口には出さないでおく。
「それなら俺良いもの持ってるよ」
左右のポケットのどちらかにおやつ代わりに持ち歩いているドライフルーツがあった筈だ、とポケットに手を入れてもぞもぞと漁っていると興味深そうに魈も様子を伺っている。目当てのものを摘み出して彼に手渡そうとしたものの、突然それの衛生面が気になってしまい動きが止まった。元々ポケットにそのまま直入れして小腹が空くと食べていたものだ。パイモンからはみっともないからやめた方がいいと日々嗜められていたが、いちいち鞄から取り出すことを横着した結果、今の空にとって数少ない持ち物になってしまった。今まで自分しか食べないおやつだったため、衛生面など気にしたことがなかったが、他人にあげるとなるとそんなものを渡して良いのだろうかと不安になる。
「……やっぱりこの話は」
「乾いた苹果か」
なかったことにして、と続けようとした言葉は遮られ、魈の細い指先は空の手のひらの中のドライフルーツを奪うと、薄く切って天日干しにしただけのそれをむぐむぐ食べ始めた。
「……うまい」
久しぶりに食べ物を口にしたと言う彼は夢中になって薄っぺらい果実を齧っている。一枚だけでは物足りないだろうと思ってもう二、三枚取り出して口元に近付けると、はむっと唇でそれらを受け取る姿に胸が熱くなる。少し食べ物を与えただけで警戒をすっかり解いてしまったようだ。もっと欲しいと言いたげな瞳でじっと見つめられて、空は抗えずにポケットから更に取り出しては運んでやると、魈も何の抵抗もなく手ずから食べてくれる。まるで雛に餌付けしているような気分で、せっせとドライフルーツを彼に与えた。
「満足した?」
結局ポケットの中の備蓄は全て魈の腹に収まった。今度は大量に作って、一緒に食べようと目の前の彼にはあげることができないと分かりつつも考えていると魈の気配が近付いて来て我にかえる。視線を合わせると、魈は身を乗り出して空の顔をじっと見つめていた。
「……お前はいつまで居るんだ?」
いつまで、と聞かれると空にも分からないことである。そもそも空は元々テイワットであり、空の滞在しているテイワットではない並行世界に遊びに行くつもりだったのだ。それが何故だか過去の魈の元にいる。武器すら持てない空はいつものように自分から並行世界との接続を切ることが出来なくなっており、こうなると世界から拒まれるのを待つしかない。とはいえそのことまで説明しても魈の理解が追いつかないかもしれないと判断した空は未来に帰れなくなった、とだけ話す。
「だから……帰れるようになるまでここに居てもいい?」
小首をかしげると魈は少しも悩む素振りを見せることなく、こくんと頷く。断られたらどうしようかと心配する間もなかった。まだ居るならそれで良い、と言う彼にそれなら時間が許すまでお喋りをしようと提案すると嬉しそうに彼は頬を緩めた。
❇︎
今まで旅をしてきた世界のことを空は強請られるままに話すと、想像もつかない異世界の話を魈は興味深そうに聞いていた。当然未来のテイワットについても聞かれたものの、岩王帝君が神の座を降り凡人として璃月港に住んでいるなどとは到底言えず、未来をお楽しみにとしか話せなかった空を彼は疑いもせずにそれもそうだな、と返したのでホッとする。未来について、あまり余計なことは言わない方がいいだろう。少し話疲れ、眠気すら感じて外の様子を見ても、来た時と変わらない夕焼け空にここは時間の流れが遅いのだな、などと呑気に考えていると魈も窓の外をしばらく眺めて、合点したかのように口を開いた。
「……いつもこの空模様だ。ここには朝も夜もないぞ」
「じゃあ今何時ぐらいなの?」
「今日はもう二回食事を出されたから恐らく夜更けだろう」
それならもう寝なければ、と空は立ち上がる。立ち上がったところでこの部屋にあるのは一人分のベッドしかない。床は埃っぽいようなので寝転がるのは流石に避けたいとどこかないかと室内を見回していると、不思議そうな顔をした魈がくんくんと服の裾を引っ張りながらベッドを指差す。
「あれを使えばいいだろう」
「そしたら魈が眠る場所が無くなるでしょ」
空の言葉にますます目を丸くした魈はいつも床で寝ているから構わないなどと言い出すので今度は空が目を丸くする番だった。食事もロクにとらず、自傷行為で時間を潰し、硬くて埃っぽい床で横になり1日を終える。どこが療養だ。そんな生活で良くなるはずがない。不健康な生活を止めさせなければならないと決意する。まずはベッドでちゃんと寝てもらうためにはどうしたら良いのだろうか、と普段の魈の思考パターンを思い出す。ただベッドで寝てほしいと伝えるだけでは、仙人に休息は必要無いだとか、柔らかいベッドの感触は眠り辛いだとか理由をつけて断ってくるだろう。空のよく知る魈とも共寝に至るまでは時間がかかった。今でこそ何もなくともベッドで一緒に横になってくれるが、最初の頃はたとえ激しく抱いた夜であっても重ったるい身体を引き摺ってまで共寝しなかった彼のことだ。言い包めて寝る瞬間まで手を繋いだとしても、目を覚ました時には床に転がっているかもしれない。つまり彼が自発的に一緒に寝ざるを得ない状態にすれば、朝まで寝てくれる可能性が高い、と空は考える。
「どうした休まないのか?」
眠たいのなら休むべきだ、と至極当然のように他人にベッドで眠ることを勧めるくせに自分は床で寝ようとしているのだからどうしようもない。騙すようで気が引けるが、意を決して魈にお願いをしてみる。
「……実は一人で寝るのが怖いんだ。夜は不吉なものが活発になるって言うし、その……俺のこと守ってくれない?」
「わ、我がか?」
護法夜叉である彼ならば、守ってと願えば断りはしない筈だ。そして彼の持つ強い責任感からきっと朝まで責務を果たすだろう、と踏んだのだが予想に反して魈はあり得ないと言った表情で一歩後ずさった。
「我には殺業の腕しかない。ましてや人を……守る、など出来るはずもない……」
ぐっと唇を噛んで眉根を寄せながら俯く彼の身体は小さく震えていた。地雷を踏んでしまったようだ、と過去を知らなすぎた自分を内心責めながら、魈の冷たい指先を手に取る。細いと言えば聞こえは悪くないが、実際は骨に皮がくっついてるだけの肉の無い手のひらだ。それを両の手で挟むように包み込んで愛撫する。この手がこれからの長い年月、たとえ最後の一人になったとしても璃月を守っていくのだと思うと感慨深かった。
「じゃあ言い方を変えるね。もし不吉なものが来たら寝てる俺の代わりに追い払ってくれる?」
「……分かった」
ぎゅっと手を握ると、魈は小さく握り返しながら不安げな瞳で見つめてきた。じゃあ一緒に寝ようと声をかけて、彼の手をそのまま引きながらベッドに乗り上げる。普段使っているものと比べると硬いと空は感じたが、床で寝起きしていた魈にとっては柔らかすぎず比較的馴染みやすいのかもしれない。空に倣ってベッドの上で横になった魈は緊張した面持ちでいる。繋いだままの手がじっとりと汗を帯び始めていることに気付いて手を離してやると次は腕の所在地に困っているようだ。ただ力を抜いて好きな姿勢をとればいいだけのことにぎこちない動きを見せる魈に付き合っているといつまでも眠れないと判断した空はおやすみなさいと声をかける。とはいえ、カーテンも何もなく明るいままの部屋で寝るのは空も気持ちが落ち着かず、隣の細くて薄い腰にやんわり抱きついて胸元に顔を埋めて視界を暗くした。すると、恐る恐る伸びた両腕がそっと空の頭を包んでくるので、ぐっと魈自身のにおいが濃くなる。同時に魈も鼻先に当たるのだろう空の髪のにおいをすんすんと嗅いでる音が聞こえてきて、とてもじゃないが穏やかに眠れるはずがない。そう思っていたのも束の間、慣れない環境に精神的には疲弊していたのか、気絶するように空は眠りに落ちていった。
❇︎
こんこんと扉を軽く叩く音で空は目を覚ます。腕のゆるい拘束の中で顔を上げると穏やかな寝息を立てる魈の姿があった。よく眠れているようで何よりだ、と思わず口角が上がる。部屋は相変わらず明るく外は茜空が広がっており、今が何時なのかは分からない。扉の前の気配は魈に向けてひと言、食事を持って来た旨を伝えると物音の後に遠ざかっていく。きっと朝食なのだろうと思い、ぐっすり眠っている魈の腕からそっと抜け出すと、抱きついていたため寝返りを打てなかった身体を真っ先に伸ばす。かたまっていた筋肉をほぐしてすっきりすると、足音を立てないようにゆっくり扉に近付いた。耳をそばだてて他者の気配が無いか確認し、静かに扉を開けてみる。外開きの扉が開いた際に当たらないよう、扉の前を避けて置いてあった盆には揚げたパンと白いスープが入った器が載っており、それが鹹豆漿と呼ばれる璃月では朝食として好まれるものだと空は一目見て分かった。ほかほかと湯気立つそれらはとても美味しそうだと思ったと同時に腹の虫もぐるぐると存在をアピールし始める。そういえば昨日から何も食べていないことを思い出したが、これは魈に出された食事だ。無理しない程度に彼にはしっかりと食べてもらいたい。昨日の決意を思い出せ、と自分を奮い出せて空は盆を部屋の中に運び、ナイトテーブルの上に置く。温かいうちに食べた方が美味しい筈だと思い、魈を起こそうと手を伸ばして小さな頭を撫でる。手入れのされていない指通りの悪いの髪の毛を手で梳いていると、やがて寝ながらも違和感に気付いたようで、翼がぴくぴく揺れ始めた。
「おはよう、魈」
「ん……」
魈は瞼を二度三度瞬かせたかと思うと、がばりと勢いよく起き上がる。熟睡していたことに驚いているのが表情から読み取れた。
「朝ごはん届いたよ」
「い、要らぬ。お前が食うといい」
盆の上の料理を見てすぐさま首を横に振る魈はどうやら見知らぬ食事に不信感を抱いているのではなく、食べてみたが美味しくなかったため食べたくないと主張しているようにみえる。鹹豆漿は豆乳のため見た限りでは白いが中には干し海老や海苔や搾菜が入っており、醤油や酢で味付けがしてある。そして隣に添えてある揚げパンを浸して食べるとコクが出て更に美味しくなる。酢でゆるく固まった豆乳は口当たりも柔らかく優しい味わいが朝食にはぴったりだ。決して魈が好まない味付けが濃くて、刺激が強い料理ではない。
「じゃあ一緒に食べよう? 魈が食べたくないものは俺が食べるから」
微笑みかけながら魈の隣に腰掛ける。盆を膝の上に乗せて匙を手に取り沈んでいる醤油や具を軽くかき混ぜて、ひと口食べるところを見せた。豆乳の豆臭さなどは一切感じず、豆乳のほんのりとした甘みと搾菜の塩気や酢の酸味が溶け合って空腹の胃に沁み渡る。
「はい、あーん」
おぼろ豆腐のように固まってとろりとした豆乳を掬った匙を口元まで運んでやると、魈は最初こそきゅっと唇を横一文字に引き結んだが、空の顔と匙を交互に見つめてやがて観念したかのようにゆっくりと口を開いた。薄く開いたそこに、こぼさないように匙を差し込むとむぐむぐと頬が動く。美味しいね、と声をかけると彼は小さく頷いた。ついでに前に食べた時はどうしたのか尋ねてみると、食べ進めていったら味が濃くなっていき嫌になってしまったと彼は言う。
「最初にちゃんと混ぜた?」
「覚えておらぬ」
これは混ぜていないなと確信しながら空はもう一度匙を運ぶ。器の底に沈んだ醤油や搾菜が顔を出した頃には豆乳と混ぜたところでしょっぱいものになっただろう。もしかしたら添えてある揚げパンもそのまま齧ったのかもしれない。空にとってはもちろんそのまま食べても美味しいが、揚げてあるため油っぽさとは切っても切り離せない。味覚が敏感な魈にはくどいと感じるだろう。となれば実演して食べ方を教えようと、空は長細い揚げパンを一口大に千切って豆乳の器の中に放り込む。
「魈は食感がある方が好き? それともひたひたに染み込んだ方が好き?」
「分からん……」
「じゃあ良かったらどっちも食べてみてよ」
カリッとした食感が楽しめるようにすぐに揚げパンを豆乳から掬い上げると、要領を得た魈は既に口を開いて待っていた。自分で食べるとは言い出さないのだと分かり、引き続き世話を焼けることに嬉しさを噛み締めながら口元へと運んでやる。きっと喜びが表情にも出ていたのだろう。目が合うと魈も花が綻ぶようにゆるやかに笑みを浮かべた。
❇︎
「たくさん食べたね」
僅かに膨らんだ腹をさするとくすぐったそうに身を捩った魈は本当によく食べた。匙を運べば口を開くので、無理をしているのではないかと空の方が先に心配になって止めたほどだ。ベッドの上に二人で並んで寝転がって何をするわけでもなくお互い顔を見合わせていると、魈の放つオーラがとても柔らかいものになったと改めて実感する。最初に見せていた恐怖や緊張の影は既になく、今は親愛の情すら覗かせて安心しているようだ。警戒を解いて欲しいとは思っていたが、目の前の彼は素直な一面を持っており、空の予想以上に懐くのが早かった。たまに腹にちょっかいを出して遊んでいると、やがて魈はとろとろと瞼が重たそうにし始める。腹を満たし、気持ち良くなってきたのだろう。
「眠たい?」
「……仙人に休息など必要ない……」
そう答えているものの、声は眠気を孕んでいて今にも寝落ちてしまいそうだ。手を伸ばして、彼の金眼にかかっている伸びきった前髪をこめかみの方へ撫でつけてみると、瞼を閉じてうっとりした表情を浮かべている。思えばぐっすり寝ていたところを食事のために起こしてしまったので寝足りない筈だ。それでも時折眠気に抗うように目を開いていた彼を軽く抱き寄せて、とんとんとゆっくりとしたリズムで背中を優しく叩いているうちに、腕の中の身体は次第に脱力していった。
「さて、と」
無事に夢の世界に旅立った魈に衣装棚の中に折り畳まれて置かれていた薄いブランケットをかけてやると、部屋全体を見回す。この部屋はどこも埃っぽく、床には彼が引き抜いてしまった羽根が散らばったままだ。
「……掃除しますか!」
清潔な環境も健康的な生活には必須とも言える。幸い部屋の隅に箒と塵取りが置いてあったのを確認した。寝ついたばかりの彼を起こさないようにそっと窓際に近付いたが、窓は長く開閉の機会がなかったのか立て付けが悪い。ギィ、と軋む音を立てながらやっとのことで窓を開けると爽やかな風が部屋の中に吹き込んだ。草花の青い匂いが風と共に運ばれて頬を撫でつけていく。この平和な洞天の外はきっと悲しみや憎しみが渦巻いているのだろう。療養期間が終われば、魈もまた戦いに投下されるのだと思うと胸が痛んだ。けれども、彼自身は療養を言い渡されて戦いに参じることができない自分に不甲斐なさを感じているのかもしれない。思うようにいかなくて生まれた歯痒い気持ちが自傷行為に繋がっているのではないか、と箒で大量の羽根をかき集めながら空は思う。なんらかのストレスを感じた鳥は自らの羽を毟ったり噛んでしまう行動をみせるともいうし、ここでの生活は魈にとって不本意なものなのだろうと推測する。とはいえ今の空は武器すら持たない、正しく凡人であった。だから劇的に何かを変えるようなことは何ひとつ出来ないが、今の魈を見ていて危ういと手を出してしまうのには理由があった。それは健やかさだ。降魔を続けた魈は身体こそ業障に侵され苦しんでいる時もある。けれどもその精神はいつだって高潔で穢れがない。しかしここの彼は心身共に不健康であった。未来の魈は健やかな精神を保っているのだからと放っておいても本当は問題がないのかもしれない。それでも世話好きの空は目の前の魈を助けずにはいられない。
あらかた掃除を終えると、心なしか晴れやかな気持ちになった。やはり綺麗な部屋はいい。ついでに引き出しの中を色々と漁っている際に鋏を見つけたため、これで魈の伸び切っている爪を短く整えてあげられると満足げな笑みを浮かべていると背後から身じろぐ音が聞こえた。
「……何をしているんだ?」
「魈見て! 部屋掃除したんだ」
綺麗になったでしょ、と声をかけると彼は瞼を擦りながら身体を起こす。そして片付いた床や埃を拭き取られて輝きを取り戻した家具を一眼見て目を見張らせた。
「これなら床に寝転がって筋トレとかできるよ」
立ちながら腕立て伏せの動作をしてみても、ちっとも魈には伝わらなかった。そもそも筋トレという単語そのものを理解しておらず、仙人には仙術を修行することはあっても、身体を鍛えるという概念が存在していないようだ。しかし実際に腕立て伏せを披露すると興味が湧いたらしい魈はぴょんっとベッドから飛び降りてくる。
「あっ、待って。魈、先に爪切らない?」
「爪?」
何か問題でもあるのかといったキョトンとした表情の彼を捕まえて膝の上に座らせる。本当はこれ以上羽根を毟った時に肉を抉って血を流さない為だが、長くて困ることもないだろうが短くて困ることも無いと言い包めると、魈も納得して頷いた。なによりも他人の膝に座る感覚を楽しんでいるように見える。後ろから抱きかかえるようにすると翼がある分、空の腕の長さが足りなくて彼の手を捕まえるのに一苦労したが、ぱちんぱちんと鋏で爪を短く切り揃えて、やすりで角を丸く削っていく。みるみるうちに指の肉からはみ出さない程度の長さに爪を切られて変貌した指先を魈はじっと見つめている。
「また伸びちゃったら今度は自分で切るんだよ」
「……うん」
終わったと分かっても膝から降りようとしない魈をそのまま抱きしめると、羽が頬や顎に当たってこそばゆいが、頬擦りすると血が通っているのを感じて、その温もりに胸の奥で手放したくないほどの愛おしさが生まれる。けれども自分が未来に戻った後を考えながら彼を慈しまなければならない。溺れるほどの愛を与えて、離別の寂しさや悲しさだけを置いて帰りたくはなかった。
❇︎
それからの空は時間の潰し方として筋トレのメニューをいくつか伝授した。出される食事ごとに魈の舌の好みに合うだろう食べ方を教えた。自身の清潔を保つことを説いた。平和な洞天の中で起こる小さな変化を伝え共に楽しんだ。穏やかな日々を過ごし翼の傷がすっかり塞がった頃、その日は前触れもなくやって来た。いつものように抱き合って寝ながら迎えた朝、突然襲って来た世界から拒絶される猛烈な痛みに声を押し殺しながらのたうち回っていると、異変に気付き覚醒した魈が目を潤ませながら空の胸に縋り付く。
「空……」
魈はわなわなと身体を震わせ、大きな瞳からは今にも涙が溢れそうになっている。二人で過ごす時間がとても儚いものだとお互いに分かっていたことだから、唐突に訪れた別れの時に寂しさはあれど驚きは無かった。ただ握られた肩への力があまりにも強くて痛みすら感じることに、元気になった証拠なのだと嬉しさがこみ上げて、痛みの最中でも笑顔を浮かべてしまう。きっと魈は空と過ごした数日をながい戦いの中で忘れてしまうだろう。つらかった記憶も嬉しかった記憶も生きていれば次第に風化していく。たとえ岩に刻んだとしても年月には逆らえず、全てを覚えていることはできない。それでも未来で逢える。退屈させない日々を与えると約束できる。だから別れの言葉は必要ない。この日までずっと彼に言い聞かせてきた言葉を頭の中で反芻し、空は失いそうになる意識をかき集めて魈の額に触れるだけのキスを落とす。空にとっては挨拶代わりだったが、すぐさま唇に返ってくる柔い感触に、思わず笑み混じりの声にならない吐息が零れた。彼が顔を真っ赤にしていることが、滲んだ視界の中でもわかる。世界との接続はそこで途絶えた。
暖かい風にそよそよと流されてきた一枚の銀杏の葉が、頬にあたった感触で目が覚める。決して痛いものではないが、かたい葉柄の質感が空の睡眠を妨げたのだ。
「ようやく目が覚めたか」
瞼を持ち上げると、そこには魈がいた。顔の近さと身体から伝わる感触を鑑みるに、彼に抱き締められているのだと分かる。しっかりと抱き寄せているが、彼自身はどことなく不貞腐れているような表情をしていた。かたまった身体を伸ばしたくて身じろぐが、すぐさま魈の力強い腕に遮られて不満を覚える。
「お前、往来で倒れていたのを覚えていないのか?」
「ごめん。さっぱり」
ふわあ、とあくびをひとつ落としたが、頭が重たく、最初にどこにいたかを思い出せない。覚えているのは過去の魈と過ごしていた日々だけだ。しかし今となっては都合のいい夢だったのかもしれないとすら思える。
「……そうか。だが元気そうで何よりだ」
聞けばこの数日間ずっと眠っていたらしい。かつて璃月でもある隕石の影響で人々が数日間眠り続けるという奇妙な出来事が起きた。その再来なのかと考えた魈は、毎夜空が倒れていた周辺に異変がないか見回りをし、空自身のことも人目に触れぬように守り続けていたと言う。そう彼は語るが、見回してみるとそこは望舒旅館の屋上のさらに上。屋根に腰掛けて魈は空を抱え込んでいた。
「望舒旅館なら室内でもよかったんじゃない……?」
「ダメだ」
ぎゅうっと思い切り抱き締められて空は息が詰まる。雨の日とパトロールで目を離す時は流石に魈に与えられている望舒旅館の室内に寝かせていたと話すが、それ以外はこうして抱きかかえていたというから驚きだ。
「そんなに俺のこと離したくなかったんだ」
心配かけてごめんねと声をかけると、空の額や頬に何度も触れるだけのキスを落としてきた。柔らかい感触と温もりが心地よい。素気ない態度の時も多い魈がこんなにもわかりやすく執着している。よほど心配をかけてしまったのだろう。甘えている彼にずっと構ってやりたいが、眠り続けていた身体は空腹を訴えて騒ぎ立てていた。いつまでも鳴り止まない腹の音を聞かれるのが気恥ずかしく、何か食べたいと申し出ても、まだこうして抱いていたいと断られてしまう。
「腹が減ったのなら衣嚢の中に隠し持っている物があるのだろう?」
「げっ、魈知ってたの!?」
「先日パイモンからやめさせるように請われた」
魈は人間の常識に疎いので、ただ頼まれた内容をそのまま指摘しているだけにすぎないだろうが、呆れた表情を見せるわけでもなく、淡々と言われる方がより恥ずかしい。もうこれからはやらないように気をつけようと思いつつ、抱き締められたままもぞもぞと左右のポケットを探るが、記憶に反してどちらにも入っている感触がない。そうして空は過去の魈に全てあげてしまったことを思い出した。夢中になって頬張っていた姿が目に浮かぶ。
「……可愛い小鳥ちゃんに全部あげちゃったんだった。新しく作ろうと思うんだけど、出来上がったら魈も食べてくれる?」
「乾いた苹果か?」
それなら食べてやらんこともない、と答えた魈は僅かに口角を上げる。珍しく嬉しそうな様子を隠さない素直な姿に幼い彼が重なって、腕を伸ばして目の前の頬に触れてみる。グローブ越しでも魈の肌は張りがあって、顔色にも血色感があり、健康的だと分かる。程よく肉も付いており指先でふにふにと押して遊んでいると、やめろと言わんばかりに空いた手で捕らえられてしまった。なんだと問われて空は笑顔を浮かべて答える。
「魈が元気そうでよかったなぁって思っただけだよ」