夢の番人 サンプル抱き上げられている彼の姿を目にした瞬間、頭を思い切り殴られたような衝撃を受けた。
「この通り、魈は摩耗してしまった」
鍾離の淡々として告げられた言葉を理解するのに時間がかかる。しかし彼は気にした様子もなく記憶に障害が出ており、空のことはおろか鍾離のことも分からないと続けた。自分が夜叉であったことも覚えていないだろう、と。魈はといえば抱き上げられて嬉しそうに微笑みながら、舌足らずな声で鍾離と敬称も付けずに名を呼び、鍾離の耳朶を弄っている。到底信じられない光景に思わず叫び出しそうになるのを必死に抑えた。
「これでも、なんとか名前を覚えさせたんだ」
ショックを受けて固まる空を目にして、明るく笑い飛ばす鍾離だがその表情からは苦労がうかがえる。そして、鍛え上げられた両の足は仙力が枯れ果て、本来の姿である鳥のそれに戻ってしまい己の体躯を支えられないと服の裾を捲り上げて見せられた。猛禽類のような鋭い爪を持ち、腿には鴉青色の羽毛が生えている。鳥と比べるとはるかに大きいが、それでも人の上半身を支えるには心許ないアンバランスなサイズの足だった。本人も見られるのは嫌なのか不満そうな顔をして鍾離の手をぺしぺしと払っている。苦笑しながら魈を宥める彼から、幸い腕の力は健在のため這って移動することは可能だが、魈自身があまり動き回りたくないようで、基本ベッドの上から動かないと教えられた。
「爹、他是谁呢?」
ちらちらと空と鍾離の顔を見比べながら小首をかしげる魈は、空の知らない言葉を操る。状況からして、あの人は誰かとでも尋ねているのだろうと察しはついた。鍾離は言葉が理解できるようでテイワット共通語でお前の友達だと教えている。きょとんとした表情の魈は明らかに空のことを覚えていないが、それでも友達だと紹介されるとにこりと微笑みを向けた。その愛想の良さに、最早魈と呼んでいいのか分からない存在だと気味悪さを抱く。
何の前兆もなく魈は突然姿を消した。報告を受けた鍾離が見つけ出した時には既にこの状態だったらしい。たった数日の間に何が起こったのかは誰も知らず、本人ですら覚えていないだろう。汚泥に塗れて衰弱していた彼をこの洞天へと運んで保護し、調子が安定してからは隔日で様子を見に来て世話をしていたと鍾離は淡々と話した。魈は仙人の中でも上位の存在で、夜叉としても絶大な力を持つ。そして、長年の戦いで身体は業障に侵され、他の夜叉たちと同じように発狂してもおかしくないはず。今は大人しく無害だが、いつ攻撃的になるか分からない彼を持て余しているのが、瞳を見れば一目瞭然だった。厳しくも情はある鍾離のことだ、若陀龍王の時のように封印するという手もあるだろう。けれども記憶を失い何も分からないまま、一人で歩くこともできなくなった魈を閉じ込めるのは良心が痛む。とはいえ、絶対に人を襲わないと約束できない彼を人に預けるわけにもいかず、ある日突然失われた忠臣の身体がこのまま緩やかに朽ちていくのを見守ることも、多くを失い続けてきた彼にとってはつらい決断となるのだろう。
「……だから、お前に頼みたい」
「えっ?」
どのような対応が魈のためになるのかずっと考えてきたが、鍾離は答えを出せなかった。一番親しかった空ならば、何か別の道を見出せるかもしれないと、藁にもすがるような気持ちで彼がここへ案内したのだと心中を察してしまう。肝心の魈は話を理解していないのか、鍾離の腕の中でゆらゆらと揺られて眠たそうにしながら安心しているのが伝わってきた。確かにこんな彼を冷たく暗い場所に封印などできやしない。すると言われれば空が鍾離を止めるだろう。
「分かった。……一緒に考えていこう、鍾離先生」
抱かせて欲しいと腕を広げると、ぱちぱちと瞬きをした魈は眠気が吹き飛んだのか大きく目を開けて空に関心を抱く。愛想が良いだけでなく、好奇心も旺盛なようだ。
「足の爪は鋭いから気をつけろ」
鍾離から手渡された魈の身体は予想より軽く、身長も最後に会った時に比べてひと回り小さく見える。動くことができないために筋肉量が落ち、仙力も失いつつあるからだろうとの見解を聞きながら、空はすっかり変わってしまった魈を大切に抱き締めた。彼も悪い気はしないのか空の首に腕を回し、くったりと身体を預けている。その姿はまるで赤子のようで可愛い。
「しばらく魈の面倒は俺がみるよ。何が最善なのか一緒に過ごしながら考えてみる」
今や魈の命は風前の灯火だが、このまま黙って見ているわけにもいかない。勿論回復してくれることが一番だが、それが見込めない以上、悔いのない結末を迎えるために動くべきだ。鍾離は前向きな空の様子に安心した表情を見せ、魈を託して去っていった。
そうして二人きりの生活が始まった。
空は魈を連れたまま、真っ先に案内された洞天を探索しに出た。この洞天は鍾離のものかと思っていたが意外にも魈の持ち物らしい。鍾離は仙力を失いつつある主人に代わって維持をしているだけだという。よく見て回れば魈らしい、最低限の家具と機能しかない簡素な屋敷だった。造りは璃月の古宅とよく似ているが、娯楽の類は勿論、花瓶の一つもないただ雨風が凌げるだけの内装に、思わずくすりと笑みが溢れる。あまり使われていなかったのか、どこもかしこも埃っぽいようだ。せめて換気をしようと窓を開けると、草花の青い香りが風に乗って漂い始め、同時に眩しいくらいの陽射しに思わず目を細める。魈も眩しさゆえかそれとも舞い上がった埃によるものか、くしゅんと大きなくしゃみを上げて鼻水を啜っているのが少し気の毒だ。戻ろうねと声をかけて踵を返し、これは改造しがいのありそうな洞天だと思いながら部屋に戻ると、本来の持ち主をベッドに下ろして垂れている鼻水を拭ってやる。
「魈ってご飯はどうしていたのかな」
隔日で様子を見に来たといっていたが、その間まさか食事を取らせなかったのだろうか。確かに魈は仙人で人ではないため、毎日食事を必要としないのかもしれない。しかし、空が食べている横で何も出さないわけにもいかなかった。味覚の好みが変わっていなければいいが、と考えたところでキッチンらしき機能が屋敷の中になかったことを思い出す。考えてみれば魈が料理などするはずもなかった。しばらくは火を使わない料理か、果物を食べるしかないようだ。早くこのシンプルな洞天を住みやすい場所へと変えなければならない。
ベッドに下ろされると横になるものだと思っているらしい魈は、ころんと寝転がって枕に顔を埋めている。空が鍾離と共に帰らずにいることが嬉しいようで、たまに空の存在を確認するようにちらちらと視線を向けては、すぐに照れて枕に顔を埋め直していた。目が合うたびににこりと微笑み返すと、じわじわと頬を赤く染めながらはにかんで顔を隠すのだ。可愛いに決まっている。今までの魈が失われてしまったことは悲しいことだが、何度でも彼と友達になれば良いだけの話だと割り切って空は魈の頭を撫でる。優しい手つきに魈はすっかり安心した表情を見せて空の手に自ら頭を擦り付けた。疑うことを知らない人懐こい姿に彼の過去を思い出す。
「大哥」
「ん? 俺のこと?」
長い期間邪悪な魔神に支配されて無邪気さと優しさが失せたと聞いていたが、優しさは分かりにくいものの彼の根底にずっと残っていた。失った無邪気さは記憶と引き換えに取り戻したのだろう。鍾離以外の存在と関わりを持てることが相当嬉しい様子の魈は、ごろりと寝返りを打ってあまり広くないベッドを半分空ける。
「来、一起躺在床上聊天吧」
何を言っているのかさっぱり分からないが、魈は照れ臭そうに微笑みながらも流石夜叉と言うべきか、強い力で空のマフラーを引っ張っている。下手に抵抗すれば布地の方が先に裂けてしまいそうだ。導かれるままにベッドに乗り上げると、魈の腕が伸びてきて腰の辺りに抱きつかれ、そのまま容赦ない力で寝転がされた。言葉が通じない分、行動で示されると分かりやすいがずいぶん乱暴だ。しかし当の本人は満足そうに笑いながら空に抱きついている。自分の力の強さを理解していないようだ。指摘するべきか悩んだが、魈と信頼関係を築いてからでも遅くないだろうと、この場ではひとまず指摘しないことにする。何も会話をしないのも変だろうと思い、空は言葉が通じないにもかかわらず話しかけてみた。
「魈は好きな食べ物ある?」
「杏仁豆腐! 杏仁豆腐和美梦非常相似。我特别喜欢」
当然、話しかけたところでやはり何を言っているのか全然理解できない。テイワットに来たばかりの時のように、魈の扱う言語を早く理解できるようにならないといけないようだ。あの時、テイワット共通語をどのようにして覚えたのかもう記憶にないが、幸い今は鍾離がいる。彼が暇な時に教えを請おう。
「嗯、怎么说来着……」
空のぽかんとした表情を見て、ようやく言葉が通じていないことに気付いたようで、こちらの言葉は分かっている魈はおろおろと狼狽えながら何かを思い出そうとしている様子が見受けられる。
「あ、……あんにん……とうふ?」
たどたどしい発音でテイワット共通語を話した魈は変わらず杏仁豆腐が気に入っているようで、すぐさま好きだと続けて眦を下げた。
「じゃあ今度作ってあげるね」
両手で柔らかい頬を包んですりすりと指先で撫でると、魈は目を細めて微笑んでおり、会話がようやく成り立ったことに満たされた心地でいるようだ。その後も時折支離滅裂な文章になりながら、空のためにテイワット共通語を使って何度も話しかけてくれた。その懸命な様子から、彼がずっと寂しい思いをしてきたのだと伝わってくる。元々魈は自己表現をあまりしない方だ。別れを寂しく感じても顔を見せにきた鍾離を引き留めたりしなかったのだろう。抱え込んでいたものが一息に放出されるような喜びように、彼が寝付いたら帰って翌朝また来ようと考えていた空はこれからの予定を改める。すっかり一緒にいてくれるものだと思い込んでいる魈が、もし空が不在にしている間に目を覚ましてしまったら可哀想だと思ったからだ。出かける時は出かけると伝えてあげた方が親切だろう。
興奮した様子でひたすら話しかけてきた魈だったが、やがて糸が切れたかのようにすとんと眠りに就いてしまった。静かになったかと思うと、痛いくらいに抱き締められていた腕の拘束が緩み、大きな金眼は閉じられていた。
「……寝ちゃったか」
空は身体を起こすとベッドから下りて、魈の身体を横向きから仰向けにして寝かせてやる。淮安が着用しているものとよく似た、璃月ではよく見られる男性服に身を包んだ魈は、下衣を身に付けずにワンピースの要領で着ているらしい。本人も気にしているようなので足の状態をじろじろと見ることはせず、小さくなった身体の上にブランケットを掛けてあげた。考えるべきこともやるべきことも山のようにある。頑張るぞ、と自分を叱咤激励して空は真っ先に掃除に取り掛かった。
無心になって掃除をし一日を終えても、家具作りに手を出した三日目の夜を迎えても魈が目を覚ますことはなかった。キッチン機能を取り付けた北側の部屋で簡単な食事を済ませ、ベッドしか置いていない南側奥部屋に戻ると、静寂だけがそこにあった。ベッドの上の小さな膨らみが視界に入って、ようやくこの部屋に主がいることを思い出すような静かさの中、寝返りも打たず死んだように眠り続ける姿に少しだけ恐怖する。はしゃぎすぎて疲れたにしては眠りすぎだ。まるで起きていた時のことが夢のように儚く思えてきて、空は心配になり始める。ブランケットには彼のほのかな温もりが移っており、取り出した手首からは規則的な脈拍を感じ取れた。
(大丈夫……。まだ大丈夫……)
普段からたくさん寝る方なのかもしれないと自分を言い聞かせて、丸みを帯びた頬を撫でる。いっそ目覚めてしまえと思いながら柔らかい肉をつんつんと突いてみるが、願いに反して魈は身動ぎ一つしない。深いため息をついた空はベッドに突っ伏し、寂しさに胸が締め付けられると同時に、このまま目を覚さなくなってしまったらどうしようと不安が胸によぎる。けれどもたとえ二度と会話ができなくなったとしても、空は彼を置いてこの洞天を離れようとは思えない。彼への想いの深さを再認識して、ちょうど璃月を離れていたことを悔やむ。ずっと璃月に滞在し、毎日そばについていればこの未来は回避できたのだろうか。しばらくの間思考に耽っていたが、たらればの話をしていても仕方ないともう一度ため息を落として、ベッドに乗り上げると魈を抱き締めながら隣で横になった。
「……どんな姿になっても君が大事だ」
生ぬるいブランケットの中、魈が立てる静かすぎる寝息に耳をそば立てながら、悲しみを胸に空も眠りに就く。