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    碧悟4今年の海灯祭も無事に終了し、しばらくして空は久しぶりに洞天に戻ってきた。璃月と稲妻のあちこちを行き来していてゆっくりする余裕もなかったのだ。花火大会の日は刻晴たちと共に群玉閣で過ごし、その後も港を歩けば普段は忙しくしている友人達に声をかけられて、彼らの休暇に付き合った。そうしているうちに次は稲妻の祭りに誘われ、光華容彩祭の開催を手伝い、アルベドらと共に稲妻の開国を祝いつつ、背後に隠された真実を突き止めた。結局、空が自分の時間を持てるようになったのは璃月からはとっくに海灯祭の飾り付けも外されて、日常が戻っていた頃だった。パイモンも流石に連日のお祭り騒ぎに疲れが見えている。今日は一日予定を入れずにのんびり過ごそうと話しながら邸宅の扉を開けた時だ。
    「うわぁ、なんだこれ!?」
    磨かれた床に赤黒い汚れが付いている。それが血液であることはすぐに気付いた。物を引き摺ったような跡はそのまま空の寝室まで続いているようだ。この空間への立ち入りを許可しているのは未だに魈しかおらず、好きに使って良いと彼自身にも話してある。しかし最後に洞天で会って以来、彼が訪れた形跡はなかった。とはいえ空とパイモンにはこの汚れに身に覚えがなく、先に挨拶したマルからは何も知らされていない。
    「部屋の様子を見て来る。パイモンはここに居て」
    「わ、わかった……。気をつけるんだぞ」
    多量の血を見て青褪めているパイモンに玄関先で待機するよう伝えると、念のため武器を構えながら空は音を立てずに歩き、寝室の扉の前に立つ。中からは何の物音も聞こえなければ気配もしないが、血の跡は部屋の中まで続いているようだった。緊張で血がざわざわと勢いよく巡っているのが耳の裏でよく聞こえる。意を決してドアノブに手をかけ静かに回してみた。

    目に飛び込んできたのは変わらず床に広がる引き摺った血痕と、空のベッドで横になっている魈の姿だった。白い彼の上衣が酸化した血で染まって赤黒くなっているのを見て、空にも頭から血の気が引くのを感じた。早まる鼓動を抑えつけて恐る恐る近付いてみると、彼は空の毛布を手繰り寄せて丸まっていた。そっと首筋に手を当てると、指先に脈を感じてまずは一息つき、怪我をしていないか薄い布地を背中の方から捲り上げてみる。服の中も血で汚れているが、傷ひとつない。なめらかな肌の様子に安心するが、彼が瘴気を身に纏いながらじっとりと脂汗をかいて苦しんでいることに気付いた。低い呻き声を漏らしながら、破れんばかりに強く毛布に縋る姿は痛ましい。
    これまで空は知識として靖妖儺舞には苦痛を伴うと知っていたが、実際魈と共に過ごしてきて、このように苦しんでいる様子を見たことはなかった。たまに身体の調子を尋ねても最近は調子が良いと返されるばかりだったが、隠していただけだったのだろうか。それでもこうして空の領域に立ち入って身体を休めている様子に、ようやく彼が自分に気を許したことを知る。
    眉根を寄せて縮こまっている様子を見て今はそっとしておこうと判断して先に血だらけの玄関ホールの掃除をしに寝室から出ると、不安そうな表情のパイモンが近付いて来る。血の気が引いていた顔色も幾分か良くなっていた。
    「魈が寝てただけだった。今は少し苦しんでいるみたいだから寝かせてやりたい。先にこの床の掃除でもしながら起きるのを待とっか」
    手伝ってくれるかと尋ねると、返ってきた力強い頷きに空は笑みをこぼした。

    ❇︎

    パイモンと雑談をしながら共に濡らした布で床をこすり拭っていると、背後で扉が開く音がした。目が覚めたのだろうかと振り向くと、仙法でも使ったのか白さを取り戻した衣服を纏う魈が肩で息をしながら覚束ない足取りで寝室から出てくる。
    「……そら……」
    細い声で名前を呼ばれたかと思うと腕を伸ばされ、今にも足から力が抜けそうな様子に空は慌てて立ち上がって魈の熱い身体を抱き留めると、背骨が軋むほど強い力で抱き締め返された。汗は引いていないが、溢れ出ていた瘴気は既に見えず、衣服だけでなく身体まで汚していた血痕は全て元々なかったかの様に綺麗だ。開けっぱなしの扉の奥を首を伸ばして覗いてみても、床やベッドにあった血痕がなくなっている。身体がつらい中、綺麗にしてくれたのだろうか。気を遣わなくてもいいのにと思いながら、空の耳元でぜえぜえと荒い呼吸を繰り返している魈を再び寝室に誘導する。まだとても動いていい状態ではなかった。細身だがしっかり筋肉がついている彼の身体は小柄な見た目に反してかなり重い。日々鍛えていても成長途中の身体の己では、残念だが運んであげることができない。とはいえ魈は身体に力が入らないようだ。彼を引き摺るようにして数十歩の距離を歩く。寝かせようとすると、言葉はなかったが突っぱねるように身体をかたくしてベッドに乗り上げようとしない。仕方なく空も共にベッドの上に腰掛けて、ヘッドボードを背もたれにすると正面から彼を抱き留めた。
    「苦しくない?」
    空の肩口に顎をのせている魈からはやはり返事はない。しかし身動きをするとぐぐぐと腰に回された腕に力がこもり、意識はあるのだと分かる。刺激しすぎないように気をつけながら剥き出しの背中へ床掃除のためにグローブを外していた素手を回す。最近薬飲んだか尋ねるとふるりと首が揺れた。鍾離は自分が璃月にいない間、彼に薬を渡しに行っていないのだろうかと不満を抱いていると、顔を見ていない空の心を読んだかのように魈は息も絶え絶えに鍾離の迷惑になりたくない、とか細い声で答える。こんなことになるなら鍾離と海灯祭で会っていた際に貰っておけばよかったと後悔しても遅く、稲妻に旅立つ際にそれまでストックしていた分は彼本人に渡してしまっていた。あの薬にどれほどの効果があるのか分からないが、それでも飲んだ後は調子が良さそうにしていたのを知っていると、今はただ痛みの波が収まるのを待つしかないのがもどかしい。何もできなくてごめんねと心の中で謝る。空にしがみつきながら整わない呼吸のまま目を伏せている魈の背中を回した手で優しくさすっていると、縋るものがあると楽なのか次第にかけられる重みが増していくのを感じる。しかし、この短時間で発熱しているらしい汗みずくの身体と触れ合う自身の服まで湿ってきた。汗を拭いてやるために彼の脇の下に指を差し入れて密着している身体を離そうとすると、いつのまにか彼は気を失っていたようで、巻き付いていた腕がだらりと垂れた。

    寝かせた彼の衣服を緩めて、見えるところだけ汗を拭うと、空は部屋を出る。玄関ホールには膨れっ面のパイモンが大の字で横になっている。床はぴかぴかに綺麗になっていた。
    「これ全部パイモンが拭いてくれたの?」
    「他に誰がいるんだよ! もうオイラ動きたくない!」
    ありがとうと声をかけながら小さな体躯を抱きあげると、紅葉のような手のひらが空の服の裾を握りしめ、恨めしそうな視線を向けてくるので苦笑しながら可愛い功労者の頭を撫でる。自分と一緒に手入れしている髪の毛は艶があり、その指通りの良さについついたくさん撫で回してしまう。
    「お礼にお腹いっぱいにしてあげるよ」
    「……オイラ、濃厚マッシュポテトとカリカリチキンバーガーが食べたい」
    もぞもぞと収まりがいい場所を探して身じろぐパイモンはこのまま厨房まで運ばれる心積もりらしい。腕の中で勝手に動かれると危ないが、素肌に当たるぷくぷくと膨らんだ頬が柔らかくて気持ち良かった。存分に甘やかしてやろうと思い、デザートもつけてあげると告げてみると、パッと笑顔を咲かせいつもの調子を取り戻したらしいパイモンはそれならば、と更に注文をつけてくる。元々のんびり過ごす予定だったのだから、あとはゆっくり休んでいてもらおう。

    厨房に着くなり早速準備に取り掛かっていた空は、作業の合間に魈が再び目覚めた時のことを考えて杏仁豆腐を用意しておこうと確認のために戸棚と睨めっこをしていた。材料の在庫確認をしながら、彼とまだ璃月港に行けていないことを思い出す。鎖国していた稲妻が開国に至るまでの期間、空は何度か璃月に戻っていた。月逐祭や海灯祭などの伝統的な行事にも参加し、滞在中は過去に結んだ契約により魈とは毎日のように顔を合わせていたが、お互いに忙しくて共に過ごすことはおろか、ゆっくり会話をする時間すら取れなかった。視線を合わせて挨拶を一言交わすとどちらからともなく去っていく、ただ互いの生存確認をしていたようなものだ。当然、稲妻料理を振る舞うこともできていない。魈の体調が落ち着いたら誘ってみるのもいいだろう。

    ❇︎

    たらふく食べて満足したので昼寝をするという言葉を残してパイモンは洞天のどこかへ消えていった。片付けを済ました空が様子を見に寝室へと戻ると魈はまだ眠っているようだった。することもないので彼の眠るベッドの縁に腰掛けてその寝顔を見つめる。穏やかなその寝顔に痛みの波が過ぎ去ったのだと安心し、怜悧な目元が閉じられると幼さが残る顔立ちをしていることに気付く。そっと手を伸ばして丸みを帯びた頬を撫でてみる。パイモンのようにぷくぷくと柔らかくはないが、ふんわりと肉がついている。そのまま指先を滑らせて首筋に当てると、とくとくと規則正しく脈打っているのが分かった。体温はまだ高いようだったが、異常なほどの発汗も落ち着いていた。
    「……どうした?」
    閉じられていた瞼が持ち上がり大きな金眼が、驚いて数歩分後退りした空を捉える。その表情に好き勝手触っていたことを不快に思っているような様子はない。ただ気になって目を開けただけのようだが、それでも心臓に悪い。
    「お、起きてたなら言ってよ!」
    「……我は寝てなどおらぬ」
    眉を寄せて否定する魈はわずかに口をへの字に曲げている。しっかり意識を失っていたはずだが認めたくないようだ。その様子が魈にしては珍しく、駄々をこねる子供みたいだった。
    「じゃあもう起き上がれる?」
    「問題ない」
    会話する声がはっきりしているので心配はもうなかった。空の言葉の通りに起き上がろうとする魈の邪魔にならないようベッドから離れると、彼はふらつくこともなく立ち上がる。
    「……良かった。本当に大丈夫みたいだね」
    汗でベタついている身体を流すよう促すと仙法でどうにかしようとした魈を引き止めて、邸宅のすぐそばに作った温泉へと誘導する。仙人の身体事情はよく知らないが、弱っていたところにあまり力を使って欲しくなかったからだ。魈は空と共に行動するならば、と山登りに付き合ったりと仙力の使用を控えることが多々ある。一緒に行こうと手を引けば、付き合ってくれると確信めいたものがあった。そしてその通りに渋々といった顔の魈を連れて外に設置したそこへ辿り着くと、彼は面倒臭そうな視線を寄越したものの、その場で衣服を脱ぎ始めた。恥ずかしげもなく裸体を晒す魈の姿を直視できず明後日の方向を見ながら、無理やり彼を脱衣所に押し込めると、空は着替えの服を持ってくると言い残して慌てて立ち去る。頬が熱を持っており、心臓が勢いよく拍動しているのを感じて、洞天のどこかにいるであろうパイモンに万が一でも見られてはいけないと、腕で自分の顔を隠しながら空は自室へと駆け戻った。

    彼は自分と変わらない背格好をしている。何を与えても問題なく着られるだろう。だが、普段からよく着まわしている服を彼が着ているところを一瞬想像して、きっと見ていられないと思わず衣装タンスから取り出した服に顔を埋める。
    (魈とはただの友達!)
    心の中で3回は自分に言い聞かせて、深呼吸の後に服から顔を離し、これならば着ている姿を見ても大丈夫な筈だとまだ一度も着たことのない服を奥から引っ張り出す。当然下着も新品をおろした。

    「……遅い」
    ぽたぽたと身体中から雫を垂らしながら出入り口で空の戻りを待っていた魈は、温泉に浸かって待つという考えに至らなかったらしい。空は悲鳴をあげながら慌てて大判のタオルでその仁王立ちの裸身を隠し、不機嫌そうな表情のままタオルに埋もれておとなしい魈をそのまま頭から拭きあげてしまう。とはいえ、普段は濡れると風元素で乾かしていることを知っているため、彼が空の言いつけ通り力を使わずにいてくれたことが分かる。
    「あの水は我には熱すぎる」
    いつから空を待っていたか分からないが、かえって身体を冷やしてはいけないと手早く拭いているとタオルの中からくぐもった不満げな声がした。水じゃなくてお湯だからねと言葉を返して、あらかた拭き終えた頭から上半身にタオルを移動すると、ほんのりピンク色に染まった彼の素肌が目につく。高温すぎるお湯ではない筈だが、熱かったというのは本当らしい。
    「下は自分で拭いてね。これが下着で、こっちが服だから着替えて戻っておいで」
    上半身も簡単に雫を拭うと、持ってきた衣服を押しつけて魈の顔も見ずに踵を返す。これ以上は心臓がもたなかった。空は杏仁豆腐準備して待ってるからと背を向けたまま震えた声で言い残して再び邸宅の中へと駆け戻った。せめてタオルぐらい持ってから風呂に入らせるべきだったと自分の手際の悪さを後悔しながら厨房に入り、冷やし固めていた杏仁豆腐を取り出す。皿の冷たさが余計に自分の上がった体温を知らしめてきて空は思わずその場にうずくまって唸った。
    (魈、俺に気を許しすぎだよ!)
    まるで気の置けない友達。そんな魈の態度に空は頬を熱くするのだった。

    稲妻へ旅立つことにより空と物理的に離れたことで、魈の中で心境の変化があったらしい。そして彼の方から言外にもっと一緒に居たいと伝えられて以降、空にも変化が訪れている。最初は帰る場所のない魈に居場所を与えたかっただけだった。それがいつしか歪んで彼に自分を選んでほしいと執着し始めた。愛や恋などという綺麗な名前を到底つけられない、自分勝手な感情だった。そのくせ妹を見つけたらテイワットを去る気でいる残酷さに気付いて、空はそれをいっそ手放すことに決めた。自分を選ばなくていい、ただ隣で違う道を歩むだけでいいとそれだけで満足してきたつもりだ。それなのに、いつの間にか魈の方が空のもとに居たがるようになってしまった。空のことを特別扱いしているような彼の態度を嬉しいと感じて、そして怖いと思った。以来空はずっと自分に言い聞かせてる。
    「ただの友達でいなきゃ……」
    それは最早、強迫観念に近かった。

    戻ってきた魈は厚手の生地の衣服の感触に慣れないらしい。用意した杏仁豆腐を食べている間も、空の自室に戻ってベッドに腰掛けている今も、眉が垂れ下がって困ったような表情をしていた。普段薄絹の衣服を纏っている魈の気持ちは、同じように薄手の服で過ごしている空にも分かる。とはいえ自分のお気に入りの部屋着は自分の都合上貸すことも出来ず、苦笑いするほかない。
    湯浴びしたことですっきりした彼は再び横になることを拒んだが、洗濯した服が乾くまでの間ひとりで過ごすつもりもないようだった。彼のために部屋をひとつ用意したことを伝えても興味が無いようで、ここが良いと返されるのみで会話が続かない。どうするべきかと困っていると魈の方から声をかけられる。
    「……お前には迷惑をかけた」
    こっそり休んでこっそり出て行くつもりだったと話す魈はバツが悪そうに視線を逸らす。いつも独りで苦しんでいるのかと尋ねると、彼はただ目を伏せるばかりで肯定も否定の言葉も口にしなかったが、かえって是認しているようなものだった。
    「頼ってもらえたみたいで嬉しかったよ」
    素直な気持ちを告げると、目を伏せていた魈がこちらに顔を向ける。最近、彼からの視線を感じることが多くなった。元より言葉が少なく感情の発露もあまりない彼だが、その心の内では色々と考えていることを知っている。彼の中では今なんらかの感情が湧いているのだろうと想像がつくが、光の当たり具合によっては緑色に見える不思議な金眼に熱心に見つめられ、恥ずかしさに空は頬を掻く。
    「えーと、……そうだ。魈さえよければ明日にでも約束通り璃月港に行こうよ。璃月に戻ってきてるのにずっと行けなかったからさ」
    「ああ」
    魈の口角がわずかに上がり、鋭く上がった眦はふわりと下がる。声色も珍しくうわずっていて、わかりやすく嬉しそうな様子に空は再び心臓が跳ねたのを感じた。あまり舞い上がらせないで欲しいと言葉にはできない要求を心の中で叫びながら、なんでもない顔をして当日の予定を二人で話し合う。魈は空の心のままに行動すれば良いと言うが、折角ならば魈がしてみたいことを体験させたかった。
    「……我は凡人の言う『娯楽』を楽しむ感覚を持ち合わせていない」
    「じゃあ魈が知ってる娯楽ってなに? 試したことがあるならもう一回俺と体験してみようよ。何か変わるかも」
    膝にかけたブランケットを握っていた魈の手を取ると、彼は繋がった指先を眺めて悩む素振りを見せたのちに言葉なく小さく頷いた。

    ❇︎

    翌日、璃月港を一望できるワープポイントのそばに魈と二人っきりで立っていた。海灯祭の華やかな飾り付けが外されて長いが、それでも一抹の寂しさを感じる。当時は仙人への挨拶から始まり、盗まれた花火の行方を追うことに忙しくて今年の飾り付けを楽しむ余裕もあまりなく、惜しいことをしたと振り返る。隣に立つ彼はどのように過ごしたのだろう。初めて参加した海灯祭では誘いを突っぱねた彼に無理やり花火を見せようと画策した。今年も共に過ごすことを断られてしまったが、それでも以前よりも態度が軟化したのを見て、彼の中で海灯祭の時期の思い出が魔物との戦いと業障の苦痛だけでなくなったことが知れただけ良かった。璃月の各地に設置した花火を彼も見てくれただろうか。
    「行くぞ」
    魈に腰を掴まれたと思うと、瞬きのうちに璃月港の中へと移動していた。入り口の橋を渡った先にある小船のみが入り込める船着場のそばに降り立つ。人気の少ない場所とはいえ、近くには商店があることもあり、多少の人目はある。突如現れた二人の姿に道ゆく人々がざわついているのが聞こえた。
    「折角だから歩いて街並みを見よう!」
    魈の手を取って空は走り出す。彼が人の目を気にし始める前にその場から去りたかった。大通りへと出ると、潮の匂いがより濃く漂い始める。水面は陽光を受けて煌めいており、大小多くの船が停船していた。いつもの璃月港の風景だが、昼前ということもあり、買い物をする客で賑わっているようだ。ここまでくれば自分達も人混みの一部になれただろう、と空は勝手に繋いでいた魈の手を離す。いつまでも手を繋いでいたらそれはそれで視線を集めてしまうかもしれない。
    「まずは何をしようかな。解翠行で運試しでもしてみる?」
    「……お前に任せる」
    璃月港には殆ど立ち入らないらしい魈は地名や商店名を言っても中々伝わらない。運試しというだけでは何をするのか分からなかったかもしれないと、空は道すがら店主が提示した3つの石の中からひとつ選び、当たりだと賞金がもらえるのだと具体的に説明する。
    「それのどこが運試しになるんだ? 審美眼が問われているだけだろう」
    「うーん……確かに?」
    納得がいかないといった表情の魈を宥めて、取り敢えず試してみようと促す。木製の橋から続くスロープを上がれば目的地はすぐそこだ。

    運試しをしたい旨を店主に伝えると、彼はいそいそと準備を始めた。魈は空より半歩後ろで腕を組んで立っている。布の上に並べられた天然石を一瞥すると、すぐさま目を伏せてしまった彼の様子を見て、既に答えが出たのだろうと直感する。
    「ねえ、魈はどれだと思う?」
    声をひそめて耳打ちしてみると、魈はぴくりと肩を震わせて目を見開き空と視線を合わせる。吐息がくすぐったかったのか、彼は一瞬呆けた顔をしたのちに右とだけ答えた。改めて視線を石に向けて、まじまじと眺めてみる。空にはどの石も同じように見えるが、むしろ中心の石の方が美しいようにすら思えた。疑いながら空は魈の言う通りに右と答える。
    「こ、これは……宝玉……」
    中から現れたのは光り輝く玉石だった。驚く空とは裏腹に魈は当然と言った表情のままだ。賞金を手に入れて笑顔でその場を後にすると、魈にどうして見分けられたのか尋ねてみる。
    「……昔、教えていただいたことを覚えていた。それだけだ」
    誰に、とは言わなかったがその言葉遣いで空は全てを察する。打った相槌の声はかたく、面白くないと思っていることが明らかだった。そんな様子に魈も違和感を覚えたのだろう。空を注意深く観察するような視線に、慌てて笑顔を貼り付ける。
    「あ、旅人ー!」
    明るく元気な声が背後からして振り向くと、自分の目線よりも高く積み上げた荷物を抱えた香菱がそこにはいた。買い出しに行っていたのだろう。包みの隙間からたくさんの食材が入っているのを見て重さを察すると、少女の細腕にこの量は大変だろうと半分受け持つ。
    「待って、そこにいる人ってこの間の仙人様!?」
    眼前を塞ぐ荷物が減ったことにより、空の隣にいた人物を視認したらしい香菱はその場で跳ね上がるような喜びの声を上げた。魈も覚えているような様子ではしゃぐ彼女を見つめている。
    「ね、ねえお昼はもう食べた? 良かったらちゃんとお礼をさせてほしいんだけど!」
    荷物さえなければ掴みかかってきそうな勢いに圧倒されて空は首を縦に振る。食事にあまり興味のない魈は杏仁豆腐のほかにはチ虎魚焼きぐらいしか食べている印象がない。それも味を好んでいるというよりはまつわる思い出を味わっているようにうかがえた。そんな彼と昼食をどう済ませるかは今日の課題でもあったが、魈でさえも料理の腕を認めている彼女に振舞ってもらえるのは願ってもない幸運だった。香菱について行って万民堂へ着くと、荷物を下ろした彼女は改めて魈に頭を下げる。
    「月逐祭の料理対決ではおかげで優勝することができました。是非お礼をさせてください」
    面と向かって恭しく感謝を述べられて魈は少し困っているように見える。彼からしたらただ空に請われるままに試食をしただけで、感謝されるようなことではないと思っているのだろう。単純に幸福や富をもたらす仙人でない魈は感謝され慣れていないのかもしれない。しかし香菱はかの仙人から料理を認められたこと、アドバイスも彼女の中で役に立ったこと、結果として優勝できたこと、全てに感謝している。気がつけば、狼狽えた魈はあれよあれよと側にある飲食スペースに案内されて、メニューに載っていないものでもなんでも注文して欲しいと座らせられていた。
    魈が自分以外の人間と関わりを持つことは良いことだ、と思う。彼は人の世から遠ざかろうとするきらいがあるが、興味関心が全くないわけではなく、離れたところで見守っているだけだ。孤独を愛しているわけでも無い。ただそれが習慣になってしまっただけだ。夜叉の仲間たちを失った今もなお戦い続ける彼に歩み寄る人間が、いつか彼を置いていく自分のほかに誰もいないのは彼をいっそう孤独にするだけだと考えている。だから、彼には負担だと思わない程度に多くの人と交流を持って慣れていってほしいと願っていた。けれども実際礼をする機会を得て嬉しそうな香菱とそれにぎこちなく答える魈の姿を目にして、嬉しいと思えない自分がいることに嫌悪する。
    「じゃあ旅人、遠慮せずお腹いっぱい食べていってね!」
    「……うん。ありがとう」
    胸を張った香菱は、陰った空の表情に気付かず笑顔で厨房へと消えていく。借りてきた猫のようにおとなしい魈の前の席に座ると、見知った顔が視界に入ってようやく彼は一息つけたようだ。かたまっていた表情が見るからに緩んでいく。しかし何を食べたいか尋ねると魈はそっぽを向いて、空の好きなものを頼むといいと投げやりな態度をとってくる。
    「でも香菱の料理の腕と抱いてる情熱は魈も知ってるでしょ? 折角なら魈も美味しいと思えるものを食べようよ」
    「ならば……杏仁豆腐がいい」
    他にはいらないと言う彼は様々な料理の匂いが漂い、その香りに釣られた人々で溢れはじめた通りに意識が向いていた。大方その身に蓄積している業障の影響が及ばないか気にしているのだろうと察して、やはり帰るなどと言い出す前に先に手を打つ。自分に意識を向けさせるためにテーブルの上に出ていた彼の手を握ると、弾かれたように景色を眺めていた金眼がじっと空を捉えて離さなくなった。
    「じゃあその他は俺が頼んだ物をひと口ずつ味見してみない?」
    「……うん」
    目を合わせて微笑むと観念したかのように返事をした魈に指先をやわく握り返されて、先程まで抱いていた行き場のなかった不満が心の内から流れていくのを感じる。
    (ああ、またやってしまった……)
    魈が自分だけを見ていることに喜びを抱いたことを恥じて、ただの友達でいなければと空は再度自分を強く戒めると、締め付けられるような胸の痛みを呑み込んだ。

    ❇︎

    動けなくなるほど食べたのち、満面の笑顔の香菱と後から姿を見せたグゥオパァーに見送られて、空は魈を連れて璃月港の案内を再開した。緋雲の丘へと続く緩やかな坂道を登りながら先ほどの食事を振り返る。
    「全部おいしかったね」
    魈の舌のおおまかな好みは香菱も把握していたからか、空が何の要求せずとも、普段ならばもっと味付けが濃くて刺激的な料理が魈も楽しめるようにと配慮された味付けにアレンジされた料理を並べられて、彼女の才能と心遣いに感動した。魈も目の色を変えて箸を進めていたのが印象的だったが、当の本人は眉を寄せてしかめっ面でいる。
    「……腹が重い」
    「ははっ! 確かに」
    あまり食事らしい食事を摂らないからか、満腹に違和感を覚えているらしい。魈は好きな食べ物を黙々と食べるタイプだ。試しにひと口だけという話だったが、自らふた口目も食べ進めていたため本当に気に入ったのだろうと思い、空は彼の好きに食べさせた。結果、彼は今若干の後悔を滲ませて、膨れた腹を摩っている。
    「動いているうちに気にならなくなるよ」
    「そういうものなのか?」
    消化していくからねと言葉を返して空は大きく伸びをする。たらふく食べて空自身も身体が重たかった。午後一番で講談か芝居でも見るのも良いだろうと考えていたが、今向かったらきっと寝てしまう自信がある。魈も楽しめる遊びはなんだろうと考えていると、橋を渡り切った先で隣を歩く魈の動きが不自然にかたまった。一体どうしたのだろうかと彼の視線の先を追うと、明星斎に見知った横顔を見つける。置いていかれるのだろうなと空が直感するのと同時に、魈が仙法を使って彼の元へと馳せ参じたのを見た。彼ら主従の会話の輪に割り込めない。空は仕方なく往生堂の前に並んだ椅子に腰掛けて、魈が戻ってくるのを待つ。こんなことならパイモンも連れてきてあげればよかったと後悔する。彼女には今日一日暇を与えていた。深い嘆息の後に、二人が会話している姿を視界にも入れたくなくて、渡ってきた橋の奥から見える孤雲閣を眺めている。自分自身ですら今抱えている感情の名前が分からなかった。

    空という旅人を語る上で双子の妹の存在を欠かせないように、魈という夜叉を語る上で岩神モラクスは欠かせない存在だ。空と蛍の間に双子などという言葉では表現できない強い繋がりがあるように、彼らの中にも長い年月で積み重ねたものがある。それを目の当たりにすると、寂しいような、悲しいような、取り残されたような気持ちになるのだ。
    (最初は帰る場所のない魈に居場所をあげたかった。俺にも……帰る場所がないから)
    椅子の上で膝を抱えて、隠している気持ちに正直になる。昼過ぎの強い日差しも人々の騒めきも今の空には届かない。だから眼前に誰が居るか気にかけることもなかった。
    元々魈に近付いたのは彼に対する善意だけではない。彼が空と同じように寂しさを抱えながら独りでいたからだ。理解者を失うという寂しさの形まで似ていたから、彼とならば一緒にいられるかもしれないと思って、打算混じりの歪んだ契約関係を結んだ。蛍と離れ離れになってからというもの、心に虚があいていて所属感を失っている空は再び孤独になることを恐れていた。覚えているのはパイモンと出会う前、言葉も通じず何が起きたかも分からずに彷徨っていた頃の自分だ。そうして見つけた幼児期にあるお気に入りのタオルケット。それが今の自分にとっての魈だ、と考える。これは恋や愛などという綺麗な言葉で片付く感情ではない。

    「……ら、空。どうした、体調が優れないか?」
    頬に触れられて、ようやく自分の世界から戻ってくると、怪訝そうな表情の魈がいた。瞳の奥に心配の色が滲んでいる。
    「あー……と、眠くなっちゃった」
    へへへと空笑いしながら立ち上がるが、魈の表情は晴れないままなのを見て、彼には今日を楽しんでほしいと心からの願いを思い出す。自分のくだらない感情なんて二の次でいい。
    「鍾離先生とのお話は終わったの?」
    頷きながら支えになろうと空の腰に手を添えている魈に、本当に大丈夫だからと声をかける。魈は敏い。もしかしたら触れ合ったところから自分の抱いている暗い感情が伝わるのではないかと不安があった。
    「次は何をしよっか?」
    「……お前が普段どう過ごしているのかを知りたい」
    「俺? 普通だよ。ご飯食べて、依頼こなして、たまに本買って、ぶらぶらしてる」
    「ならばそれをする。行くぞ」
    ただ空に言われるままに付いて来るだけだった魈が初めて自分から意思表示をしたことに驚いていると、すたすたと彼は玉京台へと続く道を歩き始める。
    「待って、魈! 依頼主はそっちにいないから!」
    今日の依頼を確認し、慌てて魈を連れ戻して志華のいる埠頭へと案内した。

    璃月港内で良い兆しを探す依頼は何気ない日常を見つめるという観点でちょうど良いかもしれない。志華の話をうんうんと聞いてやり、一緒に探しに行こうと魈を連れてその場を後にした。
    「あやつの言っていた兆し……とはなんだ?」
    志華の話していた内容をよく理解できなかったらしい魈は、空の隣で石畳の坂を降りながら首を傾げている。その足取りはいつもよりのんびりとしていて、考え事をしているのもあるだろうが、空に合わせてくれているのだとわかる。
    「たとえば仲睦まじく一緒にいる動物とか、あとは簡単なきっかけで反応を変えるものとか、なんとなく恋愛運に結びつけることができそうなものを探そう」
    「……分かった」
    あまりよく分かっていない顔をしていたが魈は空についていくことにしたようだ。とはいえ、ただ導かれるままに足を運ぶのではない。志華の求める兆しがないか、きょろきょろと視線が動いている。これまでよりもずっと能動的に璃月港を探索している様子に空は心なしか嬉しくて、じくじくと胸が痛んだ。こうやって少しずつに人の世に慣れていけばいい。その手伝いならいくらでもしよう。魈にとって、それはとてもいいことだから。

    ❇︎

    無事に兆しを見つけて、報告を受けた志華は喜んで報酬を渡してくれた。貰ったモラで本を買いに行こうと誘うと、魈は驚いたような困っているような微妙な表情をしたものの、小さく頷くと空の手を取ってきた。
    「……我は戦いに生きる夜叉だ。本なぞこれまで嗜んだことがない」
    魈はくだらないと一蹴せず、空の習慣に歩み寄ろうとして不安を吐露する。すっかり眉が下がって、視線も下向いてしまっていた。きゅっと指先の力が強まって、振り解くことも憚られる。
    「だ、大丈夫だよ。魈でも興味を引くものがないか一緒に見てみよう。無きゃ無いでも良いんだからさ」
    とはいえ、咄嗟に跳ね上がりそうになった身体を押さえて、悲鳴を口の中で噛み殺した自分を褒めたい。ぞくりと心臓を冷やされたようだった。
    空と魈との違いは失った理解者の生死だ。魈が失った理解者たちはもう二度と戻らない。けれども魈が空に対して気を許せば許すほど、魈にとって空が新たな理解者になりつつあると実感する。その度にいつか訪れる別れの日を夢想して、怖くてたまらなかった。利用するだけ利用して、自分の願いを叶えたら全ての関係を清算するつもりの男を信頼させて良いはずがない。そう思うのに、グローブ越しからじんわりと伝わってくる体温が心地よくて手離したくない。魈が心の内を明かして、縋るように触れてくれたことが嬉しくて仕方ない。自分の感情で手一杯の空はいつの間にか魈の表情がくもり始めていることに気付けなかった。

    「良さそうな本は見つからなかったけど、今日はここまでにしよう。また時間をあけたらお店のラインナップも変わるかもしれないし」
    緋塗りの階段を降りながら、空は後ろからついてくる魈に言葉をかける。万文集舍へと足を運んだが、魈の興味を引くような本は見つけられなかった。虚構の物語では俗世への疎さから理解し難く、かといって史実に基づいた物語では数千年を生きる彼からすればただの昔話のようなものだ。空が見繕ったいくつかの本には数ページほど目を通したものの、曖昧な返事ばかり繰り返す魈の様子を見かねて切り上げてきたばかりだった。振り返った空は確認しにまた来ようという言葉を紡げず、ただ硬直する。魈は階段の踊り場で立ち止まったままだった。感情を滲ませない金眼が空を見透かすように捉えている。傾き始めた陽光が二人を照らした。
    「どうしたの?」
    「……我と共にいるのは面白くないか?」
    呼吸だけが溢れる。後頭部を強く打ち付けたような衝撃が走った。彼はいつから気付いていたのだろう。空はもう愛想笑いすら出来なくなっていた。そんなことないとすぐにでも返すべきだと頭で分かっていても、声にならない。
    「お前の負担になるだけならばもうよい」
    付き合わせて悪かったと謝る魈は怒っているのか、呆れているのかよく分からない。ただ暗い表情をしている。こんな表情をさせたいわけではなかった。後悔が一瞬胸によぎるが、魈が無言で階段を降り始めて近付いてくるのが恐ろしくてたまらなくて震える。
    「……戻ろう」
    恐怖のあまりに魈の優しい声も聞かずに伸びてきた腕を振り払ってしまう。驚いたのは魈だけでなく空も同じだった。目を見開いて固まる魈は言葉も出ないようだ。居た堪れなさが極まって、何から言葉にすればいいのか分からなくなる。
    「ごめ……っ……あ、う……も、もう一人にさせて!」
    「空!」
    とうとう空は魈をその場に置いて逃げ出した。けれども帰る場所のない空の逃げ場など、このテイワットのどこにもない。結局洞天しか思い付かず、彼の視線が届かない場所で塵歌壺へと入る。

    ❇︎

    空は目を真っ赤に充血させ、涙は決壊寸前なほどに膜を張っており、もうほとんど泣いていた。駆け抜けて来て切れた息を整えることもままならない。そんな空の様子を見て驚くマルに縋りついて今すぐ誰一人として侵入出来ないように洞天を閉じて欲しいと頼み込んだ。心配したマルは何があったか聞いてきたが、空はまばたきの合間に涙をぽろぽろと落としながらそれを無視して自室へと戻ろうとする。
    玄関ホールにはパイモンがいた。璃月港の商店で使われる小さな包みを持っているのを見るに、どこかに出かけて戻ってきたのだと分かる。一目見るなり慌て始めたパイモンは小さな手で空の目尻から伝い落ちる大粒の涙を拭った。
    「ど、どうしたんだ? 今日は魈と一日遊んでくる話だったろ? 何かあったのか?」
    何があったのか言葉に出来るほど感情が整理出来ていない。嗚咽を漏らしながら泣きじゃくる空の顔を拭う小さな手は涙ですぐにびちゃびちゃに濡れそぼってしまった。

    タオルを持ってくるからな、と声をかけた彼女はすぐに戻ってきた。柔らかい布地に顔を押し当てて涙を吸わせていると、あやすようにトントンと背中を優しくたたかれる。
    「魈と喧嘩でもしたのか?」
    首を横に振ることだけで精一杯だった。自分が何故火がついたように泣いているのかも分からなくなるくらい空は混乱していた。思い浮かぶのは蛍の姿だ。早く帰ってきてと嗚咽の合間に呟く。優しい魈をこれ以上踏み躙る前に彼女とテイワットを去ってしまいたかった。

    時折ひくつかせながら涙声で空は胸の中でこれまで溜まっていた澱のような感情を吐き出す。魈への執着心。蛍の代わりとして利用しているという罪悪感。信頼を寄せられる程、別れが彼を傷付けてしまうのではないかと膨れ上がった不安。パイモンは支離滅裂になった言葉を静かに聞いて、首を傾げた。
    「それって魈に恋してるって言っちゃだめなのか? お前が鍾離たちに嫉妬しているだけに聞こえるけど。……大体、オイラから見てお前は最初から魈のことをすごく大切にしていたと思うぞ。妹さんの代わりなんかにしていたはずなんてない。ずっと魈個人を見ていただろ」
    呆れたような声でなんで認めようとしないんだと尋ねたパイモンは空の乱れた頭を撫でて、顔に張り付いた髪の毛を除ける。目尻に溜まっていた涙を拭われて、ようやく顔を上げた空はパイモンの大きな問題じゃないと言わんばかりの表情を見て呆気に取られた。恋であるはずがないと思い込んでいただけ、そう思ってもいいのだろうか。
    「それに出会いがあれば別れがあるのも当然だろ〜。お前だって分かっていた筈なのにどうして急にそんなこと言い出すんだ?」
    空は今まで置いていく側だった。妹と共に多くの世界を訪れて、その世界の住人と上辺だけの付き合いでやり過ごし、一定期間滞在すると去っていく。けれども妹と離れ、テイワットに住む人々と付き合って行くうちに、空は置いていかれることが多くなった。深い関係になればなるほど、いつの日か訪れる別れがつらくなることを、置いていかれることの寂しさと苦しさを知った。気軽につらかったら自分のことは忘れて欲しいと発言した過去の自分を殴りたい。思い出が多ければ多いほど、忘れることなど出来はしない。ただでさえ魈は長いいのちの道程の中で色々なものを失い続けている。その内のひとりになって傷を残したくないと思うようになった。彼を大切に想っているからこそだ。
    「でもだからといって魈を突っぱねるのは違うと思うぞ……。ちゃんと話をしてみろよ」
    パイモンは今すぐじゃなくてもいい、気持ちが落ち着いたら会いに行けと続けて空を宥める。

    そんな時だった。世界が裂けるような大きな音がして、二人抱き合って身体を震わせた。少しして音が止むと、何が起きたのかとパイモンは外の様子を見てくると言って邸宅を後にする。ひとり玄関ホールに取り残された空はそのまま座り込んでいると、よく知っている鴉青色の光を見る。あっと思った時には既に口をへの字に曲げて、眉を寄せた険しい顔の魈が目の前に立って空を見下ろしていた。
    「お、俺……マルに入ってこないよう閉じてもらった筈なんだけど」
    どうやって入って来たのだろうかと思ったが、彼は仙人たちの中でも強い力を持っていることを思い出す。先程の轟音はもしかしなくとも魈が無理やり洞天に侵入した際の音なのだろう。あまりにも強引な行動に驚きを隠せない。
    「……お前が我を拒んでいると気付いて、いてもたってもいられなかった」
    「それで破って来ちゃったの……?」
    悪びれる様子もなく、こくんと首を縦に振った魈はその場で床に膝をつくと、空の湿った頬に手を伸ばして一瞬躊躇った後にそっと触れる。低くかたい声色とは裏腹にその手つきは壊れ物を取り扱うかのように優しい。怒っているわけではないようだった。
    「……泣いていたのか?」
    目元を腫らした今の顔では嘘をつけないが、空は素直に頷くのが嫌で強情を張る。むっと唇を噛んでいると、やめろと言わんばかりに魈の親指の腹が割り込んできた。
    「何故、我を拒んだ?」
    そう尋ねる魈の声は少しだけ震えている。どうすれば良いのか分からない様子で慎重に言葉を選んでいるようだった。拒絶されたことに動揺を隠せず、強引に押し掛けて来てしまうほど、彼の中で自分の存在が大きくなってしまったことを知る。
    「お前は……分からぬ。自分のことは話さず、寄ってくると思えば離れたがる」
    何があったと魈は耳元で囁くように尋ねた。答えを知りたい気持ちと、そら恐ろしい気持ちが混在しているような小さな声だった。けれども優しい彼は自分勝手な空を責めようなどとは微塵も思っていないのだろうと声色で分かる。
    「……俺、怖いんだ。魈が俺の元を飛び立ってまた独りになるのが。でも魈がずっとここにいるのはもっと……怖い」
    「嫌か……?」
    「嫌じゃない。嬉しい。嬉しいから嫌だ」
    魈には理解が難しいだろう相反する気持ちを素直に吐露すると、再び涙が溢れて来た。なんてわがままなのだろうと自分でも呆れている。頑なだった魈が空に心を許して他人には到底見せない感情や表情を見せてくれることはとてつもない喜びだった。そんな彼を自分ひとりでひっそりと愛したいと思ってしまうほどに。けれどもそれは許されないことも分かっている。この感情がたとえ恋だとしても空は片割れを差し置いて魈を自分の中の一番にできない。だから嬉しいと思えば思うほど、空のことだけではなくもっと多くのことに目を向けさせなければと焦った。そのくせ執着を捨てきれずに、他者に目を向ける魈を見て不快になる。自分の気持ちが矛盾していたから苦しかった。
    「……これまで我のことばかりを気にかける凡人に出会ったことがなかった。我を仙人だと知ると近付く者もいたが、幸福や富をもたらす存在ではないと知ると自然と離れていった。しかしお前は業障に侵された我を恐れるどころか、愛情を怖がるなとまで言って勝手に触れてくる」
    彼は空が一心不乱だった頃の言葉を覚えているようだが、聞かされると恥ずかしい言葉のオンパレードに羞恥のあまり耳まで熱くなるのを感じた。とぼけてしまいたいが、空自身もしっかりと自身の発言を覚えている。思い返すと、追いかけているだけの時の空は今よりも身勝手だった。何故ならただ必死に呼び止めて興味を引いて、優しさにつけ込んでもっと一緒に居たいと甘えるだけでよかったからだ。魈がそれに対して何を感じて何を思っているかなど考えたこともなかった。
    「実際、お前が与えてくれるものはあたたかで心地よかった」
    それなのに魈はまるで大切なものを貰ったかのように穏やかな表情で空を見つめて、話しながら頬を伝い落ちた涙をグローブを嵌めたままの指先で拭うと、存在を確かめるようにぺたぺたとその輪郭に触れてくる。
    「……でも俺、魈のこと一番大切にはしてあげられないし、いつか魈を置いてテイワットから出て行く男だよ」
    罪を告白するような気持ちで言葉を返す。涙交じりの声は震えていた。今の魈は空がただ望むだけでそばに居てくれる。脳裏に浮かぶのはここ最近の彼の少しだけ頬を緩めた柔らかい表情だ。笑顔と呼ぶにはあまりにも微かで儚いそれ。視線の鋭さや、他者を寄せ付けない冷静な態度が分かりにくくさせるだけで、彼は他者を憎まず、恨まず、全てを受け入れる寛容さと優しさを持っている。
    「ならば我がお前よりも降魔を優先することに何か思うことはあるか?」
    「……ない。それが魈の生き方だから」
    「我とて同じだ。血の繋がりは強固だ。大切にしているだけのお前を何故責めよう」
    いつか別れが訪れることはとうに承知していると続ける魈の声はいつの間にか柔らかい。彼は全て分かっていた。それでもなお空のそばに居ることを選んだのだ。魈からかけられる言葉のひとつひとつに喜びを感じる。それでも恐怖は未だ拭えない。
    「それにお前が言ったのだろう。別れの日に後悔したくないから多くの思い出を作りたいと。忘れたのか」
    「ううん……覚えてる。でも、忘れられない思い出が多ければ多いほど、もう居ない現実に悲しくならない?」
    空は稲妻で友人との永遠の別れを経験した。共に過ごした月日も作り上げた思い出もそう多いものではなかった。それでも海祇島を訪れた際には時折思い出して感傷的な気持ちになる。そして彼がもうこの世界にいなくても、いつも通りに回る日常が悲しくなる。それこそが魈との別れを恐れ始めたきっかけでもあった。
    「……ならないと言えば嘘になる。しかし我は……我は今更関係を断ち切られて、お前を失う方が余程……嫌だ」
    溢れ出しそうな感情を堪えているような切なげで縋る声だった。顔に触れている指先にもグッと力が篭ったのを感じる。わずかに歪んだ表情から、真っ直ぐに射抜く金眼に滲む色から、彼が空からの拒絶に傷付いていることをようやく理解した。パイモンの言葉を思い出して自分の過ちに気付く。
    「魈、ごめんね」
    空からも魈に触れようとして片手を伸ばす。それでも触れる寸前でやはり躊躇していると、魈の方から頬を押し付けられる。すりすりと空の手のひらに甘える様に目を見開き驚きを隠せずにいたが、硬直する空をよそに魈は安堵したのか目を閉じて深く息をつくと、ここが良いと声を漏らす。昨日と同じ言葉を耳にして、やっと魈のその言葉が空のそばに居たいと同義なのだと思い至る。単純に部屋を移動したくないだけかと受け止めていた昨日までの自分は本当に馬鹿だ。すると顔に触れていた手がおりて腰に巻き付いたかと思うと、緊張が解けた身体の重みがかかってくる。すっかり安心している彼の態度を見て胸の奥がきゅっと痛んだ。本当に良いのだろうかと不安と別れへの恐怖は完全には消えない。けれどもこれから訪れるであろう痛みを受け入れて自分を選んでくれた魈の気持ちに応えたかった。ここにはもう近付くなと他者を寄せ付けず、あえて孤独を選びとる魈の姿はいない。空が変えてしまった。もう戻れないぞと囁く臆病な気持ちに蓋をする。
    「俺も、ここが良い」
    もう逃げないという自分への決意のようなものだった。呟くように口にしてから、魈の頬に触れていた手をそのまま首に回して彼を抱き寄せると、虚の空いている心が満たされるような気がした。ぴったりと触れ合った肌から彼の鼓動が伝わってきて、静かな呼吸の音が聞こえてくる。彼を抱きしめたことなどもう何度も経験している筈だが、なんの理由もなく抱き締めあっていると改めて認識すると不思議と恥ずかしさが増した。ふ、と空気が揺れ動くのを肩口で感じて、腕の力を緩めて魈の顔を覗きみる。
    「元気な心臓だな」
    空に魈の心臓の音が聞こえるように、魈にもドクドクと勢いの良い脈拍が伝わっていたらしく、かすかな笑みを浮かべている。心なしか嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
    「ずっと求めてた人と抱き合ってるから仕方ないよ」
    つられて空も口角を上げながら、腕の中の体温をもう一度味わうように抱き締める。体温が低い魈は素肌に触れると一瞬ひやりとするが、すぐに空の高い温度が移って馴染んでいく。しかし触れ合ったところから混じり合うことが出来ないように、空には彼の生き方に介入することはこれからも出来ない。否、魈だけではない。それぞれに使命を抱えて、優先すべきものがあるこのテイワットで空はただ寄り添い力を貸すことしか許されなかった。しかし魈のために暗い旅路を照らす灯りになって、居場所になることは出来る。
    「……好きだよ」
    空の言葉へ反応はなかった。そもそも俗世に疎い魈がどこまで好きという言葉を正しく理解したかすらわからない。けれども、手に入れたものを離さないように抱く腕の力が強まる。それが答えだった。
    紗紅緋 Link Message Mute
    2022/06/24 12:45:41

    碧悟4

    人気作品アーカイブ入り (2022/06/24)

    後ろ向きな空と前向きな魈の話
    *ありとあらゆる台詞、キャラクターストーリーへのネタバレ配慮をしていません。
    *プレイ時中国語音声なので、声や細かい言い回しなどはそちらをイメージしてます。間章で感情大爆発させるCN魈はいいぞ
    *作業用BGM:周深『大鱼』の影響を若干受けています
    #gnsnBL #空魈

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    作者が共有を許可していません Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    2022/06/29 7:29:59
    空魈尊過ぎる。「後ろ向きな空、前向きな魈」逆はよく想像していましたが、この作品で描かれている二人の関係性にとても心が温まりました。いつも素敵な作品をありがとうございます。これからも応援しております。
    > やわらかい餅
    2022/06/29 12:24:38
    こちらこそいつもありがとうございます。2.7を見て空は寄り添うことは出来るけどテイワットの人たちを直接的に救うことは無いんだなと思いましてこうなりました。これからも見守っていただけますと幸いです
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    • 海誓山盟マルチしようとしたら過去の仙人と出会う話。謎設定と魈の過去捏造しかありません

      何が出てきても大丈夫な方のみお進みください。
      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 結婚する空魈6/30の朝、唐突に結婚する自CPがみたいと思ったので書いたら精神が健康になりました。
      現パロです。
      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 結婚する空魈2数年後にちゃんとプロポーズする自cp。1万文字ある蛇足みたいなものです。

      #gnsnBL #空魈

      追記:
      先日、ようやく溺愛の続きもアップしました。興味のある方はフィルターを一般からR18に切り換えてご閲覧ください。
      紗紅緋
    • 暗恋両片想いしていた空魈話です。
      魈の過去を含め全てが捏造。 #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 耽溺キスする空魈が書きたかったです。2ページ目は蛇足です #gnsnBL #空魈紗紅緋
    • 碧悟2空がひたすら鬱々している話。少し女々しいかも。

      *ありとあらゆる台詞、キャラクターストーリーへのネタバレ配慮をしていません。
      *プレイ時中国語音声なので、声などはそちらをイメージしてます。kinsenはいいぞ #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 碧悟1魈の精神革命の話。ただひたすら魈の精神描写ばかりです。

      *ありとあらゆる台詞、キャラクターストーリーへのネタバレ配慮をしていません。
      *プレイ時中国語音声なので、声などはそちらをイメージしてます。kinsenはいいぞ
      *イメソン:邱振哲『太陽』の影響しかないです #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 寂寞ほぼパイモンと魈の旅人看病記。受けでも攻めでも嘔吐してる姿はかわいい #gnsnBL #空魈紗紅緋
    • 碧悟3隣で自分の道を歩む人が出来て、見える世界が変わった魈の話
      *ありとあらゆる台詞、キャラクターストーリーへのネタバレ配慮をしていません。
      *プレイ時中国語音声なので、声や細かい言い回しなどはそちらをイメージしてます。kinsenはいいぞ
      *作業用BGM:任然『飞鸟和蝉』の影響を若干受けています
      6/13追記:2.7で判明した情報と整合性を取るために一部修正しました
      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 年末のご挨拶本年はTwitterでの活動を辞めたり、pixivからこちらへ移動したりと精神的に慌ただしい一年でしたが、皆様のお言葉の温かさに救われました。本当にありがとうございました。今後も空魈を書き続けていきたいと思います。良いお年をお迎えくださいませ!

      また、1/8に神の叡智7に参加しますが、全48種ランダム配布予定の無配ハガキの図柄にご希望のものがございましたら取り置きいたします。(※新刊2冊も勿論取り置きいたします)
      無配は余れば通販にも回しますが、その際は匿名配送となってしまいますので個人の特定ができません。もしも通販予定の方で、この図柄が欲しい!というご希望がありましたらハガキのみ別途送付もいたしますのでご連絡いただければと存じます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
      紗紅緋
    • 日久生情 サンプル契約恋人のはずがマジ惚れしていく話

      1/8開催 神の叡智7にて頒布しました
      (B6/184頁/価格1,000円/R-18)

      ※サンプル部分は冒頭ではありません
      ※バージョン1.3から2.7に至るまでのあらゆるイベントネタが詰まっています
      ※実際はタイトル部分は箔押しとなります
      ※通販はFOLIOを利用しています。どうぞよろしくお願いします
      https://www.b2-online.jp/folio/13072300003/001/
      ※成人指定してあります。表示されない場合はユーザー情報で表示するにチェックする必要があります。


      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 夢で見た人を好きになっちゃうタイプの空くん内容はタイトルのままです。キスから始まっちゃう自cp可愛いなと思って書きたいところだけ書いたので短いです。

      書いてる途中に例のキャラpvが来てしまって、本家(?)の彼はこんなにも苦しんでいるのに、私の書く仙人はなんでいつも旅人メロメロ真君なんだと数日間絶望していましたが、海灯祭イベント見てたらメロメロ真君もあり得なくはないと気を持ち直したので公開です。エピローグが楽しみです。
      追加:エピローグ前にとんでもpv来ちゃって泣いた

      #空魈 #gnsnBL
      紗紅緋
    • 夢の番人 サンプル未来の結末の話

      1/8開催 神の叡智7にて頒布しました
      (B6/44頁/価格600円/全年齢)

      ※キャラクターの死の捏造があります
      ※バッドエンドではありませんが、ハッピーエンドでもありませんので、苦手な方はご注意ください
      ※ フォントの都合上、左綴じ横書きの本となっております。
      ※通販はFOLIOを利用しています。どうぞよろしくお願いします
      https://www.b2-online.jp/folio/13072300003/001/

      #gnsnBL #空魈
      紗紅緋
    • 1/8無配遅くなりましたが、1/8神ノ叡智7ではどうもありがとうございました!通販の方もちょこちょこご注文いただけて大変嬉しく思います。
      無配の方を公開いたします。フォロワーさんからいただいた設定の仙人で書いています。自分だけが気付いちゃったあの子の秘密とか可愛いですよね。
      今年はもう一回イベント参加できたら良いなって思います。今後ともよろしくお願いいたします。
      #空魈 #gnsnBL
      紗紅緋
    • お知らせ1/8開催の神の叡智7に空魈で参加することにしました。取り急ぎご連絡まで。
      スメールめっちゃ楽しい
      紗紅緋
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