碧悟1全身の骨肉を襲う軋むような激痛に思わず荻の花々の上に膝をついた。妖魔が黒塵となって辺りの空中を舞い月明かりがそれらを照らす中、歯を食いしばって痛みをやり過ごす。しかし業障は耳を劈く咆哮や慟哭、殺戮を求める幻聴で魈の精神を侵そうとしてくる。魈は音の奔流に呑まれながらも記憶の中からたったひとつ、穏やかな声色を手繰り寄せた。
「……契、約……」
脳裏に浮かぶのは、金色の髪を持つまだあどけない顔立ちの少年の姿だ。強張った手に握られたままの槍を支えにし、痛みを訴え続ける身体を叱咤して魈は立ち上がった。
数日前、少年は望舒旅館で杏仁豆腐を食べていた魈に会いに来てひとつのお願いをした。
『俺が璃月にいる間は、夜はおやすみ、朝はおはようって言いに来て欲しいな。忙しかったらどっちかだけでも良いんだ』
だめかな……、と小首を傾げて強請ってくる少年の意図を魈は理解できなかったので、当然断ったが彼はそれなら契約しようと食い下がってきたのだ。この異世界から来たという少年は、強引さはないものの自分の主張を曲げようとはしない。あの手この手でこちらに意見をのませようとしてくるのは、長くはない付き合いの中で既に理解しつつあった。意図は掴めないが、ただ挨拶しに来て欲しいだけのことなら、大した負担になるようなことでもない、と嘆息を挟んで匙を置くと対価に何を支払うのか尋ねた。
『魈が決めていい。対価になり得ると思ったことを言ってくれれば俺は従うよ』
少年は綻ぶような笑顔を見せながらそう言った。その時は話はそれで終わり、依頼を受けている最中だという彼は、言いたいことだけ言ってどこかへ行ってしまった。残された魈は彼に支払ってもらう対価を未だに決められずにいる。
最近は野宿よりも望舒旅館に宿泊していることが多い少年の部屋を訪ねる。寝台に横になっている彼はその長い髪の毛で顔こそ見えないものの、すでに夢の世界に旅立っているように見えた。邪魔しては悪いと音を立てずに踵を返した時
「帰ってきたの?」
眠っていたと思ったが、存外しっかりした声が静寂の中で響いた。振り向くと身体を起こした彼が真っ直ぐこちらを見つめている。普段は編んでいる髪の毛をほどくと受ける印象が大分変わり、いつもよりも幼く感じられた。
「起きていたのか」
「うん。肌寒くて寝付けないんだ」
枕元に歩みを進め寝台の縁に腰掛けると、少年に手套を嵌めたままの手を握られ、布越しからでも彼の体温が伝わってくる。自分のものよりはずっと高いと思ったが、気温の多少の上下を魈は感じ取らない。暑かろうが寒かろうが、妖魔は休むことなく湧き出るので端的に言って興味がなかった。しかし彼が肌寒いと言うのなら、きっと凡人にとっては今日は涼しい夜なのだろう。
「我の手を握ったところで暖は取れん」
「気休め程度だって分かっているんだけど、寝付くまでそばにいてよ」
ぐっとそのまま手を引かれ体勢を崩す。いつのまにか布団に潜り込んだ少年の隣に寝転ぶかたちになり、柔らかな寝具が魈の身体を包んだ。
「おやすみ、魈」
「……あぁ、良い夢を」
ただそれだけのことで嬉しそうな彼の表情をみて、魈は抵抗することを諦めた。背を向けて彼が寝付くのを待つ。背中から感じる温度に落ち着かずわずかに身体を離した。彼が寝付くまでそこまで時間はかからず、身体が温まればすぐさま夢の世界に旅立っていったのか、穏やかな寝息が背後から聞こえるようになる。起こさないようにそっと寝台から抜け出すと、少年はもぞもぞと隣の温もりを探していたが、やがて寝具を抱きしめたことで落ち着いたようだ。柔らかい肌触りが気持ち良いらしい。寝ぼけながら頬擦りをする姿はまるで子供だった。
夜はよくないものたちが一番活発になる時間だ。本来ならば自分に休んでいる暇などない。もう契約は果たした、と魈はまた邪気を強く感じる所へと向かうのだった。
それからも少年が璃月にいる際は律儀に契約を果たした。夜に顔を出すとなにかと添い寝をせがまれたり、子守唄代わりに璃月の昔話をさせられることもあった。かといって朝に顔を見せれば食事を摂ったかと尋ねられ返事もしない内に朝食に付き合わさせられることも少なくなかった。昨晩は野宿だったらしい。絶雲の間にいくつか点在する簡易的な天幕の内、太山府の付近にあるひとつで見つけた少年はまだ髪も編んでおらず、眠たげな顔をしていた。早朝に来たわけではないので、おそらく夜更かしをしていたのだろう彼はそれでも魈の姿を見て顔をぱっと明るくするのだった。髪だけは纏めた彼は天幕から這い出て、側に置いてある鍋と広げた食材を交互に見つめ何を作るか悩み始めているが、天幕の中には荷物が乱雑に転がったままで、毛布は人が抜け出た形を維持していた。本当に起きたばかりだったようだ。
「オイラはニンジンとお肉のハニーソテーがいい!」
「パイモン朝からそんな重たいの食べて大丈夫? 魈はなにが食べたい?」
「必要ない」
仙人は燃費がいいな、などと独り言を言いながら料理を決めたようで、必要のない食材を鞄にしまいだす。やがて調理を始め忙しなく動き回る彼を一瞥して、この場を去る機会を失ったことに気付いた。妖魔も魔物も付近では見受けられないため、手持ち無沙汰にしているとやがて肉を焼く芳ばしい香りが辺りに漂ってくる。魈の隣でふわふわと浮くだけのパイモンは唾液を垂らさんばかりの様子だ。それに地鳴りのような腹の音が隣からひっきりなしに聞こえている。
「まだかかるのか?もう我慢できないぞ!」
「今盛り付けてるところ! ほら、パイモンの分」
これは魈のね、と渡された器には蓮の実がのった卵料理が入っている。必要ないと言ったのにわざわざ作ったのかと怪訝に見つめていると、苦笑しながら少年は頭を掻いて弁明する。
「本当は杏仁豆腐作ろうと思ったんだけど、杏仁がなかったから食感だけでも似てるかなって思って」
そういう少年の手には魈ともパイモンとも違う料理が紙に包まれていた。ほかほかと湯気を立てるそれは小麦粉の生地に肉を挟んで共に食べるという面倒くさい食糧だ。以前ひと口だけでも、と食べさせられたので見覚えがある。何を食べても魈にとって味は関係ない。しかし彼はなにかと一緒に食事を取りたがった。そばにある木箱に腰掛けて、簡単な朝食の時間が始まる。パイモンはもうすでに食べ始めていて、皿の半分がすでに胃の中に消えていた。少年も自分の料理にかじりついたのを見て、魈も匙でぷるぷる揺れる黄色い表面を掬う。杏仁豆腐よりも軟らかくて熱いが、確かに滑らかさは似ていた。
「美味しい?」
「味はよく分からない」
素っ気ない返事に傷付いた様子もなくそっか、と相槌を打って彼は食べ進める。少年にとってこの時間に何の意味があるのだろうかと疑問に思う。彼の真意は契約を持ちかけられたときから何も読めなかった。近付くなと言っても平気で関わりを持とうとすることをやめないが、契約を結んでからというものの一層親しみ深く接してくるようになった。魈には自分と関わりたがる彼を理解できない。ただ、最近は生者にまで害を加え始め、抑えのきかない業障がいつか彼を呑み込まないかが気掛かりだった。こうして密接に関係を深めていくのは褒められたことではない。そう思うのに彼を拒絶出来ずにいる。
器の中の羹を掬ったものの、俯いたまま口に運ばない魈を不可解に思ったのだろう。少年が垂れ下がった魈の髪の毛をかき分けて顔を覗き込んでくる。
「どうかした?」
視線だけ動かして、眉を八の字に下がった少年の顔を見遣った。体調でも悪いのかと続く声にゆるく首を横に振る。
「……そんなことはない」
匙を器に戻して視線を落とす。心配の色を滲ませた無垢な黄金の輝きが、無邪気さと優しさを遠い過去に置いてきてしまった魈には少し眩しい。彼は何故そこまで自分を気にかけるのか。魈は人ではない。百年そこそこしか生きられない凡人に心配されるような生き物ではないのだ。考え込んでいると、髪をかき分けた手が勝手にそのまま魈の頬を撫でてくる。ごわついた手套の感触を嫌悪して顔を背けると、行き場を失ったそれがすっと離れていく。彼はしつこいほどまとわりついてくるくせに、魈が本当に嫌がった時はすぐに行為をやめるのを知っていた。
その数日後から少年は少しの間璃月を離れ、顔を合わせない日々が続いた。
東から流れる陽気な風が、少年が再び璃月の地を踏んだことを知らせる。帰離原で妖魔退治をしていた魈は、頬にぬるいそれを受けながら目を閉じた。契約を結んでからひと月以上が経っているが、まだ彼から対価を支払ってもらっていない。いい加減決めなければ公平ではない。分かってはいても、欲のない魈には必要なものなどなく、して欲しいこともない。いっそのこと支払うものを自分で決めさせればよかった、などと考えているとぞくりと背筋の凍るような強い憎悪を感じて目を見開く。自身を蝕むかつての魔神たちの怨念だと瞬時に理解したが、魈はこれを抑える術を持たない。呻き声を漏らしながら自分の身を掻き抱く。これに襲われる時、いつも思い出させられるのは岩王帝君に出会う前の自分だ。邪悪な魔神に嬲られ、残虐な殺戮の道具になっていたとはいえ、敵でもなく、罪もない、善良に生きていた人々も数え切れないほど殺してきた。無理矢理飲み込まされた夢が美しく尊いものほど、残酷に踏みにじった己の行為の悍ましさに吐き気すら催した。何千年経っても鮮明に蘇る記憶は魈の精神を削っていく。勝手に滲み出た涙で視界が歪み始めた時、背後からよく知った、穏やかな声がした。振り向き視界に入った顔を見て、形容し難い感情が湧き上がる。
「妖魔退治してたの? お疲れさま」
「あぁ……」
近寄ってくる声を聞いていると、先ほどまで業障に侵蝕され乱れていた情動が緩やかに安定していく。魈はそのまま無意識のうちに目の前の身体に自身を預けていた。張り詰めていた緊張を解いても動じない腕に迎え入れられ、微かな汗と彼自身のにおいが濃くなる。
パイモンが何か言おうとしたのを、無言のまま魈を支えていた少年に制されて黙りこむのを背中で感じ取って、ようやく自分が抱き竦められていることに気が付いた。身じろぐとすぐに腕の拘束は解かれ、魈は半歩下がって少年から距離を取る。無意識とはいえ、らしくない自分の行動に動揺していた。羞恥心もあって彼の顔を見られず、そっぽを向きながら魈は口を開く。
「……お前の顔を見たら気が抜けた」
「そっか。魈はきっと安心したんだね」
「安心?」
耳を疑う言葉をそのまま聞き返してしまう。言葉と裏腹に内心足場を失くすような不安を抱いた。この少年が思っていた以上に自分の心に入り込んでいることに気付かされる。足繁く彼の元を訪れて、毎回飽きもせず見せる喜ぶ態度に、笑顔に、優しさに触れるたびいつのまにか安心感を得ていた。彼は魈のこころを傷付けない。そして自分を受け入れてくれるという信頼があった。これこそが契約の対価だったのだとその時魈は理解してしまった。対価を決められなかったのは、魈の方も彼と顔を合わせることで得られるものがあったからだ。しかし急に恐ろしくなる。彼とは生きる時間が違う。世界も違う。一緒にいられるのは魈のいのちの旅路の中で瞬きほどの時光だ。たった一瞬のために、終わりが来るまで岩王帝君との契約を果たしているだけでいい、と決めた己の一生を乱されたくなかった。
「でもほんとに大丈夫? 顔色悪いけど」
伸ばされた手を咄嗟に振り払ってしまうと、驚いた少年の顔が目に映ってやけに胸が痛むのを感じた。言葉が咄嗟に出てこない魈は混乱のままその場から逃げ出す。背後から聞こえた自分の名を呼ぶ声は無視した。
行き先に当て所などなく、少年から離れられるのならどこでも良かったが、最中に目に入った妖魔や魔物は見過ごせない。努めて無心に責務を果たし続けて数刻、感情が落ち着いてようやく物事を考えられるようになったのは太陽が落ちかけ、璃月の山々を真っ赤に染め始めた頃合いだった。力を使い果たす、ほどではないにしろ身体は疲労を訴えていて息もあがっていた。辺りを見回して自分がどこで戦っていたのかを今更ながら把握する。帰離原から少し離れた明薀町の付近だ。浜の方から登ってきたらしく、海を見渡せる小高い丘にいた。遠くの方に孤雲閣は見えるが、璃月港は岩山で見えないのが幸いだ。今は人の気配を感じたくない。独りで落ち着いて過ごしたかった。けれども日が落ち切れば夜になる、夜になれば契約を果たさなければならない。先ほどの邂逅は偶然で、契約のうちには入らないだろう。また顔を合わせなければならないと思うと気が重い。しかしこの璃月で契約を反故にするということは、敬愛する岩王帝君に背くも同義だ。ため息を吐いても少しも気は晴れないが、吐かずにいられないほど頭の痛い問題だった。帝君と同じ契約を結んだ「兄妹」たちはとうの昔にこの世を去り魈だけが残され、長い年月を独りで過ごしてきたため、今更誰かと共にいる自分を想像できない。人から一定の距離を保って生きていたので魈から近付くことはないし、人も魈に恐れをなして近付くことがなかった。当然、特定の誰かと仲良くすることもなければ、信頼することもなかった。安心というものは、魈の生き方の中で最も遠い存在だったのだ。だからこそこの血塗れた手で触れてもいいのだろうかと迷い、そしてこの安心がいつかの別れによって更なる寂しさを生むのではないかと不安が過った。自身の変化を魈は恐れていた。
いつも平静を保っている精神が、業障の影響を受けていないのにも関わらず騒ついていてやはり簡単には落ち着かない。その不快感に眉間にしわを寄せ、何度目かのため息を吐いた。
「……行くか」
気がつけばすっかり陽が落ちて夜の帳が下りている。
重たい腰を上げた魈は璃月港の入り口に来ていた。煌びやかな夜の璃月港の熱鬧が足を踏み入れる前から感じられる。得意ではないその雰囲気に顔を顰めた。行き交う客に声をかける商人、楽しそうに食事をして親交を深める人々、逢瀬を楽しむつがいたち。それらに目もくれずに魈は契約を果たすという義務感だけを胸に目的の人物を探す。階段を上がった先の広場で左右どちらかに曲がるか迷い、賑やかそうな左に曲がる。なんとなく彼は楽しげな空気の方を好むと考えたからだ。彼がいないものかと辺りを見回しながら進んでいると、橋を渡る寸前でようやく目当ての姿を見つける。声をかけようと一歩踏み出したその時、彼の正面にある建物から誰かが出てきた。
鍾離だった。その尊顔を認識して魈はその場から動けなくなる。
「旅人、こんな所にいるなんて珍しいな。一人か?」
「パイモンは先に宿の方戻ってもらってる」
「……どうかしたのか?」
「野良猫にね、逃げられたんだ。鴉青色の綺麗な子。……俺はただ、帰るところを作ってあげたかったんだ」
椅子に腰掛けることはせず、しゃがみこんで足元で寛ぐ白い猫の背を撫でる少年は随分とうつろな顔をしていて項垂れていた。そんな彼を見下ろしながら鍾離はふむ、と口元に手を当てて考える。
「……逃げるのには理由があるはずだ。そもそもお前は何故その猫に帰る場所を与えたかったんだ?」
「たまに寂しそうな顔をしてるのを知ってたから、最初は帰るところがないのは哀れだなって。だからいつも同じ場所で会えるようにしてた。だけど……いつのまにか、俺を帰るところだって思って欲しいって願うようになってた」
欲をかいちゃったと、鍾離を見上げて彼は泣きながら笑っているような悲しい笑顔を浮かべていたが、表情の変わらない鍾離を前にして次第に表情が消えていく。視線を再び猫に落として、何を思ったか無防備なその肉体を抱き上げた。驚いた白猫は拘束を嫌って手の内から滑り抜けていくと、激しい威嚇の声を上げてから魈のいる大通りの方に向かって逃げて行くが、少年の視線は猫から変わって地を見つめている。そうして大きなため息を吐いて言葉を続けた。
「……多分それが良くなかったんだ。俺は蛍を……妹を見つけたらいずれはテイワットを去るのに、残された者の気持ちを考えない無責任な行いだってあっちもきっと気付いてる」
「ならばお前はどうしたい? 無責任だったと反省して、逃したまま終わりたくないからそうしていじけているのだろう?」
鍾離の声は感情を滲ませないがしかし落ち着いたものだ。自然と心の内を吐露したくなるような、妙な力を感じる。少年は口を二、三度開いては閉じ、言葉にするのを躊躇っているようだったが、やがてちからない声で答えた。
「……望まないことを強制したくない。けど、あの人とこのままなのは嫌だ……」
膝に顔を埋めて蹲ってしまった少年に対して鍾離は慰めるようなことはしない。だが彼の隣にある椅子に腰掛けて何やら語りかけている。少年は時折無言で頷いて鍾離の話を聞いていたが、魈は落ち込む少年の様子を見てやはり理解が出来ずにいた。二人のやりとりももう耳に入ってこない。彼は何故傷付いたような顔をしているのだろうか。しかしこのまま彼らの前に姿を現すのは躊躇われる。居心地の悪さを感じて、堪らず璃月港から立ち去ってしまった。
気が付けば喧騒とは程遠い南天門まで来ていた。月明かりに照らされた大樹の幹の先に腰掛けて、風を感じながら先程の少年の様子を思い出す。人の感情は分からないことだらけだ。だが近付かなければ理解する必要もない。振り返ってみればあの少年に出会ってからが近過ぎたのだ。これまでの自分を、生き方を乱されることを厭うた魈はこれ以上誰にも自分の心に踏み込ませないのが良いという結論に達した時
「魈!」
足元の方から寝静まった夜の静寂を切り裂く者—璃月港にいたはずの少年—は息を切らし額には汗が浮かんだ状態で大樹の根元にいた。
「何故ここにいる」
「鍾離先生が教えてくれた。から、追いかけてきた。そばにいたなら声くらいかけてくれてもいいじゃないか」
そう言いながら大樹をよじ登ってくる少年の姿に、魈は思わず立ち上がりこの場を去ろうとする。今日は逃げてばかりだった。
「待って! 行かないで! 話をしようよ」
「我は話すことなど何もない」
構わず去ろうとする姿に焦ったのだろう、少年の再度の制止を求める声が上ずっている。だが魈はここでいつも許してしまうから乱されるのだ、と聞くつもりはなかった。しかし去ろうとした瞬間、それなりにそばまで登ってきていた少年が足を踏み外したのを、彼が声を上げる前に認識してしまった。
「空!」
体が先に動いた。幹を踏み切ると、転落していく少年の身体を小脇に抱え込みそのまま大樹の根元に着地する。彼を放すと、まだ落下の動揺が収まっていなかったようで足を震わせ発光する不思議な花々の上に尻餅をついていた。
「気を付けろと何度言わせる」
「ご、ごめん……」
鼻を鳴らして踵を返すと、左腕の袖がくんっと引っ張られて思わずつんめのる。誰の仕業かなど確認しなくても分かっているが、振り向いてみると案の定少年が裾を握りしめていた。俯いていて顔は見えないが、裾を掴む手はかなり力が入っているようで小さく震えていた。
「離せ」
「いやだ」
両手で更にきつく魈の服の袖を握りしめ抱え込んで離そうとしない意思を全身で表している。尻餅をつきながらなのでなかなか滑稽なさまだが、なりふり構っていられないほど真剣らしい。結局魈が折れて少年に歩み寄り目の前に腰を下ろすと、顔を持ち上げた彼の瞳はうるうると水の膜を張っていた。
「鍾離先生との会話、聞いていたんでしょ。契約の名に託けて自分勝手だったと反省してる。けど……ねえ魈、どうして昼間逃げたの? 俺とつるむのもう嫌になった?」
「……乱されたくない。好意からの行動だと分かっているが、我は独りに慣れている。だから、お前と密接に関わる今のこの環境に……迷いを感じる」
話を聞く態度を見せたことで安心したらしい少年は、魈の服の袖から手を離し胡座をかいて座り直している。そんな姿を一瞥すると足元の花々に視線を落として素直に心の内を明かした。
「璃月は環境も、人も、日に日に変化をしてきたが、我の務めは今後も変わることはない。……我自身も変わる必要などない」
魈にとっては荒廃していた数百年前の荻花州も、岩神に代わって七星が管理するようになった璃月港もあまり違いはない。ただ等しく護るべきものであり、魈がそれらの変化についていくことはない。しかし少年は違うようで唸りながら少し考えたのち、口を開く。
「……じゃあさ変わらなくてもいいんじゃない? でも俺は妖魔も、業障も、魈自身だって畏れない。だから今は俺が隣に立っていることを忘れないで欲しい」
思わぬ言葉に思わず顔を上げたが、少年の真剣な眼差しに射抜かれて、すぐさま視線を外す。口の中が乾いて声が張り付いていた。
「……我、の、旅路の付き添いは我だけだ……お前など必要ない」
「うん。魈の旅の隣で俺は俺自身の旅を歩んでるだけ。魈は魈の責務を果たせばいい。でも、しばらくは隣にいるから疲れたら寄りかかってくれていいし、つらい時はいつだって助けるから頼って欲しい。楽しい時は一緒にもっと楽しもう。魈と色々なことを享有したい。それだけのことなんだ」
鍾離の盤石な岩のように外敵から保護してくれると感じられる沈着な声とは違う、気がつくと寄り添っている風のような暖かく穏やかな声が心の門を敲く。
「……多くの命を屠ってきた我には殺戮の腕しかない。道具のように扱えばいいと言っただろう。闇に堕ちた我にそのような……」
「そりゃ戦いに関しては俺なんかよりずっと得意だろうけど、魈は決して道具なんかじゃない。愛情に触れることを怖がらないで。これまで受け取らなかっただけだ。だからさ、魈は試しに一回触ってみてから変わるか変わらないか考えてみてもいいと思うんだ。それでもやっぱり変わらないって選択するのなら、それならそれでいいと思う」
どうかな、と手を差し出された。握り返せば了承の意だと受け取られるだろう。真っ向から自分と向き合ってくれる姿に感銘を受けたが、ずっと孤独だった魈には他者との向き合い方がわからない。知らないことを恐れる自分がまだ内心にいて、すぐに彼の手を握り返すことができなかった。しかし彼は戸惑う魈の手を無理に捕まえたり、これ以上声をかけて心を揺さぶることはなかった。ただ辛抱強く魈が悩み抜いて返事を出すのを待っている。
空が白んできた頃、昇ってきた陽光を受けて金色の髪の毛が閃閃とするさまに興味を惹かれる。それはたまに目にする光のようだった。身に累積している業障のためか逃げられてしまい、触れたくても触れられないそれ。今なら触れるような予感がして手を伸ばす。一瞬の逡巡ののち初めて手にした光は触ってみると大したことなかった。魈を傷つけることもなければ、癒すこともない。けれども手を動かすと光が乱反射して違った輝きを見せるさまが面白い。興味のままに弄んでいると少年と視線がかち合う。彼は微笑みを深くしながら、魈の手に甘えるように頭を擦り寄せた。
「手を伸ばしたのにまさか頭を撫でられるとは思わなかったなぁ」
とろけるような声色で囁かれ、羞恥が込み上げてきて手を引こうとしたが、魈の手の上に彼のものが重ねられてそのまま捕らえられてしまう。恥ずかしさで早くこの場を離れたいと思う魈をよそに、少年はようやく捕まえた手をここぞとばかりに離そうとしない。そして魈の手を胸に抱き込みながら独り言のように呟く。
「……もし変化を嫌がる理由が恐怖なら……、変わった後のことが怖いのなら、いつか俺との間のことは全て忘れてくれてもいいんだ。それで魈が幸せだと思うのなら。でも旅に終わりがあるように、出逢いにはどんな形であれ別れが訪れる。俺は魈と出逢えたこと、仲良くなれたこと、別れることも含めて後悔したくないからたくさん思い出を作っていきたい。魈にも同じように思ってもらえたらいいな」
仁愛に溢れた声や表情が自分に向けられているものだと思うとこそばゆい。この少年はそれまで魈が知ろうとしなかったことを体験させてくれる。それに煩わしさを感じたり、理解が及ばなかったりすることが常だったが、しかしどれも悪い経験ではなかったと思い返す。そしてそれらの体験は、たとえ魈の反応が良くとも悪くとも、彼はただ魈と同じ時間を享有したかっただけなのだと理解した。彼にとっては等しく思い出になる。そして、少年への理解が少しばかり深まったことに内心喜びを感じたのも事実だった。
「……お前が何故我を気にかけるのか理解できない。だからこそ、お前のことをもっと理解したいと、思う」
魈の言葉に彼は目を丸くして、そして破顔一笑するとなにを思ったか突然抱きついてくるので、予想外の行動に反応できず、思わずかけられる体重と共に後ろに倒れ込んだ。
体を横たえる感覚、胸の上に自分と違う熱がある感覚、真隣にある花の芳香が鼻腔をくすぐる感覚、そのどれもが魈にとってはあまり慣れないものだ。
「俺ももっと魈のこと知りたい。いろんなこと教えて……」
魈を見上げる黄金の瞳はどこかとろんとしていて目蓋が下がってきている。声色も重たげだ。そういえば彼はまだ寝ていないにも関わらず朝を迎えてしまった。仙人はあまり必要としないが、凡人には睡眠が必要なはずだ。横になったら眠気を思い出したのだろう。緊張の解けた熱い身体がぐん、と重たくなる。
「……ん、限界……仮眠させて……」
絞り出すように告げたかと思えば、すぐに規則的な呼吸の音しか聞こえなくなった。体勢を入れ替えようとしたが動くとぐずった声が上がり、縋り付いてくるちからが強くなる。どうしたら良いのか困惑しているうちに結局身動き一つ取れなくなった。
「じきに目覚めるか……」
諦めて見上げた天空は陽光が滲んだ色をしている。色などこれまで気にした事はなかったが、魈の上でわずかな睡眠をとっている彼ならばおそらく美しいというのだろう。
迷いや不安がなくなったわけではないが、モラクスは神の座を降り鍾離としてその形を変えた。仙人と凡人の関係もただ守護するもの、庇護されるものの形から変わろうとしている。永久に変わらないものなどなく、魈も彼が隣にいるのならば自分の在り方を見つめ直してみてもいいのかもしれないと考えを改めた。
のしかかる熱い身体は自分とは異なる鼓動を刻んでいるのが合わせた肌を通して伝わってくる。慣れない感覚だがひとまず受け入れてみようとそれを抱き寄せて魈は目を閉じる。
空が目覚めたらまずおはようと言うのだ。