最後の手紙 帰宅して覗いた郵便受けに、一通のハガキが届いていた。
『明日からここに向かいます』
簡略化された地図に書きそえられた、たったひと言のメッセージ。タイムラグを考えれば、もうとっくにこの場所に辿り着いて興行を打っていることだろう。
あさぎりゲンは今、俺の隣には居ない。懐かしさすら感じながら、俺はハガキを眺めていた。
「千空、おはようなんだよー!」
「よっ。今日は早ぇな、千空」
朝、いつも通り研究所へ行くと既にクロムとスイカが出勤していた。いつものことだ、この二人は朝が早い。
「おー、おはようさん」
「おっ、またゲンからハガキ届いたのか? 今回は何だって?」
「……んでそう思うんだよ、クロム」
「千空が朝から元気そうだからなんだよ!」
ニコニコと、邪気のない顔でスイカが言い放つ。クロムも追随して肯いた。……俺は、そんなに分かりやすいのか? 溜め息を吐きつつも、正解と言う代わりに白衣のポケットからハガキを取り出す。
「おっ、つまり順調に進んでるってことだな! ……って、ここって何処だよ?」
「クロム! チェルシーにもらった地図見てみるんだよ!」
「おう!」
うれしそうな顔で二人はハガキを覗きこみ、それから地図が片付けてある棚へと踵を返す。
「俺は先にやってっから、適当に切り上げて作業始めろよ」
「わかったんだよ!」
「千空! あとでどんな所なのか教えろよ!」
「俺だって詳しくねえわ」
きっと昼飯時には二人から質問攻めにされることだろう。俺より龍水に聞け、と言いたいところだが、俺が言わなくてもコイツらは龍水に会えば話題にだすか。研究関係以外で新しい物事が少ない研究所では、ゲンからのハガキは良い話のタネだ。
「あ、そうだ千空」
「あ゛?」
別の部屋に向かおうとした俺へ、クロムが声をかけてくる。
「返事、今回こそ書いてやれよ」
「…………」
渋面をする俺を見て、スイカは呆れたような顔で笑っていた。
旅立ちの準備をするゲンへ、何か要るものはあるか? と訊ね、返ってきた答えは『手紙』だった。
「手紙?」
「そう。前みたいに俺から送るからさ、千空ちゃんもちょうだいよ、お手紙」
「そうは言ってもテメー移動だらけだろ」
「まあね。でもそれなりに滞在するし、滞在先から近い龍水ちゃんの拠点とか研究所とか、俺宛に手紙届いたら受け取れるようにちゃんと繋ぎつけとくから大丈夫じゃない?」
もし俺が移動したあと届いたなら次の場所に転送してもらうよう言っとくからさ、とゲンは付け加える。
手紙、……手紙、なあ。考えてみれば手紙なんぞ、まともに書いたことがない。メールならそれこそガキの頃から打っていたが。
俺の困惑を見てゲンが笑う。
「いやいや、そんな難しく考えないでよ~! 俺のノリに合わせて毎回返信しろなんて言わないから! 準備期間とか移動も含めたらあっちに一年は居るんだから、その間にせめて一回お手紙くれたらそれでいい」
譲歩案を告げながら、ゲンはずいと俺に近寄り顔を覗き込んで、
「要るものあるか? って聞いてきたのは千空ちゃんの方で、俺の要望を叶えてやろうって気持ちがあったから言ってくれたんでしょう?」
ね? と首を傾げて俺の退路を断った。
「……わかった」
両手を上げ、降参を示して俺は頷く。物資以外を想定せず安易に訊いた俺のミスだし、叶えられないような要望でもない。一度で良いと譲歩までされているのだ、ここで断って不興を買い、出立前に要らぬ諍いを起こすよりも受け入れた方が合理的だ。
「ありがと」
それに、コーラくらいしか『欲しい』と自分のために望まないような男が欲しがったのだから、叶えてやらねば男が廃る。
「一通でいいんだな?」
そうは言っても苦手意識のあるものではあるので念を押す。苦笑しつつもゲンは肯いた。
「そりゃあ何通でも送ってくれるなら嬉しいけどね~。いいよ、一通で」
そう約束をして、期日が来てゲンは渡航し、……既に半年を過ぎていた。返事は、いまだ送っていない。
誓って言うが、書く気が無いわけではないのだ。何を書けばいいのか分からないまま、悩んでいたらあっという間に半年が経ってしまっただけだ。
「より性質が悪いわよ、それ」
「うるせー、文筆慣れした記者のテメーと一緒にすんな」
「アンタだって論文は書くでしょうが。何でハガキの一枚も書けないのかしらね~、よっぽど簡単だと思うんだけど」
呆れながら俺を腐すのは、アメリカから戻ってきた南だ。司の外遊に同行し、ついでにゲンと会ってきたらしい。土産と称してゲンと司のツーショット写真を渡された。元気そうで何よりである。
「大きなもんじゃなかったけど、楽しかったわよ。サーカスとマジックショー」
「ほーん」
「反応薄いわねえ……ホントは千空も見に行きたいんじゃないの?」
「それ言ったらウチの研究所のやつらは大半が行きたがってるわ」
掌握されてんのか? ってくらい、ゲンはウチの職員たちからの人気が高い。研究所のフォローを長くやっていたから当然なのかもしれないが、多分作ろうと思えばファンクラブも作れるだろう。
「あいつが帰国してからのスケジュール抑えてウチのやつら用の慰安ショー企画する方が揉めなくて済む」
「……揉めるの?」
「研究所を留守には出来ねーからな、希望者が多かったら休みの調整が面倒くせぇ」
アメリカまで行ってショーだけ見て帰ってくるとしても、石化前よりも日数がかかる。希望者を複数グループに分けて休みの調整をするとなったら、事務方が大変だろう。あとで恨み言を聞かされるのは俺だ。
「まぁ、それもそうよねえ……ゲンのことだから企画したら張り切ってくれるとは思うけど、……千空! その時は、ちゃんっと仕事としてお金払いなさいよ? 宴会の余興じゃないんだから」
「あ゛あ゛?」
「アンタもゲンも他人にはその辺きっちりしてるくせに、お互いのことになるとすぐなあなあにするじゃない」
「あ゛~……あいつ俺に甘えからな……」
頼めば多少融通をきかせるだろうし、仮に相場よりも安い予算を提示しようと、特別料金にしてやるだとか代わりにオネガイを聞いてくれだとか、等価とは言えない適当な対価で引き受けることだろう。
「なあ、その手の依頼の相場……オイ、どうした?」
プロモーターとの縁もあるだろう、相場を知っているかと聞こうとしたら、南は呆気にとられた顔で俺を見ていた。
「驚いた……キミから惚気を聞くと思ってなかったから」
「惚気か? これ」
「惚気よ、十分に。ていうか甘やかされてる自覚あるのに当たり前に甘えてたワケ? それ許されるのは若いうちだけよ、千空」
「耳が痛え話だな」
「そうよ~、甘やかされるのが当たり前になって増長した男なんて、居ない飲み会での酒の肴くらいにしか役に立たないんだからね!」
ここには居ない誰かと過去を思い出しているのか、しかめっ面で南が喚く。まあ、なんだ、テメーも色々あったんだな女記者よ。
「まっ、キミはそういうんじゃないって分かってるから、良い情報をあげるわ」
キミの悩みの種に関する情報、と囁いて、南は真っ赤な唇を弓形に引き上げた。
「ゲン、本当は手紙が最後まで届かなくってもいいんですって。絶対こういうの苦手だってわかってるから、って」
明日には届くかも、来週には届くかも、そんな未来への楽しみがあるだけで張り合いがあるから構わない、たとえ届かないにしてもその理由が『書けなかった』ことはあっても『書かなかった』ことはないだろう、帰国して再会するまで『あさぎりゲンへの手紙を書けないでいる』という事象に脳のリソースを割いてるんだと思えばそれだけで満足なのだ――
そう、笑っていたそうだ。
「いやよね~、もう口から砂糖でも吐いちゃいそう。どこまで甘やかすのかしらね、あの男は」
惚気るのは相変わらずだけど、と呆れる声が聞こえてくる。俺は両手で覆った顔を上げられないでいる。
「少しは手紙を書きあげる気力につながったかしら?」
俺にバラされる事を承知でゲンは語ったのだろう、分かった上で南も俺へ伝えたのだろう。向き合ったならば結果が伴わなくとも許すと、手紙という形にならなくとも自分を考え続けてくれていたならばそれで良いと、届こうと届くまいと楽しみ方を知っているから気負うなと。
あの野郎は遠い空の下で甘言を囁いているのだ。
「……確かに良い情報だ」
「そう、何よりだわ」
そろそろ次の予定があるから、と南はソファから立ち上がる。
「格好つけずに思ったこと書けばいいの、がんばりなさいよ。また愛想尽かされたって知らないんだからね!」
「それはもう無えだろ」
「どっから来るのよ、その自信……わっかんないわよ~、さっきまで惚れてたのに一瞬で冷める時ってあるんだから! 折角うまく落ち着くとこに落ち着いたんだからしっかりね!」
「なんでテメーが張り切ってんだよ」
「幸せになってほしいからよ」
座ったままの俺を見下ろして、南は言った。
「千空、キミに司さんは救われた。私も救われたし、世界も救われた。一緒に身体張って色んなことしたわ、私だって。同じ立場の仲間よ、でもキミのことは恩人とも思ってる。建前作って他人の為にばっかり動いてきた、そんなキミたちが幸せになるためなら応援だってするわよ」
「んなこと言って、ゴシップのネタが欲しいだけじゃねえのか?」
「またそういうこと言って! バラされるのがお望みなら女子会にゲン呼びだして恋バナさせたっていいのよ?」
それは逆にアイツから情報引き出される事になるんじゃないだろうか、ノリノリで嘘か本当か分からないエピソードを披露しそうだがいいのか? 肩をすくめた俺を見て、溜め息混じりに彼女は暇を告げ去っていった。とにかく手紙は書きなさいよ! と捨て台詞を残して。
帰宅し、部屋に入る。デスクの上に無愛想な白い便せんが鎮座している。書き損じで紙を無駄にしたくなくて一文字も書き出せないでいるそれは、デスクライトを反射して輝き存在を主張していた。
「あ゛~……クッソ」
デカい溜め息を吐いて、デスクから便せんと鉛筆を取り上げる。居間のテーブルへそれらを置き、棚から取り出したワインボトルも傍に置いた。景気付けにグラス一杯を飲み干して、便せんに向き合った。
格好つけるな、気負うな、素直に文字に起こせ。……それが、一番難しい。
言葉にせずとも分かるだろう、とサボり続けてきたツケが回ってきてしまった。態度と行動で分かるだろう、と委ねるのが甘えであることも、お前ならば分かるからと放置した怠惰も、理解している。
(俺が戻るに値する人で居てくれよ、千空ちゃん)
あの日の言葉が耳の奥に甦る。そうだ、お前が何処に行っても此処へ戻りたいのだと言わせ続けないといけないのだ、俺は。
もう一杯グラスにワインを注ぎ、半分ほど飲み干してから鉛筆を手に取った。
『メールならばよく打つが、改めて手紙を書けと言われるとどう書き出して良いものやらと迷うもので、真面目に時候の挨拶から書くべきかとも思ったが、何だかそれもお前相手に送る俺の手紙らしくないと感じたのでこのまま語り言葉で書き連ねていこうと思う。――』
そうして書き始めた文章は、読み返すのもためらう程に赤裸々だった。
手紙に書きたいほど伝えたいことなんて俺には無い、たとえ後から返事が来ると分かっていようと俺はその場でお前の反応が見たいし、俺の反応を待つお前が見たい。成功して俺の所に帰ってこい、それから話を聞かせてくれ。おおよその内容はそんなところだ、が……破り捨てたいがもう書ける気がしないから我慢だ、我慢。それでも未練がましく読み終えたら捨ててくれと追記してしまったのは愛嬌だとして許されたい。
「ダッセェ~……」
気恥ずかしさも不似合いな言葉も全部酒が後押しをした所為だ。そんな言い訳がなければ吐露すらできない体たらくもバレバレだろうな。あ゛~、やっぱり破り捨ててえ……。
封筒に入れ、封をして、視界から遠ざけるように机の端に押しやって、俺は残りのワインを一気にあおった。
勢いのままの手紙を投函してから、二通ほどハガキは返ってきた。こちらの手紙が届く前に送ったものだろう、司と連名の物も届いた。
『ゲスト出演として司ちゃんを舞台に上げたら、ショーの犬たちが全員ひれ伏しました』
『サーカスもゲンのマジックもとても楽しかった。君ともここで一緒に見られたならもっと楽しかっただろう。追伸 スイカに犬と仲良くなる方法を教えてほしいと伝えてくれ』
流石は霊長類最強、お手振りだけで治安を守る男だ。クロムと二人、ゲラゲラ笑ってしまったし、スイカの
「人懐っこくて度胸のある子か鈍感な子ならきっと司のプレッシャーにも耐えて仲良くなれるんだよ!」
というフォローになっているような、なっていないような発言に更に笑い転げしまった。今度、未来と一緒に仲良くなれそうな犬と会わせてあげるんだよ! とスイカは張り切っていた。がんばれよ、司。
そして、俺が送ってから届いた三通目のハガキにはこう書かれていた。
『前略 成果抱えて飛び帰るから、首を洗って待っていろ。 草々』
普段より筆圧の高い文字で走り書きされたそれは、日数的に受け取ったその日のうちにでも書いて返信したのだろう。
「ククッ、首を洗ってって果たし状かよ」
それを言うなら首を伸ばしてじゃねえのか? だが、どうやら俺はまだコイツが戻るに値する人間でいられるらしい。安堵と喜びがじわりと胸の内に広がる。べた惚れか? どうしようもねえな、俺も。
(これは、見せないでおこう)
まるで恋文だ。こんなもの、誰かに見せられるわけがない。知らず上がる口角を片手で隠しながら、ハガキをそっと白衣のポケットへとしまい込んだ。
俺からは手紙を送ったのはそれっきりだ。相変わらず、アイツからは不定期に送られてくる。スイカやクロムも手紙を送ったようで、封筒に数枚のハガキがまとめられて研究所へ送られてくる時もあった。
ショーは人気を博したようで、予定していた公演から追加公演が決まり二ヶ月ほど帰国が伸びたり、その間に見に行って俺へわざわざ龍水が自慢しに来たり、各国を調査で回るチェルシーがタイミングあったから見てきたと調査結果報告と合わせて自慢しに来たりと(何故お前らは俺に自慢しに来るんだ?)色々あったが、無事に千秋楽を迎え、今夜あの男は帰宅する。
最後に届いた手紙には、帰国の日と時間、そして小さなわがままが記されていた。
『ドアを開けたら、中に居て』
その希望に沿って、俺は早々に帰宅してゲンの到着を待っている。というか一緒にハガキを見ていたクロムとスイカによって話を広げられ、総出で研究所から追い出された。ありがたい、と思うべきなのだろう。
予定通りであるならば、そろそろだろう。帰宅に合わせて飯の用意もしてある。数年ぶりに帰宅したあの日のように先に汚れを落としたがるかもしれないから、風呂の用意もしてある。大仕事を終えての帰宅だ、これくらいのサービスはしてやるさ。
(あのドアを開けて、アイツが入ってきたら、その時は)
言葉に出来なかったあの日の分も込めて、今度こそ、おかえりと言ってやろう。
まだかまだか、とドアを眺める。微かに足音が聞こえてきた。近付いてくる。通行人か? いいや、ちがう。
期待通り足音はドアの前で止まる。鍵を差し込む音が響く。そしてガチャリとドアは開かれて、華々しく渡り鳥の帰巣を告げた。
――メールならばよく打つが、改めて手紙を書けと言われるとどう書き出して良いものやらと迷うもので、真面目に時候の挨拶から書くべきかとも思ったが、何だかそれもお前相手に送る俺の手紙らしくないと感じたのでこのまま語り言葉で書き連ねていこうと思う。
とはいえ、正直なところ手紙に書くほどのことはない。研究に関する話題は書き出したらただの論文になるからと、お前に封じられてしまった所為で余計に内容が思いつかない。それならば日々一体何をあんなに話していたのかと思い返してみれば、毎日の連絡事項と研究内容、時折聞きかじった知り合い達の近況報告をするくらいで、俺はその事実に笑えばいいのか呆れれば良いのかと頭を抱えているところだ。
お前が行方を眩ませていた頃、俺は伝えたい事がたくさんあったように思う。けれど、それは皆どれも些細な日々の報告だった。内容は本当につまらないことばかりで、それを伝えたらお前は何と応えるかを考えていたような気もする。つまるところ俺はお前に何か伝えたいのではなく、お前の返しが聞きたいだけなのだろう。改めて気付くとは情けのない話ではあるが、それもお前からしたらお見通しで今更の事なのかもしれない。
研究内容の論文や活動報告レポートなら書けるが、どうにもこういうものは書きなれない。あの時のお前のように思うままの言葉を葉書に一言書いて送ろうにも、何が相応しいのかも分からない。相応しいも何も無いのかもしれないが、やはりどれもしっくり来ない。正直こんな支離滅裂な手紙は今にも破棄してしまいたいが、そうなると二度と書ける気がしないので酒の勢いも借りてこのまま送る。
考えに考えても、遠方に居るお前に伝えたい事はこのふたつだけだった。だから次からは手紙をねだられても、この言葉だけを送る。長々書いたが、全ては次回以降の素っ気ない手紙への言い訳だ、許せ。
成功を祈る。
土産話を期待している。
アジトで待つ科学者より、彼方のマジシャンへ
追伸。読んだら燃やすか破り捨ててくれ。少なくとも二度と俺の視界に入らないようにしてくれ。