微睡みに揺蕩う 泥沼の底からようやく顔を覗かせるような目覚めだった。未だ重たい泥は身体と目蓋に纏わり付いていて、意識は浮上したが、如何せん起きることが出来やしない。惰眠を貪るような暇などないだろうが。
(やることが山積みだってのに)
そうだ、今だってラボで図面を書いている途中だったろ。意識を引きずり上げようと藻掻く。ホラ、物音が聞こえるだろう、その音に起こされろよ。何の音だ?
(……、あ)
それは、すっかり聞き馴染んだ声が微かに歌う声だった。聞いたことがある気がする、聞いたことはない気がする、まともに働いていない脳ミソでは何の歌かも判断できないくらい、ささやかなハミングだ。
(ああ……人が、居る)
途端、全身から力が抜ける。また意識が沼底へと引き寄せられる。
森の中ではない。ここは村で、繋がれた命があって、協力者たちが居て、それから、現状村内唯一の時代の同郷者は穏やかに歌を口ずさんでいる。今、この傍らで。
(……もう少し、だけ)
その声を聞いていたいと思っていたのに、沼底から伸びた手は意識をかき抱き、泥の中へずるりと再び沈めてしまった。
――意識が浮上したのは、肩を揺すられる感覚によるものだった。まだ幾分か目蓋は重いが、それでもなんとかこじ開ける。
「おっつ~、千空ちゃん。起きられそう?」
視界の中でひらひらと動く長い指。聞こえてきたのは意図的に作られた軽薄な声音。視線を動かせば、予想よりも近い距離にあさぎりゲンの顔があった。
「……近ぇ」
「あ、メンゴ。つい寄っちゃった」
俺の言葉に、彼はさっと身を引いた。片側だけ長い白髪が揺れる。何となくその動きを目で追い眺めていたら、まだ寝ぼけていると思われたのか改めて目の前で手を振られた。
「大丈夫そ? お水とか要る?」
「あ゛あ゛悪い、起きる。水はくれ」
「おっけ~♪」
上体を何とか起こして伸びをする。背中が痛え。あと腕も痺れている。クソ。
「はい、千空ちゃん。お水」
「ん」
元々起こす前から用意していたのだろう。机の端に、盆と水差しが置かれている。痺れがマシな左手で差し出されたカップを受け取ると、ゲンは僅かばかり短い眉を動かした。利き手ではないことを訝しんだらしい。
「……、ああ。なるほどね~」
が、すぐに腑に落ちた顔をすると、彼はとんとんと自身の頬を指で軽く叩いて笑う。
「千空ちゃん、跡ついてるよ」
「げ、マジかよ」
「そんだけ寝てたらそりゃあ腕も痺れるね」
察しが良くておありがてえこった。誤魔化すように水を飲む。自覚以上に喉が渇いていたらしい、あっという間に飲み干した俺に向けてゲンが手を差し出した。空になったカップを手渡せば、すぐに二杯目を注いで返される。
「寝かせておいてあげたかったけど、そろそろカセキちゃんの作業も区切りつきそうな頃合いだし。確認行くんでしょ?」
「あ゛あ゛。助かった」
「でっしょ~? あ、頼まれてたそこの整理も終わってるよん♪ 俺ってば働きもの~!」
「自分で言うか? それ」
事実ではあるが。俺の突っ込みにけたけたと笑ってから、ゲンはもうひとつ置かれていたカップに水を入れて飲み干した。
「い~じゃん、誰も言ってくれないし自分で言ったって。俺ってばがんばってる~♪ ってね」
そして空になったカップを振り上げて、空っぽの筈のその中から少し枯れて皺になった花びらを撒き散らした。
「……片付けろよ?」
「もちろん」
先程まで何も入ってなかったカップから花びらを出すマジック。手際が良い。だが掃除が面倒なマジックは外でやれ。似たことを思っているのだろう、意外と広がっちゃったな……という呟きが聞こえてきた。
ただ、こんな所でも何かしら仕込もうとする姿勢は好ましいし、こいつが手慰みのように披露するマジックを見るのは結構楽しい。言わないが。言ったら面倒くさそうなので。
「あ゛ー……カセキんとこ行ってくる」
「いってら~。俺ここのお掃除してから食事の用意お手伝いに行くんでシクヨロ」
「そこの水差しも……」
「りょ、片付けとくね」
「頼んだ」
「かしこまり~♪」
ひらひらと送り出すように手を振られる。手を振り返してからラボを出る。
歩きながら、ふと、久しぶりによく眠れたな、と。思って、しまった。
カセキと打ち合わせをし、飯を食いながらクロムの問いに答え、またラボに籠もる。日の出入りで寝起きする村人に比べれば随分と夜更かしをしていることになるが、時刻としてはまだ十時を回った程度だ。石化前なら余裕で起きていた時間である。
今日は少しとはいえ仮眠も出来た。丸一日脳ミソぶん回して身体も動かしている日よりはずっと楽。ずっと楽だということは、……疲れて寝落ちるまで時間がかかるということだ。
焦りなのか、ストレスなのか。どうにも寝付きがよくない日々が続いている。だから寝落ちするまで作業に没頭するくらいがちょうどいいんだが、今日はいつもより夜が長くなりそうだ。
「千空ちゃ~ん? まぁだやってんの~?」
溜息を吐いたところで、声がかかった。振り返ると、入り口に寄りかかってげんなりとした顔で俺を見ている男が一人。
「用事か? メンタリスト」
「少ない資源使って夜更かしをしている誰かさんの様子見~!」
「まだ十時過ぎだ」
「そんなの時計見ないと俺には分っかりませ~ん! 体感として今は深夜です、そして夜は寝る時間!」
はあ、とわざとらしくデカい溜息を吐き、けれどどことなく心配している風な目つきで、ゲンは俺を見つめてくる。
「昼間、作業中に寝落ちするくらい疲れてんでしょ? 寝ちゃった分を取り返したいのかもしれないけど、大人しく回復に努めるべきと思うよぉ? 俺は」
「それなんだが」
「ん? どれ?」
「昼間の。ひっさびさによく寝られたわ」
「おっと、これは話が変わってきたね? オッケー、詳しく聞こうか」
演技じみたナリを潜め、ゲンが傍へ寄ってきた。互いに適当に椅子を用意して、向かい合って腰掛ける。
「確認ね。さっきの言い方はつまり最近あまり眠れてない、ってこと?」
「睡眠はとれてる。くったくたに疲れりゃ、ばたんきゅうと眠れっからな」
「それ睡眠っていうより気絶じゃない?」
参ったな、と小さくゲンが呟くのが聞こえた。夜通しとまでは言わないが、俺が夜更けまで作業を続いている理由を理解したのだろう。
「……昼に寝落ちしちゃったのは、身体が限界だったから?」
「あ゛ー……いや、耐えられなかったっつーよりも……」
最初に数分うたた寝をしてしまったのは、確かに疲れからだった。ただ、意識を取り戻したというのにもう一度、しかも深く眠ってしまったのは……
「ん? なに?」
機嫌が良さそうに鼻歌を歌っていた、この男の気配に力が抜けてしまったから、ではなかっただろうか。
「テメー、ラジオも番組持ってたか?」
「番宣で出たりはあったかな~。聞いたことある? てか、どしたの? いきなり」
「ラジオ代わりにクソ興味のねえどうでもいい話を聞いてたら眠くなんねえかな、と……いや、やっぱナシだな」
「う~ん、そうだねぇ~……それだと俺、俄然やる気を出して寝させなくすると思うし」
「んなとこでまでエンタメ根性発揮すんじゃねえよ。そうじゃなくて、これじゃテメーの睡眠時間奪うだけだからこの案は却下っつー話」
寝させなくするようなトークってなんだよ、ちょっと気になるじゃねえか。……すべてが丸く収まったら、娯楽としてラジオの真似事をやらせてみるのも面白そうだ。
「実際やれって言うんならそこまで負担じゃないしやれるけど。……千空ちゃんにとっては、ここの夜が静かすぎるのかもね」
それでかえって寝付けないのもあるんじゃないか、とゲンが言う。
「俺らに馴染みがあった『静かな夜』よりも、よっぽど静かだからさ。ここ」
静かすぎる、か。確かにずっと人の気配も少なければ、物音だって少ない。少ないが……目覚めて半年間よりは、よほど賑やかではあるのだ。
「テメーにとっても、か?」
「そうだねぇ、俺はほら? 眠らない世界で働くおにーさんだったわけだし? それに比べちゃったら、ね。夜は暗いし怖いんだって、ここで目覚めて思い知ったよ」
……そういえば、コイツは最初、たったひとりで俺を追いかけてきたんだった。司のような武力も大樹のような体力もない、発展した文明の中でもなきゃ生きていけないようなヒョロガリで、おそらく俺ほどにはサバイバル知識もないのに、たったひとりで。
「よく辿り着けたよな、村まで」
「いや、ジーマーでそれよ! 野宿怖かったんだから! 人間の痕跡見つけたとき俺がどんだけ嬉しかったか! ……千空ちゃん、よく一人で耐えたねぇ大樹ちゃんが起きるまで、ってメンゴ、話が逸れてきた。夜が静かすぎて無意識に警戒してストレスフルになってるとかなぁい? て思ったのよ」
村に入り込んだこの現状で、身の安全度はかなり高くなった。それでもまだ警戒心が抜けきってない、と。分からなくはないが……どうなんだかな。
「ま、つまりよく眠れるようリラックスできれば良いってことだし~……うん。千空ちゃん、一緒に寝よっか」
「あ゛?」
何を言ってやがるんだ? コイツは。
「なぁに気色悪ィこと言ってんだ、テメー……」
「俺もクロムちゃんの倉庫に泊めて~! ってこと。人の気配が多い方が今は眠れるんでしょ? ガンガン倉庫の中身使っていってるんだから、ちょっとはスペース増えたろうし、俺ひとり増えても良いじゃん」
「狭ぇだろうが」
「えぇ~! そこを何とか! 俺としてもそっちで寝かせてもらえるんなら助かるんだよね」
曰く、今はカセキんとこに世話になっているらしい。カセキは気にしていないだろうが、ヨソ者である自分が泊まり続けるのは何となく落ち着かないのだと言う。
「千空ちゃんとこなら俺も気兼ねしなくて済むし、そっち泊めてくんない?」
「クロムの許可とってからな」
「まっかせて~、言いくるめちゃうから♪」
他に言いよう無ぇのかよ。肩をすくめる俺を、ゲンは愉快そうに眺めていた。
「よし。そうと決まれば寝るとしようか、千空ちゃん」
「クロム寝てんぞ、もう。起こす気か?」
「ちがうちがう、それは明日以降。今夜は千空ちゃん寝かしつけたらカセキちゃんとこ戻るよ」
とりあえず寝床に行こう、と手首を掴まれて立たせられる。寝かしつけるって……ガキか俺は。寝付けないと話したのは確かにそうだが、なんだこの釈然としない気持ちは。
腕を引かれるがまま、二人揃ってクロムの倉庫へとやってくる。寝ているクロムを起こさないよう暗がりの中で寝具を敷き、横たわる。その枕元にそっと、ゲンが座り込む影が見えた。
「千空ちゃん。仰向けになって」
囁くような小声で指示される。言いながら、ゲンは何やら自分の手を握ったり開いたりとストレッチをしていた。何か考えがあるらしい。ひとまず言われた通りに寝転がった。
「目ぇ閉じて」
柔く温い掌が、閉じた目蓋の上に乗る。ほどよい重みと、あたたかさ。先ほどのストレッチは、手を温めるためだったらしい。
「ゆっくり……そうだね、八秒くらいかけて息を吸って。……それからまた、八秒かけて吐いて……吸って……吐いて……」
言われるがまま、深く、深く、呼吸をする。吸って、吐いて、吸って、吐いて。アイピローのような穏やかなぬくもりの掌。俺の呼吸と合わせるように聞こえる深呼吸。身動ぎで聞こえる衣擦れ。自分の為だけに今そこに在る気配。吸って、吐いて、吸って、吐いて……――
隙間から射し込む光の眩しさで、目が覚めた。
「……、あ゛?」
起き上がる。朝である。
「やるじゃねえか、メンタリスト……」
マジで寝かしつけられた……驚きの入眠タイムだ。気絶した時並みの意識の手放しようだったぞ、あれ。恥と思わず毎晩頼むべきだろうか。
身支度をして外に出れば、早々に目的の人物と出会した。
「千空ちゃん、おっは~♪ よく眠れた?」
「おかげさんでな」
「俺もまさかあんなにすんなり寝るとは思ってなかったというか……ねえ、そんな眠れてなかったわけ? ジーマーで大丈夫?」
てっきり有用さのアピールをされるかと思っていたのに、体調の心配をされてしまった。少しバツが悪くなり、誤魔化すように髪を掻く。
「あ゛ー……問題ねえと思ってたんだが、考え改めるべきか? 上手いことクロム言いくるめとけよ」
「それはもちろん」
気遣わしげな顔つきは、目が合って瞬きひとつの間に消え去った。察しの良さと引き際の潔さ。上手いもんだ、と心の中で嘆息した。
「そんじゃ、今日も一日がんばらないとね~♪」
さも自分は数に入ってませんと言うかのような、気が抜けるほどに薄っぺらい応援の声。テメーもやること山積みだからな、と告げれば、ドイヒー! と悲鳴が返る。
(コイツひとり居るだけで賑やかだわ)
なんだか愉快になってきた。内側から込み上げるままに笑えば、俺につられてゲンも笑い出す。向こうの方から、コハクとスイカがやって来るのが見える。気付いたゲンが手を振っている。空を見上げれば雲も少ない青空である。
――ああ、今日も一日が始まった。
その後、ゲンは何をどう言ったのか知らないが、本当に上手いことクロムを言いくるめ、三人での倉庫寝泊まりが始まった。
「やっぱ狭えよなぁ、三人だと」
「まあね~。でも俺はちょっと修学旅行っぽくて楽しいかも♪」
「シュウガクリョコウ? ってなんだ?」
「俺たちの時代、学校で……メンゴ、クロムちゃん、まずは学校についての説明からよね」
「前に千空から聞いたことあるぜ、同じ年頃のやつ集めて色んな事教わるんだよな?」
「そうそう~♪ そこでね、……」
俺とクロム二人だけの時はクロムの科学に関する疑問へ俺が解答するような会話が多かったのだが、コイツが混じると雑談が増える。そして科学以外の、どちらかと言えば文化と呼ぶような類いの話題も上るようになる。話の引き出し方が上手いのか、途切れることなく話題は移り変わっていく。
クロムとゲンの会話に俺が混ざる、あるいは俺とゲンの会話にクロムが疑問を投げる。俺とクロムの質疑応答にゲンがリアクションや合いの手を入れる。年齢も住む世界も違うというのに、まるで同級生同士の戯れにも似た束の間のひととき。
全員が揃って就寝するわけではない。作業の都合で俺が明け方近くまで戻らないこともあれば、クロムが何か閃いて作業を始めたり材料求めて出かけていたり、ゲンもカセキに巻き込まれたり村の爺さん婆さんの面倒見に駆り出されたりだってある。ただ時折、似たような時間に寝床に居るときには昼間の延長のように騒ぐことがある、というだけだ。案外、クロムもゲンもこの時間を楽しんでいるようだ。
不思議なことに、ゲンがこちらに来てから俺の寝付きの悪さは徐々に解消された。狭い倉庫の中、ぎゅうぎゅうに寝転がって眠るだなんて余計に不眠になりそうなものだというのに、隣で丸くなって寝ている体温や寝息、身動ぎで引っ張られる毛布、そういったものは一切俺の睡眠を邪魔しなかった。むしろ好影響と言えよう。かといって、居なければ依然寝つきが悪いまま、ということもない。居ないなら居ないで寝床は広々と使えるから気楽に眠れる。
一体この気持ちの変わり様は何なのかと内心首を傾げてはいたのだが、最近ようやく自分の中で答えらしきものが見えてきた。
まず、ゲンは俺と同じ……いや、それ以上に立場が微妙なヨソ者だ。俺たちは石神村というコミュニティの中の異質同士である。そしてあの男は、司と俺を天秤にかけて俺と科学を選んだのだ。利害関係の一致で俺についているということは、メリットを示し続ければゲンは俺に対して協力を続ける。
……つまるところ俺は、コミュニティに属していないから他に寄る辺もなく、あやふやな理由ではなく利害関係という分かりやすい理由があるから現時点では裏切る事がない人物が傍に居る、ということを認識して安心してしまったのだろう。あの男は『夜が静かすぎる』と表現をしていた、言葉通りの意味も含んでいるだろうが、あれはオブラートだったのだ。中に包まれているものにはきっと『さみしい』という単語が書かれていた。
(ゲンの奴も思うんだろうか)
いや、あいつのことだ。俺と違ってそういうもんも上手いこと飼い慣らしているんだろう。
……ああ、でも。
『夜は暗いし怖いんだって、ここで目覚めて思い知ったよ』
その気持ちは、俺ならば晴らしてやれる。電球作りもカセキが手慣れてきたおかげで作成ペースが上がってきた。
「……間に合うな」
だったら電球の点灯テストは、あの日しかない。12月25日。村の奴らに、あいつに、科学の灯を渡すならばこの日が一番相応しい。リアクションのいい奴らばかりだから、今から少し楽しみだ。