遠き日「阿離を頼んだわよ」
金夫人は息子にそう言うと、虞夫人と連れ立って行ってしまった。
後には、金子軒と江厭離が残された。
「……」
「……」
金子軒はこの時間が苦手だ。
許婚の江厭離は、時々母親である、虞夫人に連れられて、ここ金鱗台へやって来る。
子供同士、一緒にいれば放っておいても親しくなると思っているのか、それとも子供を理由に自分たちが話したいだけなのか。母親たちがいなくなると、ふたりの間に会話はなくなってしまう。
行く当てもなく、ふたりで屋敷の中を散歩する。
毎回この流れで、あとは庭からまわるか、池からはじめるかの違いだけだった。
もう紹介することもなく、無言でただ歩き回って時間をつぶすだけだった。
その時、犬の鳴き声がした。
金子軒は、その犬に見覚えがあった。誰かは思い出せないが、金氏の者が飼っている霊犬だろう。どこからか脱走してきたらしい。
普段なら、管理がなっていないと顔をしかめるところだが、この時ばかりは「助かった」と思った。
金家では、霊犬を厳しく
躾ており、人を傷付けることはないからだ。
犬は江厭離に怖がる様子が無いのを感じ取ると、近寄って行った。
江厭離はかがんで犬を撫でながら、なにか話しかけているようだ。
金子軒は、江厭離に声を掛けた。
「犬が、好きなのか?」
「ええ」
「俺も飼っている」
「そうなんですね」
犬は毛を江厭離に擦り付け、彼女はこそばゆいそうに微笑んでいる。
金子軒はまぶしいものでも見たように、目をそらした。
「やろうか?」
「?」
「犬」
「金公子、お気持ちは嬉しいのですが、弟は犬が苦手で……」
江厭離は少し戸惑ったような顔をした。
「江公子が? 確か、彼は犬が好きだと聞いたが」
「いえ、
阿……最近、うちで預かることになった門弟に苦手な者がおりまして」
彼女は、師弟の顔を思い浮かべた。出会ってからまだ日は浅いものの、すでに実の弟のように思っている。
きっと今頃は、江澄と一緒にどこかでいたずらをしているか、もしくは誰かに見つかって叱られているところだろう。そんな想像をして、つい笑みがこぼれてしまう。
その笑顔は、まるで昨日まで蕾だった花が、今日になって開いたようだった。
金子軒の中に、さまざまな感情が去来する。
まず感じたのは、純粋な驚きだった。普段は大人しくて目立たない彼女の、新たな一面にだ。
その次に、胸に焦りにも似た感覚がわく。切ないのに、もっと味わっていたいような不思議な感覚だ。
それが何なのか、彼はまだ知らない。
しだいに、彼の中では、彼女にそんな顔をさせる、名も知らぬ門弟とやらが気に食わないという感情の方が強くなってきた。
金子軒は、ふんっと鼻を鳴らすと、「今度、蓮花塢に行ったら、そいつの顔を拝んでやる」と、拳を握りしめていた。