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    潮騒遠い先祖である極東の島国の忍者を伴って、雷鳴を従えた雷神が、コールの元に現れた日から一週間前のことだった。

    雷神は、この男を頼んだ、と一方的にコールへ告げ、一人で姿を消した。残された忍者は、ぽつんと佇んでいた。彼のどこか途方に暮れたような様子を見て、コールはごく自然に手を差し伸べていた。あの気まぐれな雷神に言われたからではなく、コール自らの意志で、彼のために何かしたいと思ったのだ。差し出された手に気付いた彼は、顔を上げ、恒星のような色合いの目がコールを捉えた。その目に、あの戦いの日のような激しい色はなく、凪いだ湖のように穏やかだった。だが、コールにはどこか寂し気に見えた。
    「またあなたに会えて、嬉しいです。」
    コールは笑顔を作り、ゆっくりと言った。彼はじっとコールを見つめていた。あの戦いの時は、ほとんど英語ではない言語を喋っていた。もしかしたら英語が分からないのかもしれない。あなたを歓迎している、という意志を示せるよう、コールは自分が考え得るかぎり友好的な態度と表情を作った。やがて、彼は被っていたフードを下ろし、顔の下半分を覆っていたマスクを外し、口を開いた。
    「ライデンの気まぐれに、無理に付き合うことはない。」
    自分の世話は自分でできる、とゆっくりとした英語で、彼は言った。やんわりと、それでいて明確な拒絶だった。確かに、ライデンの突然の依頼(というか命令だろうか)に驚きはしたが、無理に付き合わされているという感覚はない。コールの胸を占めているのは、この人を一人にさせたくない、という想いだけだ。
    彼の静謐な目がコールを見つめていた。この目には、駆け引きや小細工など通用しないだろう。だから、コールは正直に言った。
    「あなたを一人にしたくない。ライデン様のせいじゃなくて、俺がそう思うんだ。」
    彼の目が、わずかに波立った気がした。コールは言葉を続ける。
    「これは俺のわがままだから、あなたが付き合う必要はないよ。でも、俺はあなたがどこかで一人でいるのかと思うと、それはイヤなんだ。」
    最強の忍者と言われた人物を相手に、守りたいなどというのは烏滸がましいだろう。それでも、遠く血のつながった彼は、アリソンとエミリーを守るために共に戦ってくれた彼は、コールにとってはもう既に家族のようなもので、家族ならば、守りたいと思うのが、コールという人間のあり方だった。
    彼はゆっくりと瞬きをして、目の前に差し出されているコールの手を見た。彼の口がわずかに動いたが、紡がれた言葉はコールにはわからなかった。首を傾げたコールに、彼は頭を振った。そして、決意を固めたように、ゆっくりと息を吐き出し、再びコールの目を見た。
    「では、少しだけ、世話になっても良いだろうか?」
    「――! もちろん!!」
    コールが笑顔で肯いてみせる。彼はほんの少しだけ表情を和らげ、コールに肯き返した。
    「そういえば、あなたのことはなんと呼べば?」
    「そうだな……ハンゾウで良い。」
    「わかりました、ハンゾウ。」
    呼ばれたハンゾウは、うむ、と肯いて、コールの手を取り、わずかではあるが、確かに握った。

    そうして始まったのが、遠い先祖であるハンゾウとの共同生活だった。勝手に決めてしまったので、アリソンとエミリーにはどう説明したものかと少し不安のあったコールだが、二人はハンゾウの存在をあっさりと受け入れてくれた。ハンゾウは先日ヤング家を襲った緊急事態からの救い主でもあったので、きちんとあの時のお礼をしたかったのだと妻と娘は古の忍者を温かく迎えてくれた。エミリーに至っては「ハンゾウおじいちゃん」と呼び、すぐに新しい同居人の存在に馴染んでいた。ハンゾウの方はといえば、最初の二人の歓迎っぷりには少し面食らっていたようだが、新しい生活を淡々と受け入れていた。言葉に多少の不自由はあるようだったが、ゆっくりと簡単な単語であれば話せるし通じるので、今のところの生活に支障はないようだった。

    「ねえパパ、おじいちゃん、急にどっかにいなくなったりしないよね?」
    スクールバスの停留所へ送る途中で、エミリーが不安そうに言った。コールはエミリーの問いに、ドキリとしつつも、表には出さないように首を横に振る。
    「大丈夫だよ、いなくなったりしないよ。」
    「私の考えすぎかなあ。おじいちゃん、よくどこか遠くを見ていて、目を離したら消えちゃいそうに見える時があるの。」
    エミリーの言葉に、コールは舌を巻いていた。この子は本当に人をよく見ている。コール自身も、エミリーと同じ感覚をハンゾウに対して抱いていた。コール達はハンゾウのことを家族と思って接しているが、彼がそう思ってくれているか、コールには確信が持てなかった。壁を作っているとまではいわないが、どこか踏み込まれまいとしているような感覚があった。
    「パパ、おじいちゃんと、ちゃんと話したほうがいいと思うよ。」
    多分、私達じゃなくて、パパじゃないといけないと思う、エミリーはそう言ってスクールバスに向かって駆けだして行った。コールはその背中に、気を付けて、と呼びかけつつ、彼女の言葉を反芻していた。
    「ちゃんと話す、か。」
    幸いなことに今日は予定がない。帰ったらすぐにハンゾウと話をしよう。そう決めてコールは家へ足を向けた。


    本懐を果たした。後はもう、未練などない。このまま、冥界の炎に焼かれ、燃え尽きるのだろう、そう思っていた。
    だが、何の因果か、ハンゾウは自らの血統の遠い裔の元に身を寄せていた。現世を離れて四百年余の時が過ぎ、日ノ本の国から遠く海を越えた異国の地だ。状況に対する戸惑いはあるが、環境への適応は早かった。本来、隠密の者であるハンゾウにとっては、市井に紛れ込むことなど造作もない。身に染みついた習慣というのは容易く抜けるものではないらしい。現世に生きていた頃の習慣をなぞることで、かろうじてヒトとしての存在を保っている、ハンゾウは自身に対してそんな感覚を抱いていた。

    全てを奪ったあの男への復讐だけを考え、長い年月を費やした。復讐さえ果たせば、全てが終わる、そう思い込んでいた。いや、考えないようにしていただけなのかもしれない。終わりの見えない孤独が、その先も続くなど、考えたくもなかった。あの男を殺すことは、ハンゾウ自身も終わらせることだと信じ込んでいた。
    だが、現実は未だにハンゾウの存在を留まらせている。冥界の呪縛は完全に解けたのか、冥界に戻ることもできなくなっていた。突然、現世に放り出されたハンゾウは、行き場もなく途方に暮れていた。そんな時に、ハンゾウの目の前に現れたのが、あの雷神だった。雷神とは現世で生きていた頃から交流があった。雷神は雷の門を現すと、有無を言わさずハンゾウの手をとってハサシの血脈の裔の元へ送り届けたのだった。あの雷神が考えることは今も昔もよくわからない。当惑したハンゾウに、当たり前のように手を差し伸べたのが遠い子孫であるコールだった。彼にとってはあの気まぐれな雷神の道楽に巻き込まれただけだろうに。そんなものに、付き合う必要などないのだ。それなのに、コールは朗らかな笑顔でハンゾウを迎えていた。打算のない、真っ直ぐな善意。そんなものを差し伸べられるなど、考えてもいなかった。かつてハンゾウにそれを向けてくれた者は、妻と子だけだった。遠い昔に失ってしまったものを思い出し、胸の奥が締め付けられるようだった。そして、同時に、コールが差し伸べた善意は、抗えないほど温かかった。
    「ああ、儂は、幸せ者だ――」
    口をついて出たのは、故郷の言葉だった。コールにはわからなかったのだろう。それでいい、ただの独り言だ。自分は、守ることができなかった。だから、コールから差し伸べられたものを受け取る資格はない。ハンゾウは自身を律して生きることに慣れ過ぎていた。断るべきだ。冷静な声が自らに言い聞かせていた。だが、心の奥底からは、その温かいものに身を委ねたいという叫びが響いていた。
    そして、ハンゾウは、選んだ。コールの手を取ることを。
    ほんの少しの間だけだと、自らを律する声を誤魔化して。

    茜色に染まる土手を歩む。夏の終わりを告げるような、涼やかな風が吹いていた。
    「あにさま、まって!」
    「ここにいるよ。」
    息子と娘が笑い合い、手をつないで走っていく。その後ろ姿を、ハンゾウは目を細めて見守る。満ち足りて、穏やかな時間が流れていた。
    「幸せですねぇ。」
    傍らを歩む妻がしみじみと呟いた。ハンゾウは妻を見て、笑みを零した。
    「あら、何か可笑しなことでも言いました?」
    「いいや、儂も同じことを思っていたから。」
    子らは健やかに育ち、愛しい人と共にある。自分は、幸せ者だ。
    ハンゾウは妻の手を取り、そっと握る。生きる力に満ちた力強い手は、とても温かった。
    「ちちうえとははうえがなかよししてる!」
    「僕らも混ぜてもらおうな。」
    「うん!」
    駆けてきた子らがハンゾウの手を取った。小さくとも、活力に満ちた手だ。二人の手を、しっかりと握り返す。
    「さあ、家に帰ろう。」
    はあい、と子らは元気に応じた。ハンゾウは妻と共に笑い合う。そして、ゆっくりと歩き出した。
    見上げた夕空は、泣きたくなるほどに温かくて、寒気がするほどに恐ろしい美しさだった。ハンゾウは、目を閉じた。
    ――ああ、これは、夢だ。
    気付いた瞬間に、手の中から温かな感触は消えていた。かつてあった平穏、有り得たかもしれない幸福、それらは、遥か昔に全て失われている。叫びたくなるような痛みを噛み締めて、ハンゾウはゆっくりと目を開く。見慣れない天井に、自分のいる場所が一瞬わからなくなった。瞬きを繰り返し、思い出した。ここは、遠い子孫の家の一室だ。
    ハンゾウは体を起こして、深く息を吐いた。ふと、頬の冷たさに気付き、指先で顔を拭う。そこには、透明な雫のあとがあった。
    「……涙、か。」
    ハンゾウはぽつりと呟いた。失った時ですら、涙は出なかったのに。何故、今更。いや、わかっている。あの夢のせいだ。遠い昔の、激しい痛みを伴う幸せの残滓。ハンゾウは乱暴に顔を拭い、頭を振る。駄目だ、見るな。目を逸らせ。ハンゾウは自身に言い聞かせ、立ち上がって部屋を出た。
    夜明け前、といった刻限だろう。家の者はまだ誰も起きていない。ハンゾウは小さく安堵の息を漏らした。今は、この家の者達に顔を合わせたくなかった。少し体を動かそう、そうすれば、少なくとも表面上は取り繕える。ハンゾウは洗面所で顔を洗い、軽く身支度を整えると、空が白み始めた街へ駆け出した。
    遠い異国の地であろうと、夜明け前の静謐な空気は四百年と変わらない。ハンゾウは誰もいない通りを走りつつ、思考を巡らせる。
    四百年、あんな痛みを味わったことはあっただろうか。大切な者を失ったという事実はずっと変わりはしないのに。今になって、こんなにも喪失感に苛まれるなんて。ハンゾウはわずかに顔を顰め、頭を振る。考えまいと思っているのに、夢の名残が離れない。
    本当は、わかっている。あの日からずっと、復讐だけを考えていたことを。奪った者を、殺すことだけを考えていた。そうやって、痛みから目を背けて、忘れたふりをしていただけだ。失った大切な人達を悼むことすらせずに。遠い地平に目を向ける。夜の群青は西に去りつつあった。ハンゾウは足を止めることなく走り続ける。
    友も、部下も、大勢失ってきた。自分は、ちゃんと悼めていたのだろうか。あの頃は、覚悟があった。皆、いつ死んでもおかしくない。互いにそう思って生きていた。だから、受け入れていた。いや、諦めていただけかもしれない。戦って、戦って、忘れていただけだ。
    結局、自分はひとでなしなのだ。人の世に紛れて、人の真似事をしてきたが、性根は戦場を駆け抜けた頃と変わっていない。人殺ししか使い道がないモノだ。
    対して、遠い子孫であるコール達は、善良だ。打算なく他人に手を差し伸べられる、温もりを持った人間だ。そんな彼等の傍に、自分のようなモノがいていいのだろうか。コール達の元に身を寄せて、毎日のように考えることだった。
    離れるべきだ、彼等のためにも。いつも、この結論にいきつく。だが、それでも――
    堂々巡りする思考を振り払うように、ハンゾウは足を運ぶ速度をあげた。
    無心で走り続けるうちに、いつの間にか、コール達の家の前へ戻ってきていた。空はすっかり明るくなっているが、森に近いこの家はまだ少し薄暗い。玄関の窓から、明かりが灯っているのが見えた。誰かしら起きたのだろう。ハンゾウはそれを外から眺めていた。
    不意に扉が開いた。大きな欠伸をしながら、動きやすそうな服装をしたコールが出てきた。コールは外に立つハンゾウに気付くと、笑顔を見せた。
    「おかえりなさい。」
    屈託のない眩しい笑顔だった。真っ直ぐで温かい眼差し。ハンゾウはそれを見つめ、今日こそは言わなければ、と決めていた言葉をのみこんだ。そして、表情を和らげコールに歩み寄り、ただいま、と言葉を返した。

    誰もいなくなった家の中で、ハンゾウは深い嘆息を零した。コールはエミリーを送っていき、アリソンは早々に仕事へと出かけていた。朝のヤング家の団欒を何とかやり過ごし、ハンゾウは既に疲れ切っていた。
    自らを律して表面だけで取り繕う術は十分に心得ている。コール達の賑やかで平和な時間を乱さないように、傍らで見守る。それだけのことだ。かつての自分ならばなんてことはなかったのだろう。だが、今は、どうしても自分が失ったものを重ねてしまう。
    コール達の仲睦まじい姿を見て、ハンゾウは妻子との幸せで穏やかだった時間を思い出し、幸せと温かさと心地良さを感じていた。それと同時に、激しい痛みもあった。自分にはもうないもの、守れなかったもの、喪失感、罪悪感、そういったものが否応なしに想起される。そして思う、自分が、この幸せに浸っていいはずがない、この温かな場所から去らなければいけない、と。一言別れを告げて、出ていけば良いだけだ。だが、その一言を言い出せない。コール達が健やかに幸せであることは喜ばしい。心の底からそう思う。しかし、それを間近で見ることは、ハンゾウにとっては痛みを伴うものだ。辛くて、苦しい。それなのに、コール達から離れることも、同じくらいに辛くて、苦しい。そんな乱れた思考がハンゾウの心を削り、彼の自らを律する手を鈍らせていた。
    ハンゾウは座椅子に身を預け、両手で目元を覆い、目を閉じた。前回は辛うじて魔界の侵略を退け、コール達を守り抜くことができたが、次も上手くいくとは限らない。また巻き込んでしまったら、今度は守り切れなかったら、そんな不安が頭を過る。
    「……なんてザマだ、スコーピオン。」
    ハンゾウは自嘲的に呟いた。冥界での四百年の間に、こんな弱気になったことはなかった。かつての幸せの名残が与える痛みを覚えることもなかった。今まで感じずに済んでいたのは、奴への復讐心があったからだろうか、皮肉なものだ。復讐は既に果たされた。自らを奮い立たせる支えは、もうない。甘く温かな痛みに耐えて、新たな喪失を生まないことを願い、いつ果てるとも知れないこの生を続けるしかないのだ。
    コール達との生活は、穏やかで、幸せだった。自身の抱える喪失感と痛みを忘れて過ごせる日もあった。だが、この生活も長く続けば、いつか新たな痛みに変わるのだろう。古傷を誤魔化すために、新しい傷を作る。馬鹿げた話だ。こんなことは止めるべきだ。痛みは、いつか忘れられる。今が耐え難くとも、傷があったことすら思い出さなくなる日は必ず来る。
    その日まで、一人で耐え抜く。この善良な家族に、甘えていてはいけない。
    今日こそ、別れを告げよう。
    ハンゾウは目元を覆っていた手を下ろして、目を開き、座椅子に預けていた体を起こした。コールはすぐ戻る、と言っていたことを思い出す。彼が帰ってきたら、話をしよう。そう決めて、ハンゾウは姿勢を正した。

    コールは足早に家へ向かっていた。エミリーに、ハンゾウと話すべきと別れ際に言われたのが引っかかっていたからだ。ハンゾウとコール達が共に暮らしはじめて一週間が経つ。自分達との生活にハンゾウも馴染んでいるように見えるが、どこか見えない線がある気がしていた。敵意や警戒心ではない。彼がコール達に向ける眼差しは、いつも穏やかで、慈しみ深いものだ。だが、彼から歩み寄ってくることはない。少し遠くからコール達を見守ってくれているが、容易には触れられない位置に立っている。
    遠く血がつながっているとはいえ、共に暮らして、たった一週間だ。そんな簡単に家族らしい距離感を作れるわけもないだろう。コールもそう納得しようとは思っていた。だが、ハンゾウが時折見せる目が、引っかかっていた。彼は、いつも穏やかな表情を浮かべて、コール達を見守っている。その表情が変わることはほとんどない。彼自身は、人生の大半で感情を抑えてきたせいで、表情が薄いのは癖のようなものだと言っていた。その言葉通り、コールは彼が笑う顔をまだ見たことはなかった。表情や感情を抑えることに長けている彼でも、時折、ほんの一瞬、あの恒星のような色合いの瞳が揺らぐことがあった。その時の彼は、痛みに耐えているような目をしていた。そして、どこか遠くを見ているようだった。今にも消えそうな儚さで。コールですら気付くのだから、エミリーが心配するのも無理のないことだろう。彼女の言う通り、ハンゾウと話をするべきだ。
    しかし、コールには躊躇いもあった。自分はたった数日を共に過ごしただけの、遠い子孫でしかない。彼が自分達と距離を作っているのは知っている。きっと、踏み込まれたくないからだ。ハンゾウは、聡明な人だ。コール達が困っていることがあると、少しの会話で問題の根源を見いだし、解決のための助言をしてくれる。そんな彼が、上手く対処できないような状態になっている。それは、多分、彼が大きな傷を抱えているせいだ。そして、その傷の源は、遥か昔に彼の身に起きたことなのだろう。ハンゾウの身に起こったことは、ライデンから大まかに聞いた程度のことしか、コールは知らない。ただ、その事情が、ハンゾウの足を止めているであろうことは予想がついた。
    四百年、苛み続ける傷や痛みなど、コールには想像もつかない。そんなものに、他人が踏み込んでいいはずがない。ハンゾウと話をするべきだとは十分に承知している。それでも、まだ躊躇いがあった。ハンゾウの瞳が痛みに翳る瞬間を思い出す。たとえ、ハンゾウが思っていなかったとしても、コールにとって彼はもう家族だ。彼にあんな目をさせたくない。一人にさせたくない。
    気付けば、自宅の扉の前に立っていた。中ではハンゾウが一人で待っているはずだ。コールは決意を固め、家の扉を開けた。

    コールはハンゾウと共に近所の公園を目指していた。エミリーを送って、帰宅したコールは、リビングのソファーにちんまりと収まったハンゾウに迎えられた。そして、帰り道で決心した通り、ハンゾウに話をしたいことがある、とすぐに声をかけた。すると、ハンゾウも、コールに自分も話すことがある、と応じた。ただ、なんとなく家では話しにくい感じがしたため、コールはハンゾウを外出に誘った。ハンゾウはそれにも素直に応じ、外出することはすぐに決まった。しかし、車は先日の騒動で壊れたままなので、とりあえず歩いて行ける範囲で、落ち着ける場所、ということで、コールはよくトレーニングで走りに行く近所の公園を選んだのだった。
    コールの傍らを歩く目深に被ったフードで覆われたハンゾウの頭は全くぶれることがない。警戒している様子を感じさせないのに、まったく隙のない隅々まで神経の行き届いた振る舞いが、彼の技量を物語っていた。コールの視線を感じたのか、ハンゾウはわずかに頭をコールの方へ向けた。フードに隠れているため、その目線は見えない。コールは不意に浮かんだ疑問を口に出した。
    「フード、好きなんですか?」
    ハンゾウが昼間に外を出歩くときはだいたいコールの古着のフード付きパーカーを着て、フードは目深に被っている。コールが着ていてもゆったりとしたサイズのパーカーなので、小柄なハンゾウが着ると、かなり袖や丈が余っていた。体の線が隠れるせいか、この姿のハンゾウは普段よりも小柄で華奢に見える。ハンゾウはフードの端を少し上げて、コールに横目を向けた。
    「どうだろうな、少し陽射しが目に堪えるので被っていただけなのだが。」
    そう言って、ハンゾウはフードを戻した。彼の明るい色合いの瞳には夏の陽射しは辛いのかもしれない。コールは、ハンゾウに陽射し対策の品を何か贈ろうと考えつつ歩みを進める。そういえば、好きか、という質問ははぐらかされてしまったな、とコールは気付く。今の質問もそうだし、ここ数日、エミリーやアリソンも、ハンゾウに色々な好みを聞いても、彼がはっきりと答えたことはなかったような気がする。やはり、遠慮しているのだろうか。
    「ハンゾウ、俺達に何か遠慮してます?」
    コールの問いに、ハンゾウの頭が揺れた。話をしたい、とコールはハンゾウを外出に誘った。彼も、それに応じたのだから、対話をする気はあるのだろう、と判断し、コールは今までのみこんでいた疑問を口に出した。
    「何故そう思う?」
    ハンゾウは問いを返してきた。コールはどう答えたものか、と考えつつ言葉を選ぶ。
    「あなたと生活するようになって、一週間が経つけれど、好き嫌いの一つも聞かせてもらってないなと思って。」
    それが少し、寂しい、とコールは続けた。ハンゾウは、そうか、と肯いて黙り込む。数歩足を進めたところで、ハンゾウが口を開く。
    「遠慮は、ある。お主等が温かく迎えてくれているとはいえ、今の儂は異形の者だ。本来は現世の者に近付くべきではないだろう。」
    その口調はおそろしく平坦で、感情を全く帯びていなかった。ハンゾウが言う通り、彼は冥界から舞い戻った存在だ。冥界がどういう場所なのか、コールには想像もつかないが、ハンゾウが操る彼の地の炎の苛烈さを思えば、生身の人間が触れてはいけないものなのかもしれない。だが、ハンゾウは、本来は人間だ。四百年以上前に生まれた者であろうと、今こうして人の姿で、現世にいるのならば、人と触れ合ってもいいはずだ。少なくとも、コールはそう思う。だけど、ハンゾウ自身は淡々と自らを人外と断じている。それがコールには哀しかった。
    「それから、好き嫌いは、儂自身もよくわからんのだ。」
    続いた言葉には、少し戸惑いの色が含まれていた。
    「どういうことです?」
    コールが続きを促すと、ハンゾウは少し考えるような素振りを見せた。
    「冥界で過ごした時が長すぎたせいで思い出せぬだけなのかと、此岸に舞い戻ったばかりの頃は思っていたのだが、どうも違うらしい。」
    冷静に分析する声が響く。ハンゾウが小さく息を吐き、更に言葉を重ねる。
    「好きも嫌いも、元々なかったのであろうな。」
    儂は、ひとでなしだから。
    ハンゾウは、彼の母国語ではっきりと告げた。言葉の意味はコールにはわからない、ただ、なんとなく、先ほど彼が口にした『異形の者』と近しい意味合いを感じた。そして、彼自身をコール達から遠ざけようとしているように思えた。
    「コールよ、儂は、ヒトの真似事しかできぬ。だから、自分の好きなものや嫌いなものすらよくわからんのだ。もしかしたら、そんなものはないのかもしれない。」
    自嘲するように、ハンゾウが言う。
    「あなたは、ヒトだよ、ハンゾウ。」
    たとえ異形の姿であったとしても、自分達に慈しみ深い眼差しを向けるハンゾウが、ヒトでないわけがない。他の誰が何と言おうと、ハンゾウ自身が否定しようと、コールにとって、彼はヒトで、家族だった。ハンゾウは、無言で頭を振る。後に言葉が続くことはなかった。コールもどんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。
    お互いに無言のまま足を進めていると、目指していた公園に辿り着いた。二人はそのまま歩き続け、公園内の池の傍にあるベンチに腰を下ろした。近くをジョギングする人達が走り抜けていく。それを見送ってしばらくした頃、ハンゾウが口を開いた。
    「コール、儂は、ここを去ろうと思う。」

    思っていた通りだった。この孤独な先祖は、自分達の元から去ろうとしている。
    ハンゾウは被っていたフードを外し、素顔を晒していた。数日の付き合いだが、彼が自らの感情を覆い隠すことに長けていることを、コールは学んでいた。それでも、隠し切れないものもある。コールは、ハンゾウの横顔を見つめる。そこには、ごくわずかではあるが、迷いの色が浮かんでいた。まだ、間に合う。何でもいい、言葉を紡げ。繋ぎ留めろ。コールは必死で考える。
    「あなたが、話したいと言っていたことは、それですか。」
    「……ああ。」
    ハンゾウは静かに肯く。
    「エミリーが今朝言ってた。あなたが、どこかへ行ってしまいそうだと。」
    「聡い子だ。」
    ハンゾウが呟く。痛みを堪えるような顔をして。そんな顔をされたら、何も言えなくなってしまう。だけど、ここで黙っていたら、この人は一人でどこか遠くへ行ってしまう。コールは自分が何と言ってハンゾウをここへ誘ったのかを思い出す。話をしたい、確かにそう言った。ならば、彼も、コールが言いたいことがあると承知しているはずだ。だったら、遠慮なんてしている場合ではない。踏み込むしかない。
    「――どうして。」
    俺達は、あなたが去らなければならないと思うようなことをしてしまったんだろうか。コールの呟きに、ハンゾウは顔を上げた。そして、コールに真っ直ぐな目を向け、首を横に振る。
    「お主等に落ち度など何もない。こんな厄介者も温かく迎えてくれたではないか。感謝している。」
    「でも、去るというのなら、何か不満があったんだろう。」
    「そんなもの、あるわけない。あんな、穏やかで温かくて幸せな時間など、現世に暮らした頃以来――」
    そこでハンゾウは、言葉を止めた。言うべきではないことまで、言ってしまったという顔で。コールは確かに聞いた。ハンゾウが自分達と過ごした時を、穏やかで温かくて幸せだ、と言ったことを。共にいることの喜びを、コール達だけでなく、ハンゾウも感じていてくれた。それが、コールには嬉しかった。だが、同時に疑問が湧き起る。ならば、何故手放そうとする。いや、きっと、手放したくないはずだ。彼が、あの重い口を、思わず滑らせる程だ。だから、彼の表情に迷いがあった。まだ、説得する余地はある。
    「ハンゾウ、俺達といて、幸せだと思うのならば、離れることなんて、ないじゃないか。あなたが望むだけ、一緒にいていいんだ。」
    「それは、ならん。ならんのだ。」
    「どうして。」
    コールの問いかけに、ハンゾウは黙り込んで首を横に振る。何か言わなければ、と思っているのだろう。でも、言葉が出てこない、コールは、そう感じた。ハンゾウは、言うべき言葉を探している。多分、それを聞いたら、説得の手を緩めてしまう。彼の去ろうとする意志を、止められなくなってしまう。そんな予感がした。だからコールは、最初に自分が話そうと思っていたことを話すことに決めた。
    「ハンゾウ、少しだけ、俺の話を聞いてくれるかな。」
    コールが声をかけると、ハンゾウは少し首を傾げた。きっと、返答を促されると思っていたのだろう。もう一度、俺の話をしたい、と言うと、ハンゾウはこくりと肯いた。
    「俺、両親がどんな人だったのかを知らないんだ、名前すらも。」
    コールは物心ついたころには施設にいた。里親もなく、独り立ちするまでずっと施設暮らしだった。幸運なことに、不当に扱われることもない、まともな、むしろ割と良い方の施設だったけれど、寂しいと思うことはあったのだろう。だから、自分の家族を持ったら、目いっぱい大切にしたいと、ずっと決めていた。
    コールは自らの身の上を語る。ハンゾウはそれを黙って聞いていた。
    「アリソンもエミリーもとても大事だと思うから、守ると誓ったんだ。二人にじゃなくて、自分自身にだけれど。あと、二人にはできれば幸せであってほしいとも思うけれど、そこまでやれている自信は、ちょっとないかな。」
    照れくさくなって笑ったコールに、ハンゾウが柔らかな表情を見せた。
    「お主等家族は、皆幸せだろうよ。お互いに大切に思っていることが儂にも十分に伝わってくる。お主は、誓いを守っている、しっかりやっているよ。」
    ハンゾウの言葉に、コールは驚き、そして笑う。
    「あなたにそう言ってもらえると、すごく嬉しくて、心強いな。」
    ありがとう、と礼を言ったコールにハンゾウが首を傾けた。
    「俺は、親の顔も知らずに育ったから、あなたが来てくれて、父親ってこんな感じかなって思えて、嬉しかったんだ。だから、あなたに褒められると、すごく誇らしい気持ちになる。」
    「そう、か。」
    ハンゾウの目に、一瞬暗い色が過ったのを、コールは見逃さなかった。これが、彼の傷の一端だ。彼を傷つけたくはない。だが、踏み込まなくては。
    「ハンゾウ、俺は、あなたのことも家族だと思っている。」
    コールの言葉に、ハンゾウがわずかに目を細めた。コールは言葉を連ねる。
    「迷惑かもしれないけれど、でも、俺はそう思ってるんだ。もちろん、エミリーやアリソンも。」
    ハンゾウは瞬きを繰り返し、頭を振る。
    「迷惑なものか。その気持ちは、とても嬉しい。だが――」
    彼は言葉に詰まった。その顔は、苦痛に歪んでいた。
    「儂は、妻も子も、守れなかった。守ると、誓ったのに。守りたかったのに。」
    だから、その気持ちを受け取る資格など、ない。ハンゾウが、血を吐くように告げた。ライデンに聞かされた、彼の身に起こったことを思い出す。これが、彼の傷だ。コールははっきりと理解した。彼は今でも、守れなかったことを悔いていて、自分を責めている。復讐を果たしたとはいえ、その傷は、今も癒えていないのだ。だから、共にいられないと思っているのかもしれない。
    「あなたが失った者、守れなかった者は、いたんだろう。それは、過去に起こってしまった事実で、覆せない。」
    コールの言葉を、ハンゾウは黙って聞いている。そんなこと、言われなくてもわかっている、向けられた鋭い視線が、雄弁に語っていた。でも、とコールは言葉を続ける。
    「守れた者も、いたんだろう。だから、俺がここにいられる。あなたが守り抜いたものは、確かにあったんだ。」
    ハンゾウの目が、見開かれた。彼自身が成し遂げたことを、思い出してほしい。そう願いながら、コールは更に言葉を紡ぐ。
    「それに、あのサブゼロとの戦い。あれは、俺だけじゃ守れなかった。あなたがいなければ、エミリーも、アリソンも、俺も、みんな死んでた。あなたが、俺達を守ったんだ。守り抜いたんだ。」
    「そう、だな。」
    ハンゾウが絞り出すような声で呟く。
    「血に塗れた手でも、守れた命はあったのか。……気付かなかった。」
    少しだけ、穏やかさを帯びた表情を浮かべて、ハンゾウは自らの手を見下ろしていた。こんな若輩者の言葉でも、少しは届いたのだ。コールはほんのわずかではあるが、安堵した。だが、ハンゾウの顔の翳りはまだ残っている。むしろ、決意を深くしたようにも見えた。
    「コール、ありがとう。」
    でも、だからこそ、自分は去るべきだ。礼とともに、ハンゾウが言った。
    「確かに、守れた者はあったろう。だが、失った者、守れなかった者には何も報いていない。」
    コールが問うまでもなく、ハンゾウは言葉を重ねる。
    「のうのうと、幸せと平穏を享受することなど、許されぬ。」
    ハンゾウがはっきりと告げた。コールは頭を振る。まだだ、まだ言葉が足りない。届いていない。まだコールが見つけられていない傷が、彼にはあるのだ。だから、ハンゾウは幸せや平穏といった、温かいものを拒もうとする。どういたらいい。何を言えば、ハンゾウも幸せになっていいのだとわかってもらえる。コールは必死で考える。そして、一つだけ思いついた。きっと彼を傷つけることになる言葉だ。だが、それでも、たとえ彼を深く傷つけることになろうとも、言わなくてはいけない。そうしないと、この人はどこか遠くへ行ってしまう。
    こんなことを言うのは卑怯だと思う。でも、ハンゾウの幸せを願う人がいたことを思い出してほしい。罰だけを求めないでほしい。そして、自分やアリソンやエミリーもその一人なのだと知ってほしい。
    彼に、届くだろうか。届いてほしい。コールは、祈るように言葉を連ねた。
    「あなたの大切な人達は、それを望みますか。あなたが、不幸でいることを。」

    コールの言葉に、ハンゾウは目を見開いた。コールはゆっくりと言葉を続ける。
    「俺は、あなたの失ってきたものを知らない。だから、想像で言うしかないんだけど。もし、俺がエミリーやアリソンを守って死んだとしたら、二人には、俺がいなくても幸せでいてほしいと願うだろうから。」
    「――そうだな。」
    もし、自分が死んでいたとしても、そう願っただろう。ハルミも、ジュウベイも、不幸でいる自分を望みはしないことも、わかっている。わかっているのだ。
    「わかっている。妻も子も、責めたりはしないだろう。」
    こんなザマの自分を見たら、妻も子も、きっと悲しむし、怒る。そして、幸せになってもいいのだと、背を押してくれるのだろう。この優しく善良な裔のように。だが、二人の、凍えた顔が頭から離れない。誰よりも大切な者達をあんな目に遭わせてしまった自分が許せない。あんな死に方をさせたくなかった。
    コールは、守れたものもあると言ってくれた。彼は、懸命にハンゾウも幸せになっていいのだと伝えてくれている。その気遣いは、嬉しい。それと同時に、苦しい。彼が自分を引き留めようとしてくれていることは、痛いほどに伝わってくる。
    「生者の不幸を望む死人は、怨霊だ。妻も子も、大切だった者達も、そんなものに成り果てさせるつもりはない。」
    「だったら――」
    「それでも、儂は去らねばならん。」
    ハンゾウは、重々しく告げた。自身の、ヒトであろうとしている部分は、自責を抱き、罰を受けるべきだと考えている。だが、ハンゾウは自らがひとでなしであることを知っている。死者に報いることに、意味などない。死人は死人だ。ヒトであろうとしている自分の抱く罪悪感にも、意味などないのだ。意味がないことは知っているが、苦しみや痛みがないわけでもない。コールがかけてくれた言葉が、幾分かその苦しみや痛みを和らげてくれたのだとは思う。
    ただ、これ以上、温かく幸せなものに、耐えられそうにない。今だって、逃げ出してしまいたいくらいだ。耐えられないのに、逃げたいのに、離れられない。柔らかく、温かな痛みから、いつか激痛に変わる幸せから、逃れられない。去らねばならないと言いながら、未だに自分はコールの隣に座ったままだ。なんと浅ましいことか。いっそ拒絶してくれたら、簡単に立ち去ることができるのに。
    ハンゾウはゆっくりと口を開く。
    「コール、儂はひとでなしだ。」
    人殺ししか使い道がない。ハンゾウは自らが成してきたことを語る。ライデン達は、最強の忍者などと言ってもてはやすが、そんな大層なものではない。骸を積み上げ、踏みつけてきただけだ。この善良な子孫に、優しさを向けられるような者ではない。向けられるべきは、嫌悪と恐れだ。彼の温かさは、彼の大切な者に向けられるべきだ。
    ハンゾウは口を閉じた。コールの方は見なかった。望んだこととはいえ、あの優しい瞳が、嫌悪の色を帯びるのを見たくなかった。穏やかな風で波立つ池を眺める。
    「あなたは、刀のような人だ。」
    コールの声がした。先程までと何の変わりもなく、穏やかで温かい声だった。
    「あなたが生きた時代は、それが適応した生き方だったんだろう。」
    彼の理解は、多分正しい。あの乱れた時代を生き抜くには、きっとあれが正しかった。主の刃として在ることに、疑問すら覚えなかった。
    「鋭く、強靭な刀だったとしても、斬り続けることはできない。切れ味は鈍るし、傷だってつく。手入れが、必要だろう。」
    専門家であるあなたにいうことではないかもしれないけれど、コールが小さく笑う声を零した。
    「――そうだな。」
    ハンゾウは静かに肯く。コールの言うことは正しい。四百年以上、手入れもなく振るわれ続けた刀。それがどんな有様か、考えるまでもない。
    「刀は自らを手入れできますか。自らの傷に、気付けますか。」
    コールの問いに、頭を振る。コールが、優しい声でハンゾウの名を呼ぶ。
    「そのまま一人でいたら、きっと折れてしまう。だから、俺達を頼っていいんだ。必ず、支えるから。」
    一人で、どこかへ行くなんて、言わないで。
    まったく、自らの血脈の果てとは思えないほどに、この子孫は優しすぎる。血塗られた過去と、悪辣な行いの数々をあれだけ語ったというのに、彼の声は澄み切った優しさしかない。
    「何故だ、コール。何故、そんなにも儂を引き留めようとする。」
    ハンゾウは、コールを見上げた。見たものを安心させるような穏やかな笑顔が、ハンゾウの視線を迎えた。
    「言っただろう、自分の家族は大切にするって。俺にとっては、あなたももう家族なんだ。あなたが受け止めてくれなくても、俺の中ではそう決めたから。だから、あなたを守るよ。」
    「―――お人好しめ。」
    呆れて呟くと、コールは悪戯っぽく笑った。
    「あなた相手に、守るなんて烏滸がましいだろうけど。でも俺はそうしたいから。あなたに、穏やかで幸せな暮らしを送ってほしいから。だから、あなたの手を離したくない。」
    彼の言葉は、いつも正直だ。ならば、こちらも正直に話したほうが良いのだろう。ハンゾウは、深い溜息を吐いた。
    「お主はなかなか説得が上手いな。」
    「ハンゾウ、それは――」
    コールの目に期待の色が閃く。だが、それはまだ早い。確かに、九割方は折れている。
    「コール、お主等との生活は、確かに温かで好ましいものだ。ずっと続けられたら、幸せだろうと思う。だが、今の儂には、それが痛みでもある。」
    失った幸せを思い出すことによる痛み、この幸せをいつか失ってしまうことへの恐れ。そんなものを味わうくらいなら、一人で不幸なままでいい。ハンゾウは、胸にしまい込んでいたものを吐露した。こんな話は、したくなかった。幸せを、痛みを恐れるなど、知られたくなかった。だから、去るべきだと思っていたのに、こうしてずるずると離れられずにいる自分が、浅ましくて情けなかった。
    ハンゾウの訥々とした語りを聞き終え、コールが深い溜息を吐いた。
    「幸せになることの、どこが浅ましいんだ。」
    コールが、強い口調で言い放った。ハンゾウは驚いて、瞬きをした。コールは、怒っていた。
    「あなたが不幸でいることが、誰かのためになるのか。そんなに生き残ったことが苦しくて、今も存在していることが許せないならば、ここで死にますか。できないだろう。あなたは、自分が楽になることなんて許せないんだから。」
    彼の言葉の刃は鋭かった。コールは更に言葉を連ねる。
    「不幸でいれば楽なのか。楽じゃないだろう。でも、幸せを感じても辛いんだろう。それでも自分を終わらせることができないんだ。」
    全部、見抜かれていた。ハンゾウは、返す言葉を見つけられず、黙り込んでいた。コールは一度言葉を止めた。そして、ゆっくりと息を吸って、再び口を開く。
    「だったら、諦めて生きるしかないじゃないか。傷だらけで、血まみれになっても、終わりまで生ききるしかない。腹を括るしかないんです。」
    穏やかに、諭すようにコールが言う。ハンゾウは、子孫の心からの言葉に聞き入っていた。
    「一人で戦え、なんて言いわないよ。あなたをこの世に呼び戻した責任が俺にはある。だから、あなたのそばにいるよ。何もできないかもしれないけれど、それでも、そばにいる。絶対に、あなたが幸せを素直に受け止められるようにする。だから――」
    たった一人で去るなんて、言わないでください。
    彼が何度も繰り返してきた言葉。ありったけの優しさと強靭な決意が込められた声だった。聞いた者の、迷いや恐れを拭い去るような、そんな声だった。
    ハンゾウは、ゆっくりと目を閉じ、もう一度自らの内側を確かめる。痛みは、変わらずにある。だが、逃げたいという気持ちは見当たらなかった。
    目を開き、コールを見上げる。そこには、ものすごく不安そうな顔があった。それを見て、ハンゾウは思わず笑い声を上げた。
    「あれだけのことを言って、なんだその顔は。」
    「言ってからちょっと後悔したっていうか……今、笑いました!?」
    「お主があまりにも可笑しい顔をしていたから。」
    笑い過ぎて涙が出てきた。ハンゾウは目尻を拭い、深く息を吐いた。そして、もう一度コールを見る。コールが必死で表情を引き締めようとしているのを見て、また笑いそうになったが、なんとか堪える。
    「コール、儂は、去るのは、やめた。」
    「本当に?油断させて消えたりしない?」
    「しないとも。お主を、信じるよ。」
    こんなひとでなしを、家族と呼んで、大切にする、守る、幸せにする、と言ったお人好しを、信じてみてもいいかもしれない。そう、思ったのだ。
    「ありがとう、ハンゾウ。」
    そう言って、コールが笑った。どこか、妻と子の面影を思い出す笑顔だった。ハンゾウはそれを真っ直ぐに見つめ、目を細めた。痛みは消えたわけではない。傷だって、自分が知らないだけで、きっとうんざりするくらいある。
    それでも、今、この瞬間は、ハンゾウの心は平穏に凪いでいた。

    爽やかな風が渡る。木々が揺れ、ざわざわと音を立てていた。ハンゾウは作業の手を止め、額に浮いた汗を拭った。故郷よりも過ごしやすい気候だが、動いていると少し暑い。小さく息を吐き、周囲を眺める。潰れた建物の残骸が大量に散乱していた。先日の戦いで全壊したというヤング家の納屋だ。あの戦いの後、コール達は忙しくしていたようで、片付ける時間もとれず、そのまま放置されていたようだ。そこで、暇を持て余していたハンゾウは、コールに申し出て、少しずつ片付けをすることにしたのだった。家のすぐ横には大破した自動車とやらもあるのだが、そちらはハンゾウにはよくわからないので手を付けられずにいる。
    ハンゾウは軽く体を伸ばす。雲一つなく晴れ渡った空が見えた。コール達は留守にしている。帰ってくるのはまだ先だろう。ハンゾウはもう少し続けるか、と作業を再開した。
    コールとの対話から、数日が経っていた。ため込んでいたものを吐き出したおかげか、ハンゾウは安らかな心持ちで過ごせていた。そして、心に余裕ができたのか、自分も何かコール達のためにできることをしようと考えるようになっていた。暇にしているというのは性に合わないのだ。現役で働いていた頃も、休みなく仕事を入れ続けていたことを思い出した。四百年経っても変わらない性分らしい。そうして、納屋の残骸の片付けをするようになったわけだが、全てを終えるのにはかなり時間がかかりそうだ。
    ハンゾウが運べそうな木材をかき集めていると、背後で光が閃き、同時に轟音が響いた。ある意味、慣れた現象だ。ハンゾウは気にせずに作業を続ける。ゆっくりと近付いてくる足音がした。それが止まるのを待って、ハンゾウは口を開いた。
    「何用だ、雷神殿。」
    「ただの様子見だ。」
    背後からの返答を聞き、集めた木材を抱えたまま振り返る。目を雷光の色に輝かせたライデンの姿があった。
    「わざわざ様子見とは……暇なのか。」
    「お前は変わらんな。」
    「お主が言うか。」
    気安い言葉を投げ合う。この雷神との付き合いは長い。出会ったのはハンゾウが若い頃だ。それ以来ずっと、つかず離れずの友人のような関係を続けていた。冥界に堕ちた四百年の間は接点の作りようがなかったが、ハンゾウが人間界に戻ったことで旧交を温めようとでも思っているのだろう。そもそも、ハンゾウがヤング家に身を置くことになった原因がこの雷神なわけだが。
    「随分とさっぱりした顔をするようになったな。」
    ハンゾウの顔をじろじろと見つめていたライデンが言った。ハンゾウは抱えていた木材を塵入れに押し込みつつ、苦笑を浮かべた。
    「コールのおかげだ。」
    「ふむ、やはり彼に任せて正解だったか。」
    ライデンの零した呟きに、ハンゾウは作業の手を止めた。
    「やはりお主の企てか。」
    この雷神は、昔から何の説明もなく人を騒動の只中に投げ込むことがあるのだ。そして、やっとの思いで騒動を治めた頃に再び現れ、これで良かっただろうなどと言ってしたり顔をする。ある意味、人ならざるモノらしくはあるのだが。
    「来るべきモータルコンバット本戦に備える必要があるからな。お前に本気で隠れられたら探すのに苦労する。かといって、我が寺院で世話をしても良かったのだが、大人しく収まっていてくれるわけでもなかろう。コールならば安心して任せられるし、お前も子孫を傍で見守りたいだろうと思ってな。」
    ライデンは悪びれる様子もなく、手の内を明かす。自身の事情を隠し立てする気もないところが神らしいといえば神らしいか。
    「お前がどこかに去らぬように引き留めておいてくれれば十分と思っていたのだが、メンタルのケアまでこなすとは、コールもなかなか侮れん。」
    「お主のそういう物言いを聞いていると、改めて人外だと感じるな。」
    明け透けな物言いをするライデンに、ハンゾウは呆れた目を向ける。多分まるで気にはしないのだろうが。
    「コールも、彼の家族もよくしてくれている。あまり面倒事は持ち込まないでやってくれ。」
    「もちろん、できる援助はする。」
    「干渉は禁じられているのでは。」
    「寺院の者を通せば問題あるまいよ。」
    神々のルールはよくわからないが、ライデンが問題ないというのなら問題はないのだろう。
    「当面、何か必要なものがあれば聞いておくが。」
    必要なもの、と言われ、ハンゾウは少し考え込む。ハンゾウ自身は特に思いつくものはない。コール達の生活の助けになるものがあればいいのだろうか、と考えていると、大破した自動車の残骸が目に入った。ハンゾウはそれを指し示す。
    「あれはどうにかできるのか。」
    「修理は難しいだろうが、新品ならばすぐに手配させよう。」
    ライデンが軽く応じた。コール達が買い直すにはお金が、などと頭を抱えていたのを見ていたので、ライデンの安請け合いが本気なのか今ひとつわからない。とりあえず、話半分くらいに思っておけばいいだろう。
    「他には?もっとなにかあるだろう?」
    「いや、ない。」
    ライデンの圧に若干引きつつ、ハンゾウは首を横に振った。ライデンがハンゾウの後ろの納屋の惨状に目を向けた。
    「あれもどうにかできるが?」
    「あれは儂の仕事だ。お主に頼むようなことはないからとっとと帰れ。」
    ハンゾウが苦い顔をして手を払うと、ライデンは残念そうな顔をした。
    「本当にないんだな?」
    「しつこい。」
    ぴしゃりと言い放つと、ライデンはハンゾウに背を向けた。そして、雷鳴を轟かせて門を開き、去っていった。あの雷神は結局何をしに来たんだ、ハンゾウは首を傾げつつ、作業を再開した。
    しばらく作業を続けていると、コールとエミリーが帰ってきた。アリソンはまだ仕事なのだろう。
    「おじいちゃんただいま!」
    エミリーが元気よく駆けてきた。ハンゾウは笑顔を作って二人を迎える。
    「ちょっと進んだ?かな?」
    「気遣いは無用だ。」
    コールからの作業状況に対する寸評に、ハンゾウは目をそらす。小さい木材の破片がいくらかまとめられた程度で、目に見えて進んでいる感じはないだろう。
    「いや、やってもらっているだけで十分ありがたいよ。気長に、ね。」
    「それなら良いのだが。」
    ハンゾウはほっと息を吐く。やると言った手前、コール達を落胆させるような仕事をするわけにはいかない。コールの言葉は、そういうハンゾウの心境をはかりつつのものだろう。
    「そうだおじいちゃん、喉乾いたでしょ、これお土産だよ。」
    エミリーが筒状の金属を差し出した。ハンゾウはそれを受け取り、首を傾げる。よく冷えていて、持っていると心地良い。液体が入っているような感触がある。
    「これは?」
    「缶ジュース。おいしいよ。」
    ハンゾウが首を傾げていると、エミリーは何かに気付いたように声をあげた。
    「そっか、おじいちゃんの時代ってこんなのなかったのか。」
    「う、うむ。」
    「ちょっと貸してね。」
    エミリーはハンゾウの手から缶ジュースを回収すると、天辺についた金具を指先で持ち上げ、すぐに押し戻した。
    「はい、どうぞ。」
    再び受け取ると、天辺に小さな穴が開いていた。そこから飲むんだよ、とエミリーが言う。言われるままに口に含むと、爽やかな甘みが広がった。
    「どう?」
    「うん、美味いな。」
    「でしょ、私のオススメだよ。」
    エミリーが得意げな笑顔を見せた。ハンゾウはそれを見つめ、目を細めた。
    「エミリー、美味しいものをすすめたい気持ちはわかるけれど、まずは荷物を置いて来なよ。」
    「おっといけない。」
    コールに言われ、エミリーは元気に家の中へ駆けて行った。それを見送ったコールが、ハンゾウの横に立つ。
    「去らなくて、良かったでしょう。」
    「――そうだな。」
    ハンゾウはゆっくりと肯いた。
    幸せへの後ろめたさが消えたわけではない。痛みも傷も残っている。それに一人で向き合わなくていい、と言ってくれた者が隣にいる。ただそれだけで、穏やかさも温かさも、少しだけ受け入れられるようになった気がする。
    「ライデンの企てなのが癪に障るが。」
    小さく呟いたハンゾウに、コールが首を傾げてみせた。ハンゾウは何でもない、と笑って首を横に振る。
    「そういえばハンゾウ、缶飲料の開け方も知らないで一人でどっかに行く気だったんですか。」
    「それは言わんでくれ。」
    「ふふふ、現代社会は知っておかないといけないことがたくさんあるんですよ。本当に、残ってよかったですね。」
    「まったくだ。」
    悪戯っぽく笑うコールに、ハンゾウは苦笑を返す。
    穏やかな空の下、朗らかな笑い声が響いていた。



    七宝明 Link Message Mute
    2022/06/16 20:47:29

    潮騒

    2021映画版MK二次創作。じじハンゾウアースです(本編後にハンゾウがヤング家に住む話)
    #モータルコンバット #映画モータルコンバット

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