Caution
ロンドンを襲った未曾有のテロから、一ヶ月が経った。
テロで負った傷を癒す暇もなく、ベンジャミン・アッシャー大統領は多忙の日々を送っていた。
国家の安全対策、テロの犠牲者への追悼と補償、日々の業務……
嵐のような日々の中、彼は弱音ひとつこぼさず、事件前と変わりない辣腕を振るっていた。
国民の目には、あの惨事にも挫けることのない、強い指導者として映っていた。
彼自身も、あの事件はひどい事件ではあったが、自分を揺るがすほどではないのだ、そう思い込んでいた。
多分、以前のホワイトハウス襲撃事件で、惨事に慣れていたせいでもあるのかもしれない。
だから、彼は自身が以前と変わらず、日々の業務をこなせることに、それほど疑問は抱いていなかった。
あの事件で彼を守り抜いた護衛官、マイク・バニングが、ホワイトハウスに戻ってくるまでは。
「大統領、本日より業務に戻りました。」
子供が生まれるために休暇を取っていたマイクが戻ってきた。
いつもと変わりのない、逞しく頼れる立ち姿。精悍な顔に、わずかながら柔和な色が浮かぶようになったのは、彼も父親になったからだろうか。
「おかえり、マイク。そして、またよろしく頼むよ。」
「もちろん。」
言われるまでもない、とマイクは不敵な笑みを見せた。
テロなんて起こらなかったのではないかと思えるくらいに、以前と変わりのない風景だった。
「そういえば、子供の名前はどうしたんだい? 女の子だったんだろ?」
「ベンジャミンにしましたよ。」
「嘘だろ。」
ジョギングの時に話していた冗談を思い出す。マイクは大真面目な顔で、続きを言わない。まさかと思って恐る恐る呟く。
「……マイク、まさか本当に…」
「そんなわけないでしょう。」
護衛官は意地の悪い笑みを見せた。思わず胸をなでおろす。そんな主の様子を、ひとしきり笑ってから、マイクは表情を引き締めた。
「娘の名前は、リンにしました。」
「――リン。」
無意識に、応接椅子の空席に目を向けていた。
部屋に呼んだ時に、いつも彼女が座っていた場所。
この先、その席で、理知的な笑みをたたえた彼女を見ることはないのだ。
胸の奥に、冷え切った金属を刺し込まれたような感覚。
この感覚に囚われてはいけない。
埋まることのない席から必死に目をそらし、護衛官に微笑みかける。
上手く笑えたかもわからないが、それでも凍てつくような感覚から逃れるように笑う。
「――良い名前だ。きっと、強い子になる。」
「当然です。俺達シークレットサービスのボスが名付け親なんですから。」
誇らしげにマイクが笑う。
永遠の不在を知りながら、受け止める、強い笑みだった。
なんて眩しい笑みだろう。
親しい人達の不在は、受け入れたつもりだった。
だが、彼の笑みを見て気付いてしまった。自分は受け入れてなどいない。
ただ日々の忙しさに流されて、なかったことにしていただけだ。
事件の後、多くの人員が入れ替わり、それを把握するのに手いっぱいで、犠牲になった者達のことなど、考えもしなかった。
あの事件からただ一人、共に生還したマイクの存在で、帰ってこられなかった者達がいたことを思い出してしまった。
呆然と立ち尽くす彼の姿に、マイクが訝しげな表情を浮かべる。
「――大統領?」
口には出さないが、大丈夫か、と問うような視線だった。
いくら親しいマイクだろうと、今の内面を悟らせるわけにはいかない。いや、マイクだからこそ、悟らせるわけにはいかないのだ。
何でもない、と首を振って、彼は大統領としての仮面を被った。
暗く冷え切った部屋の中、金属同士が擦り合され、甲高い不快な音が響く。
音が止み、肩に重みを感じた。
布越しに、冷たさを感じる。
肩を撫でる刃の感覚よりも、正面に置かれた、何も感じさせない機械の目の方がよほど不安を掻き立てる。
目の前で倒れた護衛達の目。
光を失っていく、窒息死した男の目。
断末魔を聞かせるためだけに死んだ男の目。
自ら手にかけた者の目。
ただ、目の前で淡々と映像を送るためだけに存在しているレンズは、光を失い、何も映さなくなった死人の目と重なった。
死人の目を見つめ返す程、自分は強くない。
こんな視線にさらされ続けるのならば、終わらせてくれた方が良い。
覚悟ができていたわけではない。ただ、あの目から逃れたかった。
肩から重みが消えた瞬間、少しだけ安堵した自分がいた。
刃が風を切る音が過り、暗転。
目を開くと、暗く、寒いロンドンのビルではなかった。
すっかり慣れ親しんだ、ホワイトハウスの寝室だった。
心臓は暴れ、指先は冷え切っていた。寝間着は不快な汗に湿っている。
胸を押さえて動悸が鎮まるのを待つ。
あの事件の夢を見たのは、初めてだった。
まだ夜明け前だが、もう一度眠ろうなどとは、とても思えない、最悪な夢だった。
体を起こし、目を閉じて頭を押さえる。瞼に浮かぶのは、夢の中の死者達の目だった。
マイクは、テロリストのせいだと断言していた。確かにそうだろう。
だが、本当にテロリストだけのせいか。
自分にもっとできたことはなかったのか。
もっと上手く動けていれば、あれだけの犠牲者はでなかったのではないか。
あの時は抑え込んだ自責の念が胸の奥に焼き付いていた。
救えなかった良き人々に、報いなければ。
この先、テロの犠牲になる人々をなくさなくては。
そのために、身を捧げるのが、生き残ってしまった自分の成すべきことだろう。
彼は目を開き、立ち上がる。
深い青の瞳は、焦燥感に揺れていた。
その日から、大統領のスケジュールは、わずかな休憩時間すらないほどにぎっちりと埋められていた。
早朝から分刻みのスケジュールをこなし、深夜まで執務室で仕事をする。
そして、書類仕事をしながら気絶するように一日を終える。
大統領の下で働く者達は、そんな彼の姿を案じていたが、取り憑かれたように仕事に取り組むことを止められる者はいなかった。
何かに駆り立てられるような、大統領の張り詰めた表情を見て、自分達が支えなければと思う者はあっても、止められる者などいなかったのだ。
そんな日々が、もう数週間も続いていた。
どさり、という音と、痛みは伴わないが、全身を襲った衝撃に目を開く。
見上げた先には、眉間にしわを寄せ、腕を組んで仁王立ちになったマイクの姿があった。護衛主任は、間違いなく怒っている。
手をついて体を起こす。寝室のベッドの上だった。
またやってしまった、と悟るのとほぼ同時に、しかめ面のマイクが口を開いた。
「――ベン、これで何度目だ?」
「……気をつけたつもりではいたんだが。」
自分が悪かったことは十分に承知しているので、ついマイクから視線をそらしてしまう。マイクは深々と溜息をつく。
「最近のあんたは過労気味だから、きちんと休息をとるようにと医者にも言われただろ。」
「――わかっている。わかってはいるんだ。」
皆が案じ、気遣ってくれているのはわかる。
だが、あの事件で死んだ者達に報いなければ、あの時自分は上手くやれなかった、だから、少しでも正しいことをしなくては。
そんな焦りが胸の奥に焼き付いていた。
正しいことをするためには、休まなくては、というのも十分にわかっている。
それでも、休んでいる場合ではないのだと、半ば強迫観念に駆られるように机に向かっていた。
そして、執務室の机でそのまま気絶するように一日を終え、次の一日が始まる。
あの事件からしばらく経って、マイクが休暇から戻ってきた頃とほぼ同時に始まっていた。
「ベン、このまま続くようなら、あんた死ぬぞ。」
マイクは苛立ちを隠そうともせず、強い口調で言った。
「そこまでひどくはないさ。」
笑って誤魔化そうとしても、マイクの鋭い視線は揺らがなかった。
「あんたのことだ、事件での死人たちに責任を感じてるんだろう。彼らに報いようとしているんだろう。」
本当に、この優秀な護衛官はよく見ている。
「それは、別に良い。だけどな、死んでも良い、死にたいと思っているなら許さない。」
敵を射竦めるような鋭い目を向けた。彼にこんな目を向けられるのは初めてだった。テロリスト達はこんな恐ろしい視線を向けられていたのか、さぞ恐ろしかっただろう、とわずかばかり同情する。
「ベンジャミン・アッシャーは、テロごときに押しつぶされるような人間じゃないだろう。ロンドンでの、あの命令を忘れたのか。」
「……忘れるものか。」
視線だけで人を殺しそうなマイクの眼差しを受け止め、呟く。
テロリストに、自分を殺させるな。そう、命じた。
そして、テロリストに殺させるくらいなら、テロリストの宣伝に使われるくらいなら、君が殺せ、そう言った。
「ああ、忘れられてたまるか。あの命令はまだ有効か?」
「――マイク?」
「今のあんたは、あのテロリストどもの思惑に乗せられて、振り回されているようにしか見えない。」
マイクの指摘に、息を飲む。それは、あんたが身を削って奴らの宣伝をしていることにはならないのか、護衛官は鋭く問う。そんなことは、考えてもみなかった。犠牲者達に報いることしか考えていなかった。それが、周囲にどう映るかなど、全く考慮にいれていなかった。
「ベン、クソッタレなテロなんぞに負けて、自分を殺すようなことをしてみろ、その前に俺があんたを殺してやる。」
答えられない彼に、マイクが吠えるように告げた。
目の前の霧が晴れた様な気分だった。そうか、これも、あのテロとの戦いの続きなのだ。
そうだ、彼らに揺るがされてはいけない。それこそ、テロリストの狙いだろう。こんなことも気付かないなんて、我ながらどうにかしていた。
支えていた手から力を抜き、ベッドに倒れ込む。そして、額に手を当て、笑い声をあげる。
「ゆるやかな自殺をするようなら、その前にマイクが殺してくれるってことかな。」
「そうならないことを祈りたいけどな。」
マイクが軽くため息を吐く。
「君が祈っていてくれるなら心強いよ。」
ロンドンで、全てが終わった時のマイクの言葉を思い出す。
――言いましたっけ、葬式は嫌いです。
あの時に思ったことを忘れていた。
それなら彼よりも長生きしなくては、と。
「ありがとう、マイク。」
「礼は良いから、今日は早く寝る。わかりましたか?」
マイクの顔からは険しさは消えていた。はいはい、と軽い返事をして、寝る準備のためにベッドから起き出す。
「ベン、俺に二度と、あんたを殺すなんて言わせないでくれ。」
戦いの中でも、ほとんど顔色を変えることのなかったマイクが、苦痛を堪えるように顔をゆがませて言った。自分のためとはいえ、ひどいことを言わせてしまった。
立ち上がり、マイクの肩を抱く。
「ああ、約束する。」
マイクほどの男に、あんな表情で、あんなことを言われてしまったら、こう応える他はないじゃないか。
まったく、マイク・バニングは優秀な護衛官だ。
ベンは、久しぶりに、本心からの笑顔を浮かべた。