仁が頑なに口にしなかった幻の正体を、急な心変わりの源を、丶蔵はようやく悟った。色々と回り道をしたが、やっとその答えにたどり着くことができた。好意や憎悪をもって身を重ねた者を斬った、その深く大きな傷が原因だったのだ。あのとき、仁が共寝をやめようとしたことは、仁自身のためであり、丶蔵のためでもあった。仁が自分をそんなにも想っているなんて、考えもしなかった。その想いは、丶蔵にとって嬉しいものではあるが、自身の抱える秘密が重くのしかかる。仁が言おうとして言えずにいる言葉も、大方察しがついた。自らが想いを寄せた者達と同じことが丶蔵に起こらないように、自分自身の傷を増やさないために、言わなくてはならないものだ。それを察したのならば、丶蔵から言ってやるべきだ。それが、互いのためだ。わかっている。だけど。
「仁。」
丶蔵の呼びかけに、仁は顔を上げた。顔を覆った指の間から覗く目は、暗く、虚ろだった。こんな顔をさせたままにはしたくない。仁が本心では求めているものを、諦めさせたくない。
丶蔵は右手を伸ばし、仁の肩にそっと触れる。仁は身動ぎもせずに受け入れた。振り払われないことを確かめつつ、肩をしっかりと掴む。そして、左の手を仁が自らの顔を覆う手に重ねる。重ねた手を柔らかく包み込み、ゆっくりと下ろさせる。もう片方の手は、仁が自ら下ろしていた。露わになった仁の顔を覗き込む。涸れた目が丶蔵に向けられていた。
きっともう、疲れ切っていたのだ。過去の傷と向き合うことに。身を苛む幻に耐えることに。想いを、欲を、抑えることに。だから、もういいだろう。今夜だけでも、そういうものを忘れさせてやったって。そうだ、とうに決めていたではないか。いくらでも甘やかしてやると。
丶蔵は仁に微笑みかけ、口を開く。
「想いがなければ、そういうことは気しなくていいだろ。」
「それは……」
続く言葉はなかった。仁はただ、ゆるゆると首を横に振る。
仁の想いはよくわかっている。わかってはいるが、秘密を明かさずにそれを受け止めるわけにはいかない。今は慕ってくれていたとしても、丶蔵の隠し事を知れば、仁にとって、憎むべき者となり果てるだろう。慕った者も、憎んだ者も、どちらも仁が自らの手で斬り捨てた者だ。どんなに理由を積み上げたところで、体を重ねれば、仁の傷を更に深くすることは目に見えている。仁のことを想うのならば、彼を宥め、立ち去るのが正しいのだろう。
それでも、あえて仁の想いに気付いていないふりをして、丶蔵はあの残酷な言葉を放った。宥めて、立ち去ったところで傷が癒えるわけではない。暴いた傷を晒したまま、仁が一人で耐えることになるだけだ。多少、新たな痛みを与えてしまうものだとしても、寄り添うために、言わなければならなかった。仁が今、この場で苦しんでいる過去の傷の痛みを少しでも和らげるために、必要な言葉だった。
仁を引き寄せようと、丶蔵は彼の肩を掴む手に力をこめた。だが、仁はそれに抗い、首を強く横に振る。
「駄目だ。」
吐き出された声は、弱々しい。過去の傷は、まだ仁を縛っている。しかし、向けられた目には、迷いがあった。丶蔵が与えようとしているものを受け入れたいという思いも、間違いなくあるのだ。丶蔵は仁の肩を更に強く掴む。
「仁、先に求めたのは、お前だ。」
丶蔵が告げた言葉に、仁の目が揺らぐ。
「今のお前には、俺が必要なんだろう。」
仁が抱える痛みや悲哀に触れた。孤独を、自責を知った。だからこそ、ただ欲を満たすだけの行為が仁には必要なのだと思った。苛むものを全て忘れられるような一時が。仁も、きっとそれはわかっている。だからこんなにも迷っている。仁は唇を噛みしめ、目を伏せる。
「……それでも、駄目だ。駄目なんだ。」
仁は抑えた声で、拒絶の言葉を繰り返した。深く息を吐いて、迷いを抑えこもうとしていた。だが、次の瞬間、仁の顔は大きく歪んだ。
「もう誰も、失えない。失いたくない。」
溢れたのは、痛切な叫び。それが、仁を踏み止まらせている、最後の一線だ。仁は、今にも崩れそうな、泣き出しそうな顔で、丶蔵を見ていた。丶蔵は微笑み、仁の手に重ねていた左手を、優しく握る。
助けたい、と言った。その言葉を、嘘にはできない。したくない。どうせ嘘をつくのならば、安らげる嘘を、優しい嘘を。
「死ぬもんか。」
丶蔵は、穏やかに告げた。それは、なんの保証もできない約束だった。そんなものを、軽々しく口にするべきではない。もし、果たされなければ仁を深く傷つけることになるのはわかっている。だが、今にも砕けそうな仁の心を救うために、必要な言葉はこれしかない。仁の心をこんなにも軋ませた原因は自分にもある。だから、全てを懸けて嘘をつく。
「十五年前を生き延びたんだ。今回だって、死なねえよ。」
仁が縋るような目を向けた。信じていいのかと問う、信じたいと願う、切実な眼差しだった。丶蔵は笑ってそれを受け止め、力強く肯いた。
「生き残ると誓うよ。だから、仁、お前はお前が望むことをすればいい。」
仁の顔がくしゃりと崩れた。泣いているような顔で、笑っていた。自らを縛るものを投げ捨てて、踏み出すことをやっと選べたのだろう。
「本当に、俺が望むことをしていいのか。」
確かめるように口にした仁の目には、まだ少しだけ迷いがあった。気にしているのは、きっと仁の立場のことだ。そういうことも、今は忘れてしまえばいい。
「お前は、ただの仁でいていいんだ。侍だとか、どこの家の出だとか、冥人だとか、そういうことはどうでもいい。今は全部忘れちまえ。辛いならこのまま對馬に帰ったって構いやしねえよ。」
「この状況で、俺が姿を消すわけにはいかぬだろう。」
丶蔵の言葉に、仁は弱々しい苦笑を浮かべた。冗談だと思っているのだろう。丶蔵は、本気だった。戦えるだけの人手は戻ってきた。もう、仁が痛みを抱えてまで戦場に立たなければならない理由はないのだ。
「自惚れんな。たとえお前がいなくとも、俺達は戦うことをやめない。お前が来なくったって、戦い続けていたさ。だから、俺達のことなんて考えなくていい。お前が望むままに選べばいい。」
丶蔵は仁の肩を軽く叩き、彼に触れていた手を離した。丶蔵を見つめる仁の目から、迷いの色は消えていた。仁は居住まいを正し、ゆっくりと口を開く。
「まだ、この地でやりたいことがある。だから、残る。」
やらねばならないこと、ではなく、やりたいこと、と言った。それなら、丶蔵が口を出すことは何もない。
「そうか。それならいい。勝手にしな。」
丶蔵はわざと投げやりに言った。去ってもいいと口にはしたが、仁が残ることを選んだのが嬉しかった。それを言えば、仁に余計な期待を抱かせてしまう。わざと素気ない態度を見せてはみたものの、仁が笑って肯いているということは、言外に含んだ思いは隠せてはいなかったのだろう。
「それにしても、」
と仁は小さく溜息を吐いた。
「お前は本当に、俺を甘やかすな。」
そう言って、丶蔵に呆れた目を向けた。丶蔵は肩をすくめて苦笑を返す。
「なんだ、嫌なのか。」
「嫌というわけでは、ないが。」
仁の返答は思いの外素直だった。仁も自らの言葉に驚いたのか、眉を上げていた。
「嫌ではないらしい。」
仁は笑って言った。それはよかった、と丶蔵は軽い声で応じる。
「でも、気がかりなことはあるんだろう。」
丶蔵の問いに、仁は少し考え、困ったような表情を浮かべて肯いた。
「些か、心苦しい。お前に返せるものが、俺には何もないから。」
受けた厚意は、どんな相手だろうと返すべきものだと考える律義さは、仁の好ましいところだ。だが、気にするなと言ったところで聞き入れはしない頑なさも、仁にはある。丶蔵が仁を甘やかすと決めた理由は、遠い昔から積み重ねてきた彼への借りと、口にしないと決めた好意だ。だから、仁から返してもらうべきものはない。どう言えば、仁は気にせずに済むかを考え、言葉を選ぶ。
「俺がお前を甘やかしてるのは、ただの下心だ。」
「したごころ。」
ふざけた調子で言った丶蔵の言葉を繰り返し、仁は戸惑った様子で瞬きをする。
「下心か。」
改めて口にした時には、何かを企んでいそうな含み笑いを浮かべていた。仁に負担を感じさせないという点での言葉選びとしては、正しかったはずだ。しかし、何かを間違えた気もする。とはいえ、このまま押し通すしかない。
「そうだよ、下心だ。だから、貸しとか借りとか考えなくていい。甘えたいならいくらでも甘えさせてやるよ。」
堂々と言い切った丶蔵を、仁は真っ直ぐに見つめていた。その眼差しは、いくらか熱を帯びていた。
「そういうことなら――」
仁は軽やかな声で呟き、丶蔵に体を寄せた。自らの胸元におさまった仁を見て、丶蔵は苦笑を浮かべた。
「なあ、仁よ。この流れは、寝ない方が自然じゃねえか。」
丶蔵の呟きに、仁が不思議そうな顔で首を傾げる。まるで邪気のない表情に見えるのが悪質だ。
「全部片付いてからの方が、死ぬ心配とかいらねえだろ。」
「死なぬ、と言ったのは誰だ。」
咎めるような、拗ねるような仁の視線。それを受け止め、丶蔵は小さく息を吐く。
「……俺だな。」
確かに言った。仁は微笑み、丶蔵の胸を撫でる。見上げる目が、真剣な色を帯びる。
「証がほしい。お前の言ったことが、まことだと信じられるように。」
「……わかったよ。」
長い話の間に、共寝のことを忘れていたら、そのままなかったことにできないか、と密かに思ってもいたのだ。しかし、そんなことはなかったらしい。仁が望むのならば、丶蔵はそれに応じるだけだ。
「それに、下心、なのだろう。」
言葉を止め、仁は視線を下げた。その先には、丶蔵の――
「そのままで、いいのか。」
悪戯っぽく仁が笑った。つられて見下ろし、元気が良すぎるくらいの自身の状態に気付く。仁が弱っている間は、そんな場合ではないと落ち着いていたはずだ。気にしている余裕はなかったが、そうだと思いたい。再び勢いを取り戻したのは、仁が吹っ切れた様子なのを見て、安心したからだろう。胸元に感じる身体の熱さも、燻っていた欲に再び火を点けた。この有様では、仁に宥める言葉を言ったところで恰好がつかない。自らの体の正直さを恨めしく思いつつ、丶蔵は天を仰ぐ。
「武士の慎みとか、そういうのがあるんじゃねえのかな!」
完全に自分の体が悪いのだが、わざわざそれを告げた仁に対して恨み言めいたことを投げてしまう。照れ隠しの八つ当たりだ。そんな丶蔵の様子に、仁はくすくすと控えめながらも愉快そうに笑う。
「俺の好きにしろと、言ったではないか。」
往生際悪く言い逃れをしようとする口を塞いだのは、丶蔵が仁のために言った言葉だった。仁が自らのために、それを口にできたことは、嬉しい。ただ、もっと別の場面で言って欲しかったとは思う。丶蔵は複雑な気分で深々と息を吐いた。仁はそんな丶蔵の様子をじっと見つめていた。苦悩や悲哀の翳りが拭い去られた、澄み切った目だった。痛みを誤魔化すためではなく、過去から目をそらすためでもない。もちろん、幻に唆されたせいでもない。仁は自らの意志で、この先を望んでいる。丶蔵は覚悟を決めた。そして、仁の背に両腕を回し、抱きしめる。
「途中でやめるってのは、もう勘弁してくれよ。」
近くなった顔を覗き込み、囁く。
「ああ、大丈夫だ。お前なら。」
仁は穏やかに肯いた。その顔には、純朴な少年のようでいて、艶めいた笑みがあった。欲を煽る眼差しと触れ合う体の熱さに、丶蔵は自身の強い昂りを感じた。互いに折り合いをつけて、納得をしたのだから、先に進むことは構わない。だが、このまま続けることには、危うさを感じた。丶蔵は深く息を吐き、欲に流されそうになる思考を宥める。
「仁、言っておきたいことがあるんだが。」
丶蔵の声に、仁は首を傾げる。無邪気な仕草は狙っているのかわざとなのか。どちらにせよ、今の状況では、たちが悪い、と言いたくなる。それは堪えて、仁に伝えておくべきことを口にする。
「そのな、なんせ誰かとやるのは久しぶりのもんでな……」
言葉を止めた丶蔵を、仁は怪訝な顔で見つめている。どう言ったものか、と考えつつ、丶蔵は口を開く。
「情けねえ話なんだが……ちょっと、加減ができるかわからん。」
弱り切った声で白状した。今この瞬間も、気を抜いたら何をするか自分でもわからない。こんな強烈な欲は、生きてきた中でも覚えがなかった。仁は大きく見開いた目を丶蔵に向けた。そこには、欲と期待の熱が躍っていた。
「丶蔵なら、いい。望むところだ。」
柔らかく囁き、仁は甘く微笑む。丶蔵の胸に触れていた仁の右手が緩やかに滑り、脇腹を撫でて更に下へと動く。丶蔵も、仁の背に回していた両手を、右手は下へ、左手は上へと動かす。互いに、帯へ触れて下ろす手を止めた。見つめ合った目に宿る熱さは同じだった。
後編