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    しおり
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    地鏡 前編外から響いた歓声に、丶蔵とふかは顔を見合わせた。ふかが机から離れ、手すりから身を乗り出して階下を見下ろす。
    「あの侍がやってくれたようだね。」
    ふかは不敵に笑い、丶蔵へ振り返った。あの侍、と聞いて、丶蔵の内心にひやりとしたものが過るが、素知らぬ顔でふかの横へ並び、階下へ目を向ける。オオタカ族の襲撃以来、姿を消していた仲間達が戻ってきたのだ。再会を喜び合う仲間達が、ふかと丶蔵の姿に気付き、大きく手を振った。
    「お頭!丶蔵!境井砦から生きて戻ったぜ!」
    「危ないところをよ、侍が助けてくれたんだ!」
    「惚れ惚れする太刀捌きでよ、俺達も負けてらんねえな!」
    興奮気味の仲間達の言葉から、大体の事情は理解した。丶蔵はちらりと横に立つふかを見る。
    「仁を境井砦の奪還に行かせたのか。」
    「行けといったわけじゃないよ。ただ、オオタカが不在で手薄ってことと、うちの戦える連中が捕らえられてるって教えてやっただけさ。戦える連中が戻ってきたら、反撃できるかもってこともね。」
    「人を動かすのが上手いな。」
    「これでも長年頭をやってるもんでね。」
    涼しい顔でふかが言う。長い付き合いの丶蔵ですら、ふかにいいように使われるのは日常茶飯事だ。新参者の侍など、動かすのは容易いことだろう。わかってはいるが、気にかかることはある。
    「あいつを使うんなら、俺にも言っておいて欲しいもんだがね。」
    丶蔵の言葉に、ふかは眉を上げた。
    「なんだい、心配でもしてるのかい。」
    揶揄うようにふかが笑う。そんなんじゃねえよ、と丶蔵は鼻を鳴らした。あの侍、仁には、ふかやこの集落の者達に知られてはならない秘密がある。それを知られたら、仁を引き込んだ丶蔵の身も危ういのだ。だから、目の届かないところで動かれるのが困るというだけで、心配しているわけではない。
    「あいつを拾ったのは俺だからな、何かやらかさねえか見張っておくのが筋だろ。」
    「そういうことにしておこうか。」
    ふかは含み笑いを浮かべて丶蔵から目を離した。どうも勘違いされている気がするが、言葉を連ねたところで余計な弁明だと思われるだけだろうし、口を滑らせかねない。ここは黙っておくしかなさそうだ。丶蔵は深々と溜息を吐いた。丶蔵のそんな様子を気にすることもなく、ふかは階下の仲間達に声をかけた。
    「皆よく戻った!早速蒙古どもに反撃、といきたいところだが、まずは皆の無事の帰還と、境井砦の奪還を祝おうじゃないか!」
    ふかの言葉に仲間達が沸いた。長く虜囚となっていた者も多い。今皆に必要なのは、養生と労いだ。敵も拠点を奪われてすぐには動けまい。
    「一息いれるにはちょうど良い頃合いだな。」
    「そういうこと。ずっと負け戦続きだったからね。上向いてきているところで景気付けも悪くないだろ。」
    茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、ふかが笑う。緩急のつけどころをよく理解している頭だ。皆がついて行こうという気になるのも肯ける。
    「こうしてまた上手く使われるわけだな。」
    「さすが丶蔵、よくわかってるね。」
    思惑を隠そうとしないところも、慕われる所以か、などと考えつつ、丶蔵は苦笑を返した。
    「そういえば、砦奪還の立役者のお侍はどこに行ったんだい?」
    階下の者へふかが問う。言われてみれば、仁の姿はない。彼の立ち居振る舞いは、良くも悪くもとにかく目立つ。これだけ人が集まっていても、居れば一目でわかる。探しても見つからないということは、まだここへ来てはいないのだろう。
    「砦回りに残っている小勢を散らしてから顔を出すって言ってたかな。」
    「はあ、よくやるねえ。ありがたいことだけどさ。」
    仲間の一人の返答に、ふかは呆れた声を上げた。
    「砦の蒙古どもを討ち払うだけじゃ物足りなかったのかね。」
    ふかがぽつりと零した。あの人斬り、境井正の息子だからな、という囁きが頭を掠める。丶蔵は慌てて頭を振り、浮かんだ言葉を振り払う。確かに、仁が闘う姿は苛烈で、あの人斬りの姿を嫌でも思い出させる。だが、仁はあの男とは違う。悪いことを言ったと思えば謝罪するし、こちらに理があれば素直に受け入れる。つまらない冗談を言って笑い、対話で分かり合うことのできる人間だ。問答無用で殺し尽くすような、化け物ではないのだ。仁が動いているのだとすれば、何か考えがあってのことだろう。
    「ここに注意が向かねえようにしてるのかもな。」
    解放された仲間達の動きを蒙古共が追っていないとも限らない。敵の目をそらす必要がある。仁の動きは民を守るための動きとしては妥当と言える。
    「借りだとは思わないからね。あいつが勝手にやったことだ。」
    ふかも同じ考えに至ったようで、鼻を鳴らして言った。不満そうな様子に、丶蔵は苦笑を浮かべる。
    「恩を着せてくるような奴じゃねえよ。」
    「そうかねえ、だって侍だろ?」
    不信感を露わにするふかの気持ちもわかる。丶蔵も他の侍に対してなら、同じように思っただろう。隠し事は多く、嘘もつく。彼を信用していいと断言はできない。だが、丶蔵が見てきた限りでは、困っている相手に打算なく手を差し伸べる男なのは間違いない。
    「仁なら、大丈夫だ。」
    はっきりと言い切った丶蔵を見て、ふかは意外そうに眉を上げた。
    「そこまで肩を持つとはね。」
    「そういうつもりはねえよ。だけど、あいつの行いを見ていたら自然とそう思うだろ。」
    「自然と、ねえ。」
    ふかは何故か含み笑いを浮かべた。何を考えているのかは読めないが、聞いても余計なことしか言われない気がするので、触れないでおく。丶蔵が食い付いてこないのが面白くなかったのか、ふかはふん、と鼻を鳴らした。
    「ま、あんたに免じて、下心のない善意の動きだと思っておこうかね。」
    そう言って、ふかは部屋の戸口へ向かって歩き出した。宴の支度に行くのだろう。丶蔵は手摺に身を預けたまま、その背を見つめていた。戸を開いたふかが怪訝な顔をして、丶蔵へ振り返る。
    「宴だよ、来ないのかい?」
    ふかの問いかけに、丶蔵は階下をちらりと見やった。境井砦から帰還した仲間達は、強がってはいるが、やつれていたりふらついていたりする者が多く見える。集落の兵糧も潤沢とは言い難い。宴と言っても、全員が腹いっぱい食べられるほどは用意できないだろう。ならば、砦から戻った連中を優先してやるべきだ。
    「大した働きはしてねえし、俺はやめとくよ。」
    丶蔵はへらりと笑ってふかに答えた。それを聞いたふかは、そんなことはない、と首を振ろうとした。だが、すぐに丶蔵の意図に気が付いたらしく、呆れたように溜息を吐いた。
    「それなら、後で余ものがあったら誰かに届けさせるよ。」
    「気にすんな。俺は俺で勝手にやるからよ。」
    「そうかい、ま、気が変わったらいつでも顔を出していいからね。」
    ふかはそう言い置いて、仲間達の待つ階下へ向かった。外を見下ろすと、仲間達が次々とふかの元に歩み寄り、帰還の報告をしている。ふかはそれぞれに労いの言葉をかけ、迎えていた。ふかの頭らしい振る舞いをしばらく眺め、丶蔵はそっとその場を離れた。戻ってきた仲間達は顔見知りばかりだ。丶蔵も、皆によく戻ったという一言くらいはかけてやりたい気持ちはある。だが、今は少し距離を置いた方が良い。
    丶蔵が宴に行かないことにしたのは、兵糧の問題の他に理由がある。それは、仁の秘密のせいだ。仁が、境井仁であることを知っているのはこの集落では丶蔵だけだ。もしそれを仲間に漏らすようなことがあれば、仁の身だけではなく、丶蔵の身も危なくなる。口は堅い方だと思っているが、宴の席で酒が入った自分を考えると、正直信用しきれない。うっかり口を滑らせないとも言い切れないので、此度の宴は出ないことに決めた。決めたのはいいが、もし仲間に誘われたりすれば、断りきれる自信もない。だから、丶蔵はなるべく仲間達に近寄らないことにしたのだ。しかし、今は集落のどこにいても、戻ってきた仲間達に顔を合わせそうだ。なるべく人の居ない場所を考え、最近よく寝泊まりしている所へ向かうことにした。先日、仁や仲間達と奪った蒙古の船だ。あそこへ出入りする者は丶蔵くらいしかいない。宴の間、誰とも顔を合わせずに済むだろう。
    帰還した仲間達が集まっている場を避け、そっと人通りのない道へ逃れる。普段なら数人が行き交う道も、皆戻った仲間を迎えに行っているようで、誰の姿もなかった。丶蔵はほっと息をつき、誰もいない船への道を急いだ。


    積まれた狼煙の数を書きとめ、丶蔵は筆を置いた。船に積まれていた兵具の確認はこれで終わりだ。長時間集中して作業をしていたので、体のあちこちが凝っている。少し動いて体を解そう、と丶蔵は立ち上がり、甲板に出た。
    船の縁に手をついて体を伸ばす。夕暮れ時の茜色の光が集落に差し込んでいた。楽しげな歓声と誰かの奏でる音楽が、波の音に混ざって微かに聞こえる。宴はまだまだ盛り上がっているらしい。蒙古の襲来以来、沈みこんでいたこの地に、活気が戻ってきたのは良いことだ。丶蔵は笑みを浮かべて集落の方へ目を向けた。いつもは船の近くの広場でたむろしている刀競べの連中も、今日は宴に行っているらしい。丶蔵がいる船の周囲は、人気もなく静まり返っていた。そんな中を、人影が一つ、船に向かって近付いてくる。ふかが後で余ものを届けると言っていたことを思い出した。
    「気にすることねえのにな。」
    丶蔵は苦笑を浮かべて呟き、近付いてくる人影を見る。集落の仲間にしては、歩き方に隙が無い。その上、やたら姿勢が良い。建物の影を歩いているので人相は見えないが、佇まいだけで誰が来たのか、すぐに察しがついた。
    「仁、来たのか。」
    丶蔵が呼びかけると、人影は片手を上げて応じた。歩調を緩めることなく彼は進み、日の差す場に歩み出る。小綺麗な出で立ちの若い男が、小さな包みと瓢箪を手に近づいて来た。先程ふかとの話題に上っていた侍、この地では鑓川の仁として通してる、境井仁その人である。仁は迷いのない足取りで丶蔵がいる船に向かって進んでいた。厳めしい甲冑や兜を身に着けて弓矢を携えた戦装束ではなく、落ち着いた色合いの小袖に袴を纏っただけの気楽な姿だ。太刀と短刀はいつも通り腰にあるが、ずいぶんと気を緩めているように見えた。きっと、宴の陽気にあてられたのだろう。丶蔵はそんな仁の姿に、意地の悪い笑みを向けた。
    「なんだ、集落の宴から追い出されたのか。」
    「まさか。いくつの誘いを断ってきたと思っている。」
    仁は軽く笑って船の甲板に立った。丶蔵は船の縁に背を預けたまま、仁に胡乱な目を向ける。
    「侍と飲みたがる奴がそんなにいるかね。」
    「少なくはなかったな。」
    そう言って、仁は誘ってきた者達を幾人か挙げた。境井砦で助けた者達、刀競べの面々、道々で蒙古の手から救った者等々、丶蔵が想像していたよりもはるかに多くの名を、仁は口にした。まさか島の者達がそんなにも多く、侍に対して友好的な態度を見せるとは思いもしなかった。丶蔵の驚きを気にすることもなく、仁は淡々と続ける。
    「ふかにも一杯くらい飲んで行けと言われた。」
    「それならそっち行けよ。わざわざ俺のところに来ることねえだろ。」
    そもそも此度の宴は仁が境井砦を奪還したことがきっかけだ。ふかから誘いがあるのも納得はできる。だが、それを断って丶蔵のところに来たことがどうも解せない。怪訝な顔の丶蔵を、仁は真っ直ぐに見つめ、首を傾げた。
    「俺は邪魔か?」
    「そういうわけじゃねえが……。」
    思いもよらぬ問いかけに、丶蔵は口ごもる。それならよかろう、と言って、仁はからりと笑った。
    「宴は断ったのだが、これは断り切れなかった。丶蔵も付き合え。」
    そう言って、仁は手に持っていた瓢箪と包みを見せる。宴で饗された酒と食べ物らしい。有無を言わせぬ仁の言葉に、丶蔵は溜息をついた。
    「侍の下知ってやつかい。」
    「そんなつもりはない。いらぬのならば、俺が独り占めするまで。無理にとは言わぬ。」
    涼しい顔で仁が言う。丶蔵は仁が持つ瓢箪に目を向けた。中身は酒に違いない。
    「壹岐の酒は強いぞ。慣れねえやつが一人でその量を飲み切るのは無理だ。」
    だから、手伝いだ、と丶蔵は笑い、船の縁から体を離して歩き出す。
    「ここじゃ落ち着かねえだろ、飲むなら中にしようぜ。」
    船室の方を顎で示すと、仁は肯き、丶蔵の横に並んだ。海風に当たりながらの酒も悪くないが、甲板で飲んでいたら集落から丸見えだ。誰かがつられてやってこないとも限らない。普段ならば、集落の仲間達と飲むことに何の抵抗もない。だが今は、丶蔵も仁も、皆に隠しておかなければならない秘密を抱えている。酒の勢いで他の者に漏らすことが絶対にないとは言い切れないので、なるべく他の者との接触は避けておきたい、というのが丶蔵の思惑だ。仁も同じ考えで丶蔵の提案に応じたのだろう。
    二人で船室に入り、戸を閉めた。これで気兼ねなく酒を飲める。丶蔵は手近なところに広げてあった莚を拾い上げ、幾分か整っている場所にそれを敷いた。
    「仁、どうした。」
    振り返って仁がいないことに気付き、丶蔵は声を大きくして呼びかけた。すぐそばをついてきていると思っていたのだが、仁は少し離れた場所に立っていた。仁は手にした書き付けを熱心に見つめている。先程まで丶蔵が書いていた、この船の兵具の数を記した書き付けだ。丶蔵は溜息をついて仁の元へ歩み寄り、彼の手から書き付けを取り上げた。
    「こういうことは、後で良いだろ。今日はもう休みだ。」
    「――そうだな。」
    仁は意外にも素直に従った。いくらか口ごたえがあるだろうと予想していた丶蔵は拍子抜けした気分になる。そんな丶蔵の横を、軽い足取りで仁がすり抜け、丶蔵が敷いたばかりの莚に腰を下ろした。丶蔵は手近な卓の上に書き付けを置き、仁の側に歩み寄って、空いている莚に腰を下ろす。仁はいつも腰に帯びている太刀と短刀を近くの床に置き、寛いだ様子で座っていた。
    「海賊の巣窟で武器を手放す侍がいるか。」
    「今更襲ってくる者などおるまい。」
    呆れて言った丶蔵に、仁は事も無げに言葉を返した。仁の言う通り、今更の話だろう。だが、それでも油断した様子を見ると、釘を刺したくなる。
    「俺はお前の素性を知ってるんだぞ?」
    「それこそ、今更であろう。」
    仁は軽い声で笑った。確かに、素性を知る前も、知った後も、何度もこの侍を斬る機会はあった。それくらい、仁は丶蔵に対して無防備だった。今だって、仁は太刀を手放しているが、丶蔵は自分の腰に帯びたままだ。斬ろうと思えばいつでも斬れる。それなのに、手は出さずに苦言を呈しているだけなのだから、仁の言う通り、今更というやつだ。丶蔵は溜息を吐き、自らの帯に差していた太刀を鞘ごと抜いて、近くの床に置いた。
    「俺だけ気を張ってても馬鹿らしいからな。」
    「何も言っておらぬよ。」
    くすくすと笑って、仁が持っていた包みと瓢箪を丶蔵との間に置いた。包みを広げると、焼いた魚の干物と、炊いた米が入っていた。祝いと言ったのだから、それなりのものは食べさせてやらねば、というふかの見栄だろう。無理しやがって、と丶蔵は言葉には出さず、苦笑を浮かべる。仁は何かを察したのか、黙って食べ物に対して手を合わせていた。侍の礼儀とやらも悪くない、と思いつつ、丶蔵もそれに倣う。大人の男二人が満腹になる量ではないが、気持ちで十分だ。それに対して、酒は十分すぎる程あった。二人で飲んでも飲み切れるか、という量である。
    「仁、お前、酒は強いのか?」
    「それなりには。ただ、こちらに来てから酒を口にしておらぬから、酔うやも知れんな。」
    「さっきも言ったが、こっちの酒は強いから気をつけろよ。」
    丶蔵の忠告に、仁は笑って肯いた。ふと気になったことがあり、丶蔵はそういえば、と言葉を続ける。
    「酒で幻がひどくなったりはしないのか?」
    「わからぬ。だが、丶蔵がいれば大丈夫だろう。」
    「どういう意味だよ?」
    首を傾げる丶蔵に、仁はふふ、と密やかに笑うだけだった。仁が食べ物を取り分け、互いの前に酒の入った瓢箪を置く。丶蔵は酒を手に取り、仁を見た。
    「乾杯でもするか?」
    「それは、オオタカを退けてからであろう。」
    「そうだな。」
    眉を上げて言った仁に、丶蔵は肯き返した。ふかは祝い酒だと言っていた。無事に生きて戻った仲間を迎えるのは、確かにめでたいことだ。だが、まだ討つべき敵は生きていて、戦いは続く。祝杯にはまだ早い、という仁の考えも理解できる。丶蔵は少し考えて、酒器を掲げた。
    「それなら、この戦いで斃れた仲間達への弔い酒だ。」
    オオタカ族の襲来以来、死んだ仲間達を何人も埋めたが、弔っている余裕もなかった。亡き友を悼むにはいい機会だ。仁も静かにそれに応じ、自らの酒器を掲げた。そして、それぞれ酒に口をつける。久しぶりの酒精が心地よく喉を焼いた。
    「お前にも、偲ぶような奴がいるんだな。」
    ちびちびと酒を口にしつつ、丶蔵は目を瞬かせている仁に話しかけた。一息に呷った酒が、思いの外強かったらしい。仁はふう、と息を吐いて丶蔵を見た。
    「この島でも、手の届くところにいたのに、守れなかった者は少なくない。」
    沈鬱な面持ちで仁が呟いた。この島の民の多くは、侍を快く思わない。忌み嫌っている、と言った方が正しいだろう。仁とて、面と向かって罵声を浴びせられることもあったはずだ。そんな人々の死に対しても、この侍は心を痛めるのか。丶蔵は仁をまじまじと見つめた。
    「そういう言葉を聞いてると、あの蒙古兵が言っていたことが嘘のように思えるんだがなあ。」
    かつて壹岐の民を震えあがらせた人斬り、境井正の息子の言葉とは到底思えない。仁は酒を呷り、口を開く。
    「俺は、父上とは違う。」
    苦いものを吐き出すように仁が言った。どこか、恥じているような響きだった。民に想いを寄せることは、恥じることではない。仁が父親のような男だったら、丶蔵はとっくに見限っていた。
    「そうだな。だから、今こうやって、酒を酌み交わせているんだろ。」
    酒器を手に、軽い調子で丶蔵は笑う。仁の沈んでいた表情がいくらか和らいだ。弔い酒だろうと、酒を飲むなら笑って飲んだほうが良い、丶蔵がそう言うと、仁は肯いて、さらに酒を呷る。随分な速さで飲んでいるようだが、大丈夫だろうか。少し心配になった丶蔵は、仁の顔を見る。いつも取り澄ました顔は朱に染まり、ふにゃりとした柔らかい表情で笑う。それなりに強い、と言っていたはずだが、既に存分に酔っている顔だ。丶蔵も酔い始めた自覚はあるが、少なくとも仁ほどではない。大丈夫だろうかと心配しつつ、丶蔵はちらちら様子をうかがうが、仁は気にした様子もなく酒や食べ物を口にする。
    「弔い酒、か。」
    しばらくして、仁がぽつりと口にした。とろりと緩んだ目が丶蔵に向けられる。
    「丶蔵は、誰を悼む?」
    「友や、仲間達だ。この戦いで、大勢死んじまった。」
    仁の問いに答え、丶蔵は酒を口にする。
    「友、か。」
    そう呟いて、仁は目を伏せた。いなくなった誰かに、思いを馳せるような目だった。それはきっと、先の對馬での戦いで失った誰かへのものだろう。この侍は、一体何人の死を背負っているのか。遥か昔に、この島で失った父親、蒙古との戦いで失った者達、そして、此度の戦い。その死の数は、一人で抱えきれるものには思えない。稀に仁はオオタカの毒による幻の話をする。幾つか聞かされた幻は、仁の抱え込んだ死の数々が、彼に対して牙を剥いているように思えた。今だって、痛みに耐えるような顔をしている。失いたくなかった誰かを思い出したのかもしれない。
    「話したいことがあるなら、聞くぞ。」
    素気なく言った丶蔵を、仁はじっと見つめた。迷いの目だった。話したければ話せばいい。言葉にするだけで、重荷が軽くなることもある。持て余した気持ちに踏ん切りをつけられることだってある。酒も回って口も軽くなっているはずだ。弱音も吐き出しやすくなっているに違いない。丶蔵は仁の様子を見守る。
    「――いい。」
    仁は首を横に振った。そこまでお前に甘えるわけにはいかぬ、そう言って、どこか無理をした笑みを見せた。踏み込まれたくない、と線を引かれたような気がした。所詮、侍と海賊だ。お互いの利害が一致したから手を結んでいるだけであって、馴れ合うような間柄ではない、ということか。わかってはいるが、少し寂しい。だが、丶蔵だって、仁に話していない秘密がある。それを明かさずに、仁に話せと言える立場ではない。寂しいなどと、思ってはいけない。
    「甘えてる自覚はあったんだな。」
    抱いた気持ちへの戸惑いを振り払うように、丶蔵は揶揄いの言葉を口にした。仁は首を竦め、叱られた幼子のような仕草をした。いい年の大人がする仕草ではないだろう、と丶蔵は呆れた目を向ける。
    「まあ、少しは。」
    仁はばつが悪そうに目をそらした。その仕草も、どこか子供じみている。今も甘えているということか。まったく、性質の悪い侍である。
    「妙なところで遠慮するんじゃねえよ。」
    丶蔵は溜息混じりに呟き、酒を呷る。仁が、何か言ったか、と無邪気に問いかけてくる。丶蔵は何でもねえよ、と乱暴に答えた。それを聞いて、仁は何故か楽しそうに笑う。楽しく思うようなことは何もしていないのだが、よくわからない男だ。
    「酔ってんのか。」
    「まさか。」
    問いかけた丶蔵に、仁は軽い笑いを返した。言葉の割には、普段よりも明るい振る舞いに見える。顔も赤く染まっているし、本当はかなり酔いが回っていることだろう。仁の言葉は、きっと侍の強がりだ。いつもよりも柔らかい顔で、仁はふにゃふにゃと笑う。
    弔い酒の辛気臭い雰囲気はとうに消えていた。悼む気持ちは示せたし、それで十分だ。斃れた仲間達も皆、陰気な弔いは嫌いだった。皆が生きていたら、どうせ酒を飲むなら楽しく飲めと言われることだろう。集落からも、明るく盛り上がっている声が聞こえてくる。
    「久方振りの酒だ、辛気臭く飲むのも勿体ねえな。」
    「確かに。」
    仁は肯き、もう少し楽しい話をするか、と言った。丶蔵も笑ってそれに応じる。楽しい話、と言われたが、急には思いつかない。何を話すかと考えていると、仁が口を開いた。刀競べで四人抜きをした話だった。集落の噂で聞いてはいたが、本当だったとは。仁を一刀という仇名で呼ぶ者が多いのも肯けた。丶蔵が島の噂話を聞かせると、仁は興味深そうに聞いていた。他愛のない時間を過ごすのは、蒙古がこの島にやってきて以来だった。こんな一時をもたらしたのは、仁がこの島に来てくれたおかげだろう。その仁はというと、相当酔いが回ったようで、普段の鋭さが微塵も感じられないほどに緩んだ顔で笑っていた。
    「楽しいなあ。」
    仁が噛み締めるように呟いた。丶蔵も笑ってそれに肯く。
    「お前が境井砦を奪い返してきたおかげだな。」
    丶蔵の言葉を聞いて、仁は顔を強張らせた。酔いが一気に冷めたような、険しい顔で仁は黙り込む。境井砦での戦いは、そんなにも凄惨だったのか。丶蔵は不用意な自らの発言を悔やむ。だが、口に出してしまった以上、もう、なかったことにもできない。
    「そんなに酷かったのか?」
    無遠慮なふりをして、丶蔵は仁に問う。仁は顔を顰め、深く息を吐いた。
    「あの場に、丶蔵がいなくてよかった。」
    仁はそう呟いて、酒を呷った。その物言いがなんとなく気に入らず、丶蔵はむっとして仁を見る。
    「毒当たりの侍のくせに、俺が足手まといとでも言いたいのか。」
    「そうではない。本音を言えば、お前が居てくれた方が心強い。だが、境井砦は別だ。」
    首を振った仁は、どこか気遣うような表情を浮かべていた。
    「ここへ初めて俺を連れてきたときに、言っていたではないか。十五年前の戦の折に、境井砦に捕われていたと。」
    言われてみれば、集落への道すがらにそんな話をした気がする。道行きの退屈しのぎ程度に話したことなので、仁が覚えているとは思わなかった。仁は沈鬱な顔で言葉を続ける。
    「生きて出られた者は少なかったと語っておったし、あまり近寄りたい場所ではなかろう。だから、丶蔵がいなくて良かったと。」
    まさかそんなことを気にしていたとは。丶蔵は驚いて眉を上げた。豪胆な男だと思っていたが、細やかなところもあるらしい。まだ重苦しい顔をしている仁を見て、丶蔵は笑い声を上げた。仁の表情が怪訝なものに変わる。
    「仁、俺がどこであんたを拾ったか忘れたのか?」
    丶蔵の問いかけに、仁ははっとした様子で目を瞠る。丶蔵は穏やかな笑い顔を作って言葉を続ける。
    「思い出したろ、境井砦の側だ。確かに、嫌な思い出のある場所だが、もう十五年も昔の話だ。今更気にしやしねえよ。」
    からからと笑う丶蔵に、仁は安堵した顔で息を吐いた。だが、すぐに曇った表情を丶蔵に向けた。
    「しかし、実際にその場に立てば、どうなるかわからぬだろう。」
    仁はなおも食い下がる。仁自身がその場に立って体験したことなのかもしれない。あの砦を建てたのは仁の父親だ。十五年前の戦いの際に、あの場でなにが起きていたのか、仁が知らないわけがない。ましてや、今はオオタカの毒のおまけ付きだ。相当辛かったに違いない。丶蔵は仁を安心させるために微笑んだ。
    「あの砦には何度も入ってる。大丈夫だ。」
    侍が去り、主のいなくなった砦は島の者達を支えた。憎い侍が造ったものとはいえ、各地の集落では凌ぎ切れないような大水や大風から、島の民を守ったのはあの砦なのだ。丶蔵も、背に腹は代えられぬと何度かあの地へ避難した。その時に、侍のいない境井砦のあっけのなさに拍子抜けしたことをよく覚えている。だから、あの地を恐れる気持ちは、既にない。恐れる地があるとすれば、木田触の跡地と、もう一つ。それは、今話すべきことではない。
    「そうか。」
    ようやく納得した様子で呟いた仁の声で、物思いから覚める。仁の顔は、まだ浮かない色をしていた。境井砦でのことがかなりの負担になっているようだ。
    「辛かったんだな。」
    丶蔵の呟きに、仁は素直に肯いた。また強がりを言うと思っていたので、丶蔵は意外な反応に目を瞬かせた。だが、素直なのは悪いことではない。抱え込むよりは吐き出してしまった方が良い。仁にここで折れられては困るのだ。話せと言っても、先程と同じく壁を作られるのがおちだろう。丶蔵は少し考えて口を開く。
    「毒のせいか?」
    「それもある。」
    丶蔵の誘導に気付いていない様子で、仁は呟いた。そして、しばらく考え込むように黙り込み、再び口を開く。
    「辛かったのは、戦いに巻き込んでしまった者を何人も死なせてしまったことと、蒙古に虐げられて殺された民が多くいたことだ。……積み上げられた骸は、何度見ても辛い。」
    俺が、もっと早く行っていれば、もっと強ければ。そう言って、仁は目を伏せた。仁が更に言葉を連ねる。
    「境井砦の有様を知っていたのに、助けてやってくれと言われていたのに、行くのが遅すぎた。あの時と同じだ。俺は、何も変われていない。」
    自責の言葉を吐き出し、仁は俯いて頭を振った。丶蔵はその姿を見つめることしかできない。この男は、命を背負いすぎる。酒を酌み交わして、ようやく知ることができた仁の一面だった。彼は救えたはずの命が救えなかったことを、ひどく気に病む。普段は何も気にしていないような、傲岸な振る舞いをするくせに、こうして必要以上に自身を責め立てたりもする。酒のせいかもしれないし、仁の本来の気質なのかもしれない。何故、彼がこうなったのか、丶蔵にはわからない。彼のことを隈なく理解するほど、付き合いは深くも長くもない。十五年前の戦や、蒙古との戦いで、仁が多くを失ったことに関係はあるだろう。それくらいは丶蔵でも想像がつく。そして、十五年前の戦が絡んでいるのならば、丶蔵は素知らぬ顔をしているわけにはいかないのだ。できることは少なくとも、彼の心を和らげるような何かをするべきだ。必死に考えを巡らせ、口を開く。
    「仁、お前はよくやったよ。」
    自分でも情けなくなるような、ありきたりな慰めの言葉。聞き流されても仕方がない。お前になにがわかると責められても仕方がない。だがきっと、自分自身を責め続けるよりはずっとましだ。
    押し黙っていた仁が顔を上げ、丶蔵を見つめる。目には悲哀の色が残っていた。それでも、仁は強引に微笑んだ。心配させまいとする、強がりな笑顔。そんな顔で、もう大丈夫、などと言う。大丈夫という顔には、到底見えなかった。仁は、自らが立った戦場や、目の前での死を、全て自分がもたらしたものだと考えているのかもしれない。だから、死者ばかりを見つめ、自らを責め、苛んでしまう。何でも良い、何か、少しでも、仁の気を紛らわせるものを。懸命に考えるが、何も思い浮かばない。お手上げだ。丶蔵が天を仰いだ時だった。遠くから、歓声が響いた。集落からの声だった。その瞬間、丶蔵はこれだという閃きを得た。
    「仁、聞こえるか?」
    丶蔵の問いかけに、仁は怪訝な顔をした。集落の騒ぎ声だ、と続けると、仁の顔に納得の色が広がった。だが、すぐにそれがどうした、と言いたげな顔に変わる。
    「あそこで騒いでる連中は、お前のおかげでああやっていられるんだ。」
    丶蔵は微笑み、告げた。仁は何かに気付いた様子で目を見開く。その何かは、言わずとも伝わった。それでも、丶蔵はあえて言葉にする。
    「お前が助けたやつも大勢いるんだ。あそこで騒いでる連中は、誰一人としてお前のことを責めたりはしねえよ。遅かったなんて、絶対に言わない。」
    そう、断言する。気にするななんて言えない。死んでいった者達を忘れられるわけがない。丶蔵だってそうだ。だが、生きて隣を歩む者達もいるのだ。それを忘れて、死者のことばかり背負っているわけにもいかないだろう。
    「守り抜いた奴だって、大勢いる。それを忘れるな。」
    「そうだな。」
    集落の方へ目を向け、仁が淡く微笑む。強がりではなく、安らぎの笑顔だった。しばしの間、仁は集落の活気にあふれた音へ耳を傾けていた。それを眺めつつ、丶蔵は酒を口にする。
    「丶蔵、お前は優しいな。」
    丶蔵に向き直った仁が、穏やかに笑って、言った。丶蔵はそれに余裕の笑みを返す。
    「大人の包容力ってやつだな。ありがたく思え。」
    「そのつまらぬ軽口がなければもっと良いのだが。」
    溜息を吐いて仁がぼやく。憎まれ口を叩く程度には元気になったらしい。丶蔵は笑って流し、新たな酒に手を伸ばす。
    「嫌な話で酔いも覚めちまっただろ、飲み直そうぜ。」
    「酒は笑って飲んだ方が良い、だったな。」
    「そういうことだ。」
    互いに酒器を掲げ、一息に酒を呷る。先程まで飲んでいたものよりも、美味く感じたのは、少しばかり気心が知れた仲間が側にいるからだろう。丶蔵はなんとなく仁に目を向けた。仁も、丶蔵を見ていた。目が合って、どちらともなく笑い出す。このまま酔い潰れるのも悪くない。そんな一時だった。


    助けを呼ぶ声を、聞いた気がした。
    丶蔵は目を開いた。船内に灯していた火はいつの間にか消えていたらしく、周囲は暗闇に包まれている。何度か瞬きをして、戸口から差し込む月明かりに目を慣らす。夜半を過ぎた頃合いといったところか。丶蔵は体を起こして周りを眺めた。空いた酒器がいくつも転がっている。酒臭い自らの呼気で、眠る前に仁と酒盛りをしていたことをぼんやりと思い出す。疲れがたまっていたのか、酒を飲んでいるうちに眠り込んでいたらしい。散らかった周囲を見て、はっきりとは覚えていないが、かなりの酒量だったことはわかる。丶蔵は重い頭を押さえ、もう一度付近に散乱した酒器を見回す。この暗がりでは片付けるのも面倒くさい。そのまま二度寝を決め込むか、と考えた時だった。
    穏やかな波音の合間に、微かな呻き声が聞こえた。丶蔵は眉を上げ、声のした方向へ顔を向ける。少し離れた暗がりで、身を投げ出した仁の姿があった。仁は丶蔵に背を向け、体を丸めていた。仁も、酒を飲んでいる最中に眠り込んでしまったのだろう。泥酔した男の姿など、仲間達との酒宴で見慣れている。それほど心配するようなものではない。だが、小さく体を丸めた仁の姿が、何故か境井砦の近くで彼を拾った時の姿に重なった。丶蔵は小さく息を吐いて立ち上がり、仁の元へ歩み寄る。普段なら目を覚ます距離まで近付いたというのに、仁は体を丸めたまま動こうとしない。動けなくなるほど酒を飲んだだけならば、世話の焼ける侍めと軽く小突いて終わる話だ。そうでなかった場合、たとえば、金傷で熱を出したとか、オオタカの毒だとか。そういうもののせいならば、少し心配だ。
    丶蔵は仁のすぐそばにしゃがみ込み、様子をうかがう。肩越しに見えた顔は苦悶に歪み、首筋にはじっとりと汗が滲んでいた。呼吸は浅く、速い。蒙古の集団を屠る時ですら、汗一つかかず、息も乱さないで涼しい顔をしている男が、この有様だ。ただの泥酔ではない。起こしてやった方が良いと判断し、丶蔵は仁の肩をそっと掴み、軽く揺する。
    「仁、大丈夫か。」
    仁はびくりと体を震わせ、目を見開いた。丶蔵の手を振り払い、仁が体を跳ね起こす。悪い夢でも見ていたのか、肩が上下に激しく揺れていた。
    「仁。」
    呼びかけた声に、仁がゆっくりと振り返った。熱に浮かされたような、ぼんやりした瞳が丶蔵に向けられる。この目には見覚えがあった。境井砦で拾った時、集落に案内した時、蒙古の船を奪った時、何度も見た。オオタカの毒に苛まれ、幻を追っている時の仁は、いつもこんな目をしていた。仁の顔がくしゃりと歪む。今にも泣き出しそうな顔だった。体の痛みではない、これは、心の痛み――悲しみに耐える表情だ。何と声をかけたらいいのかわからず、丶蔵は仁を見つめることしかできなかった。仁は歯を食いしばり、顔を伏せる。視線の先の拳は、関節が白くなるほど強く握りしめられていた。
    いつも、こうやって、たった一人で、オオタカの毒に耐えていたのか。飲んだ者ほぼ全ての心を壊すあの恐ろしい毒に。普段は何でもないような顔をしていたせいで、仁も日々オオタカの毒と戦っていることに気付いていなかった。いや、気付かないふりをしていただけか。知ってしまったら、何もせずにいることなど、できやしないのだから。
    丶蔵は自らの手をそっと仁の拳に重ねた。夏も近く、些か寝苦しい暑さの夜だというのに、仁の手は夜の海よりも冷たい。軽く擦ってやると、仁はほんの少し握りしめる力を緩め、顔を上げた。いくらか生気の戻った目が、丶蔵を捉える。仁の唇が微かに動いた。声はなかったが、何か言葉を紡ごうとしているように見える。唇の動きは、誰かの名前のようだった。それが少し気になりはしたが、今は仁の様子の方が気がかりだ。丶蔵は仁の顔を覗き込み、その手をしっかりと握った。
    「仁、大丈夫か。」
    丶蔵の声に、仁ははっとした様子で瞬きをした。何度かそれを繰り返し、仁の瞳がようやく正気付く。表情が和らぎ、握りしめていた拳が解かれた。まだ震えている仁の手を、丶蔵はゆっくりと離した。
    「てん、ぞう……」
    憔悴した掠れ声で、仁は呟いた。ひどく弱々しいが、どこか甘さを含んだ響きだった。仁の目が丶蔵を見つめる。正気付きはしたが、普段の怜悧な鋭さはない。妙に熱っぽい目で、仁は丶蔵の顔を覗き込む。視線がぶつかり、仁が口の端を上げた。いつもの朗らかな笑顔ではなく、仄暗い熱を帯びた妖しい笑み。その艶めかしさに、思わずどきりとして、丶蔵は目をそらす。仁相手に何を考えているのか、と丶蔵は頭を振り、雑念を振り払おうとした。
    その時だった。片頬に、ひやりとした感触があった。驚いて動きを止めると、もう一方の頬にも冷たい感触。ぐい、と強引に顔を動かされ、仁の顔を真正面に捉えた。そこでようやく、両頬に触れているものが、まだ温もりの戻っていない仁の手だと気付いた。冷えた手が丶蔵の頬を撫でる。しなやかな指先が繊細な動きで輪郭をなぞり、整えられていない髭を弄ぶようにかき分ける。太刀を握り、蒙古を屠る手と同じものには思えない動きだった。荒々しさや猛々しさを微塵も感じさせない、慈しむような、確かめるような手つきで、仁は丶蔵の顔に触れていく。
    こんな風に触れられたのはいつ以来だろう。穏やかで、懐かしく、どこかむずがゆい感覚。友も仲間達も、互いに触れる時は、もっと粗暴で、荒々しい。仁は、簡単に振り払える程度の力で、丶蔵に触れていた。その柔らかな触れ方に、不思議と不快感はない。むしろ心地好さすら感じる。なすがままの丶蔵を見つめ、仁は笑みを深くする。その笑みは、やはり普段とは違って、濃艶な色香を纏っていた。何かがおかしい、そう思うのに、仁から目をそらすことができない。仁に、この違和感を伝えなければと思うのに、言葉が浮かばない。丶蔵は凍り付いたように動けないでいた。それを気にも留めず、仁は艶然とした笑みのまま、指先を滑らせる。
    仁の指先が躊躇いがちに丶蔵の唇をなぞった。その瞬間、遠い昔に亡くした妻のことが、丶蔵の頭を過った。こんな時に、誰よりも愛し、大切だった人のことが思い浮かぶなんて。しかも、相手は境井仁だ。姿形も性別も、仕草すらも、妻とは似つかない。それなのに、どうして彼女のことを思い出してしまうのだろう。ただ、この島の誰よりも、優しい手つきで触れてきただけで。
    そして、丶蔵は気が付いた。仁のこの仕草は、大切な人に対してするものだ、と。だから、丶蔵は大切だった人のことを思い出した。それは道理だ。だが、そこで新たな疑問が湧く。
    何故、仁は丶蔵に対してそんな仕草をするのか。目を覚ましてからの仁の行動を思い返す。平素は見せない甘く妖しい笑み。同じく平素にはない過剰なまでの肌の接触。導き出される答えに、丶蔵は目を見開いた。そんなことは、あるわけがない。侍は海賊を見過ごせるはずがないし、海賊だって侍を忌み嫌う。互いに好意を向けることなど有り得ない。だが、丶蔵に考えられる答えはそれだけだった。仁の熱い眼差しを、呆然と見つめ返す。
    これは、よくない。止めなくてはいけない。そう頭では考えているのに、動けない。仁の顔が近付く。頭が働かない。それでも、なにか、彼を止める言葉を。無理矢理思考を巡らせ、丶蔵は口を開く。
    「仁、どうし―――」
    どうしたんだ、と問う言葉が、最後まで紡がれることはなかった。口を塞いだものの感触が、妙に柔らかい。仁の顔がやけに近い。そして、ようやく丶蔵は、自らの口を塞いだものを理解した。仁の唇が、丶蔵のそれと、重ねられていた。
    避けることも止めることもできたはずだ。それなのに、何故。思考に沈む間もなく、仁は更に動く。するりと滑り込んだ舌が、咥内で妖しく蠢いて、丶蔵の内を探る。駄目だ、止めろ、と理性の声が響く。それでも、止められない。丶蔵は自身のそれで、仁のものに触れた。仁が小さく声を漏らし、わずかに退く。丶蔵はすかさず逃れようとした仁を追いかけ、絡め取る。冷えた手とは違う、熱い舌。その感触に、理性が融ける。内から響く制止の声も、最早遠い。丶蔵は仁の背に手を回し、強く引き寄せる。仁がうっとりと目を閉じた。口づけは深まり、互いのものを味わい尽くすように激しく絡め合う。重ねた唇の隙間から、湿った音が零れる。熱さと甘さが欲を煽り立てる。仁の手が頭の後ろへ回され、首筋を撫でる。ひやりとした感触。その冷たさに、丶蔵は目を見開いた。口づけから気がそれた刹那、理性の声が息を吹き返す。
    抱き寄せた腕から力を抜き、ゆっくりと手を離す。仁が目を開き、訝しげに丶蔵を見た。内で追いすがる仁をなだめ、舌と唇が離れる。首筋に添えられていた手が滑り落ち、二人の間に距離が開いた。小波の音とともに、二人分の荒い息遣いが夜の船内に響く。
    呼吸が落ち着くのを待って、丶蔵は顔を上げた。丶蔵を見つめていた仁の目が、それを迎える。平時は夜の湖のように揺らぎ一つ見せない瞳が、大風の外海の如く激しく強い色を帯びていた。武士は感情を御さなければならないのだろう、などと軽口を叩けるような雰囲気ではない。眼差しだけで気を呑まれそうだ。だが、目をそらせばたちまち食い尽くされる、そんな確信があった。
    丶蔵は仁の目をじっと見つめ返す。仁は丶蔵に対して強い感情、それも、おそらく好意的なもの、を向けている。そして、先程の口吸いでも分かるように、情欲も抱いている。何故それらが自分に向けられるのか、丶蔵にはわからなかった。特段好かれるようなことをした覚えはないし、身体だってそう立派なものではない。若くて魅力がある男が、欲するようなものなど、丶蔵には何もないのだ。それなのに、仁は強く求めるような、縋るような目で、丶蔵を見つめている。その眼差しと、先の仁の行為に、丶蔵は困惑していた。
    仁が自分に向けるものは、敵意や殺意、嫌悪だ、とずっと丶蔵は思い込んでいた。仁がかつての敵である壹岐の海賊達と手を組んでいるのは、蒙古を討ち払うという目的のためだ。だから、渋々行動を共にしているだけであって、馴れ合うつもりはないのだと丶蔵は考えていた。酒を酌み交わし、少しはわかり合えたような気持ちを抱きはしたが、互いの立場を越えられるようなものではない。蒙古を討ち果たし、全てが終われば、また敵に戻るのだ、と。だが、仁は害意など微塵もない目で微笑んでいる。馴れ合うな、と丶蔵が自身に言い聞かせて、壁を作っても、お構いなしで懐に入り込んでくる。そんな、魅力的な笑顔だった。かつての敵に、仁にとって最悪の出来事をもたらした者達に、どうしてそんな笑顔を向けられるのか、丶蔵にはわからなかった。
    仁から向けられる好意への困惑と同時に、丶蔵は自身に対する戸惑いを覚えていた。丶蔵は、仁に対してある一線を引いている。どれほど仁が好ましい者であっても、自分は馴れ合ってはいけない、と。彼が境井仁と知ってからは、特に強く自らに言い聞かせてきた。かつて、多くの友を奪った境井正の息子だと思えば、自然と一線は引ける、はずだった。興味のない他人でいられるはずだった。それなのに、丶蔵は仁の行為を拒まなかった。拒むどころか、誘いに応じ、受け入れていた。それに、心地好さすら感じていた。その時に、丶蔵はようやく気付いた。己が仁に好意めいたものを抱いていることに。それが、丶蔵の戸惑いの源だった。
    確かに、仁は善い男だ。侍らしい傲岸さで、この野郎、と思うこともある。それでも、正しいことを為そうと足掻く、ごく普通の、真っ当な青年だ。背負わずとも良いものも、投げ出さずにしっかり抱え込んで、真摯に歩む優しき男だ。この島では誰もが通り過ぎてしまった道、あるいは、歩めなかった道を進もうとする者だ。そんな男は、皆が慕うに決まっている。好ましく思わずにいられるわけがない。どうでもいい他人でいられると考えていた自分が愚かだったのだ。丶蔵は深い溜息を吐き、仁への好意を認めた。
    仁への想いを認めたことで、戸惑いは消えた。だが、代わって丶蔵の胸中を占めたのは、後悔と罪悪感だった。仁を好いているのならば、なおのことあの行為は受け入れるべきではなかった。たとえ今の仁が、自分を好いていたとしても、受け入れてはならなかったのだ。受け入れる前に、隠し事を全て、仁に明かすべきだった。自分が仁を好いているのならば、そうしなくてはならなかった。だが、丶蔵はあの時、仁の行為を、口付けを、受け入れてしまった。それは、大きな過ちだった。
    もっと早く、自身の想いを知っておくべきだった。そうしたら、間違いを犯さずに済んだ。少なくとも知ってさえいれば、何かしらの対処はできた。想いを秘めたまま、躱すことだってできたはずだ。だけど、丶蔵はそれをしなかった。戦に気を取られ、後回しだと目を背けていたせいで、大きな間違いを犯してしまった。この間違いは取り返しがつかない。今後、仁との関係がどうなったとしても、彼を間違いなく傷付ける結果になる。それでも、何か手はないかと必死で思考を巡らせる。仁は丶蔵に真っ直ぐな目を向けたままだった。そこに、少し案じるような色が乗っていた。その気遣う目が、丶蔵を苛む。逃げだしたくなる後ろめたさと、好いた相手には誠実でありたいという思いが拮抗し、辛うじて後者が勝った。仁の目を見返し、丶蔵はどうにか笑みを作る。取り繕うことには慣れているはずなのに、うまくできた気がしない。仁の顔には不安げな翳りが残ったままだ。丶蔵は密かに息を吐き、大げさなくらいの笑顔を作る。仁が案じることは何もないと示すために。仁はしばらく探るような目を丶蔵に向けていたが、やがて納得したのか、小さく肯き、丶蔵へ手を伸ばした。丶蔵は仁を見つめたまま、わずかに身を引いてその手を躱す。仁はそれを見て、不思議そうに瞬きをした。いつの間にか、圧倒されるような雰囲気は消え、幼さすら感じるあどけない眼差しへと変わっていた。
    「仁、お前、一体どうしたんだ。」
    先程言いそびれた問いを、ようやく口にできた。丶蔵の問いに、仁が首を傾げる。何を問われたのかわからない、といった様子だ。
    「急にその……ああいうことをするからよ。」
    秘め事めいた行いのことがなんとなく口に出しづらく、丶蔵は言葉に詰まる。集落の仲間達相手ならば気にもしないが、仁相手だとどうにも憚られる。居心地の悪い気分で丶蔵は仁から目をそらした。くすくすと密やかな声で仁が笑った。
    「好いた者には、ああいうことをするものだろう。」
    仁は、好いた者、とはっきり告げた。それを聞いて、丶蔵は頭を抱えたくなったが、ぐっと堪える。遊びだったと言われれば丶蔵にもまだ逃げ道があった。しかし、仁は丶蔵への好意を明確に口にした。ただの友としての好意なのかもしれない。そうだとしても、なおのこと自分の犯した間違いが痛い。自らの過ちはどうにもならないが、仁が丶蔵に向けている好意がどういう種類のものなのかは知っておくべきだろう。正直手遅れではあるが、傷口を広げないように対処することはできるはずだ。丶蔵は深呼吸をして気を鎮め、口を開く。
    「互いが好きあった者同士でやるもんだろうよ。」
    「それなら、間違いではあるまい。」
    仁は微笑んで言った。自分自身の好意ですら今の今まで気付いていなかったのに、仁は察していたというのか。動揺する丶蔵を気にも留めず、仁が言葉を続ける。
    「好いていなければ、応じはしなかっただろう?」
    そう言って、仁は自らの唇を撫でた。その仕草を思わず目で追い、丶蔵は息を呑む。だめだ、流されるな、と自らに言い聞かせて頭を振る。
    「情がなくとも、できるんだよ、そういうことは。お前だって知ってるだろう。」
    苦々しさを込めて吐き捨てる。自らの想いを押し隠すために。仁は、目を見開き、丶蔵を見つめる。
    「……そう、だな。確かに、そうだ。」
    弱々しく呟き、力なく笑った。傷付いたように顔を歪めた仁を見て、丶蔵はたじろぐ。欲を満たすためだけに、何とも思っていない誰かと共寝することくらいあるだろう。丶蔵も、若い頃はそういうことをした。仁くらいの年頃で、独り身というのならば、普通にあり得ることだ。それを指摘したところで、軽く流すはずだと思っていた。あれは自らの情を隠すための言葉だった。仁を傷付けるつもりで言ったわけではない。仁は痛みに耐えるような顔で笑っていた。そんな顔をさせるつもりはなかった。あんなこと、言うべきではなかった。また、間違えた。丶蔵は奥歯を噛みしめ、仁から目をそらした。
    いっそ、想いを告げてしまえば、という考えが頭を過る。そうできたら、どんなに楽だろう。だが、それは許されない。言うべきことを言わず、隠し事をしたままで、それは言ってはならない。仁に、明かさなくてはならないことがある。それを言わずに、彼の好意を受け止めるわけにはいかないし、自らの好意も伝えるわけにはいかない。丶蔵が抱え込んでいる秘密は、仁が丶蔵に対して抱いている好意を確実に覆すものだ。明かせば、間違いなく仁は丶蔵を嫌悪することになる。丶蔵が向けた好意すらも厭わしく思うことだろう。これまでに築いた、二人の間の心地よい関係が壊れると分かっていて、明かすことなどできなかった。仁が境井仁であると知ってからは、特に明かすわけにはいかなかった。だが、父の死に苛まれる仁を見て、明かさなければと思うのも事実だった。そして今、その秘密は互いの好意のためにも、明かすべきであり、絶対に明かすわけにはいかないものになってしまっている。丶蔵は仁の様子をちらりと横目でうかがった。少し落ち着いた顔になったが、まだ痛々しさがある。今の仁に、あの秘密を聞かせるのは酷だろう。まだ、もう少しだけ、黙っていよう、でも、必ず話す、そう決めて、丶蔵は口を噤む。
    好意を明かせない理由はもう一つある。先程己が発した、拒絶と取られてもおかしくない言葉だ。あんな言葉の後では、本気にされるわけがない。情けをかけた嘘だと思われるのが関の山だろう。それは、仁を更に傷付けるだけだ。せめて、慰めになるような言葉を何かかけてやらなければと思うのに、何一つ思い浮かばない。自らの不甲斐なさにうんざりする。
    「丶蔵。」
    仁が呼ぶ声に、丶蔵は顔を向けた。仁は丶蔵を見ていなかった。目を伏せ、顔をそむけていた。唇を噛み締めた横顔には、迷いの色。何か言おうと、口を開きかけては、止める。仁はそれを幾度か繰り返した。やがて、腹が決まったのか、ゆっくりと丶蔵に目を向け、口を開く。
    「情はなくとも、欲はあるな。」
    その言葉に、丶蔵は思わず身を退いた。口吸いに応じておきながら、好意を否定したのならば、そう考えるのは自然だろう。そして、仁の言う通り、彼への欲は確かにある。しかし、今の状況で共寝などしたら、さらに厄介な事態に陥る。それは避けなければならない。丶蔵が立ち上がって仁と距離を取ろうとした。だが、仁は逃れることを許さず、丶蔵の服を掴んで強引に座らせる。身を乗り出した仁が、腰を落とした丶蔵に這い寄り、その目を覗き込んだ。間近に迫る仁の目には、微かに欲望の火が灯っていた。
    濡れて艶めいた唇の隙間から覗く赤い舌。誘うようにゆっくりとそれが縁をなぞる。先程まで絡めあっていたその感触を思い出し、丶蔵は喉を鳴らした。仁が微笑み、顔を寄せる。
    「仁、お前は、誰を見ているんだ。」
    丶蔵の問いに、仁は息を呑んで動きを止めた。欲に揺れた目に、迷いの色が戻る。俯いて目を伏せた仁の表情は、丶蔵からは見えない。喉元に当たる吐息は熱く、荒い。
    仁の様子を見守りながら、丶蔵は仁がオオタカの毒で魘されていたことを思い出した。正気付いたように見えていても、まだ、毒の幻が残っていたとしたら。丶蔵と呼んではいるが、別の誰かに見えていたとしたら。仁が見せた好意が、丶蔵に対するものでなかったとしたら。自らの想像に、丶蔵は苦いものを覚える。目覚めたときに、仁は何かを言おうとしていた。あれは、誰かの名だった。丶蔵ではない、丶蔵の知らない、誰か。
    「仁、誰かと間違えてるんなら、やめとけ。」
    仁の肩を掴み、丶蔵はゆっくりと告げた。仁の肩がわずかに跳ね、長い睫毛がふるえる。一度の口吸い程度なら、まだ、間違いだったで止められる。取り返しのつかない過ちだが、その先を続けるよりはマシだ。これ以上は、冗談では済まされない。
    仁が呼ぼうとしていた名は、丶蔵の名ではなかったことはわかっていた。唇を重ねる前に、気付いてはいたのだ。本当は、その時に止めるべきだった。だが、止めなかった。仁が弱っているのを知っていて、つけ込んだ。好意に自覚はなくとも、仁を欲していた。想いを告げる気もない癖に、仁が求めているのだからと言い訳をして、受け入れた。あのことを知らせることなく、仁を手に入れられる好機だと。そして、一度体を重ねてしまえば、秘密を明かしても情を盾に身を守れるという目論みもあった。自分の浅ましさに嫌気がさす。このままではいけない。自分達は、一時の欲に流されて良い関係ではないのだ。丶蔵は深い息を吐き、心を決めた。今この場で、全てを明かすべきだ。
    「仁、俺は――」
    丶蔵の声に、仁はゆっくりと頭を振った。仁の急な動きに、丶蔵は思わず言葉を止める。仁は制止する丶蔵の手をそっと解いた。
    「間違えてなど、おらぬ。」
    仁ははっきりと告げる。そして、顔を上げ、丶蔵を見据えた。その目は真っ直ぐに澄みきっていた。酒気の濁りも、オオタカの毒の淀みもない。はっきりとした意志と、仄かな情欲の熱があった。素直な感情を映した瞳が、丶蔵を見つめる。そこに、好意があるのは、確かだった。幻を重ねた誰かに対するものではない。そうあってほしいという、丶蔵の願望を映したものでもない。仁の強い眼差しに、決意が鈍る。仁の好意を嬉しく思う心が、紡ごうとしていた言葉を塞き止めた。受け止める勇気もないくせに、拒むこともできない。卑劣で、不実だ。後ろめたさに、丶蔵は目をそらす。
    「年上を揶揄うんじゃねえよ。」
    「揶揄っているように見えるか?」
    冗談にして、逃れることを、仁は許さなかった。丶蔵の顔に手を添え、自らの方へ誘う。逃れようと思えば逃れられる程度の力なのに、抗えない。仁の目は真っ直ぐに丶蔵を迎えた。真剣な目で丶蔵を見据える。仁が本気なのは、とうに知っている。だが、それは、受け入れてはならないものだ。黙り込んだまま見つめ合う。やがて、仁が口を開いた。
    「武士は嫌いだろう、それも、境井家の者だ。」
    自らを嘲るように仁が笑う。唐突な仁の言葉に困惑しつつ、丶蔵は肯く。
    「ああ、嫌いだね。」
    武士も、境井家も、大嫌いだ。蛇に出くわした方がまだマシだ。それが丶蔵の素直な気持ちだ。だが、何故急にそんなことを言うのだろう。丶蔵の怪訝な顔を見て、仁は口の端を吊り上げた。
    「それを、いいようにできることなど、滅多にないぞ?」
    仁は艶めいた笑みを浮かべ、自らを投げ与える言葉を言い放った。襟元をじわりと寛げて、丶蔵ににじり寄る。折り目正しい佇まいを崩した仁の姿を見たのは初めてだった。いつも整った姿をした者が、ほんの少し乱れた、ただそれだけのことなのに、激しく欲を煽る。しどけなく緩めた襟元から覗く若々しい肌が目に痛い。丶蔵は身を退きつつ、妖しい色香を纏う仁から目をそらす。
    「馬鹿なことを、言ってるんじゃねえよ。」
    苦い表情で荒々しく吐き捨てる。だが、仁は丶蔵の言葉に構うことなく身を寄せてくる。丶蔵は舌打ちを零し、仁の胸元に手を伸ばした。仁の目が期待の色を帯びる。それを無視して、襟元を掴み、ぐいと乱暴に戻す。
    「抱かぬのか。」
    戻された着物を見下ろし、仁は不思議そうな顔で呟いた。そして、寂しそうに笑う。何も心配はないのだと、優しく抱きしめて背を撫でてやりたくなるような、守ってやりたくなるような、そんな顔をしていた。思わず伸ばしかけた手を握り締め、下ろす。肌を晒して欲を煽るよりも余程効果がある。だけど、駄目だ、流されるな。同じことを繰り返すな。丶蔵は自らに言い聞かせ、ゆるゆると頭を振る。深く息を吸い、腹を括って口を開く。
    「俺は」
    「丶蔵。」
    今度こそと発した言葉を、仁が遮った。澄んだ黒い瞳が丶蔵の目を覗き込む。
    「俺は、お前が欲しい。」
    仁の手が丶蔵の頬に触れ、愛しげに撫でる。
    「情がなくとも構わない。欲のはけ口で良い。だから、」
    抱いてくれ。そう囁いて、仁は微笑んだ。


    心は通わせられずとも、せめて、身体だけでも。そんな、諦めの色が強く滲んだ、哀しい笑みだった。仁の想いに、応えてやりたい。哀しい顔をせずとも、自らを貶めずとも、身体を投げ渡さずとも、お前を好いていると言ってやりたい。だが、それには、秘密を明かさなくてはいけない。
    先程の決意は、既に逃げ去った後だった。もう一度と思っても、仁の誘いが、哀しい笑みが、それを挫く。今、秘密を明かせば、間違いなく仁を深く傷付ける。仁を苦しめたいわけではない。秘密を明かさずとも、仁が求めているのだから、今は応じてしまえ、と、自らの悪しき部分が囁く。仁が今欲しているものは、寂しさと哀しみを紛らわせる人の温かさだ。遠い昔の、悍ましい真実ではない。丶蔵は目を閉じ、考える。そして、決めた。
    丶蔵は目を開き、仁の顔をしっかりと見た。仁は、哀しい微笑みを浮かべたままだった。これは、仁のためにすることだ、そう言い聞かせて、丶蔵は手を伸ばし、仁の背に触れる。仁の肩がわずかに跳ねた。見開いた目に微笑みを返し、宥めるように優しく背を撫でる。仁の身体から強張りが抜けるまで繰り返しゆっくりと撫でてやる。仁が熱い吐息を零し、身体から力が抜けた。腕に力をこめ、そっと抱き寄せる。抵抗はない。互いの顔が近付く。一瞬触れ合う程度の、軽く短い口付け。鼻先が当たりそうな距離で、見つめ合う。互いの目に欲望の火が灯っていた。頬に触れていた仁の手が滑り、丶蔵の髪をかきわける。頭に回された手に力が入り、仁の方へと引き寄せられる。再び二人は唇を重ねた。今度は、深く、長く。絡めた舌が、唇の間から濡れた音を漏らす。淫猥な響きが劣情を煽る。丶蔵は自身の強い昂りを感じた。そういう欲はとうに縁のないものだと思っていたものだが、そうでもなかったらしい。強烈な肉への欲求が沸き起こる。目の前の熱い体を強く抱きしめ、食い尽すように唇を貪る。この若い身体の全てを手に入れたい、思うままに食い散らしてしまいたい、そんな凶暴な欲望が思考を占めていく。
    「……っは……ん……」
    唇が一瞬離れた隙間から、仁が小さく呻く声が聞こえた。その声にはっとして、丶蔵は抱きしめていた手を緩め、ゆっくりと唇を離す。二人の間に繋がる唾液の糸が、名残惜しそうに切れる。長い口付けで乱れた呼吸を整える。久し振りの欲に翻弄され、身勝手な行為になってしまった。これは、自分の欲を満たすための行為ではなく、仁のためにすることなのだ、と、丶蔵は自身に強く言い聞かせる。
    「――すまん。」
    息が整うのを待って、丶蔵は呟いた。
    「誘ったのは俺だ。丶蔵は悪くない。」
    頭を振った仁が微笑み、再びその身を寄せる。丶蔵は仁の身体を抱きとめ、腕の中におさまった仁を見下ろす。仁は丶蔵の首に顔を寄せ、唇を這わせた。小さく啄む音を聞きながら、丶蔵は仁の背を撫でる。仁の熱い呼気と、唇が与える刺激で欲が高まる。押し倒したくなる衝動を宥めるために、丶蔵は無心で仁の身体を撫でる。しっかりと肉の詰まった背の感触と、火照った体温が布越しに伝わってくる。
    「どうして、俺なんだ。」
    仁の身体を撫でながら、丶蔵はぽつりと零した。膨れ上がる欲から気をそらすための呟きであって、答えを求めたわけではない。仁は気にせずに好きにしていればいいと思っていた。だが、仁は行為を止め、丶蔵を見上げた。
    「丶蔵は、優しいからな。」
    たとえ侍だろうと、相手が弱っていたら、手を差し伸べる、そういう男だ。そう言って、仁は微笑む。仁がそんな風に自分を見ていたことに驚き、丶蔵は眉を上げた。
    「優しくなんか、ねえよ。」
    確かに、困っている者へ手を差し伸べることは少なくない。それは、きっと、十五年前の戦のせいだ。あの時できなかったことを、無力だった自分を振り払うためにやっているだけだ。優しさなどではなく、ただの罪滅ぼしに過ぎない。仁を助けたのだって、優しさでも善意でもない。利用しようと思っただけだ。拾った時のあの弱った様子ならば、手向かわれても簡単に殺せると思った。だから、手を差し伸べただけだ。あのままオオタカの毒で潰れていたならば、どこかに捨て置いていただろう。優しさなどではないのだ。丶蔵は小さく息を吐いて頭を振った。
    「買いかぶりだ。」
    苦笑を浮かべた丶蔵を、仁が真っ直ぐな眼差しで見つめる。仁は首を横に振って、丶蔵の言葉を否定する。
    「お前は優しい男だよ、丶蔵。」
    「おっかない侍の前だから、猫を被ってるだけだ。」
    冗談めかして言ってみるが、やはり仁は首を横に振った。
    「猫をかぶってまで、憎い相手に手を差し伸べる者はいないさ。」
    仁の言う通り、壹岐の者にとって憎む対象である侍、それも境井家の者に手を差し伸べたのは事実だ。いくら否定しようとも、仁は納得しないだろう。
    「俺は、お前の優しさにつけこむ悪い男だ。」
    軽い口調とは裏腹に、翳りを帯びた笑みだった。そういう風に振る舞わなければ、また丶蔵が逃れるとでも思っているのだろう。そう思わせてしまった自分が不甲斐ない。丶蔵は仁を抱きしめ、首筋に顔を埋める。
    「……悪い男は、そういうことは言わねえよ。」
    丶蔵は溜息とともに呟く。つけこんだのは、丶蔵の方だ。仁が求めているのだからと言い訳をして、自らの欲を満たすことを選んだ。仁の好意を知りながらもそれを躱し、必要のない罪悪感を抱かせ、自虐的な行為に走らせた。悪い男は、仁ではなく、丶蔵だ。仁との関係を壊すことを恐れて、自らの秘密を明かすことを避け、仁を傷付けた。自分の浅ましさに嫌気がさす。だが、罪悪感などと、高尚なものを抱ける立場ではない。どうせ悪い男なのだ、今更善人面をしようとしても手遅れだ。それならば、何もかも忘れられるくらいに、余計なことを考える余裕もなくなるくらいに、欲に溺れさせてやろう。そう決めた時、仁の手が丶蔵の背を撫でた。顔を埋めたまま動きを止めた丶蔵を心配したのかもしれない。決めたそばからこのザマだ。丶蔵は顔を伏せたまま苦笑を浮かべた。
    丶蔵は顔を上げた。問うような目をした仁に笑みを返す。仁の身体を抱きしめたまま、丶蔵は全身を前に進める。仁は丶蔵の動きに抗わなかった。押し倒された仁が床に身を投げ出す。丶蔵を見上げる仁の目には、欲の昂りがあった。仁の手が丶蔵を引き寄せる。求められるままに唇を重ね、舌を絡める。遠慮のない動きで、仁は丶蔵の内を舐る。丶蔵は仁の動きに応えつつ、仁の内を探る。唇を重ねたまま、仁の手が動き、丶蔵の襟元を掴む。その手で丶蔵の着物を左右に広げ、緩める。唇を離し、丶蔵は仁の手に触れる。
    「そう急くなって。」
    苦笑を浮かべ、仁の首筋に顔を寄せる。片手で仁の襟元を掴み、少しだけ緩める。身に纏う暗色の小袖の合間から、肉付きのよい胸がわずかに晒された。壹岐の男衆にはない、きめ細かな肌。差し込む月の光に照らされてうっすらと浮かんだ汗が光り、その白さが際立つ。震い付きたくなるのを堪えつつも、喉を鳴らす。
    「見るだけでいいのか。」
    仁は悪戯っぽく笑うと、自らの緩んだ襟元をさらに寛げた。胸の頂きが見えそうで見えない、そんな絶妙な肌蹴け具合で丶蔵を誘う。今すぐに仁の全てをこの目におさめたい、邪魔な衣を剥ぎ取ってしまいたい。強烈な欲をぐっと堪え、ゆっくりと仁の首筋に顔を寄せる。興奮で朱に染まりつつあるそこを、唇で啄むように愛でる。吸い付く度に仁は小さく声を漏らす。少しずつ顔を動かし、胸元に触れる。仁の声に艶めいた色が混ざった。その声に煽られ、滑らかな若い肌に軽く歯を立てる。くすぐったそうに甘く笑う声が、その先をねだっているように聞こえた。とても、経験のない者の手管には見えない。丶蔵は体を起こし、横たわる仁を見下ろした。
    「何人と寝た。」
    「悋気か。」
    仁は揶揄うように笑った。笑ってはいたが、目には不安の色が過っていた。丶蔵は、馬鹿言え、と笑い飛ばす。とうに元服を過ぎた男だ。経験があってもおかしいことは何もない。丶蔵とて独り身の寂しさを紛らわすために、誰かと肌を合わせた経験は何度かある。それなりに慣れた身なのは、お互い様といえばお互い様だ。気にするだけ無粋だろう。
    「はじめてだったら面倒くせえだろ。」
    丶蔵の言葉に、仁は呆れた顔をした。同時に、安堵したような吐息を漏らすのも、聞こえた。気にしたくはないのだが、この身体を暴き、良いようにした男が何人もいて、誘いの手管を仕込んだのかと思うと、嫉妬めいた凶暴な情念が沸き起こる。しかし、それを仁にぶつけるのは見当違いだ。丶蔵は仁の道に偶然紛れ込んだだけだ。一夜の火遊びの男に過ぎない。丶蔵は自らにそう言い聞かせ、発してしまった不用意な問いを打ち消すための言葉を重ねる。
    「あとは、むこうであんたと共寝するような奴がいたら、厄介なことになると思っただけだ。」
    あんたと寝て、刺されるようなことはごめんだ、と丶蔵は冗談めいた調子で言った。仁もそれに軽く返してくると丶蔵は思っていた。見下ろした仁の顔は、丶蔵の予想とは大きくかけ離れたものだった。仁がゆっくりと口を開く。
    「案ずるな。」
    低く、平坦な声。軽さは微塵もない。凍り付いた丶蔵を気にも留めず、仁は続ける。
    「俺と寝た男は、皆死んでいる。初めての男も、好いた男も、遊びの男も、この身を穢した男も、全部。」
    そう言って、仁は笑った。うすら寒くなるような、儚くも凄絶な笑み。情を交わさんとする時に見せる表情ではない。彼岸に誘う遣いが居たら、こんな風に笑うのだろう。そんなことを思わせる、恐ろしくも美しい笑みだった。丶蔵はその笑顔に見惚れると同時に、慄いた。
    「床での冗談にしちゃ、趣味が悪いな。」
    自らの抱いた感情を誤魔化すように、丶蔵は軽く笑った。一瞬でも抱いた恐れを、仁に気取られたくなかった。
    「そうだな。」
    肯いた仁が改めて作った笑顔には、閨に相応しい艶めいた色が浮かぶ。先程の背筋が冷えるような笑みが見間違いだったかのようだ。仁は手を伸ばして丶蔵の背に回し、ぐいと自らの方へ引き寄せる。丶蔵は抗わずに仁へ身を寄せ、肌蹴た着物に手をかけた。
    その時だった。仁が息を呑み、身体を震わせた。見開いた目は恐怖と怯えで闇色に染まり、丶蔵ではなく、その後ろの虚空に向けられていた。丶蔵は振り返って背後を確認するが、暗い天井があるだけだ。仁は身を竦め、顔を苦痛に歪めた。瞳は茫洋と煙っている。唇は小刻みに震え、音にならない言葉を紡いでいるように見えた。
    「――オオタカの毒か!」
    丶蔵は舌打ちとともに呟いた。仁の身に起きていることを、ようやく覚った。
    「仁、気を強く持て! 仁!!」
    丶蔵は仁の意識を現へ引き戻そうと必死に呼びかけるが、曇った眼は虚空を彷徨うだけだ。仁は眉根を寄せて苦悶の表情を浮かべる。背に回された手に力がこめられた。震える手が痛みを感じるほどに強く爪を立て、丶蔵の背を掴む。溺れかけた者が助けを求めるような、切実さがあった。丶蔵は抗わず、仁の求めるままに身体を寄せた。引き寄せた丶蔵の肩に、仁が顔を埋めた。表情は見えないが、小さく呻く声と熱く乱れた呼吸で、まだ幻に苛まれていることはわかった。
    「ちがう。」
    小さく頭を振って仁が呟く。声は掠れ、震えていた。仁がこんなにも苦しんでいるのに、肩を貸してやることしかできないのがもどかしい。譫言のように、ちがうちがうと繰り返す声が痛ましかった。オオタカの毒に苦しむ者を癒す方法を、丶蔵は知らない。壹岐でそれを知る者はいないだろう。せめて、何か安らぎを与えられはしないか、丶蔵は必死で考える。思い浮かんだものは大したものではなかった。それでも、何もしないよりはと、少し迷いながら、仁の頭にそっと触れた。仁の身体がびくりと震えた。一瞬震えただけで、それ以上の反応はない。顔は丶蔵の肩に埋められたままだ。竦んで強張った身体も変わりない。触れたことで幻が酷くなったわけではなさそうだ。丶蔵は安堵の息を吐きつつ、ゆっくり仁の髪を撫でる。心配することはないのだと、幼子をあやすような手つきで。何度かそれを繰り返しているうちに、仁の身体から少しずつ強張りが解け、呼吸も徐々に落ち着いていく。やがて、仁は深く息を吐いた。丶蔵は撫でる手を止め、床に手をつく。縋りつくように背に回されていた手から力が抜け、するりと滑り落ちた。丶蔵はゆっくりと身を起こし、仁の顔を見た。幻からは抜け出せたようで、瞳の濁りは消えている。
    「仁、大丈夫か?」
    「――ああ、大事ない。」
    はっきりとした受け答えに、丶蔵はほっと息を吐く。そして、自らに向けられた仁の目を見て、眉を上げた。置き去りにされた童のような目が丶蔵を捉えていた。どうした、と丶蔵が問うより早く、仁は口を開く。
    「……戯れは、これくらいにしておこう。」
    起き上がった仁は、乱れた襟元を正す。今にも泣き出しそうな、哀しい顔をして。丶蔵は思わず仁の手首を掴んでいた。その手をじっと見つめ、仁は顔を伏せてゆるゆると首を横に振る。
    「無理に誘いに乗ることもあるまい。」
    やんわりとした拒絶。あんなにも丶蔵のことを求めていたというのに、一体何が起きた。この急な心変わりの原因は――
    「仁、幻に何を言われた。」
    思い当たったものを口にした。それを聞いた仁が、はっと顔を上げる。丶蔵の目を見た仁は、すぐに視線をそらし、表情を隠すように顔を伏せた。目が合ったのはごくわずかな時間だった。たった一瞬でも、見間違えようがないほど、その眼差しは明らかに助けを求めていた。このままにはしておけない。丶蔵は仁を掴んだままの手に力を込めた。
    「恐れる相手と、無理に寝る必要はなかろう。」
    仁の言葉に、丶蔵はどきりとして顔を強張らせた。
    「やはり、そうか。」
    顔を上げた仁は、丶蔵の表情を見て諦めたように笑う。あの凄絶な笑みに抱いた恐れを、仁は見逃していなかった。確かに、あの時の仁は恐ろしかった。冥人の呼び名に相応しい、この世のものとは思えない凄みがあった。冥府の遣いと言われても誰もが信じるであろう、強烈な死の香りを纏った恐ろしいものだった。
    「仁、違う、そうじゃない。」
    丶蔵は強く頭を振った。恐ろしさを厭うたわけではない。恐ろしいだけなら、とうに仁の元から立ち去っている。仁の、あの笑顔は、確かに恐ろしかった。そして同時に、美しかった。身を焼き尽くされるとしても、手を伸ばさずにはいられない、雷光のようだった。実際に、手を伸ばしてきたのは仁の方だったが、それを拒むには、あの笑顔はあまりにも眩しく、儚かった。たとえ身を滅ぼすことになろうと、受け止めるべきものだった。だから、丶蔵は仁の求めに応じたのだ。決して、無理に乗ったわけではない。だが、隠しきれなかった恐れと曖昧な態度は仁を傷付けた。幻につけ込む隙を与えてしまった。
    掴んだままの仁の手は、微かに震えていた。仁の目には、迷いの色が浮かんでいた。仁もまた、諦めきれずにいる。
    「お前こそ、無理してるだろ。」
    唇を噛みしめて、仁は黙り込む。肯定も否定もないが、顔を見れば、本心を抑えこもうとしていることくらい察しがつく。
    「お前は、お前がしたいことをすればいい。していいんだ。」
    あんな哀しい顔をするくらいなら、我慢なんてしなくていい。幻のことなど考えなくて済むくらいに、甘えさせてやる。ここでは、侍らしくお行儀よく振る舞う必要などない。仁が思うままにしていいのだ。
    仁が丶蔵を見る。本当に良いのか、と問うような目だった。
    「對馬ではどうだか知らねえが、ここではいちいちお前を気にする奴なんざいねえよ。だから、お前の好きにしていいんだ。」
    對馬では家だの冥人だのとしがらみも多かろうが、壹岐では関わりのない話だ。この島では、一人前になった者がどこで何をしようと、誰も口出ししない。関わりあう者達が納得さえしていれば、あとは自由だ。仁は丶蔵の重ねた言葉に耳を傾けていた。そして、今にも、そうだな、と納得し、肯きそうに見えた。だが、それでも、仁は頭を振った。
    「――駄目だ、許されない。」
    心は傾ききっている癖に、仁は頑なにそれを拒む。拒んでいても、それが本心には思えない。仁は拒絶の言葉を口にしながらも、丶蔵に縋るような目を向けていた。あの懇願を受け止めた時に、今宵は仁の好きにさせようと、丶蔵は決めていた。仁が本心から望むことならば、全力で付き合うつもりだった。仁が自らの意志で寝ないと決めたのならばそれはいい。だが、仁が求めを取り下げたのは、オオタカの毒で幻を見た直後だ。不自然なまでに態度を急変させた。仁が本気で望んでいることには、到底思えなかった。
    「幻のせいか?」
    仁を見据え、丶蔵は問いを口にした。仁の表情が強張る。先程から尋ねているのに、仁は幻について話そうとしない。肯定も否定もせず、口を閉ざしたままだ。その沈黙が、幻のせいなのだと何よりも雄弁に語っていた。
    「幻のせいなんだな。」
    念を押すように繰り返した丶蔵から、仁は目をそらして顔を伏せた。やはり、答える言葉はない。だが、態度は明白だった。仁が何も言わないのは、改めて口に出すことさえ恐ろしい幻だったのかもしれない。そのことを考えもしなかった自分に丶蔵は呆れかえった。態度を急変させるくらいのものなのだから、恐ろしくて当然だろう。それを話せなどと、随分酷いことを言ってしまった。自らの不用意さに腹が立つ。丶蔵は荒く息を吐いた。それを聞き、仁は顔を上げて丶蔵を見た。何でもない、と丶蔵は軽く笑って返す。仁はしばらく怪訝な目を向けていたが、やがてまた目をそらした。また幻について聞かれるのが嫌なのだろう。幻がどんなものだったのか、仁の様子から想像することしかできない。丶蔵が考えたことは的外れなのかもしれない。それでも、仁が自らの望みを、本心を口にできることを願って、丶蔵は言葉を探す。
    「仁。」
    名を呼ばれ、仁は少しだけ顔を上げ、丶蔵を見た。また同じことを訊くつもりか、と不快感を露わにした目だった。
    「幻のこと、しつこく訊いて悪かった。」
    丶蔵はまず謝罪を口にする。それを聞いて、仁は目を瞬かせた。幾分か驚きの色が含まれていたが、随分と落ち着いた目をしていた。仁の様子に安堵しつつ、その上で言う、と丶蔵は前おきをして言葉を続ける。
    「お前が何を見たのか、俺は知らん。だから、勝手なことを言うぞ。オオタカの毒だろうと、所詮幻は幻。現には手出しできやしねえんだ。そんなものに振り回されなくていい。お前が本当に望むことを言ってくれ。」
    平静さを取り戻したかに見えた瞳が大きく揺らぐ。仁は歯を食いしばり、揺らぎを押し殺そうとしていた。拳を握りしめ、深呼吸をして、どうにか自らを抑えこもうとする仁を、丶蔵は黙って見守る。二人の間に沈黙がおちる。やがて仁は、一際荒々しく息を吐き、立ち合いに臨むかのような鋭い目を丶蔵に向けた。
    「お前に……」
    静寂を破る低く呻く声。丶蔵を睨み据える目には、暗い激情が宿っていた。鋭く息を吸う音。
    「お前に、何がわかる。何も知らぬくせに。」
    血を吐くような、腹の底からの叫び。抑え込み続けた感情が爆ぜた瞬間だった。覆い隠すものが何もない、素直な怒りがこもっていた。誰かに手を差し伸べる度に、幾度も言われてきた言葉。今更そんなものにたじろぎはしない。丶蔵はそれを受け止め、微笑む。
    「言えるじゃねえか、本心。」
    仁は自らの言い放った言葉に茫然としていた。暗い色はすっかり抜け落ち、代わりにひどく狼狽えた目が丶蔵に向けられていた。微笑む丶蔵を、仁は言葉もなくただ見つめていた。まだ、自らが放ってしまった言葉の衝撃から立ち直れていないように見えた。言われた方はまるで気にしていないというのに、可笑しな話だ。丶蔵は苦笑を浮かべ、仁の目を覗き込む。後ろめたさが色濃く滲んだ目をそらさずに、仁は丶蔵の視線を受け止めた。きっと、仁はあんなことを言う気はなかった。いつものように胸のうちに抑え込んで、一人で耐えるつもりだったのだろう。だが、言ってしまった。自らを御しきれないほどに、彼の心は削られていたのだ。仁が今にも逃げ出したくてたまらないという顔をしながら、丶蔵から目をそらさずにいるのは、剥き出しの怒りをぶつけてしまったことを悔いているせいかもしれない。離す機会を見失って、掴んだままだった仁の腕を、丶蔵は軽く擦ってやる。仁がびくりと身を震わせた。
    「仁。」
    丶蔵は穏やかに彼の名を呼んだ。気にすることはない、と安心させたかった。しかし、仁は後悔の色を強く浮かべた顔を、痛々しく歪める。丶蔵が言葉を続けるよりも早く、仁は身を翻そうとした。丶蔵は咄嗟に仁の手を強く引いた。立ち上がろうとしていた仁が、丶蔵の手に引かれ、すとんと腰を落とした。仁は顔をそむけ、丶蔵を見ようとしない。
    「離せ。」
    弱々しい声だった。仁は掴まれた腕をわずかに動かした。それに、ふり解く程の力と勢いはない。
    「離したら、お前はどっかに行っちまうだろ。」
    丶蔵は掴んだ手を離さずに言う。仁は無言のまま丶蔵を見ない。仁の腕力ならば丶蔵の手など簡単に振り払えるだろう。それをしないということは、まだ、迷っている。立ち去りたい程うしろめたいのに、離れたくないと揺れている。仁の心が弱り切っているのは明らかだった。
    「仁、お前の言う通り、俺はお前の事情を知らない。知らないから、勝手なことを言った。それは謝る。」
    何が仁をそんなにも苛んでいるのか、丶蔵は知らない。オオタカの毒が見せる幻など、想像もつかない。何も知らないくせに、と言われ、詰られるのも当然だ。それでも、この手を離すわけにはいかなかった。掴む手に力をこめる。
    「俺はな、人が苦しんでいるのを、ただ見ているだけなのは嫌なんだ。」
    手を伸ばし、仁の頬に触れる。仁はわずかに身動ぎしたが、その手を拒まなかった。そむけられた顔をそっと自らの方へ誘う。抗いはしなかったが、仁は視線を落としたまま丶蔵を見ない。そうすることで、何かを必死で押しとどめようとしているようだった。仁の頬に触れていた手を、顎の下へ動かし、顔を上げさせる。仁の目が丶蔵を捉えた。その機を逃さず、丶蔵は口を開く。
    「だから、教えてくれ。」
    お前を、助けたいんだ。丶蔵は仁の目を真っ直ぐに見つめ、言った。仁は顔を歪め、歯を食いしばって頭を振る。仁はまだ逃げ道を探していた。
    「俺は侍で、境井家の者だ。」
    助けられる資格などないと、自らに言い聞かせるように仁が言う。今にも折れそうな、弱り切った声音で。丶蔵の手から逃げるための言葉を口にしながらも、仁の目には怯えがあった。丶蔵が掴む手に、仁が視線を向ける。まだ離されていないことを確かめるように。それに応えるために、丶蔵は仁の腕を掴む手に力をこめる。目を上げた仁と、丶蔵の視線がぶつかる。
    「関係ねえよ。」
    鋭く告げ、仁の放った逃げの言葉を切って捨てる。彼が新たな逃げ道を見つけるよりも先に、丶蔵は言葉を連ねる。
    「俺が助けたいのは、今、目の前にいるお前だ。身分とか、どこのだれだとかどうでもいい。仁、お前を助けたいんだ。」
    自らの正直な思いをそのまま吐き出した。これ以上の言葉は出てこない。これだけ言っても、仁がまだ逃れるための何かを口にしたら、諦めて手を離すしかない。丶蔵は仁の返答を待つ。仁は痛烈な一打を浴びたような顔をして、丶蔵を見つめていた。それでも、言葉を探し、口を開きかけては閉じることを、幾度も繰り返す。やがて、諦めたようにゆるゆると首を横に振った。
    「どうしてお前は、そんなに優しいんだ。」
    今にも泣き出しそうな、震える声だった。仁の目からは、迷いの色は消えていた。差し伸べた手を取ることを選んでくれた。そのことへの安堵を隠しつつ、丶蔵は笑う。
    「言ったろ、優しくなんかねえよ。俺のは、ただの罪滅ぼしだ。」
    仁は不思議そうに目を瞬かせ、首を傾げた。滑らせた言葉への興味で、いくらか平静さを取り戻したらしい。丶蔵は曖昧な笑みを返し、肩をすくめた。
    「その話は、今じゃなくても良いだろ。今は、お前の話だ、仁。」
    丶蔵の押しに折れたように見えた仁だが、冷静になったらまたはぐらかさないとも限らない。念を押す丶蔵に、仁は小さく肯いた。覚悟を決めた顔だった。丶蔵はそれに肯き返し、仁の言葉を待つ。何を語るべきか、仁は考えている様子だった。これなら、もう逃げ去りはしないだろう。そう判断して、丶蔵は仁に触れていた手を離した。仁は話すことを探すのに集中しているようで、気にも留めない。
    考え込んだまま、いくらか時が経った。だが、仁はまだ口を開こうとしない。丶蔵は苦笑を浮かべ、仁に声をかける。
    「きれいに話そうなんて思わなくていい。ため込んだこと、なんでもいいからぶちまけちまえ。全部受け止めてやるからよ。」
    「それではあまりにもお前に甘えすぎてしまう。」
    遠慮がちに言う仁が、いじらしくも微笑ましい。いくら自分が辛くとも、他人を慮ってしまうのは彼の性分なのだろう。丶蔵は気にするな、と言って軽く笑う。
    「好きなだけ甘えちまえ。いくらでも甘やかしてやるさ。」
    冗談めかした調子の丶蔵に、仁は淡い微笑を返した。弱々しくも、確かに笑っていた。それを見て、丶蔵は密かに安堵の息を吐く。仁が苦しむ顔も、泣きそうな顔も見たくない。かといって、無理をした笑顔を見るのも辛い。強がりではなく、素直に笑っていてほしい。自分のつまらない言葉で、少しでも笑わせられたのならば、悪くない。そんなことを考えながら、丶蔵は仁を見守る。

    やがて、仁は小さく息を吐き、困ったように笑って口を開いた。
    「俺にとって、心は御すべきものだった。長らく、そういう教えを受けてきた。だから、想いを言葉にすることに慣れておらんのだ。」
    「めんどくせえ生き方だな。」
    「確かに。」
    友にも同じことを言われた、と仁は懐かしそうな目をした。痛みや哀しみ、寂しさを伴わない、親しい者を純粋に想う顔をしていた。仁にとって、大切で支えとなる者の一人なのだろう。それはきっと、彼が失わずに済んだもののひとつだ。仁にもそういう者がいることに、丶蔵は少しほっとする。
    「だから、幻などに囚われるのかも知れぬな。」
    ぼそりと零した呟きを聞いて、丶蔵は仁に意識を向けた。自嘲するような笑みを浮かべ、仁は自らの内面を探るように目を伏せた。そして、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
    「武士とは、そうやって生きるものだと言い聞かせて、心を御すために、数多の感情を押し殺してきた。」
    丶蔵は仁の静かな述懐に耳を傾ける。仁は、近くに置いたままになっている自らの太刀へ目を向けた。
    「心の乱れは、太刀筋の乱れに繋がる。怒り、哀しみ、憎しみといった、強い感情は、特に。」
    太刀を見据えたまま、仁は言葉を重ねる。
    「戦場で、刃が鈍れば命取りになる。だから、心を抑えこんで、戦の障りになるものは全て無視した。怒りも哀しみも憎しみも、全部。そして、そのまま、なかったことにした。」
    「それは、命を守るために必要だったんだろう。」
    蒙古との苛烈な戦いを凌ぐためには必要なことだったはずだ。口を挟んだ丶蔵に、仁は迷いつつも肯いた。
    「必要なことだった。だが、正しくはなかった。」
    そう呟いて、仁は頭を振った。重苦しい声が続く。
    「なかったことになど、してはいけなかった。抑えこまずに、見定め、認めた上で、制するべきものだった。」
    溜息とともに苦い言葉をこぼす。仁は、間違いだった、と改めて告げた。痛みに耐える顔だった。
    丶蔵は、自分はどう対処してきただろうかと考える。友を、妻子を失った時を思い出す。泣いて、叫んで、喚いて、当たり散らして、塞ぎこんで、心の赴くまま振る舞った。思い返してみれば、目を覆いたくなる程、みっともない行いをしてきた。そんな自分を、ふかや、仲間達が受け止め、励まし、叱咤し、寄り添ってくれた。それが、仁の言う、心を見定めて認め、制することだったのだろう。おかげで、丶蔵は再び立ち上がることができた。今も、立ち止まらずに進めている。一方で、誰にも言えずに抑えこみ、抱え込んできたものもある。それは時折牙を剥き、丶蔵の心を苛む。オオタカの毒などなくとも、抑えこんでなかったことにしたものは、時折息を吹き返しては、欺いた心を責め立てる。なるほど、仁の言う通りだ。丶蔵は小さく息を吐き、口を開く。
    「今からだって、遅くねえよ。」
    丶蔵の言葉を計りかねたのか、仁は不思議そうに瞬きをして首を傾げる。幼さを感じさせる仕草を微笑ましく思いつつ、丶蔵は言葉を連ねる。
    「なかったことにした気持ちを、ふり返って、見直して、確かめていけばいい。オオタカに妙なことを吹き込まれないようによ。」
    仁の顔に納得の色が浮かんだ。同時に、険しい色も。自らが切り捨ててきたものの重さを考えたのだろう。丶蔵は仁の肩を軽く叩き、微笑みを向ける。
    「一人じゃ辛いってんなら、俺にぶつけりゃいい。さっきも言ったろ、全部受け止めてやるって。」
    「本当に、甘やかすな、お前は。」
    仁は呆れたような溜息を零した。そして、物好きめ、と表情をやわらげ、笑う。丶蔵は肩をすくめ、笑いを返す。
    「一度言ったことを曲げたくねえだけさ。」
    仁は目を細め、丶蔵を見つめた。少し眩しそうな眼差しに見えた。
    「お前も、厄介な生き方をしているな。」
    「そうかもな。」
    茶化すように言った仁に、丶蔵は軽い言葉を返す。一度言ったことを曲げたくないと思うのは、失われた約束を取り返したいだけなのかもしれない。丶蔵には、果たせなかった約束が多すぎた。やはりこれも、一種の罪滅ぼしだろう。
    「手を引くなら、今のうちだ。」
    仁の囁きが、丶蔵の思考を遮った。手を離したとしても、気にはしないとでも言いたげな軽い声だった。まだ、そんなことを言うのか、と呆れた顔を仁に向ける。仁の表情は声とまるで合っていなかった。軽口なのだと示すための、装った笑み。寂しさを隠しきれていない、歪な笑顔だった。丶蔵は小さく溜息を吐く。
    「引かねえよ。」
    そう言って、丶蔵は軽い声で笑ってみせた。仁が軽口にしたいのならば、それに合わせるだけだ。無理に応じたと、思わせたくなかった。仁の笑みに安堵の色が増し、いくらか自然なものになった。
    「ほら、うだうだ言ってないで、吐き出しちまえ。」
    「そう言われてもな……。」
    促された仁は眉を寄せて渋い顔をする。出し惜しみをしている、というよりは、何を話したらいいか分からずに困惑しているように見えた。
    「振り返って見直したいことがあるんだろ。だったら、それに連なることをなんでもいいから口にしてみりゃいいんじゃねえか。」
    丶蔵の助言に、仁が考え込む。そして、弱り果てた表情を浮かべた。
    「思い当たるものがありすぎる。」
    「そうきたか。」
    笑い事ではないのだが、仁の困り顔が面白くて笑ってしまう。
    「武士はそういうもんだって生きてきたなら仕方ねえか。育ってきた分全部だもんな。」
    「いや、全部というわけではない。幼き頃は母上が聞いてくださったし、母上亡き後は――」
    仁が言葉を止めた。丶蔵に対しては口に出しにくい者なのかもしれない、と推測する。思い当たる者を、丶蔵は口にする。
    「親父殿か?」
    「違う。」
    首を横に振った仁の顔は、青ざめ、硬く凍りついていた。続く言葉を待つが、仁はひどい顔色で物思いに沈み、黙り込んだままだ。
    「仁?」
    丶蔵の呼びかけで、仁ははっと息を呑み、頭を振った。仁が目を反らしてきた傷の一端に触れた、そんな気がした。容易く言葉にすることもできない、深く古い傷なのだろう。仁の心に踏み込むならば、今がその時だ。だが、丶蔵は少し迷う。手を引くなら、今のうちだ、と囁いた仁の姿が頭を掠める。それと、そう言って寂しく笑った顔も。そして、自分が仁へ言った言葉と、差し出した手を思い出す。
    覚悟を決める。仁の心に、生きてきた道に、これからの道行に、踏み込む覚悟を。
    何を今更、と丶蔵は密かに溜息を吐く。彼の生きる道には、とっくに踏み込んでいる。それこそ、十五年も前に。あの時は、やるべきことだと言い聞かせて、とにかく必死だった。そこに、覚悟などなかった。一人の童の生きる道を大きく変えてしまうことを、考えている余裕すらなかった。ただ踏み荒らして、逃げ去っただけだ。
    此度は、そうはいかない。受け止める、と言った。寄り添うと決めた。手に負えない、と投げ出し逃げるわけにはいかない。
    痛みに耐えるような顔で黙り込む仁に目を向ける。
    「仁、吐き出すなら、こういう時だ。」
    穏やかに微笑み、柔らかな声音で仁を促す。丶蔵に向けられた仁の目は、暗く悲痛な色を帯びていた。丶蔵が言わずとも、自らの傷を言葉にするべきだと気付いてはいたのだろう。仁は何度も口を開きかけては止めることを繰り返していた。その度に、彼の表情は痛々しさを増す。言葉にできないでいる自分に対して、憤り、失望しているように見えた。過去の傷を改めて直視することは、辛く、苦しい。オオタカの毒で心が弱っている仁には、過酷に違いない。それでも、仁は口にしようとすることをやめない。辛くとも、向き合うことを選んだのだ。ならば、丶蔵のやるべきことは決まっている。それを支えて寄り添うだけだ。
    「見直して、確かめるんだろ。」
    丶蔵は不敵に笑い、言った。軽い声で、焚きつけるように。今の仁に必要なのは、辛いなら無理はするな、などと逃げを許す甘さではない。痛みと自らの弱さに立ち向かうための、勇気を奮い立たせる言葉だ。
    仁は目を閉じ、深い息を吐く。しばしの沈黙の後、仁が目を開いた。自身の傷と向き合うことを決めた、強い意志の色があった。
    「――友が、いたのだ。」
    懸命にふり絞った、震える声。痛みに耐えるように仁は顔を歪めていた。それでも、瞳に揺らぎはない。ゆっくりと深い呼吸をしているのは、自らを落ち着けるためだろう。仁が再び口を開く。
    「幼いころからずっと、いつもすぐそばにいた、大切な友が。」
    まだ硬い声が、わずかながらも和らぐ。表情にも柔らかなものが混ざっていた。
    「何がきっかけだったのか、今となっては思い出せない。それくらいに、共に過ごすのが自然だった。」
    懐かしそうに細めた目には、痛みの色が強く滲んでいた。ただ親しかった友を思い出すだけで浮かべる表情ではない。それは、友と一言で片付けるには特別な存在だったであろうことはすぐに察しがついた。丶蔵は仁を見つめ、待つ。
    「あいつは、俺が泣いている時に、ただそばにいてくれた。泣くななんて、言わなかった。武士の子が泣いているのを面白がっていただけだったのかもしれないが、俺には、それがとてもありがたかった。」
    仁の言葉が訥々と続く。
    「母を亡くした後に、俺の心を受け止めてくれたのはあいつだった。そして、武士としての生き方を学び、己を律するようになってからも。自分の心を抑えつけてなかったことにしようとしても、あいつが全部暴きたてるんだ。俺の前でまで、武士らしく無理しようとするんじゃないと。ただの仁でいろと。」
    自らの口が滑らかになっていることに、仁は気付いていないのだろう。堰を切ったように言葉が流れていく。寄り添い合った日のことや、笑い合った日のこと、向こう見ずな行いで肝を冷やした日のこと。友と過ごした日々のことを、仁は語った。遠く、輝かしいものを見るような目で。
    「俺が悪さを考えれば、叱られるのはこっちなんだと文句を言いつつ付き合って、そんなことを言っていたかと思えば、俺よりもずっと性質の悪い悪戯をもちかけてきたり……変な奴だった。」
    ふ、と息を吐き、仁は言葉を止めた。柔らかく、素朴な微笑みが浮かんでいた。きっと、仁が語った誰かの隣で、いつも彼が見せていたものだ。取り繕うことのない、素直で安らかな笑顔。武士としてではなく、ただ一人のどこにでもいるような青年の顔だった。そんな仁の姿に、丶蔵は見惚れた。そして、この笑顔をずっと独り占めしていた者が、ひどく羨ましくなった。
    「好いていたのか?」
    聞かずともわかっていた。あんな顔を向ける相手だったのだから、好いていたに決まっている。それでも、気付いた時には問いは口から滑り落ちていた。
    「誰よりも。」
    迷いなく仁は肯いた。しかし、その顔には翳りが見えた。それを問う間もなく、仁の声が続く。
    「あいつの隣は、何よりも安らぐ場所だった。身軽で、自由でいられた。共にいるだけで心が躍った。肩を並べて戦う時は、誰にも負けないと思えた。ずっと共にいると、疑いもしなかった。」
    真っ直ぐな好意の言葉が並んでいた。受け止めるとは言ったが、些か気恥ずかしさを覚え、少し揶揄いたい気分になり、丶蔵は仁を見た。仁は、笑っていた。
    「あいつが去るなんて、考えもしなかった。」
    好いた者を語るにしては、寂しい笑みだった。その表情を見て、そいつがもう仁の側にいないのだと悟った。去ってしまったとはいえ、ただ親しいだけの友を想うにしては、切ない笑顔だった。とても茶化せるような雰囲気ではない。丶蔵は黙って仁を見守る。
    「ああ、そうか、愛していたのか。」
    確かめるような呟きが、夜の闇にぽつりと落ちた。
    「俺は、あいつを愛していた。」
    仁は改めて告げた。どこか、晴れやかさをもって。そして、悲哀を抱えて。
    この場にいない者だったとしても、既に去った者だったとしても、愛を告げるには、痛々しい顔をしていた。ただの別離のはずがない。想像もつかないような凄惨な決別があったとしか思えない。そいつは、きっと、もう生きてはいないのだろう。仁は激しい痛みに耐えるように目を閉じた。
    失った愛を想うことは、辛く、哀しく、苦しい。丶蔵は遠い昔に亡くした妻子のことを思った。今なお別離の傷は完全に癒えていない。受け止めて、もう大丈夫だと思っていても、ふとした拍子に浮き上がっては、胸に鈍い痛みを残していく。時を経て、ようやく表情に出さずにやり過ごせる程度まで薄まりはしたが、失ったばかりの頃は、ひどいものだった。それこそ、みっともなく泣いて喚いて当たり散らしたものだ。かつての自分を思い出し、丶蔵は苦笑を浮かべた。
    仁が抱える傷は、まだ血を流し続けているに違いない。仁は一度も友の名を口にしなかった。その名を呼べる程、傷は癒えていない。あの述懐は、手当てもせずに放置していた傷を、自ら改めて切り開いたようなものだ。それでも、オオタカの毒で無理にこじ開けられるよりは良いと、自ら暴くことを選んだのだろう。仁は顔を歪め、目を閉じたままだった。彼が口にした思い出は、幸せだった時のものだ。幸福な記憶は、別離の痛みを忘れさせてくれる。だが、それは一瞬のことに過ぎない。それはもう失われて、もう二度と戻ることがないという現実が、更なる痛みを呼び起こす。仁は奥歯を噛みしめ、その痛みに耐えていた。
    深い溜息を吐き出し、仁はゆっくりと目を開く。戦に臨むような精悍さを湛えた目だった。自身の傷と向き合う覚悟を決めたのだろう。仁が決めたこととはいえ、丶蔵には無理をしているようにしか見えなかった。少し気をそらして、和らげてやる必要がある。息抜きになるような、軽い話題を探す。今までの話から離れすぎてはいけない。仁は覚悟を決めたように見えるが、迷いが完全に消えたわけでもないだろう。遠い話題ではそのままするりと逃げられる可能性もある。丶蔵は糸口となるものを探して、仁の様子をうかがう。物思いに沈む仁の目は、自らの内面を見定めようとする懸命さとは別の、仄かで暗い熱を帯びていた。その熱は、丶蔵が既に何度も見たものと同じだった。それは、欲の熱さだ。
    丶蔵の頭に、一つの問いが浮かび上がった。思いついたものは、最低だった。丶蔵は苦い顔をして問いを飲み込もうとした。訊くまでもない。訊くべきではない。訊かずともわかる。それでも、仁の口からはっきりと言ってほしいと思う自分がいるのが最悪だった。丶蔵はふーっと細く息を吐いた。仁だって、きっと、言う気はあるはずだ。そうでなければ、あんな目を見せはしない。そう言い訳をして、丶蔵は口を開く。
    「……そいつとは、共寝も?」
    「………は?」

    唐突な問いに、仁はぽかんと口を開けた。その顔からは、覚悟や真剣さといったものが、丸ごと抜け落ちていた。仁は問いを理解できていないかのように瞬きを数回繰り返し、丶蔵を見つめる。やはり、問うべきではなかった。丶蔵は興味本位で問いを口にしたことを後悔し、何でもない、と言おうとした。その時だった。仁は丶蔵から顔をそむけた。横顔は赤く染まり、目は恥じらうように伏せられている。その反応だけで、答えは明白だった。仁は目を閉じ、動揺を鎮めるためか、深い息を吐く。再び開かれた目には、愛しさと哀しみがあった。
    「初めては、あいつだった。」
    静かな呟きが零れた。ただ、事実を述べるだけの、平坦な響き。同じ調子で仁の声が続く。
    「何度も、身体を重ねた。好いたやつとは、こうするんだと、あいつが言ったから。」
    あえて、淡々と話しているのだろう。抑えた声とはまるで違う、いくつもの感情が入り乱れた目が、丶蔵に向けられていた。
    「睦事の手管など、あいつのために覚えた様なものだ。」
    そう言って、照れくさそうに笑う。仁のはにかんだ笑顔があまりにも幸せそうで、揶揄いの言葉の一つでもかけたい気分になる。丶蔵は小さなため息と苦笑でそれを流し、仁の笑みを眩しく眺めた。
    「だが」と吐き出された声は重かった。あの眩しい笑みは消え、表情は暗く沈む。
    「あいつが俺をどう想っていたのか、今となってはわからぬ。共にあった頃も、わかったつもりになっていただけなのかもしれない。」
    抑揚のない声が続いた。溢れ出しそうな何かを、必死に抑え込んでいるようだった。仁は更に言葉を連ねる。
    「道はとうに別たれていた。もしかしたら、交わっていたと、一番の友だと思っていたのは、俺だけだったのかもしれない。」
    深く重い嘆息が零れた。仁は痛みを堪えるように顔を歪め、ゆっくりと口を開く。
    「あいつはもうおらぬ。どこにも。」
    寂しい声だった。好いた男も死んだ、と凄絶で悲壮な笑みを浮かべていた仁を、丶蔵は思い出す。あの時と似た、悲しみを湛えた目だった。傷に踏み込む前に、軽い話で気が紛れればと思っていた。だが、それがかえって深く踏み込んでしまっていたことに気付く。かける言葉も見つからず、丶蔵はただ黙って聞いていることしかできない。
    「俺が、斬った。」
    季節外れの凍てついた夜風が吹き抜けたような気がした。温度のない声で仁は告げた。わずかでも感情を乗せたら、全て崩れてしまう。それ故に、全てを抑えこもうとしているように見えた。儚く透明な顔で、仁は続ける。
    「あいつは、敵の手をとり、守るべき民を手にかけた。故郷に、民に、俺に、全てに背を向けた。」
    重苦しい溜息とともに投げられる声は、どこか空疎だった。物語を読みあげるような、虚ろな響き。それはまだ仁自身が受け止め切れていないことなのだろう。仁の顔がわずかに歪む。目には、激情が吹き荒れていた。
    「あいつのせいで、友が死んだ。命の恩人の、弟だった。」
    怒りと哀しみが闇色の目に渦巻く。仁は弱々しく頭を振った。
    「死なせたくなかった。だが、許すわけにはいかなかった。あいつは、討つべき敵となり果ててしまった。俺の想いだけでは、どうにもできなかった。」
    表情のない青ざめた顔で、仁が呟く。激情が吹き荒れる眼は、遠くへ向けられていた。
    「誰よりも好いていたのに。失いたくなかったのに。他に道はないと、あいつが望んだと言い聞かせて、斬った。」
    凍てついた声は、微かに震えていた。仁は言葉を止め、歯を食いしばる。自らの揺らぎを抑えこんで、再び口を開く。
    「俺が、殺した。」
    冷たく静かに告げた。自身を深く傷付け、切り刻む、咎の告白だった。仁の顔にはほんのわずかに、哀しみの色があった。
    「――痛ましかったな。」
    丶蔵が思わず零した呟きに、仁は顔を歪めた。泣き出しそうな顔に見えた。泣きたいなら、泣けばいいと思った。胸くらいは貸してやれる。
    仁は深く息を吸って、吐いた。そして、何かを振り払うように頭を振り、耐えた。自分には哀しむ資格なんてないというように。仁はもう一度深く息を吸った。
    「最も愛した者も、最も憎んだ者も、この手で斬った。」
    続いた静かな声に、揺らぎはない。
    「俺と情を交わした者は誰一人生きてはいない。」
    似た言葉を、仁は既に口にしていた。あの時は笑っていた。冥府の遣いのような、凄絶な美しさで。今、仁の顔に笑みはない。自身の傷を暴き、切り刻んだ後に、そんな余裕があるわけがない。それでも、仁は痛みも哀しみも堪えて、普段の顔を装った。隠しきれなかった憔悴が、仁の目に色濃く影を落とす。酷く暗い目をしたまま、遠くを、そして、自らの内面を見つめていた。泣きそうな程辛いくせに、ただ一人で耐えようとしている。吐き出せばいいと、甘えればいいと、丶蔵は何度も言った。しかし、仁はそれを自身に許さない。
    「守ると誓ったのに、皆、死んだ。守れなかった。」
    仁の声が大きく揺れた。闇夜の暗さに沈んだ目が、激情に乱れる。仁は顔を伏せ、表情を隠す。口にした言葉は、取り繕う余裕すらも奪っていた。
    「俺の、せいだ。」
    小さく、弱々しい呟きだった。
    丶蔵は、仁が抱える傷の正体をようやく理解した。守りたいものを、守るべきものを、守れなかった。それが、きっと、傷の芯だ。命を背負いこみ過ぎるのも、死者ばかり見つめてしまうのも、その傷が根幹なのだろう。そして、それは父親の死に深く根差していたものに違いない。仁が抱える傷を癒す術は、丶蔵にはない。父親に関わるものならば、かえって傷を広げることになりかねない。それでも、仁のためにしてやれることはある。
    近しいものを守れず、失った傷の痛みは、丶蔵もよく知っている。死者に深く思いを寄せ、自らを責め立ててしまうことも、覚えがあった。多分、些細ではあっても、仁の助けにはなってやれるはずだ。痛みや自責との付き合い方や、抱え込まずともよい痛みの手放し方ならわかる。それを教えたところで、一時しのぎに過ぎないが、押し殺してなかったことにして過ごすよりはずっといい。心に抱えた傷を癒す方法は、丶蔵にはわからない。自らの傷だって、完全に癒えたと思ったことはない。一生癒えることはないのかもしれない。少なくとも、添い遂げる覚悟はある。そうやって、痛みとともに生きていくしかないのだろう。
    今、仁を苦しめているのはその傷だけではない。守りたいものを守れなかった、という傷の芯に、自分と情を交わしたせい、という傷を重ね、手に負えないほどの深く大きな傷となってしまっていた。それだけ、多くのものを失ってきたのだろう。誰かを失う度に、守るべき命を守れなかったと自らを責め、幾度も幾度も失い続けて、どうしたらいいのかわからなくとも、戦い続けなければならなかった仁が、不憫だった。守るべきものを守れずに、自らが生き残ってしまったことへの罪悪感もあったはずだ。その罪の意識が、自らが安らぐことを、自らを憐れむことを、誰かに頼ることを許さない。そうやって一人で耐えてきた強さが、気高さが、痛ましく、哀しく、愛しい。
    顔を伏せ、肩を震わせる仁を見つめる。ああそうだ、俺はこいつが愛しいのだ、と丶蔵は自らの想いを改めて認める。ただ流されたわけではなく、罪滅ぼしの義務感でもない。この、憎くも愛しい侍に、安らぎと平穏が訪れることを、丶蔵は心から望んでいた。そのために、できることを考える。
    小さく、深く、息を吸う音がした。
    「俺のせいだ。だから、」
    「違う。」
    仁がふり絞った声を、丶蔵は強く遮る。もうこれ以上、自らを責め苛む言葉を言わせたくなかった。
    「お前に咎はない。責任なんて、感じなくていい。みんな、勝手に生きて勝手に死んだんだ。」
    他人の命など、重すぎる。人は、自分の命だけで既に手一杯だ。他人の分も抱えようとしたところで、本当に大切な数人がせいぜいだろう。それなのに、仁は何人も、何十人も、もしかしたら百や千でも足りないくらいの命を背負おうとしている。潰れそうになるのも当然だ。
    「他人の命なんざ、いくつも背負うもんじゃねえんだよ。重すぎて動けなくなるくらいなら、置いて進んでいい。忘れちまったって、いいんだ。」
    丶蔵の言葉に、仁はびくりと体を震わせた。そして、顔を伏せたまま、ゆるゆると頭を振る。
    「――誓ったのだ。皆を守ると。ならば、守れなかった命は、背負わねばならない。捨て置くことなど、忘れることなど、許されない。」
    「それなら聞くがよ、誰に、許されないんだ。」
    「それは――」
    仁の声が止まった。口にできないのか、したくないのか。仁の表情は隠れているため、丶蔵にはわからない。目をそらさずに、じっと仁の答えを待つ。
    「守れなかった者達、死した者達だ。彼等が、許しはしない。」
    吐き出されたのは、重い声。仁は項垂れ、頭がさらに深く下がっていた。予想していた答えとはいえ、気が重くなる。誰かを失い、死した者達が自分を許すはずがないと自責に沈むことは、丶蔵にも経験があった。今だって、それを完全にふり払えたわけではない。だが、対処法くらいは示してやれる。丶蔵は小さく息を吐き、口を開く。
    「何故だ。」
    短い問いかけに、仁の頭がわずかに揺れる。考えているのか、仁から返ってくる言葉はない。丶蔵はそれを待たずに問いを連ねる。
    「何故、死んだ者たちが許さないと思う。」
    「俺の、せいだから。」
    「何故そう思う。」
    続けて問う。次の答えは、はやかった。
    「俺の力が、足りなかった。手の届くところにいた者も、守りきれなかった。救えなかった。」
    仁の声が止まる。丶蔵は小さく息を吐く。いつかの自分を思い出した。仲間を、妻を、生まれることすらできなかった子を失った時のことを。自分を責めて、差し伸べられた手を取ろうとしなかった。あの時、仲間達がかけてくれた言葉を思い出す。
    「神様も仏様も、皆は救えちゃいない。お前はただの人だ。救えないものがあっても、仕方ねえさ。」
    丶蔵は穏やかな声で仁に語りかける。返ってきたのは沈黙だった。仁の心に響いているのかはわからない。響かずとも、少しでもいいから、ひっかかる何かがあってほしい。酒を酌み交わした時に、守れた命のことに気付けたように。項垂れたままの仁の頭がわずかに動いた。聞いているものだと判断して、丶蔵は続ける。
    「自分が思っているほど、他人は頼りになんてしちゃいねえよ。守れなかったとこっちが気に病んでいても、相手はなんとも思ってないなんてこともしょっちゅうだ。だから、思い詰めることは、ないんだ。」
    「それは、生きている者の話だ。死した者は――」
    仁は言葉を止め、頭を振った。丶蔵は微笑み、口を開く。
    「死んだ奴なら、尚更何も思わんよ。死者はただ、土に還るだけだ。何も残りはしない。何かを想ったり、呪ったりするのは、生きている者たちだけさ。」
    死者に想いを重ねるのは、生きて残された者たちだ。死者の無念を想像し、背負うのも、そうあってほしいという生者たちの勝手な願いに過ぎない。
    「過去は変えられない。俺達が悔いても、自分を呪っても、死した者たちは戻らない。いくら辛くとも、済んだことだと諦めて生きていくしかないんだ。同じ過ちを繰り返さないよう、命をつないでいくことが、生き残った俺達の務めなんだろうよ。」
    「我等の、務め。」
    呟きとともに、仁の頭がわずかに上がった。彼の心に、何かが響いた、そんな気がした。
    「ああ。死者を背負いすぎて、動けないでいたら、他の命を守る前に、死んじまう。あんたたち侍は、死んで責任をとるとか言うのかもしれないけどよ。人は、死んだらおしまいだ。」
    死後の世界や、来世があるかは丶蔵にはわからない。あってほしいという願いはあるが、存在するかもわからないようなところのことを考えても仕方ない。生きている自分達が考えるべきことは、存在が確かな現世でのことだけだ。
    「死んだら、少なくとも、現世の苦痛は終わるかもしれない。楽にはなれるんだろうよ。だけど、それじゃあ次の命を守れない。生き残った俺達が果たすべき務めを果たせない。それで、いいのか。」
    丶蔵は問いを投げかける。それは、かつて丶蔵も突きつけられた問いだった。仁は首を強く横に振る。ほとんど間のない素早い決断。とうに答えはでていたのだろう。
    「死んで楽になるわけにはいかない。俺はまだ、犯した過ちを、正していない。誓いを果たしていない。」
    仁は顔を上げた。そして、告げる。
    「生きねば、ならない。」
    痛みと翳りは彼の目にまだ色濃く残っている。だが、確かな決意の色も、そこにはあった。過去ではなく、未来を見据えようとする目だった。丶蔵はその強い眼差しを受け止め、微笑む。
    「俺も同じだ。」
    生き残ったことは罪ではなくとも、犯した過ちはいくつもある。それは、生きて、正し、償うべきものだ。安易な死など許されない。
    「死者を背負うのもいいさ、果たすべき務めが、生きなきゃならねえ理由が、はっきりする。失った痛みを抱えて生きることも、償いにはなるだろうさ。」
    だけど、と丶蔵は更に言葉を連ねる。
    「背負いすぎて見失ったら、死んで楽になったら、意味がねえ。だから、ほどほどで置いていけ。忘れろとまでは言わねえさ。だけど、いつも抱えこまなきゃいけないもんでもねえよ。それくらい、自分を許してやってもいいだろ。ただ責めるだけじゃ、償いになんかなりゃしねえんだから。」
    「……そうだな。」
    しばしの沈黙の後、仁は肯いた。穏やかな納得の宿った声だった。だが、響きは虚ろで、何か不安をかき立てる。
    「背負わずとも良いものもあるのだろう。」
    続いた声も、ふわふわと軽く、滑るようだった。仁は、丶蔵の言ったことを、理解もしたし、納得もしたのだろう。返された言葉は、それを示している。仁に届いたのだと思った。しかし、丶蔵を見つめる目から、翳りは拭えていない。芯の感じられない声は不吉さがあった。仁を苛む傷は、まだ残っている。
    「だが、背負い続けなければならぬものも、忘れてはならぬものも、あるのだ。」
    重い息とともに吐き出された声は微かに震えていた。仁は痛みに歪む表情を隠すように顔を伏せ、強く頭を振る。
    「俺のせいで、死んだ者たちが、いる。俺と、関わったから、俺と寝たから。」
    仁が絞り出した言葉を聞き、丶蔵は彼の傷を見誤っていたことに気付いた。守るべきものを守れなかったという傷が芯なのは間違いない。見誤っていたのは、もう一つの傷。自分と情を交わしたせい、という傷だ。その傷は、芯に重なっているだけで、単独ではそこまで深いものではないと考えていた。だから、芯さえどうにかできれば、仁も落ち着くのだろうと思っていた。力なく項垂れる仁の姿を見て、丶蔵は考えを改める。もう一つの傷も、芯となっている傷と同等に、深く、大きい。
    「違う。」
    丶蔵は間髪を入れず、鋭く仁の自責を否定する。床を共にした程度で、人が死ぬなど、ただの思い込みだ。仁だって、頭が冷えればそれくらいわかるはずだ。
    「違わない。誰一人として、生きてはいない。俺の欲が、皆を死なせた。」
    仁は丶蔵の言葉を聞き入れなかった。首を激しく横に振り、自分のせいだと叫んでいた。普段の取り澄ました顔からはかけ離れた、憔悴しきった姿だった。この様子では、穏やかに諭したところで、聞き入れはしないだろう。優しく寄り添い、支えるだけでは駄目なのだ。まったく、手のかかる侍だ。丶蔵は微笑み、小さく息を吐く。そして、投げるべき言葉を選び、俯く仁を鋭く見据える。
    「思い上がるんじゃねえよ。」
    丶蔵は厳しく、強い声で言い放った。仁は身を竦ませ、ゆっくりと顔を上げた。目を見開き、驚いた顔は、どこかあどけなく、見る者を居心地の悪い気分にさせる。丶蔵は怯むな、と自らに言い聞かせ、仁を睨むように強く見つめる。彼に対して、少しばかり怒りの気持ちもあることも確かだった。何度も差し伸べた手を、うだうだと理由をつけては離そうとする仁に、怒っていた。
    「人は皆いつか必ず死ぬんだ。誰かと寝たからとか、寝てなかったからとか、そんなのは関係ねえよ。生き死になんて、ただの運だ。だから、絶対にお前のせいじゃない。誰かが死んだのならば、それは、死んだ奴自身と殺した奴のせいだ。」
    死地に赴くことを選び、戦い、死んだのならば、その死は死者が選んだものだ。そこに至るまでの道は、その死には関係ない。ただ一時を共に過ごしただけで、死に追いやったなどと考えるのは、思い上がりだ。
    「たとえ共寝をした者達が、皆死んでいたとしても、その死は彼等自身のものだ。決して、お前のせいなんかじゃない。」
    丶蔵を見つめる仁の目が微かに揺れた。だが、それはまだ弱く、自責を拭いきるには足りない。丶蔵は更に言葉を重ねる。
    「お前と寝た後に死んだ奴はいるのかもしれない。だけど、お前と寝ずとも死んだ奴だって大勢いるだろう。それぞれ何人死んだのか、よく考えてみろ。」
    物事の因果など、誰かが都合よく作った後付けの理由に過ぎない。それぞれの独立した事象を、受け止められるように繋げて考えてしまうのが人なのだろう。そして、繋げずともよいものまで繋げて、がんじがらめになってしまうのも、また人だ。本当に繋がりのある物事もあるかもしれない。だが、そういうものは、ほぼ確実に誰かが仕組んだものだ。誰か一人を追い詰めるためだけに、連なる出来事は自然には起こり得るはずがない。だから、仁の身に起こったことは、偶然だ。そこに繋がりなどないのだと、一つ一つ断ち切って示していく。
    丶蔵の言葉に考え込んでいた仁が、躊躇いながらも口を開く。
    「……寝ずに死んだ者の方が、圧倒的に多い。」
    重い溜息が混じった呟きだった。仁が口にしたのは、自責や心の傷で曇った主観によるものではなく、現実に起こったこと、ただの事実だ。仁自身、情を交わした者が自分のせいで死んだなどと、本当は思いたくないはずだ。そうでなければ、もっと意固地な態度をとっていただろう。丶蔵の言葉を聞き入れることもなく、とうにこの場を去っていたに違いない。この男は、心から決めたことはそう簡単には覆さないのだから。押し切るのならば、今しかない。
    「そうだろ。だから、お前と寝たことと、誰かが死んだことは、まったく別の問題だ。混同するな。それは、お前に責任なんて、ひとつもない。背負う必要なんて、ないんだ。」
    丶蔵はきっぱりと言い切り、仁に微笑みかけた。仁は丶蔵を見つめ、唇を開く。何かを言おうと、唇を動かそうとした。だが、発せられる言葉はなく、動きを止めた唇が閉じられる。再び仁は唇を開き、また閉じた。それが何度か繰り返された。やがて、仁は顔を伏せ、首を左右に振った。小さな溜息を零して、仁は丶蔵に顔を向けた。
    「お前は、やはり、優しいな。」
    その顔には、淡い笑みがあった。今にも泣き出しそうな、諦めたような、疲れ切った笑い顔だった。
    「そうだな、背負わずとも良いものもあるのだろう。」
    吹っ切れた声に、ようやく届いたのだと思った。抱えきれない重荷を置く決意が、やっとできたのだ、と。今、仁が浮かべている笑顔は、手放すことを決めた故のものだと、丶蔵は、そう、思っていた。だから、笑みを返した。
    「それで、良いのかもしれない。」
    呟く声は、朗らかだった。もう、大丈夫、そう思いたかった。
    「――想いなく体を重ねた者は。」
    続いた言葉が不吉に響いた。重く冷たい声に、丶蔵の表情と背筋が凍りつく。
    「慕って体を重ねた者も、体を弄ばれ憎んだ者も、この手で斬った。」
    深い闇色の目は、彼自身の手に向けられていた。
    「俺が、殺した。他の誰でもなく、俺が。」
    うわごとのように呟く。仁は自らの顔を手で覆った。
    「また殺すのか、という囁きが頭から離れない。幻だとわかっているのに、振り払えない。だから、俺は、」
    声はそこで途絶えた。続くはずの言葉はなく、何も言えないまま、仁はただ頭を振っていた。

    仁が頑なに口にしなかった幻の正体を、急な心変わりの源を、丶蔵はようやく悟った。色々と回り道をしたが、やっとその答えにたどり着くことができた。好意や憎悪をもって身を重ねた者を斬った、その深く大きな傷が原因だったのだ。あのとき、仁が共寝をやめようとしたことは、仁自身のためであり、丶蔵のためでもあった。仁が自分をそんなにも想っているなんて、考えもしなかった。その想いは、丶蔵にとって嬉しいものではあるが、自身の抱える秘密が重くのしかかる。仁が言おうとして言えずにいる言葉も、大方察しがついた。自らが想いを寄せた者達と同じことが丶蔵に起こらないように、自分自身の傷を増やさないために、言わなくてはならないものだ。それを察したのならば、丶蔵から言ってやるべきだ。それが、互いのためだ。わかっている。だけど。
    「仁。」
    丶蔵の呼びかけに、仁は顔を上げた。顔を覆った指の間から覗く目は、暗く、虚ろだった。こんな顔をさせたままにはしたくない。仁が本心では求めているものを、諦めさせたくない。
    丶蔵は右手を伸ばし、仁の肩にそっと触れる。仁は身動ぎもせずに受け入れた。振り払われないことを確かめつつ、肩をしっかりと掴む。そして、左の手を仁が自らの顔を覆う手に重ねる。重ねた手を柔らかく包み込み、ゆっくりと下ろさせる。もう片方の手は、仁が自ら下ろしていた。露わになった仁の顔を覗き込む。涸れた目が丶蔵に向けられていた。
    きっともう、疲れ切っていたのだ。過去の傷と向き合うことに。身を苛む幻に耐えることに。想いを、欲を、抑えることに。だから、もういいだろう。今夜だけでも、そういうものを忘れさせてやったって。そうだ、とうに決めていたではないか。いくらでも甘やかしてやると。
    丶蔵は仁に微笑みかけ、口を開く。
    「想いがなければ、そういうことは気しなくていいだろ。」
    「それは……」
    続く言葉はなかった。仁はただ、ゆるゆると首を横に振る。
    仁の想いはよくわかっている。わかってはいるが、秘密を明かさずにそれを受け止めるわけにはいかない。今は慕ってくれていたとしても、丶蔵の隠し事を知れば、仁にとって、憎むべき者となり果てるだろう。慕った者も、憎んだ者も、どちらも仁が自らの手で斬り捨てた者だ。どんなに理由を積み上げたところで、体を重ねれば、仁の傷を更に深くすることは目に見えている。仁のことを想うのならば、彼を宥め、立ち去るのが正しいのだろう。
    それでも、あえて仁の想いに気付いていないふりをして、丶蔵はあの残酷な言葉を放った。宥めて、立ち去ったところで傷が癒えるわけではない。暴いた傷を晒したまま、仁が一人で耐えることになるだけだ。多少、新たな痛みを与えてしまうものだとしても、寄り添うために、言わなければならなかった。仁が今、この場で苦しんでいる過去の傷の痛みを少しでも和らげるために、必要な言葉だった。
    仁を引き寄せようと、丶蔵は彼の肩を掴む手に力をこめた。だが、仁はそれに抗い、首を強く横に振る。
    「駄目だ。」
    吐き出された声は、弱々しい。過去の傷は、まだ仁を縛っている。しかし、向けられた目には、迷いがあった。丶蔵が与えようとしているものを受け入れたいという思いも、間違いなくあるのだ。丶蔵は仁の肩を更に強く掴む。
    「仁、先に求めたのは、お前だ。」
    丶蔵が告げた言葉に、仁の目が揺らぐ。
    「今のお前には、俺が必要なんだろう。」
    仁が抱える痛みや悲哀に触れた。孤独を、自責を知った。だからこそ、ただ欲を満たすだけの行為が仁には必要なのだと思った。苛むものを全て忘れられるような一時が。仁も、きっとそれはわかっている。だからこんなにも迷っている。仁は唇を噛みしめ、目を伏せる。
    「……それでも、駄目だ。駄目なんだ。」
    仁は抑えた声で、拒絶の言葉を繰り返した。深く息を吐いて、迷いを抑えこもうとしていた。だが、次の瞬間、仁の顔は大きく歪んだ。
    「もう誰も、失えない。失いたくない。」
    溢れたのは、痛切な叫び。それが、仁を踏み止まらせている、最後の一線だ。仁は、今にも崩れそうな、泣き出しそうな顔で、丶蔵を見ていた。丶蔵は微笑み、仁の手に重ねていた左手を、優しく握る。
    助けたい、と言った。その言葉を、嘘にはできない。したくない。どうせ嘘をつくのならば、安らげる嘘を、優しい嘘を。
    「死ぬもんか。」
    丶蔵は、穏やかに告げた。それは、なんの保証もできない約束だった。そんなものを、軽々しく口にするべきではない。もし、果たされなければ仁を深く傷つけることになるのはわかっている。だが、今にも砕けそうな仁の心を救うために、必要な言葉はこれしかない。仁の心をこんなにも軋ませた原因は自分にもある。だから、全てを懸けて嘘をつく。
    「十五年前を生き延びたんだ。今回だって、死なねえよ。」
    仁が縋るような目を向けた。信じていいのかと問う、信じたいと願う、切実な眼差しだった。丶蔵は笑ってそれを受け止め、力強く肯いた。
    「生き残ると誓うよ。だから、仁、お前はお前が望むことをすればいい。」
    仁の顔がくしゃりと崩れた。泣いているような顔で、笑っていた。自らを縛るものを投げ捨てて、踏み出すことをやっと選べたのだろう。
    「本当に、俺が望むことをしていいのか。」
    確かめるように口にした仁の目には、まだ少しだけ迷いがあった。気にしているのは、きっと仁の立場のことだ。そういうことも、今は忘れてしまえばいい。
    「お前は、ただの仁でいていいんだ。侍だとか、どこの家の出だとか、冥人だとか、そういうことはどうでもいい。今は全部忘れちまえ。辛いならこのまま對馬に帰ったって構いやしねえよ。」
    「この状況で、俺が姿を消すわけにはいかぬだろう。」
    丶蔵の言葉に、仁は弱々しい苦笑を浮かべた。冗談だと思っているのだろう。丶蔵は、本気だった。戦えるだけの人手は戻ってきた。もう、仁が痛みを抱えてまで戦場に立たなければならない理由はないのだ。
    「自惚れんな。たとえお前がいなくとも、俺達は戦うことをやめない。お前が来なくったって、戦い続けていたさ。だから、俺達のことなんて考えなくていい。お前が望むままに選べばいい。」
    丶蔵は仁の肩を軽く叩き、彼に触れていた手を離した。丶蔵を見つめる仁の目から、迷いの色は消えていた。仁は居住まいを正し、ゆっくりと口を開く。
    「まだ、この地でやりたいことがある。だから、残る。」
    やらねばならないこと、ではなく、やりたいこと、と言った。それなら、丶蔵が口を出すことは何もない。
    「そうか。それならいい。勝手にしな。」
    丶蔵はわざと投げやりに言った。去ってもいいと口にはしたが、仁が残ることを選んだのが嬉しかった。それを言えば、仁に余計な期待を抱かせてしまう。わざと素気ない態度を見せてはみたものの、仁が笑って肯いているということは、言外に含んだ思いは隠せてはいなかったのだろう。
    「それにしても、」
    と仁は小さく溜息を吐いた。
    「お前は本当に、俺を甘やかすな。」
    そう言って、丶蔵に呆れた目を向けた。丶蔵は肩をすくめて苦笑を返す。
    「なんだ、嫌なのか。」
    「嫌というわけでは、ないが。」
    仁の返答は思いの外素直だった。仁も自らの言葉に驚いたのか、眉を上げていた。
    「嫌ではないらしい。」
    仁は笑って言った。それはよかった、と丶蔵は軽い声で応じる。
    「でも、気がかりなことはあるんだろう。」
    丶蔵の問いに、仁は少し考え、困ったような表情を浮かべて肯いた。
    「些か、心苦しい。お前に返せるものが、俺には何もないから。」
    受けた厚意は、どんな相手だろうと返すべきものだと考える律義さは、仁の好ましいところだ。だが、気にするなと言ったところで聞き入れはしない頑なさも、仁にはある。丶蔵が仁を甘やかすと決めた理由は、遠い昔から積み重ねてきた彼への借りと、口にしないと決めた好意だ。だから、仁から返してもらうべきものはない。どう言えば、仁は気にせずに済むかを考え、言葉を選ぶ。
    「俺がお前を甘やかしてるのは、ただの下心だ。」
    「したごころ。」
    ふざけた調子で言った丶蔵の言葉を繰り返し、仁は戸惑った様子で瞬きをする。
    「下心か。」
    改めて口にした時には、何かを企んでいそうな含み笑いを浮かべていた。仁に負担を感じさせないという点での言葉選びとしては、正しかったはずだ。しかし、何かを間違えた気もする。とはいえ、このまま押し通すしかない。
    「そうだよ、下心だ。だから、貸しとか借りとか考えなくていい。甘えたいならいくらでも甘えさせてやるよ。」
    堂々と言い切った丶蔵を、仁は真っ直ぐに見つめていた。その眼差しは、いくらか熱を帯びていた。
    「そういうことなら――」
    仁は軽やかな声で呟き、丶蔵に体を寄せた。自らの胸元におさまった仁を見て、丶蔵は苦笑を浮かべた。
    「なあ、仁よ。この流れは、寝ない方が自然じゃねえか。」
    丶蔵の呟きに、仁が不思議そうな顔で首を傾げる。まるで邪気のない表情に見えるのが悪質だ。
    「全部片付いてからの方が、死ぬ心配とかいらねえだろ。」
    「死なぬ、と言ったのは誰だ。」
    咎めるような、拗ねるような仁の視線。それを受け止め、丶蔵は小さく息を吐く。
    「……俺だな。」
    確かに言った。仁は微笑み、丶蔵の胸を撫でる。見上げる目が、真剣な色を帯びる。
    「証がほしい。お前の言ったことが、まことだと信じられるように。」
    「……わかったよ。」
    長い話の間に、共寝のことを忘れていたら、そのままなかったことにできないか、と密かに思ってもいたのだ。しかし、そんなことはなかったらしい。仁が望むのならば、丶蔵はそれに応じるだけだ。
    「それに、下心、なのだろう。」
    言葉を止め、仁は視線を下げた。その先には、丶蔵の――
    「そのままで、いいのか。」
    悪戯っぽく仁が笑った。つられて見下ろし、元気が良すぎるくらいの自身の状態に気付く。仁が弱っている間は、そんな場合ではないと落ち着いていたはずだ。気にしている余裕はなかったが、そうだと思いたい。再び勢いを取り戻したのは、仁が吹っ切れた様子なのを見て、安心したからだろう。胸元に感じる身体の熱さも、燻っていた欲に再び火を点けた。この有様では、仁に宥める言葉を言ったところで恰好がつかない。自らの体の正直さを恨めしく思いつつ、丶蔵は天を仰ぐ。
    「武士の慎みとか、そういうのがあるんじゃねえのかな!」
    完全に自分の体が悪いのだが、わざわざそれを告げた仁に対して恨み言めいたことを投げてしまう。照れ隠しの八つ当たりだ。そんな丶蔵の様子に、仁はくすくすと控えめながらも愉快そうに笑う。
    「俺の好きにしろと、言ったではないか。」
    往生際悪く言い逃れをしようとする口を塞いだのは、丶蔵が仁のために言った言葉だった。仁が自らのために、それを口にできたことは、嬉しい。ただ、もっと別の場面で言って欲しかったとは思う。丶蔵は複雑な気分で深々と息を吐いた。仁はそんな丶蔵の様子をじっと見つめていた。苦悩や悲哀の翳りが拭い去られた、澄み切った目だった。痛みを誤魔化すためではなく、過去から目をそらすためでもない。もちろん、幻に唆されたせいでもない。仁は自らの意志で、この先を望んでいる。丶蔵は覚悟を決めた。そして、仁の背に両腕を回し、抱きしめる。
    「途中でやめるってのは、もう勘弁してくれよ。」
    近くなった顔を覗き込み、囁く。
    「ああ、大丈夫だ。お前なら。」
    仁は穏やかに肯いた。その顔には、純朴な少年のようでいて、艶めいた笑みがあった。欲を煽る眼差しと触れ合う体の熱さに、丶蔵は自身の強い昂りを感じた。互いに折り合いをつけて、納得をしたのだから、先に進むことは構わない。だが、このまま続けることには、危うさを感じた。丶蔵は深く息を吐き、欲に流されそうになる思考を宥める。
    「仁、言っておきたいことがあるんだが。」
    丶蔵の声に、仁は首を傾げる。無邪気な仕草は狙っているのかわざとなのか。どちらにせよ、今の状況では、たちが悪い、と言いたくなる。それは堪えて、仁に伝えておくべきことを口にする。
    「そのな、なんせ誰かとやるのは久しぶりのもんでな……」
    言葉を止めた丶蔵を、仁は怪訝な顔で見つめている。どう言ったものか、と考えつつ、丶蔵は口を開く。
    「情けねえ話なんだが……ちょっと、加減ができるかわからん。」
    弱り切った声で白状した。今この瞬間も、気を抜いたら何をするか自分でもわからない。こんな強烈な欲は、生きてきた中でも覚えがなかった。仁は大きく見開いた目を丶蔵に向けた。そこには、欲と期待の熱が躍っていた。
    「丶蔵なら、いい。望むところだ。」
    柔らかく囁き、仁は甘く微笑む。丶蔵の胸に触れていた仁の右手が緩やかに滑り、脇腹を撫でて更に下へと動く。丶蔵も、仁の背に回していた両手を、右手は下へ、左手は上へと動かす。互いに、帯へ触れて下ろす手を止めた。見つめ合った目に宿る熱さは同じだった。

    後編
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    2022/09/11 20:48:27

    地鏡 前編

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    丶仁話です。境井砦奪還直後の話。長くなりそうなので全年齢部分を前編として分割しました。

    #ゴーストオブツシマ #丶蔵 #境井仁 #丶仁

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