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    Mr. Suicide




    次期大統領選挙も終わり、ベンジャミン・アッシャー大統領の任期は残り僅かとなっていた。
    ロンドンの事件からは、二年が経とうとしていた。
    ホワイトハウス事件からは、約四年。その一年半前には、大統領夫人が亡くなる事故があった。
    人々の間で密かに囁かれている噂がある。アッシャー大統領は、二年おきに災厄を呼び寄せる不運体質である、という。
    退任間際の現在、前回の災厄からは、二年が過ぎようとしていた。






    ロンドンの事件から二年が経った日、世界各地では、追悼行事が開かれていた。標的として大統領が狙われ、多くの護衛官が命を落としたアメリカ合衆国では、大規模な追悼式典が執り行われていた。
    トランブル副大統領の式辞から始まり、事件解決のために全力を尽くした長官たちの追悼の辞が続く。そして、遺族代表の言葉が始まった。遺族代表は、女性だった。仕事でロンドンを訪れていた夫が、テロに巻き込まれ、亡くなったのだと聞いていた。時折声を詰まらせて夫の死を悼みながらも、女性は気丈な微笑を見せ、前に進もうという希望を感じさせる追悼の言葉を捧げていた。彼女の心からの言葉に、ベンは聞き入っていた。技巧や小細工がなくても、思いを込めた真摯な言葉は、聞く人の心に届くのだ。堂々と語る女性の姿に、眩しさを感じ、ベンは目を細めた。彼女の次が、大統領であるベンの出番だ。犠牲になった人々を、失望させるような振る舞いはできない、と気を引き締める。
    女性の言葉が終わり、会場は厳かな拍手に包まれた。女性はハンカチで目を押さえ、一礼して壇上から下りた。そして、司会が次の次第を告げる。彼の出番だ。ベンは立ち上がり、追悼の言葉を述べていた女性を出迎えた。女性と握手をし、短くはあるが、哀惜の言葉をかけた。彼女の壇上での言葉に、少しでも応えたいと思ったのだ。女性は目頭を押さえた。ベンは彼女をそっと抱きとめた。遺族代表とのハグは予定通りなので、問題はない。彼女はベンの背に手を回した。そして、身体を彼に押し付けた。これほどまでの抱擁になるとは予想していなかったが、対応可能な範囲内だ。対処しようとする護衛官達を目で制する。護衛官が困った様子ではあったが、位置に戻った時だった。女性が耳元に唇を寄せた。
    「何が最高の大統領よ、私の夫を返してよ……」
    冷え切った囁き。背筋に刃を突きつけられたようだった。
    ロンドンの事件で夫を亡くしながらも、気丈な微笑を浮かべて追悼の言葉を述べていた女性のはずだった。悲しみを乗り越え、前に進もうと、そう語っていたはずだった。
    そして、最後に、軽く抱擁をして終わる、それだけのはずだった。
    だが、未亡人は毒を隠し持っていた。その毒を、彼が露わにすれば、彼女は自分のせいで更なる不幸に追いやられてしまう。既に、彼女の幸せを奪ってしまったというのに。
    彼は動揺を押し隠した。囁きは、彼以外の誰にも届いてはいなかった。体を離した彼女は、先ほどとは違った笑みを浮かべていた。彼が必死に押し隠そうとしている動揺の一端を感じ取り、狙い通りになったことを知る、勝利の笑みだった。最高の大統領などと思ったことはないが、世間ではそう評されることが少なくはない。そんな彼を、わずかでも崩してやろう、ただそれだけが目的だったのだろう。だから、彼女にとっては、既にこの勝敗は決したも同然なのだ。武力によるテロよりも、余程効果的で、恐ろしい攻撃だった。きっと、彼女のような、善良な市民でありながらも恐ろしい毒を持った者は少なくないのだ。ここで揺らぎを見せれば、同じような輩につけ込まれる。だから、淡々と、粛々と、何事もなかったように終わらせなければいけない。ベンはいつものように、笑顔を作り、歩き出す。前に立つ彼女を避けるわけにはいかない。毒蛇のような笑みを浮かべる女性の横をすり抜ける。通りがかりに、再び彼女が囁いた。
    「もちろん、夫の名はご存知ですよね、大統領?」
    ぞっとする囁きだった。そして、最悪の攻撃だった。彼女に背を向けていられることに心の底から安堵した。笑顔を取り繕うことができなくなるほどに、衝撃を与える言葉だった。ベンは強張った顔のまま、逃げるように壇上へ向かった。壇上に立っても、険しい表情を崩すことはできなかった。
    彼女に問われて、犠牲になった人々の顔も名前も知らないことに愕然とした。いや、知ってはいるのだ。あの事件の後に、長い長い犠牲者のリストの全てに目を通した。数えきれないほどだった。
    彼等のことを忘れてはいけない、そう心に決めていた。だが、自分は覚えてはいなかった。
    自分のせいで死んだ者達の名を、忘れていたのだ。
    自分で決めたことも守れないなど、あまりにも情けない。自らの不甲斐なさへの怒りと、犠牲者のことを忘れていた罪悪感、大切だったはずのものを容易く忘れてしまうことへの恐怖。ロンドンの事件についても、心の整理が未だにできていないというのに、更なる重荷を押し付けられ、とても平静を装うことなどできなかった。この精神状態を反映してか、スピーチの出来も散々だった。とちる、言い間違えを頻発する、順番を間違える。誰もが彼らしくないと思うに違いないくらい、ひどいものだった。会場の隅で、勝ち誇った笑みを浮かべる彼女に気付いた。ベンには彼女をどうすることもできない。ただ、今できることは、歯を食いしばって、痛みに耐え、今の仕事をやり過ごすことだけだった。早く終われ、スピーチ原稿を機械的に読み上げながら、ベンはただ一心に祈っていた。


    暗い寝室で、ベッドに腰かけ、目を閉じる。
    追悼式典での出来事が、心に重く伸し掛かっていた。ホワイトハウスの事件も、ロンドンの事件も、一般市民の犠牲者は膨大だった。どちらも、犠牲者を出す原因となった存在は、アメリカ合衆国大統領だった。マイクは、原因はテロリストであって、彼に罪はないと断言していた。だが、ベン自身はどうしてもそう思うことはできなかった。彼らの死に、責任はあるのだ。数多くの犠牲者を出しながらも、原因の一つである大統領は生き延びている。それが、犠牲者達の遺族からどう映るか、想像したことがなかったわけではない。憎まれても仕方のないことだと心の隅で考えてはいた。だが、それを直接目の当たりにすることはなかったのだ。なぜなら、彼自身も被害者だったから。彼が安全な場所で指揮を執るだけだったならば、多くの悪意に晒されていただろう。あの惨劇の中に身を置き、彼自身も傷だらけになったが故に、悪意の矛を向けられることはなかった。被害者という立場に、ずっと守られていたのだ。だから、善良な人々から向けられる悪意の痛みを知らなかった。遺族から向けられた悪意の刃は、気付かずに負った傷を、こじ開けた。彼女の言葉で、目を逸らして、忘れていた傷があったことに、気付かされた。あの恐ろしい体験をなかったことにして、どうにか日々をやり過ごしてきたのだ。自分を守るためだと言い聞かせて、目を背けて、いつしか本当に忘れていた。それが、深い傷を負った善き人々の目にどう映っていただろうか。
    ホワイトハウス事件後に語った、自らの言葉を思い出す。失った人々を記憶に刻もうと言ったことを。決して忘れないと言ったことを。自らの言葉も守らずに、のうのうと生きる大統領を、遺族たちはどう思っていただろうか。
    その答えの一つが、今日の出来事だったのだろう。
    ベッドに倒れ込み、額を押さえる。嫌な動悸がして落ち着かない。とっくに完治した傷痕が、妙に疼く。
    古傷の痛みに耐えながら、今、思い出せる限りの死者たちの顔を思い浮かべる。思い出せるだけでも相当な数だということに気付き、暗澹とした気分になる。
    心に刻んだ死者達に、最高の護衛官であり、最も信頼する友が加わっていないことに少しだけ安堵する。そして、いつかそこに彼が加わるかもしれない恐怖に怯える。
    この恐怖に、いつまで耐えなくてはいけないのか。この恐怖が、なくなる日は来るのか。
    答えはわかっている。彼が生きている限りは、きっとなくならない。たとえ、大統領でなくなったとしても、元大統領であるベンジャミン・アッシャーが生きている限りは、ずっと続くのだ。
    彼はまだ50代にさしかかったばかりだ。多分、残りの人生は短くない。その間も、ずっとこの恐怖に耐えていけるのか。
    答えの出ない問いが、頭にこびりついていた。
    今夜は眠れそうにない。




    追悼式典の日から数日が過ぎた。後任の大統領も決まり、任期もわずかとなってきた今は、それほど仕事に追われるわけでもない。一時期の激務、と呼ぶには甘いくらいの忙殺された日々に比べると、ベンはかなり早くに私室へ切り上げるようになっていた。一人息子のコナーは全寮制の学校に在学中のため、私室に戻ったところで、ベンは一人きりだ。護衛官でもある友人を話し相手に誘うこともあったが、ここのところはそういう気分でもない。淡々と日常生活で済ませるべきことを済ませ、寝室に入る。ベッドに腰かけて、思考に沈む。
    瞼に浮かぶ今は亡き人達の名を、心の内で呼び連ねていく。
    皆、優秀な善き人だった。近くにいた者達は、そうやって、思いを馳せることができる。
    だが、リストの中でしか知らない人はどうやって悼めば良いのか、全く分からない。リストに記されていたのは、顔写真と名前と、仕事と家族構成、そして、どう死んだのか。どう生きたかまでは知ることができない。
    リストの中の人々のことを考える時、頭に浮かぶのは、瞬きもせずに彼を見つめる写真と、その死の間際の姿だった。二つの事件で多くの死を見たせいか、写真の中でしか知らない人々の生きている姿を想像するよりも、死の姿を想像する方が容易かった。そして、想像の中の死者の目は、いつも彼を責めていた。お前のせいで死んだのだと。そして、問い続けていた。自分たちの犠牲の上に、お前は何を成したのかと。何も映していないはずなのに、強く訴える死者の目を見つめ続けられるほど、強い人間ではない。死者の目を思う時、背筋に冷たい刃を刺しこまれるような、最悪な気分になる。そして、喚き散らして、自分には関係ないと逃げ出したくなる。
    だが、もう目を背けているわけにはいかない。彼らの命への責任は、間違いなくあったのだ。今まで先送りにしてきた支払いは成されなくてはいけない。彼が大統領としてできることはもう多くない。任期は迫り、残り時間はわずかだ。
    彼等の犠牲に見合うだけの働きはできたのだろうか。その評価は、自分ではできそうにない。
    ベンは深い溜息を吐く。残された時間で、何かをしなくてはという焦りがあった。何をするべきか、その答えを探すために、死者たちのことを考える。そして、その死を思って、恐怖に囚われ、何も考えられなくなる。追悼式典の日から、堂々巡りする思考に、疲弊しきっていた。ロンドンの事件の後にも似た様な状態になったことを思い出す。あの時は、手を差し伸べてくれた人がいた。ベンが最も信頼する、最高の護衛官、マイク・バニング。マイクは、きっと異変を感じ取っていることだろう。彼の気遣うような視線と、何か言いたげな表情には気付いていた。それでも、ベンはそれに気付いていないふりをしていた。いつまでも、彼に頼って甘えているわけにはいかないのだ。任期が終われば、マイクは次の大統領の護衛という仕事が待っている。そして、自分は一人になる。一人で耐えていくことを覚える必要があるのだ。
    マイクを遠ざける理由は、もう一つあった。
    人々が噂する、ベンジャミン・アッシャーの不運のジンクスだ。約2年おきに訪れる災厄。口にする者の多くは、冗談のつもりだろうが、当事者であるベンにとっては、身が竦むほどに恐ろしい言葉だ。どの災厄も恐ろしいものだったが、規模で言えば、回を重ねるごとに災厄の大きさは増している。絶対に起きてもらっては困るのだが、もし次の災厄が訪れたら、間違いなくロンドン以上のものになるはずだ。災厄が自分だけに降りかかるのならば、諦めはつく。一般市民や、自分以外の者が犠牲になることは、考えたくなかった。あんな悪意を浴びて、退任し、普通の生活になど戻れるわけがない。
    そして、マイクのことだ。大統領を狙う者達に、彼の名は知れ渡っている。ベンを狙うよりも先に、彼を始末しようと考えるテロリストは少なくない。現実に、CIAからの情報で、マイクへの暗殺計画があったという報告は何件も受けているし、マイク自身が返り討ちにしたものもあると聞いている。
    マイクは、ベンが災厄に巻き込まれれば、何を賭しても守り抜こうとするだろう。だが、彼ももう若いわけではない。ベンほどではないだろうが、年齢による衰えはあるだろう。以前のように、災厄全てをなぎ倒せるとは限らないのだ。そして、マイク自身は、大統領の盾になることになんの躊躇もない。自らが父であり、夫であり、かけがえのない友であることなど考えはしないだろう。マイクが自分のせいで命を落とすことなど、彼の妻子からあの悪意を向けられることなど、考えたくもない。
    次の災厄など訪れるわけがない、そう言い聞かせて日々を過ごしている。だが、何か悪いことが起こるかもしれない、不安と恐怖は消せない。ならばせめて、恐れの源になるものを少なくするべきだろう。そうして、少しずつではあるが、マイクから距離を置くようになっていた。マイクが悪いわけではない。不安と恐怖に耐えられない、自らの弱さが悪いのだ。彼とたわいのない会話を交わしたいと思う時は、少なくないのだ。それでも、今は耐えるべきだ。退任直前にこんな振る舞いをして、彼がこの先も友人と思ってくれるかはわからないが、この世に彼がいない人生など、考えたくもない。だから、絶対に災厄はないと言い切れるまでは、マイクを近づけるわけにはいかないのだ。
    式典の日から思考は揺らぎ、不安定になっている自覚はある。そして、こういう時ほど、あの優秀な護衛官の言葉が必要なこともわかっている。それでも、ベンは決めたのだ。この選択に、後悔はなかった。
    ベンは深く息を吸い込み、天井を見上げた。




    執務室に入るベンを見送り、マイクは待機場所に立った。ここ数日、ベンの顔色が悪い。ロンドン事件の追悼式典の日から、ひどく沈んでいるように見える。朝のジョギングの時や、普段のちょっとした会話で、何度か探りを入れてみたが、ベンははぐらかすばかりで、彼が何に頭を悩ませているのかはつかめていなかった。今のところは、ロンドン事件の直後のほど、深刻そうには見えないので、無理に追及はしないようにしているが、あまりにも沈んだ状態が続くようなら手を打った方が良いだろう。マイクは扉の向こうにいる主のことを考えつつ、油断なく執務室前の警護を続けていた。
    突然、無線通信が入った。定時連絡ではない。無線の相手は大統領付の補佐官だった、緊急の来客らしい。相手を聞いて、マイクは了解の旨を伝え、客を出迎えるべく、姿勢を正した。しばらくすると、二人の人間を連れた、トランブル副大統領が姿を現した。トランブルはマイクに気付くと、親しみを込めた笑顔を見せた。
    「やあ、マイク。」
    「副大統領。それに、シークレットサービス長官と……国家情報長官?」
    来訪者は予め聞いていたが、改めて見ると、不思議な組み合わせだ。大統領警護の責任者に、国の情報部門の最高責任者。この面々がそろうことはめったにない。そして、二人の長官はやけに険しい表情を浮かべている。長官たちの様子から、大統領の身の危険に関する情報が入ったことが推測される。マイクは表情を引き締め、副大統領に目を向けた。
    「副大統領、私も聞く必要がある話ですか?」
    マイクは大統領警護班の主任だ。大統領の危険に関する話ならば、聞いておかなくてはならない。真面目な表情で見つめるマイクに、トランブルは笑って首をすくめる。
    「我々も大統領からの呼び出しでね。この3人で来るように、というお達しだ。仲間はずれですまんな、マイク。」
    「――そうですか。」
    ベンが安全に関する話でマイクを外すというのはかなり不自然だが、彼が直々にそう言っていたと副大統領から聞かされれば、命令を飲み込むしかない。かなり不本意ではあるが、マイクは待機場所へと下がり、三人を執務室へ促す。トランブルが執務室の扉をノックし、中からどうぞ、と応じる大統領の声が聞こえた。マイクは本当に自分が聞く必要がないのか、ベンに問いかけたい衝動に駆られたが、今は職務中だと自らに言い聞かせ、待機場所で三人の背を見送った。マイクが聞くべき話ならば、ベンは直接話してくれるはずだ。彼は不必要に隠し事をするような人間ではない。もっとも、彼が必要だと判断した場合は、何があろうと口を割ることはないのだが。マイクはなんとなく落ち着かない気分で、何事かの話し合いがされている執務室の扉を見つめていた。
    執務室では、大統領と副大統領、二人の長官の話し合いに、かなりの時間が費やされていた。途中で何度か激しく言い合っているような声も聞こえていた。何度か中に声をかけたが、問題ないという返事が返ってきて、言い合いも落ち着く、という繰り返しだったため、マイクには中で何が話し合われていたのかはわからない。シークレットサービス長官もいたため、大統領警護主任であるマイクに途中でお呼びがかかるかもしれないと、身構えてはいたのだが、話し合いに呼ばれる気配はない。中での話し合いはかなりの機密性を要求する内容なのだろう。うっかりこの話し合いの内容を耳にする、ということはなさそうだ。
    話し合いが始まって、2時間程経った。トランブル副大統領が、疲れた様子で執務室から出てきた。二人の長官はまだ中から出てこない。トランブルは執務室の前に待機するマイクに気付くと、小さく肩をすくめてみせた。
    「マイク、仕事は順調かな?」
    「ええ、何事もなく。副大統領達はいかがでした?」
    「我々は――」
    トランブルは背後の執務室の扉を見遣り、苦い笑みを作った。
    「順調ではないな。だが、私にできそうなことはもうないのでね、先に退室させてもらったよ。」
    「そう、ですか……。」
    副大統領の言葉に、無理やりにでも自分も会議に参加するべきだったかと、マイクは執務室の扉に目を向ける。扉をノックするために上げた手を、トランブルがそっと押しとどめる。
    「マイク、あの話し合いに、君の出る幕はない。」
    「シークレットサービス長官と国家情報長官がそろっていたんですよ? 大統領の安全に関する案件だと推測するのは容易です。その案件に、私の出る幕はないと?」
    「さすがマイク、鋭い推測だ。だが、今回の案件に関して言えば、君にできることはないよ。」
    トランブルが言い聞かせるように言う。内容を熟知している彼が言うのならば、その通りなのだろう。副大統領に険しい表情を向けるが、彼は堪えた様子もなく、マイクの視線を正面から受け止めていた。さすがは老練の政治家だ。トランブルは深い溜息を吐き、小声で何かを呟く。
    「マイクならばアッシャー大統領に考え直すように説得できるかもしれないが……。」
    「副大統領、何か?」
    トランブルの呟きがよく聞こえず、マイクは聞き返すが、彼は首を横に振った。
    「――いや、何でもない。」
    「……そう、ですか。」
    どことなく歯切れの悪い副大統領に怪訝な視線を向ける。トランブルは困ったような微笑を浮かべていた。
    「マイク、一つ助言を良いかな。」
    「助言、ですか?」
    「ああ、君は大統領の優秀な護衛官だ。私からの助言などいらないかもしれないが、老人のお節介だと思って聞いてくれ。」
    「お節介だなんてとんでもない。」
    トランブルはマイクが敬意を払う数少ない人間の一人だ。その人物からの助言というならば、聞かないわけにはいかない。
    「護衛の責任者とはいえ、どうしようもないこともあるだろう。だから、もし大統領に何かがあったとしても、君が責を負う必要はない。君は彼に何かあると自分を責めすぎることがあるから心配なんだ。」
    「……まるで、何かが起こるのが分かっているかのような口ぶりですが?」
    マイクは副大統領へ鋭い視線を向ける。やはり、今の話し合いは大統領の身の安全に関するものだったのだ。それならば、自分は内容を知っておく必要がある。トランブルはマイクを制するように、片手を上げた。
    「マイク、早とちりするんじゃない。大統領も私も任期の残りがわずかとはいえ、何も起こらないとは言い切れないというだけだ。」
    「可能性の話というには、具体的な何かを思い浮かべているように聞こえましたがね。」
    歯切れの悪いトランブルの言葉に、マイクは食い下がる。間違いなく重要な何かを隠している様子だ。だが、その何かをつかませないのは、老練の政治家の手腕だろう。テロリストが相手ならば、尋問でいくらでも引き出せるが、政治家相手は厄介だ。
    「具体的というわけではないが、マイク、君も耳にしたことはあるだろう。」
    アッシャー大統領の二年おきの災厄だ、とトランブルが告げる。マイクはその言葉に、苦い表情を浮かべる。
    「副大統領、まさかあなたもあんなしょうもない噂を信じているんですか?」
    「信じているわけではないさ。だが、心構えくらいは必要だろう。」
    「そういう余計なものは必要ありません。俺が起こさせませんから。」
    「まったく、頼もしい限りだ。」
    マイクの言葉に、トランブルは呆れたような笑いを見せた。マイクとしては、本気なのだが、どうも冗談ととられたようだ。不本意だ、と顔をしかめ、さらに言葉を続けるために口を開く。
    「――副大統領、」
    「マイク、その言葉は、大統領に直接伝えるんだ。」
    「どういうことです?」
    「私から言えるのはそれだけだ。」
    副大統領はそう言って、この話題は終わりだ、といった様子で口を閉じた。まったくわけがわからない。マイクはやれやれ、と肩をすくめる。
    「――マイク、彼を頼むよ。」
    「――言われずとも。」
    マイクの即答に、トランブルは満足そうに肯き、去っていった。結局、副大統領は何を伝えたかったのか、マイクにはよくわからなかった。彼に言われた通りに、ベンと直接話してみるしかないのだろう。執務室の中では、まだ長官二人との話し合いが続いているようだ。
    執務室の扉に鋭い視線を向け、マイクは深い溜息を吐いた。




    以前は、あんな無茶な計画を考えることはなかっただろうし、それを実行しようとも思わなかっただろう。
    だが、もう限界だった。失う恐怖に怯え、耐える日々に疲れてしまった。
    最終的な決定の前に、自分の考えを伝えておくべき者がいた。
    11月も終わりに差し掛かった頃のある夜、話すべき相手を居住区の一室に呼び出した。机を挟んで座り、彼は、訥々と紡がれる言葉を黙って聞いていた。こんな弱い姿は見せるべきではないと思っていた。だが、見せられる相手は、一人しかいなかった。
    「マイクには話した?」
    長い話を終えて、口を開いたコナーの第一声はそれだった。ベンは口をつぐみ、テーブルに目を落として、首を横に振った。マイクには、絶対に話せないし、この計画がわずかでも知られるわけにはいかない。黙り込む父の様子を見て、コナーは溜息を吐く。
    「父さんがそれで良いって全部納得して決めたのなら、僕に反対する理由はないよ。」
    父さんがそうしたいと思う気持ちもわかるから。コナーは呟き、窓辺に目を向けた。亡き妻と、三人で撮った数少ない家族写真が飾られていた。
    「父さんが言うことを、本当に実行したとしても、一生会えなくなるわけじゃないんでしょう?」
    「ああ、それは、約束する。」
    「なら、僕はそれでいい。何も手を打たないでいて、何かが起きて父さんもいなくなってしまうよりは、ずっと良い。」
    コナーの強い笑みに、目を細める。いつの間にか、息子はこんなにも逞しく成長していた。そして、これからも、強く生きていってくれることだろう。
    「でもね、父さん、本当にマイクに伝えなくていいの?」
    「随分とマイクを気にするな、コナー。」
    「当たり前だよ。母さんの事故の後のマイクのことを忘れたの?」
    「それは……忘れるわけはないだろう。」
    あの時のことを思い出す。最愛の妻を失い、途方に暮れていた。マイクのあの時の判断は、正しかったのだ。彼女ではなく、大統領を優先した。護衛官として、何よりも正しい判断だった。そして、事故の後も、大統領の身を守るという最優先の任務にあたることも、護衛官として何も間違ってはいなかったのだ。それは、理屈ではわかっていた。だが、マイクの以前と変わらない態度に、彼女の不在を強く感じてしまい、耐えられなかったのだ。マイクが、表には出さないだけで、どれほど自分を責めているかも考えることができなかった。彼女を守れなかった分も、自分を守ろうとしてくれているなどと、考える余裕すらなかったのだ。そして、マイクを護衛から外した。彼の、理由を求める静かな問いに、答えもせずに。その後、マイクがひどく荒れていたという噂は耳にしていた。何とかしてやりたいとは思った。だが、彼を呼び戻すだけの勇気がなかったのだ。命の恩人に対して、最悪の仕打ちだったと思う。
    自分が考えているのは、あの時よりももっとひどい。マイクに懐いていたコナーが、彼を案じるのも仕方のないことだろう。
    「マイクなら、大丈夫さ。」
    「本当にそう思ってる?」
    「―――ああ。」
    ベンは微笑み、肯く。数日前の、マイクの言葉を思い出す。
    ――何を怖がっているか知らないが、災厄なんて、俺が起こさせませんから。
    マイクは、そうやって素っ気なく告げた。無茶苦茶な言葉だとは思ったが、何よりも安心できる言葉だった。
    マイクならば、きっと何が起きても大丈夫だ。そして、彼がその言葉を向けるべき相手は、もう自分ではないだろう。本来ならば、二年前に正しい相手に彼を返すべきだったのだ。
    あの言葉で、ようやく決心がついた。
    コナーは父の顔を見つめ、再び溜息を吐く。
    「父さんは決めたことは曲げないからね。」
    「政治家は頑固でわがままなのを知らなかった?」
    ベンはおどけた笑みを浮かべて見せた。コナーも、よく似た笑みを返す。
    「知ってるよ。大統領だもんね、この国で一番の頑固でわがままだ。」
    「その通り。」
    コナーの指摘に、肩をすくめる。その後も、コナーは、正しく鋭い指摘を繰り出してきた。嘘つき、忘れっぽい、などなど、痛い指摘をしてくれる。
    「コナーが野党の議員でなくてよかったよ。」
    「そう? だったら政治家になるのも悪くないかな。」
    「あまり楽しい仕事じゃないよ。」
    自らの政治家人生を振り返り、苦笑をこぼす。仕事で楽しいと思ったことはなかった。やるべきことがあると思ったから、この仕事を選んだだけだ。家族にも、周囲にも、多くの負担をかけた。息子に勧めたいと思う仕事ではない。
    「でも、コナーがやりたいと思うのならば、やってみたらいい。」
    きっと、亡き妻もそう言うことだろう。コナーは困ったように笑った。
    「なんか、遺言みたいになってない?」
    「それは縁起でもないな。この話はこれくらいでやめておこう。」
    「うん、そうしよう。」
    コナーは肯き、立ち上がった。明日にはまた学校に戻らなくてはいけないと言っていたが、随分遅くまで話してしまった。自分もそろそろ寝室に引き上げなくては、と席を立つ。正面に立ったコナーは、真っ直ぐな視線を父に向けた。
    「父さん、さっきの話、本当にやるんだね?」
    念を押すような問いかけだった。不安の色を帯びた息子の視線をしっかりと受け止め、安心させるように微笑を浮かべる。
    「ああ、やるよ。」
    「――そっか、じゃあ、しばらく会えそうにないね。」
    「――そうだな。」
    逡巡も見せずに肯く父の姿に、コナーは深く息を吐いた。
    「父さん、どうか無事で。」
    「ありがとう。コナーも元気で。」
    二人で固く抱擁を交わした。これが最後にならないことを祈って、強く。
    コナーの髪を撫でる。自分とよく似た、柔らかな髪質だった。いつもならば、子供扱いするなと怒られるところだが、今日はそれもなかった。息子からの気遣いなのだろう。あまり甘えすぎるのも気が引ける。少し名残惜しく思う程度で、身を離す。次に会うために、心残りくらいはあってもいいだろう。そして、感謝の気持ちを込めて、軽く肩を叩く。
    「おやすみ、コナー。」
    「おやすみ、父さん。」
    親子は、何事もなかったように別れた。これが、長い別れになることはわかっていた。それでも、二人はいつも通りの夜を装った。




    12月の街並みは華やいで見える。至る所にクリスマスツリーが並び、イルミネーションやライトアップで、寒い夜も明るく照らし出されている。ケネディセンターでのコンサート鑑賞を終えた大統領を乗せて、リムジンはホワイトハウスに向かっていた。マイクはリムジンの助手席で、車窓から見える街並みに異変はないか、鋭い警戒の視線を向けていた。夜も遅い時間の上に、シークレットサービスが人払いと車両規制をしているおかげか、異変が起こりそうな気配はない。マイクは警戒を緩め、ルームミラーに目を向けた。後部座席のベンは何かの書類に目を落としている。彼が車の中で何かを読んでいることは少なくない。ベテラン運転手の巧みな運転とはいえ、動く車の中で平然と物を読むベンの姿に、大統領というのは三半規管も強くないといけないのか、とマイクは漫然とした思考を巡らせる。ミラー越しのマイクの視線に気付いたのか、ベンは書類から目を上げ、ルームミラーを覗き込んだ。ミラー越しに目が合う。
    「マイク、今夜の予定は?」
    「あなたを何事もなく送り届ける以外は、特に何も。」
    今は深夜シフトの期間ではない。大統領の外出の指揮のために出勤してきただけで、本来ならば非番である。今の仕事が滞りなく終われば、妻子の待つ家に帰るだけだ。以前はベンから酒の誘いなどもあったものだが、大統領選挙が終わり、次期大統領が決まった頃から、私的な誘いは減り、うっすらと距離を感じるようになっていた。それに対して、マイクは少し寂しさを感じてはいた。だが、ベンも退任後の新しい生活に備えて身辺整理をする時期なのだろうと思い、深く追及はしなかった。だから、今夜もいつも通りに家に帰るだけのつもりだった。
    「――それなら、久しぶりに一杯どうかな?」
    はにかんだような笑顔を見せるベンに、マイクは眉を上げた。
    「……本当に久しぶりですね。それに、突然だ。」
    思わず心の内を零すと、ベンが慌てた様子で手を振った。
    「君にも都合があるだろうから、無理にとは言わないが。」
    「行くに決まっているでしょう。」
    大統領直々のお誘いですから、と続けて、マイクはニヤリと笑って見せる。マイクの笑みに、ベンも悪戯めいた笑いを返す。
    「君はバーボンでできているんだっけ?」
    「まだそれを言いますか。」
    いつかのたわいのない会話を混ぜ返すベンに、苦笑を返す。小さなことでも、覚えていてもらえるのは嬉しいことだ。冴えないジョークではあったが。マイクは緩みそうになる顔を引き締める。
    「お誘いは謹んでお受けします。ですが、まずは無事に帰りつくことが大切です。」
    「ああ、頼りにしているよ、バニング護衛官。」
    ベンがおどけた調子で言い、微笑を浮かべる。マイクは真面目な顔を作って肯く。リムジンの運転手は、二人の会話に口をはさむことはなかったが、呆れたような笑いを浮かべていた。マイクは運転手に肩をすくめ、今の会話は秘密だ、と自らの口元で人差し指を立てる。運転手は承知した、といった様子で肯いた。そして、共犯者めいた笑みを浮かべる。マイクも笑みを浮かべ、通りへ警戒の視線を向けた。
    その後、車は何事もなく街を通り抜け、ホワイトハウスに辿り着いた。マイクは大統領をエスコートして、ホワイトハウスの中を進む。邸内で警護中の同僚たちは、大統領の帰還に姿勢を正していた。二人が居住区の扉の前に立つ。警護の担当者がベンとマイクに敬礼した。
    「少しバニング護衛官と私的な話がある。人払いを頼むよ。」
    ベンは悪戯めいた笑みでそれに応じ、声をかけた。担当者は何事かを察したような顔をして、やけに意味深な笑顔をマイクに向けた。たまに同僚からあの手の笑みを向けられるが、正直意味が分からない。マイクは苦い顔をして、はやく行け、と手を払う。担当者は、なぜか納得したような顔をし、大統領にかしこまりました、と返事をしてそそくさとその場を離れた。多分、巡回だろう。
    「妙に同僚たちの物わかりが良いのは何故だろう。」
    「さあ? 余計な口実を考えなくていいから楽で良いけれどね。」
    ぼやいたマイクに、ベンが苦笑を浮かべて肩をすくめる。そして、特に気にする様子はなく、居住区の扉を開いて、マイクに手招きする。マイクは小さく息を吐き、ベンに続いて居住区へ入る。思えば、足を踏み入れるのは久しぶりだった。居住区も部屋数は多いが、一人で暮らしているベンが日常的に使っている部屋はそれほど多くはない。ベンが普段居間として使っている部屋に入る。マイクもその後を追って入った。
    「マイクはかけていてくれ。」
    ベンはマイクにソファーを勧めると、奥の部屋へ姿を消した。マイクは遠慮もせずに腰を下ろす。この部屋に入るのは久しぶりだったが、以前と変わらず、整然としている。少し物が減ったように見えるのは、退任が近づき、ここを出る準備を始めているせいだろう。ベンとは話しておきたいことがあったし、退任後についても聞いておきたいと思っていたので、この誘いはマイクにとって都合が良かった。柔らかいソファーに身を沈め、深く息を吐く。
    「まったく、大統領に酒をとって来させるなんて。」
    酒瓶とグラスを手にしたベンが苦笑を浮かべて奥の部屋から出てきた。マイクの前にグラスを置き、机を挟んだ正面のソファーに座る。マイクは口の端を上げて正面に座ったベンを見る。
    「誘った側がもてなすべきでしょう。勝手に家探ししても良いというなら別ですけど?」
    「君に家探しされるのは怖いな。」
    ベンが身震いをして笑う。マイクはわざと真顔を作り、ベンの目を覗き込む。
    「見つけられたら困るものでも?」
    「あるに決まっているだろう。もしも外部に流されたりしたら一大スキャンダルだ。」
    ベンも真顔を作って応じた。表情は真面目そのものだが、目は笑っている。マイクも似た様なものだろう。吹きだしそうになるのを堪え、真面目な表情を保ったまま、神妙に口を開く。
    「それは今後のために探しておかないと。」
    「勘弁してくれ。」
    ついにこらえきれなくなったベンが笑い声を上げた。マイクはそれでも真面目な表情を保ち、笑うベンを見る。
    「コナーのキツいジョークメール集でもマスコミに流しておきますよ。」
    「マイク、それはダメだ。退任直前に最低支持率を記録する羽目になってしまう。」
    「まあ、あれは俺も正直少しひくからな……。」
    「コナーはマイク直伝だと言っていたよ。」
    「俺の冴えないジョークがあれの参考になっていると本当に思ってます?」
    マイクが疑いの視線を向けると、ベンは少し考えるような素振りを見せた。そして、おもむろに口を開く。
    「――いいや。」
    ゆっくりと首を振って、再び笑い出す。主の楽しそうな様子に、マイクは心のうちで安堵する。ロンドンの事件の追悼式典以降、彼はずっと沈み込んでいるように見えた。そして、先日の副大統領と二人の長官との密談。あの直後はひどく張り詰めた空気を纏っていた。マイクの切れ味の悪い軽口に笑顔を見せているので、今日は随分と落ち着いているようだ。
    マイクは机に置かれた酒瓶を手に取る。ベンのグラスに注ごうと机の上を見るが、置いてあるグラスはマイクの分だけだった。ベンに酒瓶を掲げて見せると、彼は穏やかに首を横に振った。ベンはあまり酒を飲む方ではない。彼から酒席に誘っておきながら、自分は飲まずにマイクだけ飲んでいるというのはよくあることだ。マイクも気にせず、自らの前に置かれたグラスに手酌で酒を注ぐ。かなり上等なバーボンだった。
    「そういえばマイク、クリスマスはどうするんだい?」
    「休暇ですよ。大統領命令で。」
    唐突なベンの問いかけに、マイクは答え、酒を呷る。そして、口を尖らせて不満を露わにした表情を作る。
    「あなたの最後のキャンプ・デービッドにお供するつもりだったのに。」
    「私は最後かもしれないが、マイクはまだまだ行く機会があるだろう。私よりも、家族にサービスしておいた方が良い。」
    不満そうなマイクに、ベンが苦笑を見せる。ベンの言わんとすることもわかるが、やはり不満はある。
    「マイク、娘の誕生日は数日前だったろう。何かしてあげた?」
    「――う。」
    ベンの言う通り、娘の誕生日は、ホワイトハウス宛てに脅迫状が届いていたために、その対処に追われて帰ることができなかった。そしてその埋め合わせもまだできていない。リアはわかってくれているが、娘にパパきらいなどと言われると、さすがのマイクでもいささかへこむものがある。それにしても、ベンはどこからそんな情報を仕入れてきたのか。マイクの渋い顔をのぞきこみ、ベンが笑う。
    「大切な友人の家庭を崩壊させるわけにはいかないからね。クリスマスはしっかり家族サービスしておいで。」
    そんなことを言われてしまうと、断れない。だが、護衛主任の自分抜きで、キャンプ・デービッドに行かせるのは不安が大きい。特に、この時期はよくない。マイクの脳裏には、大統領夫人が命を落とした事故が浮かんでいた。マイクの不安そうな表情に、ベンが微笑む。
    「マイク、大丈夫さ。たかが二泊だ。それも、退任間際で狙う価値がそれほどないような大統領だ。」
    そんな者を狙うほど暇なテロリストはいないよ、とベンが自信たっぷりに言う。マイクは眉間にしわを寄せ、溜息を吐いた。ベンは自分の価値をわかっていない。二度の大規模テロを退け、生き抜いた大統領だ。アメリカ合衆国大統領として、というよりも、ベンジャミン・アッシャーという個人に対して賞金をかけているテロリストもいると、マイクが以前現行犯逮捕した暗殺者が言っていた。その暗殺者は、マイクもかなり高額の賞金がかけられていると言っていたが、マイクにとってはどうでもよかった。マイクが配慮するべきは、ベンの身の安全だ。自分がついていけないのならば、中止にしてもらいたいくらいだ。だが、彼がキャンプ・デービッドに行きたい理由を聞かされていたため、マイクには反対を押し通すことはできなかった。愛する妻が命を落とした場所に、花を手向けたいという、ささやかな願いすら叶えられずに、何が護衛官か。たとえどんなに難しい条件であろうと、護衛官の矜持にかけて、守り抜かなくてはならない。マイクは、ベンに対する小言や賞金の話を飲み込み、退任までに何事も起こるわけがないと自分にもベンにも言い聞かせる。今のマイクにできるのはそれくらいだった。
    マイクの晴れない表情に、ベンが溜息を吐く。
    「君も大概心配性だな。」
    「まあ、心配するのが仕事みたいなものですからね。」
    「そうかもしれないが、もう少し自分が鍛えた部下たちを信用しても良いだろう?」
    ベンの言う通り、現在のホワイトハウス警護にあたる護衛官達は、ロンドンの事件の後にマイクが選び、鍛え上げた精鋭達だ。彼等の腕を信用しないのは、鍛えた自分を信じないのと同じだろう。それに、マイクは次の大統領の護衛官として働くつもりもなかった。部下達に、自分がいない状況に慣れさせる必要もある。自分を無理矢理納得させ、肯く。
    「――わかりました。ありがたく、クリスマス休暇をとらせてもらうことにしますよ。」
    「君の休暇の話を聞くのを楽しみにしているよ。」
    ベンは嬉しそうな微笑を見せた。楽しませるような休暇話はできそうにないが、せめて話題にできるようなことはしておかないとな、とマイクは苦笑する。ベンに聞かなくてはならないと思っていたことがあったが、この和やかな状況で切り出せるような話ではなかった。ずっと気になっていた、追悼式典直後の様子と、副大統領と長官たちとの話し合い。マイクは無理にでも聞くべきか、と少し迷う。ベンは最近の張り詰めた様子などなかったような、穏やかな微笑を浮かべていた。ここ数週間、マイクが感じていた距離などなかったような、近く親しい間柄の距離感。これなら、それとなく聞くことも可能だろう。だが、それは今でなくても良い。マイクは重い話題は胸にしまいこむことにした。そして、それほど重くはないが、聞いておきたいことがあったことを思い出す。
    「そうだ、ベン。聞きたいことが。」
    「――退任後のことかな?」
    口を開いたマイクの先回りをするように、ベンが言った。さすが大統領、察しが良い。もしかしたら、彼自身も話したかったのかもしれないが。マイクが肯くと、ベンは困ったような笑いを見せた。
    「それが、あまり考えていないんだ。」
    「もう二ヶ月もないのに? 本気で?」
    マイクが呆れた声を上げると、ベンは溜息とともに肯いた。
    「日々の業務が多すぎるせいで考えている余裕がないよ。」
    「とりあえず、やりたいことのメモでも作ってみたらどうだろう?」
    「そうだね、メモ帳をすぐ出せるところに持っておこうかな。思いついた時に書いておかないと忘れそうだから。」
    「物忘れするには早いんじゃないか?」
    「考えないといけないことや決めないといけないことが多すぎるせいだよ。」
    ベンはうんざりした様子で肩をすくめる。個人的な考え事をする時間も取れないとは、恐ろしい仕事である。
    「そんな未定だらけの状態だけれども、マイクが聞きたいことは?」
    「―――退任後に、護衛はつけるのか?」
    マイクの問いに、ベンは緩く首を横に振った。
    「つけないのか? 一人も?」
    「ああ。退任した大統領を狙うような暇人がいると思うかい?」
    ベンの問いに、マイクは言葉を詰まらせる。賞金がかけられているらしい話はしていない。そして、それが退任で解除されるかもわからない。マイクは、退任後も彼を狙う者が出てもおかしくはないと考えていた。だが、その根拠は、今は話せない。黙り込むマイクを見て、肯定ととったのか、ベンは言葉を続ける。
    「シークレットサービスに余計な負担をかけたくないんだ。私に人員を割く必要はないから、その分次の大統領をしっかり守ってくれ。」
    マイクがいれば、きっと大丈夫だから、とベンはマイクの目を見る。マイクがこの後も大統領の護衛官を続けることを信じて疑わない目だった。マイクは首を横に振り、目を逸らした。
    「ベン、俺は次の奴の護衛官になるつもりはないんだ。」
    「どうして?」
    「俺の大統領は、ベン、あんただけだ。」
    驚いたような声を上げるベンに、ぶっきらぼうに告げた。
    マイクが自分の命をかけても守りたいと思った相手は、ベンジャミン・アッシャーだけなのだ。大統領だから守ったのではない。ベンだから守った。そう気づいたのは、次期大統領選が終盤を迎えた頃だった。次の候補者たちを見て、なんの興味もわかなかった。このままシークレットサービスを続ければ、多分守ることになる相手なのに。次の大統領の傍にいる自分が全く想像できなかった。思い浮かんだのは、ベンのことだけだった。退任後の彼の護衛をする、それ以外の道が想像できなかった。だが、これはベンが望まなければ実現されることはない。そして、ベンは自分の身には無頓着な方だ。彼が護衛を望まないであろうことも予想できていた。現場での仕事は好きだったが、ここが潮時だろう。本来ならば、二年前に決めていたはずのことだ。ベンのいないホワイトハウスに未練はなかった。
    ベンは困ったように笑う。おそらく、彼はマイクの言外に含んでいる思いも、察しているだろう。彼を困らせたくて言ったわけではない。ただ、一人の友として、傍にいられたことを感謝しているだけだ。
    「俺みたいなはみ出し者を上手く使えるのはあんただけだって意味だよ。」
    「次期大統領は役不足?」
    「そういうこと。」
    マイクは不敵に唇の端をつり上げた。晒しかけた本心を冗談で覆う。ベンは呆れたような溜息をもらす。
    「まあ、でも、困っていたら手助けはしてあげるんだよ?」
    「泣きついてきたら考えないでもないかな。」
    「まったく君は不遜だな。」
    ベンはくすくすと笑っているが、次期大統領に対する扱いはマイクと近いものがある。二人は共犯者めいた笑みを交わした。
    「次の大統領には悪いが、君が現場を退くというのは、少し安心したよ。」
    ぽつりとした呟きに、マイクは瞬きをした。そして、少し考え込む。そういえば、最近はマイクを狙うテロリストも多いし、同僚から歩く災厄などと言われることもある。
    「そんなに俺の巻き添えが心配か?」
    「君が、巻き添えになるのが心配なんだ。」
    私だって葬式は嫌いだ、とベンは顔をしかめて言う。彼はいつでも心配性だ。マイクは笑い声をあげ、明るい声で言う。
    「そう簡単には死なないさ。」
    「知っているよ、君の頑丈さは。」
    それでも、安心した。と、彼は繰り返す。心の底から安堵しているように見えた。その様子を、不思議に感じはしたが、追及するほどのものではないだろうと思っていた。
    この後も、二人のたわいのない会話は続き、何事もない、穏やかな時間が過ぎて行った。酒瓶を半分ほど空けたところで、マイクは大統領の部屋を辞した。ゆったりとした時間を過ごし、心地よい酩酊感があった。
    この時、聞くべきことを聞いておけば、と後悔することになるとは、考えもしなかった。久しぶりに見る、ベンの穏やかな笑顔が嬉しくて、彼が何を考えているかを想像しようともしなかった。こんな時間はあと幾度もないことが名残惜しくて、目の前にある物しか見ようとしなかった。
    後になって思う。
    なんて馬鹿だったのかと。




    クリスマスの夜、マイクは足元から這い上ってくる娘と格闘していた。2歳になったばかりの娘、リンの最近のお気に入りは、マイクへの登頂だった。少しでも油断すると、足元から器用に這い上って来て、気が付くと強制的に肩車をさせられていることもあった。運動面は同じくらいの子供と比べるとかなり発達しているようで、リアはマイクに似たのね、と笑っていた。いくら自分でも、子供の頃からここまでは動き回っていなかったと思う。多分。ちょこまかと器用に動き回るリンをどうにか捕まえ、抱きかかえる。リアは彼女の友人の家に招かれ、外出中だ。家にはマイクとリンの二人きりだった。家族でのささやかなパーティーはイブの夜に済ませていた。今日の昼間は、家族三人で街を散歩したが、さすがにクリスマスとなるとどこも休業だ。飾り付けられた街の見物だけで、適当に切り上げ、午後からは家でのんびりと過ごしていた。そろそろ夜も遅いので、リンを寝かしつけたいのだが、この小さな暴れん坊は、マイクの隙を狙って腕から逃れようとじたばたしている。
    「リン、そろそろ寝る時間だろ?」
    どうにか娘を押さえこんで、背中を撫でる。少し大人しくなった、と思い、力を抜いた瞬間に、リンが勢いよく暴れ出し、腕の中から転げ落ちそうになる。我が娘ながら、人の隙を突くのが上手い。荒事関係の仕事の才能があるのかもしれない。まったく先が思いやられる。マイクは溜息を吐くと、リンを小脇に抱える。リンは抱き上げられるよりも、こちらの方が好きなようで、楽しそうな笑い声を上げ、暴れるのを止めた。これが一番安全な運び方だ。小脇に抱えたままリンを子供部屋のベッドに押し込み、三十分ほど格闘して、どうにか寝かしつけることに成功した。テロリストのアジトをぶち壊す方が千倍くらい簡単だ。疲れ切って子供部屋から出て、リビングのソファーに腰を下ろす。今日はリンを相手にずっと格闘していたため、ニュースすら見ていなかったことに気が付いた。テレビを付けようとリモコンに手を伸ばしかけた時だった。マイクの携帯電話が鳴った。仕事用ではなく、プライベートで使っている携帯だった。夜もだいぶ遅い時間に誰だ、と訝しく思いつつ画面を見るが、知らない番号だった。少し迷って通話ボタンを押す。
    「はい、こちらバニング。」
    「こんばんは、マイク。」
    電話の向こうから聞こえた声は、マイクが慣れ親しんだ声だった。思わず電話を耳から離し、まじまじと見つめる。
    「―――ベン?」
    同僚にも教えていない携帯に、なぜ彼からかかってくるのか。そもそも、ベンから直接電話がかかってくるのが初めてだった。マイクが戸惑っていると、電話からはくすくすと笑い声が聞こえてきた。
    「マイク、そんなに驚くことはないだろう?」
    「いや、驚くなっていう方が無理だろ。どこからこの番号を?」
    「私のところにはこの国の情報がいくらでも集まるんだよ。」
    混乱するマイクに、ベンの楽しそうな声が届く。
    「それは、職権濫用じゃないか?」
    マイクは軽口を返す。その言葉に、ベンが愉快そうな笑い声をあげた。
    「それはバレたら大変だ。マイク、秘密だよ?」
    「取引次第かな。」
    「悪い友人だな、君は。」
    ベンが困ったような声を上げる。マイクがわざと抑揚の少ない声で言ったせいだろう。マイクは含み笑いの声を返す。
    「ふふふ、冗談だよ。秘密にするに決まってるだろ。」
    「電話だと、君が本気か冗談なのかが分かりにくいな。」
    声音だけで、彼が困ったように眉を下げている顔が思い浮かんだ。マイクはその姿を想像して、微笑を浮かべる。
    「会って話したほうが良い?」
    「――そうだな。君相手だと、特にそうだ。」
    溜息まじりにベンが言う。マイクも溜息を返す。
    「そんなことを言うなら、俺も連れて行けば良かったのに。」
    「それは駄目だ。君には君の仕事がある。」
    「仕事というか……まあ、仕事か。」
    子供部屋の方を見て、マイクは苦笑を浮かべる。普段の仕事よりも数倍大変な仕事だった。
    「それで、その別の仕事中の俺に何かご用件が?」
    わざわざプライベートの電話を調べてまでかけてきたのだ、何か緊急の用事だろう。マイクは姿勢を正す。電話の向こうからは、あーとか、うーとか、はっきりしない声が聞こえてくる。いつも簡潔に話す彼にしては珍しい。余程の難題なのだろう、と気持ちを引き締め、彼からの返答を待つ。
    「いや、大した用事じゃないよ。だから、気にしないで。」
    「そう言われるとかえって気になるんだが。」
    口ごもるベンに、先を促す。だが、彼はまだ困ったように曖昧な声を上げている。
    「本当に、大した用じゃないんだ。……少し、君の声が聞きたかっただけで。」
    「俺の?」
    予想もしていなかったベンの答えに、マイクは眉を上げる。本当に、ただそれだけなのだろうか。冗談ではないかと思い、彼からの言葉が続くのを待つが、それ以上の声は戻ってこない。どうも、本気らしい。
    「本当に、それだけなのか?」
    マイクが思わず呆れた声を上げる。小さく、そうだよ、と照れくさそうな声がした。電話の向こうで、彼がどんな顔をしているかを想像すると、自然と笑みが浮かんだ。
    「あなたのご要望とあらば、いくらでも聞かせて差し上げますよ。」
    何なら歌でも歌いましょうか、とおどけて言う。ベンの笑う声が聞こえた。
    「君が歌う? 想像つかないな。」
    「歌うさ、子守唄とか。娘もすぐ寝て効果抜群だぞ?」
    「それなら眠れない時に頼めばよかったよ。」
    「大人だったら絞め落とす方がはやいな。」
    「物騒だなあ。」
    やや平坦な声でベンが言う。
    「それで、今夜は子守唄が必要か?」
    「――大丈夫さ。」
    「絞めた方がいいなら飛んでいくが。」
    「大丈夫だって。」
    「それなら良かった。」
    少し前までのベンは、若干不眠気味に見えていたが、ここ数日は落ち着いているようだ。マイクは小さく安堵の息を吐く。
    「ベン、そっちの天気は?」
    「ちょっと吹雪いているな。明日戻るのに心配だよ。」
    吹雪という言葉に、少し嫌な予感がよぎる。おそらく、明日の移動はヘリではなく車になるだろう。吹雪と車、という組み合わせは、彼の妻が亡くなった事故を連想させた。
    「大丈夫だよ、何も問題は起きないさ。」
    黙り込むマイクに、ベンが明るい調子で言った。彼もあのことを思い出していないわけがないのに、マイクを安心させるため言ってくれたのだ。彼を安心させなくてはいけないのは自分の方なのに、やはり彼にはかなわない。マイクは苦笑を浮かべる。
    「そうですね。たかが雪です。」
    「そうさ。大丈夫大丈夫。」
    どちらともなく笑う。不安を押し隠すためでも、笑っている方が良い。ふと、時計に目を向けると、もうずいぶんと遅い時間だった。リアもじきに帰ってくるだろう。
    「ベン、明日の移動は早いんだろう?」
    「ああ、そうだね。そろそろ寝ておかないと。」
    「子守唄は?」
    「いらないよ、君もしつこいな。」
    「ベンだって古い話をしょっちゅう蒸し返すくせに。」
    「じゃあ、お互いさまだ。」
    くすくすと穏やかな笑い声が耳に心地よかった。ずっと話していたいような気持にもなるが、明日には直に会える。今更になって、声が聞きたかっただけというベンの言葉がわかるような気がした。
    「マイク、ありがとう。」
    「何だ、急に。」
    「理由があるわけじゃないけど、言っておきたかっただけさ。」
    「そうですか。」
    理由はないと言われても、どうにも気になる。言葉にできない違和感がある。戸惑っているマイクをよそに、ベンが言葉を続ける。
    「それじゃあマイク、そろそろ切るよ。」
    「ああ、おやすみ、ベン。また明日。」
    マイクの言葉に、ベンはこう返した。
    See you soon.
    何故か、違和感が強まった。マイクがもう一度ベンに声をかけようと思った時には、通話は切れていた。マイクは自分の携帯を見つめる。先程追いやったはずの嫌な予感が、また首をもたげていた。
    ――どうか、彼の身に何も起きませんように。
    マイクは信じてもいない神に祈った。


    翌朝、マイクは早朝から出勤の支度を始めていた。ベンから言い渡された休暇は昨日まで。今日からは通常勤務だ。勤務開始時間まではかなり余裕があるが、昨夜のベンからの電話が気になって、あまり眠れなかったのだ。彼がキャンプ・デービッドから無事に戻ってくる姿を自分の目で確認しなくては気が済まない。そう思って、早い時間ではあるが、出勤の準備を進めていた。目立たない暗色のスーツを纏い、いつもの武装を整える。最後にネクタイを締め、護衛官としての自分の出来上がりだ。いつもなら、出かける前にリアとリンにキスとハグをしていくところだが、今日は二人ともまだベッドの中だ。マイクは二人を起こさないように、そっと家を出た。世間的にはクリスマス休暇が続いているようで、街はひっそりとしていた。普段ならばどうとも思わないが、今日はこの静けさに、何故か不吉なものを感じる。昨日から続く嫌な感覚を振り払おうと、マイクは頭を振る。こんなものに捕らわれるなど、自分らしくもない。マイクは深く息を吐いて、職場であるホワイトハウスに向かった。
    職場では、同僚たちが特に変わった様子もなく、いつも通りの警護をしていた。主が不在なために、若干警戒度は下がっているが、だらけきっているわけでもなく、ほどよい緊張感が漂っている。何かが起きた様子もなく、マイクはひとまず安堵の息を吐く。出勤時間よりも早くに姿を現したマイクに、同僚たちは少し驚いた様子を見せたが、彼が勤務時間の前や後にもいることは少なくないので、変だと思う者はいないようだ。マイクも、いつも通りに勤務を始め、不在の間の出来事を聞き、警備の引継ぎに必要な情報共有をしていく。いつもと何も変わりはない。だから、異変は起きない。昨日から続いている嫌な予感も、ただの気のせいだ。そう、受け流そうとしていた。
    邸内の警護をしながら、ふとキャンプ・デービッドの方角に目を向ける。先程、大統領が専用車で移動を開始したという通信が入った。ヘリでない、ということは、まだ天候は荒れ模様なのだろう。荒天時の車での移動、これほどマイクを不安にさせるものはなかった。だが、邸内で警護中のマイクにできることはない。今から全速力で移動したとしても、移動中の大統領専用車とすれ違うだけだ。マイクはベンが無事に戻ってくることだけを考え、自らの仕事を続けた。
    何かがおかしい。大統領が移動を開始した、という通信が入ってから随分と時間が経ち、マイクは漠然とした不安を感じていた。通常ならば、車での移動であろうととっくにホワイトハウスに戻っている時間だ。ヘリが飛べないほどの荒天だったとしても、時間がかかりすぎている。マイクは移動時の護衛を担当している者達を調べ、状況確認をしようと呼びかける。だが、応答はない。マイクは頭の中で警戒レベルを上げ、他の担当者にも通信を入れる。だが、こちらも応答はなかった。その後も手当たり次第に担当者達へ通信を入れていくが、誰一人として応答するものはなかった。マイクは足早にシークレットサービス専用の車庫へ向かう。同僚たちの怪訝な視線を感じたが、マイクは無言のままに進む。足早に進むマイクの元へ、部下の一人が慌てた様子で駆け寄ってきた。
    「主任、お話が!」
    「後にしてくれ。」
    部下には悪いが、今優先するべきはベンの安否確認だ。相手にしている余裕はない。マイクは歩調を緩めずに進む。部下は小走りにマイクについてくる。
    「主任、緊急事態なんです!」
    そう言って、部下はニュース番組の画面を映し出したタブレット端末をマイクに差し出した。画面に視線を向け、マイクは足を止めた。すぐ後ろについていた部下がマイクの背にぶつかった。マイクは、それに全く気付かず、食い入るように画面を見つめていた。部下のすみません、という声も耳に入らなかった。
    ニュース番組の見出しは、車の炎上事故を報じていた。事故現場の座標は、キャンプ・デービッドとホワイトハウスの間。最悪の事態の可能性を、必死に頭から追い出す。
    あの車で、事故など起きてはいけない。起きるはずがない。だから、彼は無事だ。そうに決まっている。自分を落ち着かせるために言い聞かせる。だが、自身の冷静な部分では、その起きてはならないことが起こってしまったのだと悟っていた。誰一人として連絡がつかない護衛担当者達。事故の発生位置。気象条件。どれをとっても、希望をもてるような要素はなかった。
    硬直したマイクを、不安そうに部下が見上げていた。
    「……シークレットサービスで現場を封鎖。特別捜査官を手配しろ。俺もすぐ向かう。」
    自分の声とは思えないような、しゃがれた声だった。頭が真っ白で、何も考えられなかった。だが、口は勝手に指示の言葉を紡いでいた。
    部下は青ざめた顔で肯き、他の者へ指示を伝えるために走っていった。マイクは、それを呆然と見送っていた。このまま車庫へ向かって、すぐに事故現場へ駆けつけるべきだ。それはわかっていた。動かなければ、と考えてもいた。だが、ホワイトハウスの片隅で、マイクは立ち尽くしたまま動けなかった。
    車の炎上事故で、無事でいられる人間がいられるわけなどないのだ。それは十分に理解していた。それでも、その現実を認めるわけにはいかなかった。
    「……ベン、どうか無事で……」
    信じてもいない祈りの言葉は、ただただ虚ろだった。




    3月も終わりに近づいていた。厳しい冬は終わりを告げ、緩やかに暖かさを感じる日が増え始めていた。マイクはデスクに頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺めていた。目の前のパソコンのモニターには、今日ホワイトハウスへ送られてきた脅迫状や不審文書についての情報が表示されていた。どの文書も悪戯であることが疑いようのないもので、継続調査を必要とするような案件は見つからなかった。この旨を伝える報告書を書かなくてはいけないが、どうにもやる気が起きず、マイクは窓の外に見えるホワイトハウスに目を向けていた。今の白亜の館の主はベンジャミン・アッシャーでも、アラン・トランブルでもない。大統領選を勝ち抜いた、新しい大統領だ。マイクはかつての主の名を思い出し、懐かしさに少しだけ顔が緩んだ。そして、襲ってくる喪失感に耐え、ゆっくりと目の前のモニターに顔を向けた。
    あのクリスマスの翌日、車の炎上事故が起こった日。炎上した車は橋のガードレールを突き破り、崖の下で発見された。周囲は吹雪。道路の周りの木々には、多くの着雪が見られ、早い時期の冬の日にしては強い冷え込みで、大きく固い氷の塊がいくつも形成されていた。その中でも特別大きく、頑丈な塊が、運悪く通りかかった車のフロントガラスに落下した。車のガラスは強化ガラスではあったが、大人の拳二つ分ほどの大きな氷の塊が勢いよく落ちてくることまでは想定されていなかった。氷は強化ガラスをやすやすと突き破り、運転手へ激突した。氷の当たり所が悪く、運転手が意識を失った。車は既に橋の上にいた。助手席にいた護衛官が咄嗟にフォローしようと動いたが、手を打つことはできず、車は谷底へと落下した。世界一頑丈な車と言われても、燃料が無くては動かない。そして、燃料のガソリンは可燃物だ。落下の衝撃で、火花が散り、引火したのだろう。谷底に落ちた車は、炎上した。橋の上の護衛官達には、手を出せない状況だった。どうにか炎上現場へたどり着いた時には、炎はほぼ治まっていた。焼け焦げた車体の中に、三体の遺体があることを目視で確認できる程度の、炎の勢いだった。炎上事故を起こした車は、大統領専用車。乗車していたのは、大統領専用車の専属運転手と、護衛官、そして、ベンジャミン・アッシャー大統領だった。
    マイクは頭を振って苦い記憶を振り払い、目の前の仕事に集中しようとする。モニターに表示された文章を目で追うが、上滑りするだけで、まったく頭に入らなかった。マイクは目を閉じてこめかみをもみほぐす。昔からデスクワークは苦手で、現場に立っている方が性に合っていた。彼を失って、シークレットサービスでの仕事は辞めるつもりだった。護衛主任でありながら、護衛対象を守れなかったのだ。罷免されてもおかしくない状況だった。だが、マイクが責任を問われることはなく、防ぎようのない事故だったと片付けられてしまった。そして、マイクには護衛主任を続けるようにという通達が来た。はっきり言って、意味がわからなかった。現職の大統領の死亡事故という、あってはならないことが起こったのに、誰も責任を問われなかった。何か裏があったのでは、と調べてはみたが、何も出てこなかった。完璧に自然な事故だった。事故であることが疑われるようなことがないくらいに、自然な事故だったのだ。事故ならば、仕方ない、そんな空気が漂っていたことを覚えている。誰もマイクを責めることはなかったし、むしろ同僚や、副大統領、そのほかの多くの人々に気遣われるくらいだった。大統領の死亡事故の後、次期大統領の就任まではトランブル副大統領が大統領に昇格した。そして、年が変わった一月の後半、新たな大統領へ政権は引き継がれた。そして、マイクは護衛主任を辞し、シークレットサービスの裏方へと回ったのだ。本当は、シークレットサービスも辞めるつもりだった。だが、トランブルに止められたのだ。彼も、一時的とはいえ、大統領となったため、退任後にシークレットサービスの護衛を受ける権利はあった。彼は、四六時中の警護はいらないが、たまに警護が必要な時はあるし、その時には腕と人柄が信用できる者がいいから、と言ってマイクを不定期の護衛に指名したのだった。腕と人柄が信頼できるという彼の談に、自分の最後の失態と下院議長時代にくたばれと言ったことは覚えていないのかと問いただしたが、トランブルは笑って、それも踏まえてのことだと言って、辞退しようとするマイクに取り合うことはなかった。そのため、マイクはシークレットサービスを辞めるわけにもいかず、こうして不定期な護衛にも対応できる裏方の仕事をするようになったのだった。仕事が変わってから、数回トランブルに呼ばれて警護に行ったが、講演などの公の仕事ではなく、何故か釣りの同行ばかりだった。本当に護衛が必要なのか、疑問に思って聞いてみたところ、護衛というのは口実で、おべっかや計算なしに彼の趣味に付き合ってくれる者がいないため、マイクを呼んでいたのだとあっさり言われてしまって、妙に脱力したものである。それ以来は、マイクも護衛官としてよりは、年の離れた友人への付き合いのような姿勢でトランブルに接している。彼もそれを喜んでいるように見えた。マイクも釣り仲間に引き込もうとしているのは少し困るが、トランブルは気楽に付き合える人物の一人にはなっていた。
    今日は余計な考え事ばかりでどうも仕事が進まない。とにかく手を動かすべきだと、あまり考えずに文書を打ちこみ始めるが、妙に進まない。普段ならばとっくに出来上がっているであろう脅迫状の分析は、遅々として進まなかった。それでも、どうにか無理矢理に文書をまとめ上げ、普段の倍以上の時間をかけて、今日の内に片付けるべき仕事は終わらせた。勤務の終了時間まで、残り僅かになっていた。文書を提出すべきところへ送信し、マイクは大きく伸びをした。明日もおそらく同じような仕事だろう。思わずため息が漏れる。終業時間をぼんやり待っていると、マイクのデスクの電話が鳴った。出ると、相手はトランブルだった。
    「副大統領?」
    いつもの癖でそう呼びかけると、彼の闊達な笑い声が返ってきた。
    「マイク、今の副大統領はこんなじじいじゃないだろう?」
    「俺にとっては、副大統領はあなたですから。」
    マイクにとっての副大統領と、大統領は今も一人ずつしかいないのだ。本心からの言葉だったが、トランブルは冗談ととったらしく、まだ笑い声をあげている。
    「それで、ご用件は? ミスタートランブル?」
    マイクは溜息交じりに問いかける。一応職場にいるため、普段よりは丁寧な言葉遣いを心がけておく。
    「君に連絡を入れるならば、用件は聞くまでもないんじゃないか、マイク?」
    「はいはい、釣りのお誘いですか?」
    「君もようやく釣りの醍醐味がわかってきたか、嬉しいよ。」
    苦笑交じりのマイクの言葉に、トランブルの嬉しそうな声が返ってきた。やっぱりか、と思って言葉の続きを待つが、彼からの言葉は、マイクの予想とは違っていた。
    「だが、残念ながら今日は釣りの誘いではなく、本業の依頼だ。」
    その言葉に、マイクは背筋を伸ばす。
    「護衛、ですね。」
    「その通り。君じゃないと頼めない仕事だ。」
    「わかりました。」
    彼が、マイクにしかできないというのならば、相当に難度の高い仕事だろう。久しぶりの現場の仕事の依頼に、マイクは身が引き締まる思いだった。仕事の前に必要な情報を集めておかなくては。マイクはメモ帳を開く。
    「日時と場所は?」
    「4月1日の午後、アーリントン国立墓地だ。」
    トランブルが告げた場所を聞き、マイクは息を呑み、メモをとる手を止めた。
    「アッシャー大統領の墓参りだ。」
    「アラン、それは――」
    自分は同行できない。する資格はない、そう言おうとした。だが、トランブルはそれを遮った。
    「マイク、君じゃないと頼めないんだ。」
    マイクは目を閉じて頭を押さえた。
    ――行けない。行ってはいけない。行くべきではない。
    頭の中に浮かぶのはそれだけだった。受話器の向こうからトランブルの声が続く。
    「マイク、君の気持もわかる。だが――」
    彼は待っているぞ。
    その言葉で、マイクの答えは決まった。



    約束の日、マイクはダークスーツに身を包み、トランブルを助手席に乗せた車を運転していた。業務扱いなので、シークレットサービス所有の護衛用車両だ。トランブルに二人きりで、という条件を出されたためにマイクが運転手役だった。トランブルは副大統領在任中も、テロの標的としての優先度は低かったようで、退任から数か月経った今はそこまで神経質になる必要もない、ということで、このような形の護衛が通ったのだろう。午前11時にトランブルを迎えに行き、現在は午後0時ちょうどに墓地に着くように移動中だった。普段ならばトランブルの護衛の時は雑談も多く、賑やかである。だが、今日は彼の口数は少なく、マイクもしゃべるような気分ではなかったため、静かな車内だった。
    「マイク、あれは事故だった。」
    重い沈黙が降りる車内に、トランブルの声が響いた。マイクは無言のまま運転を続ける。トランブルの嘆息が車内に響く。
    「誰にも責任はない、不幸な事故だった。だから、あまり自分を責めるな。」
    トランブルの言わんとすることは、わかる。理屈ではわかっているのだ。だが、まだそれを受け入れられない。多分、この先もずっと受け入れられないだろう。マイクは苦い顔のまま車を走らせる。
    「マイク、彼は死んだんだ。」
    トランブルがぽつりと呟く。マイクは奥歯を噛みしめる。
    「……わかってます。」
    振り絞るように、声を漏らす。誰かに、こうやって直接言葉にされるのは初めてだった。マイク自身、口にすることはできなかった。国葬の時も、誰もが現実を認められなくて、死んだ、とは口にすることがなかったのだ。
    トランブルはマイクの横顔を見つめていた。それ以上の言葉は続かなかった。
    再び重い沈黙が降りた車が進む。予定通りの時刻に目的地であるアーリントン国立墓地へ到着した。
    車を降りたトランブルが、ああそうだ、と声を上げ、懐から封筒を取り出した。そして、それをマイクに差し出す。
    「これは?」
    「彼から君に渡してくれと頼まれた。」
    受け取った封筒には、見覚えのある几帳面な文字で、『マイクへ』と記されていた。裏に返すと、マイクが何度も見てきた美しい署名があった。思わずマイクは目を瞠った。トランブルは微笑みを見せ、墓標が並ぶ方へ歩き出した。スーツのポケットに封筒を押し込み、トランブルの後を追う。何故今更、彼からの手紙が届いたのか。今から向かう墓の主、ベンジャミン・アッシャーからの手紙が。それを、トランブルは何故今まで渡してくれなかったのか。疑問は次々に浮かぶが、その答えを知る人物は、マイクの質問に応じる気配はなかった。墓参り、というよりは、ちょっとした散歩といった歩調で進むトランブルの傍らを歩く。何度か彼の顔色を窺ってみたが、平常と変わらない、食えない笑みが浮かんでいるだけだった。とにかく、今は彼の墓参に付き合うしかないだろう。マイクは小さく息を吐き、目の前の仕事に集中した。
    アーリントン国立墓地には何人かの大統領が葬られている。最も新しい大統領の墓は、質素なもので、普通の墓と見分けがつかないようなものだったが、花が絶えることはなかった。今日も、新しい花が捧げられていた。白いユリの花だった。トランブル元副大統領が墓参りに来ると連絡を入れてあったため、周囲は人払いがされ、人気はなかった。マイクは墓から少し離れた場所に立ち、墓標に祈りを捧げるトランブルの姿を眺める。墓の前に膝をついた彼の様子を見て、これは長くかかりそうだな、とぼんやり考える。
    先ほど渡された封筒を取り出し、マイクは封を開けた。中から出てきた手紙には、丁寧で几帳面な文字が並んでいる。何度も見てきたベンの書く文字だった。懐かしさに頬が緩んだ。マイクは手紙の文字を目で追う。マイクがクリスマス休暇のうちに書かれたものなのだろう。マイクへの感謝が、彼らしい誠実で温かみのある文章で記されていた。礼を言いたかったのは、こちらの方だったのに、マイクは小さく溜息を吐いて、手紙を読み進める。長い手紙だった。彼の在任中の思い出話や、マイクも話したことを忘れていたようなちょっとした話題、マイクへの過保護すぎるという苦情、話そうとして口にできなかった悩み事。二人が駆け抜けてきた日々が詰まっていた。マイクはこみ上げてくるものを押さえつつ、読み進め、最後の一文に目を留めた。
    ――何故、この一文がここにある。
    疑問は違和感に変わり、思考を研ぎ澄まさせた。最後の一文は、マイクがベンから聞いた最後の言葉と同じだった。あれは、ありふれた一文だし、そこまで気にかけるような文章ではないと考える自分もいた。だが、あの事故前夜の電話の時にも、違和感を覚えたのだ。
    “See you soon. “
    この一言と、一文に。もしかしたら、この手紙はあの電話の後に書かれたものなのだろうか。そうだとすれば、いつトランブルの手に託されたのか。前夜から事故までに、彼に渡されるような時間はなかったはずだ。
    険しい顔で手紙を見つめるマイクの元に、トランブルが戻ってきた。
    「マイク、君の番だ。」
    「俺は……」
    混乱した頭で、とっさに首を横に振ろうとした。だが、トランブルは鋭くマイクを見据えた。
    「マイク、言っただろう。彼は待っているぞ、君を。」
    「……わかりました。」
    鋭く告げたトランブルに、唸るような声を返し、手紙を手にしたまま、墓標へ向かう。この場所に来るのは、国葬の時以来だった。
    マイクは墓標の前に立った。飾り気のない石の墓標には、ただ素っ気なく彼の名と生没年が刻まれているだけだった。一般の墓標となんら変わりのない、むしろ質素なくらいの墓標だ。派手なことは好まなかった彼らしいといえば、彼らしい。マイクは小さく息を吐いて、苦い笑いを浮かべた。想像では、ここに来ることはもっと苦痛を伴うものだと思っていた。だが、今は、いっそ諦めがついて、清々しいような気分である。マイクは墓の前にしゃがみ込み、墓標に触れた。
    「俺に殺せって命令したくせに、車で勝手に死にやがって。」
    冷たい石の墓標に刻まれた、彼の名を指でなぞる。彼に直接伝えられなかった言葉が、自然と零れていた。トランブルはマイクに気を遣ったのか、いつの間にか姿が見えなくなっていた。それならこちらも気にせずやろう、とマイクは墓標に向かって言葉を連ねる。彼からの手紙への返事のつもりだった。彼への謝罪と、感謝を伝えたかった。だが、先ほど沸き起こった疑問が胸の中に残っていた。
    「――なあベン、あの日の電話はなんだったんだ。あの言葉は、なんだったんだ。」
    まるで、何かが起こることを予測していたかのような、別れの言葉。
    「あんたあの時、何を考えていたんだ。教えてくれよ。」
    答えがあるわけはないとわかっていた。だが、問いかけずにはいられなかった。穏やかな風が木々を揺らす音しかしない。自分は何を期待しているのか、マイクは自嘲する様に笑い、立ち上がった。
    「――あの時は、自分を殺すことしか考えていなかったよ。」
    背後から聞こえた穏やかな声に、マイクは弾かれたように振り返った。
    そこには、一人の男が立っていた。整った顔立ちに、穏やかな微笑を浮かべ、眼鏡の奥の深い青色の瞳は強い光を帯びていた。伸びた黄金色の髪が風に揺れる。記憶の中にある彼の姿とは、少し変わっていたが、見間違えるはずがなかった。マイクは呆然と彼の名を呟いた。
    「………ベン?」
    「何て顔をしているんだ、マイク。」
    彼が目を細めて笑った。マイクはふらふらと彼の元に歩み寄った。そして、拳を握り、振りかぶる。彼の表情が強張ったのが見えた。知ったことか。手加減なしで繰り出した拳は、彼の手に受け止められていた。そして、彼は苦笑を浮かべてマイクを見た。
    「マイク、大統領を、殴っちゃいかん。」
    間違いなく、ベンジャミン・アッシャーその人だった。
    マイクは手を下ろし、呟いた。
    「――痛い。」
    彼に止められた拳が痛かった。
    ――夢ではない、現実だ。
    「受け止める側も痛かったけど。」
    彼は手を払って小さく溜息を吐く。マイクはまだ自分の目の前に、彼がいることが信じられず、ベンの姿をしげしげと見つめていた。暗色のシャツの上に、仕立ての良いブルゾンをはおり、色の褪せたジーンズと、履き古したスニーカーという、気楽な服装は、在任中のオフの日でも見ることがなかった姿だった。街行く人々が、今の彼の姿を見たとしても、気付かれることはないだろう。なにより、ここに墓もある、死んだはずの人間なのだ。
    ベンは、そんなに見つめるなよ、と照れくさそうに笑って、マイクの後ろを覗き込んだ。
    「自分の墓を見るというのは変な気分だね。」
    「墓に入っているはずの人間と向き合うのも変な気分だ。」
    マイクの言葉に、ベンが笑い声を上げる。わざと苦い顔を作っていたマイクも、彼の笑顔を見て溜息を吐き、表情を緩めた。
    「あんたには、二度と会えないと思っていた。」
    「言っただろう、また会おうと。」
    ベンは肩をすくめ、悪戯めいた笑みを見せた。だが、すぐに首を横に振った。
    「――いや、本当は、君とは二度と会わないつもりだった。」
    全てを捨てる覚悟で、あの計画を立てたんだ、と彼は言った。マイクは鋭く目を細め、彼を見据えた。
    「まさか、あの事故は、あんたの計画だったのか?」
    ベンは、怜悧な瞳をマイクに向けた。在任時と全く変わりのない、強い眼差しだった。彼は肯定も否定もしなかったが、その眼を見ただけで察しはついた。おそらく、あの時期に頻繁に行われていた、大統領と副大統領と二人の長官の会合、あそこで練られた計画だったのだろう。あの一分の隙もない完璧な事故の偽装は、国の最高レベルの者達でなければ不可能だ。それだけの人材を集めてまで成された計画だ。間違いなく国家機密だろう。彼も話すわけにはいかないはずだ。計画の詳細は分からなくても良い。そういう計画があったのだとわかれば、探る糸口はいくらでもある。自分で探れるものならば、わざわざ彼に聞くまでもない。知りたいのは、自力で探り出せないものだ。
    「どうして、あんなことをした。」
    マイクは静かに問う。何があっても、最後までベンを守り抜く。そうやって、何度も彼に直接伝えてきたはずなのに。何故、彼は自分をなかったことにすることを選んだのか。
    「俺が信用できなかったのか。」
    自分では、彼を守りきれないと、見限られたのか。
    彼は、痛みをこらえるような表情を見せた。そして、ゆっくりと、首を横に振る。
    「――違う。君のせいじゃない。」
    私のせいだ、と彼は血を吐くように言った。
    「全部、私の弱さとわがままのせいだ。それで君を傷つけたことは、本当に謝罪してもしきれない。」
    ベンは堰を切ったように言葉を連ねる。マイクは彼の様子に困惑する。彼に非があったとは思えない。だが、背景もなにもわからない状態では、彼の言葉が汲み取れない。マイクはベンの肩に手を置く。ベンははっとした様子で言葉を止め、マイクを見た。
    「ベン、俺はあの時期に、何があったのか、全くわかっていないんだ。だから、あんたのその謝罪の意味がわからない。」
    話せることだけでいいから、話してほしい。そう告げると、ベンは深呼吸をした。少しは落ち着いたらしい。そして、困ったような笑みを浮かべた。
    「少し、焦っていたようだ。」
    「そのようで。いつもの貫禄のスピーチはどうしたんですか?」
    マイクが以前のようにおどけた調子で言うと、ベンも調子を取り戻したようで、笑顔に余裕が見えた。
    「手紙は読んだか?」
    「ああ、一通りは。いつ書いたんだ、あの長い手紙は。」
    「事故の後さ。出かけるわけにもいかなくて、暇だったから。」
    偽装された事故の後、彼はワシントンD.C.郊外に用意された家で暮らしていたそうだ。今後もその家で暮らす予定らしい。事故直後は、周囲に見られるわけにはいかなかったため、計画の実行に関わっていたCIAの者が彼の生活を支えていた。人々が、ベンジャミン・アッシャー大統領の死を受け入れ、新しい大統領に馴染むまで。そして、すれ違った者が、彼だと気が付かなくなる程度に容姿が変わるまで。つい最近までは、外出を禁じられていたのだという。一国の主だった者が、軟禁生活とは皮肉な話だ。最も、在任中とあまり変わりがなかったと、ベンが全く気にしていないのが何とも困った話ではあるが。そういう生活だったため、時間はたっぷりとあったらしい。そんなひきこもり生活の間に書いた手紙を、トランブルから渡されたことに、マイクは眉をひそめた。
    「もしかして、アランも共犯か?」
    「もちろん。何度か訪ねてきてくれて、君の話を聞かせてくれたよ。」
    彼の屈託のない笑顔に、マイクは渋い表情を作る。
    すべて知っていたのなら、ここに来る車内の会話はなんだったのか。あのたぬきじじいめ、と心の中でトランブルに罵声を浴びせる。
    「本当は聞くつもりはなかったんだが……」
    「そんなに俺のこと嫌いだったのか?」
    「だから、違うよ。」
    ベンは困ったように眉を下げて笑う。そして、覚悟を決めた様子で語り始めた。
    「――任期が終わりかけた頃に、偶然大規模テロの計画の情報を入手した。」
    ベンがマイクを遠ざけ始めた頃に入った情報だった。年明けすぐに、国内の各地で同時多発的にテロを起こす計画だ。その中に、大統領の暗殺も含まれていた。テロの情報は入手できたが、全てを止めるために手を打つには時間が足りなかった。テロの流れを分析した結果、全ての核は、ベンの暗殺だった。アメリカ合衆国大統領を殺すため、というよりは、ベンジャミン・アッシャーを殺すためのテロだったのだ。それがなければ、テロを実行する理由はなくなる。だから、テロの理由をなくすために、あの計画は練られたのだ。
    偽装事故の理由は、よくわかった。だが、マイクには納得ができなかった。マイクは苦い顔をベンに向けた。
    「ベン、言っただろ。災厄なんて、俺が起こさせないと。」
    「ああ、聞いたよ。あれは心強かった。」
    「だったら、何故。」
    マイクの問いに、ベンは重々しく口を開く。
    「テロの中には、下準備として、ある一家が標的にされていた。」
    君の一家だ、ベンの言葉に、マイクは息を呑んだ。
    自分が狙われるのは構わない、だが、君と、君の家族が標的にされるのはあまりにも恐ろしかった。彼の声は震えていた。
    「君を失いたくなかったんだ。たとえ二度と会えないとしても、生きていて欲しかった。君を信じなかったわけでも、君を嫌って拒絶したわけでもない。全部、私のせいだ。」
    大切な友人を、自分のせいで死なせるわけにはいかなかったから、そう言って、ベンは弱々しく笑った。
    あの頃に、彼が不安と恐怖に囚われていたことは、手紙に書かれていた。それに気付けなかった自分には、彼の選択を責めることはできない。彼が何かを隠していたことはわかっていたが、それを無理やりにでも聞きだして、支えることができなかったのでは、友人として失格だ。そして、彼に守られていたのでは、護衛官としても失格だ。マイクは空を仰ぎ、溜息を吐いた。
    それに、とベンが独り言のような声を零した。
    「君には君の家族がいる。だから、君の人生を生きてほしいと思ったんだ。」
    自分がいる限り、君にはそれができないだろう、彼が告げた言葉は、一部は正しい。
    彼に出会ってから、マイクの人生は、彼を守るためのものになった。家族ができればそれは変わるかと思ったが、変えられなかった。妻は、それでも良いと受け入れてくれた。大統領のことを思っていないマイクなど、マイクじゃないみたいで気持ち悪いとまで言われる始末だった。
    マイクは不敵に笑い、首を横に振る。
    「ベン、あんたは俺をわかってないな。」
    マイクの言葉に、ベンは怪訝な表情を浮かべた。
    「俺は、俺が必要だと思った事しかやらない人間だ。」
    今の仕事は若干惰性で続けているような状態だとずっと思っていたが、違った。きっと、今日が来ることを、彼が戻ってくることを、無意識に理解していたのだろう。だから、マイクの己への認識は、間違ってはいなかったのだ。
    「あんたを守ることは、俺にとって何よりも必要なことだ。それも含めて、俺の人生なんだ。だから、勝手に奪わないでくれ。」
    マイクは彼の目を覗き込む。彼からの話でよく分かった。ベンは、マイクのために距離をおくつもりだったのだ。死んだことにして二度と会わないという覚悟までしていた。それなのに、こうやって今、目の前で泣き出しそうな顔をしている。
    「ベン、俺からもひとつだけわがままを言わせてほしい。」
    彼は、マイクを真っ直ぐに見据え、覚悟を決めたように肯いた。
    「どうか、俺を傍に置いてくれ。もう一度、あんたを守らせてくれ。」
    「――もう、私を狙う者はいないよ。私は死んだのだから。」
    「実際の敵じゃなくてもいいさ。色々あるだろ、孤独とか、不安とか。そういうものから、守らせてほしい。」
    マイクは彼の前に跪く。ベンは頭を押さえ、空を仰ぐ。
    「今日は、君にちゃんと別れを言うつもりで来たのに。」
    「そんなことだろうと思った。だから、先手を打たせてもらったよ。」
    マイクはにやりと口の端を引き上げ、ベンを見上げる。ベンは空を見上げたまま、深い溜息を吐く。
    「まさか、自分だけわがままを通すつもりではないですよね、元大統領ともあろうお方が。」
    ぐう、とベンがくぐもった声をもらす。
    「こんな意地の悪い男が友人だなんて。」
    「その意地の悪い男に、もう一度会いたいと思ってしまったんだろう?」
    ベンは頭を振って、マイクへ半眼を向けた。口は不機嫌そうにへの字に曲がっている。
    「ベン、わがままを言うなら、ちゃんと自分に素直なわがままを言った方が良いと思う。」
    マイクがわざと真面目な顔を作って言うと、彼は小声で罵声を零した。そして、大きく息を吸い込む。
    「君が、私の傍にいることを望んでくれるのなら、私は嬉しい。」
    「俺の希望は伝えましたよ、ベン。」
    「――なら、これからも私の傍にいてほしい。」
    ベンは晴れやかな笑顔を浮かべ、マイクに右手を差し出した。マイクは彼の手を取り、誓いの口付けを落とした。ベンが慌てて手を引っ込める。やましい気持ちなど一片もない、純粋な、忠誠の気持ちだというのに。マイクが抗議の気持ちを込めて見上げると、ベンは顔を真っ赤にしていた。乙女のように頬を染める彼の姿がおかしくて、マイクは笑い声を上げた。
    「マイク、君って男は……!」
    「何か問題でも?」
    立ち上がり、澄ました顔でベンを見る。彼はぱくぱくと口を開閉し、抗議をしようとしていたが、言葉を選べなかったようで、短く罵声を上げ、そっぽを向いた。
    「話はまとまったかな?」
    急に後ろから聞こえた声に、マイクとベンはそろって驚きの声を上げ、振り返った。後ろには、にやにやと笑うトランブルが立っていた。
    「色々と追求したいことがあるんですがね、副大統領?」
    マイクが刺々しく言うと、彼は肩をすくめてベンを見る。
    「残念ながら、この悪だくみは全部そちらのお方の筋書きでね。私は無理矢理共犯に仕立て上げられただけさ。」
    「だから、悪かったって。」
    ベンが弱り果てた様子で眉を下げる。こんな情けない顔をされては追及もできない。マイクは深い溜息を吐く。
    「わかりましたよ、またの機会に聞くとします。」
    「また、ということは。」
    トランブルはマイクからベンに視線を移す。ベンがトランブルへ肯いて見せる。
    「変な意地を張らずに、始めからこうしていれば、こんな面倒な仕込みをする必要はなかったんですよ。まったく、そろいもそろって鈍感男だからこんなにこじれることになって。」
    トランブルのぼやきに、マイクもベンも居心地が悪い気分で明後日の方向に目を向ける。二人の様子に、トランブルが溜息をついた。
    「とにかく、まとまって良かった。これで心残りが一つ片付いたよ。」
    「心配をかけて、悪かったよ。」
    きまり悪そうに言うベンに、トランブルは全くです、と肯いた。自分もベンも、彼には頭が上がりそうにない。マイクは苦笑を浮かべて二人の様子を見ていた。
    「そういえば、どうして今日だったんだ?」
    もっと早くても良かったはずだ。わざわざこの日が対面に選ばれた理由はあったのだろうか。マイクの疑問に、トランブルが悪戯めいた笑みを見せた。
    「マイク、今日の日付は?」
    「4月1日……エイプリルフール?」
    「真実を明かすには、ぴったりの日だろう?」
    「どちらかと言えば、嘘をつく日じゃないのか?」
    首を傾げるマイクに、ベンも同意するように肯いた。
    「嘘は午前中。午後は嘘のネタばらし。ローカルかもしれないが、ルールには沿ったつもりさ。」
    「午前中の嘘……」
    マイクは少し考え込み、トランブルが墓地へ向かう車の中で言ったことを思い出した。
    「それのネタばらし。良い趣向だったろう?」
    彼は茶目っ気たっぷりにウインクをした。マイクは深い溜息を吐く。ベンには、きっとわかっていないだろう。マイクは肩をすくめて苦笑を見せた。まったく、自分の認めた人々は食えない人間ばかりだ。
    「マイク、彼とつもる話はあるだろうが、そろそろ人払いの時間が終わってしまう。」
    「わかりました。」
    そうだ、今日はトランブルの護衛としてここに立っているのだ。仕事はきちんとこなすのがマイクの流儀だ。マイクはベンに向き合う。
    「この件に関しては、文書に残してある。君が閲覧する権限もあるから、それを確認してくれ。」
    ベンが文書の番号を口にする。マイクはそれを頭のなかに叩き込み、肯く。
    「ベン、気が変わったからって逃げるなよ?」
    「逃げるもんか。マイクこそ、あまり待たせるなよ?」
    二人は不敵な笑いを向け合った。
    そして、固い握手を交わし、別れた。
    再会を誓った別れは、晴れやかだった。
    マイクは天を仰ぐ。
    春にしては、澄んだ空が広がっていた。



    七宝明 Link Message Mute
    2022/06/30 21:10:32

    Mr. Suicide

    LHF後の11月下旬という仮定の元で構成されております。ベンの退任直前あたりからのお話です。
    #LHF #OHF

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