cold edge
長い休暇から戻ったマイク・バニングは、驚いていた。
そこらの街角から突然通り魔が出てきた程度なら眉一つ動かさないで返り討ちにできると断言できる。
だが、大統領の護衛任務復帰で、驚かずにはいられない変化があった。
驚きの源をしげしげと見つめてしまう。あまり見つめては失礼だとは思うが、それでもマイクの視線はそこに釘づけだった。
「――マイク?」
マイクの視線に、彼の主であるベンジャミン・アッシャー大統領は怪訝な目を向けた。怪訝な目を向けたいのはこちらの方だ。しかし、一ヶ月ぶりの対面で、いきなりこのような質問はしにくい。マイクは軽く咳ばらいをして、疑問を胸の奥にしまい込む。
「――いえ、特に何も。」
言外に何かあると言っているようなものだが、ベンからの更なる追及はなかった。マイクの含みを持たせた言葉に、彼が気付かないわけはない。
それにあえて触れてこないのは、彼も日々の公務で余裕がないのだろう。
そう思うことにした。
だから、あえて聞くべきではないのだ。
何故、いつも短く整えていた髪を伸ばしているのか、などと。
問いを飲み込み、執務室を辞して護衛の待機場所につく。
ロンドンの事件から、まだそれほど時は過ぎていない。
ベンにも何か思うところがあるのだろう、そうに違いない。
マイクは自らに言い聞かせ、久しぶりの護衛任務についた。
任務中は周囲に警戒するのが仕事だが、ベンの様子を見守るくらいの余裕はある。護衛として付き従いつつ、様子を観察する。多忙に過ぎる大統領だ。本人が気付かない不調を気に掛けるのも護衛主任である自らの仕事だと自負している。
過保護だとベン本人や、同僚たちにも言われたものだが、任期中にこれほどの事件に巻き込まれる大統領というのも稀有な存在だ。彼を見守る眼が一人分増えたところで多すぎるということはないだろう。
そんな言い訳めいたことを考えつつ、わずかな休憩時間を使って、同僚や補佐官たちに休暇の間の大統領の様子を聞いて回る。
あんな事件の後なので、大統領は多忙という一言では言い表せないくらいの忙しさ、簡単に言ってしまえば、クソ忙しいという状態だったようだ。大統領らしい身なりをするのも仕事の一つと言っていたベンが、それを疎かにするとは思えず、理容室に行く時間を省くとは考えにくい。
となると、あの髪はやはり彼の意図していることなのだろうか。だが、あの髪は伸ばすために整えたようには見えない。ベンはルックスに恵まれているおかげか、多少髪が伸びたところで見苦しくは見えないし、むしろ親しみやすさを覚えて良いかもしれないと思えるくらいだ。
それにしたって、6年間ずっと清潔感のある短髪で通してきた彼が、何故急に、という疑問は残る。
そんな取り留めのない思考を重ねながら、大統領の後ろ姿を見守っていた時だった。
不意に、ベンの肩が何かに怯えるように竦められた。マイクは即座に自身の警戒のスイッチを入れ、鋭く室内を見回す。だが、主の身を脅かすようなものは何もない。念のため、もう一度室内を確認するが、やはり何もない。怪訝に思いつつ、ベンに目を向ける。彼は落ち着きのない様子で室内を見回し、ある一点に目を向けていた。
視線の先には、鋏を駆使して何やら作業をしているスタッフがいた。小さくではあるが、金属の擦れる音がしていた。ベンは落ち着きのない様子でそちらを気にしつつ、どうにか自らの仕事に集中しようとしているように見えた。やがて、鋏を必要とする作業が終わったのか、音が止んだ。わずかに険しい色を帯びていたベンの表情が、安堵したように和らいだ。
――もしかして…
マイクはある可能性に思い至った。
あの映像のことを思い出す。
金属が擦れる忌々しい音が響く中、傷だらけの顔で毅然と真っ直ぐな視線を向け続けた、大統領の映像。
冷たく閃く白銀の映像。
世界の多くの者が目にし、また目を背けた映像。
大統領の処刑未遂の映像だ。
間に合って良かったと心の底から思うし、あと数分早ければ、という痛恨の思いもある。
今日の彼の様子で、自分の間に合ったという認識は間違いだったのだと悟った。
気が重いが、先延ばしにするわけにもいかない。
マイクは意を決して部屋の扉を叩いた。
「誰かな?」
「大統領、バニングです。」
中からの問いかけに、短く応える。どうぞ、と軽やかな声が返ってきた。深呼吸をして気合を入れ、中に入る。
中には、机に向かい、資料を読むベンの姿があった。彼は、扉の開く音に顔を上げ、マイクを見た。そして、マイクの表情を見て、驚いた様子で瞬きをした。
「どうしたんだ、マイク、何か問題が?」
「――ええ。」
マイクは肯き、険しい顔を主に向ける。マイクのただならぬ様子に、ベンは読んでいた資料を脇に寄せた。
「一体何が――」
「ベン、何か隠していることはないか?」
無礼だとは思ったが、言葉を遮り、尋ねる。彼を責めるのはお門違いも良いところだとわかっている。自らの予想が当たっていたとすれば、自分の失敗が原因なのだから、責めるべきは自分だろう。だが、何も話してくれなかった彼に、つい詰問するような口調になってしまった。
ベンは一瞬だけ目を瞠った。そして、何事もなかったような笑みを見せ、首を横に振る。
「――何も。」
「何もないって言うなら、その髪はどうしたんだ。」
長い付き合いだからわかる。これは、間違いなく彼が隠し事をしようとしている、もしくは何かを誤魔化そうとしている。敬愛する主に、そんな態度を取られるのは気に入らない。
マイクの鋭い視線を受け止め、ベンはやや伸びた金の髪の先をつまむ。
「えーっと……変、かな?」
「変じゃないけど、変だ。」
どっちなんだ、とベンは笑うが、マイクは険しい表情を崩さない。
「見た目としては変じゃない。むしろ似合っている。だが、6年ずっと短髪で通してきた人間が、突然髪型を変えるというのは変だ。」
「そんなことはないさ。気分を変えたい時だってある。」
「他にもいくつかあるぞ。」
まだ誤魔化そうとする大統領に、今日一日かけて集めた情報を開陳していく。
「3週間ほど前に、理容室へ行って、すぐに戻ってきたとか。」
「ちょっと整えてもらおうかと思っただけだよ。でも、まだいいかとあの時は思って。」
「それならそろそろ整えてもいいのでは?」
「――いや、忙しくて。」
「補佐官に聞いたが、理容室に行く程度の時間なら作れるそうじゃないか。」
マイクの尋問のような問いかけに、ベンは目を合わせようともしない。
「あと、最近電動ひげそりで髭を剃ってるとか。」
「どこからそういう情報を集めてくるんだ?」
「悪い友達だよ。」
呆れた様子のベンを軽くはぐらかす。
「あんたの最近の…いや、ロンドン以降に変わったことならまだまだある。」
ロンドン、という単語で、ベンの表情がわずかに強張る。
「もう一度聞くぞ、ベン。俺に、何か隠していることはないか?」
彼の深い青の瞳をのぞきこむ。逡巡に揺らぐ瞳が、そっと伏せられた。そして、深い嘆息の音。
「君に隠し事はできないな。」
「一応、優秀な護衛官と自負しておりますので。」
マイクの言葉に、ベンは表情を緩める。そして、渋々といった様子で口を開く。
「あのな、マイク、笑わないで聞いてくれるか?」
「もちろん。」
だいたいのことは予想できているので、笑うなんてありえない。予想できていて、なぜわざわざ彼の口から聞きだそうとしているかと言えば、無駄な隠し事のために彼の負担を増やしたくないからだ。隠さないで良いことならば、さっさと吐き出してしまった方が良い。
ベンはおもむろに口を開く。
「実は、あれから、刃物や金属の擦れる音がどうもダメで……。」
「やはり、そうでしたか。」
「ああ……って、マイク、わかっていて聞いたのか?」
「もちろん。」
真顔で肯く。ベンは頭を抱え、深い溜息を吐いた。
「君に呆れられそうだと思って、どうやって隠そうか悩んでいたのに。」
「呆れるわけないだろ。むしろ腸が煮えくり返る気分だ。」
「え……」
ベンが怯えたような表情をマイクに向ける。どうも、彼は怒りを向けられていると思っているようだ。マイクは、誤解だ、と手を上げる。
「自分に対して、な。」
あの時、あと数分早ければ、彼にこんな余計な負担をかけることもなかったのだ。まったく、我ながら不甲斐ない。
マイクの呟きに、ベンは驚いた様子で瞬きをし、首を横に振った。
「あの時の君は最善を尽くしてくれた。何も悪くない。」
「だけど、」
「これは、私の弱さのせいだ。だから、君が気にすることじゃないんだ。」
そう言った彼の笑みは、いつもの仮面をかぶりきれていなかった。相手を安心させようとする、懸命の作り笑いだと、一目でわかった。
これ以上言ったところで、彼は、聞き入れはしないのだ。一度決めたことは曲げない、彼はそういう男だ。
マイクは小さく舌打ちを零す。
「ウェルダンを通り越した消し炭にするんじゃなかった……。」
彼にこれほどの負担をかけるとは、あのテロリストは楽に死なせてやるべきではなかった。生け捕りにして関節という関節を全部外して細切れにしてやるべきだった。
マイクの凶悪な顔に、ベンは苦笑を見せる。
「とにかく、日常生活で特に不便もないから、大丈夫。気遣いをありがとう。」
彼にこう言われてしまったら、この件についてはこれ以上踏み込めない。
「不便がない? 本当に?」
それでもどうにか食い下がる。ベンが少しだけ、困ったように笑う。
「じゃあ、ひとつだけ。」
「ひとつと言わずに。」
本心だったが、彼は取り合うこともなく、軽い笑い声を上げる。
「やっぱり、この微妙に伸びかけた髪は鬱陶しくて、できればどうにかしたいけれど……」
鋏は金属の擦れる音がするから、今はまだ我慢できそうにないし、なにより刃物が怖くて仕方ないから、しばらく我慢だね、とベンは諦めた様子で言う。
マイクは少し考え込み、文具置き場に置いてあった鋏を手に取る。
「……マイク?」
怪訝な視線を向けるベンに、鋏を掲げて見せる。
「ベン、この状態は大丈夫か?」
「え、ああ、そう言われてみれば。」
他の人だと鋏を手に持っているところを見るだけで嫌な気分になるのだけれど、とベンが呟く。
それなら、とマイクは、軽く鋏を開閉する。わずかに金属がこすれる音がした。ベンの方を見ると、彼は驚いたような表情を浮かべていた。
「あれ、マイクなら大丈夫だ。」
「それは良かった。」
それだけ、彼に頼られているのかと思うと、少し誇らしい気持ちになる。にやけそうになる顔をどうにか押しとどめ、鋏を元の場所に戻す。
「あ、それなら、マイクに散髪してもらえば良いのか。」
「おいおい、いくら俺でもそれは無理だ。」
さすがに散髪の素人が大統領の髪を切るわけにはいかないだろう。ベンの残念そうな顔を見ると申し訳なくなるが、さすがに承服しかねる。
「もういっそのこと剃ろうかな。」
「それはもったいないからやめてくれ。」
「もったいないって。」
思わず本音を漏らすと、ベンが愉快そうに笑う。
「とにかく、しばらくはこれで我慢するよ。なるべく早く克服できるように祈っていてくれ。」
「お役に立てなくて残念だ。」
マイクは肩をすくめて溜息を吐く。とりあえず、懸念事項は確認できた。これ以上の長居は迷惑だろう。部屋を辞そうとした時だった。
突然、窓辺に飾られていた写真立てが倒れた。金属のフレーム同士がこすれて不快な音が響く。
ベンの様子を見ると、驚いてはいるようだが、昼間に見た様な、怯えの色はなかった。
「びっくりしたなあ。」
おっとりと言う彼に、マイクは瞬きをする。
「ベン、今の音は大丈夫なのか?」
「……え? ああ、そういえば金属の擦れる音が……。」
言われてから気が付いたらしい。だが、それでも彼は落ち着いていた。ベンは自らの反応に首を傾げる。
「そんなに気にならなかったな。……もしかして、マイクがいたからかな?」
「俺はあんたの精神安定剤じゃないぞ。」
「いいや、そんなことはない。君がいると落ち着くんだ。」
なぜか断言する主に、マイクはいやいや、と首を横に振る。だが、そんなマイクの様子を気にするでもなく、ベンが何かを思いついたように手を軽く打ち合わせた。
「そうだ、散髪の時にマイクが傍にいてくれれば良いのか。」
「いやいやいや、絶対効果ないです。」
「そんなの、試してみないとわからないだろう。」
「そんな雑な対処は良くないし、俺にあんたの散髪を見守らせるとかどうしたいんだよ。」
「不便はないか、と先に聞いたのは君だろう、バニング護衛官?」
急に圧力をかけるような大統領らしい言い方をしてくるから性質が悪い。
「私の頼みごとを、断るのかい?」
妙に楽しそうな大統領の問いと笑い顔に、マイクに選べる答えなど、一つしかあるわけがなかった。
後日、大統領の髪はスッキリと短く整えられ、異様に疲れた表情を浮かべるバニング護衛官の姿がホワイトハウスで目撃されたという噂である。