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    やわらかい風
    「スクールバスに乗り遅れた?」
    コールの素っ頓狂な声に、ハンゾウは振り返った。ハンゾウではなく、電話に対しての声だった。内容から、コールの娘のエミリーだろう。コールはしばらくエミリーと言葉を交わし、困った様子で頭をかきつつ電話を切った。
    「どうしよう。」
    「困りごとか?」
    ハンゾウの問いに、コールが肯く。
    「エミリーが学校の帰りのバスに乗り遅れたって言ってて。迎えに行こうにも、うちの車はこの間の一件でボコボコだし。アリソンは仕事でいないし。俺もライデンに呼び出されていて行かないとだし。」
    「ふむ。」
    コールの説明に、ハンゾウは少し考え込む。そして、解決すべき問題を確認するように口にした。
    「エミリーを連れ帰れば良いのだな?」
    「そう。」
    「ならば、儂が行こう。」
    ハンゾウの提案に、それは助かる、と肯きかけてコールは動きを止めた。
    「いや待ってハンゾウ、それは……」
    「街の地図は頭に入っているし、特に予定もない。散歩だと思えばちょうど良い。」
    問題はあるだろうか、と首を傾げるハンゾウに、コールはうーん、と唸り声をあげてから、頭を振った。
    「ない、といえばないんだけど……。」
    「だけど?」
    「なんか申し訳ないというか。」
    困った表情で遠慮がちに言うコールを見て、ハンゾウは肩をすくめる。
    「居候も肩身が狭い。少しは働かせてくれ。」
    ハンゾウは軽く言うが、コールはまだ悩ましく眉を寄せていた。ハンゾウは小さく溜息を吐き、コールの顔を見上げる。
    「家族だと思っているから遠慮しないでほしい、と言ったのは誰だったか。」
    「……俺だね、うん、じゃあ遠慮しない。お願いします。」
    「承知した。エミリーへの連絡を頼む。」
    ハンゾウは微笑んで肯く。コールが了解、と言ってスマートフォンを操作する。エミリーにメッセージを送っているのだろう。エミリーから返事が来るまで、ハンゾウは出かける準備を整えることにした。準備といっても、外出用の上着を羽織って、少しばかり金を持つくらいなのだが。
    「ハンゾウに迎えを頼んだよって送ったら、エミリーから大喜びの返事がきたよ。」
    「嫌がられなくて安心した。」
    「俺が行くって言う時よりも喜んでるかな。」
    エミリーからの返事に、コールが苦笑を浮かべている。そう言われると、コールの役目を奪ってしまったようで申し訳ない気分になる。
    「むしろ儂がライデンの役目に行った方が良かっただろうか。」
    「そんなことしたら俺の方がライデンに雷落とされちゃうから。」
    ハンゾウの呟きを聞いたコールが慌てて首を横に振る。確かに、雷神殿の差配を勝手に変えるわけにもいかないだろう。
    「送り迎えはだいたいパパでいい加減飽きたからってエミリーも言ってるし。お願いします。」
    コールからの頼みに、ハンゾウは肯いた。エミリーもコールも納得しているのなら、問題ない。そうと決まれば確認すべきことを済ませて早く迎えに行かなくては。
    「エミリーはどこで待っていると?」
    「学校のすぐそばの図書館だって。」
    向けられたスマートフォンの画面を見る。表示された目的地周辺の地図を、頭の中に叩き込んだ近隣の地図と照らし合わせる。自分の足ならば二十分もかからずにいけるだろう。
    「儂が出たら、エミリーに二十分で着くと送ってくれ。」
    「了解。」
    コールが肯いたのを確認し、ハンゾウは上着についたフードを被る。午後の陽射しはまだ眩しい。
    「あ、ハンゾウ待って。」
    扉に足を向けようとしたハンゾウの腕を、コールがつかんだ。ハンゾウが怪訝な顔を向けると、コールはちょっと確認、と言ってハンゾウの羽織った上着の袖を捲った。何の確認か気付き、ハンゾウは苦笑を浮かべる。
    「武器は持っておらぬよ。前にお主に注意されたからな。」
    この家にやってきたばかりの頃に、現代社会では、ハンゾウが冥界でしていたような武装をしていたら警察という組織に捕縛されると聞いている。社会に溶け込むことは忍びとしての基本中の基本だ。捕縛される危険を冒してまで武装することにこだわりはない。
    「ほら、丸腰だ。」
    ハンゾウが上着の内側を見せると、コールは安心した様子で肯いた。実のところ、隠し武器は持とうと思えば持てるし、いざとなれば瞬時に完全武装の姿にもなれるのだが、黙っておいた方が良いだろう。この善良な子孫に余計な悩みの種を作らせる必要はない。
    「それじゃあ、エミリーのこと頼むよ。」
    「ああ、頼まれた。」
    ハンゾウはコールの肩を軽く叩き、軽い足取りで外へ向かった。


    ハンゾウは目の前の建物を見上げていた。ハンゾウにとって馴染のある建物といえば平屋作りか、高くても二階建てだ。現代の高くそびえる建物を見る度に、新鮮な気分になる。建物の入口には、この国の言葉で『図書館』と記されているのが見えた。エミリーがここで待っているはずだ。コールへのメッセージでは、ハンゾウが着く頃合いに入口の前で待っていると書かれていた。周囲を見回しても、エミリーの姿はない。想定より早く着いてしまったのだろう。建物の中に入って探すべきか、このまま待つべきか、ハンゾウが考えていると、一人の少女が出てきた。エミリーだ。外に出てきたエミリーは周囲をきょろきょろと見た後、スマートフォンを取り出した。それなりに人通りのある場所なので、ハンゾウには気付かなかったらしい。ハンゾウは足早にエミリーの元へ向かう。
    「エミリー。」
    「わあっ!?」
    横から声をかけると、エミリーが驚いた声を上げてハンゾウを見た。
    「あ、おじいちゃん!ごめんね。突然声をかけられたからびっくりしちゃって。」
    「驚かせてすまない。」
    「おじいちゃん足音しないし、動くときも全然音をたてないから、近くにいるのに気が付かなかったよ。」
    そう言ってエミリーが笑う。動く気配を覚られないようにと幼い頃から叩き込まれてきたことなので、ハンゾウにとってはごく自然なことだった。
    「言われてみれば、意識したことがなかったな。」
    「おお、ニンジャっぽい。」
    おどけて言うエミリーに、ハンゾウは微笑を返す。エミリーが抱える荷物に気付き、ハンゾウは預かろうと手を差し出した。エミリーは、自分のトレーニングのつもりだから、と自らの荷物をしっかりと背負って歩き出した。彼女がそう言うのならば、手出しは無用か。ハンゾウは差し出した手を戻し、エミリーの横に並ぶ。
    「おじいちゃんが見つけやすいように早めに出てきたんだけど、おじいちゃんの方がもっと早かったね。パパのメッセージから十五分くらいしか経ってないよ。」
    「少し目測を誤ったかな。」
    「家からここまで私なら走っても三十分以上かかるよ。パパでも二十分じゃ着けないと思うなあ。」
    おじいちゃんすごいね、とエミリーが言う。ハンゾウは小さく肩をすくめた。コールとは一味違う真っ直ぐさがくすぐったい。
    「ところでおじいちゃん、フード暑くないの?」
    エミリーがハンゾウの顔を覗き込んで尋ねた。この時間帯でもまだ陽射しが眩しいので、フードは被ったままだ。
    「暑さは苦ではない。それより陽射しが眩しいのが気になる。」
    「そっか、それなら仕方ないよね。」
    エミリーが納得した様子で肯いた。
    「そっか、眩しくなければいいんだね。」
    「エミリー?」
    「ひとりごとだから気にしないで。」
    ふふふ、とどこか含みのある笑顔が気にはなるのだが、気にしないで、という言葉を素直に受け止めておく。
    「ねえおじいちゃん、家に帰ってもパパもママもいないんだよね?」
    「うむ、夜には戻ると聞いているが。」
    ハンゾウがコールに聞いたことを思い出しつつ答える。それを聞いたエミリーは、ぱっと顔を輝かせた。
    「それならデートしよ!」
    「でえと?」
    「うん、ちょっと行きたいところがあるから付き合って!」
    エミリーが用事に付き合ってほしいというのならば断わる理由はない。ハンゾウの感覚でも、まだまだ子供が外で遊んでいて良い時間だ。自分もついているわけだし、問題はないだろう。でえと、というものはよくわからないが。
    「承知した。」
    ハンゾウが肯くと、エミリーが喜びの歓声をあげた。引き受けただけでそんなに喜ばれるものなのだろうか、とハンゾウは首を捻る。エミリーは困惑するハンゾウを気にすることなく、彼の手を取って走り出した。
    「エミリー、急に走ると危ない。」
    「大丈夫だよ!」
    エミリーは軽やかに言う。子供らしい元気の良さと強引さだ。ハンゾウは手を引くエミリーの背中を見て口元を緩めた。

    「おじいちゃん、ちょっと休憩していこうよ。」
    エミリーが近くのコーヒーショップを指し示して言った。街中でよく見かける緑の看板の店だ。エミリーに付き合って店を数軒回り、少しばかり気疲れしていたハンゾウは迷いなく肯いた。
    「やった、今期の限定メニュー気になってたんだよね。」
    「そのようなものがあるのか。」
    「色々あるよ。おじいちゃんこのお店来たことある?」
    「コールと何度か。らて?とやらを馳走になった。」
    「うーん、パパらしい無難なチョイス。おじいちゃん自分で選ばなかったの?」
    「品書きを読むのがまだ不得手でな、コールが代わりに選んでくれた。」
    スマートフォンの翻訳機能を駆使しつつのゆっくりとした日常会話ならばだいぶ慣れてきたのだが、この国の文字の読み書きまではまだ習得できていない。祖国の文字すらハンゾウが生きていた時代とは大きく様変わりしていて、その習得も同時にしているため、英語の習得の進捗はややのんびりとしたものになっていた。
    「それなら、今日は私がおじいちゃんの分を選んでいい?」
    「そうしてくれるとありがたい。」
    「任せて。おじいちゃん好きな味ってある?」
    「好きな味、か……」
    エミリーの問いに、ハンゾウは考え込む。基本的にハンゾウは何でも食べる。生前から毒への耐性はあるし、仕事上出されたものに手を付けないと怪しまれることもあったため、味の好悪関係なく、出されたものは必ず口にする、という習慣が身に染みついていた。他にも、衣服や装いなど、生活に関する万事を仕事上必要なものを優先して選択することがハンゾウの習慣だった。そういうことを長年続けていたせいか、自身のあらゆることへの好悪が希薄らしい。これは、先日のコールとの会話で気付いたことなのだが。あの会話以来、コール達に頻繁に好き嫌いを確認されるようになり、ハンゾウ自身もなるべく考えて判断するようにはしているのだが、まだ即答できるほどではないのだ。
    「甘いもの、かな。」
    「甘いのね、わかった。あとは、熱いのと冷たいのどっちがいい?」
    「それなら冷たい方を。」
    「他にご希望は?」
    「特にない。エミリーの良いと思うもので。」
    「丸投げされちゃった。」
    エミリーが肩をすくめて苦笑する。ハンゾウはそういうわけでは、と首を振る。
    「エミリーが選ぶものはいつも美味いのでな、安心して任せられる。」
    「そういうところが凄腕のニンジャの人心掌握術やつなのかなあ。」
    エミリーが溜息交じりに呟く。素直に思ったことを言っただけなのだが。そう言ってハンゾウは首を傾げる。そういうところだよ、とエミリーが呆れた様子で繰り返した。
    「ほんと、おじいちゃんって天然人たらしなんだから。」
    溜息を吐きつつ言うエミリーに、ハンゾウは再度首を傾げる。店に入るたびに声をかけてきた店員や他の客を相手にしていた時も、エミリーに同じことを言われたが、ハンゾウにはよくわからない。
    「まあいいや、お店に入ろう。ちょうど空いてるみたいだし。」
    「うむ。」
    エミリーと並んで店の入口に向かう。店の扉の少し前で、エミリーが立ち止まり、ハンゾウを見た。
    「そうだおじいちゃん、お店に入ってもフードは被ったままにしておいてね。」
    「エミリーがそう言うのならば構わないが。」
    陽射し避けで被っているものだが、屋内で被っていたところで特に邪魔になるものでもないので、エミリーが外すなというのならばハンゾウにも特に異論はない。ハンゾウが素直に肯いたのを見て、エミリーも肯き返す。
    「じゃあ私は注文してくるから、おじいちゃん席を取っておいてね。どこでもいいよ。」
    「承知した。そうだエミリー、代金はこれを。」
    ハンゾウは出掛けに入れてきた紙幣を差し出す。エミリーはそれを見て驚いた顔をした。
    「おじいちゃんお金持ってたんだ。」
    「多少は。注文には足りるだろうか?」
    「十分すぎるくらいだよ。ありがとうおじいちゃん」
    エミリーは嬉しそうに笑って扉を開け、店内に入る。ハンゾウもそれに続く。外気温よりも幾分か低い店内の空気に、ハンゾウは反射的に足を止め、店内に警戒の眼差しを向けた。そして、すぐに周囲の弛緩した空気に気付き、頭を振って小さく息を吐く。急に足を止めたハンゾウに驚いたのか、エミリーが振り返って首を傾げていた。ハンゾウは微笑を作り、何でもないと首を横に振る。
    「席をとっておくんだったな。」
    「あ、うん、お願いね。」
    ハンゾウは何か問いたげなエミリーから目をそらし、適当な席を探して空いている店内へ足を向けた。窓際のカウンター席を選んで腰を下ろす。注文口へ目を向けると、エミリーの前に数人並んでいるのが見えた。エミリーが来るまで少し時間がかかりそうだ。ハンゾウは窓の方へ体を向け、外を眺める。この街の様子は幾分か見慣れてきたが、まだまだ目新しいことも多い。道行く人々を眺めつつ、エミリーを待つ。
    「すみません。」
    不意に声をかけられ、ハンゾウは振り返った。若い男が飲み物を手に立っていた。
    「隣の席、良いですか?」
    男が尋ねた。ハンゾウの両隣は空席である。エミリーの分が空いていればいいのだから、片方は埋まっていても特に問題ない。ハンゾウは男へ肯いてみせた。男は礼を言ってハンゾウの隣に座る。男は若干椅子をハンゾウの方へ寄せた。ハンゾウは特に気にせず、注文口へ目を向けた。ちょうど、エミリーが注文しているところだった。
    「待ち合わせですか。」
    隣の男が再びハンゾウに声をかけた。ハンゾウはどう答えるべきか、と考え、結局言葉がでてこなかったので、曖昧な肯定の声を返す。それを聞いた男は、落ち着いた良い声ですね、などと言い出した。これは相手にしないほうが良い手合いだったのかもしれない。ハンゾウは迂闊に返事をしてしまったことに後悔した。祖国の言葉ならばあしらいようもあるのだが、この国の言葉ではどう対応していいのかわからない。ハンゾウは相手の言葉を適当に聞き流し、相手が飽きるのを待つことにした。
    「おじいちゃんお待たせ!」
    エミリーの声に振り返る。飲み物を手にしたエミリーが立っていた。エミリーはハンゾウの隣の席にいる男をじろじろと見る。
    「うちのおじいちゃんに何か用ですか?」
    エミリーは男に真っ直ぐな目を向けて尋ねた。平坦だが強い口調だ。男は首を横に振り、目を逸らした。エミリーはにっこりと笑い、ハンゾウの隣の席に腰を下ろす。ハンゾウの横にいた男はそそくさと去っていった。ハンゾウは隣に座ったエミリーに苦笑を向ける。
    「少々騒がしかったが、害はなかったろうに。」
    「おじいちゃん、適当に聞き流してたでしょ。あの人、口説いてたんだよ?」
    エミリーはそう言って、ハンゾウの前に置かれていた紙片を手にとった。男が去り際に置いていったもののようだ。エミリーはその紙片をハンゾウに向ける。紙片には数字と文字が並んでいた。
    「電話番号とメールアドレスを置いていくって、相当本気だよ。」
    「こんな爺相手にか、冗談だろう。」
    驚きの声を上げたハンゾウに、エミリーが呆れ顔を見せる。
    「老人だと思ってるの、おじいちゃんだけだよ。」
    「四百と少しはどう考えても爺だろう。」
    「四百年はちょっとおいておくとして、おじいちゃんの見た目だけならパパのお兄ちゃんでも通るくらいだよ。」
    まだまだいけるんだから、油断しないでね、とエミリーが強い口調で念を押す。その剣幕に、ハンゾウは素直に肯いた。エミリーは、わかったのならいいよ、と満足そうに言って、ハンゾウの前にカップを置いた。目の前に置かれたものを見て、ハンゾウは首を傾げる。
    「エミリーこれは、飲み物、なのだろうか。」
    「うん、おじいちゃんのはオーソドックスにコーヒーベースのフローズンドリンクにクリームをたっぷりのせた飲み物だよ。」
    エミリーの説明すらよくわからない。よくわからないが、彼女が選んだものなら大丈夫だろう、と信じるしかない。エミリーは果物ベースなのだと言って極彩色の飲み物をストローで吸っている。美味そうに飲むエミリーを見て、ハンゾウはおそるおそる自分の分に手をつける。苦みと甘みと冷たさが同時に口の中に広がる。初めて経験する味わいだ。
    「どうかな?」
    「慣れぬ味で少し戸惑ったが……うん、美味いな。」
    「ほんとに?我慢してない?」
    エミリーの不安そうな問いかけに、ハンゾウは美味いよ、と答えて微笑んだ。素直な感想である。エミリーはその回答を聞いて、ほっとした様子で笑顔をみせた。
    「気に入ってくれて良かった。」
    「やはり、エミリーなら安心して任せられる。」
    「ご期待に添えてなにより。」
    えへへ、と照れたように笑って、エミリーは自分の飲み物を口に運ぶ。ハンゾウも自分の分の続きを堪能する。
    「それにしても、おじいちゃんってモテるよね。」
    突然の発言に、ハンゾウは咽そうになったのを耐えてエミリーを見る。
    「――何を突然?」
    「だって、一緒にまわったお店で店員さんや他のお客さんにいっぱい声をかけられてたでしょ。」
    「店に入って声をかけられるのは、普通のことでは?」
    現役の忍びの頃から、ハンゾウにとっては日常茶飯事だったので、現代でも異国でもそういう風習は変わらないのだなと思い対応していたのだが、どうやら違うらしい。首を傾げたハンゾウを見て、エミリーが頭を振る。
    「昔の日本はどうか知らないけれど、少なくとも現代のこのあたりではそんなに頻繁に声をかけられることないよ。」
    「そうだったのか。」
    「フードかぶったままでも、さっきみたいに声かけられてるんだもん。びっくりしちゃった。」
    エミリーがこの店に入る前に、フードはかぶったままで、と言ったことを思い出す。ハンゾウがよその者から声をかけられないように、という配慮だったらしい。あまり効果はなかったようだが。
    「それにしても、男の人も女の人もおじいちゃんに声をかけるよねえ。なんでだろう。」
    エミリーが不思議そうに言う。ハンゾウは曖昧に肩をすくめた。人の多い場所では無害そうに振る舞う習慣がついているせいか、話しかけやすいのだろう。エミリーはストローを口にくわえつつ、ハンゾウをじろじろと見る。
    「うーん、服装かなあ。おじいちゃんまだパパのおさがり適当に着てるでしょ。」
    エミリーの言う通り、ハンゾウの服はコールが着古しを借りている。サイズは大きいが、ハンゾウはゆったりした服の方が落ち着くので特に問題は感じていない。
    「おじいちゃん、その服装で顔が見えないと十代前半くらいでも通せるんだよね。」
    「エミリー、それはさすがに無理があると思うのだが。」
    「いやいや、おじいちゃんは自分のことがわかってないよ。後ろ姿だけなら私の同級生って言っても通るから。」
    熱弁を振るうエミリーに、ハンゾウは少し考え込む。
    「そういう相手を口説くのは、現代の倫理観的にまずいのでは。」
    コールやライデン、寺院の者達から教えてもらった現代社会の倫理観を思い出す。ハンゾウが忍びとして働いていた時代ならば蔑ろにされていたものだ。何せ十代も半ばになれば戦場に立つ時代だったのだ。
    「まずいね。今度からやっつけちゃえ。」
    ハンゾウの呟きに対して、エミリーがやたらと良い笑顔で言った。この子はコール以上に好戦的な時がある。迂闊に危ないことをしでかさないか注意しておこうとハンゾウは心の片隅に書き留めておく。
    「そういうリスクを減らすためにも、もうちょっとおじいちゃんに合った服装をしたらいいと思うんだよね。」
    「その、合う服装だと更にりすく?とやらが増すのでは。」
    「たぶん、ちゃんとおじいちゃんに合う服装をしたら、気軽に口説こうなんて気持ちにならなくなると思うんだよね!あと、もったいないし。」
    「もったいないとは。」
    「そういうわけで、今度は皆で服を買いに行こうね。」
    ママとパパにも言っておこう、と言って、エミリーは自分のスマートフォンをいじり始めた。行動が速い。エミリーの押しの強さと、決断と行動の速さにハンゾウは感心していた。世が世なら白井流の技のよき遣い手になっていたのかもしれないな、という考えが浮かび、ハンゾウは頭を振った。今の世にあの技は必要ないし、遠き裔に継がせるつもりもない。健やかに生きていてくれればそれで十分だ。
    「あ、二人から返事だ。二人とも賛成だって。今度の休日にみんなで行こうねってさ。」
    「そ、そうか。」
    まさかコールも賛成するとは。三対一では大人しく従う他あるまい。ハンゾウは小さく息を吐いて、まだ残っている飲み物で口を潤す。冷たさが心地良い。
    「話は変わるんだけど、おじいちゃん冷たい飲み物は大丈夫なんだね。」
    スマートフォンを仕舞ったエミリーがハンゾウを見ていた。
    「大丈夫、とは。」
    エミリーの言葉の意味を測りかね、ハンゾウは首を傾げる。
    「おじいちゃん、涼しいお店に入る度にちょっと身構えてるから、冷たいの苦手なのかなと思って。」
    このお店に入った時も身構えてたよね、とエミリーは続けた。ほんの一瞬のことだったはずだが、気付かれていたとは。ハンゾウはエミリーの観察眼に舌を巻く。
    「よく見ていたな。」
    「パパのセコンドが務まるくらいだからね。」
    エミリーが誇らしげに胸を張った。コールもエミリーの助言は的確なんだと褒めていたことを思い出す。
    「エミリーなら、よき忍びになれたであろうな。」
    「それなら将来ニンジャになろうかな。」
    「それは勧めないが。」
    「なあんだ。シライリューに興味あったのに。」
    おどけて言うエミリーに、ハンゾウは苦笑を返す。あんな物騒な技を教えたらコールに叱られてしまう。
    「話を戻して、おじいちゃん冷たいの苦手?」
    自分が知りたいことを見失わないのも、彼女の美点だろう。エミリーの疑問に、どう説明したものか、とハンゾウは考え込む。
    「苦手なわけではない。快適だと思う。だが……」
    ハンゾウは少し言い淀んだ。エミリーがハンゾウを見つめ、先を促す。ハンゾウは躊躇いつつ口を開いた。
    「あの戦いの相手を思い出す。儂が、初めてこの地に来た時の。」
    「ああ、あの氷の人か!」
    あの時は怖い思いをしただろうし、あまり思い出させない方が良いだろうと気を遣ったつもりなのだが、エミリーの反応はあっけらかんとしたものだった。
    「でもあの人もっと冷たかったよね。冷凍庫くらい?」
    一歩間違えば命を落としていたかもしれないというのに、エミリーは気にしている様子はなく、軽やかに言う。
    「おじいちゃんが家で冷蔵庫や冷凍庫を開ける時にちょっと身構えてるのもそれか。謎が解けたよ。」
    「そ、そうか。」
    あまりにも軽い調子に、ハンゾウは若干不安になる。
    「エミリー、あの時のことは、その、大丈夫なのか?」
    「うーん、ちょっと怖かったけど、パパとおじいちゃんが助けてくれたし、今も二人ともそばにいてくれるから、大丈夫だよ。」
    エミリーが笑顔で言った。ハンゾウは、瞬きをしてエミリーを見る。
    「二人なら、守ってくれるでしょ、絶対に。」
    「――ああ、もちろん。」
    ハンゾウは肯く。もう二度と、奪わせたりするものか。
    「でもおじいちゃん、あの人、あの時にやっつけたんだよね?だったら、涼しいの気にしなくていいんじゃない?」
    エミリーが無邪気に言う。確かに、冥府の炎で焼き尽くした。間違いなく死んだと思う。しかし、自分のように現世に舞い戻った存在がいることを考えると、多少の不安はある。不安の原因が自分の存在というのも妙な話なのだが。ただ、それを口にして、エミリーにまで不安を抱かせることもないだろう。
    「確かにエミリーの言う通りだ。早く慣れるよう努める。」
    「それが良いと思うよ。」
    同意を示したハンゾウに、エミリーは肯いた。そして、残っていた飲み物を一気に飲み干す。随分な量があったはずだが、もうなくなるとは。ハンゾウの分はまだ三割ほど残っている。ストローで飲むことに慣れていないため、ハンゾウはちびちびと飲み物を啜っていた。
    「ゆっくりでいいよ。パパもママもまだ家に着いてないってさっきメッセージきてたし、慌てて帰らなくても良いよね。」
    エミリーの言葉に甘えて、ハンゾウは残りの飲み物をゆっくりと味わうことにした。
    「ねえそこのお二人さん。」
    突然背後から男の声がした。先に振り返ったエミリーが不機嫌そうに顔を顰めている。何事だろう、と続いて振り返ろうとしたハンゾウを、エミリーが止める。
    「私が相手するから大丈夫だよ。」
    「しかしエミリー。」
    「大丈夫だって。」
    エミリーは任せて、とハンゾウに片眼を瞑ってみせた。そして、再び険しい顔を作ってくるりと椅子を回した。聞こえてくる声は、男性のものだ。おそらく二人だろう。残り僅かになった飲み物を口に含み、聞き耳を立てるが、早口の言葉の応酬でハンゾウには聞き取り切れない。エミリーが任せろと言うのも納得である。しかし、どうも強い調子のやりとりになっている気がする。荒事にならなければ良いが、などと考えつつ、ハンゾウは空になった飲み物の容器を机の上に置いた。それと同時に、二つの足音が遠ざかっていった。
    「まったくもう、せっかくのおじいちゃんとのデートなんだから邪魔しないでよね。」
    ハンゾウの方へ向き直ったエミリーは頬を膨らませて足音が遠ざかった方向を睨んでいた。
    「エミリー、今のは?」
    「まーたナンパだよ。それもダブルデートしよう、だって。勘弁してよね。」
    フードかぶった後ろ姿でもモテるなんておじいちゃんすごいよね、と呆れ顔のエミリーに言われ、ハンゾウは苦笑を浮かべた。
    「何も特別なことなどしていないのにな。」
    「ほんとに?なんか秘密の術とか使ってないの?」
    「人目を惹くような術は使わんよ。」
    「やっぱりおじいちゃんの天然人たらしオーラ効果かあ。」
    エミリーが言っていることはよくわからないので、ハンゾウは曖昧に肩をすくめた。あまり長居してまた声をかけられるのも厄介だ。そろそろ潮時だろう。
    「エミリー、待たせてしまったな。そろそろ出よう。」
    「おじいちゃん全部飲み終わったんだ。」
    「うむ、美味かった。」
    エミリーがそれなら良かった、と笑って自分の荷物と空になった容器を手に席を立った。ハンゾウもそれに倣って自分の容器を手に立ち上がる。返却口へ器を置き、二人は店を出た。

    外の眩しさがだいぶ和らいだ気がする。ハンゾウはフードを少しずらして空を見上げた。太陽が西へ傾き始めている。日が暮れるにはまだ猶予はある刻限だ。このまま何事もなく家に向かえば、日のあるうちに帰りつけるだろう。
    「エミリー、そろそろ帰ろう。」
    「えーもうちょっとおじいちゃんと遊びたいのになー。」
    「家でもやれることはあろう。」
    「それもそっか。」
    エミリーはあっさりと肯いて歩き出した。ハンゾウはその隣を歩く。
    「おじいちゃん、今日は楽しかった?」
    「ああ、楽しかったよ。エミリーのおかげだ。」
    エミリーの問いかけに、ハンゾウは肯いた。ふとした瞬間に、後ろめたさが過ることはある。そんな時に、エミリーの屈託のない笑顔を見ると、少しだけ気が軽くなった。この笑顔を守れたのだから、過去の至らなかった自分を、ほんのわずかでも許してやっても良いのではないかと思えた。
    「それなら良かった。また誘っちゃうからね。」
    「それは、楽しみだ。」
    ハンゾウは微笑を浮かべた。フードの中を覗き込んだエミリーは笑いを返し、ハンゾウの腕に抱きついた。
    「年頃の女性がそんな軽率な。」
    「安心して、家族にしかやらないから。」
    家族、と言われるとハンゾウは弱い。小さく溜息を吐いて、力を抜いた。抵抗を諦めたハンゾウを見て、エミリーが腕を絡める。
    「コールに怒られぬと良いのだが。」
    「帰ったらパパにもやってあげるから大丈夫だよ。」
    「そういう問題なのだろうか。」
    「むしろおじいちゃんがパパにやってあげた方が喜ぶかもよ。」
    「何故。」
    寄り添って歩く二人に、近付く人影があった。気配を感じ取ったハンゾウは足を止め、振り返った。エミリーもつられて振り返り、げ、と嫌そうな声を上げた。ハンゾウとエミリーの数歩後ろに、男が二人ついて歩いていた。
    「またあんたたちなの?」
    エミリーは嫌悪感を隠すこともなく刺々しい口調で言った。ハンゾウには見覚えのない男達だが、エミリーの反応から、先ほどコーヒーショップで声をかけてきた二人連れだろうと推測する。
    「どうしても君らのことが気になってさ。」
    「偶然見かけたからまた声をかけちゃったんだよね。」
    口を開いた男達の声は、ハンゾウにも聞き覚えがあった。推測した通りだろう。
    「さっき断ったんだから諦めなよ。」
    エミリーが強い口調で言う。男達はへらへらと笑って、諦めが悪くてね、などと言っている。どう対処すれば良いか、ハンゾウは考え込む。エミリーがいることだし、なるべくなら揉め事は避けたい。穏便に済ませようにも、ハンゾウはこの国の言葉に慣れておらず、男達を説得できそうにない。エミリーは最初からケンカ腰で、今更説得は難しいだろう。そもそも、この男達はハンゾウのことをエミリーと同年代の者と勘違いして声をかけている可能性がある。その勘違いを解消できれば良いのではないか。日が傾いて来たことだし、あまり眩しさは感じない。ハンゾウはフードを外して男達を見る。
    「お主等、声をかけるならば、もう少し相手を見た方が良い。」
    男達がぽかんと口を開けてハンゾウの顔を見つめる。子供と思って声をかけたのに、こんな爺だとわかったら呆気にとられるのも理解できる。これで引き下がってくれれば良いのだが。
    「えっ……なにこのゴージャスなおじさま…。」
    「これはお近づきになるしかないだろ……。」
    「……?」
    男二人の視線が、エミリーからハンゾウへ移った。彼等の言った言葉はわかる。しかし、言っている意味がわからない。ハンゾウは瞬きをして首を捻る。エミリーは額に手を当て、頭を振っていた。
    「予想通りと言えば予想通りなんだけど釈然としないというか!」
    「……??」
    エミリーの反応もよくわからないが、打つ手を誤ったらしいということはわかった。男達がハンゾウへ向かって一歩踏み出した。ハンゾウは身構えつつエミリーを庇って一歩下がる。
    「よかったら連絡先の交換でも。」
    「一緒にディナーでもどう?」
    男達の興味はハンゾウに集中している。それならば、ハンゾウが適当に相手をしている間にエミリーを逃がす、という手がある。ハンゾウの頭に、一瞬そんな考えが過る。だが、ハンゾウが任された仕事はエミリーを無事に家まで送り届けることだ。一人で帰らせては仕事を果たしたことにならない。なにより、エミリーがハンゾウを置いて一人で帰るとは思えなかった。他の手を考えなくては。
    エミリーに視線を向けると、彼女は小さく拳を突き出す動作をしてみせた。やっつけちゃえ、という軽やかな声が聞こえてきそうな動きである。対応を考えるのが面倒くさくなってきたハンゾウは、その手もあるな、とエミリーからの無言の提案に思考が傾きかけた。しかし、コールからは、一般人相手の暴力は極力避けるよう言い含められている。ハンゾウはしつこく声をかけてくる男達を眺める。ハンゾウよりも背丈はあるが、全体的に貧相な体つきだ。四百年間、ハンゾウは冥界で異形のものと全力での殺し合いを続けてきた。人間界に戻ってからは、光の寺院での戦士たちを相手にした訓練で、どうにかぎりぎりで殺さない程度の加減はできるようにはなった。しかし、この加減は戦闘の経験がある相手に対してであって、なんの訓練も積んでいないような一般人相手では加減として十分ではないだろう。目の前にいる二人組に対してでは、うっかり殺してしまいかねない。武力での制圧は、もう少し現代の人間界に慣れてからでないと難しそうだ。となれば、残る対処法は一つしかない。
    ハンゾウは視線を巡らせ、周囲の様子を確認する。上手い具合に高さの揃った建物が建ち並び、足場にちょうど良さそうな高さの塀や、伝って移動するのに役立ちそうな外階段が見えた。勝手に他所の敷地に入るのは違法行為だとコールに言われていたが、この際聞いていなかったことにしておこう。ハンゾウはエミリーに向き直る。エミリーの目方は知らないが、鎧姿の武者より重いということはあるまい。
    「エミリー、少しの間、儂を信じて身を預けてはくれぬか?」
    「いいよ。でもおじいちゃん、何をする気?」
    「なに、悪いようにはせんよ。」
    ハンゾウは首を傾げるエミリーをひょいと横抱きに抱えた。このくらいの重さならば、問題なく動けるだろう。エミリーは驚いたのか大きな目をぱちぱちと瞬かせている。
    「しっかり掴まっておるのだぞ。」
    ハンゾウはぽかんとしているエミリーに声をかけて微笑む。エミリーは、はっとした様子でハンゾウの背中と肩に手を回して、しっかりと体を支えた。男達は呆気に取られて口を開けたまま二人を見つめていた。ハンゾウは二人に声もかけずに走り出す。
    「おじいちゃん速いね!?」
    「少し跳ぶ。話すと舌を噛むぞ。」
    「跳ぶ???」
    エミリーの困惑の声に応える代わりに、ハンゾウは地面を強く蹴って跳び上がる。路上に停められた車と、建物の敷地を区切る塀の上を足場に、立て続けに跳ねて近場の建物の外階段の踊り場に降り立つ。そのまま階段を上り、一番高い階まで駆ける。ハンゾウは一度足を止めた。このまま今居る建物の屋上に出られれば楽だったのだが、一度屋内を経なくてはならないようだ。扉の鍵がかかっている可能性もある。
    「おじいちゃん、ここからどうするの?」
    「屋上に出て、そのまま建物伝いに移動する。」
    「……へ?」
    ハンゾウは階段の手摺に立ち、壁に沿って設置された金属の管へ跳び移った。細く不安定な足場だが、走れないことはない。管伝いに助走をつけ、出窓を足掛かりに壁を駆け上がる。最後の一歩を強く踏み切って高く跳ぶ。そのまま空中で一回転し、ハンゾウは屋上に降り立った。後は屋上を跳び移っていけば良いだろう。
    「エミリー、大事ないか?」
    「だいじょうぶだけどちょっと酔いそう……。」
    「それはすまん。あとはそれほど激しくは動かないはずだ。」
    「それならいいけど。」
    ちょっとしたジェットコースターだね、とエミリーが笑った。エミリーの言うものがよくわからないが、大丈夫というのならそれで良い。
    「次はどっちへ行くの?」
    「あちらの建物を伝って家の方を目指そう。」
    「おじいちゃん、となりの建物まで結構距離あるよ?」
    「あれくらいなら余裕で跳べる。」
    「……これがニンジャなのね…。」
    エミリーはそう呟いて、ハンゾウに掴まり直した。ハンゾウはエミリーの体をしっかりと支え、滑るように走り出した。

    「ということがあってね、おじいちゃんすごかったんだよ。」
    興奮気味にエミリーが語っている。コールはそれを聞きつつ、エミリーの隣に座るハンゾウへ目を向けた。ハンゾウは泰然とマグカップに淹れた緑茶を啜っている。とんでもない経路での帰宅について、気にしている様子はない。コールとしても、二人が怪我もなく元気に帰って来たのならば、言うことはない。ないのだが。
    「でもおじいちゃん、なんであいつらやっつけなかったの?おじいちゃんなら楽勝でしょ?」
    娘の物騒な言葉にコールは天を仰ぐ。引き受けてくれる人がいないからとセコンドを頼んでいたのは教育上よろしくなかったのかもしれない。ハンゾウは少し考え、口を開いた。
    「避けられる戦いは避けるのも忍びよ。」
    まあ、絡まれてしまった時点で儂の失策なのだが、と続け、苦笑を浮かべる。ハンゾウが好んで武力行使を選ぶわけではないと分かったことで、コールは少し安心した。一般人への暴力は避けるように、と忠告しておいたのが良かったのだろう。
    「言葉で解決できるように、早くこの地の言葉に慣れなくては。」
    「そんなに焦らなくても、俺達がサポートするから大丈夫だよ。」
    コールの言葉を聞いたハンゾウが、それは助かる、とほっとしたような表情を見せた。
    「そうだよ、おじいちゃん安心して。」
    エミリーは力強く言う。それを聞いて、コールとハンゾウはお互い目配せし、肩をすくめた。確かにエミリーははっきりとものを言ってくれるので助かるのだが、今日の出来事を聞いていると、一歩間違うと火に油を注ぐようなことになりかねない気もする。ハンゾウもそれを心配しているのだろう。
    「確かに、今日はエミリーに幾度も助けてもらったな。」
    「でしょう、さすがおじいちゃんわかってるね。」
    頼ってくれていいからね、とエミリーが胸を張る。ハンゾウはその姿を見て微笑んだ。
    「ああ、頼りにしておるよ。」
    今日のところは助けられたという面が大きいようで、ハンゾウは忠告めいたことは言わずに肯くだけだった。エミリーに、あまりケンカ腰ではいけないと釘を刺すのは、父親である自分の役目だ。まあ、それは今日でなくてもいいだろう。コールも忠言を口にすることはなかった。
    「そういえばエミリー、学校の課題があるって言ってなかった?」
    「いけない忘れてた!ありがとパパ!」
    エミリーは慌てて立ち上がり、自分の部屋へばたばたと走っていった。慌ただしい後ろ姿を見送り、ハンゾウが小さく息を吐いた。
    「ごめん、騒がしくて。」
    「健やかで良いことよ。」
    ハンゾウは穏やかに言う。彼もこの生活に随分と慣れたのだろう。ハンゾウがこの家に来たばかりの頃は、会話は最低限の単語のやりとりで済ませていたり、警戒心を露わにして部屋の隅に控えていたりしたものだ。それが、今や自分達と和やかに言葉を交わし、のんびりとお茶を楽しみつつ椅子で寛いでいる。そんなハンゾウの変化を、コールは感慨深く見つめていた。
    「エミリーの迎え、ありがとう。助かったよ。」
    「役に立ったのなら何より。少々の厄介事はあったが……。」
    「逃げてやり過ごしたんだから問題ないさ。賢明な選択だよ。」
    もしかしたら、通り過ぎたという建物の持ち主に不法侵入云々と言われる可能性もないとは言い切れないが、何かを壊したりしたわけではないし、多分大丈夫、だと思いたい。
    「それにしても、ハンゾウが暴力的な解決策を選ばないのはちょっと意外だったかな。」
    普段からハンゾウは自身をひとでなし、などと言っているので、すぐに手が出るのではないかとコールは心配していたのだ。コールの言葉を聞いたハンゾウは、肯定とも否定ともとれない曖昧な表情を作っていた。
    「ハンゾウ、その顔は……?」
    「その、暴力的な解決策も、考えていないわけではなかったというか、あと一歩でやるところだったというか。」
    ハンゾウが言葉を濁す。コールは先程ハンゾウがエミリーに言っていたことを思い出す。
    「余計な戦いを避けるという話は?」
    「建て前だ。」
    即答だった。コールは項垂れて額を押さえる。ハンゾウが生きた時代の大部分は戦で乱れた時代だったと聞く。それなら、武力で制圧する、という選択肢が浮かぶのも仕方がないことだ。
    「下手に手を出すと、うっかり殺しそうだったのでな、さすがにエミリーの前でひとごろしは避けた方がよかろうと。」
    物騒な言葉がぽんぽんと出てくる。コールは思わず顔を上げてハンゾウの顔を見た。ハンゾウの表情は普段通りで、平静そのものだ。これが戦乱の世を生き抜いた忍者にとっての標準的な考え方なのかもしれない。今は、彼の本意ではないとしても、現代社会に存在しているのだから、適応してもらわなくては。
    「エミリーの前でなくとも、ひとごろしはやめてください。あと、物騒な解決策もなるべく避けて。」
    「わかっておるとも。しかし……」
    「しかし?」
    「お主等に刃を向けられたら、保証はできぬ。」
    ハンゾウが真顔で言った。コールは小さく溜息を吐く。まったく、ずるい人だ。そんなことを言われたら強く出られなくなってしまう。しかし、この線引きはハンゾウを守るためのものだ。きちんと言わなくては。
    「気持ちは嬉しいけれど、人間界の一般人相手には手加減すること。あと、先に手を出すのもダメだから。」
    「むう。」
    コールはきっぱりと告げた。ハンゾウが小さく唸る。
    「ちなみにどの程度の加減が許されるのだろうか。首を落とす程度か?」
    「死んじゃうよ!?」
    「腕ならどうか?」
    「ダメダメ落とさないで、人間界の人間だと普通に死んじゃう!」
    「そうだった、殺しはまずいのであったな。」
    世間話のような調子でハンゾウが言う。うっかり殺すところだった、という発言も肯ける。彼の生きた時代ではそれが普通だったのだろう、多分。あとは、冥界で過ごした四百年のせいだ、と思いたい。
    「出歩くときに刃物を持ち歩くのは禁止です。絶対ダメです。」
    コールの言葉を聞いて、ハンゾウは素直に肯いた。自らの得物の危険性はよく理解しているらしい。しかし、と言ってハンゾウが首を傾げた。
    「どうしても制圧しなくてはならない場合はどうしたものか。」
    「死なない程度に気絶させるとか、動かないように関節を外すとか。あとは、緊急なら骨を折るくらいは許されていいと思う。」
    コールが考えられる妥協案を挙げる。相手が悪さをしてきたのならば、それくらいの仕返しはしても良いはずだ。ハンゾウはコールの案を吟味するように少し考え込む。
    「なるほど、心に留めておく。」
    そして、納得した様子で、こくりと肯いた。できれば、ハンゾウがそういうことをする機会が起きないでほしいな、とコールは心のうちで祈った。いや、祈るだけではいけない。コールができる対策を考えなくては。コールは夕方に来たエミリーからのメッセージを思い出した。
    「そういえば、エミリーがハンゾウの服を買いに行こうって言っていたね。」
    「ああ、あれか……。」
    ハンゾウが微妙に渋い表情を浮かべた。エミリーからはおじいちゃんも乗り気だよ、というメッセージがきていたのだが。
    「もしかして、エミリーに押し切られた…?」
    「そういうわけではない。あの子の言うことは理に適っていると思う。」
    場に則した服装選びや立ち居振る舞いは忍びの基本でもあるしな、とハンゾウは自らに言い聞かせるように言った。なんとなく歯切れの悪さを感じる。何か言いたいことを押し隠している時のハンゾウは、言葉の切れが悪くなる。この遠い先祖との数週間の付き合いで、コールはそれを学んでいた。
    「何か気がかりなことでもある?」
    コールが率直に訊く。ハンゾウは自分の希望をすぐに押し隠してしまう。そういう時は、胡乱な小細工など役に立たない。なんでもないとより深くに押し込めてしまう。だが、この人は真っ直ぐで率直な問いには弱いのだ。ハンゾウは逡巡し、口を開く。
    「気持ちは嬉しいのだが、居候の穀潰しには少々身に余る。」
    儂よりも、お主等自身のためになるものを買うように、とハンゾウは微笑んだ。先祖に経済状況の心配をさせてしまうとは不甲斐ない。アリソンはまだ仕事から帰ってきていないし、コールに稼ぎがあるようにも見えないのだろう。心配されるのも無理はない。
    「光の寺院からの仕事でちゃんと謝礼が出ているし、経済事情に余裕はあるんだ。心配しないで。」
    「しかし、それはお主等の糧として使うべきものだろう。」
    このままだとハンゾウが頑なに固辞する流れになりそうだ。どうしたものかと考えたコールは、ライデンから渡されたものを思い出した。
    「そういえば、ライデンからハンゾウに渡すようにって頼まれたものが。」
    「雷の神が?」
    怪訝な表情を浮かべるハンゾウに、ライデンから託された封筒を差し出す。受け取った時に妙に厚さがあるな、とは思ったが、中身を検めてはいないので、コールには何が入っているのかわからない。封筒を開けたハンゾウは、困惑した様子で中身を取り出した。札束と手紙である。
    「あの御仁から金を貢がれる謂れはないのだが?」
    「俺だって知らないよ。渡してくれって託されただけだ。」
    「まったく何を考えておるのやら。」
    困惑したままハンゾウが手紙を開く。コールには読めない文字だ。おそらくハンゾウの母語で書かれているのだろう。
    「コールよ、服の話をライデンにしたのか?」
    「ああ、軽くだけど。」
    仕事と鍛錬の合間にハンゾウの様子を訊かれたので、エミリーからのメッセージの話を少しした。そうしたら、帰り際にあの封筒を渡されたのだ。ハンゾウは渋面を作って手紙を見つめている。
    「あの御仁に借りを作るとろくなことがないのだが。」
    ハンゾウがぼそりと呟いた。なんだかまずいことをしてしまったのかもしれない。コールはおそるおそるハンゾウに声をかける。
    「受け取らない方が良かったのかな……?」
    「コールに責はない。気にするな。」
    ハンゾウは頭を振った。そして、コールに微笑みかける。
    「泡銭が手に入ったと思うことにしよう。これだけあれば、多少衣を新調しても悪くあるまい。」
    どうやらハンゾウも開き直ったらしい。色々と気になることはあるが、ハンゾウが乗り気になったのならそのまま勢いで押し通したほうが良い。
    「それはよかった。エミリーもアリソンも喜ぶよ。」
    二人とも、ハンゾウにお洒落をさせたくてうずうずしているのだ。ハンゾウはそれを聞いて、困ったように笑った。
    「お手柔らかにしてほしいものだ。」
    「うーん、どうかなあ……。」
    コールですらも二人と服を買いに行くと張り切ってコーディネートされてしまうのだ。二人が手加減してくれることを祈るしかない。
    「しかし、泡銭とはいえ、礼はせねばなるまいな。」
    ハンゾウは微妙に厭そうにライデンからの封筒を抓んでいる。二人が古い馴染だとは聞いているが、どういう関係だったのか。ハンゾウの礼儀正しさを考えると、神相手にはそれなりの敬意をもって接していそうなものだが、どうもそんな風には見えない。今はまだ追及しないでおいたほうが無難だろう。
    コールは封筒を渡された時のことを思い出す。
    「たぶん、買った服を着て寺院に顔を出せば十分だと思うよ。」
    近々ハンゾウを連れてくるように、とライデンにやたらと念を押されたのだ。いつも光っている目も心なしか輝きを増していたようにも見えた。ライデンはよほどハンゾウに会うのを楽しみにしているのだな、と思ったものだ。
    「ライデンは、ハンゾウが元気で楽しく過ごしていてくれたら嬉しいんだよ、きっとね。」
    ハンゾウはコールの言葉を聞き、不思議そうに首を傾げていた。
    なるほど、ライデンが貢ぎたがるわけだ。コールも思わず納得してしまうような表情だった。
    エミリーが見ていたらこう言うのだろう、そういうとこだよ、おじいちゃん、と。
    最強の忍者らしからぬ表情を浮かべた遠い先祖を見て、コールは穏やかに微笑んだ。


    七宝明 Link Message Mute
    2022/07/03 20:30:05

    やわらかい風

    ハンゾウおじいちゃんがエミリーちゃんのお迎えに行く話。潮騒の少し後と氷刃よりもだいぶ前の話です。 #映画モータルコンバット

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