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    白の晶華 氷に閉ざされた土地、氷原地方。その果てにそびえるラジーア山地のふもと、氷楼神殿を中心に栄える氷の都と呼ばれる町があった。町の名は、セレウスという。

    「…吹雪になるな。」
    神殿前の広場に立つ少年が、空を見上げて呟いた。万年雪に覆われた町の上空には、分厚い雪雲が垂れ込めている。強い風が吹き、地面の雪が舞う。長い銀髪が風になびき、少年の小柄な体には少し大きい黒い外套の裾が翻った。幼さの残る繊細な容貌には不似合いな愛想のない表情と、鋭い紫の瞳。少年はほんの少し顔をしかめて外套の襟を立て、足早に歩き出した。
     にぎわう大通りを抜けて、町外れに通じる路地を進む。細い路地を五分ほど進んだ頃のことだった。
    「お、レイー、レイガー。」
    頭上から声がした。少年は足を止め、顔を上げる。こぢんまりとした建物の上の階から顔を出している青年が見えた。建物には『イズチ医院』と地味で控えめな看板が出ている。青年の黒い短髪は四方八方にはね上がり、平凡な顔立ちには愛想の良い笑顔を浮かべていた。
    「グリース。」
    青年を見上げ、少年が呟いた。青年―グリースが片手を上げ、大きな黒い目を細めて少年に笑いかける。
    「暇そうだな。」
    窓から顔を出すグリースに少年が不躾に言った。青年は苦笑を浮かべる。
    「暇そうって失礼だな。ふと窓の外を見たら、よく見知った奴がいたから声をかけただけさ。」
    「…声をかけるということは暇なのではないか。」
    「試験勉強で忙しいんだよ。今はちょっと休憩中。」
    グリースの言葉に少年は気のない様子で肩をすくめた。信じてないだろ、とグリースが窓枠に頬杖をつき、口を尖らせた。少年は肯き、青年はため息をついた。
    「ところで、レイガがこんな時間にここを通りかかるなんて珍しいな。」
    今の時刻は午後二時を少し過ぎた頃。少年がこのあたりを通りかかるのは、普段ならば四時か五時を過ぎた頃である。
    「三日ほど帰りそこねたから、今日は少し早めに仕事を切り上げてきた。」
    「子供の発言とは思えないなぁ。」
    グリースが呆れた声を漏らす。
    「仕方あるまい、祭りまであと少しだからな。」
    「あーなるほど、そんな時期か。ま、あんまり無理はするなよ。皆心配するからさ。」
    「ああ。明日は休暇にしたから、ゆっくり休むさ。」
    少年の返答に、グリースがそれは良いことだと肯く。
    「そうだ、明日休みって言うんなら、ちょっと上がって行けよ。今なら親父も暇そうだし。」
    窓枠から身を乗り出して少年に提案する。少年は空を見上げてほんの少し考え込む。先ほど見たときよりも雲が厚くなっている。今にも雪が降り出しそうな空模様だ。
    「今日はやめておく。雪が降り出すと厄介だ。」
    「そっか、残念だな。」
    グリースはさほど残念でもなさそうな調子で言い、町外れの方角にある大きな山を見た。少年の自宅はあの山のふもとにあるのだ。町ではまだ降り始めてはいないが、山の天気も同じとは限らない。
    「じゃあ、また今度な。気をつけて帰れよ。」
    少年が肯き、小さく手を上げた。グリースも手を上げかけて、何かを思い出したらしく、あ、と小さな声をもらす。
    「どうした?」
    少年が小さく首を傾げ問いかけた。
    「そういえば、さっき見慣れない女の子が山の方に歩いて行くのを見たんだ。大丈夫かな。」
    心配そうに町外れの方角を見るグリース。少年は眉をひそめて再度首を傾げる。
    「こんな天気の日にか?」
    「そうなんだ。俺の見間違いならいいんだけど…一応覚えておいてよ。」
    「わかった。心に留めておこう。では、またな。」
    少年は肯き、別れの言葉を告げた。
    「ああ、またな。」
    グリースも片手をあげて声をかけた。背を向けた少年が小さく手を上げて応じ、足早に歩き出す。グリースは窓から顔をだし、少年の背が見えなくなるまで見送っていた。
     町から少し離れた雪原に立つ一人の娘の姿があった。橙色の長い髪が冷たい風になびく。娘は大きな枯葉色の瞳を不機嫌そうに細め、雪の降り始めた空を見上げる。厚い雪雲が空一面を覆っていた。娘は自分が進むつもりの方角へ顔を向ける。視線の先には高くそびえる白い山があり、中腹よりも上は雲に隠れて見えなかった。
    「こんな様子じゃあ、今日登るのは無理ね。」
    娘が肩を落として深いため息をつく。風が強く吹き、雪も少しずつ強まってきた。どうも吹雪になりそうな様子である。雪原を見渡し、雪と風をしのげそうな所を探す。山と雪原を隔てる森の少し手前に建物が見えた。娘は建物を目指して慣れない足取りで雪原を進む。
     建物にたどり着き、質素な作りの扉を叩く。
    「すみませーん、雪で難儀しているので、少し休ませていただけませんかー?」
    中に声をかけるが、物音一つしない。再び扉を叩いて耳を澄ます。やはり建物は静まりかえったままだ。留守か空き家らしい。
    「開いてたらラッキーなんだけど…。」
    娘が扉の把手に手を伸ばす。その時だった。
    「そこで何をしている。」
    「うわっひゃあ!?」
    不意に後ろから低い声が聞こえた。娘は驚いて叫び声をあげ、慌てて後ろを振り返る。
    そこには銀の髪の小柄な少年が立っていた。幼さの残る整った顔には不似合いな鋭い紫の眼に不審の色を浮かべ、娘を見上げている。
    「…何語圏の者だ?」
    先ほどの奇声の事を言っているのだろう。娘は慌てて弁解する。
    「れっきとした世界共通語圏! い、いきなり声をかけられたからびっくりしただけよ!」
    「成程。…それで、何をしていた。」
    少年が同じ問いを繰り返す。
    「えーっと、歩いてたら急に雪に降られちゃって、少し雪をしのぎたいなーと思っていたらここにたどり着いたの。」
    「この雪だからな。」
    背後の雪原を見て少年が呟く。いつの間にか一メートル先も見えないほどのひどい吹雪になっていた。娘が呆然と雪原の様子を眺める。
    「す、凄い雪…。」
    「確かにこれでは難儀だろう。上がってくれ。」
    ポケットから鍵を出しながら娘に尋ねる。娘はこくりと肯いてから目を丸くして少年を見た。
    「もしかして、ここって君の家なの?」
    「たまにしか帰らないがな。」
    そう言って、少年は鍵穴に鍵を差し込み、扉を開けた。そして、扉を押さえて娘に先に入るよう促す。娘は素直に従い、お邪魔します、と言って中に入る。少年も続いて入り、扉を閉めた。
    「随分暗いね。」
    娘が玄関を見回して言う。少年は壁のスイッチに手を伸ばした。青白い光がともり、室内を照らす。靴を脱いで室内に上がり、少年は娘を居間に案内した。
    「適当にくつろいでくれ。」
    暖炉に火を入れながら少年が言った。娘は上着を脱いで抱え、近くの長椅子に腰を下ろす。
    「この家って君以外に誰かいないの?」
    部屋の中をぐるっと眺めて少年に尋ねる。
    「いない。一人暮らしだ。」
    少年が素気なく答え、火のついた暖炉に薪をいくつか入れる。火がしっかりとついたことを確認し、少年は暖炉から離れた。上着を脱いで近くの椅子の背に引っ掛け、その椅子に腰を下ろす。
    「入れてくれてありがとう。おかげで助かったわ。」
    娘は礼を言って少年に笑いかけた。
    「貴女の運が良かったのだろう。」
    肩をすくめて言う少年。運が良かったら吹雪になんかあわないよ、と娘が苦笑する。
    「遭難するよりは運が良い。」
    少年が言って椅子から立ち上がった。娘は少年を見上げて首を傾げる。
    「どうかした?」
    「気にするな。好きに過ごしていてくれ。」
    淡々とした口調で少年は告げ、上着を手に部屋から出て行った。一人残された娘は小さく息をつき、少年が去っていった方を見る。
    どうも彼を相手に気を張っていたらしい。会ったばかりの人と仲良くなるのは得意な方だが、あの少年相手にはなんとなく緊張してしまう。少年の幼い外見の割にはしっかりしている雰囲気や、無愛想な表情のせいかもしれない。
    「そういえば、まだ名前も言ってないし、聞いてないなぁ。」
    ぽつりと呟く。吹雪がおさまるまでは世話になるのだから、仲良くなっておいて悪いことはない。そう考え、深呼吸をして立ち上がった。そこへ、少年が服かけを手に現れた。娘は不思議そうに少年を見る。
    「上着、邪魔だろう?」
    少年が服かけを少し上げて言った。娘が一瞬きょとんとした顔をし、抱えていた上着に目を向ける。
    「あ、これのこと?」
    少年は肯いて服かけを差し出す。娘は礼を言って受け取り、早速上着をかけた。少年に好きなところにかけておいて良いと言われたので、壁のでっぱりに無造作に引っ掛ける。その間に少年が温かい茶を用意していた。
    「茶請けもなしで済まないな。」
    机に茶を置きながら少年が言う。娘はとんでもない、と首を横に振った。
    「急にお邪魔したのに色々してもらっちゃって、こちらこそ申し訳ないよ。」
    「そうか? 大した事をしているつもりは無いのだが。」
    椅子に座って少年が自分の分の茶をすする。娘もいただきます、と言って茶碗を手に取る。
    「客が来ることなど無いからな、どうも勝手がよく分からない。」
    少年の呟きに娘が微笑む。どうやら気を張っていたのは自分だけではなかったようだ。
    「君の好きにやれば良いんじゃないかな。あたしは満足だよ。ありがと。」
    「…そういうものか。」
    肩をすくめて少年が再び茶を口にした。娘も茶に口をつける。少し渋い。
    「ねえ、今更だとは思うんだけど、名前を教えてくれないかな。あ、あたしはヒヨ。ヒヨ・ヤマセって言うの。」
    自分の名前を名乗りつつ少年に尋ねる。
    「名乗っていなかったか。私はレイガ。レイガ・ミッターナクトだ。」
    「レイガ君ね。…なんか君の名前、どこかで聞いたような気がするなぁ。」
    少年の名を聞き、ヒヨは首を傾げた。名乗った当人は気のない様子で茶をすすっている。
    「もしかして君って有名人だったりする?」
    「…さあ。風評には疎くてな、よく分からん。」
    レイガはどうでもよさそうな調子で言い、茶碗を置いた。
    「貴女はこのあたりでは聞かぬ名字のようだが?」
    「あたしはこの間長期滞在ってことで、家族で来たの。しばらくしたらまたシンに帰るわ。」
    レイガの問いに答え、ヒヨは茶をすすった。シンというのは、氷原地方も属する広大なヒョウガ大陸の全土を統治する国家、エイス帝国の首都の名だ。帝都のあたりはあまり雪が積もらないと聞いたことがあった。
    「帝都の者か。通りで不安定な足取りのわけだ。」
    納得した様子でレイガが呟く。思わぬ発言で飲みかけの茶にヒヨがむせた。
    「み、見てたの!?」
    咳き込みながら少年を見る。レイガは肯いて頬杖をついた。
    「雪原は障害物が少なくて遠くまで良く見えるからな。前方の人影くらいすぐ気付く。」
    なんてことはないとばかりに言うレイガ。ヒヨはその言葉に顔を引きつらせ恐る恐る尋ねた。
    「じゃ、じゃあ、何回か雪にはまってたのも…?」
    「追いついたら助けようとは思っていたが、さすがに追いつかなかった。」
    そういえば、雪にはまる度にうひゃあとかわきゃあとか奇声を上げていたような覚えもある。いくらなんでも目立つだろう。ヒヨは頭を抱えてうめいた。
    「恥ずかしい…。」
    「慣れていないのなら仕方あるまい。」
    肩をすくめ、淡々とした調子でレイガが言った。一応は慰めてはくれているようだ。
    「―ところで、少々聞きたいことがある。」
    ヒヨが顔を上げ、小首をかしげる。
    「何?」
    「ただの散歩ならば雪がひどくなる前に戻れば良いはずだ。だが、貴女は引き返しもせずこんなところまでやって来た。」
    少年は鋭い視線を向けた。
    「何の目的だ?」
    低い声で問う。ヒヨの格好は少し散歩に行こうかという程度の軽装である。この家は町から散歩に来るのには適した場所ではなく、どこか別の町へ向かうために通るような場所でもない。家の先にあるものといえば、ラジーア山地の最高峰、アスト山への登山口くらいのものだ。
    「あたしはアスト山に用があるの。」
    「…あんな何もない山にか?」
    ヒヨの答えにレイガが拍子抜けした様子で首をかしげた。少年の反応にヒヨは目を丸くする。
    「何もない山なの?」
    「ああ。あるものといえば、雪と木と雪熊くらいのものだ。」
    レイガは立ち上がって小窓に向かい、カーテンを開いた。外は薄暗く、吹雪のせいでよく見えない。
    「雪が弱まれば見えると思うが、ただ大きいだけの白い山だ。」
    窓の横に立ったレイガが振り返って言った。ヒヨはカーテンの開かれた窓をじっと見つめている。カーテンはそのままで元の椅子に戻り、腰を下ろす。
    「……願いを叶える花のこと、知ってる?」
    唐突なヒヨの問いにレイガは眉をひそめた。
    「なんだ、それは?」
    「白の晶華、っていうらしいんだけど。」
    「願いを叶える花は知らんが、白の晶華ならば一応は知っている。」
    椅子の背もたれに寄りかかり、腕を組む。
    「〝白く高き山の頂、白く水晶の如き花の園あり。それは奇跡を招く花。〟…だったか。」
    呟くように言ってヒヨを見た。氷原地方に伝わる伝承の一部、奇跡を呼ぶ花のことを記した部分である。
    「その奇跡を招く伝説の花。あたしは、それが欲しいの。」
    真剣な眼差しを少年に向ける。
    「それが、アスト山にあるとでも?」
    静かな問いにヒヨは力強く肯く。
    「氷原地方で一番高い山はあの山でしょう。最も有力な候補になるわ。」
    「確かに、条件はあっているかもしれない。……だが、伝説が真実を語っているとは限らぬぞ?」
    「―そんなの…確かめればいいだけの話よ。」
    レイガの意見に強い口調で答える。レイガは小さく肩をすくめた。
    「それが、あの山へ行く目的か。」
    「そうよ。天辺までいって、花を見つけてくるの。」
    「この町は高い位置にあるから、頂上まで登る距離は少ないが、雪道に不慣れな者が一人で行くには危険だ。」
    もう少し準備を整えるべきだ、と少年が告げる。
    「そんなに悠長にやっている時間はないのよ。」
    ヒヨはゆっくりと頭を振った。怪訝な顔でヒヨを見る。
    「どういう意味だ?」
    「……弟が…病気なの。」
    レイガの問いに重々しく口を開く。
    「元々、この町には弟の療養のために来たの。だけど、治るかどうかは五分だってお医者様に言われて…。」
    ヒヨが言葉を詰まらせてうつむく。レイガは目を閉じて息をついた。
    「…それで、白の晶花を、というわけか。」
    「…ええ。大事な弟なの。」
    「ならば、尚更準備を入念に行うべきだ。」
    レイガはすっかり冷めた茶に手を伸ばす。ヒヨは顔を上げ、少年を見た。
    「貴女一人が今の状態で頂上まで行けるほど甘い山ではない。目的があるのなら、それを果たすための準備が必要だろう。」
    言い聞かせるように告げる。
    「雪が止んだら町まで送って行く。もう一度用意を整えてから挑戦すれば良い。」
    「折角ここまで来たのに…。」
    ヒヨが口を尖らせる。そして、少し考え込む。
    「レイガ君、あの山に詳しいみたいだけど、登ったことあるの?」
    「―何度か、な。」
    「じゃあさ、頂上まで案内してよ。」
    ヒヨの提案にレイガは眉をひそめ、黙り込んだ。
    「…駄目だ。」
    少しの間をおいて首を横に振る。
    「どうしてよ?」
    「自分はともかく、他人の命までは責任が持てん。」
    素っ気なく言って、空の茶碗を手に立ち上がる。
    「この話はこれで終わりだ。…茶のかわりはいるか?」
    残っていた茶をぐっと飲み干し、少年に茶碗を渡した。
    「…お願いするわ。」
    茶碗を受け取ったレイガは一瞬カーテンを開けた窓に目を向けた。
    「今日中には止みそうにないな。」
    吹雪の激しくなった外を見て呟き、居間から出て行った。
     残ったヒヨは窓の外をじっと見つめていた。


     夜、ヒヨはレイガの用意してくれた部屋の寝台に寝転んで天井を見上げていた。非常に物が少ない部屋だが、普段レイガが私室として使っているらしい。寝台の他にある物といえば、机や本棚、箪笥位のもので、どれも綺麗に整えられていた。
     他にもいくつか寝床のある部屋はあるそうだが、どれもホコリだらけで使える状態ではないとのことである。レイガはあっさりと自分の部屋をあけわたし、毛布だけ持って居間に行ってしまった。ヒヨは遠慮するつもりだったのだが、少年の素早い決定と行動で断る間もなく、成り行きでそのまま部屋を借りることになったのだった。
    「…はぁ。」
    深々とため息をつく。外からは風が強く吹く音が聞こえる。まだまだ吹雪は治まりそうにない。本来ならば、こんな所で足止めを食っているはずではなかった。
    「甘い山じゃない、か。」
    ぽつりと呟く。始めに断られた後も、何度か案内を頼んでみたのだが、レイガの答えは一貫していた。レイガの言う通り、準備に戻った方が良いことは承知している。それでも、戻るつもりはヒヨにはなかった。レイガは明日になったら送り届けると言っていた。
    あの少年を説得するのは、多分無理だ。となれば、とるべき方法は限られてくる。
    ヒヨは一つ決心をして目を閉じた。
    翌朝、外が大分明るくなった頃、レイガは目を覚ました。彼の寝起きはあまり良い方ではない。大きなあくびをして、ずり落ちていた毛布にくるまりなおす。ふと、いつもと違った様子を感じ、毛布に丸まったまま、眠たげな視線を周囲にめぐらせた。
    「…居間…。」
    自分のいる場所をようやく把握し、昨日のことを思い出す。レイガは億劫そうに起き上がり、大きく伸びをした。目をこすりながら窓辺に行き、カーテンを開く。昨日の吹雪が嘘のような穏やかな天気だ。氷原地方としては珍しく、分厚い雲の間から青空がほんの少しのぞいている。
    「晴れたか。」
    外を眺めて呟く。空のほとんどが雲に覆われ、太陽も照っていないが、氷原地方としては晴れの部類に入る天気だ。
    レイガはカーテンを開いたまま窓辺から離れ、洗面所に向かう。冷たい水で顔を洗い、やっとはっきり目が覚めてきたらしく、ぼんやりとしていた目に鋭さが宿る。居間に戻りかけて、着替えの用意を忘れていたことに気付き、自室へ向かった。
     閉じた扉の前に立ち、小さく扉を叩く。中から返事はない。今度は少し強く叩いた。やはり、中からは物音一つしない。首をかしげて把手に手を伸ばす。
    「失礼する。」
    一声かけて扉を開ける。部屋の中にヒヨの姿はない。眉をひそめて中に入ると、机の上に小さな紙片が置かれていた。手にとって鋭い目つきで紙片を見つめる。
    「…まったく。」
    紙片を机の上に置き、ため息をつく。室内をざっと見回し、時計に目を向ける。
    「まだ、追いつくな。」
    険しい表情で呟き、レイガは動き出した。


     昨日降った雪のせいか、雪山は予想以上の歩き難さだった。何度も雪に足をとられて転び、少しも進んだ気がしない。ヒヨがレイガの家を出発したのが夜明け頃。少年が起きる前に黙って抜け出してきたのだ。
    彼が身を案じてくれているのはわかっていた。それでもヒヨは一刻も早く白の晶華を見つけたかった。昨晩のうちに書いた手紙を残してきたが、彼はどう思っているだろう。
    「やっぱり、怒ってるかな。」
    立ち止まり、周囲を見回す。頂上を目指す山はまだまだ大きくそびえていた。長く息を吐く。
    「よし、まだまだっ!」
    気合を入れて再び歩き出す。不意に、一面の銀世界に、遠くの方で動くものが見えた。少し不審に思うが、気にせずに前に進む。
     少し進むとまた動くものが見えた。
    「なんだろう、また動いた…。」
    気味の悪さを感じて立ち止まる。
    「こんな所に生き物でもいるのかな。」
    小さく首をかしげる。ふと、昨日少年が言っていたことを思い出した。
    「そういえば、雪熊がいるって…。」
    何かが動いていたあたりに目を凝らす。大きな雪の固まりのようなものが少しずつ近寄ってきているように見えた。
    「あの白いの…きっとそうだ。雪熊だ…。」
    雪熊は氷原地方に広く生息する白い熊で、雑食である。基本的には木の実や木の皮を食べているが、食物が少ない地域では生き物を襲って食べることもあるという。
    「…どうみても、食べ物が豊富には見えないわ…。」
    周りにあるのはほとんど雪か氷。たまに背の低い針葉樹が生えている程度だ。これでは身を隠す場所もない。ヒヨは雪熊を刺激しないように雪熊から離れようとする。雪熊はヒヨに気付いているのか、少しずつ近付いていた。
    「きゃっ!?」
    雪に足をとられ、転倒。すっかりはまってしまったらしく、なかなか抜け出せない。その間にも雪熊はどんどん近付いてくる。なんとか雪から脱出すると、雪熊はもう随分とそばまで来ていた。雪熊の荒々しい息遣いが聞こえてくる。
    「だから危険だと言ったろう。」
    背後から呆れたような低い声がした。振り向いた先には、憮然とした顔の少年が袋を手に立っていた。
    「レ、レイガ君!?」
    レイガは小さく肩をすくめ、袋を雪熊の方へ投げ、素早くヒヨの手をつかむ。
    「ちょ、な、何で君がここに?」
    「話は後だ。今のうちに離れるぞ。」
    言うが早いか、ヒヨの手を引いて少年は走り出した。


    「…上手く…撒けた…か?」
    レイガがしゃがみこんで息も絶え絶えに尋ねる。ヒヨは周囲を注意深く見回し、肯いた。雪熊と遭遇した場所から大分登った山の中腹の岩場である。
    「だ、大丈夫?」
    疲れきった様子のレイガを見て心配そうに尋ねる。少年は膝を抱えて肩で息をしている。しばらくして、深く息をつき、顔を上げた。息が整ったようだ。
    「一応な。」
    そう言って、ゆっくり立ち上がる。雪熊から逃げる時、レイガはヒヨを抱えてきたのだ。はじめは手を引いていたが、ヒヨの足取りが危なっかしかったため、自分が抱えた方が早いと判断したのだった。
    「助けてくれてありがとう。」
    ヒヨが頭を下げて礼を言う。少年は小さく肩をすくめ、肩から提げた小さな鞄を開いた。中から白い包みを二つ取り出し、一つをヒヨに渡す。
    「何これ?」
    ヒヨは渡された包みとレイガの顔を交互に見て首をかしげた。
    「食料。ろくに食べずに来たろう。」
    素気なく答え、レイガは近くの岩場に腰を下ろし、自分の包みを開く。ヒヨもレイガのそばに腰を下ろし、包みを開いた。中身はハムと野菜をはさんだパン。起きてから飴しか入れていないヒヨの腹が盛大に鳴る。
    「もらっていいの?」
    のどを鳴らして横のレイガに尋ねる。少年は自分の分を頬張って言った。
    「いらないなら返してもらうが?」
    「う…。」
    黙って出てきた手前、貰うのは申し訳ない気もするが、腹の虫は盛大に騒ぎまくっている。パンを手にヒヨが固まる。
    「冗談だ。そんなに盛大に腹を鳴らしている者から取り上げるわけないだろう。」
    固まるヒヨを見てレイガはほんの少し表情を和らげた。
    「からかわれた…。」
    ヒヨが情けない表情をしながらも、空腹を堪えきれず、いただきますと言って食べ始めた。
    「冷たい! でも美味しい~。」
    そんなことを言いつつ、ヒヨはあっと言う間にパンを平らげた。満足げに手を合わせ、頭を下げる。
    「ご馳走様でしたっ!」
    レイガの分はまだ四分の一ほど残っていた。
    「…早いな。」
    呆れた顔で呟き、パンをちぎって口に入れる。ヒヨが照れくさそうに笑った。
    「だって…お腹空いてたし、美味しかったし、大満足だよ。」
    「それは良かった。」
    レイガは小さく肩をすくめ、最後の一かけらを口に放り込んだ。
    「ところで、どうして君がここにいるのよ?」
    今更だなとは思いつつも先ほどの問いをもう一度少年に投げかけた。まさかご飯を届けにきたわけではあるまい。レイガはポケットから小さな紙片を取り出す。
    「今朝、部屋へ行ったら客人が紙片に化けていたものでな。」
    「あ、それ、あたしが置いてった…。」
    「まさか勝手に出て行くとは思わなかった。」
    深々とため息をつき、レイガは鋭く目を細めた。
    「助けた人間が野垂れ死にでもしていたら寝覚めが悪いだろうが。」
    ひどく不機嫌な調子で言い、鋭い視線をヒヨに向けた。ヒヨは申し訳なさそうに身を縮める。
    「…悪かったとは思っているわ。でも、やっぱりあたしは、白の晶華を早く見つけたいの。」
    「弟のためか?」
    「ええ。手遅れになる前に。」
    ヒヨは力強く肯き、少年を見た。少年は再びため息をつき、頭を振った。
    「今戻れと言っても聞きそうにないな。」
    「そうね、残念ながら。」
    「頑固者め。」
    呆れたようにレイガが呟き、ヒヨは苦笑を浮かべる。
    「よく言われるわ。」
    「まったく…。仕方ない、私も山頂まで同行しよう。」
    「本当?」
    目を丸くしてレイガを見る。レイガは眉間にしわを寄せていた。物凄く不機嫌そうだ。
    「ああ。貴女一人だと危なっかしくてしょうがないからな。どうせまた雪にはまったりするんだろう。」
    「君の言葉ってたまにトゲがあるのよねぇ…。」
    半眼で呟くヒヨにレイガは肩を少しすくめて見せた。
    「よく言われる。」
    「やっぱりね。…まあ、とにかく、同行よろしくお願いします。」
    ヒヨは丁寧に頭を下げる。レイガは肯いて立ち上がり、鞄を肩にかけなおした。そして、山の高い方を見据える。
    「ここからまだ大分登る。覚悟はいいな?」
    「そんなの、家を出てくるときに済ませているわ。」
    ヒヨが不敵に笑った。レイガは少し口元を緩めた。
    「では、行くか。」
    少年が静かに歩き出す。ヒヨもその後に続いて歩き出した。
    「そろそろ昼時か。」
    空を見上げたレイガが呟く。雲の切れ間からわずかにのぞく青空から判断したらしい。レイガは小さく息をつき、今まで登ってきた道を振り返る。数メートル後ろを、雪まみれのヒヨが頼りない足取りで続いていた。
    「大丈夫か?」
    「今は、まだ、平気。」
    切れ切れにヒヨが答えた。肩を上下させ、あまり平気そうには見えなかった。雪歩きには幾分か慣れてきたようだが、疲れのせいか足元がふらついている。
    「あと少しで頂上だ。そこに着いたら休憩にしよう。」
    「うぉっしゃーっ!! まだまだぁ!」
    レイガの言葉に、ヒヨは拳を振り上げてやけくそ気味に応じた。ヒヨの勢いに驚きながら、ヒヨの速度にあわせてゆっくり足を運ぶ。二人が少しずつ山頂に近付く。
     少し前を歩いていたレイガが不意に立ち止まり、ヒヨに振り返った。
    「着いた。山頂だ。」
    その言葉に、ヒヨは顔を上げ、必死にレイガに走り寄る。あと一歩のところで雪に足をとられた。少年の手に支えられて、転倒を免れ、ヒヨは山頂に立った。
     山頂には狭い窪地が広がっていた。
    「……綺麗…。」
    窪地を見下ろし、ヒヨが息を呑む。そこには、一面に氷のような青白い輝きを帯びた花が咲き乱れていた。
    「あれが、白の晶華と呼ばれる花だ。」
    横に立つレイガが少しだけ目を細め、呟く。ヒヨは目を見開き、青白い花畑を見つめていた。
    「本当に、あったんだ…。」
    「あると信じていたからここに来たのではないか?」
    「それは、そうだけど…本当の本当に、本物の白の晶華? あれが願いを叶える花なの?」
    念を押すように隣の少年に尋ねる。レイガは小さく肩をすくめて見せただけで、さっさと花畑へと降りていってしまった。ヒヨも後を追う。
    「この花は、正真正銘ここにしか咲かないと言われる花、白の晶華だ。…だが…」
    足元の花に目を落とし、言葉を止めた。
    「…だが、何?」
    ヒヨが先を促すが、レイガは無言でしゃがみこんだ。そして、硬質な花弁を持つ花を手折る。
    「…この花には、願いを叶える力など、無い。」
    少年が、小さな声で、言った。やけにはっきりと耳に届いた。背を向けた少年を見つめ、拳をきつく握る。
    「……そんなの…」
     そんなことは、心のどこかでわかっていた。それでも、神秘の花にすがりたかったのだ。他にかけられるものなど無かったのだから。
    「…わかってたわ…。」
    消え入るような声で呟く。唇を噛み締め、顔を伏せた。レイガが振り返り、ヒヨを見上げた。
    「話は最後まで聞け。」
    「…何よ?」
    少年に顔を向け、弱弱しく問う。レイガはため息を一つついた。
    「先に言った通り、この花には願いを叶える力は無い。」
    「何度も言われなくたって、もう、わかったわよ。」
    「だから、聞けと言っているだろうが。この華は、ある病の特効薬になる。」
    「とっこうやく?」
    「ああ。確か…」
    レイガが病の名を告げた。ヒヨが目を見開く。
    「それって…!」
    それは、弟の病の名だった。
    少年が立ち上がり、花を差し出す。
    「賭けて、正解だったな。」
    相変わらずの仏頂面だったが、口調は優しかった。
    「よく頑張った。」
    ほんの少しだけ柔らかな表情を浮かべた気がした。
     青白い花を受け取り、胸に抱く。
    「―うん。」
    顔をくしゃくしゃにして、小さく肯く。冬の香りに似た、澄んだ香りがした。
    「レイガ君。」
    「何だ?」
    「ありがとう。」
    ヒヨがくしゃくしゃの笑顔のまま、言った。少年は一瞬固まり、ぷいと背を向けて歩き出す。
    「…さ、帰るぞ。」
    「あ、何よ、折角人がお礼言ってるのにっ!」
    慌てて追いかける。横に並ぶと、頬が赤く染まっているのが見えた。
    「あははっ照れてる~。レイガ君可愛い。」
    「う、うるさい。」
    憮然とした表情で歩調を速める。ヒヨはしっかりと花を抱え、少年の背を追った。
     白の晶華を持ち帰ってから一週間が経った。イズチ医院という看板がある建物の前にヒヨの姿があった。
    「こんにちはー!」
    扉の前で元気な声をあげる。しばらくすると、中から黒い短髪が元気良く跳ね上がった青年が顔を出した。
    「よ、ヒヨ。元気そうだな。」
    青年は片手をあげて笑った。
    「グリースさんもね。」
    ヒヨが笑い返して言う。グリースはまあな、と肩をすくめた。
    「今日はどうしたんだ、親父に用?」
    「通り道だったから、寄っただけ。トゥーラスさん達のおかげで弟も随分良くなったわ。」
    「そいつは良かった。…通り道ってことは、レイガのとこか?」
    「うん、この間のお礼に行こうと思って。」
    グリースの問いに肯き、小さな包みを掲げて見せる。
    「ああ、山登りの件か。」
    「良いお医者さんを紹介してもらったお礼も兼ねてるわ。」
    「そいつは照れるね。」
    グリースが笑って頬をかいた。
     一週間前、白の晶華を手に入れて下山したヒヨを、家まで送り届けたレイガが、白の晶華を薬にできる唯一の医師として、グリースの父、トゥーラスをヒヨの家族に紹介したのだった。半信半疑だった両親を説得し、ヤマセ一家はイズチ医院を訪ねた。はじめは小さな町医者にしか見えず、ヒヨも不安だったが、イズチ一家の暖かな人柄とトゥーラスの確かな腕のおかげで、弟の病も快方へ向かっていた。
    「あ、そうだ。」
    ヒヨが何かを思いついたのか、手を打ち合わせた。
    「イズチさん所にもちゃんとお礼しなきゃ。」
    「あー、いいよいいよ。うちの連中はそういうの気にしないから。」
    グリースが苦笑してひらひらと手を振る。
    「でも、すごく良くしてもらったし…。」
    「患者さんが元気になってくれれば、うちにとっての十分な礼になるからいいんだよ。それより、用事あるんだろ?」
    「そうだった! じゃあ、グリースさん、またね!」
    グリースに促されて身を翻し、ヒヨは町の外れに足を向ける。足早に去っていくヒヨを見送り、グリースは扉を閉めた。


    一週間前も通った道をヒヨは歩いていた。あの頃よりは幾分かしっかりした足取りで、穏やかな雪原を進む。
    訪ねて行ったら何て言われるだろう。仏頂面で何の用だって言われるかな。それとも、呆れた顔で、また来たのかって言われるかな。
    「どっちもありそう。」
    自分の想像に苦笑して呟く。森の前にぽつんと建つ一軒家が見えた。
     あのひねくれ者が、素直によく来たなんて言うわけないか。
     会ったら何を話そう。弟が元気になったこと。あの時のお礼。イズチ先生を紹介してもらったお礼。いっぱいありがとうを言いたかった。きっと、彼は大したことはしてないなんてぶっきらぼうに言うだろうけど、たくさんお礼を言ってやろう。また照れてそっぽを向くかもしれない。だけど、ちゃんと感謝の気持ちを伝えるんだ。
     小さな白い包みを胸に抱いて歩く。
     一週間前と同じように扉の前に立った。すう、と深呼吸をひとつ。小さく拳を握り、扉をたたく。
    「こんにちはーっ! レイガ君、いるー?」
    中によく聞こえるよう、大きな声を上げた。そして、じっと待つ。家の中はしんと静まり返っている。先ほどよりは強めに、再度扉をたたく。
    「レーイーガーくーんっ!!」
    …無音。前のことを思い出し、後ろを見てみるが、誰もいない。
    「まさか…留守?」
    そういえば、一人暮らしでたまにしか帰らないと言っていた気もする。
     …想定外だ。
    「参ったなぁ、来れば会えるつもりだったんだけど…。」
     どうしようか、待っていても帰ってくるとは限らない。手紙や、置いていくという手もあるが、やはりちゃんと会いたかった。
    扉の前でじっと考え込む。しかし、良案は思い浮かばなかった。
    「うーん、ひとまず出直すしかないかな。」
    小さくため息をつき、扉に背を向けた。


    「あははっ。駄目だよ、ちゃんと確かめて行かなきゃ~。」
    目の前でグリースが笑って言った。ヒヨは少し口を尖らせて、出された茶をすする。
    「だって、先週は似たような時間にいたんだから、今日だってって思うじゃない。」
    レイガ宅からとぼとぼ戻ってきたヒヨは、グリースに発見され、誘われるままにイズチ医院で熱い茶を御馳走になっていた。
    「彼の連絡先なんてあそこ以外知らないから確認の取りようだってないじゃない。」
    むくれて言うヒヨに、グリースが苦笑を浮かべる。
    「まあ、確かにアイツが確実にいるって所は俺も知らないな。」
    「だったらそんなに笑われる筋合いないじゃない!」
    「あー悪かった悪かった。」
    更にむくれるヒヨをなだめ、熱い茶をすする。
    「しかしなぁ、あいつを捕まえるのは相当難しいぞ。色んな所をうろうろしてるからさ。」
    「放浪癖でもあるの?」
    ヒヨが真顔で尋ねた。グリースは笑って手を振る。
    「いやいや。仕事だったり、教練(この世界の学校のこと)だったり色々さ。この間なんて、三日間帰りそこねたってぼやいてたよ。」
    「…彼、何才だったっけ?」
    呆れた顔で問うと、九才だったはず、とグリースが苦笑して答えた。ヒヨがさらに唖然とした表情を浮かべる。
    「とても九才の子の生活とは思えないんだけど。」
    「俺もこの間同じようなことを言った。」
    グリースがため息をついて同意する。
    「まあ、そういうわけだから、アイツに確実に会える場所はちょっとわからんということさ。」
    「そっかぁ…。」
    残念そうに呟き、机の上に置いていた小さな包みを手に取る。
    「ちゃんと会って渡したいんだけどな…。」
    やはり、面と向かって彼に伝えたかった。
    「うーん、そうだなぁ…アイツに直接会えそうな場所ねぇ…。」
    グリースが腕を組んで考え込む。不意に、視線を壁に向けた。ヒヨもつられて見る。暦が掛けられていた。
    「あ、わかった。」
    急にグリースが声を上げた。ヒヨは首を傾げる。
    「ヒヨ、二十一日って空いてる?」
    「明々後日? 大丈夫だと思うけど…。」
    急な問いかけを不思議に思いながら答える。
    「じゃあ、九時頃にヒヨの家に迎えに行くよ。」
    「いいけど、何かあるの?」
    困惑しつつ尋ねると、グリースが自信たっぷりの微笑を見せた。
    「その日なら、レイに会えるよ。」
     五月二十一日、午前九時半。ヒヨは町の大通りをグリースと並んで歩いていた。グリースは約束通り九時にヤマセ家へ現れたのだった。
    「ねえ、グリースさん、こんな早くにどこへ行こうっていうのよ?」
    あくびをこらえつつ隣を歩くグリースに尋ねる。大通りの店はまだどこも開いていない。セレウスの店は早くても十時半に開くのだ。
    「ヒヨ、今日は何の日だか知ってる?」
    問いには答えず、質問を返すグリース。ヒヨは眉をひそめて首を傾げる。
    「…知らないけど?」
    今日が何の日かとこれから行く場所は関係があるのだろうか。
    「疑問が顔に書いてあるね。行く先に関係あるから安心してよ。」
    グリースは肩をすくめ、怪訝な表情を浮かべるヒヨに笑いかけた。
    「今日はセレウスの中心、氷楼神殿のお祭りなんだ。」
    「お祭り?」
    「うん、一年間何事もなかったことを神様に感謝して、来年もお願いしますって頼むお祭りだね。この町の人達にとっては一大イベントだ。他の地域からもたくさん観光客が来るんだよ。」
    「へえ~。知らなかった。」
    ヒヨが感心した声をもらす。
    「で、大方の人はお祭りに参加するために神殿に行くってわけ。」
    「じゃあ、今向かってるのは神殿?」
    「その通り。」
    グリースが笑って肯く。この日なら彼に会える、というのは彼が祭りに現れるかもしれないということだろうか。
    「彼、催し物に参加したがるタイプじゃない気がするんだけどなぁ~。」
    首をひねって呟く。世間のことに興味があるようには見えなかった。
    「んー、確かに、アイツは人混み嫌いだしなぁ…。でも、今日は絶対いるから大丈夫さ。」
    ヒヨの言葉に苦笑を浮かべて同意しつつも、自信に満ちた口調で断言する。
    「ほんとに?」
    疑いの眼差しを向ける。グリースはにっこりと笑って肯いた。
    「おう。間違いなくいるから安心しろって。さ、あんまり遅くなると混むから少し急ごう。」
    「う、うん。」
    少し歩調を速めたグリースに続いた。
     普段は静かな神殿前広場も、祭りの日ばかりは大勢の町人でにぎわっていた。いたるところに出店が並び、人々が行き交っている。
    「うわぁ…大きなお祭りなんだね。」
    ヒヨが驚いた様子できょろきょろと周囲を見回す。
    「町を挙げての祭りだからな。」
    グリースが少し笑って肩をすくめる。
    「こんな中からレイガ君を見つけられるかなぁ…。」
    不安げな声音で呟く。彼は目立つ容姿ではあるが、この人混みの中から見つけ出すのは骨が折れそうだ。
    「大丈夫だよ、どこにいるかの目星はついてるからね。」
    力づけるように言い、ヒヨの手を取った。ヒヨは戸惑った顔で自分の手とグリースの顔を交互に見ている。
    「これから人混み突っ切るから、はぐれないようにさ。突然悪いね。」
    「そういうことなら了解よ。ここではぐれても困るし。ただ、ちょっと驚いたわ。」
    「わかってもらえて良かったよ。じゃ、行こうか。」
    ヒヨの手を引いて、するすると人の間をぬって進む。神殿の前に設えられた氷の舞台の横をすり抜け、二人は神殿の入口に足を踏み入れた。
    「グリースさん、入っちゃっていいの?」
    「普段は出入り自由だよ。今日も正午の式典が始まる前なら大丈夫。」
    グリースは笑って答え、ヒヨの手をそっと離した。そして、無造作な足取りで神殿の奥へ進む。ヒヨもおっかなびっくり後に続いた。
    「…あ、ミスミさん!」
    急にグリースが立ち止まり手を上げた。肩越しに黒い髪を肩のあたりで切りそろえた青年の姿が見えた。青年はグリースに気付き、軽やかな足取りでやってきた。
    「イズチさんとこの長男坊じゃないか。」
    「レイガを探しに来たんだ。」
    「今日はまだ見てないね。…アイツ、また何かやらかしたのか?」
    青年が呆れた様子で尋ねる。グリースは違う違う、と笑って手を振り、ヒヨに顔を向けた。
    「この娘がアイツに礼をしたいんだってさ。俺はただの案内役。」
    急に話を振られ、ヒヨは畏まって背筋を伸ばし、頭を下げる。
    「こんにちは! ヒヨ・ヤマセと申します。」
    「可愛らしいお嬢さんだ。僕はミスミ・ライナス。ここで司祭の世話役のような事をやっているんだ。よろしくね。」
    ミスミもぺこりと頭を下げた。
    「ミスミさんはここのことなら司祭の次くらいに詳しいからね、聞きたいことがあったら聞くと良いよ。」
    グリースが横から口を出す。
    「何でも良いよ~。スリーサイズ以外なら。」
    「野郎のスリーサイズなんか聞きたくないって。」
    おどけた調子のミスミに、グリースが小さく突っ込む。ヒヨが苦笑を浮かべた。
    「なんか軽い感じが二人とも似てますね。」
    「俺、こんなセクハラにーさんじゃないよ!!」
    「僕、こんなヘリウム級の軽さじゃないよ!!」
    二人が口々に否定する。否定の言葉までよく似てるな、と思ったが口には出さないでおく。
    「そ、そうですか。ところで、レイガ君って、ここによく来るんですか?」
    ヒヨがミスミに尋ねる。ミスミはグリースと一瞬顔を見合わせ、ヒヨを見た。
    「もしかして、知らないの?」
    「何をです?」
    きょとんとした表情でヒヨが首を傾げる。
    「あーいや、何でもないや。レイガのことね。アイツはまあ、よく来るね。教練がない日は大体いるよ。」
    「…意外と信心深いんですね。」
    笑顔で言うヒヨに、ミスミは曖昧な笑みを返す。
    「意外、かな?」
    「ええ。だって、伝説が真実を語っているとは限らないって言ってたんですよ、彼。信仰だなんて…。」
    と、ヒヨは肩をすくめて首を振ってみせた。グリースとミスミが顔を見合せて苦笑を浮かべる。
    「アイツはそういうこと言うなぁ。そんなのが神殿に来るってのは、確かに意外かも。」
    「そう言われれば意外だね。」
    「―何が意外だ?」
    不意に背後から低い声が聞こえた。三人が驚いて振り返る。そこには、黒い外套を着込んだ小柄な銀髪の少年が、紫の目を鋭く細めて立っていた。
    「「レイガ!」」
    グリースとミスミは声をそろえ、少年の名を呼んだ。ヒヨの訪ね人は、グリースの予想通り姿を現したのだった。
    「ミスミはともかく、グリースや貴女がいるとは思わなかったな。」
    レイガがヒヨとグリースに目を向け呟く。少年の言葉にグリースが心外だと口を尖らせる。
    「俺だって祭りくらい来るさ!」
    「先日試験が近いと言っていたはずだが。遊んでいる暇はあるのか?」
    「う……。」
    反論をばっさり切り捨てられ、グリースが沈黙する。
    「レイガはグリースに手厳しいな。」
    「そうか? 挨拶代わりのようなものだと思うぞ。」
    呆れたように苦笑するミスミに、レイガが肩をすくめる。そんな挨拶は嫌だな…とヒヨが思っていると、少年が顔を向けてきた。
    「久方振りだが、元気そうだな。」
    「ええ、おかげ様で。弟も随分良くなったわ。」
    「それは何より。」
    ヒヨが笑いかけると、少年もほんの少し表情を和らげて肯いた。横にいたグリースとミスミがお互いに目配せをしあう。
    「ミスミさん、厠ってどこだっけ?」
    「案内するよ。こっちこっち。」
    わざとらしい会話をして、二人が離れていく。去り際に何かを企んでいるような笑みを浮かべているのが見えた。多分、気をつかってくれたのだろう。
    「それにしてもわざとらしいなぁ…。」
    呆れた様子でヒヨが呟く。レイガは変な奴らだ、と首をかしげていた。
    「ところで、私に何か用でもあったのか?」
    不意にレイガが顔を上げ、尋ねる。ヒヨはそういえば、と肯いた。
    「うん、まあそうなんだけど、何でわかったの?」
    「私が不在の時、家に来ただろう。」
    「ど、どうして知ってるの?」
    ヒヨは目を丸くする。手紙も何も残していないのに気付いていたとは驚きだ。レイガは言葉を選ぶように少し考え込んで口を開く。
    「昨日帰った時に足跡を見つけた。大きさと形から貴女だろうと思ってな。」
    「すごーい! よく見てるねぇ。」
    感心して拍手を送る。
    「…それで、何の用だ?」
    少年は小さく肩をすくめ、素気なく言った。ヒヨは小さく笑った。この間の想像の通りだ。
    「…えっと、用件はね、これを渡そうと思って。」
    鞄から取り出した小さな包みを差し出す。レイガはじっと包みを見つめる。
    「―何かは知らんが、もらういわれはないぞ。」
    「あるわよ。」
    間髪入れずにヒヨが言う。レイガは眉をひそめてヒヨを見上げた。ヒヨはまっすぐに少年を見返す。
    「この間のお礼。ドタバタしちゃって、ちゃんとできなかったから。」
    「―礼ならこの間聞いた。それで十分だ。」
    レイガはふい、と視線をそらす。ヒヨは小さくため息をつく。
    「あたしは十分返せたとは思っていないんだけど?」
    「大したことはしていない。」
    少年は受け取らない姿勢を崩そうとしない。ヒヨが再びため息をつく。
    「じゃあ、この間のお礼が道案内ありがとうの分ね。これは、吹雪の時に泊めてくれてありがとうの分と、雪熊から助けてくれてありがとうの分と、ご飯ありがとうの分。…まだまだあるよ?」
    ヒヨがいたずらっぽく微笑む。少年は居心地が悪そうに仏頂面でポケットに手を突っ込んだ。
    「人からの感謝は素直に受け取るものよ?」
    包みをずいっと差し出す。レイガは横眼で包みを見る。
    「…感謝の押し売りもどうかと思うが…。」
    「素直にどうもって受け取ってくれればあたしだって押し売りしないで済むのよ?」
    観念したようにため息をつき、レイガは包みを受け取った。
    「――どうも。」
    「へへ、ありがとね。」
    ヒヨが嬉しそうに笑い、レイガは仏頂面で肩をすくめる。
    「せっかくだから開けてみてよ。」
    「良いのか?」
    「もちろん。」
    ヒヨに促され、丁寧に包みの紙を開く。中には鮮やかな赤の組紐が入っていた。
    「お世話になった人に、感謝の気持ちを込めて自分で編んだ紐飾りを送るの。帝都のあたりの風習なのよ。」
    「へえ、綺麗なものだな。」
    ヒヨの説明にレイガが感心した様子で返す。
    「髪の毛結うのにでも使ってよ。」
    「そういえば、結構伸びていたか。」
    思い出したようにレイガは自分の髪に触れる。
    「邪魔そうにしてたから。ぴったりかなって思って。」
    「こういうのは自分であまり気づかないからな。ありがとう。助かる。」
    少し表情を和らげてヒヨを見上げた。
    「そうやって素直にしてれば君も可愛いのに。」
    「…は?」
    「あんまり仏頂面ばかりじゃ駄目よ。お姉さんからの忠告。」
    「それほど不機嫌な顔をしているつもりはないが?」
    「あら、自覚なしか。困ったものね。」
    ヒヨの言葉にレイガが困ったように頬をかく。
    「貴女に困られても。」
    「そうねぇ、まあ、さっきのありがとうって言ってくれたくらいの顔が可愛くって良いと思うよ。」
    ヒヨが笑って言うと、レイガはぷいっとそっぽを向いた。そこへ、グリースとミスミが戻ってきた。
    「随分長い厠だったな。」
    「混んでたんだよ。…ん、レイガ、なんか顔赤くない?」
    「…うるさい。」
    からかうグリースを蹴りつけ、ミスミに視線を向ける。
    「そろそろ時間か?」
    「え、あー、そうだね。用意しないと。」
    懐から時計を取り出し、ミスミが肯く。横でヒヨが首をかしげた。
    「時間?」
    「仕事がある。」
    「―そっか。頑張ってね。」
    「ああ。」
    レイガは肯き、神殿の奥へ向かって歩き出す。ミスミもそれに続く。
    「ねえ! また会いに来ても良い?」
    遠ざかる少年の背に問いかけた。少年が足を止め、振り返る。
    「好きにしろ。」
    素気なく一言だけ返し、神殿の奥へ姿を消した。
    「用は済んだ?」
    残ったグリースが尋ねる。
    「一応、お礼は言えたわ。…もう少し話したかったけど、また今度にする。」
    「そっか。良かったのかな?」
    「まあね。ありがと、グリースさん。」
    グリースを見上げて微笑む。グリースも笑って肩をすくめた。
    「どういたしまして。」
    「誰かさんもこのくらい素直にお礼を受け取ってくれれば良いのにねぇ。」
    ヒヨの呟きにグリースが苦笑を浮かべた。
    「困った誰かさんだからな。」
    「ほんとよ。」
    ヒヨは先ほどのやり取りを思い出し、ため息をついた。
    「さて、これからどうしようか? もう少し祭り見ていくかい?」
    グリースの提案にヒヨが肯く。
    「そうね、せっかくだからもっと見たいわ。」
    「おし、じゃあ次は祭りを堪能することにしますか。」
    そして二人は神殿の出口へと歩き出した。


    神殿の奥の一室に、レイガとミスミの姿があった。部屋の壁には飾りのついた錫杖や衣装が掛けられている。
    「さっきの子が例の山登りのお嬢さん?」
    黒い衣装を手に取りながらミスミが尋ねた。レイガは上着を脱ぐ手を一瞬止め、ミスミに目を向ける。
    「…グリースに聞いたか。」
    「まあね。君が積極的に他人に関わるのは珍しいって話してたんだ。」
    「吹雪で困っているから助けてくれと家の前で言われたら、普通助けるだろうが。」
    「珍しいって言ってるのはその後だよ。山登りまで付き合うとはねぇ…。」
    「助けた相手に野垂れ死にでもされたら寝覚めが悪いから様子見に行っただけだ。」
    「へぇ~。」
    にやにやと笑うミスミから視線を外し、脱いだ上着を近くにあった椅子の上にほうった。
    「そういえばさ、彼女から何もらったの?」
    「答える義理がない。」
    「人に言えないようなもんなのかと、おにーさん、邪推しちゃうよ?」
    にやついたままミスミが言う。レイガは苦々しい表情を浮かべ、小さく舌打ちする。
    「詮索好きめ。」
    「そんなことないよ? 青少年の純粋で健全なお付き合いを応援してあげようという気配りだよ?」
    「まずは貴様が健全になるべきだろうが。」
    レイガがうんざりと呟く。
    「やだなぁ、こんなに健全な好青年なかなかいないよ?」
    ミスミがさわやかな笑顔を見せて言った。
    「好青年は人の事情に深入りしないと思う。」
    「いやいや時と場合によるんだよ。で、何もらったの?」
    ミスミの再度の問いにレイガが小さく舌打ちする。話をそらして忘れさせるつもりだったのだ。
    「グリースだったらうまくいくんだが…。」
    「おにーさんをなめちゃいかんよ。さあ吐け。」
    笑顔で言うミスミ。レイガは仕方ないとばかりにため息をついた。
    「…赤い組紐。帝都のあたりの風習だと。」
    「随分渋いねぇ…彼女。」
    「髪紐にでも使えと。」
    素気なく言い、脱いだ上着のポケットから組紐を取り出して見せた。
    「へえ、綺麗じゃん。せっかくだから早速使ったら? 例年みたいに黒い布きれで結ぶよりは良いと思うよ。」
    「…考えておく。」
    小さく肩をすくめて組紐をしまう。ミスミはいくつか選んだ衣装を机の上に並べる作業をしていた。
    「さて、衣装はこんなんで十分だね。錫杖はあそこに置いてあるから。」
    「わかった。」
    「じゃ、僕は他の作業に行くよ。足りないものがあったらまた呼んで。」
    「ああ、ありがとう。」
    「ん、またあとで。」
    ミスミはレイガに笑いかけ、部屋を出て行った。
    「…まったく、余計な話が多い奴だ。」
    レイガがため息をついて呟く。そして、机の上に並べられた衣装に目をやる。
    「…仕方ない、着替えるか。」
    少年は再び深々と溜息をついた。
     神殿を出たヒヨとグリースは、広場周辺の出店をひやかして歩いていた。しばらく見て回っていると、人々が神殿の方へ歩いて行くのに気が付いた。
    「ねえグリースさん、これから神殿で何かあるの?」
    横で買ったばかりの熱い茶をすするグリースに尋ねる。グリースは広場の大時計に目をやった。時計の針は十一時半をさしている。
    「あー、正午から神殿で式典があるんだよ。それの場所取りじゃないかな。」
    「式典?」
    「そ。一年間の色々な事を報告したり、神様に色々お供えしたりすんの。」
    「ふうん。」
    ヒヨが首をかしげる。場所取りをしてまで見るほど魅力が報告やお供えなのだろうか。
    「そうそう、司祭による舞の奉納なんかもあるよ。」
    「舞の奉納? 珍しいわね。」
    「そういや、帝都の方じゃあんまり聞かないな。ここの神様は舞踊が好きだって言われててね、良い舞を見せると良い一年にしてくれるって言われてるんだよ。」
    「へぇ~。それはちょっと面白そうね。」
    口ではちょっとと言いながら、興味津々な様子でヒヨが目を輝かせる。
    「見てみたい?」
    グリースが茶をすすって尋ねた。ヒヨは勢いよく首を縦に振る。
    「じゃあ、せっかくだし、行こうか。」
    「行く!」
    グリースの提案に、大喜びでヒヨが同意した。
    「早めに行かないと良い所なくなっちゃうな。」
    「それなら早速行きましょ!」
    「そうだね、さっさと行こうか。」
    空になった茶の器を回収箱に入れ、二人は式典の会場に向かった。
     二人がたどり着いたころ、式典会場である神殿前の氷舞台周辺はかなり混みあっていた。
    「ちょっと出遅れたかなー。」
    グリースが苦笑して呟いた。舞台周りは人でいっぱいになっていて、とても近寄れそうにない。
    「ここじゃよく見えないわ。」
    「んー、だよなぁ…。」
    そこそこに上背のあるグリースはともかく、年相応の女の子らしい背丈しかないヒヨは背伸びしても舞台を垣間見ることはできなかった。グリースはぐるりと周囲を眺める。神殿の入口付近の階段が空いているのを発見した。
    「ヒヨ、あそこからだと少し高めで見えそうじゃないか?」
    「あ、ほんとだ。あそこが良さそうね。」
    ヒヨはすぐに同意を示した。二人は人混みの間をするすると進み、無事階段に陣取った。周りにも同じことを考えたらしい人々が何人かいた。
    「お、思ったより見やすいな。」
    「ええ、ラッキーだったね。」
    見下ろした舞台の上では折りたたみの椅子や拡声器の用意が慌ただしく行われている。
    「式典はどんな感じで進むの?」
    「えーっと、最初に副首長が始まりのあいさつをして、来賓や首長が一年の報告。報告が終わったら副司祭の仕切りでお供えの儀をやって、最後に司祭の舞だったかな。」
    「なんだ、最後なの。」
    ヒヨが残念そうに言う。グリースが苦笑した。
    「そりゃ、お楽しみはとっとかないと。」
    「そうだけど。」
    時間つぶしにしばらく話していると、正午を告げる鐘が響いた。神殿の中から人がぞろぞろと現れる。その中には、ミスミの姿もあった。ヒヨは驚いて目を丸くする。
    「ミスミさんは神殿の副司祭なんだよ。」
    横からグリースが耳打ちした。そういえば、司祭の世話係のようなものだと言っていた気もする。もしやと思い、舞台上の椅子に座った人々を見回すが、銀髪の少年の姿はなかった。
    「只今より、氷楼祭式典を開始いたします。」
    拡声器をもった壮年の男性が、式典の始まりを告げた。


     式典は粛々と進んだ。首長の講話が終わり、副司祭ミスミが壇上に上がり、首長とともに祭壇へ供物を捧げる。残るは司祭の舞のみとなった。会場の空気が張りつめ、緊張感が高まる。人々の舞への期待がうかがえた。
    ―しゃん。
    不意に澄んだ音が響いた。音の源へ人々の視線が注がれる。神殿の入口。そこには、黒い衣装をまとった銀の髪の少年が、身の丈ほどもある錫杖を手に立っていた。錫杖には月を模した飾りが施され、青い布と黄色い布、雫型の金属飾りが上部で揺れていた。少年が歩き出す。金属飾りが揺れ、涼やかな音が連なる。祭壇の傍、少年が止まり、会場をぐるりと見渡した。銀の髪をまとめる赤い紐が揺れる。
     ヒヨは食い入るように舞台を見つめていた。一瞬、舞台上の少年と目が合った。紫の目だった。
    ―レイガ君?
    ヒヨは隣のグリースの服を引っ張る。グリースはほんの少し笑って唇に指を一本当てた。静かに、ということらしい。
    ―あとで聞けばいっか。
    小さく肩をすくめ、再び舞台に顔を向ける。少年が片膝をついて深く頭を下げているのが見えた。
    会場がしんと静まり返る。少年は頭を下げたまま微動だにしない。まるで時が止まったようだった。
     しゃん―
     静寂の中、金属音が響く。勢いよく振り下ろされた錫杖が済んだ音を立てる。少年が錫杖を振るい、布が翻る。舞台の時が急速に動き始めていた。錫杖が旋律を奏で、軽やかに足を運ぶ。細かい技法など何もなかった。ただ、思うままに錫杖を振るい、体を使う。野生の獣のような、しなやかで力強い舞だった。
     会場の誰もが少年を見つめ、その舞に見とれていた。
     旋律がゆるまり、少年が衣裳の広い袖を翻して祭壇の前に躍り出る。一瞬、空を仰ぎ、錫杖を振り上げた。そして―
     しゃんっ……
    勢いよく大地に突き立てられた錫杖がひときわ大きな残響を奏で、舞台上の全ては動きを止めた。数秒の静寂の後、会場は大きな拍手に包まれた。少年はゆっくりと立ち上がり、ぐるりと会場を見回し、深々と頭を下げた。
    「―これにて、式典を終了いたします。」
    鳴りやまぬ喝采の中、ミスミが式の終りを告げる。徐々に拍手の音が小さくなり、席を立つ人が増え始めた。
     ヒヨとグリースは人がまばらになった会場で、ぼんやりと舞台を眺めていた。舞台上はいつの間にか無人になっており、供物がのせられた祭壇だけが残っていた。
    「終わっちまったな。」
    グリースが立ち上がり、大きく伸びをする。
    「これ見ると今年も頑張るかって気分になるんだよなー。」
    「こっちの新年のお祭りみたいなものなのね」
    ヒヨが笑って立ち上がる。
    「そうだ、グリースさん、聞きたいことがあるんだけど。」
    歩き出していたグリースの背に声をかけた。グリースが足を止め、振り返る。
    「ああ、司祭のこと?」
    「そう。あれって…レイガ君?」
    銀髪で紫の眼の少年なんて目立つ容姿の人間がそうそういるとは思えなかった。それに、何より、先ほど渡したばかりの紐飾りを身に着けていた。
    「そうだよ。」
    グリースがあっさりと肯いた。
    「あいつのことだから、何も言わなかったんだろ?」
    「初めて会った時に、どこかで見たことあるような気がしたから、有名人かって聞いたんだけど、知らんって言われたわよ。」
    ヒヨは肩をすくめてため息をつく。グリースは苦笑を浮かべる。
    「…あいつらしいなー。多分、司祭かって聞けば素直に答えたんだろうよ。」
    「そうかも。」
    ヒヨも苦笑を浮かべて同意する。
    「それにしても、彼って意外性の子ね。」
    「んー、そうか?」
    グリースが首をかしげた。ヒヨはそうよ、と肯く。
    「催し物に興味なさそうなのに祭りの中心っぽいところにいたり、伝承とか信じないくせに司祭なんてやってたり、意外と舞もサマになってたり。意外だらけよ。」
    レイガの意外性を列挙するヒヨに、グリースが苦笑をして肩をすくめて見せた。
    「付き合い浅いと意外に感じるのかもなぁ…。」
    「そうなの?」
    「ああ。あいつはあいつでちゃんとスジを通してるんだよ。ちょっと見てるだけじゃ気付かないけどね。」
    「そういうものかしら?」
    グリースの言葉に首をかしげる。言われてみれば、数日つきあっただけで理解できるような、一筋縄でいく相手ではない気もする。
    「そういえば、何で彼は白の晶華の本当を知っていたのかなぁ…?」
    不意に思いついた疑問が口をついて出る。伝説を疑う者が、どうして伝説の華があることを知っていて、更に真実まで知っていたのだろか。
    「グリースさんはそのことについて何か知ってる?」
    「それは…。」
    ヒヨの問いにグリースが困った様子で口ごもる。
    「アイツ本人に聞いた方が良い。多分、俺が勝手な憶測で言っちゃいけないと思う。」
    「…わかった。いつか聞いてみる。」
    ヒヨは肯き、大きく伸びをした。
    「まあ、これであの子の仕事場もわかって会いに行きやすくなったし。」
    「そうだな。祭りが終われば多少は暇もできるだろうし、構いに行ってやると良いよ。」
    「うん、そうする。」
    グリースの提案に笑って肯いて見せた。ヒヨは歩き出し、グリースの横に並ぶ。
    「さて、もう少しお祭りを楽しんで行こうかな。」
    「お、いいね。屋台回ろうぜ。」
    そして、二人は歩き出し、式典会場を後にした。
    祭りから三週間が経った。
    早朝、神殿の祭事場に立つレイガの姿があった。手には長箒が握られている。
    「レーイーっ!」
    不意な呼びかけに、声の源へ顔を向ける。そこには、早朝だというのに年甲斐もなく元気に手を振る青年が立っていた。
    「グリース。」
    少年は掃除の手を休め、ほんの少し眉を上げる。
    「早朝から珍しい。」
    「いや、そんなに驚くことないだろ?」
    駆け寄ってきたグリースがレイガの顔を見て苦笑を浮かべた。
    「だって、グリースだぞ? それも早朝。今日は晴れるかもしれないな。」
    「そういうお前だって朝弱いだろうが!」
    「私は寝起きが悪いだけだ。早起きは苦ではない。」
    「俺だって早起きくらい…。」
    「トゥーラスさんがうちのバカ息子は週に七日寝坊すると嘆いていたぞ?」
    「あんのクソ親父ろくなこと言わないな…。」
    グリースがこめかみを押さえてため息をつく。
    「それと、訂正するぞ、俺が寝坊するのは週六日だ!」
    こめかみを押さえていた指をレイガに向ける。冷やかな視線が返ってきた。
    「―大して変わらんだろう。」
    「…うう。」
    レイガの冷静な指摘にグリースがうめき声をあげた。
    「さて、朝の挨拶はこのくらいにしておくか。」
    「…これって、挨拶なのか? こんな挨拶、俺ヤダよ?」
    「私とてやりたくてやっているわけではないのだが。」
    肩をすくめてため息をつくレイガに唇を尖らせて見せる。
    「ならやめてくれよ。」
    「やらないとどうも調子が出なくて。」
    「…オマエという奴は…。」
    グリースの恨みがましい視線を気にする様子もなく、レイガは掃除を再開する。
    「…って、聞けよ!」
    「無意味な小言を聞いているほど暇ではない。用件があるなら手短にな。」
    床の埃をまとめながら淡々と言う。軽くあしらわれたグリースはしばらくの間むくれていたが、小さくため息をつき、祭事場に備え付けられた長椅子に腰を下ろした。
    「なあレイガ、最近ヒヨに会ったか?」
    「仕事中に何度か見かけたが、きちんと会ったのは祭りの前が最後だな。」
    「…そうか。」
    そう呟いたきり、グリースは押し黙る。レイガはわずかに眉をひそめてグリースを見る。
    「彼女が何か?」
    「何だよーヒヨのことなら聞くのかよー?」
    グリースがいじけた口調で言う。レイガは深々とため息をつき、目を鋭く細めて箒を振り上げる。
    「手短に言え、と言ったはずだが?」
    「わーっ!? 箒の使い方間違ってるだろ!?」
    「まさか。騒音の源を片付けるために使うところだ。」
    「どっこも正しくないだろっ!!」
    「片付けのために使うのなら間違ってはいないだろう。」
    箒を大きく振りかぶって淡々と言う。グリースがあわてて手を大きく左右に振る
    「悪かったって、ちゃんと本題に入るからっ!!」
    「わかれば良い。」
    レイガが静かに箒を下ろす。グリースはほっと息をついた。
    「昨日、ヒヨがうちに来たんだ。」
    「―それで?」
    「帝都に帰るんだって。」
    「いつ?」
    「今日の朝の列車に乗るって言ってたよ。」
    そうか、と口の中で呟き、懐中時計を取り出す。針は七時半を指していた。
    「朝の列車というのは、何時発だ?」
    「帝都直通の長距離列車だったら八時ちょうどだね。そのあとは午後までないよ。」
    神殿から長距離列車の発車駅まで歩いて三十分はかかる。間に合うかはきわどいところだった。それでも、レイガに迷いは一瞬たりともなかった。箒をグリースに押し付ける。
    「これから行くのか?」
    反射的に箒を受け取ったグリースが驚いた表情で少年を見る。
    「走れば間に合う。掃除は任せた。」
    「おい、レイっ!」
    言うが早いか少年は身を翻し、雪の舞う街へと駈け出した。残されたグリースは、微笑を浮かべため息をついた。
    「仕事をほっぽりだして行くとはね…。」
    長いこと少年と付き合っているが、彼が知る限りでは初めてのことだった。
    「良い変化、なのかな?」
    一人呟き、少年に託された箒を見る。
    「とりあえず、任されたからにはちゃんとやるか。」
    そして、グリースは誰もいない祭事場の掃除に取りかかった。
     発車待ちの列車の中、ヒヨは窓辺に頬杖をつき、外を眺めていた。静かに舞う雪が除雪したばかりのホームにうっすら積もっている。帝都へ帰ることが決まったのは四日前のことだった。弟は順調に回復し、イズチ医院でなくとも処置できるレベルになった。そこで、両親の仕事の都合や、ヒヨ達の教練(エイス帝国における教育施設)の問題があったため、急遽帝都へ帰還することになったのだ。イズチ家には帝都へ帰る旨を伝えることができたが、レイガを捕まえることはできず、伝えられなかった。
     発車まで、あと十分。雪舞うホームには人っ子一人見当たらない。
    「やっぱり、もう会えないかなぁ…。」
    ヒヨが小さくため息をつく。隣に座る弟のカルが不思議そうに姉を見上げる。
    「姉さん、誰か待ってるの?」
    「んー、まあね。でも、今日帰るって言えなかったから、多分来ないわ。」
    外を眺めたまま答える。カルは小さく首をかしげる。
    「誰? グリースさん?」
    「違うわよ。」
    笑って肩をすくめる。その時だった、窓の外から声が聞こえた。外を見ると、銀髪の少年の姿があった。ヒヨは慌てて立ち上がる。
    「カル、ちょっとゴメン!」
    弟に一声かけ、乗車口へ駆ける。デッキに飛び出し、扉を開けて身を乗り出す。
    「レイガ君っ!!」
    少年が振り返り、ヒヨの元へ駆け寄ってきた。
    「来てくれたの?」
    ヒヨが驚いた顔で言う。まさか会えるとは思っていなかったのだ。
    「ああ。お節介な友人のおかげで間に合った。」
    レイガは小さく肩をすくめ、肯く。
    「グリースさんね。戻ったらお礼の手紙でも書いておくわ。」
    「アイツの勝手なお節介だから、さほど気にすることもないと思うが。」
    「またそんなこと言って。」
    レイガのぞんざいな物言いにヒヨが笑みをもらす。
    「グリースの話をしている場合ではないな。」
    レイガが小さく呟き、外套のポケットに手をつっこむ。
    「どうしたの?」
    少年の行動を不思議そうに眺め、首をかしげる。レイガはポケットから手を出し、ヒヨにつきつける。
    「な、何?」
    驚いて少年の顔を見る。少年はそっぽを向き、ぶっきらぼうに「手。」とだけ言った。反射的に手を出すと、少年の冷たい手が一瞬だけ重ねられ、すぐに離れた。手の中にわずかな重み。親指ほどの大きさの薄い木札が手のひらに収まっていた。四角形と五画形を組み合わせた紋様が刻み込まれていた。裏返すと、花の模様が刻み込まれていた。上部中央の小さな穴には緑の紐が通されている。
    「わあ、綺麗! どうしたの、コレ?」
    「氷楼神殿の守り札。餞別だ。」
    歓声を上げるヒヨに、そっぽを向いたまま早口で言う。ヒヨは嬉しそうに笑う。
    「ありがと。…あれ、でも、前に神殿に行った時、こんな意匠のお守り見なかったよ?」
    ヒヨの疑問に少年が固まる。
    「それは、その…。」
    口ごもるレイガの顔を覗き込む。少年はきまり悪そうに目をそらした。
    「言えない理由でもあるの?」
    ヒヨが意地の悪い笑みを浮かべて尋ねる。
    「…貴女のその笑顔はタチが悪い。」
    少年が観念したようにため息をついた。ヒヨはほんの少し唇を尖らせる。
    「あら、人の笑顔をタチが悪いなんて失礼ね。」
    「…前もそれで折れたんだ。」
    レイガはわずかに顔をしかめた。そして、深呼吸をして、普段の無愛想な顔に戻る。
    「守り札だが、その意匠はそれが最初で最後だ。」
    「へ?」
    ヒヨが目を丸くして守り札を見る。
    「それって、すっごい大事なものだったりするんじゃないの? あたしがもらって良いの?」
    「良いんだ。貴女のために作ったものだから。」
    少年がさらりと言った言葉が耳に留まる。ヒヨは瞬きをしてレイガを見る。
    「―え? どうして?」
    レイガは肩をすくめる。
    「貴女は危なっかしいからな。安全の祈りを込めておいた。」
    「あたしの、ため?」
    ヒヨの問いに、レイガはばつが悪そうな顔をして肯いた。
    「嬉しい。」
    ヒヨが顔をほころばせる。少年は驚いたように眉を上げ、柔らかな表情を見せた。
    「それは、良かった。」
    「うん、大事にするね。」
    守り札をそっと両手で包みこむ。ホームのベルが鳴り響いた。発車まで、あと五分。
    「色々話したいことや聞きたいことがあったんだけど、もうあんまり時間がないね。」
    ホームの時計を見やり、ヒヨが言う。レイガも時計を仰ぎ見て肯く。
    「―そうだ、一つだけどうしても聞きたいことがあるんだけど、良いかな?」
    レイガがヒヨに視線を戻し、わずかに眉を上げる。
    「何だ?」
    「…どうして、白の晶華の真実を知っていたの?」
    ヒヨの問いに息を呑む。視線をわずかに下に向けた。
    「何故、そんな事を訊く?」
    「伝承が真実を語るわけじゃないって言う割には、白の晶華のことを詳しく知ってて不思議だな、と思ったのよ。」
    「―そうか。」
    「あと、グリースさんの言う、君のスジって奴を知りたいと思っただけ。」
    レイガは小さくため息をつく。
    「そんな、理由か。」
    「うん。ダメかな?」
    ヒヨが小さく首をかしげる。少年は再度ため息をつき、首を横に振る。
    「別に、大した話ではないが?」
    「聞かせてくれれば、嬉しいな。」
    ヒヨがやわらかく微笑む。少年は渋々と口を開く。
    「…私にも、叶えたい願いがあり、奇跡を招く花を探したことがあった。」
    レイガはアスト山を見やり、続ける。
    「花は見つけた。だが、願いは叶わなかった。」
    少年の鋭い目に寂しげな色がよぎる。
    「しかし、奇跡を招くと謳われる花だ。もしかしたら何かの役に立つかもと思い、片っ端から伝承を調べ、イズチ医院に薬効成分の分析をしてもらった。その結果が白の晶華の真実だったというわけだ。」
    レイガはヒヨを見上げる。
    「私は、自分にできることはやるし、自分で見たものは信じることにしている。それだけだ。」
    彼にとっては、司祭の仕事も、祭りの舞も自分にできることなのだ。そして、白の晶華については自分で見た結果なのだ。グリースの言う、レイガのスジがほんの少しだが、わかった気がした。
    「それ以上言いようはないのだが、納得してもらえるか?」
    「うん。聞かせてくれてありがと。」
    ヒヨは肯き、笑いかける。
    「―別に、意外でも何でもなかったんだ。」
    「何がだ?」
    レイガがわずかに首をかしげる。ヒヨは、何でもないよ、と笑った。
     列車の汽笛が鳴った。発車まで、あと少し。
    「そろそろ発車か。」
    少年がぽつりと呟く。時計を見上げた少年の横顔がひどく寂しそうに見えた。
    「ねえ、一つ、約束をしようか?」
    ヒヨが目を細め、微笑んだ。レイガが振り向き、不思議そうに瞬きをする。
    「―約束?」
    「そう。君との再会を。いつか、どこかで必ず会うって約束。」
    「それは、良い約束だな。」
    少年が柔らかな口調で呟いた。
    「でしょ? でも、君はあたしの事を憶えていてくれる? たった数日の付き合いでしかないあたしを。」
    からかうような調子のヒヨをまっすぐに見つめ、レイガは力強く肯く。
    「大丈夫。私は忘れない。だが、貴女は憶えていてくれるか?」
    「もちろん。あたしだって、そう簡単には忘れないわよ。」
    ヒヨが笑って肯く。そして、不意に、あ、と声を上げた。少年が首をかしげる。
    「どうした?」
    「前々から言いたかったんだけど、貴女って言うのやめて。他人行儀っぽくて嫌なのよ。」
    「それなら、ヤマセさんが良いか?」
    「それも嫌。ヒヨで良いわよ。」
    少年が考え込む様に右手を顎にあて、肯いた。
    「わかった。では私からも一つだけ。」
    「なあに?」
    「敬称をつけて呼ぶのはやめてくれないか。どうにもこそばゆい。」
    「じゃあなんて?」
    「レイガでも、レイでも、好きにしてくれ。」
    「わかったわ。」
    ヒヨは肯き、少しして小さく笑った。レイガが不思議そうにヒヨを見る。
    「なんか、お互い似たようなこと思ってたのね。」
    ヒヨが笑いながら言う。レイガも表情を和らげて肯く。
    「じゃあ、次会う時には、お互い直そうね。」
    「そうだな。」
    「あと、いっぱい話そうね。」
    「まあ、程々にな。」
    肯くレイガに、ヒヨが苦笑を浮かべ、手を差し出す。不思議そうにヒヨを見上げた。
    「約束の握手よ。ほら、手を出して。」
    少年は肯き、自らの手を少女の手に重ねた。
    ホームに再びベルの音が響く。列車が汽笛を鳴らし、発車時刻を知らせる。
    二人の手がそっと離れた。ヒヨは汽笛の音にかき消されないよう、大きな声で少年の名を呼び、叫んだ。
    「約束、忘れないから! またね!」
     列車のドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。少年はホームに立ち尽くし、列車を見送っていた。
    黒く長い車体が白銀の氷原に消えるまで、ずっと。


    「会えた?」
    戻ってきた少年に尋ねる。少年は肯き箒を受け取る。
    「何か言ってたか?」
    「約束をしてきた。」
    「約束?」
    不思議そうに繰り返す青年に柔らかな表情を見せる。青年はそれ以上尋ねることはせず、微笑みを浮かべた。
    「そりゃ良かったな。」
    「まあな。」
    少年は肯き、ところで、と青年を見上げた。
    「隅の方に埃がたまっているが?」
    「お前、人に頼んでおきながらそう言うこと言うか!?」
    青年が呆れたように言う。少年はわずかに首をかしげる。
    「頼まれた仕事だろうと徹底的にやるべきだと思うが?」
    「徹底的にったって、あんなとこ誰も見ないだろ?」
    埃のたまっているという隅に顎を向ける。少年も顔を向ける。
    「私は見るが?」
    「うー…。」
    「何か反論は?」
    「ねえよっ!!」
    やけくそ気味に言う。
    「では、隅の方もよろしくな。」
    少年が再度箒を渡す。思わず受け取り、肯きかける。そして、首を横に振る。その隙に少年は神殿の奥へと足を向けていた。慌てて呼び止める。
    「あ、オイっ。」
    「私は別の仕事がある。頼んだぞ?」
    振り向いた少年の顔を見て、青年はおや、とわずかに眉を上げ、微笑を浮かべた。
    「しょうがねえな。」
    少年の口元には、ほんのわずかではあったが、誰かによく似た、いたずらっぽい微笑が浮かんでいた。

    (了)
    七宝明 Link Message Mute
    2022/06/30 20:22:53

    白の晶華

    氷に閉ざされた地に咲く、奇跡を招く華をめぐる少年と少女の物語。20年くらい前に書いたオリジナル作品
    #オリジナル

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