恋は執着、愛は受容 おや、これは物語の中らしい。ドラルクははたと気がついた。それが食事の最中のことだったので、父ドラウスは「どうかしたかいドラルク、美味しくなかったかい? ……今日の調理担当は誰だ、いつもの者か? 責任者を呼びなさい」と過保護っぷりを発揮しようとした。
「いえいえお父様、いつも通り美味しいですよ」
慌てて発した自分の声が思ったよりも高く、ドラルクは内心、はて自分はこんな声だったかしらん、と訝しむが、悲しそうな顔をする父親を前に表情を取り繕った。
「……やはり週末のパーティーは欠席しようか? 王族からの招きとはいえ、公爵家代表として私が赴けば十分だろう」
「もう、お父様こそ何度言わせるんですか? ドレスも作らせたし、お母様だって今回は一緒に行けるんだから、私ぜひパーティーに参加したいって。婚約者探しも兼ねてるんでしょう?」
「そんなこと言ってもぉ……パパ、やっぱりドラルクに婚約者なんか早いと思う……こんなかわいい娘、参加した男全員が夢中になっちゃう……うぅ……やはり決闘を」
「お父様に勝ち抜いた者を婚約者として認めるとか絶対やめてくださいね」
「エーン娘が厳しい!」
壁際に控えていた使用人たちも、思わずといったように苦笑する。ドラウスが過剰にドラルクを可愛がるのは今に始まったことではないが、相変わらずその溺愛ぶりは常軌を逸している。
ドラルクももう十六歳になる。高位貴族の娘として、婚約者を探すには十分な年齢であった。周りが急かすのも、嫌々ながら父が重い腰を上げるのも理解できる。なるほど自分は家督につり合った婚約者を探している最中の貴族の少女であると、ドラルクは頭のどこかで他人事のように現状を認識していた。
食事を再開しようと持ち上げたドレスの袖にはたっぷりのフリル。肌が弱いため室内でもレースの手袋は外せない。真っ白のレース生地の隙間から覗く手指は、病的なまでに青白く細い。
レースは嫌いではない。城で暮らしていた以前にもせっせと編み上げたものだ。パチパチと小気味良い音を立てて薪が爆ぜる暖炉の前で、ふかふかのクッションを敷き詰めたロッキングチェアに腰かけ、ドイリーのような小物からテーブルクロスになるような大作まで、この手で魔法のごとく繊細なレース細工を生み出してみせた。膝にかけたブランケットの上で丸まっている愛しい使い魔を時折撫で、窓の外に浮かぶ満月を見上げれば──
「どうかしたのかい、ドラルク」
「……いえ、何も」
果たして自分は何かを忘れていやしまいか。そもそもこれが物語の中だというのなら、物語の外、現実の自分とは一体何なのだろう。私は登場人物なのだろうか、それとも物語の外で紡がれている世界の住人か? 自分はドラウスの娘だが、そういえば息子だった気もする。性の自認に違和感はないけれども、これで正解、当然という感覚もなく、いや生まれてこの方完璧なかわいさを誇る私に、不正解も何もあったものではないが。
やはり疲れているのだろうか。軽く頭を振ったドラルクに、ドラウスは今度こそ悲鳴を上げてワイングラスを放り出した。パリンと砕け散ったグラスが蝋燭の灯りを反射して輝くのを目の端に捉え、キラキラしていて綺麗だと思った。そういえば、自分はもっと美しいものを知っていたはずだが、何だったか。もっと力強く煌いて、温かくて、暗闇でもぴかぴかと眩しいあれは、どこへいったのだろう。正気を失いかけている父親の小脇に抱えられながらドラルクは思案していたが、ベッドに押し込まれる頃には、思い出そうとしていたことすらすっかり忘れてしまった。
ヨコハマ王国は国境の一部が海に、残りは山々に囲まれた盆地に領土を広げている王国である。建国から二〇〇年を迎えようとするこの国は、分裂と合併を繰り返し次々と国名が変わってきた周辺諸国と比べ歴史がやや長いのが特徴の、特産物もなければ目立った外交政策もない、小さな国であった。数十年に一度は隣国のカナガワ王国や強大な力を持つトーキョー帝国がヨコハマ王国への侵攻を計画するも、その度に歴史の影で眠りについたはずの「D」の存在を持ち出され、結局は侵略を諦めざるを得ない。
「D」については様々な叙事詩、歴史書、絵画に表されるも、その存在が立証された試しはなかった。半神半人の怪物として伝えられていたり、二メートルを超える大男として描かれていたり、立派な牙と二本の角を持つ異形のものとして登場したりするが、どれも最後にはヨコハマ建国の王、アルミニウス・ヴァン・ヘルシングに国を成すほどの加護を与えて姿を消したとされている。
ヨコハマ王国内では建国の王の友人として受け入れられている「D」の存在も、一歩王国の外へ出ればその見方は大きく異なっていた。カナガワ王国やトーキョー帝国では「生ける嵐」「不死の災い」としてその名を知られており、幼い子どもを「Dが来るぞ」と脅かせば、両親が血相を変えて飛んでくる。存在自体が半信半疑でありながらも、人々が「D」を強く意識してしまうのは、実際「D」の血を引く一族が今なおヨコハマ王国にいるということだった。
人より尖った犬歯や二本の角のような髪型、および血の色をした虹彩は、一族の遺伝的特徴である。髪色にせよ瞳の色にせよ、ある血族が顔貌以外の身体的特徴を引き継いでいるというのは、一種の神秘であった。国によれば、王座を巡る継承争いで、先王との髪色の一致が条件となるような場合もある。
実際「D」に連なる一族はヨコハマ王国に何人もいた。その皆が特徴的な一族の外見の一部、あるいは全てを継承していたが、ヨコハマ王国ではそれらも珍しいものではない。王国の歴史を紐解けば、過去には市井で見初めた魔女と番った貴族や、下半身に蛸の脚を持つ海の人外と番った王子もいる。異種族間の婚姻は若い貴族子女の駆け落ち騒動と同じくありきたりなことであり、生まれてくる子どもたちもまた人ならざる姿をしていることが多かった。
ヨコハマ王国は概ね平和な国であったが、数年前には国中が大きな悲しみに包まれた。不意の事故による国王夫妻の逝去であった。事故を装った暗殺ではないのか、暗躍している勢力はなかったか、国外の刺客の線は完全に潰れたのか。宰相はじめ多くの臣下が狼狽え、その動揺は民草にまで広がり、不安に駆られた人々は連日あちらこちらで暴動を起こした。周辺の国の動きも不穏なものとなり、今なら「D」の存在も恐るるに足らず、と今にも侵略戦争が起ころうとしていた。そのような折、傾きそうだった国を支え、国民に再び安寧をもたらしたのは、前年に立太子の儀を終えたばかりの第一王子だった。
当時の王太子、現国王であるヒヨシは、実の父母の死に傷付く暇もなく日夜奔走し、どうにか国としての体面を守ってみせた。国民を飢えさせるわけにはいかない、この事態に正しく対処すべきなのは自分しかいないという王太子としての責任が、彼の背中を絶えず押し続けた。何より、悲しみに暮れ続ける弟妹のためであった。
この凶事に傷ついた幼い王弟妹は、兄王だけを頼りにした。親しかった乳母や教育係も父母の事故に巻き込まれて命を落としていたため、他に信じられる大人がいなかったせいでもある。兄王もまた、二人の存在を心の拠り所とした。幸いにも奸臣が跋扈するような事態は起こらず、国は数年で立て直すことができた。しかし弟妹の心の傷は深く、事故から数年が経った今も公の場に姿を現すことは稀である。
そんな王弟妹が、来たる建国記念パーティーでついに姿を見せるという話は、瞬く間に貴族間に広まった。この機会にぜひ王族との繋がりを持っておきたい。そのために我が息子を、娘をパーティーにと息巻く貴族らからの注文で、仕立屋は今までに経験したこともないほどの繁忙期を迎えた。
迎えた建国記念パーティー当日のことは、後に煌びやかなシャンデラの下には天使が舞い降りたと噂されるようになる。会場に姿を現したのは、国王ヒヨシと、その王弟ロナルドだった。兄王と同じ銀色の髪に澄んだ青い瞳は、王族である証でもある。体躯はまだ線が細く頼りないが、澄んだ肌の色といいくっきりとした目鼻立ちといい、その美貌は歴代の王族と比べても遜色ないほど完成されていた。
パーティーが始まれば、ヒヨシとロナルドの元へは多くの貴族が挨拶に来た。皆もちろん国王ヒヨシだけではなくロナルドへの面通しを願った。元よりヒヨシにはこのパーティーで弟を公の場へデビューさせる目論みがあったので、断る道理もない。
ところが、ここにヒヨシの誤算があった。すっかり人見知りを拗らせた弟は、初めて足を踏み入れたパーティー会場の広さにひるみ、知らない人間に囲まれて、表情をガチガチに固めてしまっていた。いくら機嫌を取ってもにこりともしない。
「ロナルド様、ご機嫌麗しゅう。こちらは娘です、貴方とお会いできるのを心待ちにしておりました」
「はい」
「ロナルド様、うちの倅もロナルド様とお年が近いんですのよ。よろしければ今度……」
「そうですか」
「……」
「……」
懸命に取り入ろうとしていた貴族たちも、すぐにロナルドの欠点に気が付いて作り笑顔を貼り付けたまま二人の前から退去していく。ヒヨシはやっちまったと内心頭を抱えていた。最近は城に引きこもりがちの弟に友達の一人でも作らせて、また以前のように元気になってほしかっただけなのに。
ロナルドをパーティーに参加させるというのは、ヒヨシが側近にも相談して、ヨコハマ王国一の切れ者と名高い宰相を「ご公務ならまだしも子育てについて相談されましても」と困惑させながら、どうにか捻り出した案だった。公務が忙しくて構ってやれない日が続き、日増しに無口になっていく弟は、元より口数の少なかった妹と一緒に過ごさせていると一言も発さないまま一日を終えることもあった。
兄弟だけで過ごしているときは、「兄ちゃん見て、セミのモノマネ!!」「ちんちん!!」「兄ちゃーん遊セロヴァッフェルボァ!!」などと黙っていてほしくても賑やかだのに、どうしてこうも極端なのか。挨拶に来た美しい貴婦人を前に、ヒヨシの気持ちはあらぬ方向へと向かっていく。
不意にロナルドが周りに見えない角度でヒヨシの袖を引いた。顔をそちらに向けて笑ってやると、ロナルドは前を見つめて固まったまま「兄ちゃん、だっこ……」と呟いた。抱っこはあかんじゃろ、という言葉を必死に飲み込んで、ヒヨシはツルミ川が氾濫した際のような、重いため息を吐き出した。
パーティーは好きだ。煌びやかなドレスも、豪華な装飾品も、目にするだけで気持ちが昂る。扇を口元に当て、右へ左へと目を滑らせるが、あまりそうしてもいられない。公爵家の娘であるドラルクの元へはひっきりなしに客が訪れた。若き貴公子たちはドラルクの手の甲に口づけ、口々に甘い言葉をこぼしていくが、それも聞き飽きた。
「──と申します。ドラルク嬢、よろしければ私とお話でも……」
「失礼、私少々気分がすぐれませんの」
一族の遺伝的に夜目が効くドラルクには、会場の明かりは少々眩しすぎた。久しぶりの外出に人酔いしたというのもある。心配からか下心からか、介助を申し出てくる男をどうにかあしらって、ドラルクはその場を離れた。お父様がいれば連れて帰ってもらえるのだが、と辺りを見回したが、ドラウスはちょうど旧友のノースディンと話し込んでいる最中だった。ドラルクはノースディンが嫌いだ。特に何かをされた覚えはないが、魂が拒絶している。見知らぬ令嬢から秋波を送られているのを目にして、ドラルクは心の中でクソヒゲヒゲすけこましドスケベ歯ブラシヒゲがよ、と毒付いて、くるりと踵を返した。
バルコニーに出ようとしたら、すでにイチャコラ忙しいカップルに占拠されていたので、カーテンの影から甲高い声を意識して「ちょっとその女誰よ!!」と叫んだ。男の慌てふためく声、女の狼狽したような、腹を立てているような声を背中に、そっとカーテンの側を離れた。
さて他に一人になれる場所はないかしら。ドラルクは王城に足を踏み入れるのは初めてだったが、迷いのない足取りで城の中を歩き回る。どこが誰の部屋なのか、一々扉をノックして覗いてやってもよかったが、とにかくどこかへ座りたい。その時、薔薇の匂いがふわりと漂ってきた。城の中庭に薔薇園でもあるのかもしれない、そう思ったドラルクは城の外を目指してずんずん歩いていった。
薔薇は中庭の中心にあった。ドラルクは薔薇が好きだ。あの赤い色がいい。それに香りを嗅ぐと元気が出るような気がする。精気を吸っているとでも言おうか、なんだかお腹が満たされるような……私ったらお花の妖精だったかしら? ドラちゃんかわいいからな、さもありなん。ドラルクは自分で結論づけて、側に備え付けられていたベンチに腰掛けた。ヒールの高くない靴を選んだはずだが、重いドレスを着て歩き回っただけでどっと疲れてしまった。
パーティー会場でほてった体に夜風が心地よい。噂の王弟殿下はあまりに多くの人に囲まれていて、その姿をちらりと見ることもできなかった。兄弟揃って美しいという噂なのに、一目でいいから見てみたかった。ドラルクは美しいものと自分が大好きだ。遠目から見た国王陛下は確かに美しく、若く見えるが威厳があった。無理をして髭なんかたくわえなくったっていい。もう少し背が高くて、もう少し手足が長くて、もう少し眉毛が長くて垂れ目気味であれば、ドラルクの好みそのものだった。
今日のドラルクは、自分の婚約者候補を見定めるつもりで来ていた。声をかけてきた男たちも、半分以上は未婚の公爵令嬢との縁を望んでいたのだろう。残りはどう見ても軟派な遊び人であるか、父や母に連れられて無理やりといった風であった。しかし、どいつもこいつも気に食わない。つまらない男ばかりだった。
「どうせならもっとこう、面白い男がいいな。私を退屈させないような……っと」
がさりと生垣が揺れる音を聞いて、ドラルクは咄嗟に投げ出していた両足を綺麗に揃え直した。さすがに人に見られると外聞が悪い。しかし木の葉同士が擦れる音はなおも鳴り止まない。もしや人ではなく野生動物だろうかとドラルクが立ち上がりかけた途端、ベンチのすぐ横から白い塊が勢いよく飛び出してきた。
「よっしゃ、ついたぜ! ……あれ、ここ庭?」
キョロキョロと辺りを見回す子どもは、ドラルクに気づいた素振りはない。しかしドラルクの目にはその子どもの美しい銀色の髪色やサファイアブルーの澄んだ瞳がよく見えた。身なりからしても間違いない、この子どもは王弟のロナルド殿下だ。
社交の場で偶然出会うのとは訳が違う。しかも生垣から飛び出してきたからか、まろい頰のあちこちに小さな擦り傷を作り、お召し物だってこんなに汚れて……一緒にいるところを見られると、どんな誤解を受けたものか分からない。よしんばロナルドが上手く事情を説明できたとしても、面倒ごとになるのは目に見えていた。逃げるにしかず、とドレスの裾を持ち上げてそっと背を向けたドラルクの耳に、ぐすっと鼻を啜る音が聞こえてきた。
「ふぇ……ここどこ……」
「……」
「う、う……兄ちゃん……にいちゃぁん……」
「……〜ッ」
普段の淑やかさを忘れて乱暴に髪をかき上げたドラルクはくるりと向き直り、わざと音を立てながら地べたに座り込んだままだったロナルドに近づいた。びくりと体を揺らした子どもを、出来るだけ高慢な視線と所作で見下ろす。やはりロナルドは泣きべそをかいていた。
「あら、野生動物かと思えば、どこの子かしら」
「びゃ!!」
「ここは王城の中庭です。そこいらの子どもが遊びで入り込んでいい場所ではないのよ」
「ぁ……ご、ごめんなさい!」
ぴょこんと飛び上がって頭を下げたロナルドを前に、ドラルクは頭を抱えそうなるのを必死に抑える。王族が簡単に頭を下げてるんじゃないよ、という言葉が喉元まで込み上げてきたので、咄嗟に手にしていた扇で口元を隠した。
「ふん……分かったのならよろしくてよ。さっさと親元にお帰りなさい、今宵は国王陛下も王弟殿下もお越しになっているパーティーなのですから」
「あ……」
ロナルドはあからさまにホッとした顔をした。自分がその王弟だとは気づかれていないことへの安堵感だろうと、表情から見てとれた。思ったことが全て顔に出ている、王族にしては素直すぎる子どもに、今度はドラルクの胃がキリキリと痛む。この無垢な瞳をした子どもが、王族に生まれついたというだけで、将来はあの狸や狐どもの中に放り込まれてしまうのだ。次に会う時には、この瞳の輝きも曇ってしまっているかもしれない。それはなんとも惜しいことだとドラルクは思った。
もじもじと手遊びをして、なおもその場を離れようとしないロナルドを、ドラルクは再び訝しげに見下ろす。そうしてドラルクと目が合った途端、ロナルドの大きな目から再びほろりと涙がこぼれ落ちた。慌てたのはドラルクの方だ。
「え、な、どうされのです……どうしたのかしら!?」
「ふぇ……ふぐぅ……!」
「あ、あ〜、ちょっと、もう……ほら泣き止んで」
ドラルクはハンカチを取り出してその場にしゃがみ、後から後からこぼれてくるロナルドの涙をそっと拭ってやった。ひやりとした触感に一瞬ロナルドの肩が強張るも、頬を滑る優しい手つきに、次第に落ち着きが戻ってきた。
ロナルドが改めて目の前の令嬢を見上げると、彼女は「情けないったらないわ、まったく」と言いながらも、泣き止んだロナルドを見て柔らかく微笑んだ。城で見上げるどんな大人たちとも違う、どこか兄と似ている微笑みだ。ロナルドは彼女を美しい人だと思った。
「……落ち着いたかしら」
「ん……ありがと……」
「ふん、礼を言われる筋合いはなくてよ。……それで、あなたはどうしてこんなところにいたの」
「うっ」
ベンチに座らされたロナルドは、いよいよ観念したのか辿々しい口調で城の中庭に逃げ出してきた経緯を語った。
自分はとある貴族の子どもで、両親が数年前にそろって他界してしまったこと。大好きな兄と妹がいること。家は現在、超優秀で格好良くて、スマートでパーフェクトで目からビームを撃てる兄が引き継ぎ、どうにかなっていること。自分も早くその兄の助けになりたいが、今日のパーティーでは誰に話しかけられても緊張してしまい、上手く話せずに兄を困らせてしまったこと。自分は兄のお荷物でしかないと大人たちが嘆いていたのを、カーテンの裏で聞いてしまったこと。それで、情けなくも会場を飛び出してきてしまったのだという。
精一杯誤魔化しているのだろうが、話すうちに熱が入ってきたのか、終わりの頃には「ヒヨシ兄ちゃんが」「王様のお仕事」などと口走っていたせいで、何も誤魔化せていなかった。むしろドラルクは聞くべきではないあれやこれやを聞かされた気がして、元より青白い顔色はさらに血色を失っていた。
すっかり話し終えたロナルドは、見ず知らずの人に胸の内を明かしてしまった恥ずかしさに、両手で顔を覆って顔を赤らめた。こうして誰かと落ち着いて話をするのが随分久しぶりだが、名前も知らない少女……ロナルドにはすでに立派なレディに見えていたが、彼女は落ち着いた相槌を入れるだけで最後まで聞いてくれた。父母や乳母がいなくなってから、大人全般にうっすらとした不信感を抱いていたロナルドは、初めて他人に心を許そうとしていた。
しかし、ドラルクはパンと扇を広げて「貴族の子息が、なんと情けない」とロナルドの弱音を一蹴した。
「そんな甘ったれた考えで、どうやって領地の民を守っていこうと? 貴い家に生まれついたならば、その責務を果たしなさい。でなければお兄様のことは放っておいて出奔でもしな」
「……」
それはロナルドがずっと言われてきた言葉だった。王族には王族の勤めがおありなのに、ヒヨシ殿下は立派にお勤めを果たしていらっしゃるのに、ヒヨシ殿下がロナルド様と同じくらいの歳には、それはもう立派なお振る舞いを……。
ロナルドの目に、再びじわりと涙が滲む。やはり自分はダメなのだ、兄を助けるどころか足を引っ張ることしかできない愚弟なのだ、少女の言う通り家を出るのが、王籍を抜けるのが一番の助けなのかもしれない。脳裏に兄や妹の顔を浮かべたその時、ほっそりとした指がロナルドの眦に溜まっていた涙を優しく掬った。繊細なレース編みの手袋が色を変える。指先に促されるまま顔を上げると、厳しい言葉を放ったはずのドラルクは悲痛な顔をしていた。
「こんな小さな子どもなのに……親を亡くした悲しみに浸る間もなく義務に追われて、大人と同じ振る舞いを求められるなんて間違ってる」
「ぁ……」
「ねえ、逃げたっていいんだよ。辛くてしんどいなら投げ出していい。もっと我儘に振る舞いなさいよ、子どもなんだから」
ロナルドは呆けたように瞬きをした。逃げてもいいなんて、今まで誰にも言われたことがない。兄ですら「すまんの」と同情して守ってくれようとするだけで、王族として振る舞わなくていいとは言わなかった。
おそらく少女の目には、ロナルドが今にも責務で潰れてしまいそうな、か弱い子どもに映ったのだろう。確かに自分は何の取り柄もない、王弟という立場も理解できていない愚か者だが、それでも周りの人々が懸命に自分を支えようとしてくれているのに、それを投げ出すのは違うと思った。
「……あの、ありがとう」
「? うん」
「でも俺、大丈夫。頑張って兄ちゃんを助けられる男になるんだ」
「……そう」
ドラルクは少しの間、瞼を閉じて幼いロナルドのいじらしい決意を噛み締めていたが、次に目を開いた時には元の通り、愉快そうにその目元を歪めた。
「あっそ、じゃあ頑張ってね」
「う、うん……あの、お、お姉さんのお名前、聞いてもいい?」
「……人に名を尋ねるなら、先に自分が名乗るべきではないかしら。まあ、私はあなたに興味がある訳じゃないので、これにて失礼」
「あ! あの俺、ロナルドっていいま」
「あー! 名乗らんでよろしい! じゃあね!」
少女はそそくさと立ち上がって、ドレスの裾が乱れるのも構わず走り去ってしまった。ロナルドの名を聞いて焦っていたということは、もしかすると王族のことも知っていたのかもしれない。だとすれば申し訳ないことをしたな、とロナルドは思った。子どもながらに自分の厄介な立場を理解しているつもりだ。
後に残されたのは、ロナルドの頬を拭ってくれた少女の指先の感触と、肌触りの良いハンカチのみ。ロナルドはそっとそのハンカチを鼻に押し当てて、香りを嗅いだ。落ち着く香りだ。少女らに流行りの花の香りではなく、もっと静かな木の匂いがする。
「……ドラゴン?」
広げたハンカチに刺繍されていた家紋を見て首を傾げる。ドラゴンなんてあまり聞いたことはないが、格好良い。きっと兄ならこれがどの家紋かすぐに教えてくれるだろう。……そこまで考えて、ロナルドは頭を振った。これはきっと自分の問題であるはずだ。兄に頼らず、自分であの少女にたどり着かなければ。それがどういう感情からくる決意なのか、幼いロナルドにはまだ分からなかった
ドラゴンを模した家紋こそ「D」の一族のものであるとロナルドが自力で突き止めるのに、数年を要した。直系で一番ロナルドと歳が近い女性の名前がドラルクであること、成人の儀を経てドラルクンと名乗りを変えていることも知った。同時に、風の噂で、ドラルクンが歳上の伯爵と結婚し、嫁ぎ先で幸せに暮らしているという話も知った。