ハートが帰らない
ドラ公は帰ってきた瞬間から不機嫌だった。一体何が気に食わないのか、俺どころかキンデメや死のゲーム相手にもむっつりと押し黙ったままで、嫌そうに歪む表情を隠そうともしなかった。キッチンに立つでもなくやけくそ気味にネッフリを漁るでもなく、「ただいま」の次に聞いた言葉は「もう寝る」だ。こんなことは珍しいどころか初めてで、情けないことに俺は棺桶の蓋を閉じるドラ公に声一つかけることもできなかった。
棺桶の中からは物音ひとつない。この不気味さは普段温厚な人が怒ると怖いって言う、あれに近い。いつも鬱陶しいほどにテンションが高く、何事も楽しんでしまう享楽主義の吸血鬼が不愉快の感情を露わにしているのに、正直俺はビビっちまった。食べかけていた最中アイスの皮が口蓋に張り付いたのをどうにか飲み込んで、そろりとドア横の金魚と目を合わせる。
「……き、キンデメ、俺また何かやっちまいましたかねぇ……?」
「……ぐぶ……我輩には分からん……」
「キンデメに心当たりがなけりゃもう詰みじゃん!!」
「前から思っていたが、貴様ら二足歩行のくせに金魚を頼りにしすぎでは?」
キンデメの言う貴様らの中にきちんとドラ公が含まれていることに安心して、とりあえず心当たりを探すべく俺は冷蔵庫の中を覗いてみた。いつもの牛乳はまだ残っているし、汁物のタッパーをひっくり返した痕跡もない。次いで本日一日の自分の言動を振り返ってみたが、いつも通りドラ公に煽られていつも通りドラ公を殺しただけで、あいつが不機嫌になるような出来事は思い出せない。うーん駄目だ、やっぱ詰みだ。しゃーないから諦めて明日を待つぜ。
「なんだ、寝るのか」
「おう。明日になったら機嫌も直ってんだろ。そん時に殺しつつ理由聞いてみるわ」
「ロナルドさん、師匠を殺しつつっていうのはさりげなくって意味じゃないんですよ」
「いや同じようなもんだって」
「……いいのか、あんな状態の同胞を放っておいても」
「ガキじゃねえんだから」
「……」
キンデメと死のゲームからの視線が痛い。俺だって分かってるよそんなこと、逆の立場ならドラ公は「ヘイヘイヘーイしょぼルド君! 今度は一体何がどうしたというんだね、君の不幸を肴にブラッドワインでも開けさせたまえ!」とか言って、何度も殺されながら俺を煽り倒して、とうとう抱えてるもんを吐き出させてしまうんだろう。それをされた俺は腹が立つけれども思考のループは負の方向から抜け出せるし、翌朝もすっきり起きることができる。
あれがドラ公なりの優しさとか思いやりなんじゃないかと気付けたのはごく最近だ。容易にそうと悟らせない辺りが年長者っぽくて気に食わない。俺にもああいう芸当をやってみろと言いたいんだろうが、みくびりやがれ、俺にできるわけねえだろう。精々がダチョウ衣装を着て一緒に踊ってやるくらいだぜ。
でも、当の本人があの調子じゃダンスどころじゃないだろう。どうにかしてやりたい気持ちはあるけれどもどうにもできないのが現状だ。そうやって心の中で言い訳をしながら明かりを消して布団に潜り込む。現状維持に下降思考、だから俺はダメなんだわエーン泣きたい……グンナイどうしようもない俺。
今日は下等吸血鬼の退治案件がいくつも重なって昼からずっと駆け回っていたから、体は重怠く、すぐにでも眠れるはずだった。しかしどうにも寝付けねえ。ソファベッドの隣に鎮座している棺桶がこんなにも気になるのは久しぶりだった。
何度か寝返りを打って、ようやく眠気らしきものの尻尾が見えてきた時、ふと頭の横に温かな気配を感じた。目を閉じたまま手で探り当てると、相手は切なそうにヌーと鳴いて俺の布団に潜り込んできた。
「……ジョン? どうしたの、眠れねえのか」
「……ヌー……」
囁き声で尋ねてみてもジョンは悲しそうに鳴くばかりだ。そりゃそうか、だって大事な主人があんなになってるんだから、ドラ公に忠実な使い魔であるジョンが悲しむのも道理だろう。俺のところに来たのは聞いてほしい話があるからだろうか。よく手入れされた、滑らかな甲羅を撫でながら、腕の中の温みが心地よくて上下の瞼がくっつきそうになるのをどうにか堪えて、ジョンの気持ちがまとまるのを待つ。俺よりずっと歳上のはずのアルマジロは、ただハラハラと涙をこぼすばかりだった。
ジョンがどうにか泣き止むのと、俺の意識が途切れ途切れになってきたのはほぼ同じころだった。よじよじと俺の胸の上を登ってくる感触ではっと我に返って、小さな体を見下ろす。再び俺の頭の横までたどり着いたジョンは、内緒話をする時のように俺の耳に顔を寄せてきた。
「……ヌヌヌヌヌン」
「うん、ジョン、ドラ公になんかあったんだな」
「ヌヌヌヌヌヌ……ヌヌヌヌヌヌ……」
ジョンは再びぽろぽろと泣き出したが、今度は俺の肩口に擦り寄って懸命に話をしようとしている。無理しなくていいよと宥めると、意を決したように顔を上げて、俺の顔を小さな手で撫でながら悲しみの原因をそっと打ち明けてきた。
──あのね、ドラルク様、心臓を盗られちゃったの。
吸血鬼の心臓は、正しく急所の一つだ。抉り出して火で炙ったり、ワインで煮たり、あるいはそのまま杭で貫いたりしてしまえば吸血鬼は絶命するという。吸血鬼退治人の自著伝や退治マニュアルには、今でも首を切り落とすよりも確実な退治方法として紹介されている。
新横浜で吸血鬼退治人として働く中ではほとんど意識したことのない話ではある。ここで湧く敵性吸血鬼といえばカクレツチグモやヤツメヒル、スラミドロといった下等吸血鬼ばかりだ。敵性と言っても高等吸血鬼の大半はポンチか変態で、たまにいるアラネアや吸血鬼アンチエイジングのような危険性の高いやつでも、基本は麻酔銃や暴力で武力の無効化の後、VRCに収容する。本当の意味での退治、つまり伝承に出てくるような吸血鬼の命を奪うような真似はしたことがなかった。
厳密に言えば吸血鬼は生き物ではないらしい。生と死の間とか、不死者とか、いろんな呼ばわれ方をする。けれども俺たち人間と同じように動いて喋って物を食べ、泣いたり笑ったり怒ったり、恋愛したり結婚したり、子どもが産まれたりするんだから、生き物との垣根は結構低いんじゃないかと思う。だから、吸血鬼にとっても心臓は最も重要な器官だ。それなしでは生きていかれないくらい。
ドラ公が心臓を盗られたと聞いたとき、俺の頭に浮かんだのは見慣れた砂の山のイメージだった。流石のドラ公も心臓を失っては死んでしまうはずだと思った。それが不機嫌さを全開にして元気よく帰ってきたのだから、俺はジョンの言った「心臓」の意味を測りかねてしまった。
昨夜のジョンは、「心臓を盗られちゃったの」と言うなり再び泣き始めて、それ以上を聞き出すことができなかった。一夜明けた今は泣き疲れた表情のままドラ公と同じ棺桶で眠っている。俺はといえば、何度もこっそり棺桶の蓋をずらして中を覗き込んで、そこに見慣れた吸血鬼のおっさんが砂にもならずに眠っているのを確認していた。なんとなく、そのままドラ公を放って出て行く気にもなれなくて、さっきからずっとロナ戦の原稿を進めている。珍しくクソ砂の邪魔も、吸血鬼絡みのアホらしい(と言っては申し訳ないんだが)相談もない原稿タイムだというのに、目の前の画面は変わらず白い。いっそこの新雪のような白さを保つべきではないだろうかと血迷った考えが一瞬脳裏を過ぎったが、すぐに亜空間を渡って現れるフクマさんの姿も想像できたので、俺は再度気合いを入れてノートパソコンの画面に向き合った。……こんなに真剣に向き合ってるのに何一つ良いネタが浮かばないのは、いつもながらに不思議だぜ。
「……吸血鬼の心臓、なあ」
手元の文献を少し漁っただけでも、十分にネタになりそうな響きだった。心臓を二つ持つ奴もいる、吸血鬼の心臓は動いていない、吸血鬼の殺し方、心臓は焼いた杭で生きたまま……。
やっぱり気乗りしなくて、再び本を引き出しの一番下に放り込んだ。単に吸血鬼の生態について調べてるんじゃなくて、同居している吸血鬼の心臓が盗られたという話なんだ。それをネタにするのは流石に倫理が狂ってるというか、普通に良くないことだろう。プライベートなことをネタにするという点では、半田やカメ谷が俺の高校時代の恥ずかしい写真を人に見せびらかすのも咎められるべき所業なんだろうが、あれとはまた訳が違う。盗られたと言うからにはドラ公は被害者だ。
「あー……飯、食いに行くか」
ドラ公が昨夜何もせず寝てしまったから、朝食どころか昼食も用意されていない。ジョンはずっと一緒に寝ていて飯も食ってないんだから、当然っちゃ当然だ。あの気分屋の吸血鬼は俺が勝手に外食してくるのにはあまりいい顔をせず、ここ数ヶ月はよっぽどのことがない限り俺の三食はドラ公の手で用意されていたから、なんだか変な気持ちになる。
「っし、パトロール行って、そのままついでに飯食って……おーい、キンデメ」
「ぐぶぶ、随分と遅い時間に起こすな」
「あ、うん……ドラ公まだ寝てるみたいだから」
「……そうか」
キンデメはチラリとドラ公の棺桶に目をやってから、水面に浮かんだ餌を突き始めた。居住スペースは相変わらず静かだ。普段我が物顔でソファーやテレビを占領しているやつがいないから。
「……パトロール行ってくる。そのままギルドで飯食ってくるから、クソ砂が起きたら連絡くらい入れろっつっといて」
「ぐぶ、承った」
外へ出るとすっかり日は落ちていた。吸血鬼ならばこの時間帯からこそが活発に動き回れる。すれ違う人波に当然のごとく溶け込んでいる一般市民の吸血鬼やダンピールを横目で見ながら、俺はギルドへ足を運んだ。
「心臓ですか」
「なんというか、物騒な」
「……でも、確かに見たことないや」
ギルドで「吸血鬼の心臓って見たことある?」と聞いたらこれだ、一様に怪訝な顔をされた。ワードチョイスのセンスがなかったことは認めるけれど、「またドラルクか?」と呆れられたのには驚いた。
「お前、前の上半身と下半身みたいに、ドラルクを心臓と他に分割したのか? 正直どうかと思うぜショットさんは」
「ちっげえよ! あれはその、俺も今じゃやり過ぎだったなって思うし……実際に見たって話じゃなくて、これは本当に興味本位で……」
「まあ、退治人として知っておくのは無駄ではないでしょう」
注文したガパオライスを俺の目の前に置きながら、マスターがそう言った。ライスってついてたからオムライス的なやつかと思ったら全然違った。「いただきます!」と手を合わせてスプーンで食えば、うん、あんまり食ったことない味だけれども妙に舌に馴染んで美味い。目玉焼きを二つもつけてくれたので、隣のサテツが「いいなあ……」と羨ましそうな、いや、恨めしげな顔をした。お前は炒飯山盛り食ってきたところだろうが。
「しっかし、ドラルクでも心臓と体が分けられたら致命傷になるんだろうなあ」
「どうでしょう、ロナルドさんなら本人に聞けそうですが、ちょっとセンシティブな話題ではあるでしょうね」
「そんな積極的に知りたいわけじゃないんで、もう忘れてください……」
今更ながらギルドでこんな話題を出してしまったのが恥ずかしくなる。万一VRCにこの話が知られるようなことがあれば、あの所長が黙っちゃいないだろう。ドラ公に後から文句を言われるのは俺だから、どうかこの話は内々で済ませてほしい。
「……そういえばドラルクさん、今晩は遅いのかな」
「え?」
「あー確かに、いつもならふらっと来てる頃だな」
「え、え、ちょ、あいつそんな頻繁にギルド来てんの」
ショットとサテツが互いに目を合わせて黙る。バーカウンターの向こうで成り行きを見守っていたマスターが「三日に一度は立ち寄っておられますよ」と代わりに答えた。三日に一度って、燃えるゴミの収集より頻度高えじゃねえか! もしかしてその度に俺のツケで飲んでるんじゃないか、恐る恐るマスターの顔色を窺うと、意味深な笑みが返ってきた。あいつ絶対ぶっ殺すからな。
大体、吸血鬼が退治人ギルドに何の用があるんだ。依頼を引き受けるわけじゃないし、冷やかされて店も迷惑していることだろう。あいつ存在自体がうるせえんだから。
なんかウチのがすみませんと謝れば、マスターはちょっと目を瞠ってグラスを磨く手を止めた。
「すみませんだなんて。店の立場で言うならば、むしろドラルクさんは良いお客様ですよ」
「え? どういうことですか、あいつ何しに来てんだ?」
「そうですね……バーの軽食メニューの案を出したり、たまに試作をしてくださったり」
「でも一番は聞き役だよなあ」
「確かに、ドラルクさん聞き上手だから」
「聞き上手て」
あのドラ公が? 一つ文句を言えば十や百にして返してくるドラ公が? いやあそりゃないだろと笑い飛ばそうとしたら、ショットが片方の口端を吊り上げて「まあ原因は分かってるけどな」と言った。
「原因?」
「ドラルクのやつ、いっつも俺らの退治の話を聞きたがるんだよ。下等吸血鬼の退治はともかく、駆除活動には自分が着いていけないから」
「ああ、まあ……でも面白いことなんか特にねえだろ?」
「そうなんだけどさ、でも聞きたいことがあるらしいっていうか」
「ぶっちゃけロナルドのこと聞いてばっかだよ」
「俺の?」
意外なことを言われてスプーンを動かす手が止まる。あいつ、ギルドに来てまで俺の醜聞を集めようとしてるのか。陸クリオネならまだしも、普通の下等吸血鬼の駆除でそこまでの恥を晒したことはない……はずだ、多分。チクショウますます殺すぜという確固たる殺意がみなぎる。
「マスター、会計お願いします」
「おや、もう行かれるんですね」
「ドラ公ももう起きてるだろうし、もう一回だけ見回り行って帰ろうかと……俺のいないところで随分ご迷惑おかけしてるみたいだし、あいつマジでしばくからな……」
「……ドラルクさんは、ロナルドさんや他の退治人のご活躍を聞きにくるだけですよ」
マスターが気の毒そうに目を細めた。まるで俺の方が悪者じゃないかと思ったが、あいつは本当にただの客として来ているだけらしい。
パトロールに行かなければいけないのは本当だけど、この空気感にいたたまれなくなったのもある。なぜかいつぞやにシーニャに言われた言葉を思い出した。「ビジネスコンビだからって甘えてないで、もうちょっとドラちゃんを大事にしなさいよ」と言われたって、お互いもう少し歩み寄って、多少は気を遣い合ってって、俺たちには無理な話だ。初めのうちこそロナ戦のためだったけれども、ロナ戦が完結したってあいつが出て行くイメージもできないし、今はそれだけじゃないような感じもする。そもそもビジネスで組んでるコンビの相方は、自分が履きもしないパンツを洗ってくれたり、使い魔が食べきれないほどのからあげを揚げてくれたりするんだろうか。
そういや俺たちってなんなんだろう。
いや、これ以上は開けちゃいけない蓋を開けてしまう気配がする。ドラ公じゃねえんだから俺は怪しげなボタンとか絶対押さねえ。
財布をしまって立ち上がった時、マスターが思い出したように話しかけてきた。
「新メニューのガパオライスはお口に合いましたか」
「はい! めっちゃ美味かったです」
「それは何よりです。実はあれ、ドラルクさんが提案してくださったレシピ通りに作ったんです」
「え、ドラ公の?」
「ええ、先月来られた時に試作してくださって、『しまった、これじゃ若造好みの味付けだな』と。ナンプラーを使っていないんですよ」
ナンプラーってなんですかと反射的に聞き返しながら、俺は頭の中でマスターの言葉を反芻していた。俺好みの味付けって、なんじゃそれ。まるでドラ公がわざわざ俺の好みに合わせて料理の味付けを変えてるみたいじゃないか。
ちょっとばかり寄り道をして家に帰ると明かりがついていた。慌てて階段を駆け上がってドアを開けると聞き慣れた「おかえり」の声が聞こえてきて、ドラ公がキッチンに立って夜食を作っている。その姿を目にした途端なんだか気が抜けて、そこでようやく俺がこいつを心配していたのだと知った。悔しいけれどもこの光景がほっとする。
「……おい何だね若造、ただいまも言えんのか」
「ぁ……た、ただいま……じゃねえ、連絡入れろっつったろうがてめえ!」
「そうだっけ?」
「そうだっけじゃねえわボケ、あのなあ、人がどんだけ……」
「なに?」
「…………なんでもねえわクソ雑魚!」
「ウワーッ投擲! キッチンで殺すなバカ造!」
左手に提げていたエコバッグから買ってきた品物を取り出して、袋をそのままドラ公目がけて思い切り放り投げた。ジョンが前にガチャガチャをした時の空きケースが入っていたおかげで思ったより真っ直ぐ飛んだ。飛翔してくる蛍光ピンクにビビったドラ公はたちまちに死んで、俺は鍋に砂が入らなかったかだけが気になる。俺がクソ砂の心配をしていたなんて死んでも知られたくねえ、数週間は擦られるに決まっている。
一度死んだドラ公は怒りの表情のまま耳を塞ぎたくなるような罵倒を連ねる。俺じゃなかったらもう一度殺されてたところだぜ、俺が「雑魚は何を言っても雑魚」の精神を獲得していなければ聞き流すのも難しかったところだ。おかげでさっき俺が言いかけたことなんか忘れている。そのまま気付かずいてくれ。
「まったくもう……あ、牛乳? もうなくなってたっけ」
「あ」
慌てて後ろ手に隠すがもう遅い。砂山を寄せ集めるようにして復活しかけていたドラ公は俺の買ってきたちょっといい牛乳にめざとく気が付いたらしい。クソ、と舌打ちしたい気持ちを抑えて、まだ再生途中だった砂山にズムンと突き刺した。再び悲鳴とジョンの嘆き声が響き渡る。
「なんだなんだいきなり!」
「あー……その……」
「あっしかもこれちょっといいやつじゃないか。くれるの? なんで?」
「な、なんでとか聞くな! いらねえなら俺が飲むからいい!」
「いらないとは言ってないだろ。ありがたくもらっておくよ、ありがとう」
絶句した。ドラ公が素直に礼を言うなんて……いや、こいつが押しかけてきた直後くらいにもこういうことがあった。その時もこんな風に、普通に礼を言われた。驚いたのは、最近そういう素直な反応をされた覚えがなかったからだ。いつもならここで「ようやくゴリラも私を崇め奉る気になったか、少し人間に近付いたんじゃないか?」とひとしきり俺を煽って、もうひと殺されしているはずだ。折角人が買ってきてやったのにと腹立たしく思いつつも、こいつに何かをしてやるという気恥ずかしさを紛らわすにはちょうど良かった。
「……ロナルド君?」
「おあ……てめ、あの、ありがたく思えよこのロナルド様を!」
「なぜいきなりロナルド様に? だからありがとうってば。明日のシチューにでも使おう」
「え、いやお前が飲まなきゃ意味ねえだろ!?」
「そう? ……じゃあそうするけど」
ドラ公はそれきり、ちょっといい牛乳について触れようとはせず、「手洗ってきなさいよ」と俺を洗面所へ追い出した。手を洗って、ついでに冷たい水で顔を洗いながら、俺はどうしてもさっきのドラ公への違和感を拭うことができずにいた。
夜食は他人丼だった。ドラ公は配膳しながら「なんでかジョンが赤ちゃん返りしてねえ」と満更でもなさそうな顔で、今日は家事に割く時間があまりなかった理由をつらつらと述べる。まったくいつも通り、むしろジョンとたくさん触れ合ったせいかつやつやピカピカと元気そうな様子に少し安心を覚えて、適当に相槌を打ちながら箸に手を伸ばした。ドラ公の丼って卵がとろとろで美味いんだよなあと涎を飲み込みつつ湯気の立つ丼を覗き込むと、なんだろう、なんか……?
「……なあドラ公、なんか今日少なくねえ?」
「いつも通り五合炊きだぞ。足りないならおかわりしろ」
「いや、量っていうか、肉? いつももっと多かったじゃん」
「……そうだっけ?」
「あ、ちが、文句とかじゃねえんだけど! なんか違うなって感想ってだけで!」
「……」
釈然としない表情をしたドラ公は、ちょっと考えるような素振りを見せてからキッチンに戻っていった。うわうわうわ、やっちまったぜ、冷や汗が止まんねえ。
「ご、ごめんなさいジョンさん……ジョン?」
「ヌ……」
俯き加減に窺うと、当然激怒しているはずのマジロはなんだか落ち込んでいる様子だ。ヌシャヌシャとスプーンを動かす手も遅い。どうしたんだろう、七味唐辛子入れすぎたのかな? 俺のと交換してあげたいけれどジョンすら躊躇う辛さに俺が勝てるわけがないんだよな。せめてちょっと甘めの味付けならワンチャン……ないかも、エーン迷ってるうちにドラ公が「片付かんから冷めないうちに食え」って言ってきた。これ以上あいつの機嫌を損ねるのもまずい。
「……あれ」
「今度はどうした文句垂れ造」
「だから文句じゃねえって、なあ味付けいつもと変えた?」
「? 特に変えてないぞ。ポンチ催眠かギルドでの食事内容が影響してるんじゃないか」
「えー、そうかな……いやめちゃくちゃ美味いけど」
「けど?」
「……もうちょっと甘くてもいい、かも」
「ふーん。どうぞ」
カウンターから差し出された小鉢の中身は、茶色くて甘辛いやつだ。これも美味いやつ! とさっそく箸を伸ばす。今度は甘すぎた。
「マダム長田にいただいたレトルトがまだ残ってたのよ。お肉が足りないのならそちらを召し上がれ」
「……この、あの、茶色いやつ、白米がもっと欲しくなるやつでございますわね」
「おかわりは丼空けてからでしてよ。あとそちらは牛肉と牛蒡のしぐれ煮というお料理ですのよ五歳児」
「アウトッお嬢様ナンバーワン決定戦、勝者ロナ子!」
「ギュワー! 茶番を勝手に選手権にすな!」
テーブルの上にあったコルクコースターを投げればドラ公は呆気なく死ぬ。肉が少なくて不満ってわけじゃねえよと言わなきゃいけない場面だったのに、また殺して逃げてしまった。他人丼はやっぱりいつもと味が違う気がする。俺の舌ではどう違うのか分からねえけど、ジョンにはそれが分かっているのか、相変わらず元気がないのがかわいそうだった。
ドラ公の変調が続いて数週間。やはりどこか変だ、以前とは違うという漠然とした思いを抱えているにも関わらず、生活はつつがなく続いている。ドラ公は体調を崩すこともなく、あの夜以来変にイラついてたり不機嫌だったりすることはなかった。いつも通り調子乗ってんのを冷静に指摘すれば憤死して、無駄に話しかければ腹を立てて死に、ついでに中指も立ててくる。青白い悪人面に、小憎たらしい笑みやプーンととぼけた表情を浮かべて、相変わらずアホばかり晒していた。
ギルドの奴らも再びちょくちょく顔を見せるようになったドラ公に安心しているらしかった。メニューには新たに季節のパフェが加わり、第何回になるのか分からないダチョウ肉大盤振る舞いの会が開かれ、ドラ公は元気にはしゃいでよく死んだ。ドラ公の死は元気な証拠だ。
けれども外出の機会はぐんと減った。これは俺の気のせいではない。ほぼ毎晩家を空けて、やれ河原だのやれ公園だの(そんなとこで何をしてんのかは絶対に教えてくれなかった)やれクソゲー漁りだの、それがなければ大して役にも立たねえくせに俺の退治にちょこまか着いてきて、とにかく落ち着きのなかったドラ公が、ここ最近出かけたのは河原だけだ。
「どこか出かけねえの」と聞いても、ちらっと俺を見て「私がいない間に何しようってんだ」と顔をしかめる。そんなんじゃねえわと殺した。そんなんじゃねえ、ただお前が毎日随分暇そうにしてるから、それが変だと思っただけだ。この街は退屈しないんじゃなかったのかよ。
仕事に出た先で、スーパーに買い出しに行った先で、ふと気がつくとドラ公が遠くにいることがある。それはしくじって胡麻の粒を数え始めてしまった時だとか、吸血アブラムシと奮闘する退治人たちよりもジョンがダンゴムシ転がしてるのを見る方が面白かった時だとかだったのに、ここのところはどうやらそうでもないらしい。じゃあ何だと言われても説明できるものではなくて、ただなんか変だな、と思うのだった。
ある日ドラ公の師匠、ノースディンがひょっこりと事務所に顔を出したのには驚いた。ドラ公は丁度ジョンのフットサルのナイターがあるとかで出かけていたから顔を合わせることはなかった。俺に……というか人間に対してそれほど友好的でない吸血鬼と相対するのはそれなりに緊張する。お茶の一つでも出すべきか、そんな親しい間柄か俺たちはと迷っているうちに、ノースディンは勝手に居住スペースのドアを開けてキッチンから茶葉を取り出し、勝手に紅茶を淹れてきた。吸血鬼って皆こんな感じなのか?
「……そこで呆けている退治人」
「え、あ、俺? 呆けてるって……えっ?」
「ドラルクならば客人に茶を出す程度の作法は教えていると思ったが、とんだ見込み違いだな。まあ所詮は猿の親戚ということか」
「……ドラ公なら見た通りいねえよ、あんたを避けてとかじゃなくて、普通に用事で」
「…………貴様は……ふん、そうか、いやいい。別に大した用事ではなかったのだ」
ノースディンはそう言って紅茶を一口啜り、事務所の壁、机、メビヤツと順に視線を巡らせて、最後にひたと俺を見据えた。過去に経験した覚えのある冷気が、足元からゾゾゾと這い上がってくる心地がする。
しかし冷たい眼差しとは裏腹に、髭をたくわえた口元から発せられたのは「ドラルクは元気か」というごく普通の文言だった。それがあまりに普通というか、比べちゃなんだがドラ公の親父さんと同じ聞き方をするものだから、無意識に武器を探そうとしていた手を押しとどめて、改めて目の前の吸血鬼を観察する。敵意はないようだ。さっきの言葉も額面通りに受け取るべきらしい。
「そりゃ……よく死んでるけど元気だぜ。……いや死んでるのを元気とは言わねえのか? でもあいつ死ぬのがデフォだよな?」
「相変わらずだな。他に……どこか変わったところはないか」
「変わったところ」
そう言われて、思わず口を開きかけた。けれども何と答えたものか分からない。ちょっと料理の味付けが変わったとか、からあげの頻度が下がったとか、退治についてくる機会が減ったとか、振り向いた先にいないことが増えたとか……そういう、俺が感じている「ドラ公がどこか変だ」に根拠はない。あくまで俺がそう感じているだけだ。それをノースディンに報告していいものかと考えて、やっぱりやめた。ただでさえあいつは享楽主義の気まぐれ吸血鬼だ。
「……なるほど。あー……」
足を組み替えて額に手をかざす様が、嫌になるほど絵になる。なんかこういうキザったらしいの見たことあるなと考えて、そういや本当に呆れてるときのドラ公にそっくりだと思い至る。なんだかんだと師弟なのかとほっこりしちゃうぜ、帰ってきたら絶対言ってやろ。
しかしノースディンの口からはなかなか次の言葉が出てこない。おかげでなんだか俺も段々不安になってきた。紅茶冷めるけど、「淹れ直してきましょうか」って言った方がいいのか。俺麦茶しか作ったことねえけど、それでもいいか。てかうちに茶葉ってあったんスね、俺場所知らねえけど……どこにあったか聞いても……? そんなことを思いながら、腰を浮かしたり沈めたりとハムストリングに刺激を与え続けているうちに、ようやくノースディンが口を開いた。
「……心臓を見たことはあるか、退治人」
「し……だ…………誰の……?」
「吸血鬼の」
吸血鬼の心臓。
そういや最近もそんな話をしたことがあったはずだと握りこぶしに力が入る。なんだっけ、なんだっけじゃねえ、しっかり覚えてる。ドラ公の心臓が盗られたんだ。まさかこいつは今日その話をしに来たのか? ひょっとしてあいつを連れ戻しに?
さっき押しとどめたはずの手が動きそうになる。いや待て、武器は良くない。分かってる。そもそもなんでこいつ相手に敵意なんか、ドラ公の心配をしてるだけなのに。心配……ドラ公が心配されている?
「ドラ公、やっぱなんかあるのかよ」
「……聞き及んでいるのか。本人……もしくは使い魔の方か。そうか、お前は知っていたのか」
ノースディンが重いため息を吐いてソファーの背にもたれる。思えばそうだ、思い立ってアポ無し突撃してくる親父さんとは違う。突き放すような言動だけれども、こいつだって過保護で心配性なドラ公の師匠だ。いつもみたいな電話やメールじゃなくドラ公を訪ねてくるっていうなら、それ相応の事件がある。
「なあ、あいつ心臓盗られたって……でも全然元気だし、死んでも復活するし、本人そんなこと言わねえし」
「……吸血鬼の心臓というのは、言葉通りの急所器官としての意味と、慣用的な意味がある。といっても古い言い回しだ、最近の若い連中は使わないような」
「慣用的な意味?」
「吸血鬼の執着は知っているだろう」
それは知ってる。それを逆手に取って靴下ばかりを刈り取る変態だって新横にはいる。それがどうしたんだと目線で促すと、ノースディンはすっかり冷め切った紅茶の表面をぼんやり眺めながら続けた。
「我々の執着はなにも物に限らない。目に見えない……分かりやすいところで言うならば、思い出や感情にすら執着することはある。形のないそれらが奪われることは滅多にないのだから、執着していたことに気付かないのが普通だ」
「へえ」
「そこから、万一奪われてしまうような事態が起こると死に至るほど大切にしている心のうちを、吸血鬼の心臓と呼ぶことがある。先程言ったように他人に盗まれるようなことはほぼないのだが、あの子は……」
ふう、と吸血鬼が再び息を吐く。呆れというより憔悴が見えた。
「我々に感知できたのは、ドラルクが失われたということだけだった。切り離された感情は当然ドラルクの一部だ。御真祖様やドラウスが動いて、当日中に本人に確認を取っている。あのお方が動かれたのだから事態はどうにでもできたのだろうが、そうしなかったのは、ドラルクが取り返してもらう必要性を感じなかったからなのだろう」
「必要性って……心臓に例えられるくらいの大事な思い出とか感情なんだろ、なんでいらねえんだよ」
「さて、それは分からない。これはドラルクの問題だ。私がこの猫の額ほどしかないボロ小屋に来たのは、ドラルク自らが城と称するここにならば理由の一端でもあるのではないかと思ったからだが……」
そこでノースディンは再び俺をひたりと見据えた。俺を試すような、憎むような、憐れむような目だ。ぞわぞわと背筋に走る悪寒をどうにかやり過ごしながら、俺も目の前の吸血鬼をじっと見つめる。なんか知ってんなら言えよ。あいつが変になっちまったのをどうにかできるなら教えろよ。それをドラ公が望むまいと──ドラ公がいらないって思ったのは、一体何への感情なんだろう。
「あの子の使い魔は、賢い。ドラルクの現状を嘆いている。お前に心臓の話をしたということは、まあ、そういうことなのだろうな」
「どういうことだよ」
「そうか、ならばあとは当事者の問題だ。精々励むといい」
「何が!?」
「ああ、土産にこのスコーンを置いていこう。上手く焼けたからな、ドラルクが作るものよりもよっぽど美味だろう」
「あ、どうも……じゃねえ、おい!」
「ではな、憐れな退治人」
「おい待て! こら! ドアから出てけ!!」
ノースディンはガラッと窓を開けてそのまま飛んで行こうとした。引き止めようとしたが、尻尾みたいなジャケットの裾を掴み損ねて落ちそうになる。ドラ公のようなひらひらのマントの利点は、こういう時に掴みやすいところだ。
「おいってば! なあ!」
「まだ何か話すことでも?」
「あるだろうが! 結局あいつ何を盗られたんだよ! 何へのどんな感情を……」
「ふん、粗野な脳みそだな退治人。古来より心ある生き物が振り回されるとすれば、一つしかないだろう」
「あ?」
「それがために人が死に、人を殺し、女は鬼になる。戦いが起きて吸血鬼も狂う。そう、狂おしいほど胸の内が吹き荒れて、自分が自分でなくなり、一人前の男ですらただ嵐の前に投げ出された小船のように頼りなく、赤子のように無垢な何かへと成り果てる」
「長い寒いわけ分からん、難しいことを易しく説明できるのが頭の良さだって……」
「──恋だ。恋心こそは吸血鬼すら死に至らしめるのだ」
「……こい?」
予想だにしなかった言葉に脳の機能が完全に停止した。催眠や魅了でも使われた時のように体が言うことを聞かない。恋だと恋。鯉じゃなくて?
気がつくとノースディンの姿はとっくになく、俺は窓を開けて、ただ馬鹿みたいに夜の新横浜の街を見下ろしていた。わはは、と乾いた笑い声が口から漏れ出る。全然面白くねえのに、人間はこんな時にも笑うことしかできないらしい。
恋だなんて聞いてないぞアホ。
帰ってきたドラ公は「うわクソヒゲの残り香!」と叫んで即座に死んだ。俺は気持ちの整理もつかず、ぼんやりとノースディンが置いていったスコーンを食っていた。お帰りも言いそびれた同居人に向かって、ドラ公は牙を剥き出して威嚇してきたけれども、苦々しい目でスコーンを見ながらお茶を淹れてくれた。いつものように取り上げて「こんなもん食ったら女たらしが移るわ! 幼稚園児にはハーレムとか刺激強くて泣いちゃうだろ、バナナ蒸しパン作ってやるからそれ食って寝ろ五歳児」とは言わなかった。
しかめっ面のまま紅茶を淹れるドラ公の手つきは静かで、なるほど所作だけ見れば立派な紳士と言えるだろう。ジョンを優しく甘やかすこの手が、ジョン以外に触れる時があったのかもしれない。この家を出て、知らない誰かと連れ立って夜を歩く時があったのかもしれない。ドラ公が恋をしていたというのはそういうことで、なんだそれめちゃくちゃ腹立つな。腹が立つと同時に無性にやるせない気持ちになって、俺はスコーンのおかわりを要求した。ドラ公は怒って死んだ。それを見たらちょっと安心した。