渚 あるところに、シンヨコ王国という国がありました。シンヨコ王国はそこそこの利便性とそこそこの人口で、トーキョー帝国ほどではないにしろ、豊かな国でした。
シンヨコ王国には若い王様が一人あって、女性に目がないのが玉に瑕ではございましたが、外交を欠かさず、自国民の声によく耳を傾ける、良い王様でした。このヒヨシ王こそ、シンヨコ王国をますます発展させるだろうと、誰もが胸の内に思っておりました。
王様には、年の離れた弟と妹がおりました。王様は二人を大変可愛がっていました。無口で冷静な妹と、活発で動くことが大好きな弟には、城のもの一同が手を焼いていました。妹のヒマリ様は、ほとんど口をきかず、語学に長けているはずが単語で会話をするお姫様でした。弟のロナルド様は、ヒマリ様よりお年が上でしたが、よく喋り、よく食べ、よく動いて城の備品を壊していました。城のカーテンというカーテンによじ登り、隙間という隙間に顔をねじ込み、元に戻れずに泣いては、泣き声を聞きつけた王様と近衛兵が駆けつけるのでした。その度に、ヒヨシ王は困った顔をしながらも、「こんなに落ち着きがない上にセロリも食えんのじゃ、お嫁さんをもらう時に困るのう」と、その頭を撫でてやりました。
ロナルド王子は、兄のヒヨシ王が大好きでした。
「おれも早く大きくなって、アニキの手伝いがしたいんだぜ!」
勉強があまり得意でなかったロナルド王子は、代わりに剣を振ることを選びました。折しも人間と魔族の対立が険しくなっている時分でございましたから、剣を振るう者は多い方がよかろうと、ロナルド王子は考えたのです。
ロナルド王子とヒマリお姫様は、すくすくとお育ちになりました。ロナルド王子は、幼いころのやんちゃな様子は形を潜め、王様によく似た美しい顔立ちの青年となられました。背丈はとうに王様を通り越し、近年はお風邪を召したこともない、立派な体躯をお持ちでした。ヒマリお姫様も、口数の少ないのは変わりませんでしたが、優しいお心と深い知恵を持つ、美しい女性になられました。国のものは皆、浮名を流し続けるヒヨシ王はこの際諦めるとして、ロナルド王子とヒマリお姫様にはぜひ良い縁談をと、日夜奔走しておりました。
しかし、一向に女性に慣れないロナルド王子と、誰が相手であっても口数の変わらないヒマリお姫様のお相手探しは、思うようにすすみません。しまいには、ロナルド王子は「好きになれるか分からない他国のお姫様と結婚するの怖いよおぉ!」と泣き出す始末で、この件に関しては王様も強く言うことができず、城の重臣たちは皆頭を抱えておりました。
ある日、ロナルド王子が遠駆けから帰る途中に、嵐が近づいて参りました。丘の上から水平線を眺めると、大きな雲がむくむくと大きくなっているのが見えました。
「お前ら、悪いけど先に帰って、兄……じゃなかった、王様にこの事を伝えてきてくれ」
「ロナルド様はどうなさるのですか?」
「俺はこの辺の村を回って、嵐に備えるよう言ってくるよ」
「危険ですので、一人はお供をおつけください」
「大丈夫だって! 俺だってもうガキじゃないんだから」
「図体ばかりご立派になられて……私がお側にいない時に、地面に落ちてるイイ感じの枝とかを拾って振り回してはいけませんよ。見逃しちゃうと勿体ないし」
「カメ谷ァ!」
「その辺に落ちてるバナナを拾い食いしてるうちに迷子になるんじゃないぞロナルドォ! 本格的に暗くなる前に気をつけて帰ってくるがいい!」
「半田てめえ! でも心配してくれてアリガトォ!」
ロナルド王子は一人で馬を返し、近隣の村々に声をかけに行きました。村人たちは皆王子に感謝し、口々に感謝の言葉を述べました。
最後の村を辞したところで、ロナルド王子は道端に倒れている老婆を見つけました。
「おばあさん、大丈夫ですか?」
「あら、その声は……どちら様でしょう?」
老婆は盲のようでした。ロナルド王子は老婆を助け起こし、すっかり冷えてしまっている肩に自分のマントをかけてやりました。
「もうすぐ嵐が来ますよ。お家まで送りましょう」
「まあ、ご親切にどうも……」
老婆は城とは反対の方向にある村の名前を告げました。今からそちらへ向かっていては、お城に帰るころにはすっかり暗くなっているでしょう。ロナルド王子の頭に、幼いころからの友人であり、良き臣下である半田の言葉が浮かびました。しかし、王子は迷わず老婆を馬上に引き上げて、お城に背中を向けて馬を走らせました。
「どうぞ、おばあさん、ご家族の方はいらっしゃいますか?」
「ええ、娘夫婦が家におりますわ。ご親切なお方、よかったらお夕食でもいかが?」
「いえいえ、そこまでしていただくほどのことは……」
老婆を村の入り口で馬から降りれば、老婆の家族らしき者が走り寄ってきました。ロナルド王子は彼らに老婆を預け、今度こそお城へ帰るべく急ぎます。
辺りはすっかり真っ暗です。雨の匂いも強くなってきました。どうにか本格的な嵐になる前に、と王子が馬上で姿勢を直した途端、ひときわ強い風が、ロナルド王子の帽子をびゅうっと吹き飛ばしてしまいました。
「あっ帽子が!」
真っ赤な帽子は、兄王が王子の騎士団合格祝いに買ってくれた、大切な帽子です。慌てて馬から降りて、地面を転がる帽子を追いかけます。ぱさりと地面に落ちたり、またふわりと浮いたり、帽子はなかなか捕まりません。
「待て、この……ヨッシャ!」
ロナルド王子の指先が、ついに帽子のつばに届きました。その途端、王子の足元がぐらりと傾ぎます。辺りが暗くて王子は気づけなかったのですが、いつの間にか帽子を追いかけて崖の上にいたのです。
「うわ、わ……!」
空中に投げ出された王子の体は、真っ黒い海へ向かって一直線に落ちていきます。崖はずいぶんと高いようでした。遠くなっていく空を見上げ、なす術なく宙で手をかきながら、王子は死ぬことを覚悟しました。
(兄貴と、ヒマリに、申し訳ねえなあ)
ぎゅっと胸の前に帽子を抱きしめて目をつむると、背中から水面に叩きつけられた衝撃で息ができなくなります。一瞬だけ気が遠くなりました。水を吸った重い体が、ごぼりごぼりと、静かに水中に沈んでいきます。
(ああ、やべえ、マジで体動かねえ)
意識が完全に遠のく間際に、真っ暗な中で誰かの声が聞いた気がしました。けれども王子はそれ以上意識を保つこともできず、静かに瞼を閉じました。海の中は静かでした。
ゆらゆらと、誰かが優しく体を揺らしています。今となっては遠い記憶の中、自分の手のひらが兄の親指を握りしめるので精一杯だったころ、ゆりかごの中で静かに揺られていた時の心地よさがあります。穏やかな気持ちの中で、ロナルド王子はそっと目を開きました。
「おや、起きちゃったのかい」
王子はまだ意識がぼんやりとしましたが、声のした方へどうにか首を巡らすと、青白い顔の痩せた男がこちらを覗き込んでいました。ここはどこなのだろう、海へ落ちたはずが、どうなっているのか。無理に体を起こそうとする王子の体を、吸盤に覆われた蛸の脚がそっとなだめます。
「まだ寝ておいで。地上は今ごろ大嵐だろうから」
「……ここは……俺……」
「地上の喧騒など、海の中では関係ないのだよ」
どれ、今ごろどうなっているのかね、と言いながら、男が傍の水晶に向かって手を掲げました。水晶からうす青い光が漏れ出し、ともすれば冷ややかな印象を与えそうな鋭い横顔が、柔らかく照らし出されます。ロナルド王子は、蛸足の男の横顔にしばし見惚れました。王子は、男の横顔を美しいと思いました。
「あの……あんたは……」
「うん? 知らなくっていいよ、寝てなさいってば」
「でも……」
「大丈夫だいじょーぶ、ちゃあんとお家に返してあげるから」
「……家……兄貴……ヒマ、リ……」
「うん、うん」
温度の感じられない足がぬるりと動いて、王子の体を持ち上げ、男の両手がその体を抱き止めました。そのまま抱きしめるようにあやされて、ロナルド王子の瞼が再び重くなっていきます。穏やかな寝息が、静かな海の中に溶けていきました。
「……眠ったのか?」
「あらヒナイチくん、お帰り」
「うん、ただいま。ドラルク、地上はやっぱりひどい嵐だ」
「うーん、そうみたいだねえ。というか君、よくこんな大荒れの中で、男一人抱えて泳いできたねえ」
「それほど大したことじゃないぞ!」
「私がそれやったら一瞬で海の藻屑なんだよなあ……」
ドラルクと呼ばれた蛸足の人魚の指先が、ロナルド王子の目の下をそっと撫でます。ドラルクは、祖父の置いていった水晶で地上の嵐を見物していたところ、崖から落ちるロナルド王子を見つけたのでございました。自分では泳いで行く自信がありませんでしたので、仲の良い人魚のヒナイチに頼んで、王子を回収してもらったのでした。
「オアー、ご覧ヒナイチくん、この造形! やっぱり美しい男だなあ」
「そうか? 私にはよく分からんが……」
「ヒナイチくんにはまだ早いかったか……ね、嵐が収まったら、また彼を地上に連れて行ってやってくれないか」
「このまま、お前のものにしないのか?」
「それも面白そうだけど……やめておくよ」
人魚は皆、美しいものが大好きです。ヒナイチも、ドラルクはこの男を自分のコレクションにするつもりだとばかり思っていましたので、その言葉を聞いて驚きました。しかし、なおも優しく男の髪を梳くドラルクの様子を見て、任されたとばかりに控えめな胸を叩きます。
「ありがとう、クッキー焼いておくからね」
「ちん! クッキー!」
海中で火を使うには、高度な魔道具が必要です。この辺りでそれを扱えるのはドラルクのみでしたので、人魚は嬉しそうにその場でくるりと回りました。
「大丈夫だとは思うけれども、人間に見つからないように気をつけるんだよ。最近、またきな臭くなってきたからねえ。いい加減魔族と一括りにするのもやめてほしいものだよ……」
「もちろんだ! クッキー楽しみ!」
普段の怜悧な顔から、年相応の少女のような笑顔になった人魚を見て、ドラルクは静かに微笑みました。そうして腕の中の人間に目を落とし、その瞼をそっと指先でつつきます。
この美しい青年が、地上の国の王族であることを、ドラルクは知っていました。彼は古い人魚でしたので、ロナルド王子の胸についた勲章や、腰から下げた剣を見れば、身元を推測するのは簡単なことです。こんなに美しいのですから、きっと多くの人に愛されているのでしょう。手放すのは惜しいのですが、人間と魔族との溝を今以上に深いものにするのは、本意ではありません。
「さあ、嵐はしばらく止まないだろう。ヒナイチくんお茶でも飲んでいかないかい」
「お茶! しばこう!」
「どこで覚えてきたそんな言葉」
ロナルド王子が次に目を覚ましたのは、とっぷりと日の落ちた砂浜の上でした。そうっと体を起こすと、胸の上にかけられていた、紺色の薄いヴェールが音もなく滑り落ちました。このヴェールは、魔女の七つ道具の一つで、身につけている間は決して野生の生き物に襲われないようになっています。
「ここは……?」
ヴェールを片手に立ち上がると、遠くの方で王子を呼ぶ声がしました。おうい、と応えると、どかどかという足音と共に、お城の兵士が駆けつけてきました。
「馬鹿め! ロナルド! この馬鹿め!!」
「うおおおお生きてた! 生きてたぁ!」
「半田、カメ谷、心配かけて悪ボボバッペギャセロリ!!」
「おお、本物だ!」
「王子様、よくぞご無事で!」
お城の者たちは口々にロナルド王子の無事を喜びました。嵐の晩から、すでに三日も経っていたのです。王子は馬に乗って、お城へ帰りました。ヒヨシ王も、ヒマリお姫様も、涙を流して喜びました。王様は、ロナルド王子がとっくに死んでしまったものと思っておりましたから、その喜びはどれほどのものでしたでしょう。
「お前を助けてくれたのは、どこの誰じゃ? 是非とも褒美を取らせよう」
「俺を助けてくれたのは、赤い髪の人魚と、蛸足の人魚です」
王子の言葉に、お城の者たちは色を失いました。人魚といえば、昔からの言い伝えで、船乗りを惑わして命を奪う魔性のものと決まっております。
口の悪いものは、王子は魔に魅入られたから、もうおしまいだと言いました。今に大波がこの国を襲ってくるに違いないと、震えだすものもありました。王様は片手を振って、その場を静かにさせました。
「……ロナルド王子、お前の言うことは本当か」
「王様に誓って、本当でございます。……でも彼らは、人に害なす生き物ではありません。これも本当のことです」
「魔族の中には、高い知性を持って、人間と同じように文明を築いている種族があると聞く。人魚もそのうちに入るのじゃろう」
ふむ、とつけ髭をいじって、王様はロナルド王子を見つめました。王子はもじもじと、まだ何か言いたそうにしていました。
「なんじゃ、まだ何かあるのか」
「あの、兄貴……じゃない、王様、俺……その、俺を助けてくれた蛸の人魚を、お嫁さんにしたいなあって……」
「……オギャーーーッッ!?」
頬を染めてはにかむ王子に、お城の者たちはまた色を失くしました。
それからシンヨコ王国は、大変な騒ぎでございました。何しろ、あの美しく強い王子が、ついに結婚の相手を見つけられたというのです。街では早くも、ロナルド王子の結婚を祝した花飾りが売られました。
しかし、待てど暮らせど、お相手はどこのお嬢様なのか、お名前はなんというのか、ひとつも分かりません。そのうちシンヨコ王国の国民は、皆この話に飽きてしまって、市場を駆け抜ける王子を見ては、またいつもの奇行かと、微笑ましく眺めておりました。真っ赤な花飾りは、投げるとよく飛ぶということで、子どもたちの間で大変流行いたしました。
ロナルド王子は、蛸足の人魚の行方を、懸命に探しておりました。なにせ、相手は海の底にいますから、会いに行くのもたいそう苦労です。その上王子は、その人魚の名前も知りません。名前も知らない人魚の、美しい横顔と、柔らかい声色と、滑らかな足の感触だけを頼りに、毎日馬を走らせていました。
人魚を見たという船乗りがあれば、即座に馬を飛ばして駆けつけました。喋る魔族がいたと聞けば、その者に褒美を取らせて、もっと詳しく話を聞きました。しかし、どれも蛸足の人魚に結びつく話ではなく、がっかりしてお城へ戻るのでした。
そのようなことを続けているうちに、二年が経ちました。ロナルド王子は、ますます美しく、器量の良い青年になりました。蛸足の人魚を探して毎日馬を走らせるものですから、体格もよろしく、船乗りの手伝いをして網を引くので、腕も太く、逞しくなっていきました。お城の者たちは、思わず頭を抱えました。
「あんなに美しい王子なのに、どうして魔に魅入られてしまったのだ」
近隣の国々のお姫様たちは、皆ロナルド王子が好きでした。何しろロナルド王子を一目見た女性は、その美しさにうっとりとため息を吐いて、すっかり心を奪われてしまうのです。王様も、いまだに独り身でありましたが、ヒヨシ王に長年求婚を続けている大国の女王様がありましたから、手が出せませんでした。けれどもロナルド王子には、ずっと婚約のお話もありません。ですから、お姫様たちは何かと理由を作って、シンヨコ王国へ遊びにくるのですが、ロナルド王子はいつも不在でした。
ある夜、お城で盛大なパーティーが催されました。数年に一度、トーキョー帝国の図らいで、若い貴族の男女を集めて、将来のパートナーと巡り合わせようという会が開かれるのです。今年の会場は、シンヨコ王国に決まっていました。ヒヨシ王は、万事つつがなく準備をしましたので、パーティーは大いに盛り上がっておりました。
ところが、ロナルド王子は、そういったパーティーがたいそう苦手でございました。元来、女性とお話になるのが苦手でしたが、さらに今の王子は、蛸足の人魚に懸想をしているのです。女性たちは皆、美しく魅力的ですが、王子は女性たちの豊かな胸よりも、吸盤のついた滑らかな足に触れたいと願っています。女性たちの、大きくてきらきら光る瞳よりも、海の中で自分を見下ろした、人ならざる者の視線を求めてやみません。
それでも、ロナルド王子が大変美しかったものですから、懇意になろうと近づいて来る女性は、後を断ちません。王子は囲まれそうになるのを避けるように移動するうち、いつの間にかバルコニーの方まで逃げて来てしまいました。バルコニーでは、すでに仲睦まじくなった数組の男女が、互いの腕や頬に触れて、甘い言葉を囁き合っております。王子はそれを横目に見ながら、大きな体を精一杯縮こませて、ブドウのジュースを一口飲みました。
すると、風に乗って、かすかな歌声が聞こえてきました。
──真祖なるかな、海の支配者
──無敵なるかな、六本の足
──その慈愛、あまねく海を照らし
──その知恵、赤き瞳に宿るらん
ロナルド王子は、はっとしました。バルコニーの手すりを飛び越え、庭園で逢引きをしていた貴族たちの間をすり抜け、歌声のした方に駆け寄ります。
お城の庭園の中央、大きな噴水のてっぺんで、黒ずくめの男がリラをでたらめにかき鳴らして、先程の歌を歌っておりました。あんまり驚いたロナルド王子が、あっけに取られていると、男は噴水からひょいと飛び降りて、王子の前にぬっと佇みました。男は、ずいぶん背が高いようで、王子は男の顔を見るのにぐっと顔を上に向けなければなりませんでした。
「へろー」
男の声は、目の前からではなく、もっと深いところから聞こえてくるような、不思議な響きを持っておりました。王子は、すぐに返事をすることができず、喘ぐような呼吸をもらしました。
「君が探してる子、今日はご機嫌なんだ」
「……へ、あ」
「西の海岸に行ってごらん」
男はそう言うと、霧になって姿を消してしまいました。ロナルド王子は、しばし呆けておりましたが、はっと自分を取り戻すと、厩の方へ駆け出しました。
厩務員の老人は、パーティーのご馳走のおこぼれも貰えないことに、不貞腐れておりました。
「まったく、ご貴族様たちは、毎日贅沢三昧でいいものだが、ちっとはこの寒空の下でも働かにゃならんワシらのことも考えてほしいもんだ……」
その時、庭園の生垣をめりめり突き破って、見慣れた顔が飛び出してきました。
「おっちゃん!! 俺の馬出してくれ!!」
「お!? おお、ロナ坊!」
厩務員は、ロナルド王子が幼いころから、彼を大変かわいがっておりました。家庭教師の授業から逃げ出してきた王子を、飼い葉の山の中に隠してやったこともあります。
「ロナ坊の馬か? ちょっと待っとれ、今鞍をつけてやるから……」
「裸馬でいい! あの、めちゃくちゃ急いでんだ!」
「おう、そうかい。お供はいいのかね」
「いらねえ!」
「そうか、よしよし。どこへ行くのか知らんが、バレんように帰ってこいよ」
「おう! ありがとう!」
ロナルド王子は素早く愛馬に跨ると、その腹を蹴って、ひたすら西を目指し始めました。
西の海岸というのは、真っ白な砂が敷き詰められた、綺麗な海岸でございます。網を置いていると、魚がよくとれ、昼間は人でにぎわいます。しかし、時折夜になると恐ろしい声が聞こえてくるというので、暗くなってからは、あまり人の近寄らないところでした。
ロナルド王子は馬から降りて、耳を澄ませました。恐ろしい声というのが、もし恐ろしい魔物のものでしたら、きっとあの蛸足の人魚が襲われてしまうと思われたのです。すると、波の音に混じって、うめき声のような、低い唸り声が聞こえてきます。
腰に穿いた剣の柄に手をかけて、そろりと岩陰に回り込み、ロナルド王子は唸り声の主の顔を見てやろうと思いました。声は、よく聞くと、何かの言葉を話しているようで、妙な節がついています。一際大きな波が、岩礁に当たって砕け、白く泡立ちます。唸り声が止んで、代わりに陽気な声が聞こえてきました。
「うーん、やはりこの時期はちょっと肌寒いねえ。風が冷たくて、私のキュートな足も動きが鈍るよ」
「ヌヌン」
「いい夜ではあるよね。ご覧ジョン、あのお月様! 君みたいにまん丸じゃないか」
「ニュ〜ン!」
思わず警戒する気持ちを忘れて、王子は岩陰から転がり出ました。聞き覚えのある声は、王子が探していた人魚に違いありません。果たして、岩礁に腰掛け、両手でシャコガイを抱えていたのは、あの蛸足の人魚でした。
「おおおおお、おあっ、えっ、んお……おおう……」
「うおっなに? 二足歩行のトド?」
「誰が海のギャングじゃ! ……じゃなくて、おま、俺、お前」
「うん? 君、よく見れば崖から落っこちルド君じゃないか! 元気になったんだね」
「恥ずかしいことで名前覚えられてる! というか、なんで名前……」
「腰の剣に『ろなるど』って書いてあった」
「ウエーン! 兄貴の面倒見の良さ!」
嬉しいやら恥ずかしいやらで、王子は顔を真っ赤にして泣き出してしまいました。蛸足の人魚は、あまりのことに面食らいましたが、シャコガイの取りなしによって、互いに落ち着くことができました。
「ほら中身五歳児くん、鼻をおかみ」
「誰が五歳児だ俺は……あー……俺は……!」
「うん」
「あー…………」
「うん」
「……」
ロナルド王子は、ドラルクと名乗った人魚をお嫁にしたいと思いました。月明かりの下で改めて見た人魚は、つやつやとした足をうねらせ、眠そうな瞼の下に小さな瞳が輝いているのが美しく、口元にいたずらっぽい微笑みを浮かべているのが、とてもかわいく見えました。首も、腕も、胴も細く、ロナルド王子は、思わずドキドキしてしまいました。
しかし、プロポーズの言葉も、跪いて差し出す指輪や花も、用意してありません。こっそり上着の中を探ると、食べかけのチョコレートが出てきました。
「…………蛸ってチョコ好き?」
「食べない」
「エエーン……」
ドラルクの方では、目の前の美しい男に惚れ惚れとしておりました。立派な体躯に、夜でもきらめく銀色の髪、同じ色の長いまつ毛に縁取られた下で、昼間の海のような青い瞳が、水面のようにゆらゆらしています。すっきりとした鼻筋や、分厚い唇は、人魚の間では珍しいものです。先ほどから、もじもじと擦り合わさっている大きな手のひらは、きっと人魚の自分よりもずいぶん熱いのだろうと思いました。そして何より、立派な男が、真っ赤な顔をして泣きそうになっているのが、大変愉快でした。
「ンフ……ところで君、ずいぶん焦っていたようだけれど、どうしたんだい?」
「ンエッオア……その……お、お前を……いや、人魚を探してて……」
「人魚? もしかして君を助けてくれた?」
「アッ……そう、うん、俺を介抱してくれた……」
「ふーん。なあに、その人魚に惚れでもしたの?」
「ほ!? ホホッッホホー!? ッッッポウ!!」
「ジャクソン?」
ロナルド王子は、恋心を相手に知られたと思って、膝を抱えて座ったまま飛び上がりました。人魚のドラルクは、反対に、急に王子に興味を失くしました。人間が美しい人魚に心を奪われて身を滅ぼすのは、当たり前のことだからです。王子を助けたヒナイチという人魚は、まだ幼い人魚でしたが、海中に広がる真っ赤な髪と、大きくてくりくりした目が愛らしい、かわいい人魚でした。
「ヒナイチくんなら、しばらく北の海にいるよ。海獣狩りに誘われたからね。かわいらしい見た目だが、あれで最強の戦士なんだ」
「へ、へえ……」
「……? 何、がっかりした?」
「え、なんで……?」
王子は、ヒナイチのことはよく覚えていませんでした。砂浜で目を覚ます直前に、激しく胸を殴られたことは覚えていますが、あれが人魚の仕業だったことは知りません。
目当ての人魚にも会えないのに、帰ろうとしない王子に、ドラルクはそのうちしびれを切らしました。ちょうど、夜風に当たって、肌も乾いてきたところです。
「君のことはヒナイチくんに伝えておくよ。じゃあね」
「えっ」
ロナルド王子は、ぬるりと岩礁から滑り降りたドラルクの足を、思わず数本まとめて抱きしめました。ここでドラルクを帰すわけにはいきません。この人魚をお嫁にもらうのだと、王子は必死です。引き止められたドラルクは、水面に顔をしたたか打ちつけて、死んでしまいそうになっていました。
「何をするのかねこの若造は!!」
「エーン待って! 帰らないでぇ!」
「なんだなんだ、これ以上何の用事があるんだ」
「うぇ……ぶえぇ……」
「あーもー泣くな泣くな、ほらジョンだよーかわいいねー」
「エヘァ……ジョン……ジョンかわいいねえ……」
シャコガイで王子をあやしますが、王子はドラルクの足を離そうとしません。それどころか、人魚の足をたぐるようにして、自分もざぶざぶと海の中へ入ってきました。朝からお城の者がぴかぴかに磨き上げた靴や、騎士団に所属している誇りでもある、綺麗な飾りのついた剣や、パーティー用の華やかな赤い上着が、どんどん塩水につかるのにも構いません。ドラルクの方は大慌てで、王子を押し返しますが、びくともしません。まるで大きな岩を相手にしているようです。
ついに王子は、人魚のそばまでやってきて、ぴったりとその身を寄せました。腕に抱えたシャコガイごとぐいと抱き寄せられて、ドラルクはあまりの熱さにくらくらします。
(人間って、こんなに熱いものだったかしらん)
ドラルクは急に恐ろしくなりました。澄んだ青い瞳に覗き込まれると、自分の形が分からなくなりそうです。目の前の人間が、なんだか知らない生き物のように見えてきました。
「おっ俺は、お前が、好きだ」
「え、あ、私?」
「だから、およ、およよよ」
「泣いてる?」
「泣きそう!! お嫁さんになってください!!」
「ええ……」
人魚は困惑しました。この美しい男は、人魚の審美眼にかなう、たいへん良い見目をしておりましたし、言い出すこともとんちきで、しばらく飽きそうにもありません。けれども、ドラルクは先ほどの恐ろしさを思い出しました。この男に着いていくのは、きっと勇気がいるのだと、頭の芯がびりびりと警鐘を鳴らします。
「……簡単に言ってくれるじゃないか」
ドラルクは、ことさらに力を抜いて、王子の腕から抜け出しました。ひとつ、王子を試してやろうと思いました。
「私を欲すると言うのならば、そうだな……『海龍の赤き涙』を持っておいで」
「海龍の赤き涙……?」
「持ってきたら、君のお嫁さんにでも何にでもなってあげよう」
ロナルド王子は、ぴょんと飛び上がりました。「海龍の赤き涙」が何かは分かりませんが、それを渡せば人魚は結婚してくれると言うのです。
「言ったぜ! 約束だからな!?」
「君が手に入れられたらの話だ。人魚は約束を決して破らない」
ざばざばと砂浜に上がったロナルド王子は、もう一度大きな声で「本当だからな!」と言い、踵を巡らせて駆けて行きました。残されたドラルクに向かって、シャコガイのジョンが心配そうに呼びかけます。人魚は、人間よりもずっと遠くまで見える目で、王子の姿が小さくなっていくのをじっと見つめていました。