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    1月8日インテサンプルディスコ・キッド(再録)

     その子どもを見た時、ロナルドは長身の吸血鬼の言う「来年からよろしくね」という言葉が自分に向けられていることに気が付かなかった。隣に越してきた家族の一人息子、吸血鬼の父と人間の母の子であるというダンピールの子どもは、ロナルドの胸あたりまでしか身長がなく、ひょろりと痩せている。子どもは大柄な父親の脚にしがみつくようにしてこちらを窺っていたが、くりくりと大きな目でロナルドの頭から爪先までをじっくりと見回し、やがてぽつりと呟いた。
    「……うわあ、絵に描いたようなアホ面」
     思わず玄関先で掴みかかりそうになった件について、ロナルドはいまだに自分のせいじゃないと思っている。

     親代わりの兄と小学生の妹、そしてロナルドの三人で暮らす家の隣に新しい家族が引っ越してきたのは、三月の中旬のことだった。転勤に伴う引っ越しにしては早いにゃあ、と兄が焼きそばを炒めながら呟いたのを覚えている。家を建てたはいいが下等吸血鬼が湧いたとかで、三年もしないうちに手放された、おしゃれなデザインの家だ。家を管理する不動産会社が吸血鬼退治を依頼する金をケチったせいか、あっという間に下等吸血鬼の巣になってしまった。ロナルドは何度か兄のヒヨシに「退治しないの?」と尋ねたが、ヒヨシは難しそうな顔をして首を振った。
    「庭に出てくる程度なら毎日退治しとるが、家の中までは入れんのじゃ」
     実際、ヒヨシは新横浜近辺では名の知れた吸血鬼退治人で、依頼でなくともこれくらいは退治したらいいのにという近所の目もあった。ヒヨシも事態が悪化する前にと不動産会社に連絡を取ったが、そのころ退治人はまだまだアウトローのイメージが強く、ヒヨシがあまりに若かったせいもあってか、すげなく断られてしまった。
     とはいえ、このまま放置しておいては、老人や子どもが吸血被害に遭わないとも限らない。近隣住民同士が費用を出し合って退治を依頼しませんかと誘いかける回覧板が回ってきたこともあったが、実害が出たわけでもないので、そのまま話は流れてしまったらしい。
     ヒヨシは幼い弟妹に、そんな曰く付きの隣家には近寄るな、ときつく言いつけていたが、ロナルドはしばしば兄の目をかいくぐって隣家の生垣を越え、妹のヒマリと共に下等吸血鬼の観察に勤しんでいた。
     下等吸血鬼は、生き物としてはどれも曖昧な形をしていた。ぶよぶよと腹ばかりの大きいものや、多足で素早く動くくせに、体の方向転換ができず壁にぶつかって絶命するもの、目玉の代わりに発達した口を左右に動かして辺りの状況を把握しているらしいもの。
     いつかは敬愛する兄のように吸血鬼退治人になるのだと決意していたロナルドは、この程度なら自分でも対処できそうだと、こっそり退治を試みたことがあった。結局ヒマリがヒヨシに告げ口をしたせいでこっぴどく叱られたので、それ以来ロナルドは荒れた生垣の隙間からこっそり様子を窺う程度に留めている。大好きな兄に本気で叱られ「言うことを聞かにゃあ子はウチにいらん」とまで言われたのは、幼いロナルドの心に深い傷となって残ったらしい。
     ロナルドにとって吸血鬼とは、つまりその程度でしかなかった。
     だから隣に引っ越してきたのが吸血鬼の一家だと聞いて、文字通り飛び上がるほど驚いた。吸血鬼にもランクがあり、高等吸血鬼ともなれば人間と同じように文化を持っている、というのは知識としては知っていたものの、実際に触れる機会はそうなかった。新横浜は吸血鬼の多い町と言われるが、当然その姿を見せるのは夜になってからだ。小学生が自由に遊びまわっているような時間に出歩いているはずもない。
     しかも自分やヒマリと歳の近い子どもがいるらしいと聞いて、ロナルドの小さな胸は期待と不安でいっぱいになった。吸血鬼の友達とは、なんともドラマティックな響きではないか。

    「ヘイヘーイ! ロナルド君おはよ! 早くしないと遅刻しちゃうぞっ」
    「うっっっせえな今何時だと思ってんだよ! 朝の五時だわ」
    「ロナルド君こそ入学式何時からだと思ってるの? 八時には学校ついてないといけないんだから、早くしないと近道探して迷ってる時間がなくなっちゃう!」
    「お前は一人で延々迷ってろ馬鹿ダンピ!」
     勝手に家に上がり込んでロナルドの部屋に突撃し(ヒヨシは笑って許可した、身内以外にはシャイな弟に友達ができたのは喜ばしいことである)、布団で丸まるロナルドの上でクロールを披露するのは、先日越してきた小柄なダンピール、ドラルクだ。引っ越しの挨拶で掴みかかりかけたロナルドを、なぜかドラルクはたいそう気に入ったらしく、次の日から「つくし採りに行こルド君!」と積極的に遊びに誘うようになった。今日も一緒に入学式へ行くつもりでロナルドを起こしにきた。
     遊びに誘われる側のロナルドは、この数週間、ドラルクのいいように振り回されてきた。つくしを採りに行こうと誘われた先で川に落ちかけたドラルクを庇ってずぶ濡れになり、コンビニへ着いてきて欲しいと言われて着いていけば綺麗な花が咲いていたと目の前で人の家の庭に平気で侵入され、思わず連れ帰ろうとしたところを家主に見つかって怒鳴られた。お詫びにクッキー焼いてきたよ! と差し出された美味しそうな手作りクッキーには大嫌いなセロリが仕込まれていて、何も疑わず口いっぱいに頬張ったロナルドは号泣しながら何度も口をすすぐ羽目になった。
     ここまでされると、ロナルドとしてもドラルクに遠慮なんかしていられない。初めの方こそ、生来虚弱で学校生活に耐えられず、学校に行くこと事態が初めてなのだと不安そうにするドラルクを支えてやらねば、という使命感を持って、なるべく遊びにも付き合ってやるようにしていたが、祖父譲りの享楽家だというドラルクにすぐ音を上げてしまった。何しろドラルクは楽しいことが何より大好きで、危険や他人にかける迷惑なんかは微塵も気にしない。ロナルドは密かに、自分が小さい頃の兄もこんな気持ちだったのかもしれないと思うようになっていた。
    「寝坊助ルド君早く起きて! 私の畏怖い学生服姿みたいでしょ!」
    「んなもん見なくても、ダボッダボで服に着られまくってるの想像できるわ」
    「ざんねーん、標準の制服じゃどう頑張っても私の体格に合わないのでフルオーダーでーす」
     ドラルクは寝起きでぼんやりしているロナルドの手から布団を奪うと、一気に剥ぎ取ってしまった。その上「さあさあ朝一番の空気をこのシケた部屋にも取り込んであげないと!」と窓を全開にするので、ロナルドは思わずベッドの上で手足を縮こませる。
    「ほらダンゴムシ、ヒヨシさんと一緒に朝ごはん食べようよ。もう起きてて、シャワーだけ浴びてくるってさ」
    「……お前、なんでそんなに俺ん家に溶け込んでるんだよ……」
    「私がかわいいからに決まってるだろ」
     ゼロかイチでいうと限りなくゼロに近い力でぐいぐい押され、ロナルドは寝巻きのまま部屋を出て、リビングの椅子に座った。台所ではすでに小鍋がコンロにかけられている。
     ここのところ、ロナルドの家の台所に立つのがヒヨシだけではなくなってきていた。ちゃっかり自分のエプロンまで持参して堂々と朝食を振る舞うドラルクの姿に、ロナルドは苦い気持ちになっていた。しかも作る料理の美味いのがいけない。兄弟そろってヒョロガリの子どもに胃袋を掴まれるとは何事か……。そんなことを考えながら、ドラルクが家で焼いてきたばかりなのだというクロワッサンを一口頬張る。相変わらず、目が覚めるほど美味しかった。
    「あ、ヒマリちゃんもおはよう」
    「……はよ」
    「ちゃんと着替えてきてえらいね! そこのパジャマゴリラとは違うなあ」
    「誰がパジャマゴリラだ、制服で食ったら汚すに決まってんだろ!」
    「そうじゃが、おみゃあはもう中学生じゃろ……」
     ヒヨシは呆れたように笑って、これまたドラルクの淹れたコーヒーを一口すすった。昨晩も遅くまで退治で出ていたが、今日は何といっても弟の晴れ舞台だ、疲れた顔など見せられない。小学校の卒業式には間に合わなかった分、入学式では写真をたくさん撮ってやらなければ。
    「あっヒヨシさん洗い物だけお願いしていいですか? 私そろそろ戻らないと」
    「むしろ洗い物だけでもさせてくれ。朝から何かあるんか?」
    「いえね、お父様が呼んだ写真屋さんがそろそろ着くので」
    「写真屋!?」
    「中学校の入学式に臨む私の制服姿だぞ? 写真どころか絵画にするべきだろ」
    「一々規模がでけえわ……なんでこんなとこに引っ越してきたんだよ……」
    「ダンピールだの吸血鬼だのの制度が一番整ってたのが新横浜だったらしいぞ」
     ドラルクはロナルドが食べ終わった皿をひょいと片付けてエプロンを外し、部屋からまだハンガーにかかったままのロナルドの学生服を持ち出してきた。
    「そういうわけでロナルド君、早くそのダッサいパジャマを脱いで着替えてきたまえ。芸術的な寝癖はドラちゃんがどうにかしてやろう」
    「あ? なんでだよ、まだまだ時間あんじゃねえか」
    「何言ってんの、一緒に写真撮るだろ?」
    「ええんか? おみゃあのために呼んだんじゃろ」
    「いいに決まってるでしょ! お父様も喜びますって」
     ヒヨシも玄関先でロナルドの写真を撮ってやるつもりでいたし、ドラルクとの一枚も撮ってやりたかった。最近のスマートフォンは画質も良いが、流石にプロのカメラマンの腕には及ばない。ついでとはいえ、ロナルドの写真も撮ってもらえるのならありがたかった。
     当事者の一人であるロナルドは事態に置いてけぼりのまま、ヒヨシとドラルクに急かされて慌てて洗面所へ追いやられた。無理やり直した寝癖は玄関から出たところでドラルクにダメ出しをされ、結局二度も洗面所へ押し込められることとなった。ようやく写真を撮る段撮りができたころにはすっかり朝日が昇っていて、吸血鬼であるドラウスは息子のために必死で朝日を我慢した。
    「では並んでくださいね、えーと……場所はそこでよろしいですか」
    「ああ、ちょうど家と家の真ん中で」
    「ドラ公、お前もうちょっとそっち行けよ、なんか狭い」
    「はあー? それ以上こっちくんなゴリラ、無駄にデカい体が腹立つ」
    「ドラルク、やっぱりパパが抱っこしようか? 新しい靴が汚れるの嫌じゃない?」
    「いやいやドラウスさん、いくらかわいくても中学生はね、抱っこしてやったらかわいそうじゃよ……」
    「……あっ」
    「ん? なんかあったかヒマリ?」
     では撮りますね、とカメラマンが構えた瞬間、ヒマリがしゃがみ込んだ。すでにカメラを向けられていた状態だったから、ロナルドは慌てて起こそうとする。
    「そちらのお嬢さん大丈夫ですか? とりあえず一枚撮りますよー」
    「あっほらヒマリ、写真撮るって、前向いて!」
    「ヒマリちゃん何見つけたの? 面白いものなら私にも見せて!」
    「はーい、サン、ニ、イチ……」
    「……ん、毛虫」
     ロナルドとドラルクの中学校入学式記念の一枚目には、脅威のジャンプ力で軽くヒヨシの身長を越えたロナルドと、直立不動で失神して白眼をむいたドラルクが収められた。

     入学早々、ロナルドは困っていた。廊下を歩いていても、教室で弁当を食べようとしても、トイレに行くために席を立っても、とにかく何をしようにも人に話しかけられるのだ。
     そうなるのも無理はないほどに、ロナルドは華やかな見た目をしていた。兄弟お揃いの銀色の髪に、広い空を思わせる青い瞳。髪色よりも少し濃い色の、豊かなまつ毛がその瞳を囲っているので、目力がある。輪郭や体の線はまだ細いが、厚めの唇や形の良い鼻は男性的な印象を与える。よく似た顔立ちのヒヨシは端正な顔を自覚した振る舞いができていたが、なぜかロナルドは違うらしい。
     小学生の時は、一部のませた少女たちに話しかけられるだけだった。だからロナルドもある程度の対応ができていた。少なくとも今のように、何と返事をしていいのか分からず黙りこくることはなかった。ところが、中学生ともなると異性との関わりを強く意識するようになる。彼女や彼氏がいることが、少年少女にとって一種のステータスとなる。女子生徒が格好良い男子生徒に積極的に話しかけたがるのも、男子生徒がかわいい女子生徒に声をかけたがるのも、自然の話だ。何せ、中学校生活の三年間のうち、決して短くはない時間を学校内で過ごすのだから、イケてる彼氏彼女や友人を作ること、少なくともその子たちと同じグループに所属することは、中学生にとって勉強よりも大切なことだった。
     ロナルドはその点、多くの男子生徒と同じく自覚が薄かった。入学式が終わったと思えば、あっという間に似たような性格、見た目のグループを形成する女子についていけずにいた。小学生の時よりもずっと「同級生」の人数が増え、友達も増えると思っていたのに、蓋を開けてみれば戸惑うことばかりだ。先週までズボンを履いて、自分達と一緒にキックベースをしていた女の子が、今はプリーツスカートのウエストを二回折って、短くした裾を揺らしながらコスメの話に花を咲かせている。そうして、周りの女子生徒と一緒になって、ロナルドにちらちらと意味ありげな視線を寄越してくるのだ。
     お前、そんなんじゃなかったじゃん。俺らそうじゃなかったじゃん。ロナルドは何度も思った。
    「ねえねえ、ロナルド君ってさ、お兄さんが退治人してるって本当?」
    「え、あ……うん……」
     きゃあ、と女子生徒たちが歓声を上げた。ロナルドは今から職員室に地毛申請の用紙を提出して、そのまま帰宅するところだった。
    「退治人ってことは運動神経いいんだ?」
    「あ、うん。兄貴はすっげえよ」
    「ロナルド君は? 運動できるの?」
    「めちゃくちゃ運動神経よさそう!」
    「あ、そこそこ……た、体育は好き」
    「ていうか、ロナルド君ってほんとイケメンだよね」
    「ヌノンボーイとか応募しないの?」
    「え、あ……えと……」
    「こんだけイケメンで運動もできるんなら、ジャヌーズ入れそう」
    「何部に入るの? もう決めた?」
    「サッカーとか似合いそうだよね」
    「分かる! サッカーやってそう」
    「バスケは? 背伸びるらしいし。私マネージャーで入りたいんだ」
    「えー、やだぁ!」
     何が嫌なのだろうか、とロナルドは頑張って考えた。俺がバスケ部に入るのが嫌なんだろうか。じゃあ野球とか、テニスとか、何なら園芸部でいい。しかし悩むロナルドを囲い込んだまま、女子の話は目まぐるしく展開していく。いつの間に仕入れたのか、上級生の噂にまで話題が広がっていた。
     サッカー部の先輩は茶色い髪を地毛だと言っているが、あれは染めたらしい。テニス部で一番かわいいという先輩は大学生と付き合っているとか。しかも告白された方だという。「えー、やだぁ!」とまた歓声が上がった。ロナルドは最早この場に自分がいる意味はないだろうと気付いていたが、教室を出るタイミングを完全に見失っていた。先生でも誰でもいいから、俺を解放してくれ。
     その時、半分泣きそうになっていたロナルドの袖を後ろから引く者がいた。
    「ロナルド君っかーえろ!」
    「あっもしかしてドラちゃん?」
    「はーい! 私が畏怖かわダンピールのドラちゃんでーす! 君は何組の子?」
    「私とこっちは一組!」
    「私だけ二組なんだぁ」
    「そうなんですね! あっ私これで全クラスに友達できちゃった」
    「えー、ドラちゃんすごーい」
    「めちゃくちゃ陽キャじゃん!」
     女子生徒の話題はあっという間にドラルクに移った。新横浜は吸血鬼もダンピールも普通に歩いている町ではあるが、一家揃って海外から引っ越してきたばかりで、ドラルク本人はルーマニアと日本のダブルともなれば、なかなか珍しい。吸血鬼の生態はどうなのか、ドラルク自身は日光に強いのか、ルーマニアと日本の生活は違うのか、日本語はどれだけできるのか。矢継ぎ早に飛んでくる質問にドラルクは快く答えていたが、ふと教室の時計を見上げて「あっ!」と大きな声を上げた。
    「今日、お母様帰ってくるんだった! ほらほら早く帰ろルド君」
    「は、はあ? いや俺、職員室寄らないと」
    「じゃあ着いてってあげるからさっさと行こ、じゃーねみんな〜」
    「バイバーイ」
     ドラルクは当然のように自分の鞄をロナルドに持たせて、さっさと教室を出て行く。ロナルドもぎこちなく頭を下げて、急いでその後ろ姿を追った。案の定、ドラルクは職員室ではなく図書室へ行こうとしていた。
    「おいこらクソダンピ! 職員室二階だろが、図書室行くんじゃねえ!」
    「げっゴリラにしては気付くのが早い。先に職員室行っててよ、多分すぐに用事済むから」
     ドラルクは一瞬振り向いたが、すぐに階段を登って行ってしまった。残されたロナルドは、仕方なく自分の用事を先に済ませることにした。
     用紙を提出し終えてもドラルクが帰ってくる気配はない。まあそうだろうな、とロナルドは二人分の鞄を左右それぞれの肩に担いで階段を登った。ドラルクの鞄は随分軽い。作りの良いスクールバッグに軽く触れれば、小銭入れと筆箱しか入っていなかった。教科書とノートの置き勉は禁止だって言われてたのに、あいつ絶対守ってねえんだろうな。昨年家庭科の授業で作ったナップサックをパンパンにしている自分とは大違いだ。
    「……お、お邪魔します?」
     ロナルドが学校案内でしか入ったことのない図書室は、思っていた通りほとんど人がいなかった。小学校の明るい図書室と違い、中学校の図書室は背の高い本棚が壁一面に並んでいる。色とりどりの背表紙の前にたたずむドラルクの背中は、そのせいで余計に小さく見えた。
     カウンターに司書の姿がないことを確認して、ロナルドはそっと小さな背中に近づいた。上から手元を覗き込むが、縦書きで小さな文字が並んでいるなあ、ということしか分からない。
    「……覗き見はジェントル違反だよ、ロナルド君」
    「図書室で喋るのはマナー違反だわ。早よ帰るぞ」
    「んー……」
    「おい返事しながらページめくってんじゃねえよ、借りるなら借りてこい」
    「んんー……」
    「あっまためくっ……読むの早いなお前、読んでる?」
    「やーっぱこれ、読んだことあるやつだな」
     ドラルクはそう言うと、パタンと本を閉じて目の前の隙間に戻した。
    「……用事ってそれ?」
    「んー、読んだことない本でもあるかなあって思ったんだけど、パッと見つからなかった」
    「お前、ここにある本全部読んだことあんのかよ……!?」
    「全部ではないだろうけど、文学系なら多分……言ったでしょう、私学校行ってなかったって。お父様がせめて学校に行ってる気分になれるようにって、どっかの学校図書館の本を片っ端から借りてきたんだよ」
     新刊入ってくるのいつかな? とふらふら掲示板へ向かうドラルクの背中を、ロナルドは思わず見送ってしまったが、両肩の重みを思い出してはっとする。同時に、着いてきてくれると言ったのに結局一人で職員室へ行ったのを思い出して、またドラルクに振り回されたことにむかっ腹が立ってきた。ロナルドは衝動のまま、ほぼ空っぽの鞄をドラルクの後頭部にぶつけた。ドラルクが思いのほか大きな悲鳴をあげたので、二人はそろってカウンターの奥にいた司書に説教をくらってしまった。
     帰り道の途中、ロナルドはふとドラルクに助けられたことを思い出した。今更礼を言うのは違う気がして、けれども何か言及しなければ気が済まない。ロナルドはしばらく口の中で唸っていたが、やがて観念してドラルクに向き直った。
    「な、なあお前、今日よかったのかよ」
    「は? 主語を抜いて話すな」
    「察しろバーカ! クラスで女の子たちと、なんか楽しそうに喋ってたじゃん! よかったんかよ」
    「よかったも何も、君帰りたかったんだろ」
     きょとんとした顔を向けられて絶句する。空気の読めないアホダンピ、と思っていたが、ドラルクは女子生徒に囲まれて窮するロナルドの状況を、きちんと把握していた。
    「ははーん? 助けられた気がして私にお礼をしなきゃと思ったはいいけど、見つめ合うと素直におしゃべりできないルド君だな?」
    「うっせーな!」
    「気にしないでよ、どうせ教科書一人で持って帰れる気しなかったし!」
    「は? 教科書……げっテメーいつの間に!」
    「君が女子に囲まれてアバババってなってるときでーす、やーいアホアホー」
     妙にぎちぎちになっていると思ったら、ロナルドのナップサックにはドラルクの教科書類がぎゅうぎゅうと詰め込まれていた。スクールバッグが軽いはずだ。
     ロナルドが顔を上げたとき、ドラルクはすでに数メートル先へ走っていた。手ぶらのドラルクは逃げ足ばかりが速い。ロナルドは鞄の中身を道路にぶちまけてやろうかとも考えたが、立ち止まってニヤニヤとこちらを見てくるドラルクに毒気が抜かれた。よく言えば無邪気、ありのままに言えば自己中心的な言動が目立つドラルクだが、一応ロナルドを気遣う程度の心はあるらしい。仕方なく、今日助けられた件でおあいこにすることにした。

     入学式の翌々週からは、ついに授業や部活動が始まる。ロナルドは結局どの部活に入るのかを決められず、体験入部期間を利用して決めることにした。すでに帰り道や昼休みに各部活から声をかけられていて、顔まで覚えられているようなので、一通り顔を出して義理だけでも果たすつもりでいた。中学一年生にして一七〇センチ近くある身長は、特に運動部においては大きな武器になる。ロナルドは運動神経も良い方であったから、その顔立ちと合わせて校内の有名人になっていたのに、本人だけがそれを知らなかった。
     小学校のマラソン大会やドッヂボール大会での活躍とは裏腹に、合唱コンクールや音楽発表会、写生大会ではことごとく足を引っ張っていたロナルドは、文化部への入部など念頭にない。演劇部からは熱心な勧誘があったが、ロナルドは女子の先輩に囲まれてへどもどしながらも、その誘いを断った。自分が舞台に立つなどありえない。
     家に帰ってヒヨシにその話をすると、ヒヨシは残念そうな顔をした。
    「なーんじゃ、もしかするとスカウトとか来るかもしれんぞ?」
    「俺がぁ? 無理無理無理、人前に立つとかマジで……てそういや兄貴は、部活何やってたの」
    「俺は、身長伸びる言うてバスケ部じゃった。……伸びんかったけど」
    「い、いや、兄貴はこれからだって! 絶対二メートルくらいになるから!」
    「……無」
    「無理じゃねえよヒマリ、だって兄貴なんだから、第三形態まであるに決まってんだろ」
    「ハハ、ハ……第三形態はなぁ……」
    「なっ兄貴! いつか見せてくれるよな!?」
    「ウン……まあ……そのうち、な……!」
     ダラダラと冷や汗を流すヒヨシに気付く様子もなく、ロナルドの思考は再び部活動選びに向いていった。どうしようかなあ、などと頭で考えるふりをしても、心は兄と同じバスケットボール部に傾いている。明日はまずサッカー部に顔を出して、野球部とテニス部にも顔を出して、水泳部は通りざまに様子を覗いて体育館に……。
     ロナルドは具体的にバスケットボールをする自分を思い描いてみた。ドリブルをしながら相手を次々抜き去り、スマートにレイアップシュートを決める……先輩を応援している自分。体育館の床をきゅっきゅと鳴らしてステップを踏み、フェイントを仕掛ける……先輩のこぼれ球を拾いに体育館の隅を駆け回る自分。ロナルドは、床にモップをかけたりタイマーを用意したりする自分は想像できても、プレーをする自分が想像できなかった。
     ふとロナルドの思考は、バスケットボールの道具の方へ及んだ。どの運動部に入るにしても、例え文化部であっても、入部して活動するには何かしらの道具がいるだろう。バスケットボールならば、シューズやボールだろうか。
    「なあ兄貴、兄貴がバスケ部で使ってたシューズとか残ってる?」
    「バッシュか? うーん、残っとったかなあ……どっちにせよおみゃあは履けんじゃろ」
     ロナルドの身長はとっくに兄を追い越していた。靴のサイズも当然ロナルドの方が大きい。ヒヨシの言はそれを指しているのだとは分かっていたが、ロナルドは憧れの兄を追いかける邪魔をされたようで気分が沈んだ。
     バッシュ買うなら試し履きせえよ、とヒヨシは他人事なのに嬉しそうに言う。いっそ盲目的なまでに自分を尊敬する弟が心配ではあるが、中学生になってもこれではかわいくて仕方がない。こいつに反抗期が来たら泣くかもしれん。
    「ミ」
    「ん? ああ、ヒマリもミニバスのクラブ入りたいって言ってたな」
    「そうじゃったな、じゃあ今度スポーツ店でも見に行くか。……二人分なあ、まあ春だで」
    「あ……」
     ヒヨシの最後の方の言葉は本当に小さく呟いただけだったが、ロナルドの耳はしっかりとそれを拾ってしまった。シューズでもボールでも、お下がりが使えないのならば新しく購入しなければいけない。家計を憂うヒヨシを思えば、新しく物が欲しいとは言いたくなかった。
    「……体育館シューズでいいんじゃねえの」
    「あんなん全然踏ん張りが効かんぞ、怪我するし、シューズはちゃんといいの買っとけ」
    「じゃあヒマリのだけでいい」
    「あのなあ、何のために俺が稼いどると思っとるんじゃ」
     茶碗を重ねたヒヨシが、立ち上がりざまにロナルドの頭を乱暴にかき混ぜた。
    「子どもが大人の顔色窺って、やりたいことを我慢するもんじゃにゃあよ」
    「……でも」
    「別にバスケ部じゃなくてもええよ、好きなことをやりゃあ」
     ヒヨシはシンクに食器をつけて、退治人レッド・バレットのトレードマークでもある真っ赤なマントを羽織った。今から夜のパトロールに出て、そのままギルドに顔を出してくるつもりだ。
    「ロナルド、ヒマリ、いつも通り戸締りだけしっかりな」
    「り」
    「うん、気をつけてな兄貴」
     ロナルドはヒマリが風呂に入っている間に宿題でも済ませようかと勉強道具を取り出して、五分で諦め、スマートフォンを触っていた。毎日RINEを教えてくれと女子に迫られるが、学校内でスマートフォンを操作する訳にもいかず、学校を出てからなら……と返す。ところが放課後はドラルクに引っ張り回されてばかりだから、中学生になってから新しく連絡先を交換できたのは、今のところドラルクだけだった。
     突然そのドラルクからRINEがきた。セロリ動画なら明日は一緒に学校へ行ってやらねえぞ、と思いながら開くと、「外出ておいで」と簡潔なメッセージが目に飛び込んでくる。簡潔すぎて何を企んでいるのかも分からない。恐らくすでに外にいるであろうドラルクは、放っておくと次に何をしでかすかわかったものではないし、まだ夜は肌寒い春だから風邪をひく可能性もある。ロナルドは少しだけ迷ったが、すぐにスマートフォンをジャージのポケットに突っ込んで立ち上がる。浴室のヒマリに声をかけて、家の鍵をしっかりと握って玄関から外へ出た。ドラルクはロナルドの家の門扉にぶら下がるようにしていた。
    「遅いぞ! ドラちゃんが呼んだら三秒で出てきたまえ」
    「何様だてめえ」
    「私だがー?」
     ドラルクは手に提げていたビニール袋をがさがさとあさり、何かを取り出した。手持ち花火のセットだった。
    「いえーい、花火やろルド君!」
    「花火って……なんでだよ」
    「私がやりたいって思ったから。ロナルド君にはうちわも貸してあげる、それで煙が私の方に来ないようしっかりあおいでね」
    「お前、絶対そのためだけに俺を呼んだだろ」
    「もし私が煙吸い込んだら一瞬で気管支やられて長期入院コースだから、責任もってね!」
    「待て待て待ておま、お前そういうマジの」
    「だいじょーぶ、君には暗くて見えにくいかもだけど、二階の窓からお父様がずっと見守ってくれてるし」
    「ヒッ」
     ロナルドが振り返った先には、暗がりで光る一対の赤い目があった。爛々と輝いているというよりは、水面に映った月のように不規則に揺らいでいる。ロナルドにはその目が「ドラルク、パパならうちわなんか使わずとも煙が発生する前に吹き飛ばしてあげるよ!」と訴えているように見えた。
    「ロナルド君バケツに水入れてきてよ、ついでに蝋燭つけてー」
    「お前いつの間に……子どもがライターなんか使っちゃいけねえんだぞ」
    「中学生が何言ってんだ、まだお子ちゃま気分?」
     ドラルクが挑戦的な目を向ける。わかりやすく挑発されて、それに乗らないロナルドではない。「どうせライターつける力なかったんだろ」と軽口を叩くと、図星だったドラルクが唇を尖らせた。
     住宅街の生活道路で、夏でもないのに手持ち花火に興じる子どもが二人。折り畳みの椅子に座ってにこにこと手持ち花火を振り回すドラルクの背後で、ロナルドは懸命にうちわをあおぐ。時折渡される、すでに火のついた手持ち花火が、ドラルクの艶やかな黒髪を赤や白に染めるのを見ていた。
    「……ご近所様に見られたら、兄貴に怒られるかもなあ」
    「なんで?」
    「なんでって、夏でもねえのに花火なんかして騒いで……」
    「夏じゃないと、花火しちゃいけないの?」
     振り返ったドラルクに見上げられて、ロナルドが言葉に詰まる。
    「しちゃいけねえってわけじゃねえけど……でも季節じゃないし」
    「なんで? 私がやりたいからやっただけなのに。私の気持ちに、季節なんか関係ないじゃないか」
    「そうだけどさ」
    「やりたいことは、やりたいうちにやっとかないと」
     ドラルクは再び視線を手元で爆ぜる花火に戻した。勢いよく吹き出す火花と目に染みる煙は、ロナルドにとってはまさに夏の風物詩だ。けれどもドラルクにはどうだろう。生まれつき虚弱体質のドラルクは、やりたい気持ちとは裏腹に行動を制限されることが多かったのではないか。やりたいことは、やりたいうちにという言葉は、いつ生活に制限がかかるか分からないドラルクの生き様そのものかもしれない。
     グリースで綺麗に撫でつけられた前髪のせいで、ドラルクのつむじは見えない。ロナルドが何とはなしに猫の耳のように尖った癖毛を掴むと、ドラルクの悲鳴が夜の住宅街にこだました。ロナルドの家からはヒマリが、ドラルクの家の窓からはドラウスが飛び出してきた。

     週明け、いよいよ部活動の体験入部期間が始まった。兄と同じくバスケットボール部に入るとて、シューズやボール、練習着をどうするかといった問題を片付けられないままでいたロナルドは、ホームルームが終わってものろのろと帰り支度をしていた。教室ではそこかしこで「お前どこ行くの?」「俺もバスケ」「サッカー? 俺も!」というやり取りがされている。ロナルドは体操服をナップサックの一番奥に押し込めた。
    「ロナルド、お前どっか見に行く?」
    「あ、えっと、俺は……」
     なおもうだうだと帰り支度を長引かせていると、小学校からの付き合いである友人に声をかけられた。体育館シューズを提げているということは、バレー部かバスケットボール部に用事があるのだろう。大人数で行くのであれば、自分一人くらいは紛れてしまうかもしれない。その方が都合がいいと考えて一歩踏み出そうとした背に、覚えのある軽さが飛びついてきた。危うくバランスを崩しかけたロナルドは、振り向きざまにその頭に拳骨をくらわせる。
    「いっっったい! 何すんだこの暴力ゴリラ!」
    「そりゃこっちの台詞だ! 危ねえじゃねえか!」
    「んもう、せっかくドラちゃんが一緒に部活見学行こうって誘ってあげてるのに」
    「知るか、今用件聞いたっつの」
    「……ロナルド、じゃあ俺ら先行っとくな!」
    「え? あ、うん」
     気がつけば友人ら一団はすでに教室を出て行くところだった。置いていかれたロナルドは今更追いかける気にもなれず、いまだに腰にまとわりついているドラルクの背中を小突く。
    「……なんか置いてかれたから、お前に付き合ってやるよ」
    「最初から素直に喜びなよ。言っとくけど私、運動部に入る気はさらさらないからね。疲れるし」
    「お前のスポーツテストの成績ゴミみたいだったもんな。どこ行くんだよ」
    「んー、家庭科部とか? 私ってば天才的に料理が上手いからな。あっでも上手すぎて先輩にいじめられるかも……先輩より私のクッキーが美味しかったらかわいそうだし……どう思う?」
    「妄想がたくましい」
     二人は駄弁りながら廊下に出て、特別教室のある別館に移動すべく渡り廊下を目指した。渡り廊下の大きな窓からは、グラウンドで白球を追いかける野球部や、赤いコーンの間を縫うようにして駆け抜けるサッカー部の姿が見える。ロナルドは素直に彼らに感心して、「俺もサッカー上手くなりてえ」と呟いた。ドラルクは振り返りもせず「君はスネ毛濃いから無理だ。ボールがスネ毛に絡まる」と返した。サッカーにスネ毛は関係ねえだろ、とロナルドが言い返そうとした途端、ドラルクがぴたりと立ち止まる。長く尖った耳がピンと張って、わずかに立ち上がった。後ろからそれを見ていたロナルドは、立ち上がって警戒するうさぎのようだと思った。
     ドラルクは、渡り廊下の先から聞こえてきたトランペットの音に耳をそばだてていた。華やかな音が滑らかに音階を上がったり下がったりする。よくよく聞けば、それよりも低いトロンボーンや、サックスの柔らかい音色も聞こえてくる。一つの曲としてではなく、てんでバラバラに聞こえてくる音たちは、活気に満ちていた。吹奏楽部が練習しているらしい。
    「ロナルド君ロナルド君、あれ楽しそう」
    「吹奏楽部だな。お前楽器できんの」
    「知らない、ねえ道場破りしに行こ!」
    「体験入部は道場破りじゃ……うわ、引っ張んなって!」
     ドラルクはロナルドの手を取ってぐんぐん進み出した。本人としては走っているつもりなのかもしれないが、ロナルドには歩幅が狭すぎて早歩きにもならない。
     防音になっている音楽室から漏れ聞こえる音を頼りに廊下の突き当たりまで進み、「あ、ちょ、ドラ公!」というロナルドの叫びを無視したドラルクは、第一音楽室と書かれた扉に手をかけて、勢いよく引き開けた。
    「たのもー! 体験入部一名とゴリラ一匹です!」
    「俺をゴリラでカウントすんじゃねえ!」
     突然現れた小柄なダンピールと、そのダンピールに引っ張られるようにして転がり込んできた体格の良い一年生男子に、吹奏楽部の生徒たちはぽかんと口を開けた。音楽室には他に体験入部の一年生が複数名いる。皆友達と連れ立ってきた女子生徒たちで、間違っても道場破りのように扉を引き開けてはこなかった。
     扉の一番近くにいた部員が最初に立ち直り、先ほどまでと同じよそ行きの微笑みを浮かべた。
    「もしかして、吹奏楽部の見学に来てくれたのかな?」
    「はい、何か音が鳴る楽器がしたいです!」
    「楽器は大抵音が出るんだよ……じゃねえ、あの、俺はその」
    「じゃあそっちの付き添いの子も、よかったら楽器触ってみない?」
    「あっハイ」
     中学生女子の気は移ろいやすい。登場の仕方に驚きはしたものの、ニコニコと楽しそうなドラルクと初心な反応をする美少年のロナルドに、すぐさま歓迎の心が湧いてきた。
    「えっと、ドラルク君は何か楽器やってた?」
    「はい、ピアノなら少し。ゴリラは?」
    「誰がゴリラじゃ……え、いや、ハーモニカとかリコーダーくらいしか……」
    「そうなんだ、じゃあドラルク君は楽譜読めそうだね。二人とも触ってみたい楽器ある?」
    「え、や、俺壊したら……」
    「なんでもやってみたいでーす!」
     積極的なドラルクと、大きな体を縮こめてしどろもどろに返事をするロナルド。吹奏楽部員の女子たちはすぐに、入部するならドラルクの方だろうと思った。ロナルドはいかにも運動が得意な男子といった風で、とてもではないが室内で黙々と練習したり、音楽を嗜んだりするようには見えない。
     まずはこれをと二人に渡されたのはアルトサックスだ。リード楽器はコツが必要だが、吹けば音が鳴り、運指もアルトリコーダーと同じだから、初心者にはとっつきやすい。ロナルドはもちろん、ドラルクも実際にサックスを触るのは初めてだった。目一杯息を吹き込んでも音が鳴らない二人に、先輩部員は「ここをちょっと噛むようにして咥えるといいよ」と言った。
    「噛むんですか?」
    「え、か、噛んでいいんスか?」
    「軽くね、こんなふうに、くっと」
    「んむっ……ふーっ……んんー?」
    「ん……げっ」
     ドラルクは顎の力が弱すぎて、いくら噛んでもリードとマウスピースの間を空気が通り抜けるばかり。反対にロナルドは煎餅を食べるのかという勢いでマウスピースを噛んだため、おろしたてのリードが音を立てて割れてしまった。
     この男子たちに木管楽器は向いていないかもしれない。早々に見切りをつけた部員は、次はこれを、とトランペットを渡した。「見たことある!」と喜ぶドラルクは、トランペットを構えて三十秒で力尽きた。
    「バズィングって言ってね、こうやって唇を振動させて音を出すの」
    「……?」
    「??」
     ドラルクは口元を引き締めるほどの表情筋がなく、ロナルドは緊張のあまり顔面までガチガチになって唇がわなないている。二人ともあまりに筋が悪い。部員たちはこっそりと顔を見合わせた。
    「うーん……じゃあ、パーカッションやってみよう。太鼓とかね」
    「あ、私それ得意です! タンバリン大好き!」
    「そ、それなら俺でも……」
     いそいそとスティックを受け取るロナルドを放って、ドラルクは勝手に打楽器の並ぶスペースをすいすいと置くまで進んでいく。立てかけられていたタンバリンを手に取って、シャンシャンと打ち鳴らした。あまりに楽しそうに叩くものだから、部員たちも和やかな気持ちでそれを見守っていた。
    「あっ楽しいコレ、いいですね! 私これやりたーい!」
    「あ、じゃあドラルク君、試しにメトロノームに合わせて叩いてみてよ」
     試しに叩かせてみると、ドラルクは非常に良いリズム感を持っていることがわかった。連符や裏拍も難なく叩いてみせたので、それまで遠巻きにドラルクらを見守っていた他の部員たちもほっと胸を撫で下ろした。
    「すごい、上手! ドラルク君は、もう入部するって決めてくれたの?」
    「はい、あとあっちのゴリラには大太鼓とか叩かせといてください」
    「えっ俺!?」
     ドラルクが先輩部員たちに囲まれて一人輪の外へと追いやられていたロナルドは、突然の指名に素っ頓狂な声を上げた。
    「いや俺、俺は入部とかはまだ……」
    「入部届出しちゃお〜ロナルド君の分も書いといてあげるね! えーっと保護者のサイン? いらんいらん、はい先輩入部しまーす!」
    「おいコラ、勝手に決め……マジで出すなよ! おい!」
    「明日の練習って何時からですか?」
    「聞けや!!」
     あれよあれよという間にドラルクは二人分の入部届を書き上げ、ロナルドの腕を躱して先輩部員に手渡した。二人のやりとりを面白がった部員が、受け取った用紙を顧問に提出しに、すぐさま音楽室を飛び出す。ドラルクは終始楽しそうにケラケラと笑っていたし、ロナルドは最後まで顔を真っ赤にして焦っていた。
     二人が中学時代の青春を捧げる部活動は、こうしたドタバタ劇のまま決まってしまったのだった。

     完全に流されて吹奏楽部に入部したロナルドであったが、練習には非常に真面目に取り組んだ。ドラルクに入部届を勝手に提出された日は、帰ってからヒヨシにしょぼしょぼと入部の経緯を語ったが、いざ音楽を始めてみればなかなか奥が深い。
     ロナルドは元来努力の少年であった。運動神経や体格などは生まれつき恵まれている部分も大きく、だからこそスポーツ全般は得意であると自負していたが、サッカーのリフティングやバスケットボールのドリブルといった技術面は、地道な反復練習の末にものにしてきた。
     パーカッションを担当することになったロナルドは、初めこそ力の加減を間違えてスティックを折ったり、楽譜が読めずにリズムが間違ったりと苦戦していたが、高い集中力と器用さで周囲以上の努力を続けた結果、二年生時には小学生から楽隊に入っていた先輩と同じくらいにまで打楽器の演奏技術が磨かれた。
     四分休符とト音記号の違いもわからないロナルドを根気強く指導したのは、意外にもドラルクであった。本人の申告通り、本当に楽譜の読めないロナルドを散々揶揄い煽りながらも、ドラルクは決してロナルドを放っておかなかった。
     どの分野であれ基礎練習は大概一人でこなすことができる。吹奏楽部の先輩部員たちも、基本的には新入生に基礎練習の仕方を教え、あとは個人で練習させるという方針をとっていた。集中力が続かずお喋りな一年生たちは、すぐに単調で面白くない練習に飽きて、基礎練習をサボるようになる。「早く曲の練習がしたいのに」と不満すら口にする。真面目な性分の一年生たちは、基礎練習の意味は分からないながらも、先輩に指示された通りのことはせねばならぬと練習を続ける。
     ロナルドはてっきり、ドラルクも飽き性な一年生たちの仲間だと思っていた。お喋りが得意だし、自分がやりたくないことは意地でもやろうとしないし、何より面白いことが好きなのだから、単調な練習など早々に投げ出すだろうと思っていた。その予想に反してドラルクは真面目だった。だからロナルドも、部活動については素直にドラルクに教えを乞うことができた。
     ドラルクは教え上手だった。困り果てて泣きついてくるロナルドを冷やかしはするが、練習しても出来ないことを馬鹿にすることはなかった。ロナルドに付きっきりで楽譜の読み方を教えてやり、スティックの握り方も手首の動かし方も、顧問の指揮の見方も教えてやった。時には早朝や昼休みの自主練習にも付き合ってやったので、いつしか二人は学校で過ごすほとんどの時間を共有していた。

     部活動においては、ややドラルクがリードする形で切磋琢磨してきた二人であったが、勉強面においては顕著に差がある。ロナルドは勉強が不得意であった。初めての英語の中間テスト、ローマ字で名前を書けなかったロナルドを、ドラルクは心置きなく馬鹿にした。
     対してドラルクは勉強ができた。同学年の少年少女たちと比べ、虚弱な体質もあってどうしても読書の量が多かったドラルクは、知識だけではなく思考力も優れている。しかし非常な気分屋で、嫌いな教科はとことん勉強しない。それも「教科書が重い」「あの先生きらーい」などという理由で勉強しないのだ。それでロナルドよりもずっと良い点数を取るから、ロナルドはいつかこいつが勉強でつまずきますように、と切実に祈っていた。祈り虚しく、ドラルクは一年生の学年末テストでは学年最高点を叩き出した。
     部活動には熱心ながら勉強にはむらっ気があり、嫌いな科目はとことん勉強しない気分屋。人様に迷惑をかけることを何とも思わない超鈍感野郎、ついでに音痴、不健康、ガリ、性格悪すぎマジでクズ、アホ。
     ロナルドがドラルクに抱く印象は概ねこのようなものだったし、実際ロナルドへのいたずらは全く遠慮がなかった。他のクラスメイトに振りまく愛想の百分の一でも分けてくれと何度も思った。

     ドラルクは誰かと競うのを嫌がる。「ギスギスするからやだ」と、ドッヂボールも徒競走も真面目に取り組んだことがない。部活動のパート決めも、パートリーダーの先輩が割り振る通りにして、文句を言ったことがなかった。リズム感は抜群だが極端に力が弱く、女子生徒と比べても小柄なドラルクは、バスドラムやマリンバといった大きな楽器を割り当ててもらうことがなかった。代わりに任されるのは、タンバリンやマラカス、トライアングルといった小物ばかり。それでもドラルクはニコニコと笑って、割り当てられた小物の楽器を見事に叩いてみせた。
     ところが二年生の春、ロナルドがドラルクへの認識を改める事件が起きた。
     二人が二年生になってすぐ、その年の課題曲でパーカッション内の楽器割り振りがあった。ロナルドはそこでいきなり先輩に、「ロナルド君、ティンパニやらない?」と言われた。ティンパニといえば、オーケストラや吹奏楽団のパーカッションでは花形楽器だ。ロナルドは、まさか自分が指名されるとは思ってもみなくて、驚きよりも困惑が勝った。
    「え、な、なんで俺? です?」
    「私らの学年人数少ないし、小物の持ち替え多くなるんだよね」
    「ロナルド君はね、体が大きいから、その……まあ、後ろ通りにくいっていうか」
    「邪魔になるから、いっそティンパニのとこから動かないでほしい」
    「エーン理由が理由!!」
     あまりの言い草にロナルドは半泣きになった。もちろん、先輩部員たちも本気でロナルドを邪険にしたわけではない。ロナルドがここ一年でめきめきと腕を磨いてきたのは確かだ。今でも楽譜を読むのに多少時間を要するが、リズム感は良くなってきたし、力があるからどの楽器を叩かせても女子とは違う迫力のあるサウンドになる。今までの吹奏楽部にはなかった、新しい風を吹かせてくれる。それを期待してのパート割りのつもりだった。
    「俺、あの手でシュッて抑えるやつできないです……」
    「大丈夫、練習すればできるようになるし」
    「今年の課題曲、『夜に生きる者たちの黙示録』にしたでしょ。迫力あって重い感じの曲だし、だったらパーカスもうちょっと頑張らないとねって、先生とも話して決めたの」
    「でも……」
    「頑張ろうよロナルド君、分かんなかったら教えるし」
    「ね、他の人もそれでいい?」
     ロナルドは及び腰だが、場の雰囲気は和気藹々としていて、頑張ろうね、などという声が飛び交う。引き受けざるを得ない状況だし、ロナルドも大役を任されることに不安と喜びを覚え始めた、その時だった。
    「私、このパート割り納得できません」
    「えっ」
    「……ドラちゃん?」
     それまで黙ってことの成り行きを見守っていたドラルクが異論を唱えた。きっぱりとした態度に、三年生部員だけでなくロナルドも戸惑う。こんなに強い物言いをするドラルクは初めて見た。
    「ええと……ドラちゃん鍵盤嫌だった?」
    「嫌じゃないです! でも、この曲なら私はティンパニをやりたい」
    「……ロナルド君じゃなくて、ドラちゃんが?」
    「三年生じゃなくてロナルド君でいいなら、私でも良くないですか?」
     これには思わず、パーカッションパートの部員たちも顔を見合わせた。言っては悪いが、ドラルクはこの一年で身長もほとんど伸びていないし、力だって相変わらず弱いままだ。奏者の見かけなどは審査の対象ではないが、ティンパニ四つに囲まれると、さらに小さく、頼りない姿に見えるだろう。何より、日頃から「楽しいことが好き」と堂々のたまっているドラルクに、課題曲が求めているような重厚な音が奏でられるようには見えなかった。
    「うーん、ドラちゃんすごく上手だし、無理じゃないとは思うんだけどねえ」
    「やっぱりさ、ほら、コンクールだし……適材適所? ってやつで、ドラちゃんにはシロフォンとかお願いしたくて……難しそうだし」
    「……私は」
    「……いいじゃん、オーディションしようよ」
     パートリーダーがそう呟いた。パーカッションパートの中では、希望する楽器が被ればオーディションという形で担当を決めることがある。そういう意味ではパートリーダーの提案は妥当なものだったが、他の部員はなおも心配そうな顔をしていた。ドラルクとロナルド、二人の仲の良さはよく知っていたから、これをきっかけにギクシャクしてはかわいそうだ。しかしそれを言うよりも早く、ドラルクが「受けて立ちます!」と元気に返事をした。
    「受けて立つて、決闘じゃねえんだよ」
    「オーディションなんだから決闘だろ、まあロナルド君と私じゃ結果は目に見えてるけどね! ちゃんと慰め用にバナナケーキ作ってあげるから安心したまえ」
    「元々俺にって話だろが、どっからきてんだその自信! でもバナナケーキはお願いします!」
     二人がいつも通りの痴話喧嘩を始めたため、嫌に張り詰めた空気が霧散する。二人に同じ楽譜を渡して、オーディションは一週間後に開催されることになった。
     その日の帰り道、ドラルクが普段のようにロナルドに声をかけて、二人は一緒に歩いていた。ドラルクはいつものようにロナルドに鞄を持たせて、手ぶらで歩いている。
     ロナルドは部活動中のやり取りがどうしても気になった。ドラルクがあんな風に自己主張するのを初めて見た。決して付き合いが長いとは言えないが、それでも他のクラスメイトや部活動の仲間よりかは、多くの時間を過ごしてきた。そんなロナルドでも知らない一面がある。なんだか胸がざわざわして落ち着かなかった。
    「……なあ、オーディション、マジでやるんかよ」
    「は? 怖気付いたんなら辞退していいよ。したら君とは絶交だけど」
     ロナルドはびっくりした顔で立ち止まった。絶交なんて言葉が、ドラルクの口から飛び出てくるなんて。ドラルクの言葉は、子どもらしい癇癪じみたものではなく、妙に冷たい響きを持っていた。恐らく本気で絶交されるのだろうと思った。
    「そ……そんなにかよ。絶交て、ドラ公」
    「本気でやってくんないなら、ロナルド君なんか嫌い」
    「お前のわがままでオーディションになったのに」
    「正当な主張ですー!」
     プンプン! と口で言いながら拾った棒切れを振り回すドラルクは、言動も見た目も幼くあどけないので、どう見ても同じ中学生には見えない。二人はぽつりぽつりと、時折思い出したようにどうでもいい話をしながら、いつもより時間をかけて家までたどり着いた。
     家の前でロナルドが鞄を渡そうとした時、ドラルクはなぜかなかなか受け取ろうとしなかった。「部屋まで持ってけっつったら怒るぞ」と脅すと、ドラルクは少し俯いて、鞄の持ち手ではなくロナルドの袖をきゅっと握りしめた。
    「……私、体格とか虚弱体質とか、そういう自分の力でどうにもならないことで除け者にされるの、すごく嫌」
    「え?」
    「本ばっか読むのも、日焼けしたら危ないのも仕方ないんだもん。やりたくてやってることじゃない」
    「……」
    「ねえロナルド君、オーディション、本気でやってよね。私は本気でやってるんだから」
    「……うん」
    「私がかわいそうだとか、争いたくないとか、喧嘩したくないとか、そんなこと言ったらぶっ飛ばしたい気持ちになるからな」
    「うん」
    「ま、私が完璧にかわいすぎて、畏怖のあまり無意識に手加減してしまうことはあるだろうけれどさ。ごめんね?」
    「思い込みが激しい」

     一週間後、ドラルクはドラウスに作ってもらった自前の踏み台を用意してオーディションに臨み、見事にティンパニのパート譜を勝ち取った。パーカッションパートの先輩だけではなく、顧問までもが舌を巻く素晴らしい演奏だった。薄っぺらな胸に楽譜を抱いて、誇らしげに笑うドラルクは、ロナルドの目にやけに眩しく映った。


    「あづーーーい」
    「ドラ公知らねえのか、暑いって言ったら余計に暑くなるんだぜ」
    「精神論やめな、脳筋ルド」
    「ウホッッッ」
    「うわっ威嚇するな!」
     八月も終わりがけだと言うのに残暑が和らぐ気配はない。暦の上では秋だなんて言うが、ここまで暑いのならば、無理矢理秋なんて季節を名乗らなくてもいいのではないかとロナルドは思っていた。読書の秋とか、勉強の秋とかいって机に縛り付けられる時間がなくなってありがたい。一生スポーツの秋でいい。
     暑い暑いと言い合いながら住宅街の角を曲がり、ドラルクが真っ先に日陰に入る。そのまま日陰だけを選んで歩き、小さな公園のベンチに腰を下ろして一息ついた。部活動がある日は、ここでドラルクの手作り菓子を食べてから帰るのが二人の習慣になっていた。もうすぐ夏休みが終わるから、この時間もあと数えるほどしかなくなってしまう。
    「じゃーん、今日はバナナケーキを焼いてきました!」
    「今日はって、こないだもバナナケーキだったろ」
    「君が好きだって言うから作ってきてやってんだろ、文句あるなら食べるな」
    「お恵くださいこの通り」
    「わッ……! 土下座……!」
     きゃっきゃと楽しそうに笑うドラルクの声に、ロナルドはなかなか顔を上げられなかった。代わりに目の前でぶらついていた細い足首をまとめて掴めば、頭上でギャッと悲鳴が上がる。それでようやくほっとして、顔を上げてベンチに座り直した。
     本当は、ドラルクがこうしてお菓子を作ってきてくれるのがとても嬉しい。美味しいからというのはもちろん、ロナルドのためにと作ってきてくれるのが、たまらなく恥ずかしく、喜ばしい。
     例えドラルクが鼻持ちならない態度でお菓子を差し出してきたとしても、今のように意地悪な言い方をするつもりじゃなかったし、文句を言うなんてもってのほかだ。けれども、こうやってドラルクが「君が好きだって言ったから」などと言いながら、なんでもないことのようにロナルドの好きなお菓子を差し出してくると、どうしていいか分からなくなる。ここ最近は特に、胸のつっかえる思いがしている。素直に美味しいと喜んで食べていたはずなのにおかしいと、心中首を捻っていた。
    「なに、虫歯?」
    「え? いや、俺は歯も強いから虫歯にはならねえぜ」
    「なんだ君、口内にロナ菌でも飼ってるのか。虫歯じゃないならそんな難しい顔して食べないでくれる」
    「あ、えと……ご、ごめん、めっちゃ美味いのに」
    「そりゃあ当然だけどね!」
     ドラルクは自分用に焼いた小さなバナナケーキを一口齧った。ロナルドが手に持っているものの半分ほどの大きさもないが、ドラルクにはこれで十分だった。下手をすると夕食が入らなくなる。ドラルクが横目で窺うと、やはりロナルドはしかめっ面でもむもむとバナナケーキを頬張っていた。差し出したアイスティーも無言で受け取って、ぐいっと流し込む。単細胞ゴリラが何をそんなに考えているのやら、ドラルクは気になって仕方がなかった。
    「……ねえロナルド君、何をそんなに考えてるの」
    「……あ? あ、わり、俺また……」
    「ごめんはいいから教えてごらんよ! 完璧な私には悩みとか存在しないから、考えるゴリラっていうのは新鮮で」
    「お前の」
    「ん? うん」
    「…………コンクールの時にきてた、推薦……ほんとに断ってよかったんかよ」
    「はぁ〜? しょーもな」
     先月夏のコンクールの後、ドラルクには吹奏楽コンクールの全国大会出場を目指す高校から推薦入学の話がきていた。学校始まって以来のことだと、ロナルドたちの前で顧問がうっかり口を滑らせたのだ。浮かれ盛り上がる周りに対して、ドラルクはあっさりと推薦入学の話を蹴飛ばした。
    「だって、毎年支部大会まで行ってるとこなんだろ? めちゃくちゃすげえじゃねえか」
    「だってあの人、私に向かって何回も『高校に入ったらもっと身長も伸びるし筋力もつくから』言ってきたんだよ。私は私であるだけで完璧なのに、伸び代と才能があるからとりあえず引き抜いとこ、みたいな態度がムカつく」
    「お、おう……」
    「青田買いって言うんだっけ? 誰が青田だ、私は金色の稲穂だぞ!」
     人の話も事情も状況も顧みず我を貫くドラルクだが、決して相手の顔色が読めないというわけではない。むしろそれは得意な方で、相手の顔色を読んだ上で、その意に添わないような言動で場を引っ掻き回しているのだ。才能がある、それをぜひうちで磨いてくれないか、きっと素晴らしい演奏家になる……他の中学生が言われれば舞い上がってしまうような甘言も、ドラルクは冷めた態度で聞き流していた。
     相変わらず見かけによらぬシビアな物言いに、ロナルドは思わず押し黙った。
    「で?」
    「え?」
    「まさかそんなこと考えて、あんな顔してたわけ?」
    「え、あー……いや……お、お前の……」
    「うん」
    「………………定期演奏会のパート割、本当にあれでいいんか」
    「……はあ〜??」
     ドラルクの本気で呆れた様子のため息に、ロナルドは思わず首をすくめた。自分で話を逸らしている自覚はある。けれども今一つ飲み込めないでいる全てがドラルクに関係してのことだから、あながち嘘ではないはずだ。
    「いいも悪いも、本番まで一ヶ月切ってるのに何言ってるのさ」
    「でも、お前だけドラムやる曲ないじゃん」
    「だーからそれも言っただろうが! 私じゃバスドラ踏めないって!」
     三年生の最後の舞台になる定期演奏会では、パーカッションパートの三年生が一曲以上ずつドラムを担当するのが通例だった。けれどもドラルクでは体重が軽すぎるのか、はたまた力がないからか、どうしてもリズム通りにキックペダルを踏むことが出来なかった。よしんば踏めたとしても上半身の体勢が崩れ、リズムがズレる。ドラルクが一年生時からの課題ではあったが、とうとう引退を数週間後に控えても改善の方法が見つからなかった。
     入部時は頼りなかったロナルドも、今やパーカッションパートの要だ。譜面を読むのに相変わらず時間がかかるが、演奏の力加減もリズム感も、表現力も身に付いてきた。ドラルクの分の譜面をロナルドに回しても特に問題はないというのが三年生たちの結論で、何より、「ロナルド君が二曲叩けば?」と提案したのはドラルクだった。
    「頑張ったら踏めないこともないけど、しんどいもん。私しんどいのきらーい」
    「そうだろうけどよ……引退なのに、見せ場ないじゃん」
    「私が舞台に立てばそれだけで注目度抜群だぞ。ドラドラオンステージってね!」
     ドラルクは立ち上がってポーズを決めた。そのまま公園を飛び出していきそうになるから、ロナルドは慌てて鞄を引っ掴んで、相変わらず華奢な後ろ姿を追いかけた。ドラルクの影がぐんと先まで伸びていて、たしかに季節の移ろいを表している。夏は終わるのだ。クソ暑いな、とロナルドは口の中で独りごちた。

     定期演奏会まで十日を切った。学校の中で吹奏楽部は三年生の引退時期が一番遅い。夏まで部活があると受験勉強に支障が出る、と同級生が愚痴を言っていたのを聞いたことがあるが、ロナルドは部活動がなくても常に勉強に差し障りがあった。現在進行形で、「この偏差値でどこに入るつもりなんだ」と兄と担任を困らせている。
     今日の放課後も、部活動ではなく小テストの再々テストで潰れてしまった。とうとうクラスで一人だけになってしまった受験者に、教科担当の先生は気の毒そうな顔をしたが、小テストへの加点はなかった。
     外はすっかり日が落ちてしまったし、グラウンドで練習する野球部の声も、音楽室からの合奏の音も聞こえない。定期演奏会までもう日がないのに、と涙目になりながら、ロナルドはトボトボと廊下を歩いて、教室の鍵を返しに行こうとした。
    「……夕方の学校って、なんか怖えよなあ」
     センチメンタルとも不安感ともつかないものを誤魔化したくてわざと口に出してみたが、ロナルドの声は人のいない廊下に吸い込まれて終わった。余計に意識してしまう自分の鼓動に、思わず胸を押さえた時、ふと微かな物音が聞こえた。幽霊、学校の七不思議、おばけ、暴力、トイレの花子さん──瞬く間に頭の中を駆け巡った様々な思いに、ロナルドの足がピタリと止まる。何がおばけだ、中三にもなっておばけが怖いなんてことあるわけがない。というかおばけはなんて存在しない、兄貴もドラ公も言ってたじゃねえか、あっでもドラ公は「あちら側の者」がどうとかなんとか……怖がらせてんじゃねえよクソダンピ! アホ! なんで先帰っちゃったんだバカバカバーカ!
     ロナルドが脳内で罪のないドラルクに罵声を浴びせていると、再び物音が聞こえてくる。けれども、今度聞こえてきたのは、ロナルドの聞き慣れた音だった。
    「……ドラム?」
     ロナルドはその音に誘われるまま、階段を登り始めた。音楽室が近くなるにつれ、聞こえてくる音もはっきりしてくる。軽快なスネアドラム、アクセントの効いたハイハット、豊かな響きのクラッシュシンバル。曲は「A列車で行こう」だ。間違いようがない、定期演奏会に向けて、ロナルドも必死に練習しているのだから。
     スウィングするクラッシュシンバルのリズムに、絶妙なタイミングで絡んでくるスネアドラムの音。ビッグバンドの演奏のような大胆なアドリブに、ロナルドは思わず唸った。演奏者はかなりの技巧と、音楽に対する知識を持っているに違いない。
     ところが、ロナルドは聴いているうちに演奏の違和感に気付いてしまった。なぜかどうしてもリズムが乱れる部分がある。頻繁に崩れるわけではないが、よくよく聴けば崩れかけたリズムを立て直そうとする焦りがスウィングの邪魔をしている。頭の中で譜面を思い起こして、ロナルドはあっと声を上げかけた。
     曲の一番の盛り上がり、繰り返されてきたテーマが発展していき、次の展開へと移り変わる部分。バスドラムの四つ打ちで推進力とメリハリが出る箇所。リズムはいよいよ苦しげになってきた。きっとあいつならこう言う、「これじゃ列車どころか悪路を馬車で行こうって感じだな」って──
    「……ドラ公」
    「……」
     ドラムの音がピタリと止んだ。もう外も薄暗いのに、ドラルクは音楽室の電気もつけていなかった。そういえば、ドラルクは吸血鬼である父や祖父の性質が濃く出ていると自慢してきたことがあった。ならばこの暗闇の中でもドラルクにはものがはっきり見えているのかもしれない。泣きそうになっている自分の顔も、さぞかしよく見えているのだろうとロナルドは思った。
    「ドラ公、なんで言ってくれなかったんだよ」
    「……」
    「お前……お前、やりたかったんじゃん、A列車のドラム。言えよ、こそこそ練習するくらいなら」
    「……」
     ドラルクは黙ったままスティックをくるくると回した。ロナルドや他の部員が使っている安いものではなく、一番軽い高級品だ。スネアドラムのヘッドに縫いとめられていた視線がゆっくりと前を向いて、夕陽に照らされる横顔がロナルドの目にも明らかになる。ドラルクの表情はぼんやりとしていた。
    「私、努力するのは嫌いなんだよね」
     ここ二年とちょっと、誰よりも真面目に努力してきた奴が何を、とロナルドは思う。
    「勉強は嫌いじゃないの。ちょっと教科書読めば頭入るし、テストは面倒くさいけど点数取れたらお父様もお母様も嬉しそうな顔するし。本を読むのもそう、やることないから読んでるだけなのに、周りはえらいねって褒めてくれる。運動は努力しか要さないからクソ、クソゲーだな」
     手元も見ずにスティックを回す指は細くて長い。ドラルクは身長の割に手が大きかった。ピアノを弾かせれば、これまた部内で一番上手い。卒業式の伴奏をしてくれないかという話もされていた。習っていたと聞いたが、今はもうやっていないのだろうか。ドラルクが弾くでたらめな「猫踏んじゃった」はロナルドのお気に入りだ。よく部活動の休憩時間に一緒に弾いていた。
    「……音楽も努力が必要なんだけどね。努力しないと上手くはならないけど、運動と違って練習した分だけ成果が出る。ピアノの先生とは馬が合わなかったけど、吹奏楽は皆でやるから楽しかった。努力を褒められるのも初めてだった。自分でもびっくりするくらいハマっちゃって、……らしくないなあ、欲を出すなんて」
     ドラルクの足がトンとキックペダルを踏む。軽すぎてバスドラムは鳴らない。その足元をよく見れば、五〇〇ミリリットル入りのペットボトルがくくりつけられていた。重さが足りないから付け足したのだろう。そうまでして誰にも知られぬよう練習を続けていたドラルクに、ロナルドは胸が塞がるような切なさを覚えた。泣きそうになっている理由も、自分で分かってきた。
     気分屋で人様に迷惑をかけることを何とも思わない馬鹿野郎、音痴、不健康、ガリ、性格悪すぎマジでクズ、努力が嫌いな甘ったれ、そのくせ誰よりもストイックで、出来ない自分が許せなくて、そういうところは自分とちょっと似ている。でもロナルドよりもずっと苦労している。本当はずっと努力を続けてきた。
     報われない努力を一人で続けるアホがおるかよタコ。
     やりたいことは、やりたいうちにやっとくんだろ。
    「……お前ほんとアホ」
    「ッカ〜〜〜! 本物のアホに言われると悔しさもひとしおだな!?」
    「だからなんで言ってくんなかったんだよ」
    「言いたくなかったからじゃバカちん、できないところ見せるような無様な真似してたまるか」
    「雑魚のくせにプライド高すぎ」
    「プーン、私は誇り高きダンピールだもの」
     ドラルクはひょいと椅子から降りると、スティックをケースに入れて鞄にしまい込んだ。「ほら帰るぞゴリルド君」と横を通り過ぎようとするのを、ロナルドはその腹に腕を回して妨害した。そのまま掬い上げるようにしてドラルクを抱き上げる。どこもかしこも薄っぺらで、棒切れのように細くて、まったく軽い身体だ。
    「ギャーッ! 人攫い! いくら私がかわいいからって!」
    「うっせえ! 人聞きの悪いこと言うな!! あとマジで軽いなお前、びっくりするわ」
    「ここへきてそのマウント本当に腹立つ、ぶちのめしたい気持ちに…………ちょっと、なに?」
    「おう」
     ロナルドはドラルクを膝に乗せるようにしてドラムセットの椅子に座った。普段よりぐんと高くなった視界に、ドラルクが戸惑いの声を上げる。
    「んー、ちょっと高いか。椅子下げれるっけ」
    「もしかしてドラちゃん、今割と身の危険を感じる場面? セクハラで済む?」
    「俺がお前にセクハラもクソもあるかよ! ちょっとスティック持ってみろ」
     ロナルドがドンとバスドラムを鳴らす。その振動にずり落ちそうになりながらもじっと考えていたドラルクは、上半身を捻ってロナルドの顔を覗き込んだ。金色の瞳には、隠しきれない期待の色がありありと浮かんでいる。
    「ねえロナルド君」
    「んだよ」
    「もしかしてすごく面白いこと考えてる?」
    「……どうだろ、お前は?」
    「んふ、めっちゃ楽しそう!」
    「だろなあ!」

     定期演奏会は市内のホールを借りて行われる。前日から楽器の搬入をしてゲネプロも済ませた部員たちは、欠伸をしながら早朝のホールに足を運んだ。
    「おい起きろドラ公、もう着くぞ」
    「んー……ついでに楽屋まで運んでよ……」
    「お前マジ、そんななるなら泊まんなよ……」
     ドラルクは定期演奏会の前日、ロナルドの家に泊まっていた。家が隣同士ではお泊まり会の意味はないのでは、とヒヨシは言ったが、友人の家に泊まるという初めての経験にドラルクははしゃぎ倒して、二人で随分な夜更かしをした。実はロナルドも、家に友人が泊まりに来るなんて経験は初めてだったので、お互い手加減ができなかった。
    「大丈夫だいじょーぶ、実は割と元気だし。歩くの面倒くさいだけだから」
    「あ!? 仮病使ってんじゃねーよ!」
    「うるさいな神経衰弱クソ弱ルド君。負けた方が言うこと聞くって言ったじゃん」
    「くそう……強くなりてえ……!」
    「その台詞、もっと別の場面で使った方がいいと思うな」
     ロナルドは重い重いと文句を言っているが、その実ドラルクは全く重くない。むしろ妹のヒマリと同じか、それより軽いのではないかと心配になっていた。
     ホールのエントランスで部員一同が集合し、点呼を受けてからぞろぞろと楽屋に入っていく。演奏会は十二時に開演の予定だった。九時から最後の音合わせをして、いよいよ本番を迎える。パーカッション部員たちは楽屋に入ってすぐにドラルクとロナルドの元に集合した。
    「ドラちゃん先輩たち、本当にやるんですか?」
    「うん、やるやる」
    「上手くいくんですか? ていうかドラちゃん先輩ピアノだったのに、移動してたらすぐバレちゃうかも……」
    「大丈夫だろ、あの人ドラ公のピアノ信用してろくに見てねえから」
    「一度振らせちゃえばこっちのもんだよね」
     後輩部員たちは不安気に顔を見合わせる。そこへ部長がやってきて、パーカッション部員たちの輪に加わった。
    「先生にはこっちに合図してほしいって私の方から言っといたから」
    「わ〜ありがと!」
    「じゃあ多分大丈夫だな、音合わせはピアノ弾くんだろ」
    「まあさすがにね」
     こそこそと話しているロナルドやドラルクたちを見て、他の部員も何かを企んでいるということだけは理解できた。しかし、二人が至極楽しそうにしていたので、悪いことにはならないだろうと意識を逸らす。この二人は部活動に関してだけは手を抜かない。それ以外に散々手を焼かれてきた三年生たちはよく分かっていた。

     ロナルドはそわそわと、ステージの下手袖から観客席を覗いた。ドラルクの一家だけではなく、忙しいはずのヒヨシまでもがヒマリを連れて演奏会を観に来ている。土曜日の昼なんて、ヒヨシには唯一と言っていい貴重な休みなのに、それをわざわざロナルドのために使ってくれた。そのことがこの上なく嬉しくて、絶対にステージで失敗しまいと拳を握った。
    「君、スティックをへし折るつもりか」
    「あ? 誰がリンゴ片手潰しマンだ。まだそこまでじゃねえ」
    「いや将来なるつもり? 客席からチラチラ頭見えてルド君」
    「えっやべ」
    「もっとこっち引っ込め」
     ドラルクがロナルドの袖を引く。ロナルドはもう一度だけ背後を振り返って、これから立つステージに思いを馳せた。漏れ出る照明がぴかぴかと眩しい、あの熱さを自分たちはよく知っている。客席が見えなくなるくらいのライトで照らされて、あらゆる感覚が音に支配される瞬間がもうすぐ来る。
     ロナルドは喜びと熱気に包まれる舞台を想像して頬をほてらせた。緊張よりも興奮が勝る。傍のドラルクを見やれば、ひんやりとした床にぺたんと座り込んで譜面を覗き込んでいた。その横にロナルドも腰を下ろす。
     ドラルクはこんな時でも平然としていた。口ずさむのはこれから演奏する曲ではなくドラルクの好きなクソゲーのBGMだ。読経のように抑揚がなく、恐ろしく平坦ではあるが。
     集中していると唇が尖るのはドラルクの癖だ。ロナルドが小さく尖った唇を見るともなしに見ていると、パッとドラルクが顔を上げた。相変わらずだとロナルドが思ったのは間違いのようで、瞳の奥には不思議な光が宿っている。それに当てられたように、ロナルドの思考もふわふわとしてくる。二人は同じ熱に浮かされていた。
    「ね、ロナルド君」
    「なんだよ」
    「絶対楽しいステージになるね」
    「うん」
     本番前に二人が言葉を交わしたのはそれぎりだ。
     顧問が小声で集合をかけた。銘々が楽器を持ってステージの袖に集まる。いつの間にか舞台照明もギリギリまで落とされて、客席のざわめきが小さく聞こえてくるのみになった。
    「──いよいよ、三年生にとっては最後のステージになります」
     ロナルドは再び拳をぎゅうと握り込む。ひんやりとした手のひらがその上に重ねられた。ロナルドは一瞬びくりと肩を揺らしたが、前だけを見つめ続けていた。隣の気配も、同じく前だけを見つめているのだろう。
    「最後に……そうね、今日は誰よりも楽しみましょう」
     当然だ、とロナルドは思った。
     今日この場で、このステージを一番に楽しみにしているのは、間違いなく自分だという自負すらあった。

     第一部はオープニング曲、華やかなマーチ「アルセナール」で始まった。挨拶を挟んで夏のコンクールで披露した課題曲と自由曲。ロナルドたちの学年では、課題曲は三番を、自由曲は「斐伊川に流るるクシナダ姫の涙」を選んだ。顧問があらかじめ作ったリストの中から選ぶ形になったが、皆が好きになれた選曲だった。
     休憩を挟んで、第二部はポップス調の強い楽曲が演奏される。衣装もわざわざ変えた。カラフルなクラブTシャツの背面には、部員全員の名前が書いてある。絵柄の隅っこの方には、なぜかドラルクの描いたシマウマが採用されていた。何とも言えない表情のシマウマを視界の隅に入れつつ、ロナルドもドラルクも平台の上を忙しなく動き回る。ポップス曲はとにかく楽器の種類が多い。ヴィブラフォンを叩いていたドラルクがマレットを指に挟んだままマラカスを振り、ロナルドの手はマリンバとウィンドチャイムの間を行き来する。流行りの曲は観客への受けも良かった。
     再び小休止を挟んでいよいよ最後の部、「ジャズ三昧」と題したこの部では、全部で三曲演奏する。
     一曲目の「イン・ザ・ムード」は、音楽に詳しくない人でも小耳に挟んだことが多い。馴染みの深いフレーズから始まって、明るく華やかなメロディーが続く。アルトサックスとテナーサックスの掛け合い、トランペットのソロと、見どころも多い。ソロの度に大きな拍手が巻き起こり、掴みとしては上々の出来だった。
     二曲目の「シング・シング・シング」はロナルドの豪快なドラムのビートで始まる。腹に響くフロアタムは聴衆と部員の興奮を否応なく掻き立てた。躍動感のあるリズムの勢いのまま、トロンボーンとトランペットの掛け合いが始まった。
     力一杯叩くのではなく、地面に響かせるようにしてスティックのヘッドを打ちつける。振り下ろすよりも跳ね上げる勢いと角度の方が大切だ。叩くことしか知らないロナルドにそれを教えたのはドラルクだった。情感のあるクラリネットのソロ、迫力のあるトランペットのユニゾン。ロナルドのドラムがそれらを力強く支えて、曲全体の大きなうねりを作る。
     視界の端にちらりと黒いピアノが映り込んだ。ドラルクの姿は見えないが、あの細くて長い指が鍵盤の上を踊っているのだろう。狂気的にも思える盛り上がりのまま終曲部に近づいて、ロナルドは力強くシンバルを叩く。最後まで勢いを落とさずに、曲は跳ね上がるようにして終わった。今までで一番の出来だと、ロナルドは熱い息を吐いた。
     いよいよ第三部も最後の曲となる。「A列車で行こう」は、スウィング・ジャズの金字塔として様々なバンドで演奏されてきた。全体的に大振りなスウィングがゆったりとした感じを出すが、テンポはそこそこ速い。サックスセクションの奏でるテーマ部やトランペットのソロはアーティキュレーションが効いて、軽快で華やかな曲調がステージを盛り上げる。
     指揮台に立った顧問は軽く周りを見回し、大多数と目が合ったことを確認してからタクトの先端を小気味よく振った。ピアノとヴィブラフォンの掛け合いにドラムのハイハットが絡み、スネアドラムのロールを皮切りにサックスがメインテーマを──
     指揮者のタクトが一瞬止まった。ふと顔を上げてみれば、信じられない光景が広がっていたからだ。ドラムセットの前に座っているのは三年間で技術的にも体格的にも立派に成長したロナルド一人であるはずなのに、満面の笑みを浮かべたドラルクがその膝の上に座っている!
     しかし一度流れ出した音楽を止めるわけにはいかない。三年生にとってはこれで引退になる、生徒たちの大切な演奏会だ。顧問は動揺を押し隠してタクトを振り続けた。練習の甲斐あって、指揮に多少のミスがあっても演奏は止まらず流れていく。
     ドラルクはロナルドをシートベルトのようにして、ごくリラックした状態でスティックを操っていた。ドラルクは右利きだが、ドラムセットはオープンハンドで叩いている。単純に手が届かない。そのせいで余計後ろにもたれる形になるが、ロナルド本人はそれを意に介した風もなくバスドラムとハイハットのペダルを踏む。
     この提案をしたのはロナルドだった。「ペダル踏めないなら俺が踏んでやるよ」と、何でもないことのように言った。ぐらぐら揺れる膝の上で、ドラルクはやれ落ち着かないだの、ドラちゃんのかわいいお尻が三つに割れちゃうだの文句を言っていたが、ロナルドの太ももの上に落ち着ける場所を見つけると、お互いに驚くほど馴染んでしまった。
     もちろん合奏練習でこんな姿を見せるわけにはいかない。二人は定期演奏会までの限られた期間、早朝や昼休み、部活動後の時間を使ってこの合同演奏の練習に取り組んだ。回数を重ねるうちに、二人の刻むビートはどんどん一体感を増していった。
     演奏するのは他人の足なのに、他人の腕なのに、自分の手足よりも思い通りに動く。
     ステージライトに照らされた舞台上、今やロナルドとドラルクは、二人で一人だった。
     トランペットやトロンボーンのソロ、その伴奏やつなぎの間にも、ドラルクの瞳は輝きを増していく。軽やかなタムタムの音、感極まったようなクラッシュシンバル。力強いバスドラムが熱を押し上げ、転調して曲が次へと展開していく。
     ドラルクの腹に回った腕に力がこもった。ずり落ちそうになったのを支えるためであったが、それに応えるようにドラルクが後頭部を押しつけてきたから、ロナルドは華奢な身体をますます強く抱きしめる。テーマに戻って地下鉄の旅はますます盛り上がりを見せ、やがて目的地ハーレムが見えてきた。落ち着きを取り戻そうとするメロディーと、楽しい時間をまだまだ終わらせたくないという奏者の思いが交差する。
     ふいにドラルクが振り向いて、ロナルドとまともに目が合った。二人とも最早指揮なんか見ていない。興奮しきって茹だった頭で、お互いに音の波に溺れている。
     ドラルクは泣きそうな顔で笑いかけてきた。普段は血色の悪い青白い頬が、リンゴのように赤らんで汗を浮かべている。ロナルドは思わず、その頬に自分の頬を押し付けるようにしてドラルクを掻き抱いた。一瞬ロナルドの膝からも浮いたドラルクは、演奏中にも関わらず歓声を上げた。



     もう何度目になるか分からない後輩からの乾杯を受けて、ロナルドはオレンジジュースを飲み干した。すっかり腹はタプタプになっている。逃げても逃げてもいつの間にか人に囲まれている音楽室で、ようやく見つけたロナルドの安息の地は、意外にもというかやはりというか、ドラルクの隣だった。
     ドラルクはその辺りにあった椅子を引きずってきて、窓際に陣取っていた。両手で抱えた紙コップの中身はぶどうジュースだ。菓子の類は最初にほんのちょっと口にしたきりで、後はお喋りをしたり一緒に写真を撮ったりしていた。今は少し疲れてしまったのか、窓からグラウンドを見下ろしてぼうっとしていた。ロナルドはその横の床にどっかりと腰を下ろす。ちらりと目線が寄越されたが、すぐに窓の向こうへ戻ってしまった。
    「お前後輩と喋らなくていいのか」
    「私はロナルド君と違って普段から小まめなコミュニケーションを取っていたからね、今更引き継がなきゃいけないことも伝えたいことも大してないよ」
    「まあお前から受け継ぐこととか、技術以外ねえもんな……頼むから精神的なアレとかは引き継がないでほしい」
    「今すっごいぶん殴りたい気持ち」
     定期演奏会から数日後、三年生の引退を祝って音楽室でささやかなパーティーが開かれた。ドラルクが張り切って焼いてきたパウンドケーキは瞬く間に売り切れ、一番多い三切れをかっさらったロナルドは同級生と後輩からの激しい突き上げに遭っていた。
     窓の外をじっと見つめていたドラルクは、ロナルドがようやく聞き取れるほどの声量で「終わっちゃったなあ」と呟いた。それが演奏会のステージのことを言っているのか、吹奏楽部の活動のことを言っているのか、ロナルドには分からなかった。だから話を逸らすつもりで「俺たちいよいよ受験生だぜ」と返した。
    「受験て楽しくなさそう」
    「楽しいとか言われたら、流石のお前でも引いてたわ」
    「部活も終わっちゃったし、なんか別の楽しいことないかなあ……あ、ロナルド君家のお泊まり会楽しかったね、週一でやろ!」
    「週一は最早お泊まり会の感じがねえだろ、ただでさえ家隣なのによ」
    「なんていうか、他人の部屋っていうのが楽しかったんだよね。宝探しみたいで」
    「お前のは家探しだよ! 部屋の中しっちゃかめっちゃかにしやがって」
    「あっでも第二回お泊まり会はもうちょっと先にしようね。私ロナルド君がえっちな本買うようになったらそれで宝探ししたい」
    「やめろマジで!!」
     ロナルドが焦ったように体を起こした。ニヤニヤしながら自分を見下ろす貧弱ダンピールの向こう脛に思い切りデコピンすれば、引き攣ったような悲鳴が降ってきて、やや溜飲が下がる。
    「お前なあ、親しき仲にも礼儀ありで、俺にも一応プライバシーってもんが」
    「えー、じゃあ今度はロナルド君は私の部屋に泊まりにおいで」
    「……いいの?」
    「いいよ、えっちな本隠しておいてあげるから探しな」
    「探さんわ! いやどういう遊びだよ、友達の部屋にエロ本探しに行くって……」
    「ンフフ……ふう」
     ふいにドラルクがニヤニヤ笑いを引っ込めて身を屈めてきた。内緒話をする距離にまで近づいてきたから、何事かとロナルドも伸び上がって顔を近づけた。ふわりと漂ってきたバニラエッセンスの甘い匂いに混じって、ドラルク自身の体臭が香る。覚えずどきりとしたロナルドの耳元に、ドラルクは囁いた。
    「……ロナルド君てさ」
    「……なんだよ」
    「やっぱり……ちんちんデカい方なのかな、あれ」
    「あ!? な、え!? マンボ!?」
    「あは、No.5?」
     ドラルクは腹を抱えて笑った。相変わらずロナルドを揶揄うことにかけては右に出るものがない。お泊まり会の時に振り切れたテンションのまま一緒に狭い風呂に入ったことをドラルクから持ち出されるとは思ってもみなかったロナルドは、ひどく狼狽した。揶揄われた悔しさよりも、こいつもそういう、シモ系の話ができるのだと、妙に落ち着かない気持ちになった。
    「お前、今日なに? なんでそんなテンションになってんの?」 
    「いやあ、結局中学生活では、君ほど面白い人見つけられなかったや。友達百人計画失敗」
    「……? いや中学生活終わりじゃねえだろ。お前顔広いんだし、友達百人? はいるんじゃね?」
    「うーん、確かに私はこの学校のアイドルではあるが」
    「認知の歪み」
    「失礼だな!」
     上履きを脱いだ足でげしげしと蹴り付けてくるので、ロナルドはその足を掴んでドラルクを引きずり下ろした。乱暴にされたというのになぜか楽しそうにしているドラルクは、そのままロナルドの膝の間に収まった。どうも先日の定期演奏会以来、ロナルドを座椅子にするのがお気に召したらしい。
    「ロナルド君、高校どこ受けるの」
    「え? えーと……多分、新横第一……」
    「新横第一? 偏差値足りてるの?」
    「…………」
    「うわ……脳みそツヤツヤのツルッツルなんだろうなこいつ……」
    「うっせ殺すぞ」
    「まーったく仕方ないなあ、ここはドラドラちゃんが君のおつむに合わせてあげるしかないか」
     ドラルクはフフンと得意そうな顔をして、感謝したまえよと言った。ロナルドは一瞬何を言われているのか分からずぽかんとする。
    「え……え、何? どういうこと?」
    「? 仕方ないから私の志望校も新横第一まで落としてやるって話」
    「あ!? お前高校まで俺にくっついてくるつもりか!?」
     中学は義務教育だから仕方ないが、高校受験は違うじゃないか。ドラルクの成績は学年トップレベルだし、家も裕福だから私立高校という選択肢だってある。「友達が行くから」なんて安易な理由で志望校を選んではいけないと、学年集会で先生だって言っていた。ロナルドが信じられない思いでドラルクの顔を見つめるも、当の本人は「そうだけど」とケロッとしている。
    「……お前さあ」
    「でもロナルド君だけ落ちる可能性がアリアリのアリ。そうなったら毎朝指差して笑ってやろ!」
    「ウオオ現実的な話をするな!」
    「そこは馬鹿にされてることを怒れよ」
     ドラルクは投げ出されていたロナルドの手を取って、勝手に逆剥けをむしり始めた。最早それを止める気力も果てたロナルドは、ドラルクの好きなようにさせている。自分よりも低い体温は、いつの間にかすっかり肌に馴染むようになってしまった。
    高校入ったらバンド組もうぜ、とロナルドが言う。入れたらね、とドラルクは答えた。二人で一緒の高校に入れたら、本当にバンドを組むのもいいだろう。音楽よりも面白いものを見つけたら、それを一緒にやるのもいい。ドラルクは付き合ってくれるに違いない。いや、自分がこの享楽主義のダンピールに付き合ってやっているのだと思い直す。ドラルクは他人の手を握ったまま下手な鼻歌まで歌い始めていた。ロナルドはそっとドラルクの手を握り、柔らかく握り返される感触に満足して目を細めた。


    ウィズ・ハート・アンド・ヴォイス(書き下ろし)


    「おいクソダンピ! いい加減起きやがれ!」
    「んー……あと五時間」
    「午前の授業全部終わってるわ馬鹿」
    「じゃ今日はお休みで……ふあ……」
    「てめ、まさかまた深夜までゲームしてたんじゃねえだろうな? マジでてめえのスマホに管理用のアプリ入れんぞふざけんなよ」
    「やだぁ束縛彼氏ィ~」
    「……ポール君、違ったロナルド君、今日はもうその辺で」
     ロナルドが怒りのままドラルクの部屋へ突撃しそうになるのを止めたのは、今日もドラルクの父であるドラウスだった。いかにも吸血鬼然としたクラシカルなシャツや髪形、人ならざる者の象徴である血色の悪さや尖った耳と、長身を包む薄いピンクのエプロンとのアンバランスさが眩しい。
    「……親父さんがそう言うならいいけどよ、こいつ高校入ってからあんま学校来れてねえんだぞ。高校は単位制だから、あんまり欠席ばっかだと留年するんだろ?」
    「大丈夫、その辺りは我々も承知しているよ。ドラルクにはドラルクのペースがあると思うからね」
    「でも……」
    「さ、ポール君は朝食を食べていきなさい。今朝は和風だぞ、朝から……というか我々にとっては寝しなの一食になるがね、肉じゃが作っちゃった」
    「えっ美味そう、あと俺はポールじゃねえわ」

     中学三年の冬、緊張で震えて制服のボタンも留められないロナルドを引きずるようにして、ドラルクは新横浜第一高等学校への受験に赴いた。高等吸血鬼も珍しくない新横浜の町であったが、実際にダンピールを見るのは初めてという者も多いのか、会場に着くまでに随分と不躾な視線にさらされ続けたものだ。せめて壁になってくれと連れてきたロナルドは、枯れ葉が舞い落ちる様子を見ては「駄目だ、俺は学歴中卒の男……兄貴ごめん……」と震えている始末。あまりに面白かったからドラルクはたくさん写真を撮ってしまった。
     結果的に、ロナルドが危惧したように、片方が不合格で片方だけが合格するなんて事態は起こらなかった。晴れて新横浜第一高等学校に入学した二人は、示し合わせたように同じクラスになり、初日からギャンギャン喧嘩をして早々にクラスの名物コンビとなった。
     吹奏楽は、勿論二人とも続けるつもりだった。一々言葉にするような真似はしなかったが、部活動見学初日、ロナルドとドラルクは記入済みの入部届を手に音楽室の扉を叩いた。
     驚いたことに、吹奏楽部の先輩や同学年の中には、二人を知っている人が何人もいた。ソロコンテストに出場したわけでもないのにどうして、とロナルドは目を白黒させたが、ドラルクは「まあこの私の魅力をもってすれば当然のことですが」と得意気であった。
     クラスメイトはダンピールであるドラルクにも寛容であった。何より担任にダンピールの親友がいるとかで、クラスの雰囲気が吸血鬼やダンピールに対して親和的なものであった。ロナルドの奇癖にも皆寛容だった。入学式の翌日にドラルクがロナルドの机にセロリを仕込んだことで、麗しい外見とは裏腹の親しみやすい性格だということはすぐに広まった。ロナルドとドラルクの高校生活は、順調な滑り出しを見せた。
     ドラルクが学校に姿を見せなくなり始めたのは、四月の下旬ごろからだった。
     毎朝ドラルクがロナルドを迎えに来ていたのが、いつの間にかロナルドの方がドラルクを迎えに行くようになり、とうとう朝に起きてこなくなった。
    ロナルドは初め、体調が悪いのかと思った。見た目通り貧弱なドラルクは、日差しはもちろん、ちょっとした運動でもすぐに息が上がる。中学の時も、サッカーやバスケットボールのような運動量の多いスポーツには参加していなかった。それでも登下校程度の運動には問題なかったし、よくよく思い返してみると中学校以来ドラルクが自分で鞄を持って移動していたことはない。毎度ごく自然に持たせてくるものだから、ロナルド自身もドラルクの鞄を持ってやるのが当たり前のことになっていた。今更気付いてなんだか腹が立つ。誰が下男じゃとロナルドは脳内のドラルクに向かってデコピンをお見舞いしてやった。
    では、いじめだろうか。新しい環境に緊張してとか、ストレスを感じてだとかは端から考えられなかった。高校入学という大きな変化に伴ってストレスを感じるような繊細さはドラルクにない。それならばむしろロナルドの方が酷かった。入学式からの一週間、毎朝ドラルクが部屋まで来てくれなければ、「昨日俺が言ったこと気持ち悪かったかもしれない」「絶対隣の席の人引いてた」と根拠のない思い込みに囚われて、学校に向かうことすらできなかった。しかし、ドラルクがいじめられているかもしれないという考えは、すぐに馬鹿げたものだと思い直した。ドラルクの社交性の高さは驚くほどだ。自分より先にクラスに馴染み、一週間もしないうちに全員とRINEを交換し、クラスラインまで作っていたほどなのだから、対人関係のトラブルとは考えにくい。
     クラス内でなければ、他クラスとのトラブルだろうか。新横浜第一高等学校の一年生には、ドラルクの他に数人のダンピールがいるという。ロナルドには分からないけれども、同族同士のいざこざなんかがあるのかもしれない。
     五月に入ってすぐ、それもまた原因ではないのだと分かった。ドラルクを心配した数人の男女が、別のクラスであるロナルドの元を訪れた。その中にはダンピールの男子もいた。半田と名乗った彼は「ドラルクからは随分と古い血の匂いがした」と眉根を寄せた。血が古いと何かあるんだろうか、人間の俺にはよく分からないが、心配している様子から思うに悪い奴ではないらしい。
    自分の知らないところでドラルクがどんどんと知り合いの輪を広げているのは、なんだか面白くなかったが、それでも彼らがドラルクの現状を知るために自分を頼ってくる状況には少し安心してしまった。
     クラスでもなければ他クラスとトラブルになった気配もない。それではいよいよ、部活動だろうか。
    ロナルドは授業中にもかかわらず、ひっそりとため息をつく。高校に入って二度目のテストが二週間後に迫っている。勉強面での頼みの綱であったドラルクが学校に来ていないのは、ロナルドにとっても痛手である。中間テストの結果も惨憺たるものだった。テストの成績一覧を持って帰った日には、久しぶりにヒヨシのひきつった顔を見た。かといって欠席が多く授業に出られていないドラルクに勉強を教えてくれと頼むのもおかしな話だ。むしろドラルクが休んでいる間のノートやプリントを家まで届けてフォローしてやらなければならない。ロナルドは自分の真っ白なノートを見下ろす。先生は英語で何かを説明しているが、さっぱりわからない。
    ノートをとることも、集中して話を聞くこともできていないのを見とがめて、英語の教員は鋭く「ミスタ・ロナルド!」と叱責する。ロナルドはぶるぶる震えながら「そーりー、あいどんの……」と答えることしかできなかった。

     平日の学校はともかく、部活のある土日は別だと思っていたのに。例え木曜、金曜と学校を休んでも、ドラルクは週末の部活には元気に顔を見せて、真摯な態度で臨んでいた。そんなドラルクの様子が変わったのは、ゴールデンウィークの後だったように思う。
     ドラルクが部活のある日に寝坊したのはその日が初めてだった。ロナルドがいつも通りの時間に迎えに行ったというのに、朝食を済ませていなかったどころかベッドの中から出てすらいなかった。ひたすらドラルクに甘いドラウスは「きっと昨日も遅くまで勉強していたんだろう……さすが我が息子! ドンドンドラルクも努力の子!」と感涙していたが、ロナルドは前日眠る直前までドラルクがオンラインゲームに興じていたことを知っていた。
     一人部屋のドアをドンドン叩いても、中からはうめき声しか聞こえない。自宅だというのにご丁寧に鍵までかけて、一体何を寝こけているのか。
    「おいクソボケ、俺まで遅刻するだろが、さっさと起きてこい」
    「ん……先ご飯食べてなよ……」
    「あ? でもお前……」
    「ふふん、高等吸血鬼をなめてもらっては困るぞポール君! ドラルクの料理上手は私譲りなのだからね! ……いや、祖父譲りかもしれないんだけど、ううんむしろそう、あの子は昔からお父様になついて……初めて言葉を話した時も……」
     際限なく落ち込み始めたドラウスをどうにかなだめて、高等吸血鬼としての料理スキルがいかんなく発揮された朝食に舌鼓を打っていると、ようやくドラルクが起きてきた。散々文句を言ったが、その時は珍しいこともあるものだとあまり気に留めなかった。結果的に二人はギリギリ部活に間に合ったし、ドラルクは朝の不調などなかったかのように、その日も下手くそな口笛を吹きながら機嫌よく練習に取り組んでいた。
     どうやら事情が違うようだと思い始めたのは、ゴールデンウィークを過ぎてからもドラルクの寝坊癖が治らなかったからだ。
     平日の、朝練もない日にドラルクが寝坊するのは分かる。学校での勉強はドラルクにとって簡単すぎる。中間テストの時、さっさと解き終わって時間を持て余したドラルクが解答用紙の裏にびっしりと迷路を書いていたのを知ったロナルドが、歯ぎしりして悔しがったのも記憶に新しい。やる気の起きないことにはとことん手を抜くドラルクが学校をサボろうとするのは、ロナルドにも予想できたことだ。
    けれども、ロナルドの知る限り、ドラルクが部活関係の日に休んだり遅刻したりすることはなかったはずだ。それがゴールデンウィークの寝坊に始まり、中間テスト明けの学校早退に続き、ついに平日の五日間も含め、ドラルクが学校に来なくなった。
    当然、吹奏楽部内でもドラルクを心配する声があがっていた。主に同じパーカッションのメンバーからだ。
    吹奏楽部ではすでに夏の吹奏楽コンクールに向けての練習が始まっていた。人数制限があるので、全員がコンクールメンバーになるわけではない。パートによっては、二年生であってもコンクールメンバーから外れていることがあった。
    パーカッションパートは二、三年生だけでは若干人数が足りず、一年生の中からコンクールメンバーを選出する必要があった。ドラルクとロナルドは、その若干名の枠に選ばれていた。にもかかわらず、ドラルクは譜面を受け取ってからほとんど練習に参加できていない。ロナルドがドラルクを心配する理由はいくつでも増えていく。

    ある日、いつも通りドラルクを起こしに行ったものの、やはり遅刻ギリギリの時間まで粘っても起きてこなかったから、ロナルドは一人で登校した。学校までは歩いて三十分ほどかかるが、ドラルクさえいなければ走って十五分でたどり着く。チャイムが鳴る数十秒前に教室に滑り込んで、ロナルドはほっと息を吐いた。
    朝のホームルーム後、担任がプリント類の入ったクリアファイルを手にロナルドの席へと近づいてきた。「ドラルク君に渡しておいてくれるかな」と、これもいつも通りのことだ。手渡されたファイルには今日に配る予定のプリントが全て入っている。期末テストについて、気象警報発令時の急行措置について、一学期の三者面談について……。
    「……先生」
    「ん? なに」
    「ドラ公……ドラルクって、留年とか、大丈夫ですか」
     高校は単位制だと説明された。今一つ分からなかったが、兄は笑って「休みすぎたりテストで悪い点取りすぎたりすると卒業できんくなるんじゃ」と言った。学年が上がれなくなることだってあるらしい。
     担任は困ったように笑って、「あんまりそういうの、生徒に伝えたらだめなんだよね」と言う。それはそうだろうな、とロナルドは頷いた。
    「でも、まあ、保護者の方とは連絡取れてるし、事情も聞いてるからロナルド君が心配するほど大きなことにはならないんじゃないかな」
    「そう、ですか?」
     ドラウスの溺愛っぷりを見るに、むしろ保護者の方が大騒ぎして心配しているんじゃないかと思ったが、ロナルドはそれを口にしなかった。担任の目が一瞬遠くを見るように細められた意味が分からないほど、ロナルドも子どもではない。大人は大抵全てを子どもに話さない。ドラルクの事情について自分に話す気はないのだ。ドラウスもそうだ。
    結局のところ、ドラルクがなぜ学校に来ていないのかを知るには、本人に直接問いただすしかない。そうしたところでロナルドが口でドラルクに勝てる道理はない。
    また定期演奏会の時のように、自分に黙って、どうにもならないことを抱え込んでいるのではないだろうか。
    ほんの少し、ロナルドはイライラしていた。そんな気持ちを抱くのはお門違いだということにも気が付きながら、なぜそうまでしてドラルクのことを考えてしまうのか、ロナルドには分からなかった。腹立たしさの中に悲しみが混じっていることにも、目を背けていた。

     期末テストに向けた先生たちの諸注意を聞き流し続けて午前中の授業が終わる。鞄から弁当を取り出したところで、教室内がややざわついた。
    「ロナルドー、なんか先輩が呼んでるぞ」
    「えっ?」
     顔を上げれば、教室の入口に部長が立っていた。先輩を待たせるのは罪だとばかりに立ち上がり、慌てて廊下に飛び出す。スリッパの色が違う先輩を、廊下を行く同級生たちが物珍し気に眺めて通り過ぎていく。
    「ごめんね、お昼休みに」
    「あ、いえ、大丈夫です!」
    「うん、えっと、ドラちゃんは今日も……」
    「あー……休みっすね」
    「そっかあ」
     部長は指先で髪をいじりながら辺りを見渡す。人目を気にしながらも何かを言いあぐねているのか、眼球がせわしなく動いている。ロナルドはぼんやりと嫌な予感を覚え始めた。そろそろ弁当を食べ終わる生徒もいるのではないかという頃になって、ようやく部長が顔を上げた。
    「あのね、ドラちゃんって不登校なのかな」
    「え……」
     ロナルドの背筋に冷たいものが走る。はっきりと言葉にされると、それはうすら寒い響きをもって耳を打った。
    「ほら、クラスのことは私たちもあんまり分かんないけど、練習にもほとんど来れてないでしょ? コンクールもあるし、合奏とか大丈夫かなあって、私らの中でも話でてて」
    「あ、えと」
    「先生はメンバーから外す気なさそうだけどさ」
     どーなるんだろうね、と困ったように部長が笑う。どうなるとは、何が。ドラルクのことだろうか、それとも自分たちは今年で最後になるコンクールのことだろうか。
    「先生はお家の人と話してるらしいけど、その辺あんまり教えてくれなくて。ロナルド君なら何か知ってるかと思ったんだけど」
    「や……俺もそういうのはあんまり……」
    「んー、だよねえ! まあドラちゃんレベチで上手いし、譜面は渡してるから大丈夫かなとは思うけどさ。ただ、合奏は参加できた方がいいとは思うんだけど」
    「あ、はい」
    「今更他の一年生ってなっても、他の子は正直、ほら……いや皆頑張り屋さんだけど、最終的な完成度を考えたら、やっぱりドラちゃんじゃないと困るしさあ」
    「はい……」
     ロナルドがようやく解放されたころには、もうすぐ予鈴が鳴る時間だった。急いで弁当を食べなければと思ったが、いざ蓋を開けて箸を手に持っても食欲がわいてこない。なんだか胸がいっぱいになっていた。結局半分以上残して、弁当を片付けた。

     けだるい午後の授業を乗り越えて、ようやく部活だとロナルドが音楽室のドアを開けた途端、パーカッションパートの一年生と三年生の先輩たちの間で、修羅場が繰り広げられていた。
    「なんでドラくんメンバーから外さないんですか? 練習どころか学校サボってばっかなのに! もう二週間くらい来てないですよ!」
    「そうだよね、ちゃんと練習してる人がいるのにね」
     昼休みにロナルドを訪ねた部長は、激昂している一年生たちに同調するように涙目になって彼女らをなだめていた。
    「悔しいよね、あなたはドラちゃんよりずっと真面目に練習してるんだもん……でも先生が言うから、仕方ないよ」
    「でも……」
    「ほら、そのうち再オーディションとかあるかもしれないよ? 先生はドラちゃんが一番って言ってたけど、私らからしたら一年生の中でそんな差とかなかったし。そうしたら選ばれるのは絶対真面目に練習してる人じゃん、学校サボってる人じゃなくてさ……」
     ロナルドはそっと扉を閉じた。楽器庫からドラムパッドとメトロノームを引っ張り出し、音楽室から一番離れた廊下に荷物を放り出して、一人でメトロノームに合わせてパッドを叩く。今日は何も考えなくてもいい、基礎練習だけをしていたかった。

    「おかルド君! 今日ヒヨシさん遅くなるってさ!」
    「は?」
     帰宅しようとしたところ、玄関でドラルクが待ち構えていた。なんじゃと思う間もなく連行されたドラルク宅にはすでにロナルドの妹のヒマリがお邪魔していて、おそらくドラルクが作った者であろうプリンを美味しそうに食べている。
    「さあさロナルド君も帰ってきたことだしご飯にしよ! ヒマリちゃんテーブル拭いてくれる?」
    「り」
    「……」
     てきぱきと台所で動き回るドラルクは、どう見ても元気そうだ。今朝がた、今にも死にそうな声でロナルドを見送ったのと同一人物とは思えない。
    「おーい、突っ立ってんな木偶の坊。また赤点でも取ったの? そんなのいつものことだろ」
    「……お前、今日何してたんだ」
     ロナルドが自分で想像していたよりも、ずっと低い声が出る。他人の顔色を窺うということを知らないドラルクでも、さすがにロナルドの様子がおかしいことに気付いて眉をひそめた。
    「……何って、別に。料理したりゲームしたり」
    「なんで学校来ねえんだよ、サボってんじゃねえぞ」
     ドラルクは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、ふいと顔をそらしてロナルドの視線から逃れようとする。それを許さないとばかりにロナルドは詰め寄った。ヒマリが困った顔をしているのが見える。妹の前で諍いを起こすなんて、とロナルドの頭の冷静な部分が囁いたが、そんな声も聞こえないほどにひどい耳鳴りがする。あからさまなドラルクの態度に、視界が赤くなっていく心地がする。
    「学校なんか、授業受けなくたってついていけるレベルだって分かっちゃったし」
    「そりゃお前、頭いいかもしんねえけど、部活どうすんだよ」
    「……楽譜ももらってるし、私レベルの才能があれば、毎日せこせこ通って練習する必要とかないもの」
    「ってめえ、ふざけんなよ!!」
     ロナルドに胸倉をつかまれたドラルクのつま先が床から浮く。ぱたんと音を立ててフローリングに落ちたスリッパに、ヒマリが顔色を変えて悲鳴のような声で小兄! と叫んだ。妹に呼ばわれて、ロナルドはようやく我に返る。慌てて右手を離せば、頼りない痩躯が床にくず折れる。
    「ッガ、ゲホっ……ぉえっ」
    「あ……」
     ドラルクが喉を抑えて咳き込む。自分が今しがた何をしたのかを理解して、ロナルドの顔もみるみる青ざめていく。苦しそうなドラルクの姿に、背をさすってやらねばと思うが、根でも生えたように足が動かない。せめて謝罪をとひらいた口は苦し気に喘ぐばかりで、言葉が舌に絡みついて離れない。茫然と見下ろすことしかできないロナルドの目の前で、ドラルクはようやく呼吸を取り戻した。
    「は、ぁ……あー……驚いた、少し会わない間に暴力性が増したんじゃないか? ミジンコレベルの脳みそでも日々知性と触れ合わないと一丁前に劣化していくもんなんだな」
    「な、なに」
    「このかわいいドラドラちゃんの胸倉引っ掴むとかありえなくない? 気分悪いな、もう帰ってよ。明日も来なくていい、ロナルド君の顔なんか見たくない」
    「……あーそうかよ、こっちこそお前の世話なんかこれ以上願い下げじゃ! 清々するわボケ! お邪魔しました!」
     乱暴に鞄を掴んで、ロナルドはドラルク宅のリビングを飛び出した。わざと大きな音を立てて玄関の扉を閉めて、しばらくその場で立ち尽くし、背後のドアの向こうの気配をじっと探る。ロナルドの家と同じ作りのように見えるのに、やはり細かいところの材質や仕組みは違うのか、音が漏れ聞こえてくることはなかった。
     ヒマリは追いかけてこない。ドラルクが追いかけてくる道理もない。それでもロナルドはその場から動けずにいた。
     友人だのに、暴力を振るってしまった。あろうことか、自分より身長も低く体重も軽い、力なんてほとんどない病弱な友人の胸倉をつかんで、咳き込むほどに締め上げた。
     ドラルクに暴力を振るってしまったという事実に、自分の中の何かが音を立てて崩れていく。口先で殺すだの殴るだの言うのと、実際に殴るのとは別の話だ。先ほどから動悸が激しくて、今立っている場所も分からない。人込みで迷子になった時のような、寄る辺ない気持ちを持て余して、ロナルドは他人の家の玄関の前で凍り付いていた。
    「──ポール君? ウチの前で何をしているんだね」
     どれくらいの間そうしていたのか、実際はさほど時間が立っていないのか、ロナルドが次に自分を取り戻したのは、吸血鬼らしいクラシカルなマントに身を包み、エコバッグを片手に提げたドラウスに声をかけられたときだった。
    「お、親父さん……」
    「今日は唐揚げだとドラルクが言ってただろう? ほら、フルーツを買ってきたんだ。あの子がパフェを作りたいと言ったからね、デザートに出すからから楽しみにするといい。さあさあ、早く入って手を洗っておいで。ヒヨシ君今晩は帰れそうにないらしいぞ、よかったらそのまま我が家に泊まって……ポール君?」
    「……」
    「……ちょっと待ってなさい」
     ドラウスは玄関が施錠されていないことに気付いて片眉を上げ、「ただいま愛息子!」と声をかけながら家に入っていった。

    しばらくして再び扉が開き、顔を出したドラウスが「お上がりよ」と言ってロナルドを招き入れようとする。ロナルドはためらったが、有無を言わさぬドラウスの態度に、渋々ながら出てきたばかりの玄関の扉を再びくぐった。
    リビングはしんと静まり返っている。ヒマリは、ドラルクはどこにと耳をそばだてると、二階から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。どうやら二人はドラルクの部屋で過ごしているらしい。台所の流しに一人分の食器が浸かっていて、テーブルの上には、これでもかと唐揚げが盛られた皿と、二人分の茶碗が伏せられている。誰のものかなど考えるまでもない。
    あんなやり取りをした後で、ドラルクはどんな顔をして唐揚げを揚げたのだろう。ロナルドの胸がずきずきと痛んだ。
    「ポール君、先にご飯にするかい」
    「いや、俺は……家で食うんで……」
    「そうか。じゃあ包んであげよう」
     そう言うとドラウスは食器棚から保存容器を取り出して、さっさと唐揚げを詰め始めた。ロナルドは所在なさげにその様子を眺めているしかない。手伝いでも申し出た方がいいのか、それとも邪魔なだけだから座って待っていた方がいいのか。落ち着きなく手すさびをしているロナルドに視線を寄越したドラウスは、しばらく息子の同級生を眺めていたが、やがてふと息を吐いた。
    「……ドラルクが世話をかけているみたいだね」
    「え!? や、そんな……あ、あいつがわがままなのは、今に始まったことじゃねえし……」
    「ふふん、そうだろう! ドラルクのわがままはかわいいからね!」
     わがままにかわいいもクソもないわと、普段のような悪態をつきかけて、ロナルドは慌てて口をつぐむ。ドラウスは、自分の息子がロナルドからどんな仕打ちを受けたのかを知らないからこうして友好的に接してくれているが、乱暴なことをしたというのが知られたらどう思うだろう。ロナルドの胃が静かに冷えていくが、ドラウスはお構いなしに話を続ける。
    「ふふ、ドラルクの愛らしさは他の追随を許さない! お父様、と手を合わせてお願いされたらどんなおねだりも……いや違う、そうじゃなかったな。ええと……うむ、ポール君は、ドラルクの体質について何か知っているかな」
    「体質? ……日光に弱いとか、そういうのなら」
    「おや、少しは話してあったんだね」
     唐揚げを詰め終わったドラウスが、今度は冷蔵庫のサラダを取り出して別の保存容器に移し始める。食事一式を持たせてくれるつもりらしかった。ミニトマトを箸でつまみ上げ、しげしげと眺めてから、ドラウスは穏やかな微笑みを浮かべた。
    「ご覧ポール君、綺麗なトマトだ」
    「はあ」
    「吸血鬼はトマトジュースを好むなんて言うがね、ドラルクは牛乳の方が好きなんだ」
    「あー、なんか分かる。胃に優しそうだし」
    「うむ、成分的にも血液に似ている」
     ロナルドは一つ瞬きをした。ドラウスの口から吸血鬼にまつわる話を聞くことは珍しい。
    「ドラルクの体質の話をしたことは、今までなかったね」
    「親父さんの口からは、何も」
    「ドラルクはダンピールだけれども、吸血鬼としての特性がかなり強く出ている。牛乳を好むのもその一つかなと考えているんだ。年々その傾向が増していてね、それで……」
     ドラウスは、すぐには言葉を続けず、少し口をつぐんだ。
    「……本当はね、高校になんか行かせるつもりじゃなかったんだよ」
    「え?」
     突然の話にロナルドはたじろぐ。ドラウスと話すことなどドラルクに関することくらいしかないが、高校に行かせるつもりがなかったとはどういうことか。今ドラルクが不登校になっているのと、何が関係あるのだろう。
    「我々吸血鬼は、昼に活動するようにできていないんだよ。元からね」
     まあ例外はいるんだが……と吸血鬼は遠い目をする。脳裏にはドラルクがいつも自慢している「お祖父様」とやらを思い浮かべているのかもしれない。日光も銀も致命傷にならない、ビームだって出せる規格外の吸血鬼。ドラルクは祖父に似ているのを誇りにしていた。
     本来、吸血鬼は夜の生き物だ。その特性が強く出ているというドラルクが朝起きられなくなったのは、当然のことなのかもしれない。ロナルドはようやくドラウスの言わんとすることに見当がついた。
    「そもそも日本に来たのは、ドラルクが他の子どもたちと同じようにスクールへ通ってみたいと言い出したからなんだ。あの子は知っての通り病弱で、それまで同じ年代の子どもが集まるような場には連れて行けなかった」
    「なんでだよ、それくらい……」
    「ドラルクの体は予防接種の抗原物質にも耐えられない」
     ロナルドは愕然とした。重篤なアレルギーがある人が予防接種を受けられないという話を聞いたことはある。しかし、ドラルクの病弱さがそこまで深刻なものとは考えたことがなかった。中学校の三年間は遅刻も欠席もしたことがなかったから、仮病じゃねえの、とすら思っていた。
    「ドラルクはほとんど生まれたままの状態で、ワクチンで接種するような抗体はほぼ持っていない。そんな子が普通の子どもたちと集団生活をしてごらん、風邪程度で重病になる可能性だってある。ましてやはしかやインフルエンザなんかを移されてみろ、なす術もなく死んでしまうだろう」
    「あ……」
    「そうでなくても、昔から体調を崩してばかりで、家族以外と満足に話せることも少なかった。だからまあ、ミラさんともよく話し合って、最初で最後にはなるが学生生活というものを満喫して、中学を卒業したら吸血鬼になるという話だったんだ」
     ドラウスの話に、ロナルドはまた驚いた。確かにドラルクは、いつか吸血鬼になるのだと言っていた。「私が吸血鬼になったら絶対畏怖くて格好良くて完璧な存在になっちゃうな!」と、その日を楽しみにしている様子ですらあった。けれどもまさか、それが子どものうちにだとは。てっきり大人になってからの話だと思っていた。
    「吸血鬼の我々には、人間の病気は関係ない。それに再生能力がある。あの子の病弱体質だって改善するかもしれない。ドラルクは本来もっと早くに吸血鬼になるべきだったんだ」
    「……学校とか行かずに?」
     そうだね、とドラウスは穏やかに相槌を打つ。人間の常識に当てはめれば、子どもを学校に行かせないのは虐待にあたる。しかしドラルクはきちんと勉強の機会を与えられていたし、実際中学校でも高校でも成績はトップレベルだ。虐待と言われても首をひねってしまう。
     もしドラルクが学校へ行きたいと言わなかったら、今頃は出生地のルーマニアで吸血鬼に転化していたのだろうか。ドラルクと出会わなかったら自分はと考えて──ロナルドはそんなこと想像もできなかった。ドラルク以外の人間と弁当を食べたり、登下校を共にしたり、馬鹿を言い合う自分など、全く想像できない。
    「けれども、いつからかあの子は、吸血鬼になったらという話をしなくなったよ」
     ドラウスは立ち尽くすロナルドの肩を包むようにして椅子に座らせた。目の前に紅茶の入ったカップを差し出されて、ようやくロナルドの視線が持ち上がる。いつの間にかすっかり俯いていた。
    「その代わりに、学校でどれだけ面白いことがあったか、君がいかに愉快な人間かを語って聞かせてくれるようになった」
    「俺の?」
    「そうとも。高校を受験すると言い出した時も、君の話をしていた。正直、ドラルクが君の話ばかりをするようになってから、こうなってしまうんじゃないかって覚悟はしていたんだよ」
     ドラルクが学校に行けないのは、吸血鬼の特性が強く出ているせいで朝に起きられないからだ。本来の特性に背いてまで学校に行かなければならない原因を作ったのはロナルドだという。では、今ドラルクが苦しんでいるのは、ロナルドのせいだということになるではないか。
     全身が冷や水を浴びせられたように冷えていく。苦しんでいるドラルクに、自分は何をした?
     単なる寝坊だと思っていた。気持ちの問題だとも思っていた。部活内での、吹奏楽部の中での居心地が悪いというのなら、突出した才能を持ちながらも部活に来ないドラルクの自業自得だという考えすら、うっすらと持ち合わせていたではないか。
    「我々以外の……つまりまあ、人間の君たちが、今のドラルクのことをどう思っているか、薄々気付いてはいたさ。気持ちの問題だとか、怠けのように見えていただろう」
    「そ、そんな……ごめ、俺、知らなくて……」
    「知らなかったのは悪いことじゃない、言わなかったのだから。それもまたドラルクの選択したことだから、あまり口出しするつもりはなかったんだが……君くらいには知っておいてもらわないと、あの子がかわいそうだろう」
     ドラウスはほとんど泣きそうになっているロナルドを見つめて「息子の力になってやってくれないか」と言った。
    「私が……いや、大人がどうこうしてやる話ではないと思っている。もちろんその方がスムーズに話が進むだろう、公立高校の一つや二つ、こう、軽くドカーンと」
    「……」
    「……という吸血鬼ジョークはともかくとして、そんなことしたら私はドラルクに嫌われちゃうだろうからなあ……」
    「……親父さん、俺、あいつのために何してやればいい? あいつ、何してほしいんだ?」
     それが分からないからロナルドは困っている。学校に行きたいのだろうとは思う。でないと毎日ロナルドに時間割を聞いたりプリント類を持ち帰るようせっついたりはしない。ドラルクはどの授業の課題もきっちり提出していた。楽譜はきちんとバインダーにファイリングされているはずだ。合奏には参加できていないけれど、きっとほとんど暗譜しているに違いない。ドラルクはそういう奴だ。
     ドラウスがこうして話をしてくれたのは、ロナルドにしかできないことがあるからに違いない。消沈した様子から一変して身を乗り出すロナルドを、ドラウスは柔らかくいなした。
    「何をしてくれという話ではないんだ。そもそもこんな話を君にしたのがバレたらあの子は拗ねるだろうしね。ただ……」
    「ただ?」
    「あの子を、ドラルクを責めないでやってくれないか」
     ドラウスは、真摯な瞳でロナルドに語り掛けた。
    努力を人に知られることを人一倍嫌がる、プライドの高い息子のことだ。体が示す習性に背いて無理に夜に眠ろうとするから、余計に脳や体が負担を感じてしまっているのだろう。先日は、どこで仕入れてきたんだか、どっさりと睡眠導入剤を買ってきた。薬が合わなかったのだろう、一晩中吐き戻し続けて、翌日の夕方ごろにようやくベッドから起き上がることができた。悔しがって泣いていた。あれは確か、君が英語の授業で絶対指名されるとぼやいていて帰った日の夜だった……。
     その日のことならロナルドも覚えている。いつも通りプリント類を届けに訪ねたら学校の様子を聞かれて、うっかり「明日出席番号順で当たるんだよなあ」とこぼしてしまった日だ。嬉々とした様子を隠そうともせず、「絶対テンパルド君! めちゃくちゃ見たいなそんなの、英語の時間だけ行こうかな」なんてほざくから、問答無用でデコピンをくらわせた。けれどもドラルクは翌朝も起きてこなくて、結局ロナルドは英語の教員に冷たい目で見られた。昼前にドラルクから「英語大丈夫?」というメッセージが届いていたことに気付いたのは、部活を終えて校門をくぐった後だった。
    「ドラルクは君が訪ねてきてくれるのを本当に喜んでいるんだ」
    「ど、え、俺が?」
    「うん、初めてできた友人だということを差し引いても、かなり君のことを気に入っているに違いない。だからポール君……いや、ロナルド君、君に何かをしてほしいというよりも、どうか今のまま息子の友人であり続けてほしい」
    「そんなの……そりゃ、まあ……」
     ドラウスに手を握られながら、ロナルドは困惑していた。友人であり続けるなんて、友人を辞めたことがないから分からない。これからも自分は朝にドラルクを起こしに来るだろうし、プリントを届けもするだろう。RINEもするし、ソーシャルゲームのフレンドを切ることもできないし、好き勝手に落書きされた下敷きを捨てることもできない。
     けれども、それでは現状の維持に過ぎなかった。ドラルクはどうにか日中に家を出て学校に来ようとしている、部活動にも参加してほしい。ドラルクの、あの抜群のリズム感と技術が、今の吹奏楽部には欠かせない。何より参加してもらわなければロナルドが困る。どう困るのかは分からないが──ロナルドは自分の気持ちを見て見ぬふりをするが、つまるところ、ドラルクがいなければ学校も音楽も楽しくないのだ。

     唐揚げとコールスローサラダをしこたま持たされたロナルドが玄関扉から出ようとしたタイミングで、ヒマリが階下に降りてきた。「ドラ公は?」と聞くと、「……疲れ、寝」とだけ返ってきた。心配そうな顔をして、今にも階段を駆け上っていきそうなドラウスに向かって丁寧に詫びと礼を告げ、二人でドラルクの家を出た。
     ヒヨシはまだ帰ってきておらず、ヒマリのスマートフォンの留守番電話サービスには「日付跨ぎそうじゃ、先に寝とけ」と音声が入っていた。珍しく大あくびをする妹を先に風呂に入れてやって、ロナルドはリビングに今しがた包んでもらった夕食を広げた。
     唐揚げを一つ摘まんで頬張れば、生姜の香りがガツンと鼻を打つ。冷凍ご飯の解凍を待たずに食べてしまったのは失敗だった。ニンニク抜きの特製レシピで作られた唐揚げが冷めてもなお美味しいのは最早当たり前のことである。これを揚げた張本人は、今頃どうしているのだろう。
     行儀が悪いことと知りながら、ロナルドの手はついついスマートフォンに伸びてしまう。どうでもいいソーシャルゲームにログインして、溜まっていた石で無意味にガチャを回す。糸くずばかりが排出される。すぐにホーム画面に戻り、通知が来ているわけでもないのにメールのアプリを開いて、またすぐホーム画面に戻る。ようやく覚悟を決めて、RINEのアイコンを指先で突いた。新規のメッセージを示す通知は一切ない。
     ドラルクに、謝らなければならない。ロナルドは先ほどからそればかりを考えている。今日のことに関しては自分が悪い。発言や行動を思い返せば非は全面的にこちらにあるが、もとはといえばドラルクの普段の言動がアレなせいで、自分だってこれがもし他の人だったら……いや、そんなことはない、想像力が足りなかった。頭の隅で、ドラルクのことだからと決めつけていた。傷つけたのは間違いのないことだ。知らないのは罪だ。
     ドラルクとのトーク画面を開くこと十数分、メッセージ欄に文字を打ち込んでは消し、消しては入力し、「さっきはごめん」の簡単な一言が、どうしてもロナルドに緊張感を与える。
    「……さっさと謝るだけだろが」
     自分を鼓舞するように呟いてみても、指先は送信アイコンではなくバツ印を選んでしまう。そのうちヒマリが風呂から上がる時間になる、ヒヨシだってそうこうしているうちに帰ってくるだろう。その前に、とは思う。思うだけだ。ロナルドは知らないうちに低い唸り声をあげていた。
     とうとう嫌気がさしてスマートフォンをカーペットの上で滑らせる遊びを始めた途端、軽快な通知音が鳴る。慌てるがあまり画面を割りそうになりながらも、どうにか通知先を確認する。我知らず震える指先を叱咤して、どうにかRINEのアイコンに触れた。案の定メッセージの相手はドラルクだった。送信されているのは画像らしい。
     息を止めたままのロナルドが意を決してトーク画面には、「ガチャ大爆死」というメッセージと共に、糸くずしか排出されていないリザルト画面のスクリーンショットがあった。ロナルドが見ている前で、新たにぽこんとメッセージが追加される。「ゴリラの呪い」。
     すぐさま通話ボタンをタップする。ドラルクは一コールで出た。
    「おいコラ誰がゴリラじゃ」
    「はぁん? 誰もゴリラがロナルド君とは言ってないが? 自覚がおありだったのね、意外」
    「うるせえ! お前が言うからだろうがガチャでも雑魚野郎」
    「はあ!?このキュートキューティーキューテストな私をもって雑魚呼ばわりとはドラちゃん心外! もう一緒に学校行ってないから」
    「い……」
     行くのかよ学校、そんな言葉が飛び出しかけて、ロナルドは慌てて口をつぐんだ。この状況で「最初から一緒に学校行こうなんて頼んでねえわ」と言えるほどロナルドの神経は図太くない。生まれた奇妙な間に画面越しの葛藤を感じ取ったのか、ドラルクが意味もなく「やれやれ」と言葉だけで呆れてみせる。
    「じゃーねロナルド君、寝坊するなよ」
    「だッ、な、いやお前」
    「おやすみ」
    「ま……ドラ公!」
    「……なに」
    「…………」
    「……切るぞ、おやすみ」
     通話はふっつり切れた。ロナルドはしばらく画面に表示されていたアイコンを眺めていたが、ついついと手元を操作してトーク画面で画像を送信する。数秒を待たずに既読の印がつき、先ほど通話を終えたばかりの相手から再び着信があった。
    「ファー!! 糸くず排出ゴリラ! やっぱりロナルド君の呪いじゃないか! いやもしかして私のがうつった?」
    「うるせーわお前からRINEくる直前でガチャ回したらこうだった」
    「イヒーッやば! あれかな、タイムテーブルってやつ? 特定の宗教ではあるんだっけ?」
    「宗教言うな、もう寝るからな」
    「はいはいおねむだもんねロナ君は」
    「黙れ、二度と右乳首貸してやらねえからな」
    「ちょっと待て私の右乳首だぞ! 今度限定衣装ガチャがあるんだからその時までちゃんと」
     おやすみも言わずに通話を切る。続けられるはずだった文句はドラルクの胸の内に収容されたらしく、液晶画面は静かだ。ロナルドはいつの間にか詰めていた息をゆるゆると吐いて、ヒマリと入れ替わるようにして風呂に向かった。
     湯船に浸かりながらロナルドは考えた。足の皮がふやけるまで考えた。ついには心配した妹に「……生きてる?」と風呂を覗かれて、思わず「キャー! ヒマリのえっち!」と叫んだ。
    ようやく風呂を上がったロナルドは、ひとつ大きな買い物をするつもりだった。風呂場にスマートフォンを持ち込むのは兄に禁止されていたが、脱衣所に持ち込むのは止められていない。頭からかぶったバスタオルで乱雑に髪を拭い、いそいそと検索バーに言葉を打ち込んだ。
     お目当ての品物は、なるほど良い値段をする。思わずくらっとしたのを、湯上りで血が巡り過ぎたせいだということにして、ロナルドは画面を睨みつける。今度はお年玉をどこまで使うか考え始めた。いちまんえん、高けえ、一万円札なんて触ったこともない。もうちょっと安くならないか、あんまり大きな買い物をしたらきっと兄貴が怒る。中古でもいいけれど、うわ、さすがにちぎれそうなのはな……というか汚い、中にクッションでも敷き詰めれば多少は、いやでもなあ……。
    「い、いちまんごせんえん……」
    「いつまでフルチンでおるんじゃ」
    「ホギャッタパラァ!」
     全裸のまま奇声を上げたロナルドの手元を覗き込んだヒヨシは、はてと首を傾げた。てっきり女の子への返信にまごついているものだと思ったのに、画面は中古品を取り扱うネットショッピングで、黒っぽいものが写っている画像がずらりと並んでいる。
    「なんじゃ、ついに彼女でもできたのかと思ったのに」
    「カ!? かッかかの、かのじょ!? ち、あ、ちが、これは別にそういうんじゃなくて、たたただあいつが、困るから皆が、仕方なく! おおおお金もお年玉で、あっでもお年玉も元は兄貴が苦労して稼いでくれたお金で俺はそれを使ってこんな……こん…………オエッ」
    「嘔吐くな嘔吐くな」
     布団に入った後も、ロナルドの脳内では「ついに彼女でもできたのか」という言葉がぐるぐると駆け巡って、なかなか寝付かれない。彼女じゃない。全然そういうんじゃない。ではなぜ自分は、彼女でもない奴のために数万円を使うか否か悩んでいるのだろう。そんなの普通じゃない、馬鹿なことに金を使おうとしているのだとブラウザーのタグを閉じようとするが、寸前でその決心が鈍る。
     皆のためだとか、迷惑をかけさせないためだとか、取ってつけたような言い訳をしてみるも意味がない。これは全く自分のためだと、ロナルドは最初から分かっていた。
     しばらく操作しなかったスマートフォンに触れると待ち受け画面が表示された。中学の吹奏楽部の面々だ。卒業式に、全員で写真を撮ろうと音楽室に集まった時のものだ。数か月しか経っていないというのに、ロナルドの目には随分懐かしいもののように映る。
     ドラルクとロナルドは当然のように隣同士で写っていた。照れながらポーズをとるロナルドと違って、ドラルクは女子たちと同じようにノリノリだ。片足なんか上げちまって、アイドルみたいなポーズじゃねえか。別にかわいくはないぞお前。でも楽しそうだ。ドラルクが楽しそうにしていると安心する。
     もし買ったものが使えなかったとしても、ドラルクなら腹をかかえて笑ってくれるんじゃないだろうか。それならこの買い物に失敗はないだろう。
    最初から失敗しないと分かれば、俄然ロナルドの胸の内は明るくなった。ずらりと並んだ画像をひとつずつ吟味し、発送日、値段、状態を比べていると、いつの間にか夜が明けていた。徹夜をしたのは初めてだった。
    うめみや Link Message Mute
    2022/11/30 10:07:18

    1月8日インテサンプル

    #ロナドラ
    pixivに掲載していたロナルド×ドラルク学パロに書き下ろしを加えた本を出します。
    ・ドラルクがダンピール設定
    ・ロナルドの所属する部活動の捏造(帰宅部→吹奏楽部)
    ・新横浜第一高校が共学
    ・その他種々の妄想
    つ〜はんです
    https://www.melonbooks.co.jp/fromagee/detail/detail.php?product_id=1731371

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