【大地の揺り籠】愛してる。愛しているよ。
だからきみを食べたんだ。
鏡映しの世界にも、夜が過ぎれば陽が昇る。
けれどもそれは、人間界の太陽とはまるで違う青い光を帯びながら、
白色の空をぽつんとしていた。
――
人間達の住まう世界をコピーして、創世の竜が作り上げし世界、“鏡像界-ノクス-”。
大陸の四方を高等魔族が統べるこの世界は、寂しがりやの虹竜が二番目に作った世界である。
しかし、二つの世界にそれといった差異はなく、しいていうなら住まう生き物の種類や、
見上げる空の色が違うくらいで。
(あちらの世界では、空はきれいな青色だったか)
真っ白な天穹を見ていた青髪の花人は、思い浮かんだ知識の“ひとかけら”に、濃紫の瞳を緩める。
けれども、魔物は興味なさげに視線を外すと、後ろにそびえ立つ焦茶色のかたまりへと背を預けた。
時刻は朝、場所は鏡像界の北方に広がる“
帳の森”。
濁りのないエメラルドの水を湛えた湖を、鬱蒼とした木々が取り囲むその場所に、花の魔物は立っていた。
緩やかに流れる紫青の髪は、すらりとした長身を形作ったあと、彼の足元で息づく草花と絡み合い。
白い肌に乗せられた人形めいた顔立ちは、なんの表情を浮かべないまま、遅い
瞬きを繰り返す。
(雨風に曝されているせいで、鱗が風化したのか。まるで僕の棘みたいだね)
背を受け止めてくれたものから感じるのは、岩肌を思わせる小さな痛みと、でこぼことしたと感触。
それを不愉快に思う素振りもなく、青花の佳人 ―― 青薔薇の
妖恋花は瞳を閉じた。
植物系魔族の頂点に位置する
妖恋花は、魔族の中でも高等に位置する稀有な存在だ。
生まれた瞬間から高等魔族と同等の知性を持つ彼らは、
幼い芽の段階では小さな獣に寄生し、宿主の持つ知識や経験、生命力……
つまりは“その個体が持つもの全て”を自分の糧にしたところで、少し大きめの獣へと移住する。
そうして彼らは、徐々に捕食する獲物を大きくしていき、
しまいには緋熊や獅子といった大型の魔物を棲み家として、大輪の花を咲かせるのだ。
もちろん、この青薔薇の
妖恋花も例外ではなく。
この地で花をつけてから何百年という間、彼はたったひとりの魔物を苗床として生きていた。
ひとつだけ違うのは、幼い芽の段階から、“彼”と一緒に過ごしてきたこと。
(今日もいい天気だよ、リンドブルム)
何の音も発さない唇の代わりに動いたのは、薔薇特有の棘を持った枝葉たち。
茶色くて大きなかたまり……リンドブルムと呼ばれた魔物に絡みついたそれらは、
本体の喜びを表すかのように一度さざめく。
首のあたりに大輪の青薔薇 ――
妖恋花の本体だ ―― を背負う苗床は、
焦茶色の鱗をもったドラゴンの形をしていて。
広くて大きな背を丸めるようにして座る竜の姿は、息を引き取った今でも、神妙な存在感に満ちみちていた。
リンドブルム=ドラゴニア。それは創世の二竜が自分を材料にして作ったひとり、地竜王を表す呼び名だ。
大地と同じくした焦茶色の鱗に、光を束ねたかのような黄金色の瞳を持つ地竜の王は、
大柄なドラゴン種の中でも一際大きい姿をしている。
もともと創世の二竜とそれに連なる四代竜王は、何よりも大きく創られていて、その力も強いのだ。
創世の叙事詩の中では天候すらをも左右したと謳われている彼らにとって、天敵などは存在しえない。
それなのに、何物にも脅かされることのなかったはずの地竜の王は、今はただの亡骸となり。
美しい青の花と、深い緑の枝葉に体の自由を奪われながら、青薔薇の佳人の背を受け止めている。
死したものだというのに、瞼を持ち上げたまま鎮座する金の瞳は、濁りのない硝子玉のようだ。
(抉りだして首飾りにしてもいいね。ああでも、それではいずれ、腐ってしまうのだろうか)
声の代わりに枝葉を動かす佳人と、地竜王の骸と。話すものがなければ、静寂は容易い。
聞こえるのは、風が吹く音と、揺らされた木々の枝葉が擦れ合う音ばかりで。
誰にも邪魔をされない、二人きりの時間を楽しんでいた花の魔物は、ふと聞こえ始めた“さえずり”に眉をひそめた。
(また来たのか。懲りない童子だ)
この日初めて彼が見せた不機嫌に呼応して、棘を持った蔓状の枝が動き始める。
緩慢な動作で、海洋生物類が持つ触手のように蠢く蔓が、しゅるしゅると音を鳴らして。
けれども、ふいに。いくつかが合わさって、蔓の群れが太い束を作ったかと思えば、素早い動きで空を穿った。
―― ヒュンッ。
あまねく広がる白の帳。その中にある一点を、勢いよく奔った蔓の先端が貫く。
けれどもその場所には何の姿もなく、その代わりにひらりと、金色の羽が舞った。
(……仕留め損なったか)
「ずいぶんな挨拶じゃないか、
青薔薇の妖恋花」
冷めた美貌が舌打ちをしたのと、声量の大きい朗らかな声が降ってきたのは、ほぼ同時。
つまらなそうな花の佳人の前に降り立ったのは、人間でいう美少年の姿をした神族だった。
幼い背から広がる大きな翼は、
白の天使とは違う、眩いほどの金色を宿し。
釣り目気味の瞳は煌々としたオレンジで、花の魔物にはない意志の光を見せている。
「久しぶりに来てやったのに、歓迎の言葉もないなんて。さすが愚かな魔物だ、礼儀がなってないな!」
「呼ばれてもいないのに突然やって来て、謝辞を強請るのが神族の礼儀か?
お前を構ってやるほどに無駄な時間はない。早々に去るがいい、
金翅鳥」
「ふんだ。俺はお前に会いに来たんじゃない、そこをどけ、ブルー・ローゼス」
まるで子供だな、言っていることがめちゃくちゃだ。
そう思いながらも青薔薇が言葉にしなかったのは、どう追い返そうかと思案を巡らせ始めたから。
地竜に背を預けたまま、静かな動作で腕を組んだ花の魔物は、威嚇の“さえずり”を浴びせ始めた小鳥を見やる。
小鳥といっても、彼は
金翅鳥……高等神族の一派である、長命な種族だ。
もともと魔族も神族も、高等に寄ればよるほど力が強まり、それは生命力にも比例する。
そのためあまり食事を必要とせず、繁殖能力にも低い彼らは、たったひとりで長い時間を過ごすことも常だ。
件の金翅鳥もその一人で、彼は普段、空の上にある天上界……"Garden"ガーデンにて暮らしている。
それなのに、時々こうして降りてきては、自分勝手な言い分と神族らしい高慢さを振りかざしているのだ。
(僕としては、さっさと仕留めて今宵のディナーにでもしてしまいたいのだが)
四代竜王のひとりを食らい尽くした自分が本気を出せば、それだけのこともできると自負している。
けれどもそれをしないのは、彼が愛しき地竜の旧き友人でもあったからだ。
ゆえに、花の魔物は言葉を返す。それが彼なりの、敬意だった。
「なぜ退かねばならない。彼はもう、僕の“
苗床”だ、
それに会いに来たところで、リンドブルムはもう何も応えない。なぜなら彼は死んだからだ」
「――……っ!!」
「ならばお前が此処に来る意味はない。早々に立ち去り、もう二度と来るな、ガルーダ。
何も発さぬ相手に言葉を投げかけたとて、寂しいだけだろう」
淡々と続いた言葉は一定の声量で、事実を述べただけの薄いもの。
けれどもそれを聞いた金の小鳥は、形の良い眉を吊り上げた。
「お前が、……お前が、それをいうのか!」
本来の姿である鳥を象った器であれば、綺麗な色の毛並みを逆立てていただろうか。
激昂した金翅鳥が翼を広げる。幾枚かの羽根が、金の光を伴いながら地へと落ちた。
「殺したのはお前だろう! リンドブルムを贄として選び、寄生し、花を咲かせたのはお前じゃないか!」
言い放ちながら、小柄な体が地面を強く蹴った。
その反動で先を丸めた翼を、勢いよく外へと広げ直し、
鎌鼬を作る。
乾いた音と共に過ぎ去った風は鋭い刃となって、花の魔物の蔓をいくつか切り落とした。
ぼとりと思い音を立てて、切られた部分が草の上へと転がる。
血の代わりに零れ落ちたのは、鮮やかな青の花弁だった。
「俺は許さないぞ、ブルー・ローゼス。いつかお前を引きはがして、必ず彼を取り戻す……!」
怒りが過ぎたのか、それとも子ども染みた
癇癪を起こしたのか。
涙混じりの悲痛な叫びを残して、金翅鳥が飛び立つ。その頃には、切られた蔓も元の長さに戻っていた。
もともと植物系の魔族は自己治癒力に長けているのだ。
その頂点に立っている青薔薇の妖恋花にとって、蔓を切り落とされるくらい、かすり傷のようなものだった。
(とはいえ。騒がしい客人には変わりない)
再び訪れた静けさに、花の魔物は臨戦態勢だった蔓を地竜の周囲へと絡め直す。
それから、おもむろに竜の頬のあたりを撫でると、僅かばかりの笑みを唇に乗せた。
「そんなことは、言われなくともわかっている。そうだ、僕が殺したのだ」
美しくとも荘厳で、けれどもどこか儚い目をしていた、地竜の王。
言葉を交わせたことはなかったが、彼の腕に抱かれた日々は色褪せぬまま、この胸にある。
「……僕がただの小鳥だったら。きみの傍にいられたのだろうか」
感情のない瞳が、ゆっくりと閉じられる。
澄んだエメラルド色の水の中では、花の佳人が愛しげに、物言わぬ竜へと寄り添っていた。
【 大地の揺り籠 】
きみが最期に教えてくれたのは。
ひとりはさびしいと、いうこと。