【凪の風狼】きれいな、綺麗な、ミッドナイト・ブルー。
でも、ごめんなさい。僕は震えてしまうの。
「本日はご足労頂き、誠にありがとうございます」
右手を前へとやりながら、優雅な仕草で
白亜の白獅子の麗人……アレクサンドラが会釈をする。
頭を下げる動作にうつくしい色をした髪がしゃらりと垂れて、
隣に立っていた
杏色の倉鼠のセピアは、ほんのりと顔を赤くした。
時刻は青の太陽が真上から少し傾き、柔らいだ陽光が吹きゆく風を温める、正午過ぎ。
おやつの時間にはいささか早く、昼ご飯にしては遅い中途半端な時間だというのに、
白獅子の屋敷にはひとりの魔物が訪れていた。
「こんな時間になってしまってすまないね。できれば共に昼食でもと、思っていたんだが」
冷たい銀の髪に、暗い青の瞳。
怜悧な空気を
纏う
美貌が紡いだのは、落ち着きのあるビブラート。
どこか作り物めいた“綺麗すぎる”笑みを浮かべる訪問客には、
髪色と同じくしたイヌ科系統の耳と尻尾 ―― あの大きさならば、狼系の種族だろう ―― が生えている。
『今日は珍しい客人がいらっしゃるから、一段と可愛らしくしておいで』
そうセピアが言われたのは、昨日の夜、アレクの腕の中でうとうととしていた時のことだ。
一日の終わり際である眠る前に、甘やかな獅子の指先で愛でられるのが、
ミルクティー色の
倉鼠の習慣なのだけれど。
幸せ心地のまま
微睡んでいたところを、要約すれば“明日はおめかしをしなさい”と言われたのは、初めてで。
(“いらっしゃる”は、偉いひとに使う言葉なんだってアレクさまが教えてくれた)
じゃあこのひとは、アレクさまよりもえらいひと?
頭を下げる白獅子とは対照的に、セピアは鈍い金の色をした両目を銀色の美男子に向ける。
じぃ、と注がれる
倉鼠の眼差しには、初めて見るものへの好奇心や興味が色濃く表れていて。
そんな無遠慮さを緩やかな笑みで受け止めた客人は、小さな
倉鼠の頭を一度撫でやってから、
未だ頭を下げ続ける白獅子へと声をかけた。
「そろそろ顔を上げたまえよ。今日はきみの友人として足を運んだつもりだ、堅苦しい挨拶はいい」
言い切られた言葉はどこか楽しげな声音で、相手の反応を
窺うように。
けれども、声をかけらたアレクは正反対の様相で、形の良い眉を寄せた。
(アレクさま……?)
あまり見たことがない白獅子の表情に、やり取りを見ていたセピアがぱちりと目を瞬かせる。
彼に恋する
倉鼠にとって、白獅子はいつだって悠々としていて、時に自分勝手な優しい暴君。
しかしそういうところも格好良くて仕方がない、憧れの存在だ。
(でも、今みたいに。どうすればいいか迷ってるアレクさまは、初めて見た)
大好きな白獅子の新たな一面を見られて、
倉鼠がきらきらと瞳を輝かせる。
優柔不断という言葉が全く似合わない獅子が、まるで道に迷ったかのように、決断に困っている。
もちろん、大丈夫かなという心配な気持ちもあるけれど、
……心情を掬い上げているのか後ろに倒れている耳が、ちょっぴり可愛くて。
(アレクさまはカッコいいだけじゃなくて、可愛いところもあるんだ)
そんなことを思いながら胸を高鳴らせている
倉鼠の気持ちを知ってか知らずか、
当のアレクは「どうしたものか」と言いたげな表情のまま唇を開いた。
「しかし、あなたはこの国の ―― 」
「アレク。できないのなら、私は帰るよ」
「えっ、まだ来られたばかりでは? ここは門前で、まだ屋敷には一歩たりとも……」
「そうだよ? だがね、きみがよく知っている通り、私は忙しいんだ。
というわけで、今日はこれで失礼し……」
「いや、お待ちくださ……! 待ってくれ、フェンリ……、ハティ!」
言葉通りに、くるりと背中を向けた客人から本気を感じ取ったアレクが、慌てて声をかける。
二度三度の訂正を加えられた呼び声に、ハティと呼ばれた銀色の狼は、上半身だけで振り返って見せた。
唇の端を吊り上げて笑う仕草は、実に満足げだ。
「やればできるじゃないか。では案内しておくれ、アレク」
「はぁ……相変らず我が儘なやつだ。セピアも一緒においで、遅い昼食にしよう」
「はい、アレクさま」
「おや? きみもまだ食べていないのかね」
「お前が来るのを待っていたんだよ」
先ほどまでの丁寧な対応ではなく、軽口を交わしながら、獅子と狼が歩き始める。
時に笑ったり、皮肉を言いあったりする二人は、旧知の仲という表現がぴったりで。
その一歩後ろの距離を保ったまま、同席を促された
倉鼠がついていく。
門をくぐり、屋敷の中へと進み。その間もトコトコと小さな足を進めるセピアは、
容姿端麗な獅子と狼の横顔にどきどきしたり、先ほどの“かわいいアレクさま”を思い出したりしながら。
「このひとはきっと、すごいひとだ」と、名前しか知らない狼のことを魔法使いのように思っていた。
◆
客人を交えた少し遅めの昼食会は、来客用の
豪奢な
食堂ではなく、
居間で行われた。
白獅子と
倉鼠が仕事の時間外によく利用している、華美過ぎない部屋だ。
真っ白い壁には
壁掛け花瓶や風景画が飾られ、
同じく白色のフローリングにはふわふわの
絨毯が敷かれている。
風が吹けば乾いた音を立てて青色のカーテンがはためき、午後らしい生ぬるい温度が縮こまったセピアの頬を撫でた。
ふかふかのソファに座り、お皿の並んだ少し大きめのテーブルに向かうのは、いつも通り。
けれども普段使いの部屋とはいえ、初めて会うひとと一緒のテーブルに着くのは、緊張してしまう。
それが『テーブルマナー』というものが完璧な相手となると、なおさらだ。
(こういう時のために、もっと練習しておくんだった……)
外の世界から命からがら逃げだし、白獅子に拾われた日から数か月程度の
倉鼠には、
ナイフもフォークもただの棒切れとあまり変わらない。
もちろん時々扱い方を教えてもらってはいるが、セピアが調理された食べものをうまく食べられるようになるには、
まだまだ時間がかかりそうで。
それをアレクもよく知っているからだろう、ミルクティー色の
倉鼠の前に置かれた皿には、
色とりどりの野菜がスティックタイプで並べられている。
(美味しいし嬉しいし、食べやすいけど。自分だけ手で食べてるのは、ちょっと恥ずかしい)
小さな両手でミニキャロットを握りしめてもぐもぐとしながら
―― そんなセピアを、アレクは殺人的に可愛らしいと思っていたのだけれど ―― 談笑している二人を見る。
いつも見ている通りに白獅子の
所作も気品に溢れているけれど、
銀色の狼……ハティも同じくらい上手に銀食器を操っていた。
白くて長い指先が、ゆったりとした動作で。赤いソースのかかった“何かの肉”を切り分ける。
思わず短めの尻尾が縮こまってしまうのは、小動物の
性だろうか。
(……ハティさんも優しそうなひとだから。食べられたりはしないと、思うけど)
難しい単語が飛び交っているらしく、二人の言っていることはよくわからない。
なので、彼らの会話を気にすることなく、セピアは未だ見慣れない狼をじっと見つめた。
窓から差し込む光を受けて、銀の髪が艶を増している。
長い
睫毛の下に収まるのは、思慮深さを
孕んだミッドナイト・ブルー。
(アレクさまと同じくらいきれいで、カッコいいひと。……じゃあハティさんも、高等魔族……?)
魔族も神族も。力が強ければ強いほど美しい見た目をしているのが、この世界での
理だ。
それがどうしてなのか理由はわからないけれど、
美しさ……“魅力”もまたひとつの武器だからだろうと、セピアは思っている。
食虫植物が甘い香りで虫をおびき寄せるのと同じで、“見惚れてしまうほどの美貌”も、十分な凶器なのだ。
具体的に言うならば、“こんな素敵なひとになら、食べられてもいい”なんて錯覚を起こさせてしまう。
だから、間違いなく。高等魔族の
白亜の白獅子と競り合うくらいの
美丈夫である狼は、この世界では強者の側だ。
(そういえば、アレクさまがさっき、何か言いかけてたっけ)
『しかしあなたは、この国の ―― 』
その続きは何だろうとセピアが思っていると、ふいに、
深青の視線が絡んだ。
「先程から、熱い眼差しを向けてくれているようだが。そんなに私が珍しいかね、セピアくん」
暗い夜の色に見つめられて、セピアの両肩が跳ねあがる。
微笑を含んだビブラートは穏やかな音色をしていたけれど、
濁りのないウルフ・アイに見据えられて、うまく呼吸ができなくなる。
別に責められたわけじゃない。それでも、生まれながらに捕食される側である
倉鼠の本能が、
小さな心臓を震わせた。
「あ、あの……その、ごめんなさい……」
「謝ることはないよ。こんなに可愛らしいひとに見惚れられるのは、気分がいいからね」
「ハティ、俺の可愛いセピアを口説くのはやめてくれないか」
「これくらい、口説くのうちに入らんよ。それより、きみ、ちゃんとこの子を可愛がれているのかい?」
苦笑交じりの声で、会話に割って入ったアレクへと狼の視線が移る。
そのおかげで緊張の糸が
解れたセピアは、へにゃりと耳を下げながら白獅子を見つめた。
助け舟を出してくれたのだろう、アレクは怖がりな
倉鼠へにこりと微笑んでから、狼へと視線を戻す。
「毎晩可愛がっているよ。昨日の夜もたいそう愛らしかった」
「!? ア、アレクさまぁっ……!」
「うん? どうした、セピア、顔を真っ赤にして」
「……なんでも、ないです……」
「ははは、仲が良いのなら何よりだ」
唐突に夜の
褥へと話題が移って、ぼんっとセピアの顔が赤くなる。
こういうケアにはたいそう疎い暴君は、そんな
倉鼠も可愛いと獅子の尾を揺らしていて。
一瞬にして室内に広がった睦ましい空気に、ハティは静かに笑って見せた。
穏やかなミッドナイト・ブルーの微笑はどこまでも優しい。
それなのに、目を合わせるだけで震えてしまう自分を、申し訳なく思ってしまう。
(……こんなにも親切そうなひとなのに。僕みたいな小さな生き物たちには、怖がられてしまうのかな)
願わくば自分だけであればいい。
そんなふうに思ったセピアに、狼が再度声をかける。
「けれどね、セピアくん」
「……は、はい!」
名前を呼ばれた
倉鼠が、背筋を伸ばして返事をする。
その拍子にぽとりとミニキャロットを落としてしまって、セピアは慌てて持ち直した。
小動物らしい忙しなさに、ハティがゆるりと瞳を細める。
「この国……“
風の叡智”では、きみのような小さな生き物の立場は、まだまだ弱い」
「……そう、ですか?」
「そうだよ。外の世界のように突然喰い殺されることはないにしろ、強者弱者の構造はあまり変わっていない。
それはきっと、私たちのような捕食者の
性によるものだろう。どうしても
上手に出てしまう」
きみが私を怖く感じてしまうのと、同じようにね。
当たり前のように告げられて、ちくりと胸が痛む。
けれども銀色の狼は柔らかなままの表情で、言葉を繋げた。
「だから、もし何か哀しいことがあれば。けして我慢せずに、アレクに教えてやっておくれ。
我慢して、怖がって。そうして離れていかれるのは、とても寂しいことだからね」
「さび、しい……」
それは自分が、アレクと一緒にいられない時に感じている気持ちだ。
弱い自分とは全然違うのに。こんなに強いひとたちにも、そんな感情があるだなんて。
「ぼ、ぼくは、アレクさまとずっと一緒が、いいです……!」
素っ頓狂な返答だったのかもしれない。
けれども口に出た言葉は心からの言葉で、なんの偽りもなくて。
名前を呼ばれた白獅子が、嬉しそうに喉を鳴らす。
そんなアレクの様子に小さく噴き出した銀の狼は、しっかりとセピアに視線を合わせながら。
「……こんな可愛らしいひとに出逢えて、アレクは幸せものだな」
憧れを見るような眼差しで、笑っていた。
◆
「ねぇ、アレクさまぁ」
今日は頑張って偉かったねと。寝る前のご褒美を貰った
倉鼠は、
白獅子の腕の中でうとうととしながら、甘えるような声をあげた。
素肌をさらしたまま微睡んでいる姿も愛らしくて、アレクのサファイア・ブルーの目尻が下がる。
ぽつぽつと染みのあるシーツが情事の余韻を引きずり、ふわふわのベッドが二人分の体重で沈んだ。
「なんだい、セピア」
「ハティさん、また遊びに“いらっしゃる”?」
少し掠れたソプラノは、たくさんアレクに愛された証だ。
眠たげなトーンで覚えたての言葉を使う
倉鼠に、白獅子が目を丸くする。
「ハティにまた会いたいと? お前はアイツが怖くないのか」
「こわい、けど……でも、こわくないもん」
駄々をこねる子猫のような台詞に、アレクがくつくつと喉の奥で笑う。
そんな白獅子も素敵に見えて、
倉鼠の胸がとくんと高鳴った。
煌々としたサファイアの瞳の中に、頬を赤らめた
杏色の倉鼠が映る。
「別に強がらなくていいんだぞ。ハティは狼だって、気付いているんだろう?」
「なんと、なく……でも、ハティさんはとても優しくて、いいひとだったもん」
「そうだな。あいつは基本的に、誰かに危害を加えたりはしない奴だ」
「だから、僕が怖いのはハティさんじゃなくて、狼、だもん」
「同じことじゃないか」と言いかけて、アレクは言葉を呑み込む。
小さなサイズに相応しい思考力しかないセピアは、ハティが聞いたら
傲慢だと哂いそうだが、
あまり賢いほうではないと白獅子は思っている。
何かを深く考察することは苦手だし、考えすぎて知恵熱を出してしまうタイプだ。
(そんなセピアが本能と向き合って出した“答え”だ。それはきっと、大切なものなんだろう)
それは違うと。簡単に相手を否定することこそ、
驕った考えなのだ。
小さな生き物にだって痛みはあり、自分たち強者の側にいる高等魔族には、見えない世界を生きている。
遠くの虹を見つけるのは背の高い自分たちかもしれないが、
水たまりに映り込む
七色を見つけられるのは、下を向いて歩いている彼らなのだから。
(ならば、互いに教え合えば良い。
この国ならば、それができる)
外の世界ならば夢物語だと言われそうなを思いを抱きながら、白獅子は愛おしい
倉鼠の頭をそっと撫でた。
アレクの骨ばった指先が動くたびに、柔らかなミルクティー色の髪が揺れる。
甘い香りが漂いそうな気がして、白獅子は誘われるように顔を寄せた。
「アレクさま……?」
「ハティはね、俺がもっと小さいころからの、友達なんだよ」
ごろごろと喉を鳴らしながら、セピアの肩口に顔をうずめる。
ちろりと舌で舐めあげると、くすぐったそうな声があがった。
「あいつはああ見えて寂しがりだ。だから、またこの屋敷に招いてもいいか?」
「うん。アレクさまが嬉しいなら、僕もうれしい」
次は震えないよう、がんばる。
顔を上げたアレクが見たのは、臆病な
倉鼠のささやかな意気込みだった。
雷の音にすら飛び跳ねてしまう心臓を持っているというのに、狼を怖がらないよう頑張ろうとしているだなんて。
「……本当に。俺はお前に出逢えてよかったよ」
可愛い、いとしい、……愛らしい。
胸に広がる温かなものに色々な名前を付けた白獅子は、
倉鼠の額に触れるだけのキスを送る。
まるで恋人同士が贈りあうようなおやすみの合図に、セピアはゆっくりと瞳を閉じながら。
(そういえば、結局ハティさんは、この国のなんだったんだろう?)
ねむねむな頭で、今度アレクさまに聞こうと考えていた。
【
凪の風狼】
この世界で一頭しかいないという高等魔族、"
凪の風狼"。
艶やかな銀灰色の毛並みを持ち、ミッドナイト・ブルーの瞳を持つその狼は、
魔族でありながらも神族に限りなく近く、風を手繰る力を持っているという。
その強大なる力と聡明さを好まれて、
風竜王より“
風の叡智”を任されているフェンリスの名は、
―― ハティ。
ひとり玉座に腰掛け、忙しい日々を送っている彼が再びセピアと顔を合わせるのは、これから数か月後のことになる。