猫になった亜双義 ぱち、と目を開け、あくびをひとつ。もう朝だろうか。クローゼットの中は薄暗く時間は分からなかった。いつもならぼくが起きる前には亜双義が朝だとクローゼットを開けてくれるのに。
あいつはぼくよりも随分と早起きである。毎朝の鍛錬のためだ。亜双義がぼくを起こしにこないということは、珍しくぼくの方が早く起きたのかしらん。それともあいつが寝坊しているのかな。
かちこちになった身体を捻りながら、のっそりと起き上がりクローゼットの扉を開ける。ぎぃと扉が開く頃には「おはよう、相棒」と聞こえてくるはずの挨拶はない。
おかしいな。不思議に思ってクローゼットの中から這い出て、きょろきょろと辺りを見回してみるが、誰もいない。亜双義はお手洗いにでも行っているのだろうか。
まだ寝ているのかもしれないと一応ベッドを見てみる。なぜだか空っぽになったあいつの服があった。空っぽになったその服のあたりがもぞもぞと動いたと思うとそこからなにやら黒いカタマリが現れた。
「猫?」
亜双義の代わりに居た真っ黒いカタマリは猫だった。その黒猫は頭に、なぜだか似つかわしくない赤いハチマキを巻いていた。その赤いハチマキは、まるであいつみたいに頭の後ろでひらひらと揺れていた。綺麗な黒猫は背筋をぴんと伸ばして真っ直ぐにこちらを見てくる。
そのぼくを見つめてくる真っ直ぐな眼差しにはとても見覚えがあった。
「お前、亜双義なの?」
猫に尋ねるとその黒猫は、にゃあと短く鳴いた。
どうやら、亜双義は猫になったらしい。
「一真様?」
コンコン、とドアがノックされ女性の声がする。どうやら法務助士の寿沙都さんが訪ねてきたようだ。
あぁ困った。どうしようか。正直に話したところで信じてもらえるかどうかは分からないし、なによりぼくがいることについてどう説明すればいいのか検討もつかない。
とりあえずぼくは猫にクローゼットに入ってもらうことにした。動物の密入国が見つかっても問題だし、そもそも人間が密入国しているのだ。どちらにしても問題となるだろうとぼくは考えた。さっきまでぼくが入っていたクローゼットを開けるとここに入っておくように猫になった亜双義にお願いした。猫はなんとなくであるが不満そうに見えた。お前だってぼくをここに入れてたくせに。猫が入ったのを確認してクローゼットの扉を閉める。
「一真様?」
再び声がする。ぼくは慌ててドアの前まですっ飛んでいくと鼻をつまんでできるだけ亜双義っぽい口調を心がけて返事をする。
「おはようございます。一真様。お目覚めですか?」
「み…御琴羽法務助士か」
「一真様? なんだかお声が変ですね。風邪でもひかれましたか?」
「あ、あぁ。そうなんだ」
「まぁ、それは……。大丈夫でしょうか? 熱は? お薬は……」
「い、いや。喉が痛むだけでそんなにたいしたことはない」
風邪をうつしてしまうと悪いのでこちらには暫くこなくていいと彼女に伝える。
「一真様がお風邪をひかれるなんて……」
外から聞こえる彼女の声色からは心配していることがとても伝わってきて、騙していることがひどく心苦しかった。心苦しいが正直に話すわけにもいかないので大げさに咳を何度かしておく。「もう、ぼ……俺は休むとする」と伝えれば「分かりました。なにかあったらお申し付け下さい」と彼女は最後まで亜双義のことを心配していた。
ドアの外の足音が名残惜しそうに遠ざかっていくのを確認し、ぼくはやっとのことで鼻から指を離して息をつく。
「さて」
クローゼットを開けてやれば、隅っこのほうで猫は丸くなっていた。こちらをちらりと見るその目つきはひどく不機嫌そうだった。おいで、と呼びかけるとすたすたと猫はこちらまで歩いてくる。
「お前は本当に亜双義なの?」
猫を抱き上げてもう一度問いかけてみる。抱き上げられた猫は爪を出してぼくの手をひっかく。驚いたその拍子に手を離してしまい、猫はすとんと地面へと降り立つとどうだ、と言わんばかりの表情をした。
「分かったよ。信じるよ」
猫になった亜双義は満足そうに鳴き声をあげた。
猫になった亜双義は、それはそれは綺麗な真っ黒い毛並みをしていた。猫のくせに背筋をしゃんと伸ばし、せかせかと風を切って部屋の中をうろうろと歩いて、ぼくの足元に纏わり着いた。
亜双義の服はベッドにぐしゃぐしゃに置いたままだった。不思議なことにいつもの赤いハチマキはそこにはなかったから、やっぱりあの猫のハチマキは亜双義の物なのだろう。都合よく亜双義の赤いハチマキだけ縮んだというのだろうか。
ひょっとしてぼくは、亜双義に悪戯をしかけられているのではなかろうか。どこかで亜双義は隠れてぼくを笑って見ているのではないだろうか。ぼくどころか猫まで密航させて随分と大掛かりな悪戯だ。
亜双義がどこかにいないかとぼくは、ベッドの下やらゴミ箱の中を覗き込む。
船室内のありとあらゆる場所を探してみたが亜双義は見つからなかった。
「どこにいるの? 出てきてよ」
呼びかけてみたが返事はない。黒猫が鳴くだけで亜双義はどこにもいなかった。
「やっぱりお前がそうなの?」
赤いハチマキが返事のように猫の頭の後ろでひらひらとなびいた。やっぱり亜双義は猫になったらしい。
ふたりで半分に分けていた食事も同じように半分に分ける。今日は牛肉料理だった。赤いソースがたっぷりとかかったステーキだった。あの事件をちょっと思い出したが肉の味には関係ないだろう。
猫になったとはいえ、亜双義だ。親友を床に置いて食事をとるのもどうかと思うし、かといって椅子に座らせれば高さは足りない。机に乗ってみてはどうだろうかと提案したが猫になった亜双義は首を振って嫌がった。
猫になってもお行儀が悪いのは許せないらしい。人間のときだってあいつは大して行儀がよかったとは思えないのだけれども。(なんせ人が勉強しているときに机に圧し掛かってきて、そのまま抱けなんて言ったこともあったのだから)食事はまた別なのだろうか。あのとき食事をしたのは亜双義ではなく、ぼくだった気もするけれど。そんなことを考えていたら猫になった亜双義に叩かれた。なんだよ、ぼくなにも言ってないのに。
爪を出さないだけマシということだろうか。
結局ぼくの膝の上に猫になった亜双義を座らせて食事をさせることになった。猫の手ではナイフもフォークも使えはしないのでせっせと肉を切り分けてはあいつの口元に運んでやる。
指についたソースまで綺麗に舐め取られてひどくくすぐったかった。
「美味しい?」
「にゃあ」
「そりゃ、よかった」
猫になった亜双義は、食事を半分とまでは行かなかったが結構な量を食べた。でも亜双義が人間だった昨日までの食事より、ぼくの取り分は少し増えた。
ぐん、と背伸びをして、猫になった亜双義がぼくの顎辺りをみゃと少し舐めた。ざらざらとした猫特有の、人間のとはまた違った舌触り。ぼくの顎にソースでもついていたみたいだ。
ご飯のとき、しょっちゅうぼくが頬っぺたにつけていたご飯粒を笑って取ってくれたことを思い出す。
猫になった亜双義は、猫になっても亜双義だった。
夜になる。お腹もそこそこいっぱいになって、眠くなってきた。ただ、ひとつ問題があった。一体どこで眠ろうか。
ぼくがベッドに寝ていて、万が一見つかればややこしいことになるし、猫となった亜双義をベッドに寝かせていてもやっぱり騒ぎになるだろう。
あれこれ考えた挙句クローゼットでふたり一緒に眠ることにした。クローゼットの隅っこで丸くなるぼくの懐で猫になった亜双義が丸くなる。猫になっても亜双義はやっぱり温ぬくかった。
目が覚めると猫はいつの間にか消えていた。猫になった亜双義が人間に戻ったのかと思い、大急ぎでクローゼットの扉を開けると、そこからあいつが持ち込んだ畳の上に猫となった亜双義がぴんと背を伸ばして、ちょこんと座っているのが見えた。猫になった亜双義はやっぱりまだ猫になったままだ。
猫の姿のまま静かに座していた。不思議なことに猫になってもあいつはかっこよかった。
そういえば、亜双義は毎朝あんな風に座禅を組んでいたっけ。それにしても器用なことだ。猫のあんなにちっちゃな手を使い、ひとりでクローゼットの扉を開けたのだろうか。
あいつの邪魔をするのも悪いだろうとぼくはじっと静かにその様子を見ていた。
猫になった亜双義はまったく動かなかった。
猫になったのだから人間の食事と同じものばかり食べさせていてもどうなのだろうかとぼくは考える。
船員にミルクでも持ってきてもらおうかと思ったが、ぼくが姿を見せるわけにもいかず、仕方がないのでこっそりと厨房に忍び込んでミルクをひとつ拝借してきた。
見つかったらどうしようかと思ったがうまい具合に大丈夫だった。
猫となった亜双義は美味しそうによくミルクを飲んだ。ミルクだけはどうしようもなかったので皿から直接飲んでもらうことにした。
猫になった亜双後の口元には白いミルクがたくさんついていた。ぼくはそれを手で拭ってやった。
「これじゃいつもと逆だな」
ぼくが笑うと猫はつん、と澄ました顔をした。猫らしからぬ具合に背筋をぴんと伸ばして赤いハチマキをなびかせた、美しい黒猫の口元にはまだ白いミルクがついていた。
ちゃんと拭けてなかったようだ。なんだかひどく微笑ましい気分になってしまった。あいつも、ぼくに対していつもこんなことを思っていたのだろうか。
呆れたような、なんとも言えない表情でぼくの口元に手を伸ばす亜双義の顔を思い浮かべる。
「なんだかお前の顔、忘れちゃいそうだよ」
なんて、ね。ぼくは猫になった亜双義の口元に残った白いミルクの汚れを指でとってやった。
亜双義が猫になってから何日も経った。今日の料理は魚だった。
残念なことに今日のぼくのおかずの取り分はなかった。魚は全部猫になった亜双義が食べてしまったからだ。仕方がないので残った付け合わせのサラダやらはぼくが頂いた。
猫になった亜双義は食べてすぐに寝転がって満足そうにごろごろと喉を鳴らすのでその頭を撫でてやった。いつもなら食べてすぐに横になるなってお小言を言うところなのに。
一体いつ、こいつは元に戻るのだろうか。
亜双義が猫になってよかったことといえば、ぼくの食事の量がほんのわずかばかり増えたことかもしれない。
それでも初日と同じく食事は毎回半分に分ける。残した分はぼくが食べたり亜双義が好きなものは余分にあげたり、欲しがるものはいくらでもあげた。
ただ、猫になっても嫌いなものは変わらないらしく今日の鶏肉料理に猫になった亜双義は見向きもしなかった。
鶏肉を半分に分けてはみたけどぷいっとそっぽを向いてしまった。
「好き嫌いはよくないぞ」うりうりと頭を撫でてやれば不機嫌そうな低い声で「にゃー」と睨まれてしまった。
そんなに怒ることはないだろうに。
次の日の朝。密航者が出たのだと少し騒ぎになっていたからぼくのことかと身構えたがそうではなかった。
何度かやってきた亜双義の法務助士を誤魔化すのは大変だった。そろそろ限界だろう。
「このまま亜双義がもどらなかったらどうしようか」
不安になってきた。とりあえずぼくは密航者として捕まってしまうだろうか。そうしたら猫になった亜双義は? 誰が、亜双義が猫になったと信じてくれるのだろうか。
信じてもらえずに次の港でぼくはもちろん、猫になった亜双義も降ろされてしまうだろう。いや、港ならまだしも、海に放り出されてしまうかもしれない。
一人と一匹でどうやって日本まで帰ろうか。人間の亜双義は泳げたが、猫になった亜双義はどうだろうか。猫は水が苦手だったと聞いたことがある。
「お前と日本までどうやって帰ろうか」
このまま亜双義が猫だったらトランクにでも詰めてまた密航しようか。人間のぼくより幾分もきっと楽だろう。
お前もぼくのように暗くて狭いところに閉じ込められる身になってみるがいいと、猫の鼻をつっついてやる。猫になった亜双義は不思議そうに首を傾げ、あまり分かっていないのかあくびをひとつしただけだった。
その日の夜、猫になった亜双義はクローゼットで寝てくれなかった。ぼくがいくら呼んでもクローゼットの中に来てくれなかったのだ。
諦めずに何度も呼んだがぼくは眠くて仕方がなかったので最終的にはそのままにして眠ってしまった。
そのかわりかその日、人間の亜双義が夢に出てきた。
「亜双義!」
なんだか、ひどく久しぶりだな。元気か? いや、毎日会っているはずなのにそんな風に思うのはなぜだろうか。
夢で久々に見た人間の亜双義はずっと笑っていた。ぼくがなにを話しても、返事もせずに笑うだけだった。亜双義はぼくになにも話してはくれなかった。
夢ながら変だな、と思っていると目が覚めた。
目が覚めたぼくのそばには、いつの間にクローゼットの中に入ってきたのか猫になった亜双義がいた。今日は朝寝坊なのかよく眠っていた。猫になった亜双義を抱きしめる。
猫になった亜双義はやっぱり温かった。
「このまま、おまえが猫のままでもそれはそれでいいかも」
ぼくは言った。だってなんだか幸せそうだもの。猫になった眠る亜双義を抱えてぼくはクローゼットの外へと出る。
「たとえ、猫になってもお前はぼくの親友だよ」
このまま見つからずにうまく倫敦についたらどうすればいいのだろうか。まずは正直にぼくのことと亜双義が猫になったと話してみるか。信じてもらえないかもしれないけど。
猫になった亜双義と大暴れできたらしてみたいな、海の向こうで。どうだろうか、亜双義。お前は怒るかな。そりゃ、人間に戻りたいよな。
気付けば猫になった亜双義は起きたのはぼくの腕からするりと抜けて床へとおりた。
「どこにいくの?」
思わず問いかける。猫になった亜双義はぼくのほうを振り返ってにゃあと、ひとつ鳴いた。あたりを見渡してみる。この船室はこんなにも広かっただろうか。
周りが突然真っ暗になる。真っ暗なはずなのに猫となった亜双義の姿は不思議なことに見えるのだ。
「亜双義」
待ってくれ、と声をかける。猫は奥へ奥へと進んでいく。
真っ暗な中、真っ黒な猫の赤いハチマキがひらひらとなびくのがひどく目立った。それもやがて、真っ暗な闇の中に消えてしまった。猫になった亜双義は消えてしまった。
そこでぼくは目が覚めた。
狭いクローゼットの中でもベッドの上でもなく、固い机に突っ伏してぼくは寝ていた。目の前に積み上げられた法律の専門書がある。ちっともよく分からない。
勉強をしているうちにいつの間にか眠ってしまったようだ。
ぼくは立ち上がり、あちこち見渡す。船室内のありとあらゆる場所を探してみたが亜双義は見つからなかった。ベッドの下も、ゴミ箱のなかも覗きこんでみる。
「どこにいるの? 出てきてよ」
呼びかけてみたが返事はない。亜双義はどこにもいなかった。ぼくは空っぽのベッドにぼすんと横になる。クローゼットで眠る必要ももうなかった。
あぁ、きっと。
お前が猫になったらずっと一緒にいられると、そう思ったのかな。
おしまい