恋に焦がれて鳴く蝉よりも 静かに夜が満ち満ちていく。今宵は新月のようで、月のない空に小さな星々の光が、真っ暗な闇夜のなかで頭上に瞬く。
気怠い体を起こして、頭をかく。開け放した窓からは夏特有の少し熱を帯びた風が少し入り込む。
窓際に立てかけられていた“それ”を指さして、亜双義はたまらず成歩堂に尋ねる。
「あれはなんだ? 三味線か?」
「あぁ、うん。この前もらったんだ」
友人に金を貸し、返ってこない足りない分はこれで勘弁してくれとそいつは三味線を寄越してきたらしい。
「つまり。借金のカタ、というわけか」
まぁそんなところだよと、返事をしながら壁に立てかけてあった三味線を成歩堂が手にする。そのまま戯れのように弦を弾く。びぃぃんと、弦が震えて音が響く。
「ちょっと弾いてみてくれないか」
「えぇっ、ぼくあんまり上手くないよ」
「せっかくだから聞かせてくれ」
そんなに言うなら分かったよ、と。褌ひとつ、シャツ一枚を身に纏った成歩堂は窓辺に腰かけて三味線を持ち直す。姿勢を正して、目が細められる。その目は亜双義にはよくよく見覚えがあった。
男は真剣なまなざしで三味線を見つめる。
びぃん。
弦を押さえて、弾く指の動きはたどたどしく拙い。ててぃん、てぃんと旋律が響く。すぅ、と口を少し開いて息を吸い込み、唄う。
「恋に焦がれて 鳴く蝉よりも」
―ててぃん、てぃん
「啼かぬ蛍が 身を焦がす」
―てぃん、てぃん
弾き終わると小さく息を吐きだして、どうだ? と成歩堂。亜双義はパチパチと手を叩き、拍手を送ると成歩堂の傍へと近づく。
「都都逸、か」
「うん。この一曲しか弾けないんだけどね」
「なに、見事なものだ。キサマにそんな特技があったとは意外だな。女を口説くには、一曲あればそれで充分だろう」
なんだそれ、と成歩堂は笑う。
口ほどにものを言う目を持つこの男は一体どのようにして女性を口説くのだろうか。亜双義は単純に気になった。情熱的に愛の言葉を紡ぐのだろうか。成歩堂は案外と口が達者である。だが、この男は女の前ですらすらと淀みなく言葉が出るのだろうか。
すい、と身を乗り出して顔を近づける。
「俺を口説いてみろ、成歩堂」
「亜双義、お前……」
酔っている? と続けられてあぁ、もちろん酔っているともキサマにな、とくくくと笑って返せば成歩堂に呆れられた。
ことり、と三味線を置いた成歩堂の体に腕をまわし、抱きしめる。
「あーもう、口説けって一体どうすればいいんだよ」
「簡単なことだろう」
「貴方様をお慕いしております、とかそういうの?」
「零点」
「なんなんだよ。採点するのかよ」
「もう一度弾いてくれ」
ん、と了承した成歩堂が三味線を手にする。ごろんと俺は横になってそれを見上げた。
「恋に焦がれて 鳴く蝉よりも」
―ててぃん、てぃん
「啼かぬ蛍が 身を焦がす」
―てぃん、てぃん
指先が弦を弾いて旋律へと変わっていく。たどたどしく紡がれる唄は音となって自身へと注がれる。
啼かぬ蛍、か。とんでもない。その身を焦がすよりこちらの身を焦がさんばかりの熱を注いでくるというのに。そうか、キサマはそのように口説くのだろうか。少し違うのだろうか。
ただ、好きだというのは伝わってくる。羨ましい。一身にそれを注がれているというのに。口説かれた記憶はないからな。そもそもの始まりは分からない。いつから交わったのか。
不思議だと思う。撥はないから、と指で弦を器用に弾いていく。つっかえつっかえだがそれでも音が紡がれているのだから。
動く指をじっと眺める。そうして、それが止まってふぅ、と息をつく。
かたん、と三味線を脇に置く。照れ臭そうに成歩堂が亜双義を見る。ふい、とその手をとって指を眺める。
「オレはキサマの指がいっとう好きかもしれぬ」
ぴく、と身じろぎする。あぁよくよく見れば小さな傷があちこちにある。れろ、と滑った舌でそれを舐めると「ん」と小さく成歩堂が呻いた。
「傷がついてる」
「たい、したことない……よ。大家さんとこで草むしりして、それ、で……ちょっと……」
痛むか、と尋ねればふるりと首を振る。
「平気」
そうか……。じぃっと見つめる。ふと、気づく。
「爪は、綺麗なんだな」
短く、丸みを帯びた成歩堂の爪。指先には無頓着なくせしてそこは充分すぎるほど整えられていた。
「そりゃ、まー、その……傷つけないように…さ……」
目が泳ぎ、暗闇でも分かるほど真っ赤になった成歩堂の顔。あぁ、そうだ。
「オレはキサマのそういうところがいっとう好きだ」
無骨な指。亜双義のより少し短くて太い。綺麗でもない。どう見ても男の指だ。
そして亜双義が好きな成歩堂の指。これが自分さえ知らない奥深くに入り込んで、自分を解すのか。丁寧に傷つけぬように。そんな柔な体でもないというのに。
れろ、と指に舌を這わせ、たまらず口に含む。成歩堂が慌てているのが分かる。
そうして囁く。
「成歩堂、足りぬ」
あれ、これぼくが口説かれてるのかしらん、と聞こえる。
「え、えーと……その、亜双義、お前寒くない?」
だって、ずっと布一枚だし、窓開けっぱなしだし、としどろもどろに成歩堂が尋ねる。大丈夫だ。
「どうせ、すぐに熱くなる」
亜双義が口づけを目の前の赤い男に贈れば、たちまち世界が反転する。上から降る、素直な男の口づけを受け入れながら亜双義はゆるりと笑った。