神隠し 巷で近頃神隠し騒ぎが起こっているらしい。成歩堂がそんな噂を聞いたのは大学での話だ。噂によると消えるのは若い娘ばかり。ただ大体一晩経つと帰ってくるらしい。
そうして帰ってきた娘は大きなお腹を抱えているらしい。嘘か真か。そんな噂話だ。どこかの御伽草子だとかなにかの祟りだとか、いや、帰ってこなかった女もたくさんいるのだ、とか。奇怪な話が好きな級友たちが話していた。
そんなある日、亜双義がいなくなった。真面目な男だというのに講義を無断で欠席し、珍しいこともあるのだと思っていた。
気になって下宿先に行ってみたもののそこはもぬけの殻であった。大家に聞いても亜双義は見つからない。
それから、三日三晩経ってようやく帰ってきた彼は大きなお腹を抱えていた。真っ白な見たこともない着物を身に着け、裸足で歩くその男はお腹を撫でながら「見ろ、成歩堂。お前の子だぞ」と親友に告げる。
「違うよ。だってお前、どうやって男が孕むんだ」
ぼくはいたって冷静に告げた。
それを聞いてあいつは「そうか、じゃあこれは一体なんなのだろうか」と哀しげに目を伏せた。
「なにが産まれても認知してやるよ」そうぼくが言えば「キサマは馬鹿だな」とやっと亜双義は笑った。
***
膨らんだお腹のまま亜双義が過ごす。さすがに大学には行けないと、休んでいる間のノートは成歩堂がせっせと取ってやる。
「いつもより腹が減るのだ」と。いつもよりもたくさん食事をとる亜双義と一緒に成歩堂は食事をする。
「ぼくの分もご飯いる?」と言えば珍しいこともあるものだ、といつものように亜双義は笑った。
それからしばらく経って亜双義がまた姿を消す。
成歩堂はぼんやりとなにが出てくるのだろうかと考えた。
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亜双義は成歩堂の前から姿を消してひとり山奥へと行く。以前見つけた山小屋に隠れ住む。腹からそろそろ何かが出てくるのだろう、そう思ったからだ。
そうして亜双義はひとり出産する。いや、出産といえるのか分からない行為だったが確かになにかが彼の中から出てきたのだ。
胎内から出てきたのはなんだったのか。
生き物だったのか妖だったのか。生きていたのかしんでいたのか。どろりと自分から出てきた赤黒い血に塗れた塊に刀を突き立てた。動きもしなかった。それは燃やして灰にして、土となった。
確かにいたのに、胎の中に。俺の中に。
膨れたお腹はもう萎んでいた。一度ぐらい成歩堂に触れてもらえばよかった。そうすればあれが自分の鼓動か胎内の鼓動か確かめられたのに。
***
亜双義は成歩堂の元へ帰ってきた。
亜双義のお腹は暫くして萎んでしまった。
「なんにもなかった」
そういうあいつはなんとも言えない表情でお腹を撫でた。
「触れてもいいか?」
ぼくはそっとお腹に触れて、ぴたりと頬をつけてみた。なんにもないがらんどうのそこ。膨らんでいるときに一度でも触れてみればよかった。なにかあったかもしれぬのに。
「なんにもないだろう」
「うん、なんにもないね」
ぼくの耳に亜双義の鼓動の音だけがやけに響いた。からっぽのひどく寂しい音だった。
***
饐えた匂いがした。肉が腐っているのか。饐えた匂いとはこれ如何に。食べるものだと認識しているのかと笑う声がした。俺をここへと呼んだ声と同じだ。
女のほうが柔らかくて旨いのにと。若ければいいだろう。男なら多少は丈夫だろうと。
頭の上の方で口々になにかの声がする。ぐわんぐわんと反響する。湿った空気。ぴちょんぴちょんと水音がした。体に鉛を埋め込まれたようにひどく重かった。
張り巡らせた糸に絡まり、足が宙に浮く。どうなるのだろうか。一体俺は。目を閉じているのか開けているのか。分からない。真っ暗闇で感覚だけが鋭くなっていく。
ぐちゅぐちゅと熱いモノ。
蠢くモノが肌を這いずりまわる。気持ちが悪い。着物の裾から何かは侵入してきた。着物…。いつの間に俺は着替えたのだろうか。
自分の胎の奥底に入っていくのか出ていくのか分からない。小さな滑った何かは己の穴という穴から入り込んでくる。
「亜双義」
聞きなれた友の声がした。
成歩堂。あぁ、成歩堂か。キサマの足は一体いつから七本にも八本にもなったのだろうか?
きぃきぃと耳触りな甲高い爪音がする。いまだ目は開いているのか閉じているのか分からない。母のような声がする。母? 母なぞいないはずだ。こんな暗くて臭くて湿ったところに母はいない。
ぞぞぞぞぞぞ。
足がたくさん。百本ほどか。ちくちくした黒い長くてぞろぞろしたものが俺を取り囲む。
「亜双義」
あぁ、成歩堂。キサマの足はまた増えたみたいだな。