人魚龍アソ「泳ぎに行きたい」と亜双義が言った。家の浴槽の中は窮屈なようだ。亜双義は立派な尾びれを大きな音を立てながら、びたんびたんと揺らす。
そのせいか浴槽を掃除すると底のあたりにキラキラした薄桃色の亜双義の鱗がたくさん落ちていたので、もったいないから拾って集めておいた。
夜になってから人魚になった亜双義を自転車の後ろになんとか載せるとぼくは街を走り抜ける。ズボンは履かせることができないのでTシャツを着せただけ。
「いま人間に戻ったらどうしようか」と亜双義が冗談か分からぬ口調で言うものだから、ちょっと長めのお尻が隠れそうなでっかいTシャツにしておいた。
念のためにパンツだけでも持っていけばよいか。
がたがたと揺れる自転車のペダルをまわす。ぼくの腰をぎゅっとつかむ手を見れば水かきがあった。
自転車を止めて、柵を乗り越えて小学校の校庭へとおりたつ。
「なんだか悪いことをしているみたいだ」
「みたいだ、じゃなくて立派な悪いことだがな」
させたのはオレではあるが、とぼくに背負われた亜双義がにやりと笑った。
「人に見つかっても置いていくなよ」
「行かないよ」
夜の小学校のプールは静かでひっそりとしていた。いまはちょうど暑い季節だからプールには水が入っていた。昼には子どもたちがここで授業をしているのだろう。
「塩素だっけ? 大丈夫かな」
「なにがだ」
「お前の体に影響がないかなって」
まぁ、大丈夫だろうと亜双義が言うのでよっこいしょと背負っていた亜双義を下ろして水の中につけてやる。Tシャツは脱がせておいた。
ぽちゃんと水に入った亜双義はそのままざぶんと水中に潜っていく。しなやかにしなった尾びれがきらりと光り、ぼちゃん、と音を立てて消えていく。
プールサイドに腰かけてそれを眺める。真っ黒な水の中で亜双義が動いているのがなんとなくだけど見える。
「あぁ」
気持ちいい、と顔だけ出してぷかりと浮かんだ亜双義が嬉しそうにしていた。
夜のプールなんて来たことがあったろうか。小学生のころ、夏休みに一度校庭にテントを張ってのお泊り会があった。そのときに、お風呂代わりにみんなでプールに入ったはずだ。
あと、音楽の先生が言ってたっけ。夜のプールで引きずり込まれる子どもの話。子どもの頃は怖い話をなぜみんな聞きたがっていたのだろうか。ぼくは怖くて必死に耳を塞いでいた。
『プールが子どもを食べちゃうのよ』
ひとつくくりの髪の長い先生は、そんな無邪気な口調で言っていた。夏休みにお泊り会を控えていたぼくはとにかく怖くてたまらなかった。
空に雲が出てきたせいか月が隠れて真っ黒になる。もう深夜近くだから、周りの家も暗い。街灯だけがぽつぽつと光る。
「……亜双義?」
そういえばあんまり亜双義は浮かんできてない。いくら人魚になったからといって、呼吸は?魚?あれ?人魚って泳げるんだよね?
ただ下半身が魚になっただけでは?
「亜双義!」
プールを覗き込む。心臓が早鐘をうつ。全身が熱い。溺れて?まさか?亜双義が?
目をあちこちに動かすが水面は凪いでおり、真っ黒だ。月が出てきたら見えるのに。
『食べちゃうのよ』
昔聞いた、怖い話のこと。なんだって、いまそんなことを…。
刹那、世界が反転して真っ黒になる。
気が付くとぼくは腕をとられプールに引きずり込まれていた。
『プールが子どもを食べちゃうのよ』
おっかしいなあ。ぼくは子どもじゃないのに。
目を開けても水の中じゃ視界がぼやけるし、目は痛いし、真っ黒だ。
慌てて立ち、(小学校のプールなだけあって浅かった)水から顔を出す。勢いあまって水を飲んでしまったようで咳き込むぼくの耳にけらけらと笑い声が聞こえてくる。
「くっくっく……なんて顔しているんだキサマは」
「あ、亜双義!」
よかった、食べられちゃったじゃないかと心配してたんだとぼくが言えばふきょとんとした顔をされた。
あら? ぼくはそんな変なことを言ったのかしらん。
「まったく、もう」
月が出てきて亜双義が見える。水にすっかり濡れた彼は呆れたような、嬉しそうなよく分からない表情を浮かべていた。
「なんでこんなことしたの?」
「すまんすまん」
あまりにも気持ちがよかったからな、一緒に泳ぎたかったんだと無邪気に答えられてしまえばぼくは怒る気も無くなってしまった。
「成歩堂」
「へ?」
亜双義の濡れた手がぼくの腕をつかむ。引き寄せられて、べちゃりとした感触。濡れた服は気持ちが悪いや。
両手で頬をつかまれる。冷たい。いままでの亜双義の手と違う。水かきのせいだろうか。
顔を上げさせられると、亜双義の怪しく光る瞳とその後ろに空に月が見えた。
…金、色?
むにっとしている。そしてやっぱり冷たい。
「びちょびちょだな」
「お前は、裸じゃないか」
キスが終わるといつもの顔した亜双義が笑った。