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    暮れて夜には帰らない 阿選は窓辺から雲海を眺めていた。六寝は静まり返っている。城門が開けられたことは承知していた。当然だ、驍宗は宮城の正当な主だ。驍宗が帰ってきて門を閉ざしている兵卒などいない。
     もはや阿選を主上と仰ぐ者は誰もいない。阿選は奸計を弄し正当な王を弑そうとした卑劣な逆賊に過ぎない。
     阿選は無感動にそれを受け止めていた。阿選は負けた。最初から負けていたのだ。七年前、泰麒が驍宗を選んだあの時から、あるいはそれよりもずっと以前から阿選は驍宗に敗北していた。
     阿選の天への復讐は成功しなかった。途中までは確かにうまくいっているように見えた。台輔を軟禁し驍宗を幽閉して、位を宙に浮かせる。阿選は王として主座にありながら政を放棄し、戴が荒れるに任せる。
     驍宗と台輔を奪還されてもなお、元の禁軍の大半はこちらにある。もちろん彼らは本来の主上に剣を向けることを嫌がるだろうが、命じれば必ず従う者はいる。下命は兵卒にとっては絶対だ。阿選は運が良ければ驍宗と刺し違えることもできなくもない、と思っていた。
     誤算は驍宗側の軍勢だった。阿選は驍宗側に間諜を仕込んでいる。その間諜の報告によれば江州師と瑞州師、驍宗の麾下の生き残りのほか、驍宗の生存を知った各州師が合流したことを鑑みても明らかに数が多かった。数だけではない、あれだけの数の兵卒を養うのに補給に困っている様子がなかった。
     どういうことかと考えていると、各地の港湾から報告が入った。他国の軍船、空師らが海を越えて侵入している。本来であればそれらは侵略であり、打ち払わねばならない。しかし大軍の威容の前に港を守護する水師は圧倒された。しかも港に入る手前で軍勢は留まり、使者を寄越したという。
     雁、奏、範、恭、慶、漣の連合軍であり、泰王の要請により上陸の許可を請う旨が書状には認められてあった。この場合の泰王はもちろん驍宗だ。
     どうやって驍宗がそれらの国から援軍を得たのかは分からない。しかし他国の支援が得られること、それが驍宗が正当な王であるからにほかならない。偽王である阿選には決して用いることができない策だった。
     港湾は閉ざすことができなかった。それが正当な王の要請だからだ。
     諸国の連合軍が戴に入った噂は禁城に衝撃を与えた。それはとりもなおさず、驍宗が復位したとき諸国の支援が得られることと同義だ。中でも雁、奏という豊かで知られた大国の存在は大きい。あれだけの軍勢を従えても補給に困ることがないはずだった。
     宮城から人が消えていった。昨日いた者が今日にはいない。脱走を咎める気にはなれなかった。阿選の王朝は終わろうとしていた。
     阿選は再び六寝に閉じこもった。幾度か案作から迂遠ながら投降を促す奏上があり、かつての張運に対するように聞いた、とだけ答えた。阿選を投降させた功により、彼は正当な王朝で立場を得ようとしていたのだろう。やがて奏上も絶え、気付けば案作もまた宮城から消えていた。今頃驍宗の下に参じ、さぞかし阿選の専横とそれを止めようとした自分についてかき口説いているだろう。驍宗であれば、あの手の輩の言うことをまともに受け止めることはないだろうが。
     阿選は冷ややかに窓の外を眺める。城門の内には兵卒がひしめいて黒黒とした群れを作っていた。やがて彼らは六寝に踏み込んでくるだろう。
     正当な王から位を盗み、わずか十歳であった台輔を害し、民の虐殺を繰り返した偽王阿選の首を挙げるために。



     驍宗が一人で六寝に入ると言ったとき、友尚は耳を疑った。それはその場にいた誰もが同じようで、唖然とした顔で驍宗を見つめいていた。
    「どうした。不思議ではないだろう。あそこは本来、王とその家族、台輔しか立ち入ることができない」
     驍宗は愉快そうに言った。
    「それは、そうですが……」
     霜元は言葉に窮した。この後に及んで、主公が何を言い出すのか分からない。
    「できません」
     きっぱりと口にしたのは李斎だった。
    「何が仕掛けられているかわかりません。阿選が狙っているのはもはや簒奪ではありません。主上、あるいは台輔の命です」
     驍宗側の軍がここまで入っている以上、勝敗は決した。しかし阿選は投降しない。仮王を装うこともできないのに降らない理由は意地か、あるいは他に目的があるのか。
     戦場に麒麟は連れていけない。蓬山での療養を終えた泰麒は江州城に残してきた。泰麒は平気です、今までも平気でした、と言い張ったが、平気ではないから病んだんだと驍宗が諭して置いてきた。そもそも蓬山から戻って来ただけで、まだ本来の体調ではないはずだ。
     可能であれば驍宗も台輔と共に残ってほしかったが、それは驍宗が拒否した。しかし王門を開けるところまで来て驍宗は単独行動を主張する。
    「琅燦はこちらにいますが、相当数の傀儡はまだ六寝にいると考えていい。御身には戴の民が乗っていることをお忘れですか」
     臥信は堂々と言った。驍宗は苦笑する。
    「厳しいな」
    「我らが反民として追われながら主上を探し続けた六年間を思ってください。とてもじゃないがはいそうですかと行かせられる訳がないでしょう」
     臥信はなおも辛辣だった。友尚は目を見張る。
     驍宗が王になる前からの麾下は、概して驍宗に遠慮がなかった。王朝が整った頃は表向きはおとなしくしていたが、この様子だと相当に手厳しい奏上もあったことだろう。
     これも阿選との違いかもしれない。驕王の時代、驍宗と阿選は並び立っていた。黄旗が上がったときも、どちらの陣営でもそれぞれの麾下は己の主公こそが王にふさわしいと考えた。
     どちらが麒麟に選ばれてもおかしくない。しかし、泰麒は驍宗を選んだ。
     驍宗は驕王に仕えていたころ、下命に従えずといって野に下ったことがある。それを思えば驍宗は決して忠臣ではなかった。
     阿選はそういうことをしなかった。下命は絶対のものとして必ず戦果を上げた。阿選の麾下もまた礼儀を重んじた。阿選の言葉に異議を唱えるときも必ず礼を失することがないよう心がけた。その威儀もまた阿選の麾下の誇りであった。
     その結果がこうなってしまったのはあまりに皮肉だった。驍宗を陥れるときも阿選は一人で決断し、実行した。麾下は誰も阿選の決断を知らず、止めることさえできなかった。それでも麾下は阿選を信じたかった。我らには計り知れない主公の考えがあるのだと、阿選の正当性を信じ続けていたかったのだ。
     驍宗の麾下であればこうはいかない。驍宗の決断に誤りがあれば迷わず声をあげ、説得し、驍宗も麾下も双方納得した上で誤りを正す。
     驍宗の麾下は時に驚くほど主に辛辣だが、どのような言葉でもそれが心から出た声なら必ず驍宗は聞き入れる。決して捨て置くことはしない。驍宗もまた麾下の真心を信じている。
    「では、護衛を連れて行こう。霜元、そして友尚」
     驍宗は笑って言った。
     突然名指しされて友尚は驚いた。思わず驍宗を見返す。霜元は理解できる。驍宗生え抜きの麾下だ。
     しかし友尚は元は阿選の麾下だった。いわば敵方から寝返った将になる。なぜ自分が、と思う。それは驍宗の麾下も同じだろう。
     驍宗の軍で、友尚は不便をしたことがなかった。兵卒はこれ見よがしに友尚らを嫌う者もいたが、師帥以上の者は概して親切だった。元から友尚と顔見知りだったこともあるが、彼らの主公である驍宗が阿選の麾下を区別しなかったのだ。
    「友尚には王宮内に残る阿選の麾下を説得してほしい」
     驍宗は友尚を見て言う。
    「……この後に及んで阿選に与する者が説得に応じると?」
     英章が皮肉げに呟いた。
    「可能性は少ないだろうな」
     驍宗は首肯する。
    「しかし、七年の間に失われたものは大きい。生きていても傀儡となっていては意味がない。いまだに阿選の元にいるような骨のある者は正直、惜しい」
     なるほど、と友尚は遠慮がちに頷く。驍宗の麾下も意を理解しながらも納得はできない、複雑な表情のままだった。彼らはもう二度と驍宗を失いたくないのだ。
     しかし驍宗はすでに決断をした。翻意を促すことは不可能だと下って間もない友尚にでさえ分かった。そうであれば、と友尚は帯剣の柄に触れる。
     驍宗の期待に応えるまでだ。この国と、民には驍宗が必要だ。民の元に正当な王を返す。それが阿選に命じられて多くの非道を為した――阿選を止めることができなかった友尚の義務でもある。
     例えそのために、かつての同輩に刃を向けることになろうとも。

     王宮、中でも王と台輔の住まうはずの白圭宮には彼らの用を成す奚、警護する兵卒など多くの者が犇めいているはずだった。
     友尚は茫然として建物の間を進んだ。時折背後の驍宗から小声で方向の指示があり、それに従って歩く。驍宗を真ん中に、前後を友尚と霜元で挟む形だった。
     しかしいまだ、友尚は剣を抜いていない。兵卒の姿は見かけたが、彼らはこちらを見ていなかった。虚ろな目は彼らが傀儡であることを示していた。
    「護衛にすらならない……」
     霜元がぽつりと零した声さえ聞こえた。人の気配もなく、静まり返った宮殿は不気味だった。
     兵卒の横を通り抜けるように三人は歩いた。
     傀儡となった兵卒は守るようにという指示さえ受けていないのか。琅燦が消えたために傀儡への指示さえも阿選はできなくなったのか。そうであれば傀儡としていない正常な兵卒に替えれば良いだけの話だ。
     友尚は背中を汗が伝うのを感じていた。阿選の意図が読めない。罠があるような気がしてならなかった。
     阿選は自分の麾下でさえ傀儡とするために魂魄を抜いた。品堅から帰泉のことを聞かされたとき、一気に心が冷えた。
     そこまで落ちぶれたのか。
     阿選の麾下が寄せる信頼への裏切りは、友尚に怒りよりも虚脱を招いた。かつての一片の汚れもない、名将の誉れ高かった主人はもういない。あるのはもはや阿選と名乗る非道の餓狼だけだ。
     友尚には、阿選は罠を張り驍宗を待っているように思えた。阿選は手段を選ばない。驍宗を陥れるためであればどんな悪辣なこともするだろう。
    「……六寝だ」
     驍宗の言葉に友尚は頷いた。振り返ると友尚と同じく冷や汗を流す霜元が目に入った。同じく罠を警戒し神経をすり減らしながら歩いてきたのだ。
     それに対し驍宗の様子には違和感を覚えた。どこか安穏とした、寛いでいるような印象さえ受ける。
    「ここからは私ひとりで行く。……と言っても納得はしてもらえないのだろうな」
     驍宗の言葉に友尚と霜元は頷いた。驍宗は苦笑して、気負うでもなく六寝へと続く門楼をくぐる。
    「主上……!」
     霜元は慌てて驍宗の前に回る。どんな陥穽が待ち受けているかわからない以上、驍宗を先に行かせていいわけがなかった。
     阿選は六寝の正殿や後正寝にはいない。二度も六寝に忍び込んだ台輔がそう言った。当時白圭宮にいなかった者は総じて無茶をすると唖然としたが、台輔本人は淡々としていた。
    「知る限り、阿選が正殿にいたことはないな」
     同じく耶利も証言した。何故そんなことを知っているのかと問うと、悪びれもせず忍び込んだからと答える。耶利の考えは誰にも読めなかったが、驍宗が引きずり出された刑場において、己の死を厭わず台輔のために血路を拓いたのは彼女だ。自然、言葉には重みが伴った。
     耶利は台輔と共に江州城に残っている。自分の主は台輔だから、というのがその理由だった。
     霜元を先頭に、驍宗、友尚と続く。六寝の中もやはりひっそりとしていた。
    「……台輔は玄威殿にいたと言ったな」
     驍宗は言うと正殿の奥を指した。正殿の建物を過ぎて庭院に入る。正殿にも幽鬼のように傀儡が見えたが、こちらを向くことはなかった。
     後正寝を抜けて、更にその奥の門楼を抜ける。走廊には朝服を纏った影が見えたが虚のような目が友尚らを素通りしていく。
     正面に小寝に向かう門楼が見える。あまりにもあっけなく、辿り着いてしまった。台輔が夜に六寝に忍び込んだとき、阿選がいたのが小寝だったという。耶利もまた、阿選は小寝や後宮のどこかにいることが多いと言っていた。
     驍宗は淡々と小寝に向かった。まるで警戒する必要などないかのようだ。霜元はすぐにも剣が抜けるように周囲に気を配っている。
     王にとっては確かに本来の居城であるが、驍宗の行動はどうしても解せない。敵の牙城に踏み込む態度ではない。それを感じているのだろう、霜元の目が時折驍宗の真意を探ろうとするかのように驍宗の前で止まった。
     建物の中も静かだった。まるで誰もいないかのようだ。あるいは本当に無人なのではないか。阿選はすでに宮城を脱出しているのでは。
     ありえないことではないと思う。阿選は戦場でも緻密な作戦を立てた。敵の心理を分析し裏を掻くことに長けていた。
     驍宗は小寝を過ぎ、小さい通路を抜ける。その先で迷いもなく扉を開けると、さっと風が行き過ぎた。
     窓に近い榻に一人の男が座っているのが見えた。彼は窓辺に腕をついて雲海を眺めている。
    「まさかお前自身が来るとはな」
     阿選は驍宗に向き直った。
    「……捕えるならば捕えろ。首を落とすでもいい。好きにしたらいい」
     阿選は投げやりに言った。すぐさま動こうとした霜元を驍宗が止める。
    「主上!」
    「止せ」
     短いやりとりの後、それを見つめていた阿選が皮肉げに笑った。
    「どうした。罠を警戒するか? 函養山までのこのこついてきたことを後悔しているのか」
    「貴様」
     いきり立つ霜元の胸を驍宗が手で押さえた。阿選はくつくつと笑う。
    「あまりにも計画通りに行き過ぎて怖いほどだった。轍囲を餌にすればお前は必ず食いつく。出来すぎていると思ったろう。それでもお前は烏衡に連れ出された。烏衡程度であればどうとでもなると思ったのだろうな。私が妖魔を使っているとも知らないで」
     友尚はかつての主に心から侮蔑を感じた。弑逆は大罪だ。そこに踏み込み、天に選ばれた正当な王を陥れたことを得意げに語るこの男はなんだろう。
     嘲笑を浮かべる阿選を驍宗は静かに見下ろした。
    「私はお前を憎んではいない」
     友尚は目を開いた。
    「おそらく台輔もな。お前の行為を憎んではいる、けれどお前自身を嫌うことはどうしてもできないらしい。それが麒麟の性と言われればそうなのだが。……私も台輔も、お前を憎むことはできないようだ」
     驍宗は霜元を見る。
    「霜元、剣を外せ。そのまま阿選に投げろ」
    「主上?」
     驍宗の意図が理解できない。霜元は説明を求めるように驍宗を見たが、驍宗は首を振った。霜元は渋々命令に従う。座ったままの阿選の足元に霜元の剣が転がった。
     驍宗の一連の行動に阿選は愕然としていた。
    「阿選。剣を取れ」
     驍宗の言葉に友尚も霜元も顔色を変えた。
    「何の真似だ、驍宗」
     阿選は表情を歪める。
    「この後に及んで私に慈悲を垂れる気か」
     驍宗は阿選を見つめる。友尚は息を呑んだままだった。
    「……六年間、函養山の中でずっと何がお前を踏み込ませたのかを考えていた。私があの場所でやるべきことは生き延びることと可能な限り早く脱出することの二つしかない。考える時間はたっぷりあった。だがどうしても分からなかった。お前がそれほどまでに王になりたかったとか、私に奪われたことが我慢ならないとか、そういうふうには思えなかった」
    「……そうだろうな」
     驚くべきことに、阿選から返答があった。
    「お前には分からない。分かるはずもない」
     ふ、と驍宗は笑う。
    「だが函養山を出て蒿里の話を聞いて、ぼんやりと見えた気がするのだ。琅燦の言うことも恐らく違う、と思う」
    「……ほう」
     阿選は探るように驍宗を見る。
    「だから自分で来た。麒麟に選ばれた、天意があるといって納得できるわけがない。畢竟、戦場で信じられるのは自分ただ一人だ。麾下がどれだけいようと同じだ。最後に頼みにするのは自分のみ、それが武人だ」
    「だから一騎打ちをすると? 私に殺されるかもしれないのに?」
    「そういうことだ」
     あっさりと笑った驍宗に、友尚は声にならず叫んだ。
    「呆れたな。お前の肩には戴が乗っている。それを忘れたか」
     臥信にも似たことを阿選は呟く。
    「だから台輔は置いてきている。私が死んでも、やがて新しい王が選ばれる」
    「驍宗様」
     霜元は思わずといったように口走る。驍宗は霜元を見返して少し笑う。
    「すまないな」
     阿選は霜元の剣を眺めてから視線を上げた。
    「……なぜそんなことをする。私の首を取ればそれでいいだろうに」
     ひっそりと言う。
    「ぼんやりと見えた気がしたと言っただろう。……もし逆の立場なら私も同じことを考えたかもしれない、と思ったからだ」
     阿選は目を見開いた。やがて、皮肉げに口元を歪める。
    「……お前が私の立場でも、お前は弑逆などしないさ。いつかのように戴を捨てるだけだろう」
    「そうかもしれない」
     驍宗の言葉を受けて、阿選は再び自嘲する。不意に立ち上がった。
    「待っていろ。自分の剣を持ってくる」

     なぜあんなことを言ったのです、と霜元は驍宗に食って掛かった。
     友尚も納得できない。驍宗の剣の強さは知っている。だが阿選も同等に強い。だからこそ驕王の時代は並び称されたのだ。もしも驍宗が阿選に負ければ戴は再び、今度こそ本当に王を失う。確かに麒麟が残されたならば間もなく黄旗が上がり、新しい王が選ばれるだろう。しかし新しく王が選ばれるまでに、数週間のこともあれば十年もかかることもある。戴の民にそんな猶予はない。
     驍宗が一人でここまで来ることを主張したのもこのためだったのか。軍勢で入れば混乱の中、阿選が殺されることは想像に難くない。
    「すまないな」
     驍宗は霜元と友尚の目を見つめて言った。
    「……こんなことは、先王の時代にやっておくべきだったのだと思う。そうすればこれほどの犠牲は出なかった」
     友尚は眉を顰めた。その言いようではまるで、驍宗が阿選を弑逆へと走らせたかのように聞こえる。
    「主上……」
     霜元が言葉を重ねようとしたときだった。阿選が自らの剣を持ち戻ってきた。友尚は既視感を覚える。剣を携えたかつての主の姿は懐かしく、同時に遠く隔たってしまったことも感じていた。
     小寝では剣を抜くには狭い。そのまま院子に抜け、驍宗と阿選は向かい合った。充分距離を取って霜元と友尚が周囲を見回す。
     もし襲ってくるものがあれば友尚がそれを切り捨て、霜元が阿選を討つ。驍宗を失うことだけは避けねばならない。約束の時間までに驍宗が戻らない場合は李斎らが兵卒を率いて六寝に踏み込んでくることになっている。何があってもそれまでは持たせなければならない。
     驍宗と阿選が構えの姿勢を取る。
    ――先王の時代にやっておくべきだった。
     先程の驍宗の言葉が友尚の耳に残っていた。二人が並び立っていたころに互いの腕のみで優劣が決定していれば、驍宗に先を越されたと、阿選の麾下も思わずに済んだのだろうか。
     先に動いたのは阿選のほうだった。斬り込んで一気に間合いに入る。速い。阿選はこの七年間六寝から出ていなかったはずだが、全く衰えを感じなかった。対する驍宗も素早く退り、間合いを抜ける。さらに踏み込んだ阿選が振り下ろした切っ先を受け止め、左に流した。そのまま阿選の胴に剣を落とすが、阿選は身を低くして躱し、驍宗の剣を叩いて払う。
     再び二人が互いの間合いの外に出た。次は驍宗が動いた。下から振り上げるように剣を振るう。阿選の剣が真向から受け止めた。刃が音を立てて毀れる。ほかには二人が地面を蹴り上げる音と呼吸しか聞こえない。
     友尚は固唾を飲んで勝負を見守っていった。見ていることしかできないのが歯がゆい。しかし、どうしようもない。
     驍宗が再び地を蹴り飛び退る。阿選が追った。二人の剣が一閃する。あ、と友尚は小さく声を上げた。阿選の剣が驍宗の前で振り上げられる。瞬間、阿選の向こうで霜元が駆けだす。
     驍宗の剣が、阿選の胸に突き立てられていた。肋骨を通り抜けて背中を貫通した剣が陽光を反射して鈍く輝く。
     友尚の目には、阿選が急に戦う気をなくしたように見えた。振り上げた剣は力なく阿選の脇に降ろされた。阿選は仙だ。胸を貫かれても即死はしない。足がたたらを踏んで、驍宗に寄りかかるように凭れる。
     友尚は言葉もなかった。勝負は決した。逆賊は王の手によって討たれ、戴は再び天の条理の下に帰ろうとしていた。
    「……で戦って……」
     空耳のように微かな声が聞こえる。
    「……で死んだのさ……」
     友尚は声の主を探して、かつての主に目を止めた。阿選の唇がわずかに動く。もはや意識は朦朧としているのだろう、阿選の瞳は何も映してはいない。
    「……野垂れ死にしてそのまんま、あとは烏が食らうだけ……」
     不意に阿選に唱和する声が重なった。見れば驍宗の口元も動いている。剣を持たないほうの手が阿選を支えるよう背中に回った。
     古い戯れ歌だ。明日の命をも知れぬ兵士たちが酒場で酔いに任せて大いに笑い、歌うものだ。
    ――おれのため 烏のやつに言ってくれ
      がっつく前にひとしきり もてなすつもりで泣けよって
      野ざらしのまま、ほら、墓もない
      腐った肉さ 一体全体どうやって お前の口から逃げるのさ……
     重なった歌声がやがて一人だけの声になり、風に流され消えていく。
     驍宗の剣が阿選の胸から引き抜かれた。支えを失った阿選の身体は、そのまま仰向けに地面に頽れる。
    「主上。お怪我は」
     友尚と霜元が駆け寄ると、驍宗はない、と応じて友尚を見た。
    「……すまない」
     友尚は意味が分からず少し考え、そこでやっと自分が泣いていることに気が付いた。
    「違うのです。これは……悲しいのではない」
     友尚は濡れた頬を拭いながら首を振った。
    「私は、嬉しいのです」
     驍宗が眉を顰める。友尚は少しだけ笑った。
    「……阿選様は麾下の前ではこういった笑い方をする人でした」
     友尚は事切れた阿選を見る。口元には淡く笑みがあった。
     あれは友尚が阿選の下に配されて間もなくのことだったろう。酒席を設けると部下に言われれば大いにやれと返すのに、いつの間にか宴席の端にいるのが阿選の常だった。ある時、不思議に思って尋ねてみたことがあるのだ。
    「阿選様はなぜ、そんなところに」
     今思えば不遜な振る舞いだが、新兵で、酒の席だから気も大きくなっていたのだろう。阿選は苦笑して答えた。
    「あまり酒が得意じゃない。飲めないわけではないのだが」
     それなら部下だけを残して宴席を去っても良さそうなものだが、阿選はそうしなかった。阿選は酒席が好きだったのだと思う。宴席の喧噪が好きだったのだ。
     麾下もそれを察して、阿選が宴席の端にいることに納得していた。麾下が歌い騒ぐ様子を喧噪の輪から外れた場所で眺める阿選は、いつも微かに笑っていた。
    ――最後に頼みにするのは自分のみ。それが武人だ。
     驍宗はそう言って、阿選に武人としての最期をくれた。
     あれから七年。友尚はようやく信じた主公を取り戻したのだった。

    ユバ Link Message Mute
    2019/11/15 0:47:39

    暮れて夜には帰らない

    人気作品アーカイブ入り (2019/12/04)

    阿選が死ぬ話です。彼のなした非道自体、緩慢な自殺みたいな人ではあるけれど、最後に驍宗に出会ってもらいたかったので書きました。
    #十二国記  #白銀の墟_玄の月  #阿選  #驍宗

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