想像力よりも高く飛ぶことは出来ない 内務卿・大久保は始めから、山尾の用件を承知している風だった。
扉を開けた一瞬、座した大久保の森厳な視線とかち合う。山尾は平然としてそれを受けた。
ここでせり負けるわけにはいかなかった。
――技術が国を創る。
人を育て国を育てるには技術が必要だと山尾は信じている。
大久保は重厚な机の上に手を重ねた。整然とした部屋の中、まるで何十年もそこに座っていたかのようだ。
この男を動かすには容易でないことはとうに知っている。
薩摩の大久保と長州の木戸とは、何かと対立することが多くなっていた。木戸は山尾を弟とも言って世話を焼いてくれた、いわば恩人だ。
だが、山尾自身は決して大久保を嫌いではなかった。
「……工部省新設を認めていただきたい」
口火を切ったのは山尾のほうだった。
応じる大久保の声は静かだ。
「…今、省を新設する財政の余裕はありません。それはご存知ですね」
盟友・井上のことだ、知らぬはずもあるまい、そう大久保は言う。
共に入室した伊藤は、先程から山尾より一歩下がって控えている。
伊藤は大久保と近しい。「工部省」あるいは「工部院」設置についての意見は一致しているが、大久保と対立することは避けたいだろう。
「…はい」
「――…寮ではいけませんか」
「省です」
山尾は即答する。
「財政の余裕を見て、後に省にするのは?」
「それは、いつになります」
山尾は言って、息をついた。
政府の財政難はもはや慢性的になっている。
「技術は力です。技術こそ人をつくり、国を創る。工業を興すことは国を興すことです」
「だが、日本はそもそも農業の国です。工業を興すとなれば一大事業になります」
実際、工部省を新設したところで今の財政状況ではどれだけのことができるかは山尾にも分からない。大蔵省は現行の省の予算ですら削っている。
「だから興すのです。英国が現在のような大帝国になったのは、世界に先駆けて工業が発展したからだと聞いています。
…技術がこの国の置かれた状況を、必ず変えます」
大久保の立場も議論も納得できる。寮とて、随分譲歩したものだろう。
――それでも引けん。
大久保が山尾の顔を見上げる。
これ以上は彼も引く気がないのは明らかだった。
その時だった。
「…今の日本は、技術のほとんどの部分を外国に負っています」
山尾は思わず背後をかえりみた。
――俊輔。
伊藤はまっすぐに大久保を見据えていた。
「これは恐ろしいことです。国として大きな弱点ではないでしょうか。工業の遅れた国は、いずれ世界から置いていかれるでしょう」
伊藤は山尾をちらりと見やる。
現に、と低く言った。
「フランスはすでに、イギリスとの争いで後手をとっています」
大久保には何の表情も浮かんではいなかった。次の瞬間、わずかに笑む。
「フランスにイギリスか。……大きく出たな」
「目標は大きく出ねば意味がありません」
「なるほど…」
あっさりと言ってのけた伊藤に、大久保は淡々と返した。
案外、この二人は人間の型が似ているのかもしれない、ふと思った。
山尾は大久保に視線を戻し、懐から封書を取り出した。これで駄目なら誰が何をしても駄目だろう。
大久保は冷ややかにそれを見下ろす。
「…これは?」
「辞表です」
「省を認めねば辞めると?」
「ええ」
断言して、大久保を窺う。
大久保はしばらく沈黙して、やがて諦めた様子で長く溜め息をついた。
「…いいでしょう。認めます」
山尾が知らず破顔すると、大久保はひょいと山尾の辞表を取り上げる。
「これはとっておいて下さい。まだあなたに辞められては困ります」
差し出されたそれを、山尾は苦笑を噛み殺しつつ受けとった。
まだ、という辺りいかにも大久保らしい。
不意に傍らに目を遣った。懐かしい友人の顔があった。