神に仇なす僕らの幸福 洗礼、とその耳慣れない言葉を井上は何度か繰り返した。
口の中で数回転がしてもそれは馴染む気配がまるでない。不思議な言葉だった。
「…と、言うらしい」
伊藤はテーブルの上で両手を組んで、かすかに笑みを浮かべた。
話があると聞いてついてきてみれば、宗旨変えしないか、と伊藤は声を低めて言った。
「キリシタンか」
「解禁された今ではなんの不都合もあるまい」
「それは、そうだが。…また大胆な」
井上は思わず呆れた。
元より、政府に出仕する高官のうちにキリストを信仰する者があろうはずもない。
伊藤も井上も、明治の初年よりキリスト教の解禁に積極的だった。今でこそ開明思想が広がっているものの、「耶蘇教」は妖術や幻術の類と同義であった頃だ。
御一新よりも前、かつて英国へ密留学した経験がそうさせたのだ。
「知っての通り、欧州では異教徒はつまり礼儀しらずということだからね」
さして関心もなさそうに伊藤は呟き、井上に向きなおった。
「この国はほんの少し前まで、キリシタンを禁じていた。それだけでも十分に彼らにとって条約改正を拒む理由になる」
「…確かにな」
伊藤の言うことは痛いほどよく分かる。
井上は自分でも特に信心深いとは思っていない。昔、養母の観音信仰には正直辟易していたくらいだ。
どうやら元来合理的というべきなのかもしれない。留学していたときも、西洋の思考には奇妙に入り込むことができた。
しかし最近になって、井上でさえどこかに―――この国の古いものを慕わしく思う気持ちが生まれていた。
だが、ここで心情に引きずられて懐古主義を持ち出してはならないのだ。
この国を変えるために死んでいった者たちのためにも、間違っているなどとは誰にも言わせはしない。
「…それで、一緒に改宗しようっちゅうんじゃろ」
「うん」
伊藤はにっと笑う。
「一人より二人のほうが効果はでかい」
「またカブレじゃといわれるな」
「それが狙いじゃ」
揶揄にそう返し、伊藤は井上を見つめた。
昔からよくもまあこんなことを思いつくもんだということを思いつく奴だったが、とひとりごちて、笑う。
「よかろう。付き合う!」
その言葉を聞いた瞬間、伊藤は破顔する。二人は顔を見合わせて、笑った。